二月十九日、金曜日。
クレセントコーストの街に夜の帳が下り始める頃、通り沿いに建つ一軒のレストランでは、店主がいつにも増して険しい顔をしていた。
ダニーズ・ダイナー。
白い壁と赤い屋根、大きなガラス窓に灯るネオンサイン。古いアメリカ映画に出てきそうなその店は、クレセントベイ・アカデミーの生徒たちにとって、放課後の時間を過ごす馴染みの場所だった。店内には赤いビニール張りのボックス席が並び、白と黒のタイル張りの床には、天井から吊るされた照明の柔らかな光が落ちている。壁には往年の映画スターやクラシックカーのポスターが飾られ、奥のカウンターではコーヒーメーカーが小さな音を立てていた。
普段なら、この時間帯には仕事帰りの地元客や家族連れが夕食を楽しんでいる。カウンター席には決まった顔ぶれが並び、店主のダニーは客の注文を聞きながら、相変わらず機嫌が悪そうな顔でハンバーガーを焼いている。誰かが冗談を言えば鼻で笑い、常連がコーヒーのおかわりを頼めば、何も言わずにカップを満たす。そうした何気ないやり取りが、この店の日常を形作っていた。
しかし、今夜は少し事情が違った。
午後七時を過ぎた頃から、店の入口付近には青と白の服を着た高校生たちが集まり始めていたのである。
最初に現れたのは、ノア・レイノルズだった。
彼は店の前で立ち止まると、ガラス越しに中を覗き込み、何やら嬉しそうに笑った。そして、隣にいたジェイク・ハリスと顔を見合わせる。
「……Bro」
「……Bro」
二人は互いに頷き合った。
その後ろで、ゾーイ・ウォーカーが嫌な予感を覚えて眉をひそめる。
「ちょっと。あんたたち、まさか……」
しかし、彼女が言い終えるよりも早く、ノアは勢いよくドアを開けていた。
カランカラン、と入口のベルが鳴り響く。
「DANNYYYY!! YOUR CHAMPIONS ARE HERE!!」
「LET’S GOOOO!!」
ジェイクまで両腕を突き上げて叫んだ。
店内の会話が、一瞬にして途切れた。
カウンターの奥では、黒いTシャツの上からエプロンをつけたダニーが、ゆっくりと顔を上げていた。がっしりとした体格、短く刈った髪、顎に残る無精ひげ。そして、長年の営業で刻まれたかのような眉間の深い皺。その顔を見れば、初めて来た客なら何か悪いことをしてしまったのではないかと心配するだろう。
もっとも、ノアとジェイクにそんな遠慮はなかった。
「Hey, Danny! 聞いてくれよ! 俺たち地区大会の一回戦を突破したんだぜ!」
「九十七対九十五! ラスト一秒で大逆転だ!」
ダニーは二人を見つめた。
それから、ゆっくりと布巾をカウンターへ置いた。
「……またお前らか」
その声には、疲れ切った大人が避けようのない災難を受け入れるときのような響きがあった。
すると、カウンターの端で新聞を広げていた白髪の老人が、コーヒーカップを持ち上げながら顔をしかめた。彼は毎日のようにこの店を訪れる常連客で、ダニーとは長い付き合いらしい。普段から新聞を読みながら世間の出来事に文句をつけているが、高校生たちが大勢やって来た夜には、その文句の相手が決まって変わるのだった。
「おい、ダニー。またあの騒がしいガキどもが来たぞ」
「……見りゃわかる」
「今夜は静かに飯が食えると思ってたんだがな」
「俺もそう思ってた」
二人はほとんど同じ表情で入口を眺めた。
そこへ、さらに大勢の高校生たちが入ってきた。
高山時春、マイルズ・カーター、マイク・トンプソン、トム・ウェイク、イーサン・コール。ライアンやジェイスをはじめとするバスケットボール部の仲間たちに加え、ラリー、ゾーイ、ジェイク、マディソン、MJ、オーウェン、エイブリー、ニーナ、グレースたちの姿もあった。
合計すると、ちょっとした団体客である。
今夜は、ブレイカーズのプレーオフ一回戦突破を祝う会だった。
水曜日の夜、ノースゲート・バイソンズとの激戦を九十七対九十五で制したブレイカーズは、学校中から祝福を受けていた。翌日のキャンパスでは、すれ違う生徒たちから何度も声をかけられ、学校のスポーツアカウントには最後の逆転ダンクの映像が投稿された。マイルズがジェイソン・ヴォーンのシュートをブロックし、時春がボールを拾って速攻へ走り、最後にキャプテンが豪快なダンクを叩き込む。その一連のプレーは何度も再生され、コメント欄には興奮した生徒たちの言葉が次々と並んでいた。
そして、ようやく金曜日を迎えた今夜。
祝勝会の会場として選ばれたのが、このダニーズ・ダイナーだったのである。
もっとも、ダニーに言わせれば、選ばれたというより押しかけられたという方が正しかったかもしれない。事前に人数を聞かされてはいたものの、実際にこれだけの高校生が店へ入ってくる光景を目の当たりにすると、どうしてもため息が出てしまうらしかった。
「……おい、ハリス」
「何だよ、ダニー!」
「店を壊すなよ」
「まだ何もしてねえって!」
「お前はこれからするんだろ」
ジェイクが不満そうに口を尖らせると、周囲から笑い声が上がった。
そのとき、店の奥から明るい声が聞こえた。
「みんな! いらっしゃい!」
赤いエプロンをつけたエマ・パーカーが、トレーを持って現れた。
柔らかな茶色い髪は後ろでまとめられ、普段より少しだけ頬が赤くなっている。週末の夜ということもあり、彼女は忙しそうにテーブルの間を行き来していたが、友人たちの姿を見ると、ぱっと顔を明るくした。
「あっ、トキ!」
「エマ!」
時春が嬉しそうに手を振る。
「今日、よろしくね!」
「うん! いっぱい食べてね!」
エマは笑顔で答え、それから一同へ向き直った。
「奥のテーブル、まとめて取ってあるから! みんな、こっちだよ!」
どうやら、人数が多いことを考えて、事前に席を用意してくれていたらしい。壁際のボックス席と中央のテーブルがつなげられ、全員ができるだけ近くに座れるようになっていた。
時春はそれを見て、嬉しそうに声を上げた。
「うわあ! すごい! エマ、ありがとう!」
「ふふっ、どういたしまして!」
エマが笑う。
すると、カウンターの奥からダニーの低い声が飛んできた。
「パーカー。客と喋る前に、水を運べ」
「あっ、はーい!」
エマは慌ててトレーを持ち直した。
しかし、ダニーはその後ろ姿を見送りながら、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
カウンターの常連老人は、その変化を見逃さなかった。
「……嬉しいんだろ、お前も」
「何がだ」
「店が賑やかになるのが」
「うるせえ」
「ハハッ!」
老人は楽しそうに笑い、コーヒーをひと口すすった。
今夜も、どうやら静かな夜にはなりそうになかった。
◇
祝勝会が始まると、ダイナーはたちまち賑やかになった。
テーブルには大皿に盛られたフライドポテト、山のようなオニオンリング、チーズがとろけるハンバーガー、バーベキューソースのかかったチキンウイング、それにパンケーキやサンドイッチまで並んでいる。何人もの選手たちが練習後の空腹を抱えていたため、料理が運ばれてくるたびに歓声が上がり、あっという間に皿が空になっていった。
時春も例外ではなかった。
彼の前には大きなハンバーガーと山盛りのフライドポテト、それに当然のようにバニラシェイクが置かれている。初めてアメリカへ来た頃には、この国の食事の量に何度も驚かされたものだったが、今ではすっかり慣れていた。
「……んんっ! やっぱダニーズのバーガー、めっちゃうまい!」
時春が嬉しそうに頬張ると、隣に座っていたラリーが呆れたように笑った。
「……君、さっきも同じこと言ってたよ」
「だって本当においしいんだもん!」
「それは知ってるけど」
ラリーはフライドポテトを一本つまみながら、テーブルの向こうへ視線を向けた。
「……それにしても、あっちはすごいね」
そこでは、マイルズが立ち上がっていた。
ブレイカーズのキャプテンは、普段から明るく頼りになる選手だったが、今夜はいつにも増して上機嫌だった。両手を大きく広げ、まるで試合の実況をするかのように、水曜日の最後のプレーを再現している。
「だからよ! あいつが右から来たんだ! ジェイソンが! もう完全にダンクへ行くってわかったから、俺は後ろから思いっきり跳んでやったんだよ!」
マイルズはその場で軽く膝を曲げ、右腕を高く突き上げた。
「そんで、バシィッ!! ってな!」
「BROOO!! あれマジで最高だったぜ!」
ノアが両手を叩く。
「しかもそのあと走ってきたんだよな! お前、どこにそんな体力残ってたんだよ!」
「知らねえよ! 気づいたら走ってたんだ!」
「で、トキがパス出して!」
「俺が決めた!!」
「BOOOOOOM!!」
二人は声を揃えて叫び、勢いよく拳を合わせた。
その衝撃で、テーブルの上に置かれた紙ナプキンが何枚か舞い上がった。
「マイルズ! 座って!」
ゾーイがすぐに注意する。
「わかってるって!」
マイルズは笑いながら腰を下ろしたが、数秒後にはまた立ち上がっていた。
「いや、でもよ! あの瞬間だけはマジで時間が止まったみたいだったんだ!」
「さっき聞いたよ!」
ゾーイが呆れたように答える。
ジェイクは腹を抱えて笑っていた。
「おいおい、今日のキャプテンどうしたんだよ!」
「いつもと大して変わらないでしょ」
マイクが静かに言った。
そのあまりにも的確な指摘に、テーブルの周囲から笑い声が広がった。
マイルズは少し不満そうな顔をしたが、すぐに自分でも笑い始めた。
確かに、彼が大声で騒ぐこと自体は、それほど珍しいことではなかった。普段からノアの冗談に付き合い、練習中には誰よりも大きな声を出し、チームメイトの成功を自分のことのように喜ぶ男なのだ。ただ、今日の彼がいつもと少し違って見えたのは、その笑顔に余計な力が入っていなかったからかもしれなかった。
水曜日の試合で、彼は強敵ジェイソン・ヴォーンを相手に苦しみながらも、最後まで戦い抜いた。そして、仲間たちとともに勝利をつかんだ。その喜びが、今も体の中に残っているのだろう。
時春はそんなマイルズを見ながら、何だか自分まで嬉しくなっていた。
「マイルズ、ほんとに楽しそうだね!」
「当たり前だろ!」
マイルズは笑いながら答えた。
「去年の一回戦で負けたときは、こんな祝勝会なんかできなかったからな! 今年はようやくここまで来たんだ。楽しまずにどうすんだよ!」
「それはそうだ!」
ノアが勢いよく頷く。
「だったら、もう一回乾杯するか!」
「さっきやったでしょ!」
ゾーイが即座に止めた。
しかし、ノアは聞いていなかった。
彼はソーダの入ったグラスを持ち上げた。
「TO THE BREAKERS!!」
「TO THE BREAKERS!!」
今度はマイルズまで大声で応じる。
周囲の選手たちも次々とグラスを掲げ、時春も慌ててバニラシェイクを持ち上げた。マイクは苦笑しながらコーラのグラスを掲げ、トムは少し照れくさそうに笑っている。
カウンターでは、ダニーが深いため息をついていた。
「……あいつら、何回乾杯すりゃ気が済むんだ」
常連老人が新聞を畳みながら笑う。
「勝ったんだろ? いいじゃねえか」
「店ん中が揺れるほど騒がなくてもいいだろ」
「若いってのは、そういうもんだ」
「……あんたまで甘やかすな」
ダニーはそう言いながら、追加のフライドポテトを大皿へ盛りつけていた。
老人はそれを見て、にやりと笑った。
「……サービスか?」
「作りすぎただけだ」
「ハハッ。そうかい」
老人は楽しそうにコーヒーをすすった。
◇
エマは、そんな賑やかな店内を忙しそうに行き来していた。
テーブルへ料理を運び、空になったグラスへ水を注ぎ、追加の注文を受け取る。普段から慣れた仕事ではあったが、今夜は友人たちが大勢いるため、何かにつけて声をかけられてしまう。
「エマ! こっちポテト追加!」
「はーい!」
「エマ! 俺のソーダも!」
「ちょっと待ってね!」
「エマ! このバーガー最高!」
「それはダニーに言ってあげて!」
そのたびにエマは笑顔で返事をし、手際よく注文を処理していた。
もっとも、彼女自身も今夜の祝勝会を楽しんでいた。
仕事の合間に少しだけ友人たちの会話へ加わり、マイルズの大げさな試合再現には声を上げて笑った。MJが撮影した試合の映像を見せてくれたときには、トレーを抱えたまま足を止め、時春の最後のパスをもう一度眺めていた。
「……やっぱり、あのパスすごいね」
エマが感心したように言う。
「そう?」
時春は首を傾げた。
「俺、マイルズが走ってきたの見えたから出しただけだよ」
「でも、あんなに速く走ってたのに、ちゃんと届くんだもん」
「うーん……何回も一緒に練習してるからかな?」
時春は少し考えてから、嬉しそうに笑った。
「何となく、マイルズがどこに来るかわかるんだよね!」
エマはその顔を見つめた。
バスケットボールの話をしているときの時春は、いつも本当に楽しそうだった。自分の得点について話すときよりも、誰かに良いパスを出せたときや、仲間が難しいシュートを決めたときの方が、ずっと嬉しそうに見えることさえある。
そういうところが、彼らしいのだと思った。
「……ふふっ。トキらしいね」
「えっ? 何が?」
「ううん、何でもない!」
エマが笑うと、時春もつられて笑った。
その隣で、マディソンが明るく声をかけてきた。
「ねえ、エマ! ちょっと休憩できないの? 一緒に座ろうよ!」
「あっ、うん! もう少ししたら休憩もらえると思う!」
「じゃあ、こっち空けとくね!」
マディソンは嬉しそうに言いながら、時春の隣の席を指差した。
エマの笑顔が、ほんの少しだけ固まった。
「……あ、ありがとう」
その様子を見ていたジェイクが、こっそりノアの脇腹をつついた。
「……Bro」
「……おう」
二人の口元が、同時に緩んだ。
しかし、次の瞬間にはゾーイが二人の背後へ立っていた。
「……あんたたち」
「うわっ!」
「何もしてねえって!」
「顔でわかるのよ」
ゾーイは呆れたようにため息をついた。
そんなやり取りにもまったく気づかず、時春は再びハンバーガーへかぶりついていた。
その無邪気な姿を見て、エマは小さく笑った。
今夜は、まだまだ賑やかな時間が続きそうだった。
◇
午後八時半を過ぎた頃。
店内は、ようやく少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。
大量に並んでいた料理はほとんど食べ終わり、テーブルの上には空になった皿や紙ナプキンが重ねられている。ノアとジェイクも、さすがに先ほどまでの勢いを失い、ソファへ背中を預けながら満足そうに息を吐いていた。マイルズは追加で注文したチキンを最後の一つまで平らげ、マイクは静かにストローを回している。
時春はバニラシェイクを飲み終えると、大きく息を吐いた。
「……ああ、幸せ」
隣のラリーがメガネを押し上げる。
「……君、それ今日何回目?」
「えっ?」
「幸せって言った回数」
「そんな言ってた?」
「少なくとも六回」
「数えてたの!?」
ラリーは何でもないように肩をすくめた。
「……暇だったから」
時春が笑っていると、少し離れた席からイーサンの声が聞こえてきた。
「……おい、トキ」
「ん?」
「ちょっと、これ見てみろ」
イーサンはスマートフォンを片手に、いつになく真剣な顔をしていた。
時春は首を傾げながら隣へ移動した。
「何ですか?」
「プレーオフの組み合わせが更新されてる」
「あっ、そうなんですか!」
時春は嬉しそうに画面を覗き込んだ。
CIFサザンセクションのトーナメント表。
そこには、各校の試合結果が次々と反映されていた。水曜日に行われたブレイカーズ対バイソンズの欄には、九十七対九十五という数字が記され、ブレイカーズの名前が二回戦へ進んでいる。その隣には、別の試合の勝者が表示されていた。
時春は何気なくその学校名を読んだ。
「……ウェストゲート……プレップ?」
その瞬間、イーサンが深いため息をついた。
「……勝ったと思ったら、次はこいつらか……」
時春は顔を上げた。
「えっ?」
もう一度、画面へ視線を戻す。
そこには、見覚えのある名前が表示されていた。
『WESTGATE PREP WOLVES』
ウェストゲート・プレップ・ウルブズ。
時春の胸が、小さく跳ねた。
「……あれ?」
彼は思わずスマートフォンへ顔を近づけた。
「ちょっと待って……ウェストゲートって……」
記憶の中で、一人の少年の姿が浮かび上がった。
ロサンゼルスの体育館。
満員の観客席。
そして、相手ディフェンダーを鋭いクロスオーバーで抜き去り、豪快なダンクを叩き込む少年。
「……DJ!?」
時春は思わず声を上げた。
イーサンがゆっくりと頷く。
「ああ。あいつのチームだ」
ダリウス・ジェームズ・ジュニア。
通称、DJ。
NBAのスーパースター、キングDことダリウス・ジェームズの息子であり、全米の高校バスケットボール界から注目を集めている一年生。時春と同じ学年でありながら、すでに名門校の中心選手として活躍し、その試合映像は何百万回も再生されていた。
時春は、去年のクリスマスを思い出した。
ノアたちと一緒にロサンゼルスへ出かけ、憧れのキングDの試合を観戦した夜。試合後、ノアから初めてDJの存在を教えてもらい、帰りの車の中では夢中になって動画を見ていた。
そして、あのとき思ったのだ。
いつか、こいつに勝ちたい。
しかし、その相手が本当に次の試合で待っているとは、さすがに想像していなかった。
「……えっ、マジで!?」
時春は目を見開いた。
「次、DJと試合するの!?」
「そういうことだな」
イーサンは少し苦笑した。
時春は画面を見つめたまま、ゆっくりと唾を飲み込んだ。
「そ、そんなにすごいの? ウェストゲートって……」
その問いに答えたのは、イーサンではなかった。
「……すごいよ」
隣から、穏やかな声が聞こえた。
振り返ると、トム・ウェイクが立っていた。
彼は時春のスマートフォンへ一度目を向け、それから少し困ったように笑った。
「去年も州大会に出て、そこから勝ち進んでるよ。彼らのチーム。それに加えて、今年はDJもいるから……本当に強いと思う」
時春は口を開けたまま、トムを見つめた。
「……州大会?」
「うん」
トムは静かに頷いた。
「去年のメンバーも何人か残ってるんだ。もともと組織力の高いチームだったのに、今年はそこへDJが加わったから、攻撃の幅がかなり広がってる」
イーサンが腕を組む。
「まったく、よりによって二回戦で当たるとはな……」
その口調には苦笑が混じっていたが、表情は真剣だった。
時春はもう一度スマートフォンを見た。
画面には、次の対戦相手の名前がはっきりと表示されている。
ウェストゲート・プレップ・ウルブズ。
自分たちが、次に戦う相手。
しかも、その中心にはDJがいる。
時春の胸の奥に、ゆっくりと熱いものが広がっていった。
◇
イーサンはスマートフォンを操作し、ウェストゲートの試合映像を探し始めた。
それほど時間はかからなかった。
学校の公式アカウントには、今シーズンの試合のハイライトがいくつも投稿されていた。年末のパシフィック・ホリデー・クラシックで優勝した際の映像もあれば、地区の強豪校を相手に大差で勝利した試合の動画もある。どれも再生回数が多く、とりわけDJが映っているものには、驚くほど多くのコメントが寄せられていた。
「……これ、見てみるか」
イーサンが再生ボタンを押した。
画面には、満員の観客席を背にした高校の体育館が映し出された。
紺色と銀色のユニフォームを着た選手たちが、素早くコートを行き来している。ウェストゲートの選手たちだった。相手チームがスリーポイントシュートを放ち、ボールがリングの奥側へ当たって跳ね返る。
その瞬間、一人の大柄な選手が跳び上がった。
ウェストゲートのセンターだった。
彼は両手でリバウンドをつかみ取ると、着地するよりも早く前方へ顔を向けた。普通なら一度ガードへボールを預け、そこから速攻を始める場面である。しかし、彼はそうしなかった。
大きな体をわずかにひねり、右腕を後方へ引く。
そして、反対側のコートへ向かって、長いパスを放った。
アウトレットパス。
※アウトレットパス:主にディフェンスリバウンドを取った選手が、速攻を始めるために前方の味方へ素早く送るパス。
ボールは相手選手たちの頭上を越え、コートの中央を一直線に飛んでいった。
そして、その先には。
DJがいた。
時春は思わず息を呑んだ。
背番号を背負った少年は、すでにセンターライン付近を全力で走っていた。相手のディフェンダーが二人追いかけていたが、その距離は少しずつ広がっていく。DJは前方から飛んできたボールを走りながら受け取り、ほとんど減速することなくドリブルへ移った。
一歩。
二歩。
そして、フリースローラインの少し前から大きく踏み切る。
追いかけてきた相手の選手が、必死に腕を伸ばした。
しかし、その腕は届かなかった。
DJの体は高く浮かび上がり、右手に握られたボールが、リングのはるか上まで持ち上げられる。
次の瞬間。
ガシャアアンッ!!
片手のトマホークダンク。
※トマホークダンク:斧を振り下ろすかのようなダンク。トマホークといえばDJの父親のモデルレブロンジェームズの得意技なので気になる人は「レブロン トマホーク」で検索!
リングが大きく揺れ、体育館の観客席が一斉に立ち上がった。
DJは着地すると、振り返りもせず守備へ戻っていった。その姿には、たった今あれほど豪快なプレーを成功させたとは思えないほどの落ち着きがあった。
時春はしばらく、画面を見つめていた。
「……すっげえ」
思わず声が漏れる。
「今の、センターから直接パス出したんだよね?」
トムが頷いた。
「うん。あれがウェストゲートの大きな武器の一つなんだ」
イーサンが動画を少し戻す。
リバウンドを取った瞬間、センターはほとんど迷わず前方へパスを送っている。しかも、走っているDJの速度を考え、ボールがちょうど彼の進行方向へ落ちるように投げていた。
ただ遠くへ放り投げただけではない。
あの長いパスには、確かな技術があった。
「……うまいな、このセンター」
イーサンが感心したように呟く。
「そうなんだよ」
トムは少し真剣な表情になった。
「実は、DJだけじゃないんだ。ウェストゲートのすごいところって」
時春は顔を向けた。
「えっ?」
「他の四人も、本当にレベルが高いんだよ」
トムはそう言うと、イーサンのスマートフォンを借り、選手紹介のページを開いた。
◇
「まず、今のセンター」
トムが画面を指差した。
そこには、身長二百六センチほどの大柄な選手が映っていた。体格はがっしりしているものの、ヴォーンのような爆発的な筋肉の持ち主ではない。むしろ、落ち着いた表情と柔らかなシュートフォームが印象的だった。
「ウェスリー・キーン。十二年生のセンターで、ウェストゲートのキャプテンだよ。リバウンドがすごく強いんだけど、それだけじゃないんだ」
トムは次の動画を再生した。
キーンはスリーポイントラインの外側でボールを受け取ると、ほとんど迷うことなくジャンプシュートを放った。ボールは綺麗な放物線を描き、ネットへ吸い込まれる。
「……えっ」
時春が目を丸くする。
「センターなのに、スリーも打つの!?」
「うん。しかも結構正確なんだよ。ゴール下でリバウンドを取れるし、外からも得点できる。相手のセンターを外へ引き出して、インサイドを空けることもできるんだ」
トムは少し考えてから続けた。
「それに、さっきのアウトレットパス。キーンはリバウンドを取ったあと、すぐに前方を見る癖があるんだ。だからDJみたいに走るのが速い選手がいると、速攻がものすごく強くなる」
時春はもう一度動画を見た。
確かに、キーンはリバウンドを取った瞬間に顔を上げている。ボールを安全に保持することよりも先に、走っている仲間の位置を確認しているようだった。
あの長いパスも、偶然ではないのだ。
「……なるほど」
時春は感心したように頷いた。
しかし、トムの説明はまだ続いた。
「それから、パワーフォワードがブライス・オコナー」
画面には、長い腕と引き締まった体を持つ選手が映し出された。
身長は二メートルを少し超える程度だろうか。ヴォーンほどの重量感はないが、動きが非常に素早い。次の映像では、相手のシュートが外れた瞬間にゴール下へ飛び込み、誰よりも早くボールへ手を伸ばしていた。
そのままオフェンスリバウンドを奪い、両手でリングへ叩き込む。
「オコナーは、リバウンドとスクリーンがすごく上手い選手なんだ。自分で難しいシュートを打つことは少ないけど、味方のために体を張るのが得意で、特にDJとの連携がすごいんだよ」
トムは動画を切り替えた。
DJが右ウイングからドライブを始める。すると、オコナーがゴール下から上がり、相手のディフェンダーへ大きなスクリーンをセットした。DJはその横を抜け、ディフェンスが寄ってきた瞬間、リングの上へ高いパスを放つ。
オコナーが跳び上がる。
そして、豪快なアリウープダンク。
「うわあ……!」
時春が思わず声を漏らした。
DJの得点能力が恐ろしいのはもちろんだが、その周囲にも、彼の力を最大限に引き出す選手たちがいる。しかも、オコナーは攻撃だけでなく、守備でも足がよく動いていた。相手のガードがドライブしてくると、すぐに横へ移動して進路を塞ぎ、外へ逃げようとする相手を長い腕で牽制している。
マイルズとはまた違った意味で、厄介なパワーフォワードだった。
「で、スモールフォワードがグレアム・ピアース」
トムは次の選手を紹介した。
画面には、金髪を短く整えた細身の長身選手が映し出された。背が高く、手足が長い。彼はスリーポイントラインの外側を絶えず動き回り、スクリーンを利用してディフェンダーを引き離していた。
「……あっ」
時春はすぐに気づいた。
「この人、マイクみたい!」
トムが笑った。
「うん。ちょっと似てるね」
ピアースはボールを持たずに動くことが得意だった。右コーナーから左ウイングへ走り、味方のスクリーンを使って一瞬の空間を作る。パスを受け取ると、ほとんどボールを下ろさずにシュートへ移る。そのリリースは驚くほど速く、ディフェンダーが追いついたときには、すでにボールが空中へ放たれていた。
シュッ。
ネットが揺れる。
次の映像でも、またしてもスリーポイント。
さらにその次は、DJがドライブで二人のディフェンダーを引きつけたあと、コーナーのピアースへ正確なパスを送っていた。
ピアースは迷わずシュートを放ち、綺麗に決めた。
「……うわ」
時春は思わず呟いた。
「これ、DJを守ろうとしたらピアースが空くじゃん……」
「そうなんだよ」
トムは頷いた。
「しかも、ピアースはただ待ってるだけじゃない。ずっと動き続けるから、マークする選手も大変なんだ」
時春は、先日のノースゲート戦を思い出した。
ジェイソン・ヴォーンを止めようとすれば、キャメロン・プライスが外からシュートを決める。あの二人の組み合わせだけでも、ブレイカーズは随分苦しめられた。
しかし、ウェストゲートにはDJがいる。
さらに、外側にはピアースまでいる。
それだけでも恐ろしいのに、トムの説明によれば、まだもう一人のガードが残っているらしかった。
「最後に、ポイントガード」
トムは画面を操作した。
「ヴィクター・ホロウェイ」
映し出されたのは、落ち着いた表情をした長身のガードだった。身長は百九十センチ近くあり、腕も長い。派手なドリブルで相手を抜き去るタイプには見えなかったが、その動きには無駄がなかった。
彼はゆっくりとボールを運び、DJへ正確なパスを送る。DJがドライブを始めると、すぐに反対側へ移動し、パスを受けられる位置へ入った。相手のディフェンダーがDJへ寄れば、ホロウェイはスリーポイントラインの外側でボールを受け取り、落ち着いてシュートを沈める。
「ホロウェイは、すごく堅実なポイントガードなんだ。派手なプレーは少ないけど、ミスが少ないし、守備も上手い。DJにボールを渡したあと、自分がどう動けばいいかをよくわかってる」
トムは説明を続けた。
「それに、DJがベンチにいる時間帯は、ホロウェイがちゃんと攻撃を組み立てられるんだ。だから、DJ一人を止めればどうにかなるっていうチームじゃないんだよ」
イーサンが小さく頷いた。
「……そういうことか」
時春はスマートフォンの画面を見つめていた。
ウェスリー・キーン。
ブライス・オコナー。
グレアム・ピアース。
ヴィクター・ホロウェイ。
そして。
ダリウス・ジェームズ・ジュニア。
DJ。
五人の名前が、頭の中で並んでいく。
彼らはそれぞれに明確な役割を持っていた。ホロウェイが攻撃を落ち着かせ、ピアースが外側で相手を脅かし、オコナーがスクリーンとリバウンドでチームを支える。キーンはゴール下を守りながら外からも得点でき、リバウンドを取ればすぐに速攻へ移れる。
そして、その中心にDJがいた。
彼はシューティングガードでありながら、自分でドリブルを運び、攻撃を組み立てることができる。リングへ向かって強引に得点を奪うだけでなく、ディフェンスが集中すれば、空いた味方へ正確なパスを送る。父親であるキングDの影響を感じさせるそのプレーには、得点力だけでは測れない怖さがあった。
時春は、以前に見たDJの動画を思い出した。
試合終盤、二点差で負けていた場面。
DJは自分でシュートを打つこともできたはずだった。それでも、二人のディフェンダーが寄ってきた瞬間、彼は迷わず味方へパスを送った。そして、その味方が逆転のスリーポイントを決めた。
あのプレーを見たとき、時春は強く感じたのだった。
こいつは、ただのスター選手じゃない。
本当に、バスケットボールがうまい。
「……すげえなあ」
時春は小さく呟いた。
イーサンが隣で苦笑する。
「だろ?」
「うん……」
時春はもう一度、画面に映るDJを見た。
長い腕でボールを扱い、ディフェンダーの間を鋭く抜け、信じられないほど高い位置からダンクを叩き込む。
しかも、この選手は自分と同じ一年生なのだ。
時春はスマートフォンを握る手へ、知らず知らずのうちに力を込めていた。
◇
「……なあ、ちょっと待て」
突然、背後から声が聞こえた。
時春が振り返ると、そこにはマイルズが立っていた。
「お前ら、何見てんだ?」
「あっ、マイルズ!」
時春は嬉しそうに顔を上げた。
「次の対戦相手が決まったんだって!」
「おっ、そうなのか?」
マイルズは興味深そうに近づいてきた。
イーサンがスマートフォンを見せる。
その瞬間、マイルズの表情が変わった。
「……ウェストゲート?」
「ああ」
「……マジかよ」
マイルズは口元を緩めた。
「ハハッ。そりゃ面白えじゃねえか」
その言葉を聞いた時春は、思わず笑った。
どうやら、このキャプテンはどんな強敵を前にしても、最終的には同じ反応をするらしい。
「おいおい! 何の話だ!?」
今度はノアがやって来た。
その後ろには、マイクとライアン、ジェイスもいる。
「次の相手? どこだよ?」
「ウェストゲート」
イーサンが答えた。
一瞬、沈黙が流れた。
そして、ノアが目を見開いた。
「……WHAT!?」
あまりにも大きな声だったので、カウンターのダニーがこちらを睨んだ。
「……ノア!」
エマが慌てて注意する。
「声、大きい!」
「いや、だってよ! ウェストゲートだぞ!?」
ノアは興奮した様子で時春の肩をつかんだ。
「リトルマン! お前、覚えてるだろ!? クリスマスの夜に俺が教えた奴!」
「うん! DJでしょ!」
「そうだよ! キングDの息子!!」
ノアは嬉しそうに笑い出した。
「BRO! ついに来たじゃねえか!!」
その声に、周囲の選手たちも次々と集まってきた。
気づけば、トムの説明を聞いていたのは、時春とイーサンだけではなくなっていた。マイルズが腕を組み、ノアが身を乗り出し、マイクが静かに画面を覗き込む。トムは少し照れくさそうにしていたが、求められるままにウェストゲートの選手たちについて説明を繰り返した。
ホロウェイの安定したゲームメーク。
ピアースの正確なスリーポイント。
オコナーの献身的なスクリーンとリバウンド。
キーンのアウトレットパスと外からの得点力。
そして、DJの圧倒的な身体能力と、シューティングガードとは思えないほどの視野の広さ。
説明が進むにつれて、選手たちの表情は少しずつ真剣になっていった。
先日のノースゲート戦では、ヴォーンとプライスという二人のスターに何度も苦しめられた。しかし、ウェストゲートには、明確な弱点がほとんど見当たらなかった。五人がそれぞれの役割を理解し、互いの長所を最大限に引き出している。
しかも、昨年の州大会を経験した選手たちが残っている。
その上で、今年はDJが加わっているのだ。
「……こりゃ、簡単じゃねえな」
マイルズが静かに呟いた。
イーサンも頷いた。
「正直、地区大会の二回戦で当たるには厳しい相手だな」
しかし、その言葉を聞いたノアは、突然にやりと笑った。
「……おいおい」
周囲の視線が集まる。
「何だよ、お前ら。そんな顔して」
ノアは両手を広げた。
「ウェストゲートが強いのは知ってる。DJがやべえのも知ってる。だけどよ……」
彼は時春へ視線を向けた。
「俺たちだって、弱くねえだろ?」
時春は顔を上げた。
ノアは笑った。
「この前だって、あのヴォーンを倒したんだぜ? マイクは七本もスリー決めたし、マイルズは最後にブロックしてダンクした。トムだって、あんなアリウープ決めたじゃねえか!」
トムが少し照れくさそうに笑う。
ノアはさらに続けた。
「それに、俺たちにはトキがいるだろ!」
「えっ!?」
突然名前を出され、時春は驚いた。
「お前、DJに勝ちたいって言ってたじゃねえか!」
その言葉に、時春の胸が小さく跳ねた。
確かに、言った。
クリスマスの夜、DJの動画を見ていたとき。
そして、そのあとにも。
自分は、いつかあの選手と戦いたいと思っていた。
同じ学年で、同じ南カリフォルニアの高校バスケットボール界にいる少年。父親がNBAのスーパースターであり、すでに全米から注目を集めている選手。
今の実力では、簡単に勝てないかもしれない。
けれど、だからこそ。
戦ってみたい。
そして、勝ちたい。
時春はゆっくりと笑った。
「……うん」
ノアが顔を向ける。
「おう?」
「……俺、勝ちたい」
時春ははっきりと言った。
「DJに勝ちたい。ウェストゲートにも勝ちたい」
そして、仲間たちを見渡した。
「みんなと一緒に、もっと先まで行きたい!」
マイルズの口元が、ゆっくりと持ち上がった。
イーサンも笑った。
マイクが静かに頷き、トムも少しだけ表情を緩める。
そのとき、マイルズが立ち上がった。
「……よし」
彼は大きな手を、テーブルの中央へ突き出した。
「お前ら、ちょっと集まれ」
時春が首を傾げる。
「えっ?」
「円陣だよ、円陣!」
ノアがすぐに反応した。
「OH, YEAH!!」
彼も立ち上がり、マイルズの手へ自分の手を重ねた。
続いてイーサン、マイク、トム、ライアン、ジェイスたちが次々と立ち上がる。時春も慌ててその輪へ加わった。
突然始まった円陣に、ジェイクが目を輝かせた。
「おっ!? 何だ何だ!?」
「ジェイク、あんたはバスケ部じゃないでしょ!」
ゾーイが言う。
「応援団だろ!? 入っていいじゃねえか!」
そう言いながら、ジェイクまで輪の外側へ加わろうとした。
マイルズは笑いながら、全員を見渡した。
「……いいか、お前ら」
その声に、選手たちの表情が引き締まる。
「次の相手はウェストゲートだ。強いのはわかってる。だが、俺たちはここで終わるつもりなんかねえよな!?」
「HELL NO!!(ありえねえぜ!!)」
ノアが叫んだ。
マイルズは力強く頷いた。
「だったら、次も勝つぞ!!」
「YEAHHHH!!」
マイルズがさらに声を張り上げた。
「WHO ARE WE!?(俺たちは誰だ!?)」
「BREAKERS!!(ブレイカーズ!!)」
「WHAT DO WE DO!?(俺たちが!?)」
「WE WIN!!(勝つ!!)」
「ONE TEAM!!(俺たちはチーム!!)」
「ONE FAMILY!!(俺たちは家族だ!!)」
そして、最後にマイルズが拳を突き上げた。
「LET’S TAKE DOWN THE WOLVES!!(ウルブズぶっ潰すぞ!!)」
「LET’S GOOOOOOOO!!」
ダイナーの中に、地響きのような歓声が響き渡った。
時春も両拳を突き上げ、声の限りに叫んでいた。
しかし、次の瞬間。
ドンッ!!
カウンターから、鈍い音が響いた。
全員が振り返る。
そこには、布巾を握りしめたダニーが立っていた。
眉間の皺は、もはや普段の倍ほど深くなっている。
カウンターの常連老人は、コーヒーカップを片手に肩を震わせて笑っていた。
「……お前ら」
ダニーが低い声で言った。
選手たちが黙る。
「……ここは体育館じゃねえ」
マイルズが少し気まずそうに笑った。
「あっ、すみません、ダニー」
「すみませんじゃねえ。何時だと思ってんだ」
ダニーは壁の時計を指差した。
午後九時を少し過ぎていた。
「飯は食ったな?」
「はい!」
時春が元気よく答えた。
「うまかったか?」
「めっちゃおいしかったです!」
「……なら、帰れ」
一瞬、沈黙が流れた。
「……えっ?」
時春が首を傾げる。
ダニーは入口を指差した。
「OUT! ALL OF YOU!(出てけ!お前ら全員だ!)」
その瞬間、店内に笑い声が弾けた。
「HAHAHA!!」
ノアは腹を抱えて笑い、ジェイクは大げさに両手を上げた。
「わかったって、ダニー!」
「また来るぜ!」
「来なくていい!」
ダニーが即座に答える。
しかし、その言葉を本気で受け取る者は一人もいなかった。
選手たちは笑いながら荷物をまとめ、食器を片づけるエマへ何度も礼を言った。マイルズはキャプテンとして全員分の忘れ物を確認し、イーサンは最後まで残ってテーブルの周囲を見渡していた。
時春は帰り際、カウンターへ駆け寄った。
「ダニー!」
「……何だ」
「今日はありがとう! すっごくおいしかった!」
ダニーはしばらく時春を見つめた。
それから、低い声で答えた。
「……次は静かに食え」
「うん!」
時春は満面の笑みで頷いた。
その様子を見て、カウンターの老人が笑った。
「おい、坊主。次の試合も勝てよ」
「……えっ?」
「どうせまた、この店で騒ぐんだろ?」
時春は少し驚いた。
それから、嬉しそうに笑った。
「……うん! 絶対勝ってきます!」
老人は満足そうに頷いた。
「そうかい。じゃあ、楽しみにしてるよ」
その隣で、ダニーが小さくため息をつく。
「あんたまで煽るな」
しかし、時春が店を出ようとしたとき、ダニーは誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……負けんなよ、ガキども」
その言葉は、騒がしい高校生たちには届かなかった。
ただ、隣の老人だけが、それを聞いて楽しそうに笑っていた。
◇
店の外へ出ると、夜の空気は思っていたよりも冷たかった。
通り沿いには街灯が並び、少し離れた道路を車が走っていく。海から吹いてくる風にはかすかな潮の匂いが混じり、遠くでは波の音が聞こえていた。二月の南カリフォルニアは昼間こそ暖かいが、日が沈めば上着が欲しくなるほど冷え込むこともある。
時春はパーカーのポケットへ両手を入れ、大きく息を吐いた。
「……ああ、楽しかった!」
「お前、それずっと言ってんな!」
ジェイクが笑いながら肩を抱く。
「だって楽しかったんだもん!」
「ハハッ! そりゃそうだ!」
少し離れたところでは、マイルズがノアと何やら言い合いながら歩いていた。マイクとトムはその後ろをゆっくりと歩き、イーサンはライアンたちと次の練習予定について話している。
やがて、一人、また一人と帰る方向が分かれ始めた。
寮へ戻る者もいれば、迎えに来た家族の車へ乗り込む者もいる。地元に住む生徒たちは友人と一緒に歩き出し、ダイナーの前に集まっていた大勢の高校生たちは、少しずつ夜の街へ散っていった。
そんな中、エマが店の裏口から姿を現した。
赤いエプロンを外し、薄いクリーム色のコートを羽織っている。仕事を終えたばかりらしく、片手には小さなバッグを持っていた。
「あっ、みんな! まだいたんだ!」
「エマ!」
時春が嬉しそうに手を振る。
「仕事終わったの?」
「うん! 今日はもう上がっていいって!」
エマは笑顔で答えた。
そのとき、ゾーイが腕時計を見た。
「……もう九時半近いね」
「ほんとだ」
エマが頷く。
「じゃあ、私もそろそろ帰ろうかな」
それを聞いたジェイクが、突然何かを思いついたような顔をした。
「……おっ」
ゾーイが横目で見る。
「……何?」
「いや、別に?」
ジェイクはにやりと笑った。
そして、時春へ視線を向けた。
「なあ、トキ!」
「ん?」
「お前、エマの家まで送ってやれよ!」
「……えっ?」
時春が首を傾げる。
エマも少し驚いたように顔を上げた。
「えっ、でも……!」
「もう遅いしさ!」
ジェイクは何でもないことのように続けた。
「女の子一人で歩いて帰らせるわけにはいかねえだろ?」
ゾーイもすぐに頷いた。
「うん。私もその方がいいと思う」
エマが少し困ったように笑う。
「でも、そんなに遠くないよ?」
「遠いとか近いとかの問題じゃないでしょ」
ゾーイは穏やかに言った。
「トキ、お願いしてもいい?」
時春は一瞬だけ考えた。
それから、ぱっと笑った。
「うん! もちろん!」
あまりにも即答だったので、エマは少しだけ目を丸くした。
「……ほんと?」
「うん! 一人で帰るより二人の方が楽しいじゃん!」
時春は屈託なく笑った。
エマの頬が、ほんの少しだけ赤くなる。
「……ありがとう、トキ」
その様子を見ていたジェイクは、笑いをこらえるのに必死だった。
しかし、ゾーイに肘で小突かれると、慌てて真面目な顔を作った。
「……じゃ、俺たちは先に帰るか!」
「そうだね」
ゾーイが頷いた。
二人は顔を見合わせた。
どうやら、言葉にしなくても意思疎通ができているらしい。
少し離れたところでは、マディソンが時春の方を見ていた。
「……あっ、トキ。エマを送っていくんだ?」
「うん!」
時春は嬉しそうに答えた。
「マディも気をつけて帰ってね!」
「……うん、ありがとう!」
マディソンは笑顔で手を振った。
ただ、その笑顔がいつもよりほんの少しだけぎこちなかったことに、時春はまったく気づかなかった。
ゾーイはそんなマディソンの様子を横目で見つめていたが、今は何も言わないことにした。
そして、ジェイクが大きく手を振った。
「じゃあな、Bro! エマを頼んだぞ!」
「うん! また明日!」
時春が返事をすると、ジェイクは楽しそうに笑いながら歩き出した。
ゾーイもエマへ手を振る。
「エマ、またね!」
「うん! ありがとう、ゾーイ!」
こうして、時春とエマは二人で帰ることになった。
◇
夜のクレセントコーストは、昼間とは違う顔をしていた。
通り沿いの店は少しずつ照明を落とし、カフェのテラス席にも人影が少なくなっている。街灯の下にはヤシの木の長い影が伸び、車道を走る車のヘッドライトが、静かな住宅街を一瞬だけ明るく照らしていった。海から吹く風は冷たかったが、空はよく晴れており、遠くにはいくつもの星が見えていた。
時春とエマは、歩道を並んで歩いていた。
エマの家は、ダニーズから歩いてしばらくの住宅街にあった。幼い頃からこの街で暮らしている彼女にとって、その道は何百回も通ってきた馴染みの場所なのだろう。角を曲がるたびに近所の家の様子を知っていて、時折、道端に咲く花や、夜になると明かりが綺麗な家について話してくれた。
時春はその話を楽しそうに聞いていた。
「へえ! この辺って、エマが小さい頃から変わってないの?」
「うん。新しい家も何軒か建ったけど、だいたい同じかな」
「いいなあ。俺、まだこの辺全然知らないや」
「そっか。トキは寮に住んでるもんね」
「うん!」
時春は笑った。
「でも、もう半年くらいこっちにいるんだよね。何か、早いなあ」
エマは隣を歩く時春を見た。
彼がアメリカへ来たのは、去年の夏だった。
学校の初日、校舎の場所がわからず困っていた日本人の少年。英語に自信がなく、少し緊張した顔で廊下を歩いていた彼に声をかけたのは、エマだった。
あのときの時春は、何もかもが初めてのようだった。
授業の進み方も、学校の広さも、アメリカの高校生たちの話し方も。わからないことがあるたびに目を丸くし、それでも楽しそうに笑っていた。
それが今では、バスケットボール部の一員として地区大会へ出場し、プレーオフで勝利をつかんでいる。
時春自身は、それほど大きく変わったつもりはないのかもしれない。
しかし、エマにはその成長がよくわかっていた。
「……トキ、すごいよね」
エマがぽつりと言った。
「えっ?」
「だって、アメリカに来てまだ半年くらいなのに、もうこんなにいっぱい試合出てるし。地区大会まで勝ち進んでるんだもん」
時春は少し照れくさそうに笑った。
「いやあ……みんなのおかげだよ」
「でも、トキも頑張ってるでしょ?」
「うん! それは頑張ってる!」
あまりにも素直な返事だったので、エマは思わず笑ってしまった。
「ふふっ、そうだよね」
時春も笑った。
しばらく二人は、他愛のない話を続けた。学校の授業のこと。ダニーズでの仕事のこと。ラリーが最近また新しいゲームにはまっていること。ジェイクが何かにつけて大騒ぎすること。そして、マイルズが今夜、何度も最後のダンクを再現していたこと。
その一つひとつが、どれも楽しかった。
やがて、話題は自然と次の試合へ移った。
「……そういえば、エマ」
「ん?」
「次の相手、決まったんだよ」
エマは顔を上げた。
「あっ、さっきみんなで見てたやつ?」
「うん!」
時春は少し嬉しそうに頷いた。
「ウェストゲート・プレップっていう学校なんだ」
その名前を聞いたエマは、少し考え込んだ。
「……あれ?」
「ん?」
「それって、前に話してた学校じゃない?」
時春は目を丸くした。
「えっ、覚えてるの!?」
「うん。クリスマスの夜、車の中で動画見てたでしょ?」
「あっ!」
時春は思わず声を上げた。
あの日、エマも一緒にいたのだ。
ノアたちとキングDの試合を観戦した帰り道。時春はDJの動画に夢中になり、同じ年齢の選手がこれほど高いレベルでプレーしていることに衝撃を受けていた。そのとき、エマは隣でずっと話を聞いてくれていた。
「……そう! あのDJって選手!」
時春は嬉しそうに言った。
「次、その人と試合するんだ!」
「ええっ!?」
エマは驚いたように目を見開いた。
「ほんとに!?」
「うん!」
「すごいじゃん!」
エマは嬉しそうに笑った。
しかし、すぐに少しだけ心配そうな表情になった。
「……でも、すごく強いんだよね?」
時春は頷いた。
「めっちゃ強い。DJだけじゃなくて、他の人もすごいんだって」
彼は先ほどトムから聞いた話を思い出した。
リバウンドから長いパスを送るセンター。
外から正確にシュートを決めるフォワード。
味方のためにスクリーンをかけ、ゴール下で体を張る選手。
そして、落ち着いて攻撃を組み立てるポイントガード。
その中心に、全米から注目されるDJがいる。
時春は小さく息を吐いた。
「……正直、かなりやばいと思う」
エマは黙って聞いていた。
その横顔には、いつもより真剣な表情が浮かんでいる。
しかし、時春はすぐに笑った。
「……でもさ」
エマが顔を向ける。
「俺、楽しみなんだよね」
「……楽しみ?」
「うん!」
時春は夜空を見上げた。
「ずっと戦ってみたいって思ってた相手だから。しかも、あのDJと同じコートで試合できるんだよ? めっちゃすごくない?」
エマはしばらく時春を見つめていた。
そして、柔らかく笑った。
「……うん。すごいね」
時春は頷いた。
「だから、絶対勝ちたい」
その声には、いつもの無邪気さとは少し違う響きがあった。
時春は立ち止まり、エマの方へ顔を向けた。
「……エマ」
「ん?」
彼はまっすぐに言った。
「絶対勝つよ、俺」
エマは目を瞬かせた。
時春は笑った。
「DJにも、ウェストゲートにも。絶対勝って、もっと先まで行くから!」
エマはしばらく、その顔を見つめていた。
街灯の柔らかな光が、時春の横顔を照らしている。
彼はいつもと変わらない笑顔を浮かべていた。しかし、その目には、目標へ向かって進もうとする強い意志が宿っている。自分よりも大きく、強く、ずっと有名な選手が相手であっても、彼は最初から諦めようとはしない。
その姿が、エマには何だか眩しく見えた。
彼女はゆっくりと笑った。
「……楽しみ!」
時春の顔が明るくなる。
「ほんと!?」
「うん! 私、絶対応援に行く!」
「やった!」
時春は嬉しそうに拳を握った。
エマはくすくすと笑い、それから少しだけ声を落とした。
「……だから、頑張ってね。トキ」
「うん!」
二人は顔を見合わせ、笑った。
そのあとも、住宅街の静かな道をゆっくりと歩き続けた。夜風は少し冷たかったが、不思議と寒さはあまり気にならなかった。時春は次の試合への期待を胸に、エマはそんな彼の横顔を時折見つめながら、それぞれに穏やかな時間を過ごしていた。
やがて、二人は一軒の家の前へたどり着いた。
◇
エマの家は、静かな住宅街の一角に建っていた。
白い外壁に淡い色の屋根。玄関へ続く短い石畳の両側には小さな花壇があり、窓からは暖かな光が漏れている。庭先には低い木が何本か植えられ、玄関の脇には鉢植えの花が並んでいた。派手な家ではなかったが、丁寧に手入れされていることが一目でわかる、落ち着いた雰囲気の住まいだった。
エマは門の前で立ち止まった。
「……着いた!」
時春も足を止める。
「おお! ここがエマの家なんだ!」
「うん!」
エマは笑顔で頷いた。
「送ってくれてありがとう、トキ」
「全然! 楽しかった!」
時春は屈託なく笑った。
「また学校でね!」
「うん!」
エマは少しだけ迷ってから、もう一度口を開いた。
「……トキ」
「ん?」
「次の試合、本当に楽しみにしてるからね」
時春は笑った。
「任せて!」
そして、右手を軽く上げた。
「Good night, Emma!(おやすみ、エマ!)」
エマも嬉しそうに手を振った。
「Good night, Toki!(おやすみなさい、トキ!)」
時春はそれから少しだけ玄関の方を眺め、エマが無事に家へ入るのを確認すると、再び歩道へ戻った。
その後ろ姿を、エマはしばらく見送っていた。
街灯の下を歩いていく小さな背中。
いつものように軽い足取りで、時折、何かを思い出したように肩を揺らしている。たぶん、さっきの祝勝会のことか、次の試合のことでも考えているのだろう。
エマは思わず笑った。
「……ほんと、トキらしいなあ」
そう呟いてから、玄関の扉を開けた。
◇
「ただいまー!」
エマが明るく声を上げると、家の奥からすぐに返事が聞こえた。
「おかえりなさい、エマ!」
母親の由美だった。
日本人である由美は、柔らかな表情と落ち着いた雰囲気を持つ女性だった。エマとよく似た優しい目元をしており、娘と話すときには日本語と英語を自然に使い分けている。カリフォルニアでの暮らしは長いが、家の中には日本の食器や小さな飾り物がいくつか置かれていて、異なる二つの文化が無理なく同居していた。
由美はキッチンから顔を出すと、コートを脱いでいる娘へ微笑んだ。
「今日は遅かったわね。お店、忙しかった?」
「うん! 今日はバスケ部のみんなが来たの!」
「あら、祝勝会だったんでしょう?」
「そうそう! すっごく賑やかだった!」
エマは楽しそうに笑った。
由美も娘の表情を見て、嬉しそうに頷いた。
「よかったわねえ」
そして、ふと思い出したように窓の方へ視線を向けた。
「そういえば、さっき誰かと一緒に帰ってきた?」
「あっ、うん!」
エマは靴を揃えながら答えた。
「トキだよ!」
その名前を聞いた由美の顔が、ぱっと明るくなった。
「ああ! バスケ部の子ね!」
「うん!」
エマは嬉しそうに頷いた。
「今日は遅いからって、家まで送ってくれたの!」
「まあ! 優しいじゃない!」
由美は微笑んだ。
「トキ君って、前に話してくれた日本から来た男の子でしょう?」
「そうだよ!」
「そうそう。学校で最初に仲良くなった子よね。いつも楽しそうに話してくれるから、お母さんも一度会ってみたいと思ってたの」
エマは少しだけ頬を赤くした。
「……もう、ママ」
由美はそんな娘の様子を見て、楽しそうに笑った。
しかし、そのときだった。
リビングの奥から、低い声が聞こえた。
「……待て」
エマと由美が振り返る。
そこには、大きなソファに腰を下ろしていた男性がいた。
ハリー・パーカー。
エマの父親である。
肩幅の広い、がっしりとした体格の男性だった。年齢は四十代半ばほどだろうか。短く整えられた髪にはわずかに白いものが混じり、はっきりとした眉と鋭い目つきが印象的だった。普段は穏やかに家族と過ごす父親であり、娘が帰宅すれば必ず声をかけ、週末には家族の予定を気にするような、ごく普通の家庭人でもあった。
ただし、娘に関する話題となると、少しだけ様子が変わる。
いや、少しではないのかもしれない。
ハリーは読んでいた新聞をゆっくりと畳んだ。
そして、顔を上げた。
「……バスケ部?」
由美が首を傾げる。
「どうしたの?」
ハリーは答えなかった。
その視線は、まっすぐエマへ向けられている。
「……トキ?」
エマが少し嫌な予感を覚えた。
「……パパ?」
ハリーはゆっくりと立ち上がった。
「……男の子か?」
リビングに、妙な沈黙が流れた。
由美は一瞬、目を丸くした。
それから、何かを理解したように笑った。
「あら、エマ。トキ君のこと、パパには話してなかったの?」
エマの顔が固まった。
「……ママ!」
しかし、その言葉を聞いたハリーの方が、さらに大きく反応した。
「……何?」
彼は由美へ顔を向けた。
「……母さんには話してるのか!?」
由美は平然と頷いた。
「ええ。よく話してくれるわよ」
ハリーの目が大きく見開かれた。
「……よく?」
「うん。日本から来た子で、とっても明るくて、バスケットボールが上手なんですって」
由美はにこにこと笑いながら説明した。
「エマが学校で困っているときも、いろいろ話を聞いてくれるみたいだし。優しい男の子なのねえ」
その説明を聞くたびに、ハリーの表情が少しずつ変わっていった。
最初は驚き。次に困惑。そして、何とも形容しがたい警戒心。
彼はゆっくりとエマへ向き直った。
「……エマ」
「……何?」
「トキというのは、どんなやつだ?」
「えっ?」
「何歳だ?」
「……同じ学年だけど」
「同じ学年……!」
ハリーは低く呟いた。
その顔には、なぜか重大な事実を知らされてしまった人間のような緊張が浮かんでいる。
「……背は高いのか?」
「えっ? いや、そんなに……」
「そうか……」
ハリーは腕を組んだ。
少しだけ安心したように見えた。
しかし、すぐに何かを思い直したらしい。
「……いや、待て。背の高さは関係ないな」
「……パパ?」
「バスケ部ということは、運動はできるんだな?」
「うん……」
「……そうか」
ハリーの眉間に、深い皺が刻まれた。
由美はそんな夫の様子を、実に楽しそうに眺めていた。
「あなた、そんなに心配しなくてもいいじゃない」
「心配してない!」
ハリーは即座に答えた。
しかし、どう見ても心配していた。
彼は再びエマへ向き直った。
「エマ!」
「……何!?」
「トキは、変なやつじゃないんだろうな!?」
「……はあ!?」
「いや、ほら! 男の子だろ!? 夜遅くに一緒に歩いてきたんだろ!?」
「だから、家まで送ってくれただけだって!」
「……変なことはされてないだろうな!?」
その瞬間。
エマの顔が、真っ赤になった。
「……もう!!」
彼女は勢いよく声を上げた。
「パパ!! そういうこと言わないで!!」
ハリーが驚いて目を瞬かせる。
「いや、私はただ……!」
「だから話したくなかったの!!」
エマはバッグを抱え直した。
「エ、エマ!? 待ちなさい!」
「もう知らない!!」
彼女は階段を駆け上がった。
ハリーが慌てて後を追おうとする。
「エマ! パパは心配してるだけだぞ!」
「そういう聞き方が嫌なの!!」
二階から声が返ってきた。
そして。
バタンッ!!
自室のドアが閉まる音が、家中に響き渡った。
リビングには、突然の静けさが訪れた。
ハリーは階段の下で立ち尽くしていた。
片手を中途半端に伸ばしたまま、閉ざされた二階のドアを見上げている。
「……な……」
彼はゆっくりと口を開いた。
「……何だ、今のは……」
由美はキッチンの入口に立ち、肩を震わせて笑っていた。
「ふふっ……あなたってば」
ハリーは振り返った。
「……母さん」
「何?」
「……私は、何か悪いことを言ったか?」
由美はとうとう声を上げて笑ってしまった。
「あははっ! もう、あなたったら!」
「……笑い事じゃないぞ」
ハリーは真剣だった。
由美はようやく笑いを収めると、夫の隣へ歩み寄った。
「エマだって年頃なんだから、男の子の一人や二人くらい、仲の良い子がいてもおかしくないでしょ?」
ハリーの表情が固まった。
「……一人や二人?」
「そうよ」
「……二人?」
由美が首を傾げる。
「ええ?」
ハリーは何かを数えるように指を折り始めた。
「……待て。ということは、トキ以外にも……?」
由美は楽しそうに笑った。
「さあ、どうかしらね?」
「……母さん!」
「冗談よ、冗談」
由美は笑いながら夫の肩を軽く叩いた。
「それに、トキ君は本当にいい子みたいよ。日本から一人で来て、毎日一生懸命バスケットボールを頑張ってるんですって」
ハリーは黙っていた。
「エマも、その子の試合をいつも楽しみにしてるの。今日だって、次の試合が決まったって嬉しそうに話してたんでしょう?」
その言葉に、ハリーの眉がぴくりと動いた。
「……試合?」
「ええ。地区大会のプレーオフなんですって」
由美は何でもないことのように続けた。
「今度、ウェストゲートとかいう強い学校と戦うらしいわよ。エマもきっと応援に行くんじゃないかしら」
ハリーはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりとソファへ腰を下ろした。
新聞を手に取る。
しかし、開かない。
その目は、何かを考えるように遠くを見つめていた。
由美はそんな夫の様子を眺めながら、食器を片づけ始めた。
しばらくして、ハリーが低い声で口を開いた。
「……母さん」
「何?」
「……試合を見に行こう」
由美が振り返った。
「あら!」
彼女は嬉しそうに笑った。
「いいわねえ!」
「……うむ」
ハリーは真剣な顔で頷いた。
「娘が応援しているチームなら、父親として一度くらい見ておくべきだろう」
「そうね。エマも喜ぶと思うわ」
由美はにこにこと笑った。
「それに、私もトキ君に会ってみたいもの」
その瞬間、ハリーの目がわずかに細くなった。
「……ああ」
低い声だった。
「……私も、ぜひ会ってみたい」
由美は夫の表情に気づかないまま、楽しそうに頷いていた。
彼女にとっては、娘が仲良くしている友人に会い、家族でバスケットボールの試合を応援するという、何とも微笑ましい週末の予定ができただけだった。
しかし、ハリーにとっては、少し事情が違った。
彼は娘を愛していた。
心の底から、大切に思っていた。
生まれたばかりのエマを初めて抱き上げた日。小さな手で自分の指を握ってくれたこと。幼稚園へ初めて登園した朝、泣きながら自分の服をつかんで離さなかったこと。自転車の練習で転んでも、何度も立ち上がっていたこと。学校で友達ができたと嬉しそうに話してくれたこと。
そうした記憶の一つひとつが、今でも鮮明に残っている。
ハリーにとって、エマはいつまで経っても大切な娘だった。
しかし、その娘が今では高校生になり、父親の知らない男の子と夜道を歩いて帰ってくるようになっている。
しかも、母親にはその男の子の話をしているのに、自分には何も教えてくれなかったという。
ハリーは静かに息を吐いた。
それから、新聞をゆっくりと畳んだ。
「……トキ、か」
その名前を、確かめるように呟く。
由美がキッチンから顔を出した。
「あなた?」
「……何でもない」
ハリーは穏やかに答えた。
そして、いつもの優しい父親の顔で微笑んだ。
「今度の試合、楽しみだな」
由美も笑顔になった。
「ええ。楽しみね!」
こうして、パーカー家には新しい週末の予定が生まれた。
それが一人の日本人少年にとって、どれほど予想外の出来事になるのか。
このときは、まだ誰も知らなかった。
◇
その頃。
高山時春は、学生寮へ向かう夜道を歩いていた。
エマを無事に家まで送り届けたことで、彼はすっかり満足していた。スマートフォンにはラリーからのメッセージが届いており、部屋へ戻ったら少しだけゲームをしようという誘いが書かれている。
時春は嬉しそうに返信した。
『もうすぐ帰る!』
そして、スマートフォンをポケットへしまった。
頭の中には、まだウェストゲートの試合映像が残っていた。
キーンの長いアウトレットパス。
ピアースの正確なスリーポイント。
オコナーの力強いリバウンド。
ホロウェイの落ち着いたゲームメーク。
そして、DJの豪快なダンク。
どれも恐ろしいほど完成度の高いプレーだった。相手は自分たちよりも経験があり、身体能力にも恵まれ、チームとしての連携も洗練されている。先日のノースゲート戦以上に、厳しい試合になるかもしれなかった。
しかし、時春は不思議と不安だけを感じているわけではなかった。
むしろ、楽しみだった。
ずっと動画の向こう側にいた選手と、ついに同じコートに立てる。
自分と同じ学年でありながら、全米から注目を集めている少年。NBAのスーパースターを父に持ち、幼い頃から大勢の人々に期待されながら育ってきたDJ。
そんな相手に、自分はどこまで通用するのだろう。
時春は夜空を見上げた。
そして、少しだけ笑った。
「……絶対勝つぞ」
小さな声だった。
しかし、その言葉には確かな決意が込められていた。
今日、エマにも約束した。
必ず勝つ、と。
ならば、その約束を守らなければならない。
時春は歩く速度を少し上げた。
彼の視線は、すでに次の試合へ向けられていた。
CIFサザンセクション・プレーオフ二回戦。
クレセントベイ・アカデミー・ブレイカーズ対ウェストゲート・プレップ・ウルブズ。
相手は、昨年の州大会を経験した名門校。しかも、今年は全米屈指の新入生、ダリウス・ジェームズ・ジュニアを擁している。
簡単な試合になるはずがなかった。
それでも、ブレイカーズはもう一度勝とうとしていた。
マイルズは去年の雪辱を果たし、ノアは新たな強敵との対決に胸を躍らせ、マイクは次の試合でも自分のシュートを沈めるために準備を続けるだろう。トムとイーサンはすでに相手の特徴を調べ始めている。そして、時春もまた、その仲間たちとともに、次の戦いへ向かおうとしていた。
もっとも。
今の時春は、一つだけ大切なことを知らなかった。
次の試合には、エマの両親が観戦に来ること。
そのうちの一人が、娘を何よりも大切にする、少々――いや、かなり厄介な父親であること。
そして、その父親が今、会ったこともない自分について、妙な警戒心を抱き始めていることを。
そんなことは、知る由もなかったのである。
時春はただ、夜のキャンパスを楽しそうに歩きながら、次の試合でDJと対戦する瞬間を想像していた。
彼の前には、確かに大きな壁が立ちはだかっていた。
ウェストゲート・プレップ・ウルブズ。
だが、その壁とはまったく別のところで、もう一つの恐るべき出会いが、静かに準備を整え始めていた。
高山時春、十六歳。
南カリフォルニアでの高校生活は、まだまだ波乱に満ちているらしかった。