二月二十二日、月曜日。
ロサンゼルスの夕暮れは、いつもより少しばかり騒がしく感じられた。
太平洋から吹き込む風には、まだ冬の名残があった。高速道路を行き交う車の群れは夕方の渋滞に巻き込まれ、赤いテールランプが幾重にも連なっている。その向こうでは、沈みかけた太陽が街の建物を橙色に染め、遠くの丘陵地帯が薄紫色の輪郭となって空に浮かび上がっていた。高山時春は、クレセントベイ・アカデミーのスクールバスの窓からその景色を眺めながら、何度も膝の上で指を組み直していた。
CIFサザンセクション・プレーオフ二回戦。
対戦相手は、ウェストゲート・プレップ・ウルブズ。
ロサンゼルスに校舎を構える名門私立高校であり、昨年は州大会でも勝ち進んだ強豪だった。今シーズンは年末のパシフィック・ホリデー・クラシックを制し、地区優勝候補の一角として高い評価を受けている。そして、そのチームには、全米の高校バスケットボール界で最も注目される新入生の一人がいた。
ダリウス・ジェームズ・ジュニア。
通称、DJ。
NBAのスーパースター、キングDの息子である。
金曜日の夜、ダニーズ・ダイナーで相手の名前を知ってから、時春は何度もウェストゲートの試合映像を見返していた。土曜日も日曜日も、空いた時間があればスマートフォンを開き、DJのドライブやパス、キーンのアウトレットパスを確認した。ヘイズコーチが用意したスカウティング映像も繰り返し見たし、練習ではトムやマイルズを相手に、実戦で使えそうなプレーを試してみたりもした。それでも、今日を迎えた今、時春の胸にあるのは、準備を終えたという安心感よりも、間もなく本物と対面するのだという落ち着かない期待だった。
「……おい、リトルマン」
隣の席から、ノア・レイノルズが声をかけてきた。
「さっきから何回窓の外見てんだよ」
「えっ?」
「もうすぐ着くぞ。そんなに緊張してんのか?」
時春は少しだけ考え、それから正直に頷いた。
「……うん。ちょっと」
ノアは笑った。
「ハハッ! お前でも緊張するんだな!」
「いや、するって! 相手DJだよ!?」
「だから面白えんじゃねえか!」
ノアは座席の背もたれに腕を回し、楽しそうに口元を緩めた。その顔には、緊張よりもむしろ、これから始まる勝負への興奮が色濃く表れていた。彼は金曜日に対戦相手が決まって以来、何度もDJの名前を口にしていたが、そのたびに浮かべる笑みは、今日も少しも変わっていなかった。
「よく聞けよ、トキ。キングDの息子だろうが、全米トップクラスの一年生だろうが、コートに立っちまえば関係ねえんだよ。相手がダンクしてくるなら、こっちもダンクしてやりゃいいんだ」
「……ノアは本当にそういうところ変わらないね」
「当たり前だろ!」
ノアは得意げに笑った。
その少し前の座席では、マイルズがイーサンと何やら話し込んでいた。今夜のウェストゲートは、ポイントガードのヴィクター・ホロウェイも身長百九十センチ近い大型選手である。そのため、ヘイズは先発ポイントガードに、フィジカルの強さと安定感を持つイーサンを選んでいた。時春もその判断に不満はなかった。先日のノースゲート戦では自分が先発していたが、今夜は相手のガード陣が大きく、しかも経験豊富なのだから、最初にイーサンが試合を落ち着かせる意味は十分にある。
とはいえ、ベンチにいるからといって気楽に構えていられるわけではない。ウェストゲートの実力を考えれば、試合のどこかで必ず自分の力が必要になる。そのときには、相手の守備を揺さぶり、仲間たちへ良いボールを届けなければならない。
時春は一度、深く息を吸った。
やがて、バスがゆっくりと速度を落とし始めた。
窓の向こうに、ウェストゲート・プレップの校舎が見えてきた。
そして、その瞬間。
時春は、何かがおかしいことに気づいた。
◇
「……え?」
彼は思わず窓へ顔を近づけた。
ウェストゲートの体育館へ続く道路には、大勢の人々が集まっていた。校門の前には入場を待つ観客が長い列を作り、その列は敷地内の歩道を越えて、道路沿いの植え込みの近くまで続いている。紺色と銀色の応援シャツを着た生徒たちが互いに写真を撮り合い、子供連れの家族がプログラムを手に話し込んでいた。校舎の壁には巨大なウルブズのエンブレムが掲げられ、狼の横顔を描いた旗が、風に合わせて何枚も揺れている。
だが、時春を驚かせたのは、観客の多さだけではなかった。
入口の近くには、何台もの撮影機材が並んでいたのである。
肩に大型のカメラを担いだ男性。マイクを手にスタッフと打ち合わせをしている女性。三脚の高さを調整する撮影クルーに、首から取材証を下げた記者たち。さらに駐車場の一角には、小型の中継車らしい車両まで停まっており、その周辺を何人もの大人が忙しそうに行き来していた。
時春は目を丸くした。
「……何これ」
まるで、プロのバスケットボールの試合が始まる前のようだった。
もちろん、CBAで行われた一回戦にも、大勢の観客が訪れていた。学校のスポーツ担当者が写真を撮り、地元の取材者が試合結果を記録していた。しかし、今夜の光景は明らかに規模が違っていた。観客の数だけでなく、撮影機材の種類も、取材に来ている人間の数も、そして何より、試合が始まる前から漂っている熱気そのものが違う。
「……すっご」
時春は小さく呟いた。
反対側の窓から外を見ていたトムが、静かに頷いた。
「ウェストゲートの試合、最近はずっとこんな感じらしいよ」
「……毎回?」
「うん。大きな大会になると、もっと増えることもあるみたい」
時春はもう一度、人々の集まりへ目を向けた。
そこでは、一人の少年が大きな紙製のボードを掲げていた。写真には紺色のユニフォームを着た選手が写っており、その下には太い文字で名前が印刷されている。
『DJ JAMES JR.』
時春は、思わず笑ってしまった。
「……ああ、そっか」
やっと、この騒ぎの理由がわかった気がした。
たぶん、ここにいるカメラの多くは、自分たちを撮りに来たわけではない。
ウェストゲート・プレップ・ウルブズ。
そして、何より。
キングDの息子、DJ。
彼らを見に来たのだ。
時春は窓の向こうに広がる光景を、しばらく黙って眺めていた。これだけの注目を浴びながら試合をするのは、いったいどんな気分なのだろう。自分であれば、きっと緊張してしまう。観客席に知り合いが何人もいるだけで少し落ち着かなくなるというのに、知らない大人たちがカメラを向け、全国の人々がプレーを見ているかもしれない状況など、想像したこともなかった。
バスが体育館脇の駐車スペースへ滑り込む。
ヘイズコーチが立ち上がった。
「着いたぞ。荷物を確認しろ。寄り道せず、全員で入るんだ」
「Yes, Coach!」
選手たちは声を揃え、順番にバスを降り始めた。
外へ出ると、観客たちの声がさらに大きく聞こえた。遠くで流れている音楽に、何台もの車が通り過ぎる音が重なる。その合間には、試合について話す人々の声が聞こえてきた。
「DJは今日も三十点いくかな」
「相手のブレイカーズって、先週すごい逆転勝ちしたらしいぞ」
「でも、ウルブズ相手にそれができるかね」
時春は、その会話に思わず耳を傾けた。
自分たちの試合も、多少は知られているらしい。水曜日の最後のダンクが動画で広まったことを考えれば、不思議ではなかった。しかし、人々の関心の中心がウェストゲートにあることは、誰の目にも明らかだった。
そのとき、少し離れた場所から大きな拍手が聞こえた。
時春はそちらへ顔を向けた。
そして、足を止めた。
◇
体育館の入口に近い通路の一角で、数人の記者が一人の選手を囲んでいた。
黒い短髪。
引き締まった肩と長い腕。
紺色のウォームアップシャツの上からでもわかるほど均整の取れた体格に、十五歳とは思えない落ち着いた立ち姿。その少年は、差し出されたマイクへゆっくりと顔を向け、記者の質問に答えていた。
DJだった。
ダリウス・ジェームズ・ジュニア。
時春は、思わず息を呑んだ。
「……本物だ」
声は、ほとんど無意識に漏れていた。
クリスマスの夜に初めて動画を見て以来、何度も画面の中で見つめてきた少年が、今はほんの数十メートル先に立っている。身長は百九十センチ近くあり、時春より頭一つ以上大きかった。映像ではわかりにくかった肩の厚みや、腕の長さ、足首の細さまでが、はっきりと見て取れる。
記者の一人が、マイクを近づけた。
「DJ、プレーオフ二回戦だけど、今夜はどんな試合を期待してる?」
DJは少し考え、それから落ち着いた声で答えた。
「いつも通りです。相手は一回戦で強いチームに勝ってきているし、簡単な試合にはならないと思います。でも、僕らは自分たちのバスケットボールをするだけです」
別の記者が質問を続ける。
「お父さんも高校時代から大きな注目を集めていたけど、こうしてたくさんのカメラに囲まれることについては?」
DJは小さく笑った。
「父は父です。僕は僕なので。もちろん尊敬してますけど、今夜プレーするのは僕らウルブズですから」
その答えに、周囲の記者たちから小さな笑い声が上がった。
時春はしばらく、言葉もなくその光景を眺めていた。
落ち着いている。
驚くほど。
高校一年生でありながら、DJは記者たちを前にして、少しも慌てていないように見えた。質問されれば相手の目を見て答え、話し終えると軽く頷く。笑顔を作ることも、必要以上に自分を大きく見せることもない。まるで、こうした状況がずっと以前から日常の一部だったかのようだった。
「……すごいね、あの人」
時春が呟くと、隣にいたイーサンが頷いた。
「ああ。あの年で、よくあれだけ落ち着いてられるもんだ」
「俺だったら絶対、何言ってるかわかんなくなると思う」
「お前なら、質問と関係ないバスケの話を始めそうだな」
「……あ、それはあるかも」
二人は小さく笑った。
しかし、時春の視線はすぐにDJへ戻った。
彼はインタビューを終えると、記者たちに軽く手を上げ、体育館の入口へ向かって歩き始めた。その横には学校のスタッフが付き添い、何人かの観客が彼の名前を呼んでいる。
「DJ! GOOD LUCK!」
「LET’S GO, WOLVES!」
DJは軽く片手を上げて応じた。
そして、入口の手前で一度だけ顔を上げた。
その視線が、遠くにいたブレイカーズの選手たちへ向けられる。
ほんの一瞬だった。
しかし、時春には、確かに目が合ったような気がした。
DJの表情は変わらなかった。
彼は軽く顎を引くと、そのまま体育館の中へ姿を消した。
時春はしばらく、その背中を見送っていた。
「……トキ」
マイルズの声が聞こえた。
振り返ると、キャプテンが笑っていた。
「いつまで見てんだよ。俺たちも行くぞ」
「あっ、うん!」
時春は慌てて荷物を持ち直し、仲間たちの後を追った。
憧れているのは、あくまでDJの父親であるキングDだ。DJは自分と同じ年齢で、同じ大会に出場している選手であり、今日の相手でもある。
その違いを、時春は何度も自分に言い聞かせていた。
今夜、自分は観客ではない。
彼と同じコートに立つために、ここまで来たのだから。
◇
体育館の扉をくぐった瞬間、時春の耳へ、凄まじい音の塊が飛び込んできた。
歓声。
音楽。
ボールの弾む音。
そして、大勢の人間が一度に話すことで生まれる、絶え間ないざわめき。
ウェストゲート・プレップの体育館は、一般的な高校の施設よりもひと回り大きかった。コートを囲む観客席は二階部分まで設けられ、すでに多くの席が埋まっている。壁にはウルブズの歴代の優勝旗が並び、その下には昨年の州大会で撮影されたと思われる大きな写真が飾られていた。スコアボードの上部には狼のエンブレムが浮かび上がり、紺色と銀色の照明が、コートの周囲を飾っている。
そして、コートサイド。
そこにも、カメラが並んでいた。
大型の望遠レンズを構えたカメラマンたちが、ベースライン沿いの指定された場所へ座っている。大学の関係者らしい大人たちが、ノートやタブレットを持って観客席の前方に陣取っており、学校のスタッフが彼らへ資料を配っていた。時春には誰が何の目的で来ているのか、詳しいことまではわからなかったが、今夜の試合が、普段の高校バスケットボールとは少し違う注目を集めていることだけは理解できた。
「……いや、すげえな」
今度はノアまで、感心したように呟いた。
ただし、彼の視線は観客席には向けられていなかった。
反対側のコート。
そこでは、ウルブズの選手たちがウォーミングアップを始めていた。
ヴィクター・ホロウェイが落ち着いたドリブルでボールを運び、グレアム・ピアースはコーナーからスリーポイントを放っている。ブライス・オコナーはゴール下でリバウンドを拾い、ウェスリー・キーンはフリースローライン付近から柔らかなジャンプシュートを繰り返していた。先ほどインタビューを受けていたDJも、いつの間にかウォームアップシャツを脱ぎ、仲間たちとパスを交換している。
五人の動きには、目立った無駄がなかった。
ピアースがシュートを放てば、キーンがリバウンドを取り、すぐに次の選手へパスを送る。オコナーは軽くスクリーンの角度を確認し、ホロウェイがその横を抜ける。DJはときおりドリブルからリングへ近づき、簡単なレイアップを決めたあと、再び外側へ戻っていった。
まるで、練習の一つひとつに決まった意味があるかのようだった。
時春はその光景を見つめながら、先日のトムの説明を思い出した。
ウェストゲートは、DJだけのチームではない。
むしろ、もともと完成度の高かったチームへ、DJという新しい武器が加わったのだ。だからこそ、彼一人に集中してしまえば、周囲の選手たちに簡単に得点を奪われてしまう。
時春は、少しだけ拳を握った。
「……よし」
そして、ブレイカーズの練習へ意識を戻した。
ヘイズコーチの指示に従い、選手たちはそれぞれウォーミングアップを始めていた。イーサンと時春がボールハンドリングを確認し、マイクはスリーポイントラインの外側から一定のリズムでシュートを放っている。トムはリバウンドを拾い、マイルズはゴール下で軽く体をぶつけながらシュートの感覚を確かめていた。
その中で、一人だけ少し様子の違う選手がいた。
ノアだった。
彼はシュート練習の合間にも、何度も反対側のコートへ視線を向けていた。DJがボールを受け取れば、その動きを追う。オコナーがダンクを決めれば、少しだけ眉を上げる。ピアースのスリーポイントが連続で決まると、何やら小さく呟きながら、また自分のボールを床へ弾ませる。
それを見ていたマイルズが、呆れたように声をかけた。
「おい、ノア」
「ん?」
「さっきから、そんなに睨むなよ。まだ試合始まってねえぞ」
ノアは一度、キャプテンへ顔を向けた。
「……睨んでねえよ」
「いや、思いっきり睨んでんだろ」
「見てるだけだって」
「だから、その顔が怖えんだよ」
マイルズは笑いながら、ボールを拾い上げた。
しかし、ノアは返事をしなかった。
その視線は、再びウルブズのコートへ向けられていた。
そして、突然。
「……よし」
小さく呟いた。
次の瞬間、ノアはボールを抱えて走り出した。
「……え?」
時春が顔を上げる。
ノアは、自分たちの練習していたリングへ向かわなかった。
反対側だった。
ウルブズの選手たちがウォーミングアップをしている、向こう側のリングへ向かって、一直線に走り始めたのである。
「おい?」
マイルズが眉をひそめた。
「ノア?」
時春も思わず呼びかけた。
しかし、ノアは止まらなかった。
彼はセンターラインを越え、勢いよくドリブルを続けていった。
「……おい、待て!」
マイルズが大声を上げる。
「ノア!!」
そのときには、もう遅かった。
◇
ノアは左ウイング付近で、突然ボールを両手で持ち上げた。
ウルブズの選手たちが、何事かと振り返る。
DJも、ちょうどスリーポイントラインの外側でボールを受け取ったところだった。
ノアは、にやりと笑った。
「HEY, WOLVES!!」
その声に、何人もの視線が集まる。
そして、彼はボールを放り投げた。
向かった先は、バックボード。
ボールは白い四角形の少し上へ勢いよく当たり、大きく跳ね返った。
その直後、ノアが床を蹴った。
凄まじい跳躍だった。
百九十センチを超える体が、助走の勢いをそのまま上昇する力へ変えていく。長い腕が伸び、空中へ跳ね返ってきたボールを両手でつかみ取る。その動きは驚くほど滑らかで、まるで最初からボールの軌道を知っていたかのようだった。
セルフアリウープ。
しかも、バックボードを利用したものだった。
ノアは両手でボールを握り直した。
そして、ほとんど減速することなく。
リングへ叩き込んだ。
ガシャアアアアンッ!!
体育館に、凄まじい音が響き渡った。
「OOOOOOOOOHHHHH!!」
観客席から、一斉にどよめきが上がった。
紺色と銀色のユニフォームを着たウルブズの選手たちが驚いたように顔を上げ、近くでシュート練習をしていたピアースは思わず足を止めた。キーンもボールを抱えたままノアを見つめ、オコナーは何が起きたのかわからないという表情を浮かべていた。DJもまた、少しだけ目を見開いてリングの方へ顔を向けた。
そして、ブレイカーズ側。
全員が、ほとんど固まっていた。
「…………」
時春は、口を開けたまま立ち尽くしていた。
「……え?」
マイクが、静かに呟いた。
「……あいつ、何やってんだ」
トムは両手でボールを抱えたまま、何度か瞬きをした。
「……えっと」
イーサンが額へ手を当てる。
「……マジかよ」
そして、マイルズ。
彼はノアの姿を見つめながら、ゆっくりと眉間へ皺を寄せた。
「……あのバカ」
しかし、当の本人は何食わぬ顔をしていた。
ノアはリングへ両手でぶら下がったまま、ほんの一瞬だけ体を揺らした。自分のダンクがどれほど派手だったのかを、わざわざ観客へ見せつけるかのようだった。やがて床へ降りると、落ちてきたボールを片手で拾い上げ、周囲を見渡した。
そして、DJへ顔を向けた。
二人の視線が交差する。
ノアは、にやりと笑った。
そして、拾い上げたボールをDJへ向かって軽く放った。
DJは少し意外そうな顔をしたが、伸ばした右手で難なく受け止めた。
「……挨拶がわりだ」
ノアはそう言い、顎を少し持ち上げた。
数秒間、沈黙が流れた。
次の瞬間。
ゴツンッ!!
「いってえええ!!」
ノアが頭を押さえた。
いつの間にか追いついてきたマイルズが、彼の後頭部へ大きな拳骨を落としていた。
「お前は何やってんだあああ!!」
「痛っ! ちょ、マイルズ!!」
「何が挨拶がわりだ! 相手のコートで勝手にダンクすんな!!」
「いや、でもよ! 盛り上がっただろ!?」
「盛り上げりゃ何でもいいわけじゃねえだろ!!」
マイルズは本気で怒っているようだった。
それも当然である。
試合開始前、相手チームのウォーミングアップへ突然乱入し、バックボードを使ったセルフアリウープを叩き込む。しかも、相手のスター選手へボールを投げ返し、挑発的な言葉まで口にしたのだ。審判や大会スタッフの目にどう映るかを考えれば、キャプテンとしては到底見過ごせる行動ではなかった。
その証拠に、近くにいた大会スタッフが慌てて駆け寄り、ノアへ何やら注意を始めていた。ヘイズコーチも反対側から歩いてきており、その表情を見ただけで、時春は背筋が冷たくなるのを感じた。
「……あ、終わった」
時春が小さく呟く。
イーサンも静かに頷いた。
「……ああ。終わったな」
マイクはその会話を聞きながら、ノアの背後へ回り込んだ。
「ほら、帰るぞ」
「おい、マイク! ちょっと待てって!」
「いいから」
マイクはノアのウォームアップシャツの襟元をつかみ、そのまま自分たちのコートへ引きずり始めた。普段は物静かな彼だが、こういうときの行動には妙な容赦がない。
「BRO! 引っ張んなって!」
「黙って歩けばいいだろ」
「首が! 首が苦しいって!」
「だったら早く歩けよ」
その光景を見て、時春はとうとう吹き出してしまった。
マイルズは額へ手を当て、深いため息をついた。
「……まったく、あいつは……」
しかし、その口元には、わずかに笑みも浮かんでいた。
ノアが相手へ喧嘩を売るようなことをしたのは間違いない。それでも、彼の行動によって、試合前に張り詰めていたブレイカーズの空気が、ほんの少しだけ緩んだのも事実だった。時春もそれまで感じていた緊張が少し薄れ、気づけば自然に笑えるようになっていた。
そして、反対側のコート。
DJは、手元のボールを一度だけ床へ弾ませた。
彼の隣へ、キーンが歩いてくる。
「……何だったんだ、今の」
キャプテンが呆れたように呟いた。
DJはしばらく、ノアが連れ戻されていく様子を眺めていた。
そして、口元をわずかに持ち上げた。
「……面白い奴らだ」
彼はそう言うと、何事もなかったかのようにシュート練習へ戻った。
その横顔に、怒りや苛立ちの色は見られなかった。
むしろ、少し楽しそうだった。
◇
観客席では、別の意味で騒ぎが起きていた。
ブレイカーズの応援団が陣取る一角には、エマ、ゾーイ、ジェイク、マディソン、ラリーたちが並んで座っていた。学校から駆けつけた生徒たちも少なくなく、青と白の応援シャツが、紺色と銀色の観客席の中で小さな島のように目立っている。ジェイクはすでに何度も立ち上がっており、ゾーイから座るように注意されていた。
「BROOOOO!! 今の見たか!?」
ジェイクが声を上げる。
「ノア、マジで何やってんだよ!?」
「それはこっちが聞きたいわよ!」
ゾーイはカメラを下ろし、呆れたように額を押さえた。
「試合前に相手のリングでダンクするとか、普通やる!?」
ラリーがメガネを押し上げる。
「……ノアなら、やりそうだけど」
「否定できないのが嫌だわ……」
エマは思わず笑ってしまった。
「でも、すごかったね! あんな高いところまで跳べるんだ!」
「そうだけど!」
ゾーイは苦笑した。
その少し後ろの席に、一組の夫婦が座っていた。
ハリー・パーカーと、由美・パーカーである。
エマの両親は、先週の金曜日に交わした約束どおり、娘が応援しているバスケットボール部の試合を見に来ていた。由美は楽しそうにプログラムを眺め、ハリーは腕を組みながらコートを見下ろしている。
もっとも、彼の関心は試合そのものだけに向けられているわけではなかった。
今日、この体育館には、エマが仲良くしているという日本人の少年がいる。
高山時春。
通称、トキ。
ハリーがその名前を知ってから、まだ三日しか経っていなかった。しかし、その三日間、彼は何度か娘へさりげなく質問をしており、そのたびに話を逸らされていた。今朝も出発前、エマに『トキ君は何番なんだ?』と尋ねたところ、娘は『試合が始まったらわかるよ』と笑って答えただけだった。
ハリーとしては、納得のいかない返事だった。
しかし、娘の前で必要以上に詮索すれば、また金曜日のように怒られるかもしれない。それだけは避けたかったため、今日はひとまず穏やかな父親として試合を観戦するつもりだったのである。
その矢先。
目の前で、見知らぬ高校生が相手チームの練習へ乱入し、セルフアリウープを叩き込んだ。
ハリーは、しばらく言葉を失っていた。
「……由美」
「なあに?」
「あの、今ダンクした子は……」
「ノア君じゃないかしら。エマの友達よ」
「……友達?」
ハリーは眉をひそめた。
ちょうどそのとき、コートではマイルズがノアの頭へ拳骨を落とし、マイクが彼を引きずり戻していた。
その光景を見つめながら、ハリーは低い声で呟いた。
「……エマの彼氏の友達は、大丈夫なのか……?」
由美は一瞬、目を丸くした。
それから、楽しそうに笑った。
「あら、まだ彼氏じゃないわよ」
ハリーの顔が固まった。
「…………」
そして、ゆっくりと妻へ向き直る。
「……まだ?」
「ええ」
「……まだ!?」
その声が思った以上に大きかったため、前の席に座っていたラリーが振り返った。
ハリーは慌てて咳払いをした。
「……いや、何でもない」
由美は口元へ手を当て、くすくすと笑っている。
「あなた、そんなに驚かなくても」
「驚くに決まってるだろう!」
「ふふっ。トキ君、いい子なんですってよ」
「……その話は、もう聞いた」
ハリーは再びコートへ視線を向けた。
自分の娘は、どうやら今日もあの日本人少年を応援しているらしい。しかも、妻の言い方には、何とも引っかかるものがあった。
まだ彼氏ではない。
では、これからそうなる可能性はあるということなのか。
その問題を深く考え始めたハリーだったが、ちょうどそこでエマが振り返った。
「パパ! ママ! そろそろ試合始まるよ!」
彼は瞬時に表情を変えた。
「おお、そうか! 楽しみだな、エマ!」
さっきまでの険しい顔が嘘のような、優しい父親の笑顔だった。
エマも嬉しそうに頷いた。
「うん!」
娘が再び前を向くと、ハリーはそっとプログラムを開いた。
そして、ブレイカーズの選手名簿を探し始めた。
◇
午後七時。
ウェストゲート・プレップの体育館では、試合開始を告げるアナウンスが響き渡っていた。
ウォーミングアップを終えた選手たちがベンチへ戻り、審判団がセンターサークル付近で最後の確認を行っている。観客席の照明が少し落とされ、コート中央の光がいっそう鮮やかになった。紺色と銀色の応援団は、手拍子を揃えながらホームチームの選手紹介を待っている。
ブレイカーズのベンチでは、ヘイズコーチが最後の指示を出していた。
「いいか。最初から相手のペースに合わせるな。ウェストゲートはトランジションが速い。シュートを打ったら終わりじゃない。リングに入った直後も、すぐに守備へ戻れ」
選手たちが頷く。
「特にキーンのパスだ。あいつはリバウンドを取った瞬間に前を見る。DJが走り始めたら、何が何でも先に戻れ。いいな?」
「Yes, Coach!」
ヘイズは一度だけノアへ視線を向けた。
「……それから、ノア」
「……はい」
「もう一度、相手のウォーミングアップへ乱入したら、そのままベンチに座らせるぞ」
周囲から小さな笑い声が漏れた。
ノアは珍しく、素直に頷いた。
「……Yes, Coach」
マイルズが隣で鼻を鳴らす。
「まったく、お前は……」
「もういいだろ、その話!」
ノアが不満そうに言うと、再び笑い声が広がった。
しかし、ヘイズはすぐに表情を引き締めた。
「先発は予定どおりだ。イーサン、マイク、ノア、マイルズ、トム。トキハルはベンチから準備しておけ。試合の流れをよく見ておくんだ」
「Yes, Coach!」
時春は力強く頷いた。
イーサンは彼の肩を軽く叩いた。
「頼むぞ、トキ。必要になったらすぐ呼ぶからな」
「うん! 頑張って!」
二人は拳を合わせた。
そのとき、会場のアナウンスが一段と大きくなった。
ウルブズの先発メンバーが紹介され始めたのである。
ポイントガード、ヴィクター・ホロウェイ。背の高いガードは落ち着いた足取りでコートへ進み、仲間と拳を合わせた。続いてグレアム・ピアース、ブライス・オコナー、そしてキャプテンのウェスリー・キーンが紹介される。四人がセンターサークル付近へ集まると、観客席から大きな拍手が上がった。
しかし、最後の一人が紹介された瞬間、それまでの歓声は比較にならないほど大きくなった。
『AND NOW……DARIUS……JAMES……JUNIOOOOR!!』
「DJ!! DJ!! DJ!!」
観客席が、一斉に立ち上がった。
DJはベンチの前で軽く跳ねると、コートへ向かってゆっくりと走り出した。仲間たちと一人ずつ拳を合わせ、最後にキーンの肩を軽く叩く。その姿には、先ほどインタビューを受けていたときと変わらない落ち着きがあった。
時春はベンチから、その光景を見つめていた。
信じられないほどの声援だった。
自分たちのホームであるCBAの体育館でも、マイルズやノアが紹介されれば大きな歓声が上がる。しかし、DJに向けられている期待は、そのさらに上を行くものだった。彼がただコートへ足を踏み入れるだけで、これほど多くの人間が立ち上がり、名前を叫ぶのだ。
時春は小さく息を吐いた。
DJがすごい選手であることは、もう十分にわかっている。
それでも、だからこそ。
自分たちが勝てば、きっと面白い。
そう思った。
コート中央では、トムとキーンが向かい合っていた。身長はほとんど変わらないが、キーンの方がやや体に厚みがあり、トムはその分だけ腕が長い。二人は審判の指示に従ってセンターサークルへ入り、軽く膝を曲げた。
イーサンは少し離れた場所で、ホロウェイの動きを確認していた。
マイクはDJと向かい合っている。
ノアの前にはピアースが立ち、マイルズはオコナーの肩越しにゴール下を見ていた。
両チームの先発五人が、静かに試合開始の瞬間を待っている。
審判がボールを持ち上げた。
トムが膝を深く曲げる。
キーンも同時に腰を落とした。
そして、ボールが高く放り上げられた。
両者が跳び上がる。
長い腕が、ほとんど同時に伸びた。
しかし、先に触れたのはトムだった。
指先がボールを後方へ弾き、イーサンの方へ送る。
「ETHAN!」
マイルズが叫んだ。
イーサンはすぐに反応し、ボールを受け取った。
ブレイカーズの攻撃から、試合が始まった。
◇
イーサン・コールは、落ち着いていた。
彼はボールを右手で床へ弾ませ、ゆっくりとセンターラインを越えた。対面するホロウェイは腰を低く落とし、両腕を広げながら彼の動きを見つめている。ホロウェイは百九十センチ近い長身を持ちながら、足の運びが非常に滑らかだった。相手との距離を詰めすぎず、かといって簡単なシュートも許さない。その守備姿勢には、昨年から名門校のバックコートを支えてきた経験が表れていた。
イーサンは無理に仕掛けなかった。
最初の攻撃で重要なのは、相手の守備の強さを確かめることだった。どれほど足が速いのか。どれほどスクリーンへ反応するのか。味方の動きに合わせて、どの選手がカバーへ入ってくるのか。そうした小さな情報を積み重ねていけば、試合が進んだときに相手の守備を崩す手がかりになる。
イーサンは左手で合図を送った。
「MILES!」
マイルズが動く。
右側のハイポストからトップ付近へ上がり、イーサンのためにスクリーンをセットした。オコナーもそれを追って前へ出てくる。イーサンは一度左へ視線を向けてから、鋭く右へドリブルし、マイルズの肩の横を抜けた。
ピック・アンド・ロール。
最も基本的でありながら、守備側に多くの判断を要求する攻撃だった。ボールを持つ選手がスクリーンを利用して進み、スクリーンをかけた選手がリングへ向かって動き直す。守備がボールへ集中すれば、リングへ走り込んだ選手が空く。逆にその選手を警戒すれば、ボールを持ったガードに攻撃の余地が生まれる。
しかし、ウルブズの守備は簡単には崩れなかった。
ホロウェイはスクリーンを受ける直前、体を細くするように横へ滑らせ、マイルズの背後を素早く抜けた。同時にオコナーが一歩前へ出て、イーサンの進路を塞ぐ。イーサンが右へ切り返すと、オコナーはそれ以上深追いせず、リングへ走り込もうとするマイルズへ戻った。
ほんの数秒の出来事だった。
それなのに、二人の守備位置はほとんど乱れていなかった。
「……ふん」
イーサンは少しだけ眉をひそめた。
ホロウェイがすぐに追いついてくる。
オコナーもマイルズの体へ密着し、ロールからのパスを警戒している。簡単にボールを中へ入れられる状況ではなかった。イーサンは無理に突破しようとせず、一度ドリブルを外側へ戻した。
右ウイングにいたマイクが、すぐに反応した。
イーサンへ近づき、ボールを受け取れる角度へ走る。
二人が交差した。
イーサンはドリブルを続けたまま、マイクの進行方向へボールを差し出す。
ハンドオフ。
※ハンドオフ:ボール保持者に近づき手渡しでボールを受け取ること
マイクはそのボールを受け取り、トップへ向かって動き直した。
その瞬間、ウルブズの守備が変わった。
マイクをマークしていたDJが、イーサンの移動方向へ素早く回り込んだのである。ホロウェイは一瞬だけ顔を上げると、マイクへ向かって足を滑らせた。二人は声をかけ合うことさえほとんどなく、自然な動きでマークを交換していた。
スイッチディフェンス。
マイクにはホロウェイ。
そして、イーサンにはDJ。
時春はベンチからその動きを見つめていた。
……速い。
守備の切り替えが、恐ろしく速い。
先日のノースゲート戦でも、相手の守備が簡単に崩れない場面は何度もあった。しかし、今のウェストゲートの連携には、また違った印象があった。相手の動きへ反応するのではなく、最初からその動きが起こることを理解しているような、そんな滑らかさがあった。
マイクはトップでボールを持ち直した。
正面にはホロウェイがいる。
彼は一度だけ右へドリブルし、相手の位置を確認した。それから、左側へ視線を移した。
そこには、イーサンがいた。
ハンドオフのあと、左ウイング付近へ開いたイーサンは、DJを背後に置くような角度でボールを要求していた。マイクから見れば、ごく普通のパスコースだった。トップからウイングへボールを回し、もう一度攻撃を組み立て直す。それだけのことだった。
マイクは左手でボールを支え、イーサンへ向けてパスを出そうとした。
その瞬間。
DJが動いた。
◇
時春には、最初、何が起きたのかわからなかった。
DJは、イーサンの正面で必死にパスを防ごうとしていたわけではない。むしろ、それまで少しだけ距離を取っているように見えた。イーサンがボールを受け取りやすい位置へ動いても、慌てて体を寄せることはしなかったのである。
だが、それは油断ではなかった。
DJは待っていたのだ。
マイクが、イーサンへパスを出す瞬間を。
パスを出す選手は、ほんのわずかな時間、ボールの行き先へ意識を集中させる。その瞬間、ディフェンダーがどこにいるかを確認する余裕が、少しだけ失われることがある。もちろん、マイクほど経験のあるシューターが、その危険を知らないはずはない。しかし、DJの動き出しは、それ以上に速かった。
マイクの指先からボールが離れる。
同時に、DJが右足を踏み込んだ。
長い腕が、パスコースへ伸びる。
「……っ!」
イーサンが反応した。
しかし、間に合わない。
DJの指先が、飛んできたボールの横側へ触れた。
パシッ!!
乾いた音が響いた。
ボールは本来の軌道から外れ、センターラインの方へ大きく転がっていった。
「……あっ!」
時春が思わず立ち上がる。
イーサンもすぐに振り返った。
マイクがボールを追いかける。
しかし、その二人よりも早く動き始めていた選手がいた。
DJだった。
彼はボールへ手を伸ばした直後、すでに体を反転させていた。長い脚が床を力強く蹴り、あっという間にイーサンの横を抜けていく。ボールはセンターライン付近で一度大きく弾んだが、DJはほとんど速度を落とさずに追いつき、右手で低く拾い上げた。
そして、そのままドリブルへ移る。
速攻。
ウルブズの最初の得点機会だった。
「GET BACK!!(戻れ!!)」
ヘイズの声が響く。
イーサンが全力で追いかけた。
マイクもすぐに走り出す。
しかし、DJは速かった。
ただ足が速いだけではなかった。ドリブルをつく位置が前方へ流れすぎず、体の動きと完全に合っている。大きな歩幅で加速しながらも、ボールを持ち替えるタイミングに無駄がない。追いかけるイーサンは必死に腕を振り、マイクは斜めの進路から彼の前へ回り込もうとしていたが、DJとの距離は縮まらなかった。
むしろ、少しずつ広がっていく。
時春は、思わず息を呑んだ。
……速すぎる。
DJはフリースローライン付近へ差しかかると、最後のドリブルを強く床へ叩きつけた。ボールが右手へ戻ってくる。イーサンは背後から腕を伸ばしたが、DJはほんのわずかに体を左へ傾け、その手をかわした。
そして、大きく二歩。
右手でボールを持ち上げた。
バックボードへ向かって、柔らかく放る。
ボールは白い四角形の内側へ当たり、リングへ落ちていった。
シュッ。
ネットが揺れる。
会場が、爆発した。
「OOOOOOOOOHHHH!!」
「DJ!! DJ!! DJ!!」
ウルブズの応援団が一斉に立ち上がり、両腕を突き上げた。ベースライン沿いに座っていたカメラマンたちは、ほとんど同時にシャッターを切っている。大型スクリーンには、DJがボールへ手を伸ばした瞬間からレイアップを決めるまでの映像が再生され、そのたびに新しい歓声が起こった。
スコアボードに、最初の数字が灯る。
『BREAKERS 0 — 2 WOLVES』
先制点。
しかも、スティールからの速攻だった。
イーサンはゴール下で息を吐き、悔しそうに唇を噛んだ。
「……くそっ」
マイクも自分の出したパスの軌道を思い返すように、一度だけ首を振っていた。
DJはそんな二人へ何も言わなかった。
着地すると、軽く右手を握り、すぐに守備へ戻ろうとする。
その姿には、派手なガッツポーズも、挑発的な笑みもなかった。
まるで、今のプレーが彼にとってはごく普通の仕事だったかのようだった。
時春はベンチの前で立ち尽くしていた。
……すげえ。
あれほど長い距離を走っておきながら、最後は落ち着いてレイアップを決めた。しかも、ボールを奪った瞬間から、ゴールへ向かう進路までが完璧だった。映像で何度も見てきたDJの速攻が、今、目の前で起きたのである。
だが。
次の瞬間、時春の耳へ、聞き慣れた大声が飛び込んできた。
「COME ON!!」
ノアだった。
彼はすでに、自分たちのエンドラインへ向かって走っていた。
「ETHAN! LET’S GO!!」
その声に、イーサンが顔を上げた。
試合開始から、まだほとんど時間は経っていない。
そして、ブレイカーズもまた、相手の得点を黙って見送るようなチームではなかった。
◇
イーサンはエンドラインの外へ出ると、すぐに落ちてきたボールを拾い上げた。
普通なら、ここで一度呼吸を整え、ゆっくりと攻撃を組み立て直しても不思議ではなかった。相手は格上と評されるウェストゲートであり、しかも最初の攻撃ではDJにボールを奪われている。慌てて取り返そうとすれば、再び相手の守備にはまってしまう危険もあった。
しかし、イーサンは違うものを見ていた。
自分の前を、ノアが走っている。
その姿だった。
DJがレイアップを決めた瞬間、ノアはすでに反対側へ体を向けていた。相手の選手たちが得点を喜び、観客席が歓声に包まれている間に、彼は一気にセンターラインへ向かって走り出していたのである。
イーサンは迷わなかった。
「MIKE!」
短く叫び、右側へパスを送った。
マイクは自陣の右サイドでボールを受け取ると、すぐに顔を上げた。
彼にも、ノアの姿が見えていた。
右側のレーンを駆け上がる大柄なウイング。長い脚でコートを蹴り、次第に加速していく。その前にはピアースがいたが、完全に進路を塞ぐことはできていなかった。反対側ではホロウェイも戻ろうとしている。しかし、どちらもノアの速度には追いつけない。
ただ一人。
ゴール下には、すでに守備へ戻っている選手がいた。
ウェスリー・キーン。
ウルブズのセンターであり、キャプテンだった。
マイクはそれを見ていた。
それでも、パスを出した。
胸元から放たれた長いボールが、コートの上を一直線に飛んでいく。センターラインを越え、ノアの進行方向へ落ちていくその軌道は、恐ろしいほど正確だった。
「NOAH!」
マイクの声が響く。
ノアは振り返った。
そして、走りながら両手でボールを受け止めた。
ほとんど減速しない。
そのまま、右手で強く一度ドリブルする。
ピアースが横から体を寄せようとする。
しかし、ノアは左肩をわずかに入れ、相手の進路をかわした。次の一歩では、すでにペイントエリアの入口へ差しかかっている。ゴール下へ向かって走るその姿には、迷いがなかった。
キーンが動いた。
大きな体をリングの前へ運び、両足を踏ん張る。
彼は身長二百六センチのセンターだった。長い腕を高く伸ばせば、普通の高校生にとって、その上からシュートを決めることは容易ではない。ましてや、助走の勢いを利用して突っ込んでくる相手を正面から迎え撃つ場面なら、キーンの存在は大きな障害になるはずだった。
しかし、ノアはまったく減速しなかった。
むしろ、その目が楽しそうに細くなった。
「……Ha!」
小さく笑った。
そして、最後のドリブルを強く床へ叩きつけた。
右足を踏み込む。
大きく左足を前へ運ぶ。
キーンが腰を落とし、両腕を上げる。
ノアはボールを両手で持ち直した。
そして。
床を蹴った。
その瞬間、時春には、ノアの体が一段高く跳ね上がったように見えた。
凄まじい跳躍だった。
彼の肩がキーンの胸の高さを越え、両手に握られたボールが、リングの上へ持ち上げられる。キーンも遅れて跳び上がり、必死に腕を伸ばしたが、ノアの勢いを止めることはできなかった。
二人の体が、空中で接近する。
ノアはボールを頭上へ振り上げた。
「GET UP!!(目ぇ覚ませや!!)」
そして、力の限り。
リングへ叩き込んだ。
ガシャアアアアアンッ!!
金属が激しく震える音が、体育館いっぱいに響き渡った。
キーンはボールへ手を伸ばしたまま空中でわずかに体勢を崩し、着地すると一歩後退した。ノアはリングをつかんで体の揺れを抑え、それから床へ降りる。彼の頭上では、まだリングが大きく震えていた。
ポスタライズダンク。
※ポスタライズダンク:ディフェンダー越しに決める豪快なダンク
二百六センチのセンターを真正面から迎え撃ち、その上から叩き込む豪快な一撃だった。
「OOOOOOOOOOOOHHHHHHH!!」
先ほどまでDJのスティールに沸いていた会場が、今度はまったく別の意味で爆発した。
ウルブズの観客席からも、思わず驚きの声が漏れている。キーンの上からあれほど豪快なダンクを決める選手など、そう何人もいるものではない。しかも、それをやってのけたのは、試合前に相手のコートへ乱入してセルフアリウープを披露した、あの騒がしい少年だったのである。
ブレイカーズの応援席は、完全に沸騰していた。
「BROOOOOOOOO!!」
ジェイクが両拳を突き上げる。
「NOAH!! THAT’S MY BRO!!」
ゾーイはカメラを構えたまま、思わず笑っていた。
「もう! あいつ、何なのよ!」
エマも立ち上がり、嬉しそうに拍手を送っている。
「すごい! ノア、すっごい!」
マディソンも両手を叩きながら歓声を上げた。
ラリーはメガネを押し上げた。
「……あれ、さっきと同じ人だよね」
「同じ奴だよ!」
ジェイクが笑いながら答えた。
「……いろんな意味で、すごい人だね」
ラリーは真面目な顔で呟いた。
その少し後ろでは、ハリーが再び言葉を失っていた。
「…………」
由美が楽しそうに拍手をしている。
「まあ! すごいダンクだったわね!」
「……ああ」
ハリーはゆっくりと頷いた。
「……確かに、運動神経はすごいようだ」
そして、少し考え込んだ。
「……しかし、あのノア君というのは、本当に大丈夫なのか……」
由美はとうとう笑ってしまった。
「あははっ! まだ気にしてるの?」
ハリーは真剣だった。
「……いや、あの子がトキという少年の友達なら、多少は心配になるだろう」
「あなた、トキ君にはまだ会ってもいないじゃない」
「だから、心配なんだ」
由美は呆れたように笑い、再びコートへ目を向けた。
そこでは、ダンクを決めたノアが両拳を握り、大きな声で吠えていた。
「LET’S GOOOOOOOO!!」
ブレイカーズのベンチも、一斉に立ち上がっていた。
時春は思わず飛び跳ね、両手を突き上げていた。
「ノア!! やっば!! 何今の!!」
イーサンも満面の笑みで拳を握り、マイクは少しだけ口元を緩めていた。ヘイズコーチは興奮するベンチの選手たちへすぐに守備へ戻るよう指示していたが、それでもノアのダンクが持つ迫力を認めないわけにはいかなかった。
スコアボードが更新される。
『BREAKERS 2 — 2 WOLVES』
同点。
試合開始から、まだ一分も経っていなかった。
DJがボールを奪い、速攻からレイアップを決める。
その直後、マイクのロングパスからノアが豪快なダンクを叩き込む。
わずか二つの攻撃で、両チームは自分たちの持つ武器を見せつけていた。
時春は、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
……いける。
相手がDJだろうが、キーンだろうが、何もできないわけじゃない。
自分たちにだって、戦える力がある。
そんな思いが、ベンチの選手たちの間にも広がり始めていた。
だが。
その瞬間。
時春は、あることに気づいた。
……あれ?
ゴール下。
キーンが、すでに動いていた。
◇
ウェスリー・キーンは、ノアのダンクを見上げたあと、ほとんど表情を変えなかった。
目の前で二百六センチの自分を越えてダンクを決められたというのに、彼は怒る様子も、悔しがる様子も見せなかった。むしろ、ノアが着地するのを確認すると、すぐに落ちてきたボールへ手を伸ばしていた。
そして、ボールをつかむ。
そのまま、エンドラインの外へ出た。
あまりにも素早い動きだった。
普通なら、今のようなダンクを決められたあと、選手たちは一瞬だけ相手を見つめたり、仲間へ何かを叫んだりする。自分がポスタライズされたとなれば、なおさらその衝撃から意識を切り替えるまでに時間がかかっても不思議ではない。
しかし、キーンには、そのわずかな時間さえなかった。
彼はすでに、次の攻撃を始めようとしていたのである。
時春の胸に、嫌な予感が走った。
金曜日の夜。
ダニーズ・ダイナー。
トムが見せてくれた、ウェストゲートの試合映像。
リバウンドを取ったキーンが、すぐに前方へ顔を向ける。
そして、その先には。
DJがいる。
時春は目を見開いた。
「……っ!」
ベンチから、思わず声が飛び出す。
「戻って!!」
しかし、その声がコートの選手たちへ届くよりも早く、キーンの両腕が動いていた。
彼はエンドラインの外から、前方へ大きく踏み込んだ。
その視線は、ゴール下にはなかった。
センターライン。
そこへ向かって走る、一人の選手を見ていた。
DJだった。
ノアのダンクが決まった瞬間、彼はすでに体を反転させていた。観客席から大歓声が上がり、ブレイカーズの選手たちが得点を喜んでいる間に、DJは自分たちの攻撃するゴールへ向かって走り始めていたのである。
その動きには、ほとんど無駄がなかった。
全速力で走るというより、最初の数歩で一気に速度を上げ、そのあと大きなストライドを利用して距離を稼いでいく。長い腕を振り、前傾姿勢でコートを駆け抜ける姿には、明らかに他の選手とは違う迫力があった。
キーンは、その動きを見逃さなかった。
ボールを大きく後方へ引く。
そして、右腕を力強く振り抜いた。
鋭いロングパス。
それは、ただ遠くへ放り投げられたものではなかった。
走っているDJの速度。
相手選手たちの位置。
そして、ボールが届くまでの時間。
そのすべてを計算したかのように、ボールはコートの中央を低く長い軌道で飛んでいった。
「……っ!」
イーサンが反応した。
彼はすぐに体を反転させ、DJを追いかけようとした。先ほどの速攻で相手の速さを体験したばかりだったため、今度こそ先に進路へ入ろうとしたのである。
しかし、遅かった。
ほんの一歩。
最初の反応が、一歩だけ遅れていた。
その差が、致命的だった。
DJはセンターライン付近で、飛んできたボールを走りながら受け取った。ほとんど減速することなく、すぐに右手でドリブルへ移る。イーサンは必死に追いかけ、斜め後方から体を寄せようとしたが、DJの一歩は大きく、速度もさらに上がっていた。
マイクも全力で走っていた。
彼は一度、DJの前方へ回り込むために角度を変えた。しかし、その進路を読んだDJは、わずかにボールを左へ運び、体の向きを変えることなく彼の横を抜けていった。
時春はベンチから、その光景を見つめていた。
……嘘だろ。
今、ブレイカーズがダンクを決めたばかりなのに。
まだ会場の歓声が、少しも収まっていないのに。
もう、DJが反対側のゴールへ向かっている。
信じられないほどの切り替えだった。
そして、何より恐ろしいのは、その動きが偶然に見えないことだった。
キーンは迷わずパスを出した。
DJも、迷わず走り始めていた。
まるで、ノアがダンクを決める前から、次の攻撃の形が二人の間で決まっていたかのようだった。
◇
DJはフリースローラインの手前まで走ると、右手でボールを強く床へ叩きつけた。
その音が、体育館の床へ鋭く響いた。
後方ではイーサンが必死に追いかけている。マイクも少し外側の進路から走り続けていたが、二人ともDJの正面へ回り込むことができなかった。DJの前には、すでに広い空間が生まれていたのである。
彼は最後のドリブルを終えると、右手でボールをしっかりと握った。
一歩目。
大きく床を蹴る。
二歩目。
体が、リングへ向かって沈み込む。
そして。
DJは跳んだ。
時春には、その跳躍が、先ほどのノアのダンクとはまったく違うものに見えた。
ノアの跳躍は爆発的だった。全身の力を一度に解き放つように跳び上がり、相手のセンターを力でねじ伏せる。リングへ向かって飛び込むその姿には、見ている者の胸を高鳴らせる荒々しさがあった。
しかし、DJの跳躍には、もっと別の恐ろしさがあった。
助走の勢いが、そのまま滑らかに上昇する力へ変わっていたのである。
長い右腕が、頭の後ろまで引き上げられる。
肩が大きく回る。
ボールが、リングの高さをはるかに越えた。
イーサンは最後まで追いかけていたが、もう届かない。
マイクも、腕を伸ばすことさえできなかった。
DJの体が、最高到達点へ達する。
そして、次の瞬間。
振りかぶった右腕が、斧を振り下ろすように動いた。
ガシャアアアアアアンッ!!
トマホークダンク。
リングが凄まじい音を立てて揺れた。
DJの長い体が、空中でわずかに弧を描く。片手でリングをつかんで体を安定させると、そのまま軽く床へ降りた。着地したシューズがフロアを鳴らし、ボールがリングの下で大きく弾む。
その瞬間。
ウェストゲートの体育館が、再び爆発した。
「OOOOOOOOOOOOOOHHHHHH!!」
「DJ!! DJ!! DJ!!」
「LET’S GO, WOLVES!!」
紺色と銀色の応援席が、一斉に立ち上がった。何百人もの観客が両腕を突き上げ、足元の床を踏み鳴らしている。歓声は体育館の高い天井へぶつかり、何重にも重なってコートへ降り注いだ。ベースラインのカメラマンたちは一斉にレンズをDJへ向け、記者席でも何人もの大人が興奮した様子で言葉を交わしていた。
スコアボードの数字が変わった。
『BREAKERS 2 — 4 WOLVES』
ウルブズが、再びリードを奪った。
しかも、ノアのダンクから、ほんの数秒後の出来事だった。
時春は、ベンチの前で立ち尽くしていた。
目の前で起きた二つの得点を、頭の中で何度も繰り返す。最初はDJが相手のパスを読み、ボールを奪って一人で走り切った。次はノアが反撃のダンクを決めた直後、キーンがエンドラインから長いパスを送り、DJが再び走り切った。
同じ速攻。
しかし、始まり方はまったく違った。
最初はスティール。
次は、失点直後のスローイン。
そして、そのどちらにも共通していたのは、ボールが相手のゴールへ届くまでの、恐ろしいほどの速さだった。
「……マジかよ」
時春の口から、小さな声が漏れた。
その隣で、トムが静かに息を吐いた。
「……これだよ、トキ」
時春が振り返る。
トムは、コートの中央を見つめていた。
「この前、動画で見せたでしょ。キーンがリバウンドを取って、すぐにDJへ長いパスを出すプレー」
「……うん」
「あれ、リバウンドだけじゃないんだ。相手がシュートを決めたあとでも、同じように走れるんだよ」
時春はもう一度、コートへ目を向けた。
確かに、そうだった。
普通なら、得点を決められれば、一度攻撃を仕切り直そうと考える。しかし、ウェストゲートは違う。相手に点を取られた直後であっても、コートのどこに空間が生まれているのかを見ている。そして、相手が守備へ戻る前に、その空間へボールを送り込むことができる。
得点を奪うために、長い時間ボールを保持する必要などなかった。
むしろ、相手が喜んでいる時間さえ、自分たちの攻撃へ変えてしまう。
それが、ウルブズの恐ろしさだった。
コートの向こうでは、DJがゆっくりと守備へ戻っていた。彼は大きなガッツポーズをすることもなく、仲間たちと短く拳を合わせるだけで、すでに次のプレーへ意識を向けているようだった。キーンも自陣へ戻りながら彼へ片手を上げ、その合図にDJが軽く頷く。
ただ、それだけだった。
あれほどのプレーを、まるで毎日の練習で何度も繰り返しているかのように、二人は当たり前のものとして受け止めていたのである。
時春は、先ほどのトマホークダンクを思い出した。
長いストライド。
※ストライド:歩幅。特にバスケにおいてはレイアップやダンクの前の時の歩幅を表すことが多い
滑らかな加速。
そして、リングの上から振り下ろされる右腕。
クリスマスの夜、初めて動画で見たあのプレーと、まったく同じだった。だが、スマートフォンの小さな画面を通して眺めていたときには、あのダンクへ至るまでの速さや、相手ディフェンダーがどれほど必死に追いかけていたのかを、ここまで鮮明に感じ取ることはできなかった。
DJは、ただダンクがうまいのではない。
そのダンクを決めるための状況を、自分たちで作り出せる選手なのだ。
そして、彼の隣には、その速さを最大限に生かす仲間たちがいる。
時春はゆっくりと息を吸い込み、両膝の上で拳を握った。
ノアが先ほどのダンクで示してくれたことは、決して無駄ではなかった。ブレイカーズにも、相手のセンターを越えて得点できる力がある。しかし、相手が得意とする速度の中で、ただ派手なプレーをぶつけ合うだけでは、勝つことは難しいのかもしれなかった。
自分たちは、何をすべきなのか。
どうすれば、DJの速攻を止められるのか。
どうすれば、キーンにあれほど簡単なパスを出させずに済むのか。
そして、どうすれば、この巨大な歓声を黙らせることができるのか。
時春は、コートの向こうを見つめ続けていた。
イーサンはすでにエンドラインの外でボールを受け取り、次の攻撃を始めようとしている。マイルズは仲間たちへ守備への切り替えを呼びかけ、ノアは悔しそうに唇を噛みながらも、再び前を向いていた。マイクはDJの位置を確認し、トムもゴール下へ向かって走り始めている。
まだ、四対二。
試合は始まったばかりだった。
しかし、ほんの数十秒のうちに、ブレイカーズは一つの事実を思い知らされていた。
ウルブズに対して、少しでも足を止めてはいけない。
シュートを決めても、安心してはいけない。
相手の歓声に気を取られても、いけない。
なぜなら、彼らは常に走っているからだ。得点を奪った瞬間も、奪われた瞬間も、ボールがリングへ吸い込まれる瞬間さえ、次の攻撃へつながる時間として使ってしまう。キーンの視野の広さと正確なロングパス、そしてDJの爆発的な加速力。それらが組み合わさることで、ウェストゲートは相手の守備が整う前に、何度でもリングへ迫ることができる。
昨年の州大会を経験した名門校。
全米屈指の新入生を擁する優勝候補。
その肩書きの本当の意味を、ブレイカーズはようやく目の前で理解し始めていた。
そして、今夜の彼らにとって、最も恐ろしい事実が一つあった。
ここまでDJが奪った四得点は、どちらも速攻からのものだったということだ。
ホロウェイのゲームメークも、ピアースのスリーポイントも、オコナーのスクリーンも、キーンの外側からのシュートも、まだほとんど使われていない。トムが金曜日の夜に説明してくれた、ウェストゲートが持つ数多くの武器は、その大部分がまだ姿を見せていなかったのである。
時春は小さく息を吐き、改めてコート全体を見渡した。
紺色と銀色のユニフォーム。
満員の観客席。
そして、そこに立つDJ。
彼らが自信に満ちた表情を浮かべている理由が、少しだけわかった気がした。
狼は、獲物が逃げ出すのを待っているわけではない。
自ら走り、追いつき、仕留めに来る。
その速さこそが、ウェストゲート・プレップ・ウルブズ最大の武器だった。
そして、今、ブレイカーズの目の前で披露されたキーンからDJへの電光石火の速攻こそが、彼らが幾度となく勝利をつかんできた、十八番のプレーなのである。