ウェストゲート・プレップの体育館には、まだ先ほどのダンクの余韻が残っていた。
スコアボードに表示された数字は、二対四。試合開始から一分も経っていないというのに、すでに三度の豪快なプレーが観客席を沸かせていた。DJのスティールからのレイアップ。ノアが二百六センチのキーンを越えて叩き込んだポスタライズダンク。そして、その直後にキーンのロングパスから生まれた、DJのトマホークダンク。紺色と銀色に染まった応援席からは今も興奮した声が飛び交い、コートサイドのカメラマンたちは撮影したばかりの写真を確認している。
しかし、ブレイカーズの選手たちは、すでに次の攻撃へ意識を切り替えていた。
イーサン・コールがエンドラインからボールを受け取り、慎重にセンターラインを越える。正面にはヴィクター・ホロウェイが立ち、その長い腕を左右へ広げていた。先ほどの速攻に対して悔しさがないわけではない。自分たちが得点した直後、あれほど簡単にリングを奪われたのだから、多少の動揺があっても不思議ではなかった。それでも、イーサンは慌てなかった。
「マイルズ、もう一本!」
「任せろ!」
マイルズがハイポストへ上がり、スクリーンをセットする。イーサンはその横を抜けると、ホロウェイとオコナーの位置を確かめ、あえてゴール下へ踏み込まずに右側へボールを送った。
マイク・トンプソン。
右ウイングでパスを受けた彼の前には、DJがいた。DJは素早く距離を詰め、シュートを打たせまいと右腕を伸ばしている。しかし、マイクは一度ボールを下ろし、逆方向へ走り込んできたトムへ短いパスを渡した。そのまま彼の背後を回り込み、スクリーンを利用して再びスリーポイントラインの外へ出る。
トムから、ボールが返ってきた。
DJは追いかけていたが、ほんの半歩だけ遅れた。
マイクにとって、それは十分な距離だった。
彼は迷わず跳び上がり、ボールを放った。綺麗な放物線がリングへ向かい、白いネットを静かに揺らす。
「THREE!」
『BREAKERS 5 — 4 WOLVES』
ブレイカーズが逆転した。
「YES!」
ベンチで時春が拳を握る。ノアも大きな声を上げ、マイルズは守備へ戻りながらマイクの背中を叩いた。先日のノースゲート戦で七本ものスリーポイントを決めたシューターは、今夜も変わらず落ち着いていた。
「いいぞ、マイク!」
「まだ一本だよ」
マイクはそう答えると、何事もなかったように自分のマークへ戻った。
ブレイカーズの集中力は、決して低くなかった。むしろ、今シーズンで最も高い水準にあると言ってもよかった。ヘイズコーチが試合前に指示したとおり、得点した直後には全員が素早く守備へ戻り、キーンが前方へボールを送る余地を与えない。マイルズはオコナーに簡単なスクリーンを許さず、トムはゴール下で体を張り、ノアはピアースの動きを追い続けていた。
それでも、ウルブズは得点した。
ホロウェイがゆっくりとボールを運ぶ。DJへパスを送ろうとしたが、マイクが進路を塞いでいたため、無理には渡さない。代わりに、左側のハイポストへ上がってきたキーンへボールを預ける。
その瞬間、ピアースが動いた。
右コーナーからベースライン沿いへ走り、オコナーのスクリーンを利用して左側のウイングへ抜け出す。ノアは必死に追いかけたが、オコナーの大きな体を避けるため、ほんのわずかに遠回りを強いられた。
キーンは、すでにその動きを見ていた。
手元のボールが、左ウイングへ飛ぶ。
ピアースが受け取る。
ノアが腕を伸ばす。
しかし、そのときにはもう、ボールはピアースの指先を離れていた。
シュッ。
『BREAKERS 5 — 7 WOLVES』
再逆転。
時春はベンチから、その攻撃を見つめていた。
……速い。
ただし、DJの速攻とは違う種類の速さだった。ホロウェイがボールを運び、キーンへ渡す。その間にピアースが走り、オコナーが進路を作る。誰かが無理な一対一を仕掛けたわけでも、ノアが守備を怠ったわけでもない。ただ、決められた動きを正確に実行することで、一瞬だけシュートに必要な空間を作り出したのである。
しかも、その一瞬を逃さずに決める技術がある。
ウルブズには、それぞれの役割を高い水準で果たせる選手が揃っていた。
続く攻撃では、マイルズがゴール下でオコナーを押し込み、力強いシュートを決めた。ブレイカーズの守備も次第に安定し、キーンからの長いパスをイーサンが途中で弾く場面もあった。ノアは鋭いドライブでピアースを抜き去り、トムはオコナーとリバウンドを争いながら、懸命にボールをつなぎ続けた。
戦えていないわけではない。
そのことは、誰の目にも明らかだった。
しかし、ブレイカーズが一つのプレーを成功させるために全力を尽くしているのに対し、ウルブズは、その同じ時間の中で二つも三つも選択肢を用意しているように見えた。マイルズがオコナーを止めれば、キーンが外へ開いてスリーポイントを放つ。トムがそのシュートを警戒して前へ出れば、今度はオコナーが空いたゴール下へ飛び込んでくる。ピアースを追いかければDJが動き、DJへ守備が寄ればホロウェイが落ち着いてボールを回した。
全員が、互いのために動いていた。
そして、その連携の中心には、やはりDJがいた。
◇
第一クォーター残り二分。
イーサンは右側からドライブを仕掛け、ホロウェイの横を抜こうとしていた。マイルズがスクリーンをセットし、相手の進路を塞ぐ。オコナーもすぐにカバーへ出てきたが、イーサンは落ち着いてドリブルの速度を変え、フリースローライン付近まで入り込むことに成功した。
その先には、トムがいた。
「TOM!」
イーサンから鋭いバウンズパスが飛ぶ。
トムがゴール下で受け取った。正面にはキーンがいるものの、パスの角度がよかったため、彼は一歩だけ相手よりもリングへ近い位置を取れていた。
トムは両手でボールを持ち上げる。
キーンが腕を伸ばした。
しかし、トムは慌てなかった。わずかに体をひねり、相手の腕が届かない側から柔らかなシュートを放つ。ボールはバックボードへ触れ、リングを通り抜けた。
「NICE!」
イーサンが叫ぶ。
トムも小さく拳を握った。
時春は嬉しそうに拍手を送ったが、その直後、すぐにDJの位置を探していた。先ほどの失点直後の速攻が、頭から離れなかったのである。
DJは走っていた。
ただし、今度はイーサンも反応していた。ホロウェイからキーンへ渡ろうとするパスコースを横切り、DJへ直接ボールが届く道を塞いでいる。ノアもすでに守備へ戻り始めており、マイクはDJのすぐ後ろについていた。
……よし。
時春は小さく頷いた。
これなら、簡単には走られない。
しかし、キーンは長いパスを出さなかった。
エンドラインからホロウェイへ短くボールを渡し、自分もゆっくりとコートへ入る。無理に速攻を仕掛ける必要がないと判断したのだろう。ウルブズはそのままハーフコートの攻撃へ移り、ホロウェイがトップでドリブルを続ける。
そして、DJが左ウイングでボールを受けた。
マイクが正面へ立つ。
DJは一度だけ右へフェイクを入れた。
マイクは動かなかった。
彼は相手の腰の位置を見ながら、一定の距離を保ち続けている。DJの最初の一歩が速いことはわかっている。だからこそ、不用意に体重を移さず、どちらへ動かれても対応できる姿勢を崩さなかった。
DJは少しだけ目を細めた。
そして、突然左へ踏み込んだ。
「……っ!」
マイクが反応する。
しかし、DJは二歩目でさらに加速した。
長い腕でボールを低く運び、マイクの体の外側を通り抜ける。そのままペイントエリアへ進入しようとするDJの前へ、今度はトムが出てきた。
DJは止まらなかった。
右手でボールを持ち上げる。
トムが腕を伸ばす。
その瞬間、DJの手首が返った。
シュートではない。
パスだった。
ボールがトムの横を通り抜け、ゴール下の反対側へ飛ぶ。そこには、キーンがいた。トムがDJを止めるために一歩前へ出たことで、ほんの一瞬だけマークが外れていたのである。
キーンはボールを受け取ると、そのまま両手でリングへ押し込んだ。
ガシャアンッ!
観客席から大歓声が上がる。
トムは着地すると、悔しそうに唇を噛んだ。自分の判断は間違っていないはずだった。あのままDJを自由にすれば、簡単なレイアップを許していただろう。だから前へ出た。それなのに、DJはその動きを利用し、空いたキーンへ正確なパスを送ってしまった。
時春も、同じことを考えていた。
DJは、自分で得点を取ることができる。
だから、守備が寄ってくる。
そして、寄ってきた守備の後ろには、必ず別の空間が生まれる。
その仕組みは、時春も知っていた。先日のノースゲート戦で、自分がドライブからマイクへパスを送ったときにも、同じことが起きていたのだから。
しかし、DJのプレーには、それだけでは説明できない何かがあった。
相手が何を選ぶのか、まるで最初から知っているようだった。
第一クォーター終了のブザーが鳴った。
『BREAKERS 18 — 27 WOLVES』
九点差。
ブレイカーズは必死に食らいついていた。マイクが外から得点を重ね、マイルズもゴール下で奮闘し、イーサンは落ち着いたゲームメークで攻撃を組み立てている。守備では全員が声をかけ合い、相手の速攻を許す場面も序盤に比べれば明らかに減っていた。
それでも、九点差がついていた。
ウェストゲート・プレップ・ウルブズ。
彼らは、強かった。
その事実だけは、認めるしかなかった。
◇
ベンチへ戻ってきたイーサンは、タオルを受け取ると大きく息を吐いた。
「いや、参ったな」
隣に座ったマイルズが顔を向ける。
「何がだ?」
「守備が悪いわけじゃないのに、決めてくる」
マイルズは苦笑した。
「……ああ。わかる」
ノアも首を振っていた。
「ピアースの野郎、ずっと走ってんだよ。スクリーン一枚かわしたと思ったら、また別の奴が立ってやがる」
「それがあいつの仕事なんだろ」
マイクが静かに答えた。
「知ってるよ! だから腹立つんだって!」
ノアの声に、周囲から小さな笑いが漏れる。
だが、ヘイズコーチの表情は厳しかった。
「よく聞け。今の守備は悪くない」
選手たちが顔を上げた。
「戻りも早くなっているし、スクリーンへの対応もできている。序盤のような簡単な速攻は減らせている。だが、それでも点を取られるのは、相手の技術が高いからだ」
ヘイズはホワイトボードを開いた。
「だからこそ、余計なミスをするな。相手が難しいシュートを決めたからといって、守備が間違っていたとは限らん。焦って勝手に配置を変えれば、今度はもっと簡単なシュートを打たれるぞ」
「Yes, Coach!」
マイルズが答えた。
ヘイズは頷き、それから時春へ視線を向けた。
「トキハル。次はお前が行け」
時春の背筋が伸びる。
「はい!」
「イーサンと交代だ。お前の速さで攻撃のテンポを変えろ。ただし、焦ってパスを出すな。ホロウェイもDJも、パスコースを読むのがうまい」
「Yes, Coach!」
時春は立ち上がった。
そのとき、ヘイズはマイクにも顔を向けた。
「守備のマッチアップを変える。マイク、お前はホロウェイにつけ。トキハルにはDJを任せる」
時春は、一瞬だけ動きを止めた。
「……えっ?」
ヘイズは平然と続けた。
「ホロウェイは体の強さを使ってくる。マイク、お前なら簡単には押し込まれん。DJはスピードもある。トキハル、お前は身長で不利だが、足を使って進路を塞げ。真正面から力比べをする必要はない」
それは合理的な判断だった。
ホロウェイもDJも百九十センチ近い長身を持っている。しかし、ホロウェイは強い体で相手を押し込み、落ち着いて攻撃を組み立てることが得意な選手だった。小柄な時春が彼と力で争えば、苦しい場面が増えるだろう。一方、DJはそれ以上に速く、鋭いドライブを仕掛けてくる選手である。時春の低い重心と素早い足運びなら、その最初の一歩に対応できる可能性があった。
もちろん、簡単な仕事ではない。
むしろ、今夜の相手としては最も厳しい選手かもしれなかった。
しかし、時春の胸に広がったのは、不安だけではなかった。
DJ。
あのDJと。
自分が、直接マッチアップする。
「……はい!」
時春は力強く頷いた。
イーサンが笑いながら拳を差し出す。
「頼んだぞ、トキ」
「うん!」
時春はその拳へ、自分の拳を合わせた。
「絶対、止めてくる!」
イーサンは少しだけ目を細めた。
「……ああ。期待してる」
第二クォーター開始を告げるブザーが鳴る。
時春は深く息を吸い、コートへ走り出した。
◇
DJと向かい合った瞬間、時春は改めて、その体格差を実感した。
身長はおよそ二十センチ違う。肩の高さも、腕の長さも、明らかにDJの方が上だった。時春は百七十センチの小柄なポイントガードであり、アメリカへ来て以来、自分より大きな選手と対戦する機会には事欠かなかった。しかし、DJの体には、単純な身長の差だけでは説明できない力強さがあった。肩から腕へつながる筋肉の厚みと、長い脚を支える安定した腰の位置。しかも、その体で信じられないほど素早く動くのである。
ホロウェイがトップでボールを持つ。
DJは左ウイングへ開いた。
時春も、その前へ回り込む。
DJが軽く手を上げると、ホロウェイからパスが飛んできた。彼はボールを受け取り、ゆっくりと右手でドリブルを始めた。
二人の目が合う。
DJは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……君、さっきベンチにいたよね」
「うん」
時春は腰を落としたまま答えた。
「今度は俺が守るから」
DJは短く頷いた。
「……そう」
それだけだった。
次の瞬間、ドリブルの音が鋭く変わった。
DJが右へ踏み込む。
時春は反応した。
右足を大きく滑らせ、相手の進路へ回り込む。DJは左へ切り返そうとしたが、時春も腰を落としたままついていった。無理にボールを奪おうとはしない。ただ、リングへ向かう最短の道を塞ぐことに集中する。
DJがもう一度、右へ動く。
時春は遅れなかった。
その小柄な体が、DJの進路へ滑り込む。
「……っ!」
時春は歯を食いしばった。
速い。
やはり、速い。
それでも、ついていける。
DJはペイントエリアの入口まで近づいたが、時春が正面から進路を塞いだため、思うように中へ入れなかった。そこへノアも少しだけ寄り、DJが強引に切り込んできた場合に備えている。
……止めた!
時春の胸に、ほんの一瞬だけ喜びが広がった。
しかし、そのときだった。
DJが、あっさりとドリブルを止めた。
そして、右側へパスを送った。
「……え?」
時春は思わず顔を上げる。
ボールはスリーポイントラインの外側へ飛んでいた。
そこには、グレアム・ピアースがいた。
ノアがDJのドライブに備えて一歩中へ寄った瞬間、ピアースは右コーナーからウイングへ移動していたのである。DJはその動きを見逃さず、時春に進路を塞がれたと判断すると、少しも迷うことなくパスへ切り替えたのだった。
「NOAH!」
時春が叫ぶ。
ノアも慌てて振り返った。
しかし、ピアースはすでにボールを持ち上げていた。
跳び上がる。
右腕が伸びる。
そして、滑らかにボールが放たれた。
シュッ。
ネットが揺れた。
「THREEEEEE!」
ウルブズの応援席が沸き上がる。
時春は、その場で小さく息を吐いた。
DJを止めた。
確かに、ドライブは止めたのだ。
自分より二十センチ近く背が高く、あれほど身体能力に優れた選手を相手に、必死に足を動かして進路を塞いだ。簡単なレイアップも、ダンクも許さなかった。
なのに、三点を取られた。
DJは、時春の守備に苛立つことも、無理に勝負を続けることもなかった。ただ、別の選択肢を選んだのである。
そして、その選択肢もまた、正解だった。
時春はDJの背中を見つめた。
彼はすでに守備へ戻り、ホロウェイと軽く拳を合わせていた。自分のドライブが止められたことなど、ほとんど気にしていないようだった。
その姿を見たとき、時春の胸の奥に、不思議な感情が生まれた。
悔しい。
当然、悔しかった。
しかし、それと同じくらい。
……うまい。
そう思ってしまった。
◇
時春がコートへ入ってから、ブレイカーズの攻撃には確かな変化が生まれた。
イーサンは安定したゲームメークを得意としていたが、時春にはそれとは違う速さがあった。低い位置でドリブルを刻み、ディフェンダーの足元を見ながら突然進行方向を変える。ホロウェイが前へ出てくれば、無理に体をぶつけず、マイルズのスクリーンを利用して横を抜ける。ピアースがヘルプへ寄れば、すかさずノアへパスを送り、キーンがゴール下へ残れば、自分の得意なミドルレンジへ踏み込んだ。
第二クォーター開始から数分後、時春はフリースローライン付近でジャンプシュートを決めた。
「YES!」
思わず拳を握る。
ノアが走り寄り、背中を叩いた。
「NICE SHOT, LITTLE MAN!」
「ありがとう!」
時春は嬉しそうに笑い、すぐに守備へ戻った。
仲間たちも、必死に戦っていた。マイルズはオコナーとのリバウンド争いで何度も体をぶつけ、トムはキーンの長い腕に負けまいとリングの下で踏ん張っている。マイクはホロウェイの守備を受けながらも、わずかなスペースを見つけてシュートを放った。ノアはピアースを相手に力強いドライブを仕掛け、ときには自分で得点し、ときには空いた仲間へパスを送っていた。
しかし、ウェストゲートも同じように得点を重ねていた。
DJがボールを持つ。
時春が正面へ立つ。
ドライブを止める。
すると、パスが出る。
その先には、必ずと言っていいほど、得点できる位置へ動いた仲間がいた。
ピアースが外からシュートを沈め、オコナーがゴール下へ飛び込む。ホロウェイはDJから戻されたボールを受け取ると、ためらうことなくスリーポイントを放った。キーンはリバウンドを取ったあと、速攻が難しいと判断すれば落ち着いて攻撃を組み立て直し、トムがゴール下へ残れば外側から得点を狙った。
DJは、いつでも自分で決められるはずだった。
それなのに、無理をしない。
そこが恐ろしかった。
時春は試合前、DJの身体能力こそが最大の武器だと思っていた。父親であるキングDを思わせる豪快なダンク、鋭いドライブ、長い腕を使ったフィニッシュ。そのどれもが高校生離れしており、実際に守ってみれば、その速さに何度も驚かされた。
しかし、実際に対戦してみると、DJの本当の恐ろしさは別のところにもあった。
彼は、相手の守備を見ている。
それも、ただ自分の正面に立つディフェンダーだけではない。
その後ろにいるセンター。
反対側から寄ってくるフォワード。
そして、誰かが動いたことで空いてしまった仲間の位置。
DJは、そのすべてを同時に把握しているかのようだった。
時春には、それが悔しくて仕方なかった。
自分だって、パスには自信がある。日本にいた頃から、仲間の動きを見ることは得意だった。アメリカへ来てからも、イーサンやヘイズコーチに教わりながら、少しずつ判断の幅を広げてきたつもりだった。
それでも、DJは自分よりもずっと高い水準で、同じことをしているように見えた。
しかも、DJの登録ポジションはポイントガードではない。
シューティングガードなのだ。
その事実が、時春には何とも言えない衝撃だった。
自分が目指している仕事を、本職ではない選手がこれほど見事にこなしている。それでいて彼は、自分で得点を奪う能力まで持っている。
……すごいなあ。
時春は、またそう思ってしまった。
そして、自分が何を感じているのか、少しずつ理解し始めていた。
憧れ。
それは、紛れもなく憧れだった。
これほど強い相手に勝ちたいと思っているのに、同時に、そのプレーをもっと見ていたいと思ってしまう。次にどんなドリブルをするのか、どこへパスを出すのか、どうやって自分たちの守備を崩してくるのか。それを確かめたいという好奇心が、悔しさの奥から何度も顔を出してくる。
だが、時春は自分へ言い聞かせた。
今日は、観客ではない。
DJのプレーを見に来たのではない。
彼に勝つために、ここへ来たのだ。
◇
第二クォーター残り三分。
時春は、再びDJの正面へ立っていた。
ホロウェイからパスを受け取ったDJは、左ウイングでゆっくりとドリブルを始めた。時春はすぐに腰を落とし、相手との距離を一定に保とうとする。先ほどのように簡単にパスを出されれば、ピアースやホロウェイが外からシュートを沈めてしまう。だから今度は、DJのドライブだけでなく、周囲の選手たちが動く方向にも注意を向けていた。
DJが右へフェイクを入れた。
時春は動かなかった。
左へ小さくドリブルする。
時春もついていく。
DJはボールを持ち替えながら、右側へ顔を向けた。
そこでは、ピアースがコーナーへ移動していた。
……パス!
時春はとっさに右手を伸ばし、そのコースを塞ごうとした。
その瞬間だった。
DJが、左足で床を強く蹴った。
「……っ!」
時春の体が、わずかに遅れた。
DJは右へ大きく踏み込み、時春の横を抜けていく。先ほどまでパスを探しているように見えた視線が、今度はまっすぐリングへ向けられていた。
時春は必死に追いかけた。
しかし、DJは減速しない。
長い一歩でペイントエリアへ入り、トムがカバーに出るよりも早くボールを持ち上げる。右手から左手へ持ち替え、体をわずかにひねりながらバックボードを狙った。
柔らかなレイアップ。
ボールは高い位置でガラスへ触れ、そのままリングへ落ちていった。
シュッ。
時春は、ゴール下で足を止めた。
「……くそっ」
思わず声が漏れる。
今度はパスを警戒していた。
しかし、そうすると、DJは簡単にドライブを仕掛けてくる。
パスを出されたくなければ、進路を塞ぐ。
進路を塞ごうとすれば、パスを出される。
その二つを同時に警戒しようとした瞬間、ほんのわずかな遅れが生まれる。
そして、DJはその遅れを見逃さない。
時春は、胸の奥へ重たいものが沈んでいくのを感じていた。
自分が守備を怠っているわけではない。
足を止めたつもりもない。
むしろ、今夜はこれまでのどの試合よりも必死に動いている。
それでも、止められない。
DJは時春の横を通り過ぎると、何事もなかったように守備へ戻っていった。その後ろ姿は、先ほどのパスを出したときとまったく変わらなかった。自分で決めたからといって、特別に喜んでいるわけではない。難しい判断を成功させたという様子さえない。
彼にとっては、どちらも同じなのだろう。
空いている場所へパスを出すことも。
自分でリングへ向かうことも。
その場で最もよい選択をする。
それだけのことなのかもしれなかった。
時春は悔しさを押し込み、落ちてきたボールを拾い上げた。
「……次!」
自分へ言い聞かせるように呟き、再びコートを走り出した。
◇
観客席では、エマが両手を膝の上で握りしめていた。
彼女の視線は、ずっと時春を追いかけている。コートへ入ってから、彼は何度もDJを守っていた。相手は自分より明らかに大きく、速く、しかも驚くほどバスケットボールがうまい。時春が必死に横へ動き、ドライブを止めようとするたびに、エマは思わず身を乗り出していた。
「……頑張って、トキ」
小さな声だった。
隣のマディソンも頷く。
「うん……でも、あのDJって子、本当にすごいね」
「……すごいよね」
エマは正直に答えた。
DJのプレーを見れば、それがわかる。バスケットボールに詳しくなくても、他の選手とは少し違うのだということは感じられた。しかも彼は、豪快なダンクだけでなく、味方を自由にするパスまで出してしまう。
その向こうでは、ジェイクが珍しく口数を減らしていた。
「……Bro、あいつ何でもできんのかよ」
ラリーがメガネを押し上げる。
「……強いね。相手が何をしてくるか見てから、決めてるみたい」
「お前、それ結構すごいこと言ってね?」
「……そう?」
ラリーは首を傾げた。
その少し後ろでは、ハリー・パーカーがプログラムとコートを交互に見比べていた。
「……あの、小柄な子が……」
由美が隣から顔を向ける。
「どうしたの?」
「……いや」
ハリーは一度、エマの方を見た。
娘はコートへ向かって一生懸命に声をかけている。
「トキ! 頑張って!」
その名前を聞いたハリーは、再びコートへ視線を戻した。
青と白のユニフォームを着た、小柄な日本人の少年。
どうやら、あの子が高山時春らしい。
ハリーは腕を組んだ。
「……ふむ」
由美が楽しそうに笑う。
「かわいい子でしょう?」
「……私は、まだ何も言っていないぞ」
「あら、そう?」
由美はくすくすと笑い、再び試合へ目を向けた。
ハリーも黙ってコートを見下ろしていた。
そのとき、時春が相手の大柄な選手をかわし、ノアへ鋭いパスを送った。ノアはゴール下へ切り込み、力強いレイアップを決める。
「YES!」
エマが嬉しそうに立ち上がった。
ハリーは、そんな娘の横顔を見つめていた。
そして、少しだけ複雑そうに息を吐いた。
彼にとっては、試合の点差とはまったく別の問題が、静かに大きくなり始めていた。
◇
前半終了。
『BREAKERS 35 — 46 WOLVES』
十一点差。
ブレイカーズは第二クォーターでも十七点を奪っていた。時春がミドルレンジを決め、ノアがドライブから得点し、マイクも外側からシュートを沈めている。マイルズとトムはリバウンドで奮闘し、DJの速攻を止める場面も増えていた。
それでも、点差は二桁に広がっていた。
ロッカールームへ戻ると、選手たちは次々とベンチへ腰を下ろした。肩で息をするノア、汗を拭うマイルズ、静かに水を飲むマイク。トムは両膝へ手を置き、何度も呼吸を整えている。途中から出場した時春も、普段より明らかに疲れていた。
しかし、誰一人として集中力を失ってはいなかった。
ヘイズコーチがホワイトボードを持ち上げると、全員がすぐに顔を上げた。
「いいか。十一点差だ」
低い声だった。
「相手は強い。そんなことは、ここへ来る前からわかっていたはずだ。問題は、ここからどう戦うかだ」
選手たちが黙って聞いている。
ヘイズはペンを取り、コートの図へ何本か線を引いた。
「キーンからの速攻は、ある程度止められている。最初のように簡単なダンクを決められる場面は減った。そこは続けろ。だが、ハーフコートでの守備にまだ問題がある」
ペン先が、スリーポイントラインの外側を指した。
「DJがドライブしたとき、ヘルプに入ること自体は間違いじゃない。だが、ピアースを空けすぎだ。ノア、お前が寄るなら、誰が外側を埋めるのかまで考えろ。トムも同じだ。キーンはゴール下だけの選手じゃない。安易に離せば外から打たれる」
「Yes, Coach!」
ノアとトムが答えた。
ヘイズは続けた。
「それから、相手は守備でもよく連携している。パスコースを読まれている場面があるな。ボールを持ったら、味方の位置だけじゃなく、その手前にいるディフェンダーまで見ろ」
その言葉に、時春は顔を上げた。
以前にも、同じことを教わった覚えがあった。
ブレイカーズへ入ったばかりの頃。自分はパスが得意だと思っていたが、ヘイズから、ただ味方が見えたからといって投げてはいけないと注意されたことがある。
パスを通すためには、その先にいる味方だけでなく、途中の空間まで見なければならない。
当たり前のようで、難しいことだった。
「トキハル」
「……はい!」
「DJを守ってどうだった?」
突然の質問に、時春は少しだけ考え込んだ。
「……速いです」
ヘイズは黙っていた。
「あと、パスがすごくうまいです。俺がドライブを止めても、すぐに他の人を見つけるし……パスを警戒すると、今度は簡単に抜かれちゃって……」
時春は言葉を探した。
「……何か、全部見られてる感じがします」
ヘイズはゆっくりと頷いた。
「そうだろうな」
そして、選手たちを見渡した。
「だが、まだ半分ある。相手がどれほど優れた選手でも、八分間のクォーターを二つ戦えば、何かしらの情報は得られるはずだ。前半で見たものを無駄にするな」
マイルズが大きく頷いた。
「Yes, Coach!」
「お前たちの守備は、今夜よく集中している。そこは認める。だが、相手が上手いから仕方ないと考え始めたら、そこで終わりだ。十一点差なら、まだ十分に追いつける」
ヘイズはホワイトボードを閉じた。
「第三クォーター。もう一度、勝負しろ」
「YES, COACH!」
ロッカールームへ力強い声が響く。
時春も立ち上がった。
隣ではイーサンが、静かに拳を差し出していた。
「トキ。後半も頼むぞ」
「……うん!」
時春は拳を合わせた。
そして、小さく笑った。
「絶対、追いつこう!」
イーサンも笑った。
「ああ。まだ終わってないからな」
◇
第三クォーターが始まると、ブレイカーズは再び激しい守備を仕掛けた。
マイルズがオコナーへ体を寄せ、トムはキーンの位置を絶えず確認している。ノアはピアースがスクリーンを利用するたびに必死に追いかけ、マイクもホロウェイへ簡単なパスを通させないよう腕を伸ばしていた。
時春はDJの正面へ立った。
相手は、少しも疲れているようには見えなかった。
もちろん、汗はかいている。ユニフォームの首元は湿っており、呼吸も試合開始直後より深くなっていた。それでも、DJの足取りには余裕があった。ドリブルの高さも、ボールを持ち替える速度も、前半とほとんど変わらない。
ホロウェイからパスが渡る。
DJが右ウイングでボールを持った。
時春は、すぐに腰を落とす。
DJが右へフェイクを入れた。
時春は動かない。
左へ踏み込む。
時春はついていく。
DJはさらに速度を上げようとしたが、時春が先に進路へ回り込んだため、簡単にはペイントエリアへ入れなかった。
「……っ!」
時春は歯を食いしばった。
前半で、何度も同じ動きを見せられた。
右へ踏み込むときの肩の角度。
左へ切り返す直前の腰の沈み方。
そして、ドリブルの速度を変える瞬間。
すべてを完璧に読めるわけではなかったが、少しずつ相手の動きが見えてきていた。
DJが、ドリブルを止めた。
時春は思わず拳を握りそうになった。
しかし、その手前で思いとどまる。
まだ、終わっていない。
DJは周囲を見渡した。
ノアがピアースを追いかけている。マイクはホロウェイの前へ立ち、トムはキーンとゴール下で体をぶつけ合っていた。マイルズもオコナーを押さえ、簡単なパスを許すつもりはない。
今度こそ、誰も空いていない。
時春はそう思った。
しかし、DJは少しも困っていなかった。
彼はボールを高く掲げ、左側へパスを送った。
キーンだった。
トムが慌てて前へ出る。
だが、キーンはシュートを打たなかった。
ボールを受け取ると同時に、反対側へパスを回す。
そこには、ホロウェイがいた。
マイクが近づく。
ホロウェイもシュートを打たない。
今度は、コーナーへボールを送る。
ピアース。
彼はノアの背後を回り込みながら、すでにシュートの姿勢へ入っていた。
「……っ!」
ノアが全力で腕を伸ばす。
しかし、間に合わない。
ボールが放たれた。
そして、ネットを揺らした。
シュッ。
「THREEEEE!」
ウルブズの応援席から歓声が上がる。
時春は、ゆっくりと息を吐いた。
今度こそ、DJを止めたはずだった。
それでも、三点を取られた。
DJがパスを出したあと、キーンが回し、ホロウェイがつなぎ、最後にピアースが決めた。四人の間をボールが移動するうちに、ブレイカーズの守備には少しずつずれが生まれ、そのずれを相手は正確に利用していたのである。
ウルブズは、DJ一人のチームではなかった。
その事実を、何度も思い知らされていた。
だが、それでもなお、DJの存在が特別であることは疑いようがなかった。
彼がボールを持つだけで、守備の視線が集まる。
彼がドライブを始めれば、誰かが必ずカバーへ動く。
その一歩が、他の選手を自由にしてしまう。
DJは、自分で得点しなくても、相手の守備を動かしていたのである。
◇
しかし、時春が驚かされたのは、守備のときだけではなかった。
攻撃でも、DJは奇妙なほど大きな存在感を放っていた。
第三クォーター残り五分。
時春はトップでボールを持ち、マイルズへスクリーンの合図を送った。右側にはマイクが立ち、左コーナーではノアがディフェンダーの背後を狙っている。トムはゴール下でキーンと位置を争い、パスを受けられるように両腕を上げていた。
時春はマイルズのスクリーンを利用し、鋭く右へドライブした。
正面のホロウェイが一瞬遅れる。
オコナーが前へ出てきた。
その隙に、マイルズがゴールへ向かって走り込む。
……いける!
時春はパスを出そうとした。
しかし、その瞬間、DJが動いた。
マイルズへ届くはずだったパスコースに、長い腕が伸びてくる。時春は咄嗟にボールを引き戻し、ドリブルを続けた。
危なかった。
あと少し判断が遅ければ、またしてもボールを奪われていたかもしれない。
時春は左へ切り返した。
すると、DJはマイルズのマークへ戻り、ホロウェイが再び時春の正面へ立つ。守備の位置は、ほとんど乱れていなかった。
時春は周囲を見渡した。
マイクにはホロウェイからのカバーが戻るかもしれない。ノアはピアースに体を寄せられている。トムの前にはキーンがいた。
そして、自分の前。
フリースローラインの少し手前には、ほんのわずかな空間が生まれていた。
普段の時春なら、迷わずミドルレンジを打っていてもおかしくない位置だった。
しかし、彼は打たなかった。
代わりに、左側へパスを送った。
「NOAH!」
ノアが受け取る。
だが、ピアースはすでに正面へ戻っていた。
「……ちっ!」
ノアは一度ドリブルをしたが、簡単には抜けない。結局、ボールをマイルズへ戻し、そこから再び時春へ渡すことになった。
攻撃時間が減っていく。
時春はもう一度、味方の位置を確かめようとした。
しかし、相手の守備はほとんど崩れていなかった。
最後はマイルズが苦しい体勢からジャンプシュートを放ち、ボールはリングの奥側へ当たって跳ね返った。
キーンがリバウンドをつかむ。
そして、すぐに前方へ顔を向けた。
「GET BACK!」
マイルズが叫ぶ。
時春は全力で走り出した。
DJが前方へ走っている。キーンから長いパスが飛んだが、今度は時春が先にコースへ入り、簡単な速攻を許さなかった。DJも無理に突っ込まず、ホロウェイへボールを戻して攻撃を組み立て直した。
守備では、何とか対応できた。
しかし、時春の頭の中には、先ほどの攻撃が残っていた。
あのとき。
自分の前には、確かに空間があった。
得意なミドルレンジを打てるだけの距離もあった。
それなのに、自分はパスを選んだ。
……どうしてだろう。
その疑問が、胸の奥へ小さく引っかかった。
パスを出すことは、間違いではない。
むしろ、それこそがポイントガードの仕事だと、ずっと思ってきた。
自分が無理に得点しようとするより、良い位置にいる仲間へボールを渡す。マイクが空いていればスリーポイントを打ってもらい、ノアがゴール下へ走ればパスを送り、マイルズが有利な位置を取れば迷わずボールを預ける。
時春は、それが好きだった。
仲間がシュートを決める瞬間を見るのが、何より嬉しかった。
しかし、今夜のウルブズは、その考えを見透かしているようだった。
時春がボールを持つと、相手はまずパスコースを警戒する。スクリーンを利用して少しでも中へ入ろうとすれば、マイルズやトムへボールが渡る道を塞いでくる。時春が自分で得点する可能性を、まったく考えていないわけではないだろう。それでも、相手は明らかに、彼が味方へパスを出すことを優先して警戒していた。
そして、自分はその予想どおりに動いている。
……あれ?
時春は、ほんの少しだけ眉をひそめた。
しかし、その疑問を考え続ける余裕はなかった。
ホロウェイがDJへパスを送ったのである。
時春はすぐに腰を落とした。
まだ、守らなければならない。
今は、試合の途中なのだから。
◇
第三クォーターは、少しずつ進んでいった。
ブレイカーズは決して諦めなかった。ノアがドライブから得点を奪い、マイクが鋭いパスを受け取ってスリーポイントを沈める。マイルズはオコナーの上からリバウンドをつかみ、トムはキーンに簡単なシュートを打たせまいと最後まで腕を伸ばした。時春も、一度はDJのドライブを完全に止め、苦しいジャンプシュートを打たせることに成功した。
そのシュートが外れた瞬間、ブレイカーズのベンチから大きな歓声が上がった。
「NICE D!」
イーサンが立ち上がる。
時春は小さく拳を握った。
……よし!
しかし、そのボールを拾ったのは、オコナーだった。
彼はマイルズの背後へ回り込み、長い腕を伸ばしてオフェンスリバウンドを奪い取ると、そのまま両手でリングへ押し込んだ。
時春は思わず天井を仰いだ。
止めたはずだった。
それなのに、また二点を取られてしまった。
誰か一人の守備がよければ済む話ではないのだ。DJを止めても、オコナーがいる。オコナーを押さえても、キーンがいる。ピアースも、ホロウェイも、ほんのわずかな隙があれば容赦なく得点を奪ってくる。
そして、その誰もが、自分の役割を理解していた。
それこそが、ウルブズの強さだった。
スコアボードの数字は、少しずつ開いていく。
ブレイカーズが得点しても、ウルブズが取り返す。
ノアがレイアップを決めれば、ピアースがスリーポイントを沈める。マイルズがゴール下で得点すれば、キーンが外側からジャンプシュートを返す。時春がドライブで守備を揺さぶり、マイクへパスを送っても、次の攻撃ではDJがまったく同じように仲間を自由にしてしまう。
しかも、DJはそれだけでは終わらなかった。
時春がパスを警戒すれば、迷わずドライブを仕掛ける。
時春が進路を塞げば、今度は簡単に仲間へパスを送る。
その繰り返しによって、ブレイカーズの守備は少しずつ疲弊していった。
DJはシューティングガードでありながら、ポイントガードのようにチームを動かしていた。自分がボールを持てば、相手が何を警戒するのかを見極める。そして、その反応に合わせて、最も確率の高い攻撃を選ぶ。彼自身が得点することもあれば、仲間へボールを預けることもある。いずれにしても、相手の守備は彼の存在によって動かされていた。
まるで、コート全体がDJの意思に従っているかのようだった。
そして、第三クォーターも中盤へ差しかかった頃。
『BREAKERS 47 — 58 WOLVES』
十一点差。
ブレイカーズは、必死に追いかけていた。
しかし、差は縮まらなかった。
そのとき、ウルブズの攻撃が始まった。
◇
ホロウェイがゆっくりとボールを運び、右手で小さく合図を送った。
DJが左ウイングからトップ付近へ上がってくる。
時春は、その動きについていった。
すでに脚には疲労がたまっていた。何度もドライブへ反応し、スクリーンを避け、DJの大きな体へ必死についていくうちに、太腿の奥が重くなっている。額から流れた汗が顎を伝い、ユニフォームの胸元には濃い汗の跡が広がっていた。
それでも、足を止めるつもりはなかった。
DJがボールを受け取る。
時春は腰を落とす。
「……来い!」
思わず口から声が漏れた。
DJは時春を見た。
そして、ゆっくりとドリブルを始めた。
右へ一度。
左へ一度。
低い位置でボールが弾む。
時春は相手の腰へ視線を集中させた。前半から何度も対戦してきたおかげで、DJの動きには少しずつ慣れてきている。最初の一歩さえ止められれば、簡単にはゴールへ入らせずに済む。そう考え、両脚へ力を込めた。
DJが右へ顔を向けた。
その先にはピアースがいた。
彼はコーナーから少し上がり、パスを受け取れる位置へ移動している。ノアも必死についていたが、DJからボールが渡れば、また一瞬のシュートチャンスが生まれるかもしれない。
時春は、パスコースへ右腕を伸ばした。
その瞬間、DJが動いた。
右足が大きく踏み込まれる。
ドリブルの音が変わった。
時春は反応した。
しかし、DJの動きは、それよりわずかに速かった。
彼は右へ踏み込むと見せかけ、ボールを左手へ持ち替えた。そのまま低く体を沈め、一気に時春の外側を抜けていく。
「……っ!」
時春は必死に足を滑らせた。
だが、DJの長い一歩が、その外側へ伸びていた。
体が半歩遅れる。
DJはその隙にペイントエリアへ進入した。
「HELP!」
マイルズが叫ぶ。
トムがゴール下から前へ出てきた。
二メートルを超えるセンターの長い腕が、DJの進路へ伸びる。マイルズもオコナーを押さえながら、いつでもカバーへ入れる姿勢を取っていた。
しかし、DJは止まらなかった。
右手で最後のドリブルを強く床へ叩きつける。
ボールが戻ってくる。
それを両手で受け止める。
そして、床を蹴った。
時春には、DJの体が一瞬で高く浮き上がったように見えた。
長い脚が持ち上がり、肩がトムの伸ばした腕の横を通り抜けていく。トムも跳び上がっていたが、DJの踏み切る角度がよく、正面からボールを捉えることができない。
DJは空中で右手にボールを持ち替えた。
リングが、すぐ目の前にあった。
その右腕が、大きく振り上げられる。
次の瞬間。
ガシャアアアアンッ!!
凄まじい音が、体育館へ響き渡った。
片手のダンク。
トムのカバーをかわし、リングの上から力強く叩き込む一撃だった。
「OOOOOOOOOOOOHHHHHH!!」
ウルブズの応援席が、一斉に立ち上がった。
紺色と銀色のタオルが振られ、何百人もの観客がDJの名前を叫び始める。コートサイドのカメラマンたちは一斉にシャッターを切り、記者席では何人もの大人が興奮したように身を乗り出していた。
「DJ! DJ! DJ!」
その声は、体育館全体を揺らすほど大きかった。
DJはリングから手を離し、床へ着地した。
軽く右手を握る。
そして、すぐに守備へ戻り始めた。
時春は、その後ろ姿を見つめていた。
……まただ。
何度目だろう。
パスを警戒した。
すると、ドライブで抜かれた。
リングへ向かう進路を塞ごうとすれば、今度は簡単にパスを出される。
DJは、自分で得点することも、仲間へ得点させることもできる。
しかも、そのどちらを選ぶのか、最後までわからない。
スコアボードが更新された。
『BREAKERS 47 — 60 WOLVES』
十三点差。
第三クォーター、残り四分を少し過ぎたところだった。
ヘイズコーチが、たまらずタイムアウトを要求した。
ピーッ!
審判の笛が鋭く響く。
「TIMEOUT! BREAKERS!」
選手たちはゆっくりとベンチへ戻り始めた。
マイルズは大きく息を吐き、ノアは悔しそうに首を振っている。トムは額の汗を拭い、マイクは無言でスコアボードを見上げていた。彼らの誰も、手を抜いていたわけではない。むしろ、これほど全員が集中している試合は珍しいほどだった。
それでも、十三点差がついていた。
自分たちより強いチームがある。
それ自体は、驚くべきことではない。
しかし、その強さを目の前で何度も見せつけられることは、時春が想像していた以上に苦しいことだった。
◇
時春はベンチへ戻ると、椅子へ腰を下ろした。
荒い息が、なかなか落ち着かない。
喉が乾いていた。脚には疲労がたまり、ユニフォームは汗で肌へ張りついている。タオルを受け取って顔を拭いたが、すぐにまた額から汗が流れてきた。
隣ではノアが水を飲み、マイルズが仲間たちへ何かを話している。
ヘイズコーチはホワイトボードを手に、次の指示を出す準備をしていた。
しかし、時春はまだ、そちらへ顔を向けられなかった。
彼の視線は、コートの反対側へ向けられていた。
ウルブズのベンチ。
そこに、DJがいた。
彼はタオルを肩へかけ、キーンやホロウェイと何かを話していた。先ほどまであれほど激しくプレーしていたというのに、その表情にはほとんど焦りが見られない。キーンが何かを指差すと、DJは小さく頷き、短く返事をしている。隣ではピアースが水を飲み、オコナーがコーチの言葉に耳を傾けていた。
どこにでもいる、試合中の高校生たちの姿だった。
しかし、ほんの数十秒前まで、彼らはブレイカーズの守備を完全に翻弄していたのである。
時春は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、DJを見つめながら、先ほどから胸の奥に引っかかっていた疑問について考え始めた。
自分とDJは、何が違うのだろう。
もちろん、身体能力の差はある。身長も、腕の長さも、跳躍力も、今の自分とは比べものにならない。DJには豪快なダンクを決める力があり、長い一歩で相手を抜き去ることができる。
しかし、それだけではなかった。
時春は、この試合で何度もDJのドライブを止めていた。
完璧に守れた場面もあった。
それなのに、DJは困らなかった。
進路を塞がれれば、パスを出す。
パスを警戒されれば、今度は自分で得点する。
彼は、どちらもできるのだ。
時春は、そのことをもう一度考えた。
どちらも、できる。
……あれ?
胸の奥に、小さな光が灯ったような気がした。
時春はゆっくりと顔を上げた。
DJがパスを出すとき、どうして周囲の選手が空くのだろう。
それは、彼のパスが上手いからだけではない。
DJがボールを持つと、相手のディフェンダーは必ず彼を警戒する。ドライブを許せば簡単に得点される。外からシュートを打たれても危険だ。だから、DJがリングへ向かって一歩踏み込んだ瞬間、守備はどうしても彼へ意識を向けてしまう。
そうして初めて、別の選手が自由になる。
ピアースが空く。
キーンが空く。
オコナーがゴール下へ走り込める。
DJがパスを出す前から、相手の守備は彼によって動かされているのだ。
ならば。
時春は、自分が先ほどシュートを打たなかった場面を思い出した。
フリースローラインの少し手前。
自分の得意な位置。
相手の守備が、ほんのわずかに距離を取っていた瞬間。
あそこで自分は、仲間へパスを出そうとした。
そして、相手はそれを読んでいた。
……そっか。
時春は、ようやく気づいた。
自分はこれまで、ポイントガードとは、仲間に良いパスを出す選手なのだと思っていた。
もちろん、それは間違いではない。
イーサンはいつも、味方をよく見ろと教えてくれた。ヘイズコーチも、相手の守備が何を警戒しているかを考えろと言った。マイルズやノア、マイクやトムの得意な場所を覚え、そこへ正確なボールを届けること。それは今でも、時春にとって何より大切な仕事だった。
しかし。
それだけでは、足りないのかもしれなかった。
DJを見ていると、わかる。
彼がパスを出せるのは、単に視野が広いからではない。
彼自身が、相手にとって危険な存在だからだ。
ドライブで得点されるかもしれない。
外からシュートを決められるかもしれない。
ゴール下まで入り込まれれば、ダンクを叩き込まれるかもしれない。
そう思わせる力があるからこそ、相手は彼へ守備を寄せる。
そして、そこに生まれた空間を使って、DJは仲間を自由にしている。
時春は、ゆっくりと両膝の上で拳を握った。
真のポイントガードとは、ただパスを配るだけの選手ではない。
相手に、自分でも得点を奪えるのだと示し続けること。
自分がリングを脅かせるからこそ、仲間へのパスが生きる。
自分で得点することと、仲間に得点させることは、決して反対のものではない。
むしろ、その二つはつながっているのだ。
時春は、思わず小さく笑った。
……そういうことか。
クリスマスの夜、キングDのプレーを見たときにも感じていたはずだった。相手が二人で囲めば、空いた味方へパスを出す。守備が距離を取れば、自分で得点する。あのときは、その判断の速さに感動していた。
しかし、今は少し違うことが見えていた。
相手がなぜ二人で囲もうとするのか。
なぜ、仲間が空くのか。
なぜ、パスを出す前から守備が動いてしまうのか。
その答えは、パスそのものではなく、パスを出す選手の得点能力にあったのだ。
時春は再び、ウルブズのベンチを見た。
DJは、まだ仲間たちと話している。
その姿は、自分と同じ一年生の少年にしか見えなかった。
それなのに、彼は今、自分の知らなかったバスケットボールを教えてくれているようだった。
憧れ。
悔しさ。
そして、もっと上手くなりたいという思い。
それらが胸の奥で混ざり合い、何とも言えない熱を生み出していた。
時春は、ゆっくりと息を吸った。
自分には、DJのような身長も跳躍力もない。
けれど、ミドルレンジがある。
小柄な体を生かしたドリブルもある。
ディフェンダーの重心をずらし、わずかな空間へ入り込む速さだってある。
その武器を、自分はまだ十分に使えていなかったのではないか。
仲間のためにパスを出そうとするあまり、相手へ自分の得点能力を見せることを忘れていたのではないか。
もし、自分が得点を狙えば。
相手は、自分のシュートを警戒する。
そうすれば、仲間が空く。
そのときに出すパスは、今までとは違うものになるかもしれない。
時春は、息を切らしたまま、じっとDJを見つめ続けていた。
十三点差。
第三クォーターの中盤。
試合はまだ終わっていない。
そして、今の自分には、まだ試せていないことがある。
その思いが、胸の奥で少しずつ形を持ち始めていた。
だが、時春は気づいていなかった。
自分がDJを見つめている、その姿を。
別の誰かが、ずっと見ていたことに。
グラント・ヘイズ。
ブレイカーズのヘッドコーチだった。
ヘイズはホワイトボードを手にしたまま、しばらく時春の横顔を見つめていた。汗に濡れた前髪。肩を上下させる荒い呼吸。そして、相手ベンチへ向けられた、先ほどまでとは少し違う眼差し。
その目には、敗北を恐れる色がなかった。
自分より優れた選手を前にして、ただ圧倒されているわけでもない。
何かを考えている。
何かに気づき始めている。
ヘイズには、そう見えた。
彼はこれまで何度も、時春が試合の中で成長する瞬間を見てきた。初めてチームへ加わった頃、ただ仲間へパスを送ることが楽しくて仕方なかった少年。実戦を重ねるうちに、相手の守備を読み、時には自分でシュートを放ち、少しずつ攻撃を組み立てられるようになってきたポイントガード。
しかし、その少年にはまだ、越えるべき壁があった。
ヘイズは、それを以前から感じていた。
そして今。
ウェストゲートのベンチへ視線を向け続ける時春を見て、コーチは静かに目を細めた。
少年の中で、何かが変わろうとしている。
そのことに、ヘイズは気づいていたのである。