CRESCENT BAY ACADEMY   作:西野圭吾

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第3話 ソーリーライフ

 

アメリカでの高校生活が始まって、数日が経った。

 

高山時春は、この短い期間で一つの大きな事実に気づいていた。

 

英語は、難しい。

 

もちろん、そんなことは日本にいた頃から知っていた。単語を覚えるのも大変だし、文法だってややこしい。過去完了や現在完了など、名前を聞くだけで頭が痛くなる。

 

だが、アメリカに来て初めて実感した。

 

教科書に載っている英語と、アメリカ人が実際に話す英語は、どうやら別の生き物らしい。

 

特にジェイク。

 

あいつは何なんだ。

 

昨日もカフェテリアで隣に座るなり、猛烈な勢いで話しかけてきた。聞き取れたのは「Football」「Friday」「Awesome」の三単語だけ。たぶんアメフトの話だったのだろうが、結局、何を伝えたかったのかはわからなかった。

 

おまけに、時春が「イエス!」と返したら、ジェイクは大喜びしていた。

 

……何か約束した?

 

まあ、いい。あとでエマに聞こう。

 

そんなわけで、普通の授業では相変わらず苦戦している時春だったが、今日は少し楽しみにしている授業があった。

 

ESL。

 

English as a Second Language。英語を母語としない生徒のための、英語支援授業である。

 

CBAには世界各国から留学生が集まっており、英語に不安のある生徒は、この授業で会話や読解、作文などを学ぶことになっていた。

 

つまり、何が言いたいかというと。

 

ここには、自分と同じように英語が苦手な人間がいる。

 

素晴らしい。

 

この学校にも、ちゃんと仲間がいたのだ。

 

◇

 

ESLの教室は、図書館に近い小さな校舎の一階にあった。

 

大きな窓から明るい日差しが差し込み、壁には世界地図や色とりどりのポスターが貼られている。机は四人ずつ向かい合う形に並び、教室の奥には英語の本がぎっしり詰まった棚があった。

 

時春が入ったときには、すでに十人ほどの生徒が席についていた。みんな何となく緊張しているらしく、普段の授業に比べると教室はずいぶん静かだった。

 

「Hello! Come on in!(こんにちは! さあ、入って!)」

 

教室の前に立っていた女性教師が、笑顔で手招きする。

 

「You can sit anywhere you like.(好きな席に座っていいわよ)」

 

「オーケー! サンキュー!」

 

時春は近くの空席へ向かった。

 

同じテーブルには、すでに三人の生徒が座っていた。

 

一人目は、黒髪の少年だった。整った顔立ちに、どこか落ち着いた雰囲気がある。机の上には小さなカメラが置かれており、彼はその画面を操作していた。

 

二人目は、くるくるとした黒い髪の少年。日に焼けた肌に明るい笑顔を浮かべ、椅子の背もたれに野球帽を引っかけている。隣の女子に、何やら一生懸命話しかけていた。

 

そして三人目は、長い黒髪の女の子だった。少しウェーブのかかった髪に、はっきりとした目元。鮮やかな色のトップスを着て、机の上で指をトントンと動かしている。

 

時春が近づくと、最初に野球帽の少年が顔を上げた。

 

「Hey!(よう!)」

 

「あっ、ハロー!」

 

「You can sit here!(ここ空いてるぜ!)」

 

「サンキュー!」

 

時春は空いていた椅子に腰を下ろした。

 

少年が笑顔で手を差し出してくる。

 

「I’m Mateo! Mateo Rosario!(俺はマテオ! マテオ・ロサリオだ!)」

 

「マテオ?」

 

「Yeah! But you can call me Teo!(そう! でもテオって呼んでくれよ!)」

 

「テオ! オーケー!」

 

時春も握手を返した。

 

「アイム、トキハル! コール・ミー、トキ!」

 

「Toki! Nice! Where are you from?(トキか! いい名前だな! どっから来たんだ?)」

 

「ジャパン!」

 

「Japan!? Oh, cool!(日本!? マジか、最高じゃん!)」

 

マテオ――テオは嬉しそうに笑った。

 

今度は、カメラを持っていた少年が顔を上げる。

 

「I’m Min-jun. Yoon Min-jun. From Korea.(僕はミンジュン。ユン・ミンジュン。韓国から来たんだ)」

 

「コリア! ナイス・トゥ・ミート・ユー!」

 

「You can call me MJ.(MJでいいよ)」

 

「エムジェイ?」

 

「Yeah. Easier, right?(うん。そのほうが呼びやすいだろ?)」

 

「イエス!」

 

ミンジュンは小さく笑った。

 

最後に女子生徒が片手を上げる。

 

「I’m Isabela. From Brazil. Call me Izzy.(あたしはイザベラ。ブラジルから来たの。イジーって呼んで!)」

 

「イジー! ナイス・トゥ・ミート・ユー!」

 

「Nice to meet you, Toki.(よろしくね、トキ!)」

 

イザベラ――イジーは、にっと笑った。

 

韓国、ドミニカ共和国、ブラジル、そして日本。

 

たった一つのテーブルに、四つの国が集まっている。

 

何だか不思議な光景だった。

 

日本にいた頃は、同じ教室にこれほど多くの国の生徒がいるなんて考えたこともなかった。

 

しかも、四人に共通する言語は英語だけ。その英語を、全員が勉強中なのである。

 

……これ、ちゃんと会話できるのかな。

 

「Alright, everyone!(さあ、みんな!)」

 

先生が手を叩いた。

 

「Welcome to ESL! My name is Ms. Reed.(ESLの授業へようこそ! 担当のリードです)」

 

リード先生、というらしい。

 

彼女はホワイトボードに自分の名前を書き、ゆっくりとした口調で説明を始めた。

 

「In this class, you don’t have to speak perfect English. It’s okay to make mistakes.(この授業では、完璧な英語を話す必要はありません。間違えても大丈夫よ)」

 

パーフェクト・イングリッシュ。

 

メイク・ミステイクス。

 

間違えても大丈夫、ということだろうか。

 

先生は教室を見回し、にっこり笑った。

 

「The important thing is to try. So, let’s talk!(大切なのは挑戦すること。さあ、どんどん話してみましょう!)」

 

よし。喋れってことだな。

 

それなら、頑張ろう。

 

◇

 

最初の授業は、簡単な自己紹介だった。

 

名前、出身国、好きなもの、将来の夢。先生がホワイトボードに質問を書き、それを参考に四人で会話する。

 

まず口を開いたのはテオだった。

 

「Okay! I go first!(よっしゃ! じゃあ俺からいくぜ!)」

 

彼は胸を張った。

 

「I’m Mateo! I’m fifteen! I’m from Dominican Republic! I love baseball!(俺はマテオ! 十五歳! ドミニカ共和国から来たんだ! 野球が大好きだぜ!)」

 

ベースボール。

 

その単語に、時春は反応した。

 

「オー! ベースボール!」

 

「Yeah! I play baseball! Shortstop!(おう! 俺、野球やってんだ! ポジションはショート!)」

 

「ショート!?」

 

「Yes! You know baseball?(そうそう! お前も野球わかるのか?)」

 

「イエス!」

 

もちろん知っている。

 

日本人にとって、野球はかなり身近なスポーツだ。時春自身はバスケ一筋だが、プロ野球のニュースくらいは見る。

 

そして、アメリカの野球といえば。

 

「ショウヘイ・オオタニ!」

 

時春がその名前を口にした瞬間、テオの目が大きく見開かれた。

 

「SHOHEI OHTANI!?(大谷翔平だって!?)」

 

「イエス!」

 

「BRO! I LOVE OHTANI!(おい、マジかよ! 俺、大谷が大好きなんだ!)」

 

テオが勢いよく机を叩いた。

 

おお。すごい食いつきだ。

 

「He’s incredible! Hitting, pitching, everything! Oh my god!(あいつはマジで化け物だぜ! バッティングもピッチングも全部すげえ! 信じらんねえよ!)」

 

「イエス! アメイジング!」

 

「And the Dodgers! Man, I wanna see him play in person!(しかもドジャースだぜ! ああ、一度でいいから生でプレーを見てえなあ!)」

 

「ドジャース! イエス!」

 

テオは興奮した様子でスマートフォンを取り出し、大谷翔平の写真を見せてきた。

 

「Look! Look at this!(見ろよ! これ見てくれ!)」

 

「オー!」

 

「He’s a monster, man! A MONSTER!(こいつは怪物だぜ! 正真正銘の怪物だ!)」

 

モンスター。

 

なるほど。怪物ってことか。

 

「イエス! オオタニ、モンスター!」

 

「HAHA! EXACTLY!(ははは! そう! まさにそれだよ!)」

 

二人は大笑いした。

 

そこから会話は一気に盛り上がった。

 

テオはメジャーリーグが大好きらしく、大谷以外の選手についても次々と名前を挙げてくる。正直、半分くらいは知らなかったし、興奮すると早口になるため、英語もどんどん聞き取れなくなった。

 

それでも、不思議と楽しかった。

 

テオがバットを振る真似をすれば、時春も「ホームラン!」と叫ぶ。投球フォームを真似すれば、二人で笑う。

 

言葉は不完全でも、好きなスポーツの話なら何となく通じるものらしい。

 

「I wanna play in MLB someday!(いつか絶対、メジャーでプレーするんだ!)」

 

テオが胸を張った。

 

MLB。メジャーリーグ。

 

その言葉は、時春にもはっきりと聞き取れた。

 

「ワオ! グレート!」

 

「What about you? You play sports?(お前はどうなんだ? 何かスポーツやってるのか?)」

 

「あ、イエス! アイ、プレイ、バスケットボール!」

 

「Basketball!? Nice!(バスケか!? いいじゃん!)」

 

テオは笑顔で拳を差し出してきた。

 

時春も拳を合わせる。

 

「Let’s go, Toki!(最高だぜ、トキ!)」

 

「レッツゴー!」

 

何だか、めちゃくちゃ気が合いそうだ。

 

同じプロスポーツ選手を目指す者同士。まだ夢の詳しい話まではできなかったが、テオの目が輝いている理由は何となくわかった。

 

こいつ、本当に野球が好きなんだな。

 

「Okay, okay. My turn.(はいはい、次はあたしの番ね)」

 

隣でイジーが手を上げた。

 

「I’m Isabela. I’m from São Paulo, Brazil. I love music.(あたしはイザベラ。ブラジルのサンパウロ出身よ。音楽が大好きなの)」

 

「ミュージック!」

 

「Yeah. I play piano. And I make music on my computer.(そう。ピアノを弾くし、パソコンでも曲を作ってるんだ)」

 

「ワオ! クール!」

 

イジーは少し得意そうに笑った。

 

「I wanna make music for movies and games.(将来は映画とかゲームの音楽を作りたいの!)」

 

映画やゲームの音楽。

 

なるほど。

 

時春は思わず身を乗り出した。

 

「ゲーム!? アイ、ラブ、ゲーム!」

 

「Really?(ほんとに?)」

 

「イエス! マインクラフト!」

 

「Minecraft? Oh, I know that!(マインクラフト? ああ、知ってる知ってる!)」

 

イジーが笑った。

 

「The music is beautiful. Very relaxing.(あのゲームの音楽、すごく綺麗よね。聴いてると落ち着くし)」

 

「イエス!」

 

あのピアノの音楽か。

 

確かに、マイクラの音楽はいい。何時間も洞窟で採掘して、地上に戻ったときに流れると、何だか妙に落ち着く。

 

隣でMJも小さく頷いていた。

 

「Minecraft music is good.(マイクラの音楽はいいよね)」

 

「イエス!」

 

時春は嬉しくなった。

 

おお、ゲーム仲間もいた。

 

ラリーに紹介したら喜ぶだろうか。

 

……いや、あいつは最初、めちゃくちゃ警戒しそうだな。

 

そして、最後はMJの番だった。

 

「I’m Min-jun. From Seoul, Korea.(僕はミンジュン。韓国のソウル出身だよ)」

 

彼は少し考えてから、机に置いていたカメラを持ち上げた。

 

「I like movies. And filming videos.(映画が好きなんだ。それと、動画を撮るのもね)」

 

「ムービー!」

 

「Yeah. I wanna be a film director.(うん。将来は映画監督になりたいんだ)」

 

映画監督。

 

なるほど。それでカメラを持っていたのか。

 

「ワオ! ナイス!」

 

時春は笑顔で頷いた。

 

韓国。映画。

 

……韓国の映画やドラマといえば。

 

そうだ。あれがあるじゃないか。

 

時春は自信満々に口を開いた。

 

「エムジェイ!」

 

「Yeah?(何?)」

 

「アイ、ノウ、コリアン・ドラマ!」

 

「Oh? Which one?(へえ? 何を知ってるの?)」

 

時春はにやりと笑った。

 

「……スクイッド・ゲーム!」

 

MJが一瞬固まった。

 

そして、苦笑する。

 

「……Of course.(……まあ、そうだろうね)」

 

「?」

 

「That’s the first thing you know?(よりによって、最初に出てくるのがそれ?)」

 

何やら言われたが、時春は止まらない。

 

椅子から立ち上がり、両手を広げた。

 

「レッド・ライト!」

 

ピタッとその場で固まり、

 

「グリーン・ライト!」

 

また動く。

 

日本の「だるまさんがころんだ」だ。

 

すると、テオが吹き出した。

 

「HAHAHA!(あはははは!)」

 

イジーも笑う。

 

「Oh my god, Toki!(ちょっと、トキ! 何やってんのよ!)」

 

MJは呆れたように額を押さえたあと、小さく笑った。

 

「You’re gonna die in the first round.(君、第一ゲームで即脱落だね)」

 

「……?」

 

何て?

 

ファースト・ラウンド?

 

MJは時春の動きを真似し、わざと大げさにふらふらと歩いてみせた。

 

「Too slow. You’re dead.(動きが遅すぎ。はい、死亡)」

 

「オー! ノー!」

 

時春が胸を押さえて倒れる真似をすると、三人はまた笑った。

 

よし。ウケた。

 

韓国人には、とりあえずイカゲーム。この作戦、大成功である。

 

……いや、たぶん次は違う韓国映画の話もできるようにしておこう。

 

「You guys having fun?(みんな、楽しそうね?)」

 

リード先生が笑いながら近づいてきた。

 

四人は一斉に頷いた。

 

「Yes!(はい!)」

 

「Good! Keep talking!(いいわね! その調子でどんどん話して!)」

 

先生は満足そうに笑って、別のテーブルへ向かっていった。

 

時春は椅子に座り直した。

 

気づけば、さっきまでの緊張はすっかり消えていた。

 

英語を間違えても、誰も馬鹿にしない。聞き取れなければ、もう一度言ってくれる。自分だって、相手の英語がわからないことがある。

 

でも、それでいい。

 

みんな同じなのだから。

 

授業の終わり頃には、四人ともかなり打ち解けていた。

 

テオは相変わらず野球の話をしているし、イジーは音楽制作のアプリを見せてくれた。MJは持ってきたカメラで、教室の様子を少しだけ撮影していた。

 

「Hey, Toki.(なあ、トキ)」

 

MJがカメラを向ける。

 

「Say something.(何か喋ってよ)」

 

「えっ?」

 

「For my video.(動画に使いたいんだ)」

 

「あー!」

 

時春は少し考えた。

 

何か喋ればいいのか。

 

よし。

 

カメラに向かって親指を立てる。

 

「ハロー! アイム、トキ! フロム、ジャパン!」

 

そして、満面の笑みで付け加えた。

 

「アイ、ラブ、アメリカ!」

 

「HAHA! Nice!(ははは! いいじゃん!)」

 

テオが笑い、イジーが拍手した。MJもカメラの向こうで笑っている。

 

「Perfect.(完璧だね)」

 

……何だか、いいな。

 

時春は素直にそう思った。

 

この学校には、自分と同じように遠い国からやってきた仲間がいる。

 

言葉も文化も違うけれど、それぞれが好きなものを持ち、将来の夢を抱いている。

 

そして何より、一緒に笑える。

 

アメリカに来てから、少しずつ自分の世界が広がっている気がした。

 

◇

 

ESLの授業が始まってから、時春は以前より積極的に英語を話すようになった。

 

もちろん、まだ上手ではない。先生の説明は相変わらず速いし、ジェイクが興奮すると何を言っているのかわからなくなる。

 

それでも、間違えることへの抵抗は少しずつ薄れていた。

 

わからなければ聞けばいい。間違えたら言い直せばいい。

 

ESLで教わった通りだ。

 

そして、もう一つ。時春には、学校生活で非常に重宝している英語があった。

 

Sorry。

 

ごめんなさい。

 

実に便利な単語である。

 

例えば、廊下で誰かとぶつかりそうになったとき。

 

「ソーリー!」

 

相手は軽く手を上げ、そのまま通り過ぎていった。

 

問題なし。

 

授業中に落とした消しゴムを、隣の生徒が拾ってくれたときも、

 

「ソーリー!」

 

「……Uh, you’re welcome?(……えっと、どういたしまして?)」

 

相手は少し不思議そうな顔をしたが、笑ってくれた。

 

これも問題なし。

 

さらに、カフェテリアでトレーを持ったまま立ち止まり、後ろの生徒の邪魔をしてしまったときも、

 

「ソーリー!」

 

「No worries!(気にすんなって!)」

 

おお。ノー・ウォーリーズ。心配するなってことか。

 

やっぱり便利だ。

 

人に迷惑をかけたかもしれないと思ったら、とりあえずSorry。それだけで大抵の場面は乗り切れる。

 

まだ英語が下手な自分にとって、これほど心強い言葉はなかった。

 

時春はすっかり味を占めていた。

 

そう。あの体育の授業までは。

 

◇

 

その日の午後。

 

CBAの広いグラウンドには、真っ青な空が広がっていた。

 

八月のカリフォルニアは日差しが強い。人工芝のフィールドには白いラインが引かれ、その向こうにはアメリカンフットボール用のゴールポストが見える。

 

周囲には背の高いヤシの木が並び、海から吹いてくる風が汗を少しだけ冷ましてくれていた。

 

今日はPhysical Education 9、体育の授業だった。

 

時春にとっては、かなり楽しみにしていた科目である。

 

英語の授業では散々苦戦しているが、体を動かすことなら話は別だ。バスケットボールで鍛えた体力には、それなりに自信がある。

 

しかも、今日の授業はキャッチボールだった。

 

「Alright, everyone! Find a partner!(よーし、みんな! 二人一組になれ!)」

 

先生の声が響く。

 

生徒たちは二人一組になり、グラウンドに広がっていった。

 

「Toki!(トキ!)」

 

声をかけてきたのは、テオだった。

 

「Wanna be partners?(なあ、俺と組まねえ?)」

 

「あっ、テオ!」

 

時春は笑顔で頷いた。

 

「イエス!」

 

「Let’s go!(よっしゃ、行こうぜ!)」

 

二人はグローブとボールを受け取り、フィールドの端へ移動した。

 

野球部に入る予定のテオは、当然ながらキャッチボールにも慣れている。グローブをはめる手つきからして、何となく違った。

 

「Ready?(準備いいか?)」

 

「オーケー!」

 

時春はグローブを構えた。

 

テオが軽く腕を振る。

 

シュッ。

 

ボールがきれいな軌道を描いて飛んできた。

 

パシッ。

 

「ナイス!」

 

「Nice catch!(ナイスキャッチ!)」

 

時春もボールを投げ返す。

 

テオは余裕たっぷりにキャッチした。

 

「Not bad, Toki!(やるじゃん、トキ!)」

 

「サンキュー!」

 

うん。悪くない。

 

球技なら、ある程度は何とかなる。

 

時春が少し得意になっていると、何度かやり取りを繰り返したところで、テオが少しだけ距離を取った。

 

「Okay! Little farther!(よっしゃ! もうちょい離れるぞ!)」

 

「オーケー!」

 

テオが腕を振りかぶる。

 

そして。

 

シュッ!

 

「……えっ」

 

速っ。

 

さっきより明らかに速い。白いボールが一直線に飛んでくる。

 

時春は慌ててグローブを伸ばしたが、わずかにタイミングが合わなかった。

 

バシッ!

 

ボールはグローブの先端をかすめ、そのまま後ろへ転がっていった。

 

「あっ!」

 

時春は慌てて振り返った。

 

「ソーリー!」

 

転がったボールを追いかける。

 

テオは笑いながら手を振った。

 

「It’s okay, man!(いいって、気にすんなよ!)」

 

時春はボールを拾い、投げ返す。

 

「ソーリー!」

 

「No problem!(全然問題ねえって!)」

 

大丈夫らしい。よかった。

 

時春が再びグローブを構えた、そのときだった。

 

「Yo, Teo!(おい、テオ!)」

 

すぐ隣でキャッチボールをしていた男子生徒が、大きな声を上げた。

 

「Stop interrupting Toki’s sorry life!(トキの謝罪人生を邪魔してやるなよ!)」

 

「…………」

 

時春は首を傾げた。

 

何て言った?

 

トキ。ソーリー。ライフ。

 

……ソーリー・ライフ?

 

謝る人生?

 

何だそれ。

 

すると、テオが突然吹き出した。

 

「PFFFT――HAHAHAHA!(ぶっ……あっはははは!)」

 

隣の男子も笑い始める。

 

「Dude! He says sorry for EVERYTHING!(だってこいつ、何でもかんでも謝ってんだぜ!)」

 

「HAHA! I KNOW!(あはは! だよな!)」

 

さらに近くの生徒たちまで振り返った。

 

「What happened?(おい、何があったんだ?)」

 

「Toki’s sorry life, man!(トキのソーリー・ライフだよ!)」

 

「HAHAHAHA!(あはははは!)」

 

笑い声が広がっていく。

 

気づけば、周囲の何人もの生徒がこちらを見て笑っていた。中には面白がって「Sorry! Sorry!(ごめん! ごめん!)」と真似するやつまでいる。

 

……え?

 

何がそんなに面白いの?

 

時春は呆然と立ち尽くした。

 

さっきの言葉を、頭の中で必死に翻訳する。

 

ストップ。インタラプティング。トキズ・ソーリー・ライフ。

 

……トキの謝罪人生を邪魔するな?

 

つまり、俺が謝ってばかりいるってことか?

 

「HAHA! Sorry life! That’s hilarious!(あっははは! ソーリー・ライフ! 傑作だぜ!)」

 

テオが腹を抱えて笑っている。

 

時春は少し顔を赤くした。

 

いや、そんなに笑うことか?

 

確かにSorryはよく使うけど、だって便利じゃないか。他に何て言えばいいのかわからないし。

 

「Toki! You okay, bro?(おい、トキ! 大丈夫かよ?)」

 

テオが笑いながら声をかけてきた。

 

「アー……イエス!」

 

「HAHA! Don’t say sorry!(あはは! 謝るなよ!)」

 

「…………」

 

くっ。こいつまで。

 

時春が頬を膨らませていると、テオは申し訳なさそうに両手を上げた。

 

「Sorry, sorry! I’m joking!(悪い悪い! 冗談だって!)」

 

「…………」

 

おい。お前もSorryって言ってんじゃねえか。

 

そのままキャッチボールは再開されたが、周囲の生徒たちはしばらく思い出したように笑っていた。

 

時春も何となく笑って誤魔化した。別に、悪意があるわけではなさそうだ。テオだって、普段はいいやつである。

 

でも。

 

……何だよ、ソーリー・ライフって。

 

ちょっとだけ、腹が立った。

 

◇

 

体育の授業が終わったあとも、時春の頭にはあの言葉が残っていた。

 

ソーリー・ライフ。

 

謝ってばかりの人生。

 

……ちくしょう。絶対バカにされた。

 

時春はリュックを肩にかけ、校舎へ戻る道を歩いていた。

 

周囲では生徒たちが楽しそうに話している。グラウンドからはまだボールを蹴る音が聞こえ、遠くの体育館では誰かがバスケットボールをついているらしかった。

 

いつもなら少し寄り道して、その様子を見に行くところだ。だが、今日はそんな気分ではない。

 

別に大したことではない。たかが冗談だ。自分だって、友達をからかうことくらいある。

 

それでも、あんなに大勢に笑われると、さすがに気になった。

 

……Sorryって、そんなに変なのかな。

 

日本だったら、誰かとぶつかりそうになれば「すみません」と言うし、何かしてもらったときだって「すみません、ありがとうございます」なんて普通に言う。

 

少なくとも、悪いことではないはずだ。

 

なのに、ここでは笑われるのか。

 

……難しいな、アメリカ。

 

時春は小さくため息をついた。

 

まあ、いい。

 

とにかく、これからは少し気をつけよう。必要以上に謝らなければいいのだ。

 

そう決意して校舎の入口へ向かい、階段を上り始めた、その瞬間だった。

 

「……あっ」

 

足が引っかかった。

 

正確には、段差の端にスニーカーのつま先を引っかけたのだ。

 

体が前へ傾く。手すりへ手を伸ばす。しかし、届かない。

 

「うわっ!」

 

ガタンッ、ドタタッ!

 

時春は見事にバランスを崩し、階段を二、三段転がるようにして下りてしまった。

 

「いってえええ……!」

 

幸い、大きな怪我はなかった。手のひらと膝を少し擦った程度だ。

 

だが、心のダメージはなかなか深刻だった。

 

周囲に人がいなかったことだけが、唯一の救いである。

 

時春はしばらく階段に座り込み、青い空を見上げた。

 

……何なんだ、今日は。

 

体育ではボールを落とす。みんなに笑われる。挙げ句の果てに、階段から転ぶ。

 

散々じゃないか。

 

「……もうダメだ」

 

時春はぼそりと呟いた。

 

「俺の人生、クソだ……」

 

まだ十五歳。しかもアメリカに来たばかりだ。人生を語るには早すぎる気もするが、今はそんなことどうでもよかった。

 

時春はゆっくり立ち上がり、深いため息をついた。

 

「所詮ソーリー・ライフなんだ……」

 

そう呟いて、とぼとぼと歩き始める。

 

カリフォルニアの空は、相変わらず腹が立つほど青かった。

 

◇

 

「……Toki?(……トキ?)」

 

中庭へ出たところで、背後から声がした。

 

時春が振り返ると、そこにいたのはエマだった。

 

淡い色のトップスにデニムのショートパンツ。肩には小さなバッグをかけ、片手には飲み物のカップを持っている。ふわりと巻かれた茶色い髪が、風に揺れていた。

 

「あっ……エマ」

 

「Hey!(やっほー!)」

 

エマは笑顔で近づいてきたが、時春の顔を見ると少しだけ眉をひそめた。

 

「You okay? You look a little sad.(大丈夫? 何だか元気ないみたいだけど)」

 

「……えっ?」

 

「Sad.(悲しそう、ってこと)」

 

エマは自分の頬を指差し、しょんぼりした表情を作ってみせた。

 

「あー……サッド」

 

悲しい。なるほど。

 

「アー……メイビー」

 

「What happened?(何かあったの?)」

 

エマが心配そうに尋ねてくる。

 

時春は少し迷った。

 

どう説明すればいいだろう。

 

日本語なら簡単だ。今日、体育の授業でSorryと言いすぎて、みんなに笑われた。たったそれだけ。

 

でも、英語となると話は別だ。

 

とはいえ、ここで日本語に頼るのも何だか悔しい。

 

実は先日、時春はエマに一つお願いをしていた。できるだけ英語で話してほしい、と。

 

エマは日本語を話せる。それは本当にありがたいのだが、彼女といるとどうしても甘えてしまう。せっかくアメリカまで来たのだから、少しでも英語を上達させたい。

 

そう伝えると、エマは快く引き受けてくれた。それ以来、彼女はなるべく簡単な単語を選び、ゆっくりと英語で話しかけてくれるようになった。わからないときだけ、日本語で教えてくれる。

 

今だってそうだ。

 

エマは急かすことなく、時春の返事を待っていた。

 

……よし。頑張って説明してみよう。

 

「アー……トゥデイ……PEクラス……」

 

「Yeah?(うん、それで?)」

 

「アイ、プレイ……キャッチボール」

 

「Okay.(うんうん)」

 

「アンド……アイ、ミス、ザ・ボール!」

 

時春はボールを取り損ねる動きをしてみせた。

 

エマが小さく頷く。

 

「You dropped the ball?(ボールを落としちゃったの?)」

 

「イエス! ドロップ!」

 

「Okay. And then?(そっか。それでどうなったの?)」

 

「アンド……アイ、セイ……ソーリー!」

 

「Uh-huh.(うんうん)」

 

「バット……エブリワン……ラフ!」

 

時春は両手を広げ、笑う真似をした。

 

「ラフ、ラフ! ベリー、ラフ!」

 

エマが少し考える。

 

「Everyone laughed at you?(みんなに笑われちゃったの?)」

 

「イエス!」

 

「Oh……why?(ええ……どうして?)」

 

「ビコーズ……」

 

時春は眉間に皺を寄せた。

 

ここが難しい。どうやって説明すればいいんだ。

 

「アー……ワン・ボーイ……セイ……」

 

少し考え、覚えている限りの英語を口にする。

 

「トキズ……ソーリー・ライフ!」

 

「…………」

 

エマが目を丸くした。

 

「Sorry life?(ソーリー・ライフ?)」

 

「イエス!」

 

そして、

 

「……Pfft(……ぷっ)」

 

エマが口元を押さえた。肩が少し震えている。

 

「……Sorry, that’s……(……ごめん、それって……)」

 

「エマ!?」

 

「……That’s actually kinda funny……(……ちょっと面白すぎるんだけど……)」

 

おい。お前まで笑うのか!

 

時春が抗議すると、エマは慌てて首を振った。

 

「No, no! I’m not laughing at you!(違う違う! トキのことを笑ってるんじゃないよ!)」

 

そう言いながらも、少し笑っている。

 

「It’s just……Sorry life? That’s a funny joke!(だって……ソーリー・ライフって! そんな冗談、ずるいよ!)」

 

「…………」

 

時春は頬を膨らませた。

 

何だよ。そんなに面白いのかよ。

 

エマはようやく笑いを収めると、少し申し訳なさそうに微笑んだ。

 

「But I get it. You didn’t like it, right?(でも、わかるよ。トキは嫌だったんだよね?)」

 

「……イエス」

 

「I’m sorry.(ごめんね)」

 

「…………」

 

ん?

 

今、Sorryって言った?

 

でも、エマは何も悪いことをしていないよな?

 

時春は一瞬首を傾げたが、とりあえず話を続けることにした。

 

「エマ……ソーリー、バッド?」

 

「Hmm?(ん?)」

 

「アイ、セイ、ソーリー……メニー、メニー・タイムズ」

 

時春は指を何本も立ててみせた。

 

「イズ、イット……バッド?」

 

エマは少し考えてから、頷いた。

 

「Not bad. But……you don’t always need to say sorry.(悪いことじゃないよ。でもね……いつも謝る必要はないんだよ)」

 

「……?」

 

「You say sorry a lot, right?(トキって、よくSorryって言うでしょ?)」

 

「イエス」

 

「Even when it’s not your fault?(自分が悪くないときでも?)」

 

ノット・ユア・フォルト。

 

自分が悪くないときも?

 

時春は少し考えた。

 

「……イエス?」

 

エマは優しく笑った。

 

「That’s what I mean.(そう、そういうこと!)」

 

そして、ゆっくりと説明を始めた。

 

「In America, saying sorry can mean you think you did something wrong.(アメリカではね、Sorryって言うと、自分が悪いことをしたって認めてるように聞こえる場合もあるの)」

 

時春は必死に頭の中で翻訳した。

 

アメリカでは、Sorryと言うと、自分が何か悪いことをしたと認めているように聞こえることがある。

 

……ってことか?

 

「So, don’t say sorry for everything.(だから、何でもかんでも謝らなくていいんだよ)」

 

「オー……」

 

「You know, people sometimes talk about America being a country where everyone sues everyone.(ほら、アメリカって、誰も彼もすぐ訴える国だって言われたりするでしょ?)」

 

「……スーズ?」

 

「Lawsuits. 訴訟!(裁判で訴えること!)」

 

「あー!」

 

訴訟社会。

 

聞いたことがある。アメリカでは裁判が多い、という話だ。

 

「Some people are careful about saying sorry because it can sound like admitting fault. But everyday conversations aren’t that serious.(自分の非を認めたように聞こえるからって、謝るのに慎重な人もいるの。でも、普段の会話までそんなに気にする必要はないよ)」

 

エマはそこで少し笑った。

 

「You don’t have to be scared of the word. Just use it when it makes sense.(Sorryを怖がらなくていいの。ちゃんと場面に合わせて使えばいいんだから!)」

 

なるほど。

 

Sorryそのものが悪いわけではない。ただ、何でもかんでも謝ればいいというわけでもないらしい。

 

必要以上に謝ってばかりいると、自信がなさそうに見えたり、悪くないことまで自分のせいにしているように聞こえたりすることもあるのだという。

 

……そうだったのか。

 

時春は少し驚いた。

 

日本では、謝ることが礼儀になる場面も多い。でも、アメリカでは少し感覚が違うらしい。

 

これは知らなかった。

 

「So, let me teach you something!(じゃあ、ちょっといいこと教えてあげる!)」

 

エマがにっこり笑った。

 

おっ。英語の授業だ。

 

「First. If you make a small mistake, you can say ‘My bad.’(まず、ちょっとしたミスをしたときは『My bad』って言えばいいの)」

 

「マイ・バッド?」

 

「Yeah! Like, if you drop the ball.(そう! 例えば、ボールを落としちゃったときとかね)」

 

エマはキャッチボールの動きをしてみせた。

 

「Oops! My bad!(おっと! 俺のミス!)」

 

「オー!」

 

時春は頷いた。

 

「マイ・バッド!」

 

「Exactly!(そう、それでバッチリ!)」

 

なるほど。ちょっとしたミスなら、マイ・バッド。

 

覚えた。

 

「And if you almost bump into someone, say ‘Excuse me.’(それから、誰かにぶつかりそうになったときは『Excuse me』ね)」

 

「エクスキューズ・ミー!」

 

「Right! Or a quick ‘Sorry’ is fine too.(そうそう! もちろん、軽く『Sorry』って言うのも全然いいよ)」

 

「……オーケー!」

 

エマは続ける。

 

「And if someone picks up something you dropped……(じゃあ、自分が落とした物を誰かが拾ってくれたら……)」

 

彼女は足元に何かが落ちたふりをして、それを拾い上げた。

 

「You say……?(何て言う……?)」

 

時春は考えた。

 

物を拾ってもらったとき。いつもなら、あの言葉だ。

 

「……ソーリー?」

 

「Nope!(ブッブー!)」

 

エマが笑った。

 

「Thank you!(ありがとう、でしょ!)」

 

「……あっ!」

 

そうか。サンキューだ。

 

謝るんじゃなくて、お礼を言えばよかったのか。何でこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。

 

「Oh my god……(もう、何やってんだ俺……)」

 

時春は思わず頭を抱えた。

 

エマは楽しそうに笑う。

 

「See? Easy!(ね? 簡単でしょ!)」

 

「……ノット・イージー!」

 

「Hahaha!(あははは!)」

 

エマが声を上げて笑った。

 

時春もつられて笑う。

 

最初は少し落ち込んでいたが、話しているうちに何だか気が楽になってきた。

 

英語がわからないのは仕方ない。文化の違いを知らないのも、今は仕方ない。

 

でも、こうして教えてもらえば、少しずつ覚えていける。

 

エマは最後に、優しく付け加えた。

 

「And Toki?(それとね、トキ?)」

 

「ん?」

 

「You don’t need to apologize for everything.(何でもかんでも謝らなくていいんだよ)」

 

「……オーケー」

 

「Just be yourself!(いつものトキでいればいいんだから!)」

 

そう言って、笑顔で親指を立てる。

 

時春は少し照れくさくなった。

 

「……サンキュー、エマ!」

 

「You’re welcome!(どういたしまして!)」

 

……うん。

 

やっぱり、エマは優しい。それに、教え方が上手い。英語の先生になれるんじゃないかと思うくらいだ。

 

これからは、もっと積極的に英語を話そう。

 

そして、何でもかんでもSorryと言うのはやめよう。

 

自分が悪いときは謝る。助けてもらったら感謝する。ちょっとしたミスなら、マイ・バッド。

 

よし。完璧だ。

 

時春は心の中で、小さくガッツポーズをした。

 

◇

 

二人はそのまま、中庭のベンチに腰を下ろした。

 

午後のカリフォルニアは相変わらず日差しが強かったが、大きな木の下に入ると風が心地よかった。遠くには白い校舎が並び、その向こうには青い空がどこまでも広がっている。

 

芝生の上では数人の生徒が談笑し、近くのテーブルでは誰かがノートパソコンを開いていた。

 

時春はエマと並んで座りながら、何となく空を見上げた。

 

……いい天気だなあ。

 

日本の夏なら、この時間に外で座っていたら汗だくだろう。でも、こちらは日陰に入ると意外に快適だった。風も気持ちいい。

 

それに、隣にはエマがいる。

 

……いや、別に深い意味はないけど。

 

「So, how was your day?(それで、今日はどんな一日だった?)」

 

エマが尋ねてきた。

 

時春は少し考える。

 

今日一日。ESLでは新しい友達ができた。体育では笑われた。階段では転んだ。

 

……なかなか忙しい一日だったな。

 

「アー……グッド! アンド……バッド!」

 

「Good and bad?(いいことも悪いこともあったってこと?)」

 

「イエス!」

 

エマはくすっと笑った。

 

「What was good?(じゃあ、いいことは何だったの?)」

 

「ESL! ニュー・フレンズ!」

 

「Oh, nice!(わあ、いいじゃない!)」

 

「テオ! エムジェイ! イジー!」

 

「That’s great!(よかったね、トキ!)」

 

エマは嬉しそうに頷いた。

 

「And what was bad?(それで、悪いことのほうは?)」

 

「……ソーリー・ライフ」

 

「Pfft……(ぷっ……)」

 

「エマ!」

 

「Sorry, sorry!(ごめんごめん!)」

 

また笑われた。

 

まったく、もう勘弁してくれ。

 

時春は呆れたように首を振った。しかし、エマがあまりにも楽しそうなので、何だか怒る気にもなれなかった。

 

そうだ。せっかくだから、もう一つ話してみよう。

 

さっき階段で転んだこと。あれだって、今となっては笑い話だ。英語の練習にもなる。

 

時春は少し考え、口を開いた。

 

「エマ!」

 

「Yeah?(なあに?)」

 

「アイ……フォール!」

 

「Fall?(転んだの?)」

 

「イエス! アー……オン、ザ・ステアーズ!」

 

ステアーズ。階段。確か、そうだったはずだ。

 

時春は両手を動かしながら、転んだときの様子を説明した。

 

「アイ、ウォーク……アンド……」

 

足を引っかける真似をする。

 

「オー! ノー!」

 

そのまま、手をばたばたさせる。

 

「ドン! ドン! ドン!」

 

エマが目を丸くした。

 

「Wait, you fell down the stairs!?(えっ、待って! 階段から落ちたの!?)」

 

「イエス!」

 

「Oh my gosh! Are you okay?(うそ、大丈夫!? 怪我してない!?)」

 

「イエス! アイム、オーケー!」

 

時春は笑って頷いた。

 

大した怪我じゃない。ちょっと膝を擦っただけだ。むしろ、誰にも見られなかったのが幸運だった。

 

「ベリー、ファニー!」

 

時春はそう言って、自分でも笑った。

 

エマもほっとしたように微笑む。

 

そして、

 

「Oh, I’m sorry!(ああ……それは災難だったね!)」

 

「…………」

 

時春の笑顔が止まった。

 

……ん?

 

今、何て?

 

エマは心配そうにこちらを見ている。

 

時春はゆっくりと首を傾げた。

 

「……ソーリー?」

 

「Yeah!(うん!)」

 

「……ホワイ?」

 

「Huh?(えっ?)」

 

「ホワイ、ユー、ソーリー?」

 

エマが一瞬、不思議そうな顔になった。

 

時春は真剣だった。

 

だって、おかしいじゃないか。

 

さっき言っていたはずだ。何でもかんでもSorryと言うな。自分が悪いときに使え、と。

 

なのに、今、エマはSorryと言った。

 

エマは何も悪くない。そもそも階段で転んだのは自分だ。エマはその場にすらいなかった。

 

なのに。

 

「エマ……ノー・バッド!」

 

「……What?(……え?)」

 

「ユー、ノー・バッド! アイ、フォール!」

 

時春は自分を指差した。

 

「マイ・バッド!」

 

「…………」

 

エマが数秒間、時春を見つめた。

 

そして、

 

「あっ!」

 

何かに気づいたように声を上げた。

 

「Ohhh!(ああ、そういうこと!)」

 

そのまま、くすくすと笑い始める。

 

「トキ、違う違う!」

 

「えっ?」

 

エマは笑いをこらえながら、日本語に切り替えた。

 

「さっきの『I’m sorry』は、謝ってるんじゃないんだよ!」

 

「…………」

 

……は?

 

「ほら、トキが階段から転んだって聞いたでしょ? だから『大変だったね』って意味で言ったの!」

 

「…………」

 

「相手に嫌なことがあったり、つらい思いをしたりしたときにも、そういう気持ちを込めて『I’m sorry』って言うんだよ」

 

「……え?」

 

「つまりね、私が何か悪いことをしたって意味じゃなくて、トキのことを心配してるってこと!」

 

エマはにっこり笑った。

 

「だから、さっきのは謝罪じゃないの。わかった?」

 

「…………」

 

時春は、しばらく動かなかった。

 

頭の中で、今までの説明を整理する。

 

Sorry。自分が悪いときに使う。

 

でも、使いすぎるとよくない。

 

軽いミスならMy bad。人を避けてもらうときはExcuse me。何かしてもらったらThank you。

 

そして、自分が何も悪くなくても、相手が大変な目に遭ったらI’m sorry。

 

「…………」

 

……え?

 

待って。

 

何それ?

 

じゃあ、さっきエマが俺の話を聞いてSorryと言ったのは、謝っていたんじゃなくて、同情していたってこと?

 

じゃあ、俺が「マイ・バッド!」と返したのは?

 

……どういうこと?

 

「Toki?(トキ?)」

 

エマが顔を覗き込んでくる。

 

「You okay?(……大丈夫?)」

 

「…………」

 

時春はゆっくりと空を見上げた。

 

青い空。白い雲。風に揺れるヤシの木。

 

何もかもが、やけに平和だった。

 

その平和な景色とは裏腹に、時春の頭の中では英語の知識が派手に崩壊していた。

 

そして数秒後。

 

「……ああああああっ!!」

 

「わっ!」

 

突然叫んだ時春に、エマがびっくりする。

 

時春は両手で頭を抱えた。

 

「難しすぎんだろ、英語ぉぉぉ!!」

 

「……えっ?」

 

エマは目を丸くした。

 

そして、意味がわかったのか、次の瞬間には声を上げて笑い始めた。

 

「Hahahahaha!(あはははは!)」

 

「もう! 意味わかんないって!」

 

「Hahaha! Sorry, Toki!(あはは! ごめんってば、トキ!)」

 

「またソーリー!!」

 

「Hahahaha!(あはははは!)」

 

エマはとうとうお腹を抱えて笑い出した。

 

時春も、そんな彼女を見ているうちに、何だかおかしくなってきた。

 

……もう、いいや。

 

わからないものは、わからない。

 

でも、少なくとも一つだけはっきりしている。

 

英語という言語は、どうやら想像以上に手強いらしい。

 

時春は深いため息をつき、隣でまだ笑っているエマを見た。

 

「……エマ」

 

「Yeah?(ん?)」

 

「イングリッシュ……ベリー、ハード!」

 

エマはにっこり笑った。

 

「I know!(そうだよね!)」

 

そして、少しだけ身を乗り出す。

 

「But you’re getting better, Toki!(でも、トキの英語、ちゃんと上達してるよ!)」

 

「……リアリー?」

 

「Really!(ほんとだって!)」

 

エマは笑顔で親指を立てた。

 

「Just keep trying!(だから、これからも頑張って!)」

 

時春は少しだけ照れくさくなりながら、頷いた。

 

「……オーケー!」

 

そんな二人の頭上では、カリフォルニアの青空がどこまでも広がっていた。

 

高山時春、十五歳。

 

アメリカ生活、二週目。

 

友達は少しずつ増えてきた。

 

英語も、ほんの少しずつ上達している。

 

ただし、たった一つの単語に、ここまで振り回されるとは思っていなかった。

 

……Sorry。

 

もう、この単語が嫌いになりそうだ。

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