CRESCENT BAY ACADEMY   作:西野圭吾

30 / 32
第8話 引力

 二月二十二日、月曜日。午後八時を少し過ぎた頃。

 

 ウェストゲート・プレップの体育館を包んでいる熱気は、試合開始から一時間近く経った今も、少しも衰えていなかった。

 

 紺色と銀色に染まった観客席では、ウルブズの応援団が絶えず声を張り上げている。コートサイドには何台ものカメラが並び、記者や大学のスカウトたちが、目の前で繰り広げられる激しい攻防を追っていた。二階席の壁には昨年の州大会を記念する大きな写真が飾られ、その下では、今シーズン新たに加わった一人の少年の名前が何度も叫ばれていた。

 

「DJ! DJ! DJ!」

 

 ダリウス・ジェームズ・ジュニア。

 

 キングDの息子であり、ウェストゲート・プレップ・ウルブズの中心選手。

 

 そのDJが、つい先ほど、またしても豪快なダンクを叩き込んだばかりだった。

 

 スコアボードには、厳しい数字が表示されている。

 

『BREAKERS 47 — 60 WOLVES』

 

 第三クォーター中盤。十三点差。

 

 CIFサザンセクション・プレーオフ二回戦は、明らかにウェストゲートの優勢で進んでいた。ブレイカーズは決して悪い試合をしていなかった。むしろ、守備での集中力は今シーズンでも最高と言っていいほど高く、選手たちは全員が自分の役割を懸命に果たしている。それでも、ウルブズはその上を行く完成度で得点を重ね、ブレイカーズが追いつこうとするたびに、少しずつリードを広げていた。

 

 たまらずヘイズコーチが要求したタイムアウト。

 

 そのベンチで、高山時春は荒い呼吸を繰り返していた。

 

 汗に濡れた前髪が額へ張りつき、胸元のユニフォームには大きな汗の染みが広がっている。二十センチ近く背の高いDJを守り続けた脚は重く、太腿の筋肉には鈍い疲労が残っていた。しかし、彼の目は、ベンチへ戻ってきたときとは明らかに違うものになっていた。

 

 時春の視線は、コートの向こう側へ向けられていた。

 

 ウルブズのベンチ。

 

 そこにいるDJを、じっと見つめていたのである。

 

 自分で得点できること。

 

 それを相手に意識させること。

 

 その結果として、仲間へのパスが生きること。

 

 時春は先ほど、ようやくその仕組みに気づいたばかりだった。

 

 そして、今。

 

 頭の中では、それまでとは少し違うバスケットボールの形が、ゆっくりと組み上がり始めていた。

 

「……トキハル」

 

 突然、名前を呼ばれた。

 

 時春が振り返ると、目の前にグラント・ヘイズが立っていた。

 

「……はい!」

 

 ヘイズはホワイトボードを片手に、静かに彼を見つめていた。

 

「何を考えている?」

 

 時春は少しだけ迷った。

 

 自分が気づいたことを、どう言葉にすればいいのかわからなかったのである。

 

 それでも、今は黙っているべきではない気がした。

 

「……コーチ」

 

「何だ?」

 

 時春は膝の上に置いていた両手を握りしめた。

 

「俺……もっとシュート、打ってもいいですか?」

 

 周囲の選手たちが、顔を上げた。

 

 ノアが水のボトルを口から離し、マイルズも少し驚いたように時春を見る。イーサンは隣で黙って聞いていたが、その表情には、何かを察したような笑みが浮かんでいた。

 

 ヘイズはすぐには答えなかった。

 

「……どうしてだ?」

 

 時春はもう一度、DJの方へ視線を向けた。

 

「俺、さっきまで、ずっとパスを考えてました。マイクがどこへ動くかとか、マイルズがいつスクリーンをかけるかとか、トムがどこでボールを欲しがってるかとか……」

 

 そこで一度、息を吸った。

 

「でも、相手もそれをわかってるんです。俺がパスを出そうとすると、すぐにコースを塞いでくる。俺がドライブしても、その先で待ってる人がいるんです」

 

 ヘイズは黙っていた。

 

 時春は続けた。

 

「……DJは、違いました」

 

 その声が、少しだけ強くなった。

 

「DJがボールを持つと、俺たちはどうしてもあいつを止めようとしちゃうんです。だって、放っておいたら自分で決められるから。だから、他の選手が空いて……そこにパスを出されるんです」

 

 マイルズが、ゆっくりと頷いた。

 

 時春は自分の胸へ手を当てた。

 

「俺も、そうなりたい」

 

 そして、まっすぐにヘイズを見た。

 

「自分で点を取れるって、相手に思わせたいです。そうしたら、今まで見えてなかったパスコースが、もっと見える気がするんです」

 

 短い沈黙が流れた。

 

 ヘイズはしばらく時春を見つめ、それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「……なるほどな」

 

 彼はホワイトボードを閉じた。

 

「じゃあ、一つ聞くぞ。お前は、シュートを打つことが好きか?」

 

 時春は目を瞬かせた。

 

「……えっ?」

 

「自分でリングを狙うことだ。好きか?」

 

 時春は少し考えた。

 

 仲間へ良いパスが通ったときの喜びは、何にも代え難い。マイクがスリーポイントを決めたり、ノアが豪快なダンクを叩き込んだりすると、自分が得点したとき以上に嬉しくなることさえあった。

 

 しかし。

 

 自分でシュートを決める瞬間も、やはり好きだった。

 

 リングへ向かってボールが飛び、ネットを揺らす。その音を聞くと、いつだって胸が躍る。

 

「……はい!」

 

 時春は笑った。

 

「好きです!」

 

 ヘイズは頷いた。

 

「だったら、打て」

 

 あまりにも簡潔な答えだった。

 

 時春が思わず目を丸くすると、ヘイズは彼の肩へ手を置いた。

 

「今までのお前は、仲間を生かすことばかり考えていた。それ自体は悪くない。むしろ、ポイントガードとして大切な才能だ。だが、シュートを打てる場面で打たなければ、相手は次第にお前を怖がらなくなる」

 

 時春は真剣に聞いていた。

 

「相手が距離を取るなら、そこから打て。スクリーンで半歩空いたなら、その半歩を使え。お前のミドルレンジは、そのために磨いてきた武器だろう」

 

「……はい!」

 

「ただし、勘違いするなよ。何でもかんでもシュートを打てという意味じゃない。今まで通り、コートを見ろ。仲間を見ろ。そのうえで、自分が一番いい選択肢なら、迷わず自分で決めろ」

 

 ヘイズは最後に、少しだけ笑った。

 

「お前にもリングは見えているんだからな」

 

 時春の顔が、ぱっと明るくなった。

 

「……Yes, Coach!」

 

 隣で聞いていたイーサンが、楽しそうに笑った。

 

「ようやく気づいたか、トキ」

 

「……えっ?」

 

「お前のミドル、普通に嫌なシュートなんだぞ。俺だって練習で何度も決められてるんだからな」

 

 マイクも静かに頷いた。

 

「打てるなら、打った方がいいと思う」

 

 ノアが勢いよく立ち上がる。

 

「そうだぜ、リトルマン! 遠慮すんなよ! お前が決められるなら俺たちも助かるんだから!」

 

 マイルズは大きな手で時春の肩を叩いた。

 

「お前が空いたら、俺がスクリーンかけてやる。だから、思いっきり行け!」

 

 時春は仲間たちを見渡した。

 

 そして、力強く頷いた。

 

「……うん!」

 

 彼は立ち上がり、もう一度スコアボードを見た。

 

 十三点差。

 

 まだ、追いつける。

 

 今度はそう思えた。

 

     ◇

 

 タイムアウトが終わった。

 

 時春がコートへ戻ると、正面にはホロウェイが待っていた。

 

 ウェストゲートのポイントガードは、相変わらず落ち着いていた。時春より二十センチ近く背が高く、腕も長い。しかし、彼の守備は決して乱暴ではない。相手の動きをよく観察し、パスコースを塞ぎながら、無理にスティールを狙わずに体を寄せてくる。

 

 それまでの時春は、そんなホロウェイの守備を前にすると、まず仲間の位置を探していた。

 

 マイルズはどこにいるだろう。

 

 マイクは空いているだろうか。

 

 ノアはカットしてくるだろうか。

 

 しかし、今は違った。

 

 時春はボールを受け取り、ゆっくりとセンターラインを越えた。

 

 そして、真っ先にリングを見た。

 

 ホロウェイが少しだけ眉を動かす。

 

 その変化に気づいたのかもしれなかった。

 

「……マイルズ!」

 

 時春が左手を上げた。

 

 マイルズはすぐに反応し、トップ付近へ駆け上がってくる。オコナーも彼を追って動き、ホロウェイはスクリーンを警戒して、わずかに腰を落とした。

 

 いつものピック・アンド・ロール。

 

 少なくとも、ウェストゲートにはそう見えただろう。

 

 時春は右手でドリブルを刻み、マイルズの肩の横を鋭く抜けた。ホロウェイはスクリーンを避けるために一歩外側へ回り、オコナーが前へ出てドライブの進路を塞ごうとする。

 

 だが、オコナーはリングへ走り込むマイルズの動きも気にしていた。

 

 これまでの時春なら、そのマイルズへパスを送ろうとしたはずだった。

 

 だからこそ、二人の守備は一瞬、マイルズの方へ意識を向けた。

 

 その瞬間。

 

 時春が止まった。

 

 右足で床を強く踏み、ドリブルを終える。勢いよく前進していた体が、フリースローラインの少し手前で、驚くほど滑らかに静止した。

 

 プルアップ。

 

※プルアップシュート:ドリブルから急停止しその場でジャンプシュートすること

 

 ドライブの途中から、そのままジャンプシュートへ移る動きだった。

 

 ホロウェイが気づく。

 

「……っ!」

 

 しかし、遅かった。

 

 時春はすでに跳び上がっていた。

 

 腕を伸ばす。

 

 指先から、ボールが離れる。

 

 その軌道は、高く、柔らかかった。

 

 シュッ。

 

 白いネットが、小さく揺れた。

 

『BREAKERS 49 — 60 WOLVES』

 

 時春は着地すると、思わず両手を握りしめた。

 

「……よし!」

 

 ブレイカーズのベンチが、一斉に立ち上がる。

 

「NICE SHOT!」

 

 イーサンが叫んだ。

 

 マイルズも笑った。

 

「いいぞ、トキ!」

 

 しかし、時春はすぐに守備へ戻っていった。いつもなら、仲間からの祝福を嬉しそうに受け取り、少し照れくさそうに笑っていたかもしれない。しかし今は、それよりも次の攻撃のことを考えていた。

 

 あの距離なら、打てる。

 

 あの半歩があれば、自分はシュートを決められる。

 

 そして、相手がそのことを意識し始めれば。

 

 何かが変わる。

 

 時春はそんな予感を抱いていた。

 

     ◇

 

 最初の変化に気づいたのは、意外にもウルブズのホロウェイだった。

 

 彼は守備へ戻りながら、時春の方をちらりと見た。

 

 それまで、この日本人ガードはパスを優先していた。スクリーンを利用してドライブしてきても、ゴール下の選手へボールを渡すことが多く、外側のシューターへ展開する場面も目立っていた。もちろん、ミドルレンジを打ってくることもあったが、少なくともホロウェイにとっては、まずパスコースを警戒しておけばよい相手だった。

 

 しかし、今のプレーは違った。

 

 時春は、最初からシュートを打つつもりでスクリーンを利用していた。

 

 それも、迷いがなかった。

 

 ホロウェイはそのことを、少しだけ気にしていた。

 

 続くウルブズの攻撃では、DJが右ウイングから鋭いドライブを仕掛けた。しかし、時春が素早く進路へ回り込み、トムもゴール下で腕を伸ばしたため、DJは苦しい角度からのジャンプシュートを選ばざるを得なかった。

 

 ボールがリングの手前へ当たる。

 

 マイルズが大きく跳び上がり、リバウンドをつかんだ。

 

「TOKI!」

 

 キャプテンが叫ぶ。

 

 時春はすぐに走り出した。

 

 パスを受け取ると、低い位置でドリブルを刻み、ホロウェイの前へ進んだ。相手は先ほどより少しだけ距離を詰めている。ミドルレンジを警戒しているのだろう。

 

 時春は右へドリブルし、急に速度を上げた。

 

 ホロウェイが追いかける。

 

 オコナーもわずかに前へ出てきた。

 

 しかし、時春は途中でボールを戻し、もう一度スリーポイントラインの外側へ開いた。

 

 そこには、空間があった。

 

 ホロウェイはまだペイントエリア寄りにいる。

 

 距離にして一歩半ほど。

 

 以前の時春なら、もう一度攻撃を組み立て直しただろう。マイクへパスを回すか、マイルズへボールを預けるか、あるいはトムのスクリーンを利用するか。そうした選択肢を探している間に、相手の守備も整ってしまう。

 

 しかし今は違った。時春はリングを見た。足を揃える。膝を曲げる。そして、迷わず跳び上がった。

 

 スリーポイントシュート。

 

 ベンチでマイクが、少し驚いたように顔を上げた。

 

 ボールは高い放物線を描き、リングへ向かって飛んでいく。しかし、少しだけ力が足りなかった。ボールはリングの手前へ当たり、上方へ跳ね返ってしまった。

 

 外れた。

 

 キーンがリバウンドをつかみ、すぐに前方へパスを送る。ウルブズはそのまま速攻を狙ったが、ノアが素早く守備へ戻ったため、簡単な得点にはつながらなかった。それでも、ハーフコートへ移ったあと、ピアースがベースライン沿いへ走り込み、DJからのパスを受けてレイアップを決めた。

 

『BREAKERS 49 — 62 WOLVES』

 

 再び十三点差。

 

 時春は小さく息を吐いた。

 

 今のスリーは、入らなかった。

 

 しかし、不思議と後悔はなかった。

 

 シュートを選んだ判断そのものが、間違っていたとは思えなかったのである。ホロウェイとの距離は十分にあった。リングも見えていた。足元も乱れていなかった。ただ、いつもより少し遠い位置から打ったため、指先へ伝わる感覚がわずかに違っただけだった。

 

 次は、もう少し強く。

 

 時春はそう考えた。

 

 そして、それだけだった。

 

 いつもなら外したシュートを何度も思い返してしまうことがあった。しかし、今夜は違う。目の前には、まだ何度でも攻撃する時間が残っていた。

 

 外したなら、次を打てばいい。

 

 時春の中で、そんな当たり前の考えが、ようやく自然なものになり始めていた。

 

     ◇

 

 次の攻撃でも、時春はシュートを狙った。

 

 マイルズが左側からスクリーンをかけ、時春がその横を抜ける。ホロウェイは先ほどのミドルレンジを警戒し、すぐに前へ出てきた。しかし、その動きがわずかに早かったため、時春は一度だけドリブルを止めるふりをしてから、さらに右へ踏み込んだ。

 

 ホロウェイの重心が浮く。

 

 時春はその隙にフリースローラインの内側へ入り、急停止した。

 

 キーンがゴール下から腕を伸ばす。

 

 だが、時春はリングへ突っ込まなかった。

 

 小さな体をまっすぐに起こし、その場で跳び上がったのである。

 

 プルアップミドル。

 

 ボールはキーンの伸ばした指先より高い位置を通り、リングへ向かって柔らかく落ちていった。

 

 シュッ。

 

『BREAKERS 51 — 62 WOLVES』

 

「YES!」

 

 時春は着地すると、すぐに踵を返した。

 

 ノアが隣を走りながら笑う。

 

「Bro! お前、急にどうしたんだよ!」

 

「えっ?」

 

「シュート打ちまくってんじゃねえか!」

 

 時春は少しだけ笑った。

 

「……空いてるから!」

 

 ノアは一瞬、目を丸くした。

 

 そして、豪快に笑った。

 

「HAHA! そりゃそうだ!」

 

 彼は時春の背中を叩き、そのまま守備へ戻っていった。

 

 ブレイカーズのベンチでは、イーサンが静かに頷いていた。

 

 ヘイズコーチも腕を組み、コートを見つめている。

 

 時春は、少しずつ変わり始めていた。

 

 それまでの彼は、ボールを持つとまず仲間の位置を確認していた。その優れた視野とパスセンスは、ブレイカーズにとって大きな武器だったが、相手に動きを読まれることもあった。しかし今は、リングを狙う動きが攻撃の最初に加わっている。

 

 たったそれだけの変化。

 

 しかし、ディフェンダーにとっては、その違いが非常に大きかった。

 

 パスを警戒していればシュートを打たれる。

 

 シュートへ詰めれば、ドライブで抜かれる。

 

 ドライブを止めようとすれば、今度はパスコースが空く。

 

 まさしく、先ほどまでDJがブレイカーズに仕掛けていたことだった。

 

 もちろん、時春はDJほど万能ではない。身体能力にも差があり、ゴール下へ飛び込んで豪快なダンクを叩き込むことなどできない。

 

 しかし、得点の方法は一つではなかった。

 

 自分の身長と速さを生かし、相手がほんの一瞬見せた空間を使う。

 

 その中で、自分に最も向いているシュートを選ぶ。

 

 時春は今、自分なりのやり方で、相手の守備を動かし始めていたのである。

 

     ◇

 

 それでも、ウェストゲートは簡単には崩れなかった。

 

 DJがドライブからオコナーへパスを送り、力強いレイアップを決めさせる。ブレイカーズの守備が少しずつ対応できるようになっているとはいえ、ウルブズの連携が急に鈍くなったわけではない。

 

『BREAKERS 51 — 64 WOLVES』

 

 再び十三点差。

 

 観客席からは、安心したような歓声が上がった。

 

 DJは相変わらず落ち着いており、ホロウェイも静かに仲間へ指示を出している。キーンはゴール下でトムと激しく位置を争い、ピアースは絶えずスリーポイントラインの外側を走り回っていた。

 

 しかし。

 

 ブレイカーズの次の攻撃で、その空気が少しだけ変わった。

 

 時春はトップでボールを受け取った。

 

 ホロウェイが正面へ立つ。

 

 その距離は、先ほどより明らかに近かった。

 

 時春は一度だけ右へドリブルし、相手の反応を確かめる。ホロウェイは腰を低く落とし、すぐに横へ動いた。ミドルレンジを警戒しているのだろう。時春がフリースローラインへ向かって踏み込むと、彼はすぐに進路を塞ごうとした。

 

 そこで、時春はマイルズを呼んだ。

 

「MILES!」

 

「おう!」

 

 マイルズが右側からスクリーンをかける。

 

 時春はその横を鋭く抜けた。

 

 ホロウェイが追いかける。

 

 オコナーが前へ出る。

 

 その瞬間、時春は急停止した。

 

 スリーポイントラインのすぐ外側。

 

 フリーだった。

 

 ほんの一瞬だが、誰の腕も届かない空間が生まれていた。

 

 時春は迷わなかった。

 

 右足を踏み込む。

 

 左足を揃える。

 

 膝を曲げる。

 

 そして、跳ぶ。

 

 ボールが指先から離れた瞬間、時春は先ほどとの違いを感じていた。

 

 力が、綺麗に伝わった。

 

 足元から上半身へ。

 

 肩から腕へ。

 

 そして、最後に指先へ。

 

 何度も練習してきたシュートフォームだった。背の高い相手からボールを放つために、余計な動きを減らし、できるだけ素早くリリースする。これまでの試合でも何度となく使ってきた動きが、今はスリーポイントラインの外側で、ほとんど自然に完成していた。

 

 ボールは高く飛んでいった。

 

 ホロウェイが遅れて腕を伸ばす。

 

 しかし、届かない。

 

 時春は、その軌道を見つめていた。

 

 そして。

 

 シュパッ。

 

 ネットが、綺麗に跳ねた。

 

『BREAKERS 54 — 64 WOLVES』

 

「……っ!」

 

 時春は一瞬だけ目を見開いた。

 

 入った。

 

 今度は、入った。

 

 ミドルレンジではない。

 

 スリーポイント。

 

 それも、自分から積極的に狙ったシュートだった。

 

「YES!!」

 

 思わず右拳を突き上げた。

 

 ブレイカーズのベンチが、一斉に跳ね上がる。

 

「THREEEEE!!」

 

 イーサンが叫んだ。

 

 ノアは両腕を突き上げ、マイルズも大きな声を上げていた。

 

「NICE SHOT, TOKI!!」

 

 観客席の一角では、ジェイクがすでに立ち上がっていた。

 

「BROOOOO!! TOKIIII!!」

 

 エマも思わず両手を叩いた。

 

「トキ!! すごい!!」

 

 その隣で、マディソンが目を輝かせる。

 

「今の、めっちゃ綺麗だった!」

 

 ゾーイはカメラを構えながら、何度もシャッターを切っていた。

 

 そして、コートの反対側。

 

 DJが、少しだけ目を細めた。

 

 彼は時春の方を見ていた。

 

 試合開始からずっと、ブレイカーズの攻撃を注意深く観察してきたDJだったが、今のシュートには、それまでとは違う何かを感じたらしかった。

 

 時春は、もう単純にパスを優先するガードではなくなっていた。

 

 自分で得点することを、ためらわなくなっている。

 

 DJはホロウェイの隣へ近づき、何かを短く話した。

 

 ホロウェイが頷く。

 

 そして、二人は再び守備の位置を確認し始めた。

 

 ウェストゲートもまた、時春の変化に気づき始めていたのである。

 

     ◇

 

 だが、相手がそれに気づいたということは、時春の狙いが次の段階へ進んだということでもあった。

 

 次のブレイカーズの攻撃。

 

 時春はトップでボールを持ち、ゆっくりとホロウェイの動きを見つめていた。

 

 先ほどまでとは違う。

 

 相手の距離が、近い。

 

 ホロウェイはスリーポイントラインより少し外側まで出てきていた。時春がすぐにシュートを打てないよう、早い段階からプレッシャーをかけている。

 

 時春は、ほんの少しだけ笑った。

 

 ……来た。

 

 自分がシュートを決めたからだ。

 

 そのことが、嬉しかった。

 

 時春は右手でドリブルを刻み、突然左へ踏み込んだ。ホロウェイが反応する。時春はすぐに右へ切り返し、相手の横を抜けようとした。

 

 そこへオコナーが出てきた。

 

 さらに、右ウイングにいたDJまで、一歩だけ内側へ寄った。

 

 二人の大柄な選手が、時春の進路を狭めようとしていたのである。

 

 ダブルチームになりかけていた。

 

 しかし、今度の時春は慌てなかった。

 

 むしろ、待っていた。

 

 誰かが自分へ寄ってくることを。

 

 時春は視線だけをリングへ向け、シュートを打つような動作を見せた。

 

 オコナーの右腕が上がる。

 

 DJも少しだけ前へ出た。

 

 その瞬間。

 

 時春はボールを下ろした。

 

 そして、右側へ鋭いパスを送った。

 

 マイク・トンプソン。

 

 彼が、スリーポイントラインの外側で待っていた。

 

 DJが時春へ一歩寄ったことで、マイクの前には、ほんのわずかな空間が生まれていたのである。

 

 マイクはそのパスを受け取った。

 

 足元を揃える。

 

 跳び上がる。

 

 放つ。

 

 その一連の動きには、少しの迷いもなかった。

 

 ボールが、美しい放物線を描く。

 

 そして、リングの中央を通り抜けた。

 

 シュッ。

 

『BREAKERS 57 — 64 WOLVES』

 

「THREEEEE!!」

 

 ブレイカーズのベンチから、再び大きな歓声が上がった。

 

 七点差。

 

 タイムアウト直後には十三点あった点差が、少しずつ縮まり始めていた。

 

 マイクは守備へ戻りながら、時春へ軽く片手を上げた。

 

「ナイスパス」

 

 時春も嬉しそうに笑った。

 

「ナイスシュート!」

 

 それだけのやり取りだった。

 

 しかし、二人にはわかっていた。

 

 今のパスは、以前の時春が出していたパスとは少し違う。

 

 彼がスリーポイントを決めたからこそ、DJは時春へ寄ってきた。ドライブからのミドルレンジもあるとわかっているからこそ、オコナーは前へ出ざるを得なかった。

 

 そして、その結果として、マイクが空いた。

 

 時春は、ようやくその仕組みを自分のプレーで確かめることができたのである。

 

 コートの向こうでは、DJが小さく息を吐いた。

 

 彼は一度、マイクの方を見た。

 

 それから、時春へ視線を戻した。

 

 その表情に、わずかな興味が浮かんでいた。

 

     ◇

 

 第三クォーターの終盤。

 

 ウェストゲートはキーンの柔らかなジャンプシュートで二点を取り返し、点差を九点へ戻した。

 

『BREAKERS 57 — 66 WOLVES』

 

 しかし、ブレイカーズの攻撃は、もう以前のようには止まらなかった。

 

 時春がボールを持つと、ホロウェイはスリーポイントを警戒して前へ出てくる。スクリーンを利用してドライブを仕掛ければ、オコナーが素早くカバーへ動く。さらにDJもパスコースを読もうとするため、時春の周囲には、以前より多くの守備が集まるようになっていた。

 

 そのことを、時春自身が一番よく理解していた。

 

 だからこそ、彼は無理にシュートを打たなかった。

 

 自分に守備が寄れば、空いている仲間を探す。

 

 その判断は、少しも変わっていなかった。

 

 ある攻撃で、時春は右ウイングから鋭くドライブを仕掛けた。ホロウェイが追いかけ、オコナーが前へ出る。さらにキーンもゴール下で一歩だけ時春へ寄り、簡単なレイアップを許さない姿勢を取った。

 

 その瞬間。

 

 マイルズが動いた。

 

 彼はオコナーの背後へ回り込み、リングへ向かって走り込んでいた。

 

 時春には、それが見えていた。

 

 ボールを左手へ持ち替える。

 

 体をわずかにひねる。

 

 そして、相手の腕の下から、鋭いバウンズパスを送った。

 

「MILES!」

 

 マイルズが受け取る。

 

 オコナーが振り返る。

 

 しかし、遅い。

 

 マイルズはすでに、リングへ向かって跳び上がっていた。

 

 両手でボールを持ち上げる。

 

 そして、力強く叩き込んだ。

 

 ガシャアンッ!!

 

『BREAKERS 59 — 66 WOLVES』

 

「LET’S GOOOO!!」

 

 マイルズが吠えた。

 

 時春も満面の笑みで拳を握る。

 

 マイルズは着地すると、すぐに時春の方へ振り返った。

 

「NICE PASS, BRO!」

 

「ナイスダンク!」

 

 二人は勢いよく拳を合わせた。

 

 その様子を見ていたヘイズコーチは、静かに頷いていた。

 

 これだった。

 

 彼が時春に求めていたのは、単純にシュートを増やすことではない。

 

 自分で得点できる選手になり、その結果として、より良いパスを出せる選手になること。

 

 それまでの時春は、味方の動きを見つける能力には優れていた。しかし、相手の守備を自分から動かす力については、まだ十分に使いこなせていなかったのである。

 

 ところが、今は違う。時春がリングへ向かうと、相手が寄ってくる。相手が寄ってくれば、別の場所が空く。その空いた場所を、時春は決して見逃さない。

 

 彼の持つパスセンスは、何も変わっていなかった。

 

 変わったのは、そのパスが生まれるまでの過程だった。そして、その変化が、ブレイカーズ全体を少しずつ動かし始めていた。

 

 第三クォーター終了のブザーが鳴った。

 

『BREAKERS 59 — 66 WOLVES』

 

 七点差。

 

 タイムアウトを取った時点では十三点あった差が、六点も縮まっていた。

 

 ウェストゲートの観客席では、先ほどまでの余裕が少しずつ薄れ始めていた。もちろん、七点差ならまだホームチームが優勢であることに変わりはない。DJもキーンも健在で、ウルブズには何人もの優秀な選手がいる。

 

 しかし、さっきまでとは違う。

 

 そう感じている観客が、確かに増え始めていた。

 

     ◇

 

 クォーター間のベンチは、先ほどまでとはまったく違う雰囲気に包まれていた。

 

 選手たちは相変わらず疲れていた。マイルズは大きく肩を上下させ、ノアも水を飲みながら何度も呼吸を整えている。トムは汗を拭い、マイクは黙ってタオルを肩へかけていた。

 

 しかし、その表情には、明らかに勢いが戻っていた。

 

「Bro、今のトキ、マジでやべえぞ!」

 

 ノアが嬉しそうに笑った。

 

「お前、何だよそのシュート! 急にそんなバンバン打つようになって!」

 

 時春は少し照れくさそうに笑った。

 

「いや、コーチが打っていいって……」

 

「そういうことじゃねえよ!」

 

 ノアは大げさに両手を広げた。

 

「今まで遠慮しすぎだったんだって!」

 

 マイルズも頷いた。

 

「その通りだな。今のお前なら、相手も簡単に放っておけねえよ」

 

 イーサンは少し離れたところから、時春へ顔を向けた。

 

「トキ。自分で打つようになって、何か見えるものが変わったか?」

 

 時春は考えた。

 

「……うん」

 

 そして、ゆっくりと頷いた。

 

「今までより、みんなが空いてるところが見える気がする」

 

 イーサンが笑った。

 

「そうか」

 

「俺がシュートを打とうとすると、相手が寄ってくるんだ。そしたら、その人が守ってた場所が空くから……」

 

 時春は少し嬉しそうに続けた。

 

「今までより、パスが出しやすい!」

 

 それを聞いたヘイズコーチが、静かに口を開いた。

 

「……その感覚を忘れるな」

 

 全員が顔を向ける。

 

 ヘイズは時春を見つめていた。

 

「お前がシュートを打つことで、相手の守備は変わる。だが、今度は相手も対応してくるぞ。ホロウェイはさっきから距離を詰めているし、DJもお前のドライブを警戒し始めている」

 

 時春は頷いた。

 

「はい!」

 

「だからこそ、次の判断が大切だ。自分で決めるべき場面と、仲間へ渡すべき場面を見極めろ。得点を取りたい気持ちだけで突っ込めば、相手に読まれる」

 

「Yes, Coach!」

 

 ヘイズは少しだけ笑った。

 

「それから、シュートを外すことを怖がるな。打つべき場面で打ったなら、次も同じように打て」

 

 時春の顔が、明るくなった。

 

「……はい!」

 

 マイルズが立ち上がった。

 

「よし! あと八分だ!」

 

 選手たちが顔を上げる。

 

「七点差だぞ! もう一回、追いつくぞ!」

 

「YEAH!!」

 

 ノアが叫び、マイクとトムも立ち上がった。

 

 時春はゆっくりと深呼吸をした。

 

 そして、コートへ視線を向けた。

 

 そこではDJが、ホロウェイと何かを話していた。

 

 彼も、こちらを見ている。

 

 一瞬だけ、目が合った。

 

 時春は逃げなかった。

 

 DJも視線を外さなかった。

 

 二人はほんの短い時間、互いを見つめたまま立っていた。

 

 そして、ほとんど同時にコートへ向き直った。

 

 残り八分。

 

 勝負は、まだ終わっていなかった。

 

     ◇

 

 第四クォーター。

 

 ウェストゲートは、最初の攻撃でホロウェイがミドルレンジを決めた。

 

 DJへ守備が集中した隙を突き、トップから一歩踏み込んで放った堅実なジャンプシュートだった。

 

『BREAKERS 59 — 68 WOLVES』

 

 九点差。

 

 ウルブズの応援席が、再び大きな声を上げた。

 

 しかし、ブレイカーズは動揺しなかった。

 

 時春はエンドラインからのパスを受け取り、ゆっくりとコートを進んだ。正面にはホロウェイがいる。彼はすでにスリーポイントラインの外側まで出てきており、時春へ簡単なシュートを打たせないつもりだった。

 

 時春は、その守備を見ていた。

 

 以前なら、少し困っていたかもしれない。

 

 しかし、今は違った。

 

 前へ出てきたなら、その後ろが空く。

 

 それだけのことだった。

 

 時春は右へドリブルを始めた。

 

 ホロウェイがついてくる。

 

 マイルズがスクリーンをかける。

 

 時春はその横を抜け、一気にペイントエリアへ入り込もうとした。

 

 オコナーが出てくる。

 

 さらに、キーンもゴール下から一歩前へ出た。

 

 この小柄なポイントガードを、もう簡単には自由にさせない。

 

 そう言わんばかりの守備だった。

 

 しかし、時春はその二人を見て、少しだけ笑った。

 

 そして、ボールを持ち上げた。

 

 シュート。

 

 少なくとも、キーンにはそう見えた。

 

 彼は長い腕を伸ばし、時春の前へ跳び上がろうとする。

 

 だが、その瞬間。

 

 時春の手首が返った。

 

 ボールはリングへ向かわなかった。

 

 キーンの横を、鋭く通り抜けたのである。

 

 その先には、トムがいた。

 

 キーンが時春を止めるために前へ出たことで、トムはリングのすぐ近くで自由になっていた。

 

 彼は両手でパスを受け取ると、すぐに跳び上がった。

 

 長い腕が伸びる。

 

 そして、バックボードへ柔らかくボールを当てる。

 

 シュッ。

 

『BREAKERS 61 — 68 WOLVES』

 

「NICE!」

 

 時春が叫んだ。

 

 トムは嬉しそうに笑い、時春へ軽く手を上げた。

 

「ありがとう、トキ!」

 

「ナイスシュート!」

 

 二人は守備へ戻りながら、短く拳を合わせた。

 

 ヘイズコーチはベンチから、その攻撃を静かに見つめていた。

 

 時春の視野は、決して狭くなっていなかった。

 

 むしろ、広がっていた。

 

 シュートを狙う意識を強めたからといって、仲間を見失うことなどなかったのである。相手が何を警戒しているのか、その結果として誰が自由になるのか。それを以前よりも速く、よりはっきりと理解するようになっていた。

 

 時春にとって、得点することは、仲間へパスを出すための新しい武器になり始めていた。

 

     ◇

 

 次に起きたことは、ウェストゲートの観客席を少しだけ静かにさせた。

 

 ウルブズの攻撃。

 

 DJが左ウイングでボールを受け取り、時春の正面へ立った。

 

 身長差は、相変わらず大きかった。

 

 DJがボールを持ち上げれば、時春の腕では簡単に届かない。しかし、時春はもう、その差を必要以上に恐れていなかった。相手の腰の動きを見て、鋭いドライブへ反応する。右へ踏み込まれれば素早く横へ滑り、左へ切り返されれば低い重心を保ったまま追いかけた。

 

 DJが、右へ切り返す。

 

 時春はついていく。

 

 DJは少しだけ眉を上げた。

 

 そして、もう一度左へ踏み込んだ。

 

 時春は遅れなかった。

 

 彼はDJの進路へ体を滑り込ませ、リングへ向かう道を塞いだ。

 

 DJは一瞬、ドリブルを止める。

 

 その隙に、マイルズが横から素早く手を伸ばした。

 

 ボールへ触れた。

 

「……っ!」

 

 DJが反応する。

 

 しかし、ボールはすでに手元からこぼれ落ちていた。

 

 マイルズがそれを拾い上げる。

 

「TOKI!」

 

 時春はすぐに走り出した。

 

 マイルズからパスが飛ぶ。

 

 時春はセンターラインを越え、右手でドリブルを刻みながら前方へ進んだ。

 

 ホロウェイが戻ってくる。

 

 その後ろにはDJもいた。

 

 時春は二人の位置を見た。

 

 そして、無理にゴール下へ突っ込まなかった。

 

 一度だけ速度を落とし、右ウイングへ移動する。

 

 ホロウェイが正面へ立つ。

 

 DJも少し内側へ寄った。

 

 しかし、時春はもう一度リングを見た。

 

 その視線だけで、ホロウェイの体がわずかに前へ動く。

 

 時春は左へドリブルした。

 

 ホロウェイが追いかける。

 

 その瞬間、マイルズがスクリーンをセットした。

 

 時春はその横を抜け、スリーポイントラインの外側へ開いた。

 

 ホロウェイが追いかけようとする。

 

 しかし、マイルズの大きな体が、進路を塞いでいた。

 

 オコナーは一歩前へ出たものの、時春のドライブを警戒して、すぐには距離を詰められなかった。

 

 その一瞬。

 

 時春は止まった。

 

 そして、跳んだ。

 

 スリーポイント。

 

 今度は、迷いがなかった。

 

 先ほど外したときの感覚を覚えている。最初に決めたスリーの感覚も、まだ指先に残っている。足を揃え、膝を曲げ、無駄な力を抜きながらボールを放つ。

 

 ボールは、綺麗な放物線を描いて飛んでいった。

 

 オコナーが遅れて腕を伸ばす。

 

 ホロウェイも振り返る。

 

 しかし、間に合わない。

 

 時春は、その軌道を見つめていた。

 

 そして。

 

 シュパッ。

 

『BREAKERS 64 — 68 WOLVES』

 

「OOOOOOOHHHH!!」

 

 会場から、大きなどよめきが上がった。

 

 四点差。

 

 ついに、一桁どころか、二本のシュートで逆転できるところまで迫っていた。

 

 時春は着地すると、思わず両拳を握った。

 

「YES!!」

 

 ノアが駆け寄ってきた。

 

「BROOOOO!!」

 

 彼は時春の背中を強く叩き、嬉しそうに叫んだ。

 

「リトルマン! お前、今日何なんだよ!!」

 

「痛いって、ノア!」

 

 時春は笑いながら答えた。

 

 マイルズも大きな声を上げる。

 

「その調子だ! まだ行けるぞ!」

 

 マイクは軽く頷き、トムも嬉しそうに笑っていた。

 

 そして、ウェストゲートのベンチ。

 

 ウルブズのコーチが、初めて少し険しい表情になっていた。

 

 それも当然だった。

 

 十三点差をつけていた相手が、ほんの数分のうちに四点差まで迫ってきたのである。

 

 しかも、その中心にいたのは、試合前にはそれほど注目されていなかった、百七十センチの日本人ポイントガードだった。

 

     ◇

 

 観客席では、ジェイクがすでに大騒ぎしていた。

 

「BRO!! 見たか!? 今の見たかよ!!」

 

 彼は両腕を突き上げ、周囲のブレイカーズファンへ向かって叫んでいる。隣ではゾーイが笑いながらカメラを構え、マディソンも立ち上がって手を叩いていた。

 

「トキ、すごすぎる!!」

 

 エマは、しばらく言葉を失っていた。

 

 彼女はこれまで何度も、時春の試合を見てきた。パスを出すときの楽しそうな顔も、得意なミドルレンジを決めたときの嬉しそうな表情も、試合でミスをして悔しがる姿も知っている。

 

 しかし、今の時春には、それまでとは違うものがあった。

 

 積極的にシュートを打つ。

 

 そのシュートが決まる。

 

 すると、相手が警戒する。

 

 そして、今度は仲間へパスを送る。

 

 その一つひとつの判断に、以前よりもずっと強い自信が感じられた。

 

「……トキ」

 

 エマは小さく呟いた。

 

 そして、嬉しそうに笑った。

 

「……すごいね」

 

 少し後ろでは、由美も感心したように拍手をしていた。

 

「あらあら! トキ君、本当に上手なのねえ!」

 

 しかし、隣のハリーは返事をしなかった。

 

 彼はコートを見つめていた。

 

 あの小柄な日本人の少年。

 

 高山時春。

 

 金曜日の夜、娘を家まで送り届けたという男の子。

 

 最初は、どんな少年なのか確かめるつもりで試合を見に来ただけだった。もちろん、娘が応援しているチームである以上、勝ってほしいという気持ちはあった。それでも、バスケットボールという競技に特別詳しいわけでもないハリーにとって、今夜の試合は、あくまで娘の学校生活を少しだけ覗くための機会だったはずなのである。

 

 しかし、今。

 

 彼は、いつの間にか試合そのものに引き込まれていた。

 

 特に、時春のプレーには驚かされていた。

 

 自分よりずっと大きな相手へ向かっていく。何度止められても、諦めずにボールを運ぶ。そして、ほんのわずかな空間ができれば、迷わずシュートを放つ。

 

 その判断が、驚くほど速かった。

 

 ハリーは気づけば、膝の上で両手を握りしめていた。

 

「……あの子は……」

 

 由美が顔を向ける。

 

「ん?」

 

 ハリーは少しだけ言葉を探した。

 

「……随分、思い切りがいいな」

 

 由美が笑った。

 

「そうね。エマが夢中になるのもわかる気がするわ」

 

「……夢中?」

 

 その言葉に、ハリーの眉がぴくりと動いた。

 

 しかし、いつものように娘の交友関係を心配する余裕は、もうほとんどなかった。

 

 彼の目は、すぐにコートへ戻っていたのである。

 

     ◇

 

 四点差。

 

 しかし、ウェストゲートは名門校だった。

 

 簡単に逆転を許すつもりなどなかった。

 

 次の攻撃で、DJがボールを要求した。

 

 ホロウェイからパスを受け取ると、左ウイングでゆっくりとドリブルを始める。時春はすぐに腰を落とし、相手の動きを見つめた。

 

 二人の視線が合った。

 

 DJは、少しだけ口元を緩めた。

 

「……いいシュートだ」

 

 時春は一瞬、目を丸くした。

 

「……えっ?」

 

「さっきの」

 

 DJは落ち着いた声で続けた。

 

「今までとは違う」

 

 時春は、ほんの少しだけ笑った。

 

「……ありがとう」

 

 しかし、すぐに腰を落とし直した。

 

「でも、まだ追いついてないから」

 

 DJは頷いた。

 

「……そうだね」

 

 そして、次の瞬間。

 

 鋭く右へ踏み込んだ。

 

 時春は反応した。

 

 しかし、DJの一歩はやはり速かった。長い脚で一気に距離を詰め、時春の横を抜けようとする。時春は必死に追いかけ、相手の進路へ体を滑り込ませた。

 

 DJは、そこで一度だけ速度を落とした。

 

 時春の重心が、わずかに前へ移る。

 

 その瞬間、DJはドリブルを左手へ持ち替えた。

 

 クロスオーバー。

 

※ドリブル中、ボールの持ち手と反対側に素早く切り込むこと

 

 時春は反応したが、今度は半歩だけ遅れた。

 

 DJはその隙にフリースローラインの内側へ入り、滑らかにジャンプシュートへ移った。

 

 時春が腕を伸ばす。

 

 しかし、ボールはその指先より高く放たれていた。

 

 柔らかな放物線。

 

 そして、ネットが揺れる。

 

『BREAKERS 64 — 70 WOLVES』

 

 六点差。

 

 DJは着地すると、落ち着いて守備へ戻っていった。

 

 時春はその後ろ姿を見つめた。

 

 やっぱり、すごい。

 

 自分よりもずっと多くの得点方法を持っている。ドライブも、ミドルレンジも、パスも、そして豪快なダンクまで。自分がようやく気づいたことを、DJは何年も前から知っていたかのようだった。

 

 しかし、今の時春は、その事実をただ羨ましく思うだけではなかった。

 

 むしろ、嬉しかった。

 

 同じコートで戦っている。

 

 あれほど憧れていた選手と。

 

 そして、今は自分も、彼を相手に得点を重ね始めている。

 

 時春はゆっくりと息を吸った。

 

 ……もっと。

 

 まだ、もっとできるはずだ。

 

     ◇

 

 次の攻撃。

 

 時春は再び、ホロウェイの正面へ立った。

 

 スリーポイントラインの外側。

 

 彼はドリブルを刻みながら、相手の足元を見ていた。

 

 ホロウェイは、もう簡単に距離を取らなかった。

 

 ミドルレンジを二本。

 

 スリーポイントも二本。

 

 それだけ決められれば、相手が警戒するのも当然だった。

 

 しかし、その警戒心が、今度は別の空間を生み出していた。

 

 時春は突然右へ踏み込んだ。

 

 ホロウェイが反応する。

 

 そこで、左へ切り返す。

 

 ホロウェイの体がわずかに遅れた。

 

 時春はその隙を見逃さず、一気にペイントエリアへ進入した。

 

 キーンが前へ出る。

 

 オコナーもカバーへ向かう。

 

 時春は一度、リングへ向かって跳び上がった。

 

 しかし、空中でボールを持ち直す。

 

 キーンの長い腕が、正面へ伸びてくる。

 

 時春は体を少しだけ横へひねり、レイアップを放とうとした。

 

 その瞬間。

 

 キーンの腕が、時春の右腕へ触れた。

 

 ピーッ!

 

 審判の笛が鳴った。

 

 ファウル。

 

 時春は着地すると、少し驚いたように審判を見た。

 

 そして、ファウルが認められたことを確認すると、小さく頷いた。

 

 フリースロー。

 

 時春はラインへ立った。

 

 体育館が、少しだけ静かになる。

 

 ウェストゲートの応援団からは、シュートを外させようとする声が飛んでいた。しかし、時春はリングだけを見つめていた。

 

 一投目。

 

 深く息を吸う。

 

 膝を曲げる。

 

 そして、放つ。

 

 シュッ。

 

 綺麗に決まった。

 

『BREAKERS 65 — 70 WOLVES』

 

 五点差。

 

 時春は一度だけ右手を握りしめ、それから二投目のボールを受け取った。

 

 今度も同じように構える。

 

 しかし、放たれたボールは少しだけ強かった。

 

 リングの奥側へ当たり、上方へ跳ね返る。

 

 外れた。

 

 オコナーがリバウンドをつかみ、ホロウェイへパスを送った。

 

 時春は少しだけ悔しそうに顔をしかめたが、すぐに守備へ戻った。

 

 五点差。

 

 あと少し。

 

 もう、そういう距離だった。

 

     ◇

 

 ウェストゲートの攻撃は、以前よりも慎重になっていた。

 

 ホロウェイはすぐにDJへボールを渡さず、キーンをハイポストへ呼んだ。ピアースが外側を走り、オコナーがスクリーンをセットする。いつも通りの連携だったが、ブレイカーズの守備もまた、少しずつ相手の動きへ対応できるようになっていた。

 

 ノアはピアースの進路を先回りして塞ぎ、マイクはホロウェイへ簡単なパスを通させない。マイルズはオコナーを押さえながら、キーンからのパスコースへ腕を伸ばしていた。

 

 そして、時春。

 

 彼はDJを見ていた。

 

 DJが左側へ動けば、時春もついていく。

 

 スクリーンが近づけば、すぐに仲間へ声をかける。

 

 パスが出そうになれば、先に進路へ回り込む。

 

 その動きには、疲労の色が見えていた。

 

 それでも、足は止まらなかった。

 

 ホロウェイがようやくDJへパスを送った。

 

 DJはボールを受け取ると、すぐに右へドライブした。

 

 時春がついていく。

 

 DJは一度だけ左へ切り返し、フリースローライン付近からジャンプシュートを放った。

 

 時春は腕を伸ばす。

 

 ボールはその上を通り、リングへ向かって飛んでいった。

 

 しかし、わずかに短かった。

 

 カンッ。

 

 リングの手前へ当たる。

 

 そして、その瞬間。

 

 マイルズが跳び上がった。

 

「MINE!(俺のボールだ!)」

 

 大きな声を上げ、両手でリバウンドをつかみ取る。

 

 オコナーが横から腕を伸ばしたが、マイルズは体をひねってボールを守った。

 

 そして、すぐに前方を見る。

 

「TOKI!」

 

 時春は、もう走り出していた。

 

 マイルズからパスが飛ぶ。

 

 時春は右手で受け取り、センターラインを越える。

 

 前にはホロウェイ。

 

 少し後ろにはDJ。

 

 さらに、キーンもゴール下へ戻ろうとしていた。

 

 速攻で簡単に決められる状況ではなかった。

 

 しかし、時春は慌てなかった。

 

 むしろ、ゆっくりとドリブルの速度を落とした。

 

 そして、左手を上げた。

 

「MILES!」

 

 マイルズが、トップ付近へ走ってくる。

 

 ホロウェイはすぐに反応した。

 

 スクリーン。

 

 何度も見てきた動きだった。

 

 時春がその横を抜け、フリースローライン付近でプルアップを打つ。あるいは、ドライブを仕掛けてマイルズへパスを送る。すでに何度も繰り返されている攻撃であり、ウェストゲートもようやく対応し始めていた。

 

 しかし、時春は、その対応を見ていた。

 

 マイルズがスクリーンをセットする。

 

 ホロウェイが横へ動く。

 

 オコナーが前へ出る。

 

 時春は、右へドリブルした。

 

 そして、突然止まった。

 

 ホロウェイが反応する。

 

 しかし、その瞬間、時春はもう一度右へ踏み込んだ。

 

 ホロウェイの重心が浮く。

 

 時春はその隙に、フリースローラインの少し内側へ入り込んだ。

 

 オコナーが腕を伸ばす。

 

 しかし、彼はマイルズのロールも警戒していたため、時春へ完全に体を寄せることはできなかった。

 

 その一瞬。

 

 時春は、リングを見た。

 

 空いている。

 

 ほんの半歩。

 

 しかし、今の彼には十分だった。

 

 時春はドリブルを終えた。

 

 両足を揃える。

 

 膝を曲げる。

 

 そして、跳び上がる。

 

 プルアップミドル。

 

 ホロウェイが慌てて腕を伸ばした。

 

 オコナーも横から手を上げる。

 

 しかし、時春はもう、ボールを放っていた。

 

 それは、何度も練習してきたシュートだった。

 

 日本にいた頃から繰り返してきた、得意な距離。

 

 大柄なディフェンダーに囲まれても、ほんの少しの空間があれば打てるように、何百回も練習してきた動き。

 

 そのすべてが、今、自然につながっていた。

 

 ボールが指先から離れる。

 

 高く、柔らかい放物線。

 

 リングへ向かって、ゆっくりと落ちていく。

 

 そして。

 

 シュッ。

 

 白いネットが、静かに揺れた。

 

『BREAKERS 67 — 70 WOLVES』

 

 一瞬、会場の音が遠くなった。

 

 時春は着地した姿勢のまま、リングを見つめていた。

 

 入った。

 

 また、入った。

 

 スコアボードへ顔を向ける。

 

 六十七対七十。

 

 三点差。

 

 そして、残り時間。

 

『4TH QUARTER — 5:00』

 

 第四クォーター、残り五分。

 

 つい先ほどまで、十三点も離されていたはずだった。

 

 それが今。

 

 たった一本のスリーポイントで、同点に追いつけるところまで来ていた。

 

     ◇

 

「OOOOOOOOOOOOHHHHHH!!」

 

 その瞬間。

 

 ウェストゲートの体育館が、爆発した。

 

 ただし、先ほどまでとは、まったく違う歓声だった。

 

 ウルブズの応援団がDJのダンクに沸くときの、勝利を確信したような声ではない。目の前で起きていることが信じられないという驚きと、それでも続きを見ずにはいられないという興奮が混ざり合った、異様なほど大きな歓声だった。

 

 観客席の一角では、青と白の応援シャツを着たブレイカーズファンが一斉に立ち上がっていた。

 

「TOKIIIIIIII!!」

 

 ジェイクだった。

 

 彼は両腕を突き上げ、声の限りに叫んでいた。

 

「LET’S GOOOO!! TOKI!!」

 

 ゾーイも珍しく大きな声を上げていた。

 

「トキ!! すごい!!」

 

 カメラを握る手が少しだけ震えている。

 

 マディソンは両手を叩きながら、嬉しそうに叫んだ。

 

「TOKI!! ONE MORE!!」

 

 ラリーもメガネを押し上げ、少しだけ口元を緩めた。

 

「……すごいな」

 

 その声は、いつもよりずっと明るかった。

 

 そして、エマ。

 

 彼女は、もう座っていられなかった。

 

「トキーーー!!」

 

 立ち上がり、両手を口元へ添える。

 

「頑張ってーーー!!」

 

 その声がコートへ届いたのかどうかは、わからない。

 

 しかし、時春は守備へ戻りながら、ほんの一瞬だけ観客席へ顔を向けた。

 

 青と白の応援団。

 

 そこに立つ、見慣れた友人たち。

 

 そして、誰よりも嬉しそうに手を振っているエマの姿。

 

 時春は思わず笑った。

 

 それから、すぐに前を向いた。

 

 まだ、勝っていない。

 

 それでも、今は。

 

 何だってできるような気がしていた。

 

 コートの周囲では、カメラマンたちが次々とレンズを時春へ向け始めていた。

 

 試合開始前、彼らの多くがDJを撮影するためにこの体育館へやって来ていた。全米から注目される新入生。NBAのスーパースターを父に持つ少年。今夜の主役は、当然のようにDJだと考えられていた。

 

 しかし、そのレンズが。

 

 今は、一人の日本人少年を追いかけていた。

 

 百七十センチ。

 

 十六歳。

 

 クレセントベイ・アカデミーの一年生ポイントガード。

 

 高山時春。

 

 この数分間で、彼は試合そのものの空気を変えてしまったのである。

 

 スクリーンからの鋭いプルアップミドル。

 

 空いていれば迷わず放つスリーポイント。

 

 相手が警戒して前へ出てくれば、鋭いドライブで抜き去る。

 

 そして、二人がかりで止めようとすれば、空いた仲間へ正確なパスを送る。

 

 マイクがスリーポイントを決め、マイルズがゴール下へ飛び込み、トムが柔らかなレイアップを沈める。その一つひとつの得点には、時春が相手の守備を動かしたことによって生まれた空間があった。

 

 それまで、ブレイカーズの攻撃は、DJを中心とするウルブズの守備に何度も苦しめられていた。

 

 しかし、今は違う。

 

 ウェストゲートの選手たちが、時春を警戒していた。

 

 彼がボールを持つと、ホロウェイが距離を詰める。

 

 彼がドライブを始めれば、オコナーが前へ出る。

 

 そして、パスコースを読もうとするDJまで、その動きを追いかけている。

 

 時春は、相手の守備を自分へ引き寄せ始めていた。

 

 それも、一人で得点を重ねるためだけではない。

 

 仲間たちを自由にするために。

 

 自分も得点できるのだと示すことで、チーム全体の攻撃を生かすために。

 

 彼の小さな体が、コートのあちこちに新しい空間を生み出していたのである。

 

 まるで、そこに見えない重力が生まれたかのようだった。

 

     ◇

 

 観客席の少し後ろ。

 

 ハリー・パーカーは、立ち上がっていた。

 

 本人には、いつ椅子から腰を上げたのか、よくわかっていなかった。

 

 気づいたときには、もう立っていたのである。

 

 そして、両手を握りしめたまま、コートを見つめていた。

 

「……すごい」

 

 思わず、声が漏れた。

 

 隣で由美が振り返る。

 

「あら?」

 

 ハリーは答えなかった。

 

 その目は、時春を追いかけていた。

 

 自分よりもずっと大きな選手たちを相手に、決して怯むことなくドリブルを続ける。ほんのわずかな空間ができれば、迷わずシュートを放つ。そして、そのシュートが決まると、今度は仲間を生かすためにパスを送る。

 

 ハリーは、そこに奇妙な美しさを感じていた。

 

 豪快なダンクとは違う。

 

 DJのような圧倒的な身体能力とも違う。

 

 時春のプレーには、何か繊細なものがあった。

 

 小さな体を使い、相手のわずかな重心のずれを読み取り、最もよい瞬間に動き出す。その判断が速く、しかも迷いがない。失敗しても、次のプレーで同じように挑戦する。自分より大きな選手に囲まれても、決して逃げようとしない。

 

 ハリーは、いつの間にかその姿に見とれていた。

 

 そして、無意識に呟いていた。

 

「……あの子、本当に上手いな」

 

 由美が、にこりと笑った。

 

「でしょう?」

 

 ハリーは、そこで初めて我に返った。

 

「……いや、私は……」

 

「ふふっ。すっかり応援してるじゃない」

 

「……応援くらいするだろう。娘の学校のチームなんだから」

 

 由美は楽しそうに笑った。

 

「そうねえ」

 

 ハリーは再び腕を組もうとした。

 

 しかし、うまくいかなかった。

 

 両手が、まだ小さく震えていたのである。

 

 彼は少し困ったような顔をした。

 

 そして、もう一度コートを見た。

 

 そこでは、時春が仲間たちと声をかけ合いながら守備へ戻っていた。

 

 その姿を眺めているうちに、ハリーの口元が、知らず知らずのうちに緩んでいた。

 

 高山時春。

 

 娘が、あれほど嬉しそうに名前を呼ぶ少年。

 

 ハリーにとっては、まだ一度も会ったことのない相手だった。

 

 どんな性格なのか。

 

 普段は何を考えているのか。

 

 娘と、どんな話をしているのか。

 

 それらは、まだ何もわからない。

 

 しかし、少なくとも。

 

 この少年が、バスケットボールへ向けている気持ちだけは。

 

 今夜のプレーを見ていれば、少しだけわかるような気がした。

 

 ハリーは静かに息を吐いた。

 

 そして、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。

 

「……頑張れよ、少年」

 

 由美は、その言葉を聞いていた。

 

 しかし、何も言わなかった。

 

 ただ、嬉しそうに笑っていた。

 

     ◇

 

 コートの中央。

 

 時春は、ゆっくりと腰を落とした。

 

 目の前には、DJがいた。

 

 今夜、何度も自分を抜き去り、何度も素晴らしいパスを出し、何度もリングへボールを叩き込んできた少年。

 

 時春が、憧れを抱いてしまった相手。

 

 そのDJが、今は少しだけ違う表情で時春を見つめていた。

 

 驚いているわけではない。

 

 焦っているわけでもない。

 

 ただ、先ほどまで以上に真剣な目をしていた。

 

 DJは時春へ近づくと、ほんの少しだけ笑った。

 

「面白いね、君」

 

 時春は顔を上げた。

 

「えっ?」

 

 DJは続けた。

 

「さっきまでとは、全然違う」

 

 時春は少しだけ照れくさそうに笑った。

 

「そうかな」

 

「うん」

 

 DJは頷いた。

 

 そして、コートの向こうへ視線を向けた。

 

「……でも」

 

 時春が顔を上げる。

 

 DJは、静かに笑った。

 

「まだ、僕らが勝ってるから」

 

 時春は一瞬、目を丸くした。

 

 そして、すぐに笑った。

 

「……うん」

 

 彼は腰を落とし直した。

 

「でも、あと三点だから」

 

 二人の視線が交わる。

 

 DJの口元が、わずかに持ち上がった。

 

 時春も笑った。

 

 その笑顔には、もう先ほどまでの戸惑いはなかった。

 

 憧れは、今もある。

 

 DJのプレーは、やはりすごい。

 

 彼から学べることは、きっとまだ山ほどあるだろう。

 

 しかし。

 

 だからといって、負けるつもりはなかった。

 

 むしろ、あれほど憧れていた相手だからこそ。

 

 同じコートで、本気で勝ちたかった。

 

 時春は、小さく息を吸った。

 

 そして、ゆっくりと笑った。

 

「次も止めるよ」

 

 DJは頷いた。

 

「やってみて」

 

 その声には、わずかに楽しそうな響きがあった。

 

 ウェストゲートの体育館は、すでに大きな興奮に包まれていた。

 

 観客席のあちこちから、時春の名前が聞こえてくる。ブレイカーズの応援団だけではない。ウルブズの生徒たちの中にも、今の日本人ガードのプレーに驚き、彼の名前を口にする者が現れ始めていた。

 

「TOKI!」

 

「TOKI!」

 

 その声は、少しずつ大きくなっていった。

 

 試合開始前、誰もがDJを見に来ていた。

 

 しかし、今。

 

 その視線の多くが、高山時春へ向けられていた。

 

 ベンチのイーサンは、そんな光景を眺めながら小さく笑った。

 

「……やるじゃねえか、トキ」

 

 マイルズは満足そうに頷き、ノアは相変わらず大声で仲間を鼓舞していた。マイクは静かに守備の位置を確認し、トムも両腕を高く掲げながら、次のプレーへ備えている。

 

 そして、ヘイズコーチ。

 

 彼は腕を組んだまま、コートを見つめていた。

 

 その視線の先には、時春がいた。

 

 ほんの数分前まで、相手の実力に圧倒されていた少年。

 

 自分のパスを読まれ、DJに何度も抜き去られ、それでも必死に戦っていたポイントガード。

 

 その少年が今、試合の流れを変えようとしている。

 

 ヘイズは静かに頷いた。

 

 時春が、自分でシュートを打つようになったからではない。

 

 自分の得点能力を信じることで、仲間を生かす新しい方法を見つけ始めたからだった。

 

 ポイントガードとは、ただボールを運ぶ選手ではない。

 

 味方へパスを配るだけの選手でもない。

 

 コート全体を見つめ、相手の守備を動かし、仲間たちに最もよい選択肢を与える存在。

 

 そして、ときには、自分自身が最も危険な選択肢にならなければならない。

 

 その意味を。

 

 高山時春は、ようやく理解し始めていたのである。

 

 スコアボードには、変わらず数字が表示されていた。

 

『BREAKERS 67 — 70 WOLVES』

 

『4TH QUARTER — 5:00』

 

 三点差。

 

 残り五分。

 

 試合は、まだ終わっていない。

 

 しかし、ほんの数分前とは、明らかに何かが違っていた。

 

 ウェストゲート・プレップ・ウルブズは、依然としてリードを保っている。DJは健在であり、キーンもオコナーも、ピアースもホロウェイも、簡単に崩れるような選手ではない。

 

 それでも。

 

 会場の空気は、すでに変わっていた。

 

 そして、その中心にいるのは。

 

 百七十センチの、小さな日本人ポイントガードだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。