CRESCENT BAY ACADEMY   作:西野圭吾

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第9話 決着

 二月二十二日、月曜日。ロサンゼルス、ウェストゲート・プレップ体育館。

 

 第四クォーター残り五分。スコアボードに表示された六十七対七十という数字は、この夜の試合を見守ってきた者たちにとって、にわかには信じ難いものだった。

 

 第三クォーターの中盤、ブレイカーズは十三点もの差をつけられていた。試合開始からウェストゲートの組織的な攻撃に苦しめられ、DJの鋭いドライブや正確なパス、キーンのリバウンド、ピアースのスリーポイントに何度も翻弄されてきた。ブレイカーズも決して悪い試合をしていたわけではない。それでも、相手が一枚も二枚も上手だったのである。しかし、その流れは高山時春が積極的にシュートを狙い始めた頃から、少しずつ変わっていた。

 

 自分で得点することによって、相手の守備を引き寄せる。そして、その隙に自由になった仲間へパスを送る。DJのプレーから学んだことを、時春は自分なりの方法で実践し始めていた。スクリーンからのプルアップミドル、わずかな空間を見つけて放つスリーポイント、そこへ守備が寄ってくれば鋭くゴール下へ差し込まれるパス。それまでパスを優先していた小柄なポイントガードが、自分自身を得点の脅威に変えてしまったことで、ウェストゲートの守備には新しい問題が生じていた。

 

 そして今、三点差。

 

 紺色と銀色の応援席が埋め尽くす体育館には、これまでとは異なる緊張が広がっていた。ウルブズの選手たちがボールを持つたび、ホームの観客は得点を期待して声を張り上げる。しかし、その声にはもう、試合序盤のような余裕はない。反対に、青と白のユニフォームを応援する一角からは、時間が経つほどに大きな声が聞こえてくるようになっていた。

 

「LET’S GO, BREAKERS!」

 

 ベンチのイーサンが立ち上がり、両手を叩いた。コートではマイルズが守備の配置を確認し、ノアとマイクが互いに短い声をかけ合っている。トムはゴール下でキーンと体をぶつけ合いながら、リングへ向かってくる選手を待っていた。

 

 その中央で、時春は腰を低く落としていた。

 

 正面にはDJがいる。

 

 二人とも、ひどく汗をかいていた。ユニフォームは肌へ張りつき、激しい呼吸が胸を上下させている。それでも、互いの視線は少しも逸れなかった。DJが右へ動けば時春も動き、左へ切り返されれば必死に足を滑らせる。完全に止めることはできなくても、簡単にリングへ向かわせるつもりはなかった。

 

 時春の胸には、先ほどまでとは違う確かな手応えがあった。

 

 追いつける。

 

 そして、勝てる。

 

 それは相手を過小評価しているからではなかった。DJの強さも、ウェストゲートというチームの完成度も、この試合を通して嫌というほど思い知らされていた。それでも、自分たちはここまで点差を縮めてきたのである。マイクは大事な場面でシュートを決め、マイルズは体を張ってゴール下を支え、ノアは何度でもリングへ向かい、トムはキーンの大きな体に押し負けず戦い続けていた。

 

 その仲間たちが、まだ走っている。

 

 だから時春も、足を止めるわけにはいかなかった。

 

     ◇

 

 残り五分からの試合は、ほとんど息をつく間もなく進んでいった。

 

 最初に動いたのはブレイカーズだった。時春がトップでボールを持つと、ホロウェイがスリーポイントを警戒して距離を詰めてきた。時春はマイルズのスクリーンを利用して右へ踏み込み、オコナーを引きつけてから、反対側のウイングへ鋭いパスを送った。そこにはマイクがいた。ピアースが必死に腕を伸ばしたが、マイクはわずかに早くボールを放ち、リングの中央へ沈めた。

 

 七十対七十。同点。

 

 ブレイカーズの応援席が爆発するように沸き上がったが、その興奮が収まるよりも早く、今度はウェストゲートが攻撃を仕掛けてきた。ホロウェイからDJへパスが渡り、DJは時春を正面に置いたまま、ゆっくりとドリブルを刻む。彼が右へ一歩踏み込んだ瞬間、時春はその進路へ体を滑り込ませた。DJは無理をせず、キーンへボールを預けたが、その先のパスを読んでいたノアが手を伸ばし、ボールの軌道を変えた。

 

 床を転がるボールへ、マイルズが飛びついた。彼はそのまま時春へパスを送り、自らもゴール下へ向かって走り出す。時春はホロウェイの横を抜けると、オコナーが前へ出た瞬間にバウンズパスを通した。マイルズはそのボールを両手で受け取り、力強いレイアップを決めた。

 

 七十二対七十。ブレイカーズが、久しぶりにリードを奪った。

 

 しかし、その二点差をウェストゲートは容易に許さなかった。DJのドライブへブレイカーズの守備が寄った隙に、ピアースが左コーナーへ走り込んだのである。DJからのパスは正確で、ピアースはほとんど足を止めることなくスリーポイントを放った。ボールがネットを揺らし、七十二対七十三。さらに次の攻撃ではDJが時春の守備をかわしてミドルレンジを決め、ウルブズは再び三点のリードを得た。

 

 それでも、時春は迷わなかった。

 

 残り三分を切ったところで、彼はマイルズのスクリーンを利用し、ホロウェイをわずかに引き離した。オコナーが前へ出るより早く足を揃え、スリーポイントラインの外側からシュートを放つ。疲労で重くなった脚を懸命に伸ばし、何度も繰り返してきたフォームで送り出したボールは、リングの奥へ一度触れてから、ネットの中へ落ちていった。

 

 七十五対七十五。再び同点。

 

「TOKIIII!!」

 

 ジェイクが叫び、エマが立ち上がった。ゾーイはカメラを握る手を止め、マディソンは両手を叩いている。その少し後ろでは、ハリーまで思わず身を乗り出していたが、彼自身にはもう、そんなことを気にする余裕すらなかった。

 

 やがてホロウェイがスリーポイントを決め、ウェストゲートが七十五対七十八とリードを奪う。するとノアがピアースを力強く抜き去ってレイアップを沈め、再び一点差へ迫った。しかし、続くウルブズの攻撃では、DJのシュートが外れたところへオコナーが飛び込み、トムとマイルズの間からオフェンスリバウンドを奪って押し込んだ。

 

 七十七対八十。

 

 残り一分を切っていた。

 

 時春は次の攻撃で再びゴール下へ飛び込んだ。ホロウェイをスクリーンで振り切り、キーンが前へ出てきたところでレイアップを狙う。しかし、キーンの長い腕が時春のシュートを妨げ、審判の笛が鳴った。フリースロー二本。時春は一投目を落ち着いて決めたものの、二投目はわずかに強く、リングの奥へ当たって跳ね返った。

 

 オコナーが、そのリバウンドをつかんだ。

 

 スコアボードには、七十八対八十と表示されていた。

 

 そして、残り三十秒。

 

 ボールはウルブズのものだった。

 

     ◇

 

 体育館を覆っていた喧騒は、もはや一つの大きなうねりとなっていた。

 

 ウルブズの応援団は総立ちになり、選手たちへ時間を使うよう叫んでいる。コートサイドではカメラマンが姿勢を低くし、いつ始まるかわからない最後の攻防へレンズを向けていた。スカウトたちもノートを書く手を止め、ただコートを見つめている。得点のたびに大きく揺れていた会場の空気には、今や異様な緊張が混ざっていた。

 

 時春は両膝へ手を置き、大きく息を吸った。

 

 太腿が痛かった。何度も切り返しを繰り返した脚は、少し力を抜くだけで震えそうになる。喉は乾き、胸の奥では心臓が激しく打ち続けていた。時計を確認すると、残り時間は三十秒。たった一回、相手の攻撃を止められれば、まだ十分に勝機がある。

 

 ホロウェイからボールを受け取ったDJが、センターラインを越えてきた。

 

 時春はゆっくりと腰を落とした。

 

 DJもまた、疲れていないはずがなかった。試合開始から何度もドライブを仕掛け、速攻ではコートを駆け抜け、守備ではマイクや時春の動きを追い続けている。それでも、彼の表情には焦りがなかった。まるで、まだ第一クォーターの序盤であるかのように、落ち着いてボールを床へ弾ませている。

 

 時春は相手の腰を見た。DJは一度右へドリブルし、反対の手へ持ち替える。いつもより少し高い位置でボールを弾ませたかと思うと、突然、右肩を大きく落とした。

 

「……っ!」

 

 時春が反応したときには、DJの体がすでに横へ滑り込んでいた。最初の一歩で時春の左側へ踏み込み、次の一歩で一気に加速する。時春は必死に足を動かしたが、今度ばかりは反応が半歩遅れた。DJの長い体が横を通り過ぎ、そのままペイントエリアへ突き進んでいく。

 

「HELP!!」

 

 マイルズの声が響いた。

 

 DJは最後のドリブルを床へ叩きつけると、両手でボールを受け止めた。ゴール下にはキーンのマークを外したトムが戻ってきていたが、DJは速度を落とさない。むしろ、その長い一歩をさらに大きく踏み込み、リングへ向かって跳び上がった。

 

 右手に握られたボールが、高々と持ち上がる。

 

 トマホークダンク。

 

 試合開始直後から何度も会場を沸かせてきた、DJの得意な一撃だった。長い腕が頭の後ろへ引かれ、肩が大きく回る。リングの上からボールを叩き込もうとする、その動きにはほとんど無駄がなかった。

 

 しかし、今度は違った。

 

 トム・ウェイクが、そこにいた。

 

 彼はDJが跳び上がる直前、すでに両膝を深く曲げていた。長い腕を折り畳むように体の近くへ引き寄せ、相手の踏み切りを見届ける。そして、DJがボールを振り上げたのとほとんど同時に、床を強く蹴った。

 

 トムの体が、高く浮き上がった。

 

 DJの右腕が振り下ろされる。ボールがリングへ向かって加速する。誰もが、この試合を決める豪快なダンクが叩き込まれるものだと思った。そのとき、トムの右手が正面から伸び、DJの握るボールへ真っ向からぶつかった。

 

 バァァンッ!!

 

 凄まじい音が響き、ボールがリングの手前で大きく弾き飛ばされた。

 

 ブロック。

 

 完全なブロックだった。

 

 トムはDJの腕ではなく、ボールそのものを捉えていた。振り下ろされる強烈なダンクへ真正面から手を合わせ、その勢いを押し返したのである。DJの体が空中でわずかに傾き、ボールはリングを通ることなく、ペイントエリアの左側へ飛んでいった。

 

「BIG TOOOOOOOOM!!!」

 

 ジェイクの叫び声が、観客席から響き渡った。

 

 それに続くようにブレイカーズの応援席が沸き上がったが、コートにいる選手たちには喜んでいる時間などなかった。ブロックされたボールはまだ生きている。トムが着地して体勢を立て直すよりも早く、そこへ一人の選手が飛び込んでいた。

 

 ノアだった。

 

 彼は左側へ跳ねたボールを両手でつかみ取ると、そのまま一度も振り返らずに走り出した。ピアースが追いかけようとするが、ノアは長い脚で一気に加速する。センターラインの近くではホロウェイが守備へ戻ろうとしており、キーンもすでに反対側のゴールへ向かっていた。

 

「GO!! GO!!」

 

 ブレイカーズのベンチから声が飛ぶ。

 

 ノアはドリブルを強く床へ打ちつけた。右手から左手へ持ち替え、再び右手へ戻す。速攻を止めようとするホロウェイの横を抜けると、彼の視線はまっすぐリングへ向けられた。

 

 キーンがペイントエリアへ戻ってくる。

 

 オコナーも必死に走っていた。

 

 それでも、ノアは止まらなかった。彼は試合開始直後、このキーンの上から豪快なダンクを叩き込んでいたのである。観客も、そしてウェストゲートの選手たち自身も、今度も彼がリングへ突っ込んでくると考えていた。ノアの表情も、それを裏切るようなものではなかった。歯を食いしばり、目を見開き、何としても得点してやろうという勢いでゴール下へ向かっていく。

 

 彼は最後のドリブルを終えると、ボールを両手で持ち上げた。

 

 キーンが跳ぶ。

 

 オコナーが腕を伸ばす。

 

 ノアもまた、床を蹴った。

 

 しかし、空中へ浮かび上がった彼の目は、リングを見ているようで、実際にはその先を捉えていた。

 

 右コーナー。

 

 そこへ、一人の選手が走り込んでいたのである。

 

 ノアは空中で体をひねった。キーンの腕が目の前へ迫り、オコナーもボールへ手を伸ばしている。しかし、ノアは最後まで右コーナーへ顔を向けなかった。リングへ向かってボールを押し込むと見せかけたまま、着地の直前に両腕を横へ振り抜いた。

 

「いるだろマイク!?」

 

 ノールックパス。

 

 ボールはキーンの伸ばした腕の外側を抜け、スリーポイントラインの右コーナーへ飛んでいった。

 

 そこには、マイク・トンプソンがいた。

 

 彼はすでに両足をラインの外側へ揃えていた。ノアがリングへ向かって走り始めたとき、マイクはあえてその後を追わず、右サイドを大きく回り込んでいたのである。ノアへ守備が集中した瞬間、右コーナーには誰もいなくなっていた。

 

 マイクは胸元でボールを受け取った。

 

 一瞬だけリングを見た。

 

 そして、跳び上がった。

 

 その動きには、疲労も、迷いも、恐怖も感じられなかった。両肘を自然に折り曲げ、手首を滑らかに返す。何千回も繰り返してきたシュートフォームが、今夜の最も重要な場面でも少しも崩れることなく完成した。

 

 ボールが、静かに指先から離れた。

 

 ノアは着地しながら、その軌道を追いかけた。キーンも振り返り、オコナーは伸ばしていた腕を下ろす。時春はまだセンターライン付近にいたが、すでに両拳を胸の前で握りしめていた。

 

 ボールがリングへ近づく。

 

 高い放物線の頂点を過ぎ、ゆっくりと落ちていく。

 

 そして。

 

 シュパッ。

 

 ネットが、美しく跳ねた。

 

『BREAKERS 81 — 80 WOLVES』

 

「THREEEEEEEEEE!!!」

 

 ブレイカーズの応援席が、爆発した。

 

 ジェイクは両腕を振り上げ、何度もマイクの名前を叫んでいた。ゾーイはカメラを構えることも忘れ、マディソンと抱き合っている。ラリーでさえ思わず立ち上がり、信じられないものを見るようにスコアボードを見つめていた。

 

 エマは両手を口元へ当てたまま、声にならない歓声を上げた。彼女の隣では由美が大きな拍手を送り、ハリーは椅子から立ち上がった姿勢で固まっていた。

 

「……逆転した……!」

 

 エマが呟いた。

 

「逆転したよ、パパ!」

 

 ハリーは答えようとしたが、言葉が出てこなかった。目の前で起きたことが、あまりにも鮮やかだったからである。誰もがダンクを予想していた場面で、ノアはボールを右コーナーへ送り、そこで待っていたマイクが迷わずシュートを決めた。彼にはバスケットボールの細かい戦術まではわからなかったが、少なくとも今のプレーがどれほど見事だったかは理解できた。

 

 コートでは、ノアがマイクへ駆け寄っていた。

 

「BROOOOO!! 信じてたぜ!!」

 

 マイクは少しだけ笑った。

 

「ナイスパス」

 

 ノアは嬉しそうにマイクの肩を叩いた。マイルズも両拳を握りしめ、トムはゴール下から仲間たちへ向かって駆けてくる。時春は遠くから片手を突き上げ、満面の笑みを浮かべていた。

 

 ついに、逆転した。

 

 十三点差から追いかけ続け、DJの強さに何度も苦しめられ、それでも誰一人として諦めなかった。そして今、残りわずかな時間で、ブレイカーズは初めて勝利へ手をかけようとしていた。

 

 しかし、コートの反対側では、すでにDJがボールを受け取っていた。

 

 彼は誰かを責めることも、慌ててタイムアウトを要求することもなかった。エンドラインからパスを受け取ると、ゆっくりとドリブルを始め、センターラインへ向かって歩くように進んでいく。

 

 時春はその姿を見た。

 

 そして、笑顔を消した。

 

     ◇

 

 ウェストゲート・プレップの体育館には、まだブレイカーズの逆転スリーポイントによる興奮が残っていた。しかし、それも長くは続かなかった。DJがボールを運び始めると、ホームの観客席から新しい歓声が上がったのである。

 

「DJ! DJ! DJ!」

 

 何百もの声が重なり、体育館の高い天井へ反響した。

 

 残り十九秒。

 

 DJはセンターラインを越えたところで、速度を落とした。

 

 右手で一度。

 

 左手へ持ち替えて、もう一度。

 

 ボールを弾ませる音が、床へ低く響く。

 

 そこから少しずつ前へ進んだものの、彼はスリーポイントラインへ近づこうとしなかった。センターサークルの向こう、狼のエンブレムが描かれた大きなロゴの付近で、ゆっくりとドリブルを続けていたのである。

 

 時春はスリーポイントラインの外側で腰を落とし、その動きを見つめていた。

 

 DJは、何を考えているのだろう。

 

 リングまでは、まだずいぶん距離がある。残り時間を考えれば、ここからドライブを仕掛けても十分に間に合うし、キーンのスクリーンを利用してミドルレンジへ入ることもできる。あるいは、ピアースを外へ走らせてスリーポイントを狙わせるのかもしれない。ホロウェイへボールを預け、一度攻撃を組み立て直す選択肢だってある。

 

 時春はDJの視線を追いかけた。

 

 彼はコート全体を見ていた。

 

 左ウイングのピアース。

 

 右側に立つホロウェイ。

 

 ゴール下のキーン。

 

 そして、オコナー。

 

 彼らは互いに距離を取り、DJが動き出したときに備えているように見えた。

 

 時春は一度、マイルズの方へ目を向けた。マイルズはオコナーへ体を寄せながら、DJのドライブにも対応できる位置を取っている。トムはキーンの前で腕を広げ、ノアとマイクもそれぞれのマークを確認していた。

 

 守備の準備は、できていた。

 

 DJが仕掛けてくれば、止める。

 

 パスを出してくれば、その先へ走る。

 

 今まで何度も繰り返してきたことだった。

 

 しかし、それなのに。

 

 時春の胸には、妙な違和感があった。

 

 DJは、まだ動こうとしない。

 

 時計を見れば、残り十五秒。

 

 普通なら、そろそろ攻撃を始めてもおかしくない時間だった。特に今夜のDJは、何度も時春をドライブで抜き去り、ペイントエリアから得点を重ねている。相手が背の低いポイントガードなら、強引に突破してしまう選択肢もあるはずだった。

 

 それでも、彼は急がなかった。

 

 時春は少しだけ眉をひそめた。

 

 DJのドリブルには、奇妙な落ち着きがあった。余裕があるというより、何かを待っているような落ち着きだった。低い位置でボールを弾ませながら、時折右へ小さく肩を揺らす。体はリングへ向けられているのに、足元はまだロゴの近くから離れようとしない。

 

 時春は、ゆっくりと前へ出た。

 

 スリーポイントラインの外側から、半歩。

 

 もう半歩。

 

 相手が長い距離から助走をつけてくる可能性を考え、ドライブの角度を狭めようとしたのである。

 

 そのとき、DJが顔を上げた。

 

 目が合った。

 

 時春は息を呑んだ。

 

 DJは笑っていなかった。しかし、焦りもなかった。ただ、まっすぐリングを見つめていたのである。その視線を見た瞬間、時春の頭の中で、まったく別の可能性が浮かび上がった。

 

 ……待て。

 

 DJが、右手で強くボールを床へ叩きつけた。

 

 時春はさらに一歩前へ出た。

 

 しかし、DJはドライブを始めなかった。むしろ、体をわずかに後方へ引いていた。右足を横へ滑らせ、左足を素早く引き寄せる。自分と時春の間へ、ほんの少しだけ新しい空間を作ろうとしていたのである。

 

 時春の背筋が冷たくなった。

 

 ……こいつ、まさか!?

 

 その考えが頭の中で形になるより早く、DJはドリブルを終えていた。

 

 ロゴのすぐ脇。

 

 通常のスリーポイントラインから、さらに何歩も離れた場所だった。

 

 DJは一度だけ体を低く沈め、右足で床を蹴って小さく後方へ下がった。そこから素早く足を揃え、膝を曲げる。まるで何の変哲もないミドルレンジシュートを打つかのような、あまりにも自然な動きだった。

 

「……っ!!」

 

 時春は咄嗟に跳び上がった。

 

 右腕を、限界まで伸ばす。

 

 だが、そのときにはもう遅かった。

 

 DJの指先から、ボールが離れていたのである。

 

 ロゴ付近からのスリーポイント。

 

 三十フィートを軽く越える、常識外れの距離だった。

 

 放たれたボールは、信じられないほど高く舞い上がった。

 

 その瞬間、体育館から音が消えたように感じられた。

 

 実際には、何百人もの観客が何かを叫んでいたはずだった。ブレイカーズのベンチではイーサンが立ち上がり、ヘイズコーチもコートへ身を乗り出していた。ウェストゲートの応援席からも驚きの声が漏れ、コートサイドのカメラマンたちは一斉にレンズを向けている。

 

 しかし、時春には何も聞こえなかった。

 

 ただ、空中に浮かぶボールだけが見えていた。

 

 高い。

 

 あまりにも高い。

 

 あんな遠くから打って、届くはずがない。

 

 そう思った。

 

 しかし、ボールの軌道を見つめるうちに、胸の奥へ別の感覚が広がり始めた。

 

 それは、自分が何度もシュートを打ってきたからこそ理解できる感覚だった。

 

 綺麗な回転。

 

 無駄のない放物線。

 

 そして、リングの中心へ向かって少しずつ落ちていく、その角度。

 

 時春は空中から着地した。

 

 DJも着地していた。

 

 二人の間には、もう何もなかった。

 

 ただ、ボールが飛んでいた。

 

 時春は、ほとんど祈るような気持ちでリングを見つめた。

 

 外れろ。

 

 お願いだから。

 

 外れてくれ。

 

 ボールが最高到達点を過ぎ、ゆっくりと落下を始める。その下ではトムとキーンがリバウンドの位置を取り、マイルズもオコナーの体へ腕を当てていた。ノアはリングを見上げ、マイクは足を止めたまま、ボールの行方を追いかけている。

 

 そして、次の瞬間。

 

 シュパッ。

 

 白いネットが、ほとんど音も立てずに揺れた。

 

『BREAKERS 81 — 83 WOLVES』

 

 ウルブズが、逆転した。

 

     ◇

 

 体育館が、震えた。

 

 最初に聞こえたのは、何百人もの人間が同時に息を吐き出すような、巨大などよめきだった。それが一瞬のうちに歓声へ変わり、さらに甲高い叫び声や足を踏み鳴らす音が重なって、もはや何が聞こえているのかわからないほどの騒ぎになっていく。

 

「DJ!! DJ!! DJ!!」

 

 ウルブズの応援団が一斉に立ち上がった。紺色と銀色のタオルが頭上で振られ、コートサイドの記者たちは驚いたように顔を見合わせている。ベンチからはウェストゲートの控え選手たちが飛び出しかけ、コーチの制止を受けて慌てて足を止めた。

 

 誰もが、信じられないものを見たという顔をしていた。

 

 あの距離から。

 

 あの場面で。

 

 DJは、あまりにも落ち着いてスリーポイントを決めてしまったのである。

 

 時春はリングを見つめたまま、しばらく動けなかった。

 

 正面から見ていた。

 

 確かに、何かを察していた。

 

 それなのに、届かなかった。

 

 自分がDJの意図に気づいたときには、すでにボールが相手の指先を離れていたのである。

 

 胸の奥へ、冷たいものが広がっていった。

 

 あれだけ必死に追いかけてきたのに。

 

 十三点差を縮めて、何度もシュートを決めて、仲間たちと一緒にようやく逆転したのに。

 

 たった一本のシュートで、再び試合をひっくり返されてしまった。

 

 観客席では、エマが両手を口元へ当てていた。

 

 ジェイクも言葉を失っている。ゾーイはカメラを下ろし、マディソンはただスコアボードを見つめていた。由美は小さく息を呑み、ハリーは椅子の前で立ち尽くしている。

 

 ノアは顔をしかめ、マイクは一度だけ唇を噛んだ。トムはリングの下からDJへ目を向け、何かを言おうとして口を閉じた。

 

 会場にいる誰もが、勝負は決まったと思っていた。

 

 ただし、二人を除いて。

 

 高山時春。

 

 そして、マイルズ・カーター。

 

 時春は、スコアボードへ顔を向けた。

 

 八十一対八十三。

 

 そして、その下に表示されている残り時間。

 

『4TH QUARTER — 0:05』

 

 五秒。

 

 まだ、五秒ある。

 

 DJのシュートがネットを通り抜けた直後、マイルズはすでに動き始めていた。キャプテンは誰よりも早く落ちてきたボールを拾い上げ、そのままエンドラインの外へ出る。

 

 彼の目は、時春だけを見ていた。

 

「TOKI!!」

 

 その声が、歓声の中を突き抜けた。

 

 時春は振り返った。

 

 マイルズがボールを持っている。

 

 そして、こちらを見ている。

 

 時春は一瞬で理解した。

 

 まだ終わっていない。

 

 マイルズは、まだ勝負を諦めていない。

 

 だから、自分も。

 

「……っ!!」

 

 時春は床を蹴った。

 

 全力で走り出す。

 

 マイルズの両腕が動き、ボールが鋭く前方へ飛んでいく。パスはセンターライン付近を走る時春の進行方向へ向かっていた。彼は両手を伸ばし、走りながらボールを受け取ると、そのまま右手で低くドリブルを始めた。

 

 時間がない。

 

 振り返る暇も、仲間の位置を確かめる余裕もなかった。

 

 今度は、自分で行くしかない。

 

 ホロウェイが必死に戻ろうとしていた。ピアースも右側から走ってくる。しかし、時春は止まらなかった。右手で強くドリブルし、ホロウェイの進路が整う前に横を抜けていく。小柄な体が床すれすれまで沈み、疲れ切った脚が、最後の力を振り絞って前へ伸びた。

 

 時春の頭の中に、たった一つの言葉が浮かんだ。

 

 落ち着け。

 

 何度も練習してきた。

 

 日本にいた頃も、アメリカへ来てからも、何度となく繰り返してきたプレーだった。速攻でボールを受け取り、リングへ向かって走り、最後は柔らかくバックボードへ当てる。それだけのことだ。焦って強く投げる必要なんてない。ボールをリングへ置いてくるように放てばいい。

 

 いつも通り。

 

 いつも通りに。

 

 時春はペイントエリアへ踏み込んだ。

 

 視界の端で、スコアボードの数字が変わっているのが見えた。

 

 残り二秒。

 

 その数字を見た瞬間、胸が締めつけられるようだった。

 

 間に合え。

 

 時春は最後のドリブルを終え、ボールを両手で持ち上げた。右足を踏み込み、左足を大きく前へ運ぶ。体が自然に浮き上がり、右手がリングへ向かって伸びていく。何百回、何千回と繰り返してきたレイアップの動きが、疲労で重くなった体の中から、それでも正確に引き出されていた。

 

 目の前には、リングがあった。

 

 誰もいない。

 

 届く。

 

 時春は右手を伸ばし、バックボードの白い四角形へ向けてボールを放った。

 

 指先から、ボールが離れた。

 

 その瞬間、時春は思った。

 

 やった。

 

 間に合った。

 

 しかし。

 

 背後から、巨大な影が伸びてきた。

 

 DJだった。

 

 彼はロゴ付近からスリーポイントを放ったあと、歓声に浸ることもなく、すぐに守備へ走り出していた。時春がセンターライン付近でパスを受け取ったときには、すでに全力で追いかけ始めていたのである。その長い脚で一気に距離を縮め、時春が最後のステップを踏むのとほとんど同時に、背後から跳び上がっていた。

 

 時春には、その気配がまったくわからなかった。

 

 ただ、ボールが指先を離れた直後、背中の向こうから風が押し寄せたように感じた。

 

 次の瞬間。

 

 バァァンッ!!

 

 DJの右手が、ボールを捉えた。

 

 リングへ向かっていたレイアップが、背後から叩き落とされたのである。DJの長い腕は時春の肩の上を越え、ボールだけを正確に捉えていた。その手に弾かれたボールはバックボードへ激しくぶつかり、鈍い音を立てて跳ね返った。

 

 そして、そのままコートの端へ向かって転がっていった。

 

 時春は空中で体勢を崩した。着地しようとした右足がうまく床を捉えられず、そのまま勢いに押されるように前へ倒れる。両手を伸ばしたが、体を支えきれなかった。膝が床へ当たり、肩が続き、最後は横向きに転がって、ベースラインの近くで止まった。

 

 そのときだった。

 

 ビイイイイイイイイイッ!!

 

 試合終了のブザーが、体育館に鳴り響いた。

 

『FINAL』

 

『BREAKERS 81 — 83 WOLVES』

 

 クレセントベイ・アカデミー・ブレイカーズ。

 

 敗北。

 

     ◇

 

 時春は、床に横たわったまま、しばらく動けなかった。

 

 耳の奥では、まだ試合終了のブザーが鳴り続けているようだった。実際には、とっくに鳴り終わっている。それでも、あの長く鋭い音は頭の中から消えず、代わりに聞こえてくるはずの歓声や足音が、ひどく遠いものに感じられた。

 

 頬へ、冷たい床の感触が伝わっていた。

 

 汗で濡れた前髪が額へ張りつき、肩には倒れたときの鈍い痛みが残っている。右手を開いてみると、さっきまでボールを持っていた感覚がまだ指先にあった。確かに放った。いつも通りのステップで、いつも通りのレイアップを打ったはずだった。

 

 それなのに、ボールはリングへ届かなかった。

 

 時春はゆっくりと上半身を起こした。

 

 何とか膝をつき、床へ片手を置く。脚が震えていたが、やがて立ち上がることができた。荒い呼吸を繰り返しながら、少しずつ顔を上げる。

 

 最初に見えたのは、スコアボードだった。

 

 八十一対八十三。

 

 数字は、もう変わらない。

 

 時間も、もう戻らない。

 

 時春は、その表示をしばらく見つめていた。それから、ゆっくりと後ろを振り返った。

 

 そこでは、DJが揉みくちゃにされていた。

 

 ウルブズの選手たちが次々と駆け寄り、彼の肩を叩き、背中へ飛びついている。ホロウェイが両腕を振り上げ、オコナーは興奮した様子で何かを叫んでいた。ピアースも笑顔で仲間たちの輪へ加わり、キーンはキャプテンらしく少し離れたところから見守っていたが、やがて大きな手でDJの頭を撫でていた。

 

 DJは笑っていた。

 

 激しい試合を終えた疲労が、その顔にもはっきりと表れていた。それでも、周囲の仲間に抱きつかれながら、嬉しそうに笑っていたのである。

 

 観客席からは、絶え間なくDJの名前が聞こえていた。

 

 会場の大型スクリーンには、ロゴ付近から放ったあのスリーポイントが何度も映し出されている。ゆっくりとドリブルを続け、ほんのわずかに後方へ下がり、遠くからシュートを放つ。そのボールがネットを揺らすたび、観客席から新しい歓声が起こっていた。

 

 そして、最後のブロック。

 

 時春がリングへ向かって走り、レイアップを放ち、背後からDJが追いついてくる。長い腕が伸び、ボールがバックボードへ叩きつけられる。映像は何度も繰り返され、そのたびにウルブズの生徒たちが大きな声を上げていた。

 

 ゆっくりと顔を下ろす。

 

 視界の端には、ブレイカーズの仲間たちがいた。

 

 マイクはユニフォームの裾で額の汗を拭いながら、何とも言えない表情を浮かべていた。ほんの少し前、彼はチームを逆転させるスリーポイントを決めていたのである。あのシュートを放ったとき、きっと自分たちは勝てると思ったはずだった。しかし、今となっては、その歓喜さえも遠い出来事のように感じられた。

 

 ノアはペイントエリアの近くでしゃがみ込み、両手で頭を抱えていた。いつもなら何があっても大声を上げ、仲間たちを笑わせようとする少年だったが、今は何も言わなかった。ただ、床を見つめたまま、動こうとしなかった。

 

 トムはリングの下に立っていた。

 

 その目は赤く、今にも涙が溢れそうだった。残り三十秒でDJのダンクを叩き落とし、逆転のきっかけを作ったのは彼だった。自分よりもずっと派手に注目される相手のエースを、あの場面で完全に止めてみせたのである。それでも、最後に勝ったのはウルブズだった。トムは何度か口を開こうとしたが、結局、何も言わずに俯いてしまった。

 

 ベンチではイーサンが両膝へ手を置き、肩を落としていた。ヘイズコーチはコートを見つめたまま、静かに息を吐いている。彼らもまた、この試合が終わったことを受け止めようとしていた。

 

 時春は、仲間たちの姿を一人ずつ見つめた。

 

 みんな、頑張っていた。

 

 本当に、頑張っていた。

 

 マイクは何度も大切なシュートを決めた。ノアは相手の長身選手へ臆することなくリングへ飛び込み、最後には見事なパスを出した。トムは何度も体を張ってリバウンドを奪い、最後の場面ではDJのダンクをブロックした。イーサンもベンチから声をかけ続け、チームを支えていた。

 

 そして、マイルズ。

 

 彼は、少し離れた場所に立っていた。

 

 キャプテンは両手を腰へ当て、ゆっくりと呼吸を整えていた。大きく息を吸い、吐く。もう一度、胸いっぱいに空気を吸い込み、少しずつ外へ逃がしていく。汗に濡れた肩が上下し、額から流れる雫が顎を伝って床へ落ちた。

 

 彼は、何も言わなかった。

 

 ただ、呼吸を続けていた。

 

 マイルズは、このチームのキャプテンだった。

 

 誰よりも大きな責任を背負い、誰よりも強く勝利を望んでいた。昨シーズンの敗北を忘れず、今年こそもっと先へ進もうと仲間たちへ呼びかけていた。家族のために大学でバスケットボールを続けたいと願い、日々の練習でも試合でも、いつも全力で戦っていた。

 

 そのマイルズが、今夜も最後まで諦めなかった。

 

 DJのスリーポイントが決まった直後、周囲の誰もが勝負の行方を悟りかけていたときでさえ、彼はボールを拾い上げ、時春へパスを送ってくれた。

 

 最後の五秒を、信じてくれた。

 

 自分なら、まだ何かできるはずだと。

 

 そう思ってくれたのである。

 

 しかし、その期待に応えることはできなかった。

 

 時春は唇を噛んだ。

 

 喉の奥が、熱くなっていた。

 

 もう一度、右手を見下ろした。ボールが指先から離れた感覚が、まだ残っている。少し強く放てばよかったのだろうか。もっと早く走り出していれば、DJに追いつかれずに済んだのだろうか。途中で一度速度を変えていたら、相手の跳躍するタイミングをずらせたのだろうか。

 

 考えれば考えるほど、別の選択肢が浮かんできた。

 

 あそこで、こうしていれば。

 

 あと半歩だけ、早かったら。

 

 あのボールが、DJの指先へ触れさえしなければ。

 

 時春は、ゆっくりと拳を握った。

 

 もう試合は終わっている。

 

 考え直しても、何も変わらない。

 

 そのことはわかっていた。

 

 それでも、考えることをやめられなかった。

 

 自分の最後のシュートが、決まっていれば。

 

 少なくとも、このまま試合が終わることはなかったはずだった。

 

 あのレイアップを決めていれば、同点に追いつくことができたのだから。

 

 時春は、もう一度スコアボードを見た。

 

 八十一対八十三。

 

 二点差。

 

 その数字が、今夜のすべてを決めていた。

 

 たった二点。

 

 たった一本のレイアップ。

 

 それが、届かなかった。

 

     ◇

 

 マイルズは、ようやく呼吸を落ち着けた。

 

 大きな胸が、ゆっくりと上下している。彼は一度だけ天井を見上げ、それから視線を前へ戻した。ウェストゲートの歓声は相変わらず大きく、コートの向こうではDJを中心にした歓喜の輪が広がっていた。

 

 マイルズも、その光景を見ていた。

 

 今夜のウェストゲートは強かった。

 

 それは認めるしかない。

 

 DJは何度も素晴らしいプレーを見せ、最後には誰も予想しなかったような距離からスリーポイントを沈めた。そして、試合終了の直前まで走り続け、時春のレイアップをブロックした。あれほどの選手と戦えたことは、チームにとって大きな経験になるだろう。

 

 しかし、今のマイルズには、そんなことを考える余裕はなかった。

 

 彼の視線の先には、時春がいた。

 

 小さな体をわずかに丸め、俯いたまま立っている。汗に濡れた前髪が目元を隠しており、両手は固く握りしめられていた。試合中は何度も笑い、得点するたびに仲間たちへ嬉しそうな顔を向けていた少年が、今は一度も顔を上げようとしない。

 

 マイルズは、その姿を見つめた。

 

 そして、ゆっくりと歩き始めた。

 

 シューズが床を擦る音が、かすかに聞こえた。ウェストゲートの歓声にかき消されそうな、小さな音だった。しかし、時春はその足音に気づき、ゆっくりと顔を上げた。

 

 目の前に、マイルズが立っていた。

 

 身長二メートル近い、大きなキャプテン。

 

 いつも仲間たちの先頭に立ち、試合前には拳を突き上げ、誰かがミスをすれば真っ先に声をかけてくれる男。

 

 そのマイルズが、何も言わずに時春を見下ろしていた。

 

 時春は何かを言おうとした。

 

 しかし、言葉が出てこなかった。

 

 マイルズも、すぐには口を開かなかった。

 

 彼はただ、右手を伸ばした。

 

 そして。

 

 ぐしゃっ。

 

 時春の頭を、大きな手で乱暴に撫でた。

 

 汗に濡れた髪が、さらにくしゃくしゃになった。

 

 それは、いつもと同じ手だった。

 

 練習で良いパスを出したときも、試合で大切なシュートを決めたときも、マイルズはよくこうして時春の頭を撫でた。体格差のせいで、時春の頭はちょうど彼の手が届きやすい位置にあり、そのたびに時春は「ちょっと、髪が!」と笑いながら抗議していた。

 

 けれど、今は。

 

 何も言えなかった。

 

 マイルズの手のひらが頭へ触れた瞬間、時春の胸の奥で、何かが切れてしまった。

 

 必死に押し込んでいたものが、突然溢れ出した。

 

 視界が滲んだ。

 

 喉が震え、呼吸が乱れる。

 

 時春は唇を噛んだが、もう抑えられなかった。

 

「……ごめんっ……!」

 

 声が震えた。

 

 マイルズは何も言わず、時春を見つめていた。

 

「マイルズ……ごめん……!」

 

 時春は顔をぐしゃぐしゃにしたまま、目の前の大きな体へしがみついた。マイルズの胸元へ額を押しつける。こらえようとしていた涙が、一気に溢れ出した。

 

「……謝るな」

 

 マイルズの声は、低かった。

 

 しかし、時春にはもう止められなかった。

 

「俺のっ……俺のせいでっ……!」

 

 言葉がうまくつながらない。息を吸おうとしても喉がつかえ、涙が次々と頬を伝って落ちていく。自分で何を言っているのかさえ、よくわからなかった。ただ、謝らなければならないという思いだけが、胸いっぱいに広がっていた。

 

「最後っ……俺が……!」

 

 時春は、マイルズのユニフォームを強く握りしめた。

 

「あそこで決めてればっ……まだ……まだ、試合……!」

 

 マイルズは動かなかった。

 

 時春の言葉を、黙って聞いていた。

 

「みんな……こんなに頑張ってたのに……! 俺……俺、最後にっ……!」

 

「……謝るな、トキ」

 

 もう一度、同じ言葉が返ってきた。

 

 時春は首を振った。

 

 それでも、自分が悪いのだと思えて仕方なかった。最後のレイアップを決められなかったことが、頭から離れなかった。マイルズがあれほど必死にボールを届けてくれたのに、自分はその期待に応えられなかった。

 

「ごめん……っ! マイルズ……!」

 

 マイルズの手が、ゆっくりと時春の背中へ回った。

 

 そして、大きな腕が小さな体を包み込んだ。

 

 強く、しかし決して乱暴ではない力だった。

 

 時春はその胸へ抱き寄せられた。マイルズのユニフォームは汗で濡れており、彼の荒い呼吸が間近に聞こえた。キャプテンも疲れ切っていた。何度もゴール下で体をぶつけ合い、何度もリバウンドを奪い、最後の最後まで走り続けていたのだから、当然だった。

 

 マイルズは、時春の頭へ顎を近づけた。

 

 そして、少しだけ震えた声で言った。

 

「お前が謝ることなんか……一つもねえ……!」

 

 時春の肩が、大きく震えた。

 

 マイルズは、さらに強く抱きしめた。

 

 彼の胸にも、言葉にできないものがあった。勝ちたかった。誰よりも勝ちたかった。仲間たちと一緒に、もっと先へ進みたかった。昨シーズンの悔しさを知っているからこそ、今年はこんなところで終わりたくなかった。

 

 しかし、それと同じくらい、マイルズにはわかっていた。

 

 時春が、どれほど必死に戦っていたのか。

 

 十三点差をつけられたときも、諦めなかった。誰よりも大きなDJを相手に、何度も何度も守備へ走り、シュートを決め、仲間たちを自由にしてきた。最後の五秒でさえ、時春は迷わず走り出していた。マイルズがパスを送った先に、確かに彼がいたのである。

 

 それだけで、十分だった。

 

 あの最後のレイアップを決められなかったからといって、今夜の時春がしてきたことまで消えるわけではない。マイクが決めたシュートも、ノアのパスも、トムのブロックも、すべて同じだった。誰か一人の成功だけで勝てる試合ではなかったし、誰か一人の失敗だけで負けた試合でもなかった。

 

 彼らは全員で、あの強いウルブズを追い詰めた。

 

 そして、全員で敗れた。

 

 だからこそ、マイルズは時春を離さなかった。

 

 時春は彼の胸に顔を埋めたまま、声を押し殺すこともできずに泣いていた。涙が止まらず、何度も息が詰まる。その小さな肩を、マイルズは大きな手でゆっくりと撫で続けた。

 

 ウェストゲートの体育館では、まだ歓声が鳴り響いていた。

 

 紺色と銀色の応援席は勝利に沸き、DJの周囲には笑顔の仲間たちが集まっている。コートサイドではカメラのフラッシュが光り、スコアボードには八十一対八十三という結果が静かに表示されていた。

 

 その歓喜から少し離れた場所で、青と白のユニフォームを着た二人が、抱き合っていた。

 

 百七十センチの一年生ポイントガードと、二メートル近い大きなキャプテン。

 

 時春は泣き続けていた。

 

 マイルズは、そんな彼を抱きしめ続けていた。

 

 そして、ブレイカーズの今シーズンの挑戦は、ここで終わった。

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