CRESCENT BAY ACADEMY   作:西野圭吾

32 / 32
最終話 BUDDY

 二月二十二日、月曜日。午後十時を過ぎた頃。

 

 ロサンゼルスの夜は、試合が終わったことなど知らないように、いつも通りの明かりを灯していた。

 

 高速道路には赤いテールランプが長く連なり、立ち並ぶ建物の窓からは、それぞれの生活の光が漏れている。遠くに見えるダウンタウンの高層ビルは白や橙色の光をまとい、交差点では信号が規則正しく色を変えていた。夜の冷たい空気を切り裂くように、一台の大型スクールバスが西へ向かって走っている。車体の側面には、クレセントベイ・アカデミーの校章が描かれていた。

 

 その車内は、思いのほか賑やかだった。

 

「Bro、だから今シーズンのMVPは絶対あいつだって!」

 

「お前、先週まで別の選手の名前挙げてただろ」

 

「先週は先週! 今週は今週だろ!」

 

「その理屈が通るなら毎週変わるじゃねえか」

 

 後方の座席でノア・レイノルズが大きな声を上げると、通路を挟んだ向かい側からマイク・トンプソンの冷静な突っ込みが飛んできた。ノアは不満そうに振り返ったものの、隣のジェイスまで笑い始めたため、結局、自分もつられて笑ってしまった。つい一時間ほど前まで全員が勝利を求めて死に物狂いで走っていたとは思えないほど、車内には普段と変わらない会話が広がっていた。

 

 少し前の席では、イーサンとライアンが最近発売されたゲームについて話し込んでいる。ライアンは新しいNBAのゲームで自分の作った選手がどれほど強いかを熱弁していたが、イーサンはその説明を聞くほどに呆れた顔になっていた。

 

「いや、だから百七十センチの選手が毎試合三十回ダンクするって、どういう設定なんだよ」

 

「身長関係ないだろ。能力値上げればできるんだから」

 

「それはもはや人間じゃないだろ」

 

「ゲームの中なんだからいいじゃん!」

 

 その会話を聞いていたトムが、珍しく小さく笑った。彼は窓際の座席でスマートフォンを操作していたが、画面には友人から勧められたドラマの紹介が表示されているらしかった。マイルズが肩越しに覗き込み、主演俳優の名前を口にすると、トムは驚いたように顔を上げた。

 

「マイルズ、これ見てるの?」

 

「ああ。母さんと妹がハマっててな。リビングにいると嫌でも内容が入ってくる」

 

「面白い?」

 

「まあな。ただ、登場人物が全員秘密を抱えてるから、誰を信用していいのかわかんねえ」

 

「それ、ドラマとしては正しいんじゃない?」

 

 トムがそう言うと、マイルズは大きな声で笑った。その笑い声は通路を越えて後方まで届き、何を話しているのかわからない選手たちまでつられて顔を向けた。

 

 やがて話題は学校生活へ移り、誰が誰と一緒に昼食を取っていたとか、週末にどの女の子と映画を見に行くらしいとか、そんな他愛もない話が始まった。ノアは妙に事情通ぶって同級生たちの恋愛事情を語り始めたが、マイクから「お前、自分の話はないの?」と尋ねられると、途端に声を大きくして話題を逸らそうとした。

 

「HEY! 今は俺の話じゃねえだろ!」

 

「聞いただけだけど」

 

「だから、そういう聞き方が腹立つんだよ!」

 

 再び笑い声が起こる。

 

 それは、何とも不思議な光景だった。

 

 ブレイカーズは、負けたばかりなのである。

 

 CIFサザンセクション・プレーオフ二回戦。相手は地区優勝候補のウェストゲート・プレップ・ウルブズ。試合は八十一対八十三という、わずか二点差で幕を閉じた。十三点差をひっくり返し、残り数秒まで勝利を争った末の敗北だった。その結果によって、彼らの今シーズンの公式戦は終わったのである。

 

 もちろん、選手たちが悔しくないわけではなかった。

 

 試合後のロッカールームでは、ほとんど誰も口を開かなかった。ノアはベンチに座ったまま長い時間動こうとせず、トムはタオルで目元を隠し、マイクは黙ってシューズの紐を解いていた。マイルズも全員を集めて短く労ったあと、それ以上の言葉を口にしなかった。ヘイズコーチは選手たちに、今夜の試合についての話は明日以降にすると告げ、着替えを済ませてバスへ戻るよう指示した。

 

 しかし、バスが走り始めてからしばらくすると、誰かがNBAの話を始めた。それに別の誰かが口を挟み、気づけばいつものような会話が戻ってきたのである。今夜の敗北を忘れたわけではない。ただ、彼らはバスケットボールをする高校生であると同時に、ゲームをしたり、ドラマを見たり、女の子の話で盛り上がったりする、ごく普通の少年たちでもあった。

 

 そして、そんな車内で。

 

 ただ一人、会話へ加わらない少年がいた。

 

 高山時春だった。

 

     ◇

 

 時春は窓際の座席に座り、ずっと外を眺めていた。

 

 ガラスに映っているのは、見慣れた自分の顔だった。少し疲れた目元に、乱れた前髪。試合後にシャワーを浴びたため汗は落ちていたが、体の奥に残る疲労までは消えていなかった。膝の上にはリュックサックが置かれ、その横にはバスケットシューズの入ったスポーツバッグがある。普段であれば、時春はバスの中でも誰かと話していることが多かった。ノアの冗談に笑い、イーサンと試合について語り、時にはマイルズにNBAの質問をして、また新しい話題を見つけては楽しそうに笑っていた。

 

 しかし、今夜は違った。

 

 彼には、会話へ加わる気力がなかった。

 

 窓の外を流れていく街灯を見つめながら、頭の中では何度も同じ場面が繰り返されていた。

 

 残り五秒。

 

 マイルズからのロングパス。

 

 センターライン付近で受け取ったボール。

 

 必死に走り、リングへ向かって踏み込んだ最後の二歩。

 

 そして、背後から伸びてきたDJの腕。

 

 あのブロックの瞬間、時春は自分がシュートを決めたものだと思っていた。少なくとも、ボールが指先から離れたときには、成功する感覚があった。何度も練習してきたレイアップだったし、フォームも崩れていなかった。あとはバックボードへ当たり、リングの中へ落ちるだけだったはずなのである。

 

 けれど、そうはならなかった。

 

 時春は膝の上で右手を開いた。

 

 指先を、じっと見つめる。

 

 あのとき、もっと早くボールを離していたら。

 

 あるいは、左手で打っていたら。

 

 途中でドリブルの速度を変え、DJのタイミングをずらしていたら。

 

 いくつもの可能性が浮かんでは消えていく。そのどれにも確かな答えなどなく、考え続けたところで試合の結果が変わるわけでもない。それでも、時春には考えることをやめられなかった。

 

 少し離れた座席で、ノアがその様子に気づいた。

 

「……おい、マイク」

 

「ん?」

 

「リトルマン、ずっとあの調子だぞ」

 

 マイクは一度だけ前方へ視線を向けた。窓際で動かずにいる時春の小さな背中が見える。バスが曲がるたび、窓から差し込む街灯の光が彼の横顔を照らしていたが、その目はほとんど瞬きもしないまま外を向いていた。

 

 ノアは立ち上がろうとした。

 

「ちょっと話してくるわ。あいつ、いつまで落ち込んでんだよ」

 

 しかし、隣のマイクが彼の袖をつかんだ。

 

「……やめとけ」

 

「……あ?」

 

「今は、そっとしといてやれよ」

 

 ノアは眉をひそめた。

 

「でもよ、あいつ……」

 

「わかってる」

 

 マイクは小さく頷いた。

 

「だから、今はいいだろ」

 

 ノアはしばらく時春の方を見つめていた。何か言いたそうに口を開きかけたが、結局、深いため息をついて座席へ戻った。

 

「……ちぇっ」

 

 マイクはそれ以上何も言わなかった。

 

 車内には再びゲームやNBAの話が広がっていった。誰かが笑い、誰かが大げさに抗議し、マイルズの低い声がときどきその上から重なる。それらの音が聞こえていても、時春の意識は少しもそちらへ向かわなかった。

 

 窓に映る自分の顔を見つめているうちに、ふと、別の記憶が浮かんだ。

 

 試合終了直後。

 

 マイルズに抱きしめられたときのことだった。

 

『お前が謝ることなんか……一つもねえ……!』

 

 あの声を、まだ覚えている。

 

 大きな手が頭に触れた感覚も、汗に濡れたユニフォームの匂いも、抱きしめられたときの力強さも、すべて鮮明に残っていた。

 

 それなのに、時春はまだ自分を許せなかった。

 

 マイルズはああ言ってくれた。

 

 それでも、最後にシュートを外したのは自分なのだ。

 

 時春はゆっくりと目を閉じた。

 

 バスは何事もなかったように、西へ向かって走り続けていた。

 

     ◇

 

 クレセントベイ・アカデミーの敷地へバスが戻ってきた頃には、時計の針はすでに午後十一時に近づいていた。

 

 校舎の窓はほとんど暗く、体育館の入口にも明かりは残っていない。昼間には大勢の生徒たちが行き交う中庭も、今は街灯の下で静まり返っていた。遠くでは海からの風が木々の枝を揺らしており、夜の冷たい空気が、バスから降りた選手たちの頬へ触れた。

 

 ヘイズコーチが全員を集め、翌日の予定について簡単に伝えた。今夜は十分に休むこと、体のケアを忘れないこと、そして試合の振り返りは改めて行うこと。選手たちは「Yes, Coach!」と返事をし、それぞれ荷物を持って寮や駐車場へ向かい始めた。

 

 時春もスポーツバッグを肩へかけた。

 

「……トキ」

 

 マイルズが声をかけた。

 

 振り返ると、キャプテンが少し離れたところに立っていた。大きな体にバッグを提げ、どこか疲れたような顔をしている。しかし、その目はいつもと変わらず穏やかだった。

 

「ちゃんと休めよ」

 

「……うん」

 

「それと、飯は食えよ。試合のあと何も食ってねえだろ」

 

「……わかった」

 

 時春は小さく頷いた。

 

 マイルズはしばらく彼を見つめていたが、それ以上何も言わず、軽く肩を叩いて歩き出した。

 

 時春はその背中を見送ったあと、寮へ向かって歩き始めた。

 

 いつもの道だった。

 

 体育館の横を通り、芝生の広がる中庭を抜け、学生寮へ続く歩道を歩いていく。秋にアメリカへ来てから、何度この道を通っただろう。練習で疲れ切った日も、試合に勝って興奮していた日も、授業でわからないことがあって落ち込んだ日も、結局はいつもこの寮へ帰ってきた。

 

 しかし、今夜は足取りが重かった。

 

 ようやく自分の部屋の前へ到着すると、時春はポケットから鍵を取り出した。ドアの向こうからは、かすかにキーボードを叩く音が聞こえている。

 

 時春は少しだけ息を吐いた。

 

 そして、ゆっくりとドアを開けた。

 

     ◇

 

 部屋には、いつもの光景が広がっていた。

 

 二つのベッドと二つの机。窓際には教科書やノートが積まれ、もう一方の机には大きなゲーミングモニターが置かれている。その画面には四角いブロックでできた世界が映し出され、緑色の草原の向こうには、ラリーが何日もかけて建てた大きな建物が見えていた。壁際にはゲームのキャラクターの小物が並び、棚の上では、小さな金色のトロフィーがデスクライトの光を受けて輝いていた。

 

 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア・インビテーショナル。

 

 あの大会のファイナルMVPトロフィーだった。

 

 時春が優勝したあと、ラリーへ渡したものだった。

 

 そのトロフィーの下で、ラリー・ナードはいつものようにゲームをしていた。丸いメガネをかけ、少し猫背になり、大きなヘッドホンを耳に当てている。普段であれば、時春が部屋へ帰ってきても振り返らず、しばらくしてから適当な挨拶をするような少年だった。

 

 しかし、今夜は違った。

 

 ドアが開く音を聞くと、ラリーはすぐに画面から顔を上げた。時春の姿を確認すると、ヘッドホンを外し、椅子から立ち上がったのである。

 

「……トキ」

 

 ラリーは少しだけ眉を下げた。

 

「……おかえり」

 

 時春は何も答えなかった。

 

 ただ、ラリーを見つめていた。

 

 試合のとき、ラリーは観客席にいた。エマやジェイクたちと一緒に応援してくれていたことを、時春も知っている。スポーツ観戦にはまったく興味がないと公言しているくせに、大切な試合になるとなぜか応援席へ来てくれる。勝ったときには大げさに喜ぶわけでもなく、いつも少しだけ照れくさそうな顔をしていた。

 

 今夜も、最後まで見ていたはずだった。

 

 時春がブロックされた瞬間も。

 

 試合終了のブザーが鳴った瞬間も。

 

 そして、マイルズへ抱きついて泣いたところも。

 

 そのすべてを、きっと知っている。

 

 時春はスポーツバッグを床へ下ろした。

 

 リュックサックも、その隣へ置いた。

 

 そして、何も言わずにラリーへ近づいた。

 

「……え?」

 

 ラリーが目を瞬かせた。

 

 次の瞬間、時春は彼へ抱きついた。

 

「……トキ!?」

 

 ラリーは思わず両腕を上げた。

 

 普段の時春なら、何か嬉しいことがあると突然肩を組んできたり、ゲームに勝ったときに大げさに抱きついてきたりすることがあった。しかし、今夜の抱擁はそれとはまったく違っていた。

 

 時春は、何も言わなかった。

 

 ただ、ラリーの背中へ両腕を回し、顔を肩へ埋めていた。小さな体がわずかに震えている。泣いているのかどうか、ラリーには最初わからなかった。しかし、肩口へ触れる息が何度か不規則に途切れたことで、彼はようやく事情を察した。

 

「……まったく」

 

 ラリーは小さく呟いた。

 

 そして、ゆっくりと腕を下ろした。

 

 時春の背中へ、片方の手を回す。もう片方の手は少し迷ってから、彼の頭へそっと置いた。慰めることなど得意ではなかった。ゲームの攻略方法ならいくらでも説明できるし、建築の設計についてなら何時間でも話せる。しかし、試合に負けて泣いている友人へ何を言えばいいのか、ラリーにはさっぱりわからなかった。

 

 だから、しばらく何も言わなかった。

 

 時春も、何も言わなかった。

 

 二人はただ、静かな部屋の中で抱き合っていた。

 

 やがて、時春が小さく口を開いた。

 

「……ラリー」

 

「……何?」

 

「……負けちゃった」

 

 ラリーは少しだけ目を伏せた。

 

「……うん」

 

「俺……最後、決められなかった」

 

「……見てたよ」

 

 時春は唇を噛んだ。

 

「……ごめん」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ラリーは小さくため息をついた。

 

「……何で僕に謝るんだよ」

 

「……だって」

 

「僕、試合に出てないし。君に勝てって命令した覚えもないんだけど」

 

 いつもの皮肉っぽい言い方だった。

 

 時春は答えなかった。

 

 ラリーはしばらく黙っていたが、やがて彼の背中をゆっくりと撫でた。

 

「……ねえ、トキ」

 

「……うん」

 

「前に、君が僕へトロフィーをくれたときのこと、覚えてる?」

 

 時春は少しだけ顔を上げた。

 

 棚の上には、あの日の金色のトロフィーが飾られている。

 

「……うん」

 

「あのとき君、僕のおかげで勝てたって言ったよね」

 

「……うん」

 

「僕、バスケなんかしてないのにさ」

 

 ラリーはわずかに笑った。

 

「でも、君がそう言うから、もらったんだよ」

 

 時春は黙って聞いていた。

 

「……だったらさ。今日だって、君だけが負けたわけじゃないでしょ」

 

 時春の目が、再び伏せられた。

 

 ラリーはその表情を見て、それ以上説明することをやめた。今の時春に何を言っても、簡単には納得できないのだろう。自分が最後のシュートを決められなかったという事実が、彼の中であまりにも大きくなってしまっている。

 

 だから、ラリーは別のことを言った。

 

「……前に言ったじゃん」

 

「……何を?」

 

「勝っても負けても、この部屋には帰ってこられるって」

 

 時春は、ゆっくりと顔を上げた。

 

 ラリーは少し気まずそうにメガネを押し上げた。

 

「……今日も帰ってきたでしょ」

 

「……うん」

 

「じゃあ、それでいいよ」

 

 あまりにも素っ気ない言葉だった。

 

 しかし、その声は優しかった。

 

 時春はもう一度、ラリーの肩へ顔を埋めた。

 

 ラリーは小さく息を吐き、彼の背中をぽんぽんと叩いた。どこかぎこちない動きだったが、時春にとっては、それで十分だった。

 

「……おかえり、Buddy」

 

 その言葉に、時春の肩がわずかに震えた。

 

 ラリーは何も言わず、もう一度だけ背中を撫でた。

 

 いつか、ハロウィーンの夜に時春が自分へ言ってくれた言葉だった。あの頃は、突然そんなふうに呼ばれたことが恥ずかしくて、どう返事をすればいいのかわからなかった。

 

 しかし、今夜は違った。

 

 自分が、そう呼びたかった。

 

 なぜなら、時春はラリーの大切な友達だったからだ。

 

 たとえバスケットボールの試合に勝っても、負けても。

 

 それだけは、何も変わらなかった。

 

     ◇

 

 二月二十三日、火曜日。

 

 翌朝、クレセントベイ・アカデミーの学生寮には、いつもと変わらない朝が訪れていた。

 

 窓の外では鳥が鳴き、中庭を通る生徒たちの話し声がかすかに聞こえている。薄いカーテンの隙間から差し込む陽光が部屋の床を照らし、机の上に置かれた教科書やノートへ柔らかな影を落としていた。

 

 ラリーはベッドから起き上がると、しばらく眠たそうに目を擦っていた。昨夜は時春が眠るまで付き合っていたため、いつもより少し寝不足だった。ゲームを再開する気にもなれず、結局、机の前でスマートフォンを眺めながら夜遅くまで過ごしていたのである。

 

 彼はメガネをかけると、向かい側のベッドへ目を向けた。

 

 時春は、まだ布団の中にいた。

 

 普段なら、朝になるとラリーより先に起きていることが多い。練習のある日には目覚まし時計より早く起き、朝食を急いで済ませて体育館へ向かうこともあった。逆にラリーが起きてこないときには、何度も肩を揺すって起こそうとする。寝起きの悪いラリーにとっては少し迷惑だったが、そんなやり取りも今ではすっかり日常の一部になっていた。

 

 しかし、今朝の時春には、起きる気配がなかった。

 

「……トキ」

 

 ラリーは声をかけた。

 

 布団がわずかに動く。

 

「……ん」

 

「朝ごはん、行かない?」

 

 しばらく返事がなかった。

 

 ラリーは時計を確認した。

 

「そろそろ行かないと、混むと思うけど」

 

 ようやく、布団の中から小さな声が聞こえてきた。

 

「……いい」

 

「……何が?」

 

「……腹減ってない」

 

 ラリーは眉をひそめた。

 

 昨夜からほとんど何も食べていないはずだった。それなのに腹が減っていないというのは、いくら何でもおかしい。普段の時春は、練習で疲れて帰ってきた日でも食欲だけは失わず、ダイナーへ行けばハンバーガーもポテトも嬉しそうに食べていた。試合後にはいつも、真っ先に食べ物の話をするような少年なのである。

 

「……ねえ」

 

「……ん?」

 

「昨日もほとんど食べてないでしょ」

 

「……うん」

 

「それで腹減ってないって、どういうこと?」

 

「……わかんない」

 

 ラリーはため息をついた。

 

 布団の中からは、かすかにスマートフォンを操作する音が聞こえていた。どうやら眠っているわけではないらしい。ラリーは一度だけ布団をめくろうかと考えたが、昨夜の時春の様子を思い出し、手を止めた。

 

「……じゃあ、僕は行ってくるよ」

 

「……うん」

 

「何か買ってこようか?」

 

「……いらない」

 

 ラリーは何か言いたそうに口を開いたものの、結局、諦めて肩をすくめた。

 

「……わかった」

 

 彼は制服に着替え、バッグを肩へかけた。部屋を出る直前、もう一度だけ時春のベッドを振り返ったが、布団は相変わらず頭の上まで引き上げられていた。

 

 ラリーは静かにドアを閉めた。

 

 廊下へ出ると、いつもの朝のざわめきが聞こえてきた。

 

 それが、何だか少しだけ腹立たしかった。

 

     ◇

 

 時春は、布団の中でスマートフォンを見つめていた。

 

 画面には、昨日の試合の映像が映っている。

 

 ウェストゲート・プレップ・ウルブズ対クレセントベイ・アカデミー・ブレイカーズ。CIFサザンセクション・プレーオフ二回戦。八十三対八十一でウェストゲートが勝利した試合は、翌朝になってもSNSで大きな話題になっていた。

 

 それも当然だった。

 

 ダリウス・ジェームズ・ジュニア。

 

 NBAの生ける伝説、キングDことダリウス・ジェームズの息子が、試合終了間際に信じられないようなプレーを見せたのである。ロゴ付近から放った超長距離のスリーポイント。そして、その直後、相手の最後のレイアップを背後から叩き落としたチェイスダウンブロック。その二つのプレーは、試合が終わってから数時間も経たないうちに、いくつものバスケットボール関連アカウントで紹介されていた。

 

 時春の画面にも、次々と投稿が流れてくる。

 

『DJ JAMES JR. IS CLUTCH.(DJの勝負強さは本物だ)』

 

『LONG RANGE THREE!(長距離スリー!)』

 

『BLOCKED BY JAMES!(DJのブロックだ!)』

 

『LIKE FATHER, LIKE SON.(あの親にしてこの子あり)』

 

 どの投稿にも、驚いた人々のコメントが並んでいた。父親のような勝負強さだと称賛する声もあれば、あの距離から迷わずシュートを打ったことに興奮する声もある。最後のブロックについては、何度も映像を見返したというコメントが少なくなかった。とりわけ、ロゴ付近から放たれたスリーポイントと最後のチェイスダウンブロックを続けて編集した動画は、何度も共有されていた。

 

 時春は、その動画を再生した。

 

 DJがロゴ付近でドリブルを刻んでいる。

 

 画面の中では、自分がスリーポイントラインの外側で腰を落としていた。やがてDJが少しだけ後方へ下がり、突然シュートの姿勢へ入る。自分は咄嗟に跳び上がったが、腕はボールへ届かなかった。

 

 シュートが決まる。

 

 歓声が上がる。

 

 そして、映像が切り替わる。

 

 今度は、マイルズからパスを受け取った自分が走っていた。

 

 センターラインを越え、ホロウェイの横を抜け、リングへ向かって最後の二歩を踏む。右手からボールが離れ、柔らかくバックボードへ向かって飛んでいく。

 

 その後ろから、DJが跳び上がってくる。

 

 バンッ。

 

 ボールが叩き落とされる。

 

 試合終了のブザー。

 

 時春は動画を止めた。

 

 そして、少し経ってから、もう一度再生した。

 

 何度見ても、結果は同じだった。

 

 DJが追いつき、ボールを叩き落とす。映像はその瞬間を何度も別の角度から繰り返し、最後には試合終了後のDJの笑顔を映して終わる。

 

 時春は画面を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。

 

 もちろん、彼を褒める投稿もあった。

 

『あの日本人ポイントガードは誰だ?』

 

『身長百七十センチ? 信じられない。』

 

『ウルブズをあそこまで追い詰めたのは、あの小さな一年生だ。』

 

『TOKI TAKAYAMA. REMEMBER THE NAME.(トキ タカヤマ。覚えておくよ)』

 

 ある投稿では、時春がマイルズのスクリーンを利用してプルアップミドルを決める場面が紹介されていた。別の動画には、ホロウェイの前からスリーポイントを放つ姿が映っている。試合前にはDJのことしか知らなかった観客たちも、今では時春の名前を覚え始めているらしかった。

 

 中には、彼のプレーを高く評価するコメントも少なくなかった。

 

 パスがうまい。

 

 視野が広い。

 

 小柄なのにシュートが正確だ。

 

 もっと成長すれば、素晴らしいポイントガードになるかもしれない。

 

 時春は、それらの文章を読んだ。

 

 しかし、何も感じなかった。

 

 普段の自分なら、きっと嬉しかっただろう。アメリカの高校バスケットボールで、自分の名前を知らない誰かがプレーを褒めてくれるなど、少し前までは考えられなかったことなのだから。しかも、相手はあのウェストゲートであり、DJと直接マッチアップした試合だった。

 

 それでも、今の時春には慰めにならなかった。

 

 どれほど褒められても、最後に負けたという事実は変わらない。

 

 自分が決めたミドルレンジも、スリーポイントも、仲間へ通したパスも、すべて試合の途中で起きたことだった。そして、最後に起きたのは、自分のシュートがブロックされる場面だった。

 

 時春はスマートフォンを胸元へ下ろした。

 

 天井を見上げる。

 

 昨日の試合で、自分は確かに成長したと思う。

 

 パスばかり考えていた自分が、シュートを積極的に狙うようになった。相手の守備を引き寄せる感覚も、少しだけ理解できるようになった。DJという素晴らしい選手と直接戦い、自分がまだ知らなかったバスケットボールの形を見つけることもできた。

 

 そのすべてが、嬉しかったはずだった。

 

 しかし、今はその喜びが、悔しさの中へ沈んでしまっていた。

 

 最後に勝ったのは、DJだった。

 

 自分ではなかった。

 

 時春はもう一度スマートフォンを持ち上げた。

 

 そして、また同じ動画を再生した。

 

     ◇

 

 その日の午後、時春は学校へ行かなかった。

 

 朝食の時間が終わり、一時間目が始まり、やがて昼休みになっても、彼は布団の中にいた。クラスメートからのメッセージにはほとんど返事をせず、何度か鳴った通知もそのままにしていた。ラリーからは昼頃、「食べ物買ってきたから机に置いたよ」という短いメッセージが届いていたが、時春はそれを読んだあと、スマートフォンを閉じただけだった。

 

 机の上には、ラリーが持ってきたサンドイッチが置かれていた。

 

 紙袋の口は開かれていない。

 

 時春は何度か起き上がろうとした。しかし、布団から足を出すと、なぜだか体を動かすのがひどく面倒に感じられた。昨日までなら、目が覚めれば練習のことを考え、授業が終わったら体育館へ行こうと思っていた。ところが、今は練習へ向かう理由すら、すぐには見つけられなかった。

 

 ブレイカーズのシーズンは終わったのだ。

 

 もう、次の試合はない。

 

 今週末に対戦する相手も、来週のために研究する映像もない。勝てば次のラウンドへ進めたはずだったが、その可能性は昨日の夜に消えてしまった。

 

 時春は窓の外へ目を向けた。

 

 青い空が見えた。

 

 風に揺れる木々も、校舎の屋根も、いつもと変わらなかった。

 

 それなのに、自分だけが、どこか遠くへ取り残されてしまったような気がしていた。

 

     ◇

 

 午後五時を少し過ぎた頃。

 

 ラリー・ナードは、寮のラウンジへ続く廊下を歩いていた。

 

 彼の手には、スマートフォンが握られている。画面には、今日一日で何度もやり取りされたメッセージが残っていた。最初に連絡してきたのはエマだった。時春が学校へ来ていないことを心配し、ラリーへ様子を尋ねてきたのである。そのあと、ジェイクやゾーイ、マディソンからも連絡があり、昼過ぎにはノアまでが「トキ、どうしてんだ?」とメッセージを送ってきた。

 

 ラリーはそのたびに、似たような返事をしていた。

 

『まだ部屋にいる』

 

『あんまり食べてない』

 

『たぶん、ずっと動画見てる』

 

 しかし、夕方になっても時春の様子は変わらなかった。

 

 ラリーが授業を終えて部屋へ戻ったときも、時春はベッドの中にいた。朝と同じ姿勢で、スマートフォンを見つめていたのである。サンドイッチには手がつけられておらず、机の上に置いたままだった。

 

 ラリーは、もう一度だけ食事を勧めた。

 

 時春は「あとで」と答えた。

 

 しかし、ラリーにはわかっていた。

 

 たぶん、あとでも食べないだろう。

 

 だから、彼はラウンジへ向かったのである。

 

 扉を開けると、そこには思っていた以上の人数が集まっていた。

 

 大きなソファにはノアが腰を下ろし、その隣にマイクが座っている。少し離れたところにはトムとイーサンがおり、マイルズは窓際で腕を組んでいた。さらに、エマ、ジェイク、ゾーイ、マディソンまでが集まっており、ラリーが入ってくると、全員の視線が一斉に彼へ向けられた。

 

「……で?」

 

 真っ先に口を開いたのはノアだった。

 

「リトルマン、どうだった?」

 

 ラリーはしばらく黙っていた。

 

 そして、ゆっくりと首を横に振った。

 

「……まだ、部屋にいる」

 

 ノアは天井を仰いだ。

 

「……マジかよ」

 

 マイルズも深いため息をついた。

 

「飯は?」

 

「……たぶん、昨日の夜からまともに食べてない」

 

「はあ!?」

 

 ノアが勢いよく立ち上がった。

 

「BRO! それはダメだろ! あいつ何考えてんだよ!」

 

 マイクは隣で眉をひそめた。

 

「今朝から何も?」

 

「昼にサンドイッチ買ってきたけど、手をつけてなかった」

 

 その言葉に、トムが心配そうに顔を上げた。

 

「……大丈夫かな」

 

 イーサンはしばらく考え込んでいたが、やがて低い声で言った。

 

「……まだ、自分のせいだと思ってんだろうな」

 

 マイルズは、その言葉を聞いて額へ手を当てた。

 

「……ああ。たぶんな」

 

 ノアは信じられないといった顔で両手を広げた。

 

「いや、何でだよ! 俺らだってシュート外したし、ターンオーバーもしただろ! トムなんか最後にあんなブロック決めてくれたし、マイクだって逆転のスリー決めたんだぞ! 全員で戦った試合だろ!」

 

「……だからこそ、だろ」

 

 マイクが静かに言った。

 

 ノアが振り返る。

 

「……どういう意味だよ」

 

「あいつ、みんなが頑張ってたのを知ってるから、自分が最後に決められなかったのが許せないんだろ」

 

 その言葉に、ノアは口を閉じた。

 

 マイルズも黙って頷いた。

 

 昨夜、コートの上で泣きじゃくっていた時春の姿を、彼らは全員覚えていた。マイルズにしがみつき、何度も謝っていた小さなポイントガード。自分の最後のレイアップが決まっていれば、まだ試合を続けられたはずだと、涙を流しながら繰り返していた。

 

 あのとき、マイルズは謝る必要などないと伝えた。

 

 しかし、どうやら時春は、まだ納得していないらしかった。

 

「……ったく」

 

 ノアは頭をかいた。

 

「いつまで一人で背負ってんだよ、あのバカ」

 

 その言葉には、怒りよりも心配が混ざっていた。

 

 ラリーは部屋の中央に立ったまま、黙って友人たちを見つめていた。彼はスポーツについて詳しくない。バスケットボールの戦術も、DJがどれほど特別な選手なのかも、ここにいる誰より理解していないだろう。

 

 しかし、時春については少しだけ知っているつもりだった。

 

 あの少年が、どれほどバスケットボールを好きなのか。

 

 どれほど仲間たちを大切にしているのか。

 

 そして、何かを失敗したとき、自分を責め始めるとどれほど頑固になるのか。

 

 それらは、同じ部屋で何か月も過ごしてきたラリーだからこそ、よくわかっていた。

 

 だから、昨夜から何度も声をかけていた。

 

 しかし、時春はまだ布団から出てこない。

 

 ラリーは、どうすればいいのかわからなくなっていた。

 

 そのときだった。

 

「……私、行く」

 

 エマが立ち上がった。

 

 全員が顔を向けた。

 

 彼女はソファの前へ出ると、ラリーへまっすぐ視線を向けた。

 

「トキの部屋、今入っても大丈夫?」

 

 ラリーは少し驚いたように瞬きをした。

 

「……え?」

 

「私、話してくる」

 

 エマはそう言うと、もう廊下へ向かって歩き始めていた。

 

「お、おいおい!」

 

 ジェイクが慌てて立ち上がった。

 

「ちょっと待てって、エマ! あいつ、今かなり落ち込んでるんだろ!?」

 

 ノアも続けて声を上げた。

 

「そうだぜ! 俺らが行っても話聞かねえかもしれねえのに、お前一人で大丈夫なのかよ!」

 

 しかし、エマは止まらなかった。

 

 彼女はドアの前で一度だけ振り返り、静かに答えた。

 

「だから、行くんだよ」

 

 いつもの柔らかな声だった。

 

 けれど、その目はまっすぐだった。

 

 ノアが何か言おうとした。

 

 しかし、その前にラリーが口を開いた。

 

「……いいと思う」

 

 全員が彼を見た。

 

 ラリーはメガネを押し上げた。

 

「……もう、エマに任せるしかないよ」

 

 その言葉に、マイルズは少しだけ目を細めた。

 

 そして、ゆっくりと頷いた。

 

「……そうだな」

 

 エマはラリーへ小さく笑いかけた。

 

「ありがとう」

 

 ラリーは肩をすくめた。

 

「……たぶん、布団かぶってるから。何言っても最初は出てこないと思う」

 

 エマは頷いた。

 

「うん。わかった」

 

 そして、ラウンジを出ていった。

 

 残された少年たちは、しばらく閉まったドアを見つめていた。

 

 ノアが小さく呟く。

 

「……大丈夫かな」

 

 マイクが隣から答えた。

 

「……さあ」

 

 それから、少しだけ笑った。

 

「でも、俺らが十人で押しかけるよりは、いいんじゃない?」

 

 ジェイクが不満そうに眉をひそめた。

 

「……十人って、俺らそんなにうるさいか?」

 

 ゾーイが即答した。

 

「うるさいわよ」

 

 ノアも頷いた。

 

「特にお前な」

 

「お前に言われたくねえよ!!」

 

 そのやり取りに、ラウンジで小さな笑い声が起こった。

 

 しかし、エマが戻ってくるまでは、誰一人として帰ろうとしなかった。

 

     ◇

 

 エマ・パーカーは、寮の廊下を歩いていた。

 

 窓の外には、夕暮れの柔らかな光が広がっている。西の空は薄い橙色に染まり、中庭の木々が長い影を伸ばしていた。授業を終えた生徒たちが少し離れた廊下で話していたが、エマはその声へほとんど注意を向けなかった。

 

 彼女の頭の中には、昨日の試合のことがあった。

 

 時春がスリーポイントを決めた瞬間。

 

 大きな相手の間をすり抜け、マイルズへパスを送った瞬間。

 

 十三点差を少しずつ縮め、何度も会場を沸かせた姿。

 

 そして、最後の五秒。

 

 リングへ向かって走る、小さな背中。

 

 エマは、そのすべてを覚えていた。

 

 試合が終わったあと、彼女は時春のところへ行こうとした。しかし、コートでは選手たちが片づけや挨拶をしており、観客席から簡単には近づけなかった。バスへ乗る前にメッセージを送ったものの、返事はなかった。今朝になっても既読がつかず、学校へも来ていないと知ったとき、胸の奥に小さな不安が広がっていた。

 

 エマには、時春が悔しがっている理由がわかる気がした。

 

 彼は、バスケットボールが大好きなのだ。

 

 単に試合に勝つことだけではない。仲間へパスを出し、みんなで得点を決めることが嬉しくて仕方ない少年だった。試合に勝てば誰よりも喜び、仲間のシュートが決まれば自分のことのように笑う。その姿を、エマは何度も見てきた。

 

 だからこそ、最後に自分がシュートを決められなかったことを、きっと誰よりも悔やんでいるのだろう。

 

 しかし、エマにはどうしても納得できないことがあった。

 

 時春が、自分だけを責めていることだった。

 

 彼女は部屋の前へ到着すると、一度だけ深く息を吸った。

 

 そして、ドアをノックした。

 

「……トキ?」

 

 返事はなかった。

 

 もう一度、軽く叩く。

 

「……入るよ?」

 

 すると、部屋の奥から、かすかな声が聞こえた。

 

「……うん」

 

 エマはゆっくりとドアを開けた。

 

     ◇

 

 部屋の中は、薄暗かった。

 

 カーテンが半分閉められ、夕方の光が床の一角だけを照らしている。ラリーの机ではゲームのモニターが暗くなっており、その横には教科書やノートが積まれていた。棚の上には金色のトロフィーが飾られている。

 

 そして、窓際のベッド。

 

 そこには、一つの大きな布団の膨らみがあった。

 

 エマは少しだけ眉を下げた。

 

 いつもの時春なら、彼女が部屋へ入ってきた瞬間に顔を上げ、嬉しそうに名前を呼んでくれただろう。何をしていたのか尋ねれば、きっと夢中になって説明してくれる。バスケットボールの動画を見ているときなどは、頼んでもいないのに細かいプレーまで話し始めることがある。

 

 しかし、今は布団から出てこない。

 

 エマはベッドの横へ近づいた。

 

「……トキ、まだ寝てるの?」

 

 少しの沈黙。

 

 それから、布団の奥から声がした。

 

「………うん」

 

 エマは思わず小さく笑った。

 

「……寝てる人は返事しないと思うけど」

 

「……そっか」

 

 声は、ひどく元気がなかった。

 

 エマはベッドの縁へ腰を下ろした。

 

「……何してるの?」

 

「……動画見てる」

 

「……何の?」

 

 すると、布団の中から片手が伸びてきた。

 

 その手には、スマートフォンが握られていた。

 

 エマは画面を覗き込んだ。

 

 DJだった。

 

 ウェストゲートのロゴ付近で、ゆっくりとドリブルを続けている。そして、突然後方へステップし、信じられない距離からスリーポイントを放つ。画面が切り替わると、今度は時春がリングへ向かって走っていた。最後のレイアップをDJが背後から叩き落とし、会場が歓声に包まれる。

 

 エマは、しばらく黙ってその映像を見つめていた。

 

 そして、スマートフォンをそっと時春の手へ戻した。

 

「……そっか」

 

 小さく呟く。

 

 次の瞬間だった。

 

 エマは両手で布団の端をつかんだ。

 

 そして。

 

 ガバッ!!

 

「うわっ!?」

 

 一気に引き剥がした。

 

 突然視界へ飛び込んできた夕方の光に、時春は思わず目を閉じた。布団を頭までかぶっていたせいで髪はひどく乱れ、前髪はあちこちへ跳ねている。頬には寝具の跡が残り、目元は赤く腫れていた。顔も、どこかぐしゃぐしゃだった。

 

「ちょっと!!」

 

 時春が抗議した。

 

「何すんの、エマ!」

 

 エマは布団を抱えたまま、じっと時春を見つめていた。

 

 そして、少しだけ口元を緩めた。

 

「……すごい髪」

 

「……え?」

 

「トキ、寝癖やばいよ」

 

 時春は慌てて頭へ手を伸ばした。

 

 その様子を見たエマは、思わず小さく笑った。しかし、その笑顔はすぐに消えた。

 

 彼女は布団をベッドの足元へ置き、時春の隣へ座り直した。

 

「……トキ」

 

「……ん?」

 

 エマは少しだけ間を置いた。

 

 そして、静かに言った。

 

「悔しいよね」

 

 時春は顔を上げた。

 

 エマの目は、まっすぐこちらを見ていた。

 

 彼女は何かを無理に聞き出そうとしているわけではなかった。明るく振る舞わせようとするでもなく、くだらない冗談で笑わせようとするでもない。ただ、時春の返事を待っていた。

 

 時春は、しばらく黙っていた。

 

 そして、ゆっくりと頷いた。

 

「………うん」

 

 その声は、消え入りそうなほど小さかった。

 

「……俺のせいで、負けたから」

 

 エマは何も言わなかった。

 

 時春は膝の上へ視線を落とした。

 

「……最後、マイルズがパスくれたんだ」

 

「……うん」

 

「残り五秒だったけど、俺、間に合うと思ったんだよ。実際、リングまで行けたし……レイアップも、ちゃんと打てたと思った」

 

 時春の声が、少しずつ震え始めた。

 

「……でも、DJが後ろから来て……」

 

 彼は唇を噛んだ。

 

「あとちょっとだったんだ。ほんとに、あとちょっとだけ早かったら……あれ、決まってたと思うんだ」

 

 エマは黙って聞いていた。

 

「そしたら、同点だった。まだ試合できた。みんな、あんなに頑張ってたのに……俺が最後、決められなかったから……」

 

 時春は顔を伏せた。

 

「……ごめんって、思うんだ」

 

 その言葉を聞いたとき、エマはゆっくりと手を伸ばした。

 

 そして、時春の右手を握った。

 

 温かかった。

 

 布団の中に長い時間いたせいか、彼の手には熱がこもっていた。指先は少し汗ばんでおり、エマが触れると、時春は驚いたように顔を上げた。

 

「……エマ?」

 

 彼女は手を離さなかった。

 

 むしろ、少しだけ強く握った。

 

「……ねえ、トキ」

 

「……うん」

 

「昨日、何人で試合したの?」

 

 突然の質問に、時春は瞬きをした。

 

「……え?」

 

「バスケットボールって、何人で試合するの?」

 

「……五人、だけど」

 

「そうだよね」

 

 エマは頷いた。

 

「じゃあ、昨日の試合はトキ一人で戦ったの?」

 

「……違うよ」

 

「マイクもいたよね。ノアも、マイルズも、トムも。イーサンだって、最初から頑張ってたでしょ」

 

 時春は黙って頷いた。

 

「……うん」

 

「私、ちゃんと見てたよ」

 

 エマの声が、少しだけ強くなった。

 

「トキがシュート決めたところも、マイクがスリーを決めたところも、ノアがすごいパスを出したところも、トムがDJのダンクを止めたところも。マイルズが何回もリバウンド取って、みんなに声かけてたところも、全部見てた」

 

 時春は顔を上げられなかった。

 

 エマは続けた。

 

「みんな、すごく頑張ってた。私、バスケのことはトキほど詳しくないけど、それくらいはわかるよ」

 

 彼女は一度、息を吸った。

 

「……だからね」

 

 時春が、ゆっくりと顔を上げる。

 

 エマは、はっきりと言った。

 

「みんなで戦ったんでしょ。それで自分だけのせいで負けたっていうのは、みんなに失礼だよ」

 

 時春は、言葉を失った。

 

 エマは怒鳴ったわけではなかった。

 

 声を荒らげたわけでもない。

 

 それでも、その言葉は時春の胸へまっすぐ届いた。

 

「……だって、トキが一人で負けたことにしちゃったら、ほかのみんなは何だったの?」

 

 エマは彼の手を握ったまま続けた。

 

「マイクが決めたシュートも、ノアのパスも、トムのブロックも、マイルズが最後まで諦めなかったことも、全部トキの失敗で消えちゃうの?」

 

「……そんなこと……!」

 

 時春は思わず顔を上げた。

 

「そんなこと、ないよ!」

 

 エマはゆっくりと頷いた。

 

「……うん。そうだよね」

 

 時春は口を閉じた。

 

 それから、膝の上へ目を落とした。

 

 自分でも、わかっていた。

 

 みんな、最後まで必死に戦っていた。あれほど強いウェストゲートを相手に、十三点差をひっくり返したのは、誰か一人の力ではなかった。マイルズのスクリーンがあり、ノアのドライブがあり、マイクのシュートがあり、トムの守備があった。イーサンも、ベンチから声をかけ続けてくれていた。

 

 その全員が、同じ勝利を目指していたのだ。

 

 自分だけが勝ちたかったわけではない。

 

 自分だけが悔しかったわけでもない。

 

 その当たり前のことを、時春はいつの間にか忘れかけていた。

 

 エマは、さらに静かな声で言った。

 

「……トキ、私も悔しかったよ」

 

 時春は顔を上げた。

 

「……え?」

 

「昨日、負けたとき。私もすっごく悔しかった」

 

 エマは少しだけ笑った。

 

「だって、勝てると思ったんだもん。マイクが最後にスリー決めたとき、もう絶対勝ったって思った。パパなんか、立ち上がってすごい顔してたんだから」

 

 時春は思わず目を瞬かせた。

 

「……エマのお父さんも?」

 

「うん。すごかったよ。ずっとトキのプレー見てた」

 

 時春は少し驚いたような顔をした。

 

 エマは小さく笑い、それから真剣な表情へ戻った。

 

「……でもね。負けちゃったのは、仕方ないよ。DJ、本当にすごかったもん。あんなところからスリー決めるなんて、私、思わなかった」

 

「……うん」

 

「だから悔しいし、悲しいし、もう一回やりたいって思うかもしれない。でも、それでトキがずっと一人で落ち込んでたら、みんなも悲しいと思う」

 

 時春は黙っていた。

 

 エマは彼の手をもう一度、軽く握った。

 

「昨日、マイルズがトキに何て言ってたか、覚えてる?」

 

 時春の目が、わずかに揺れた。

 

「……謝るなって」

 

「……うん」

 

「俺が謝ることなんか、一つもないって……」

 

 エマは頷いた。

 

「じゃあ、その言葉、ちゃんと信じてあげてよ」

 

 時春は息を呑んだ。

 

「マイルズ、トキのこと信じて最後のパス出したんでしょ?」

 

「……うん」

 

「だったら、トキもマイルズのこと信じなきゃ」

 

 時春は何も言えなかった。

 

 昨夜、マイルズの胸に顔を埋めながら、自分は何度も謝っていた。しかし、そのたびにキャプテンは「謝るな」と繰り返していた。あの言葉が自分を慰めるためだけのものだったとは、時春も思っていなかった。マイルズは本気で、そう言ってくれていた。

 

 ならば、自分は。

 

 その言葉を、ちゃんと受け取れていただろうか。

 

 時春は、ゆっくりと右手を握り直した。

 

 その手を、エマが包んでいる。

 

「……俺……」

 

 小さな声が漏れた。

 

 エマは黙って待っていた。

 

「……俺、勝ちたかった」

 

 時春の目に、再び涙が浮かんだ。

 

「……うん」

 

「みんなと、もっと試合したかった」

 

 エマは静かに頷いた。

 

「……うん」

 

「……もっと、先に行きたかったんだ」

 

 声が震えた。

 

 時春はそれ以上、言葉を続けられなかった。

 

 エマは彼の手を離さず、ただ隣に座っていた。時春は顔を俯けたまま、しばらく小さく肩を震わせていたが、やがて少しずつ呼吸を落ち着け始めた。

 

 窓の外では、夕方の光がゆっくりと薄くなっていった。

 

 遠くから、生徒たちの笑い声が聞こえてくる。

 

 それは、昨日の試合が終わったあとも続いている、いつもの学校の音だった。

 

 時春はその声へ耳を傾けた。

 

 そして、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……エマ」

 

「……ん?」

 

「……ありがと」

 

 エマは柔らかく笑った。

 

「……うん」

 

 少しの間、二人は黙って座っていた。

 

 やがて、エマは時春の顔を覗き込んだ。

 

「……ところでさ」

 

「……ん?」

 

「トキ、今日ご飯食べた?」

 

 時春は少し考えた。

 

「……食べてない」

 

「……朝も?」

 

「……うん」

 

「……昼も?」

 

「……うん」

 

 エマの眉が、ゆっくりと上がった。

 

「……トキ」

 

「……な、何?」

 

「それ、ダメでしょ!」

 

 時春は思わず肩をすくめた。

 

「いや、でも……腹減ってなくて……」

 

「昨日あんなに走ったのに!?」

 

「……うん」

 

 エマは大きくため息をついた。

 

「もう! そういうところ、本当に心配になるんだから!」

 

 彼女は立ち上がった。

 

 そして、時春の手を握ったまま、軽く引っ張った。

 

「ほら、行こ!」

 

 時春は目を丸くした。

 

「……えっ?」

 

「ご飯!」

 

「……今から?」

 

「今から!」

 

 エマは当然のように答えた。

 

「みんな、待ってるよ」

 

 その言葉に、時春は動きを止めた。

 

「……みんな?」

 

「うん。ノアもマイクもマイルズも、トムもイーサンも。ジェイクたちも来てる」

 

 時春は驚いたように顔を上げた。

 

「……え?」

 

「ラウンジで待ってるんだよ」

 

「……何で?」

 

 エマは、少しだけ呆れたように笑った。

 

「……トキが心配だからに決まってるでしょ」

 

 時春は、しばらく何も言えなかった。

 

 エマはそんな彼を見つめ、もう一度手を引いた。

 

「ほら。みんなのところ行こ」

 

 時春は少し迷った。

 

 まだ、胸の奥には悔しさが残っている。昨日の試合を思い出せば、きっとまた悲しくなるだろう。DJのシュートも、最後のブロックも、簡単に忘れられるものではなかった。

 

 それでも。

 

 部屋の外には、仲間たちがいる。

 

 自分を待っている人たちがいる。

 

 時春は、ゆっくりとベッドから足を下ろした。

 

「……うん」

 

 エマが嬉しそうに笑った。

 

「よし!」

 

 そして、立ち上がった時春の頭を見て、再び吹き出した。

 

「……あははっ!」

 

「……えっ、何!?」

 

「いや、その髪で行くの?」

 

 時春は慌てて鏡を見た。

 

 寝癖で髪が四方八方へ跳ねている。前髪もひどいことになっており、頬にはまだ布団の跡が残っていた。

 

「……うわっ!!」

 

 思わず大声を上げた。

 

 エマは笑いながらドアへ向かった。

 

「顔洗って、髪直しておいで。外で待ってるから!」

 

「……うん!」

 

 時春は久しぶりに、少しだけ笑った。

 

     ◇

 

 ラリーがラウンジの時計を見上げたのは、エマが部屋を出てからしばらく経った頃だった。

 

 ノアはすでにソファから立ち上がり、落ち着かない様子で室内を歩き回っている。ジェイクはその隣で何かを話していたが、途中からノアの歩く速度が気になり始めたらしく、「座れよ!」と何度も言っていた。マイクは相変わらずソファに腰を下ろし、スマートフォンを操作している。トムは静かに水を飲み、イーサンはマイルズと何やら短い会話を交わしていた。

 

 ラリーは、窓際の椅子に座っていた。

 

 彼の目は、何度もラウンジの入口へ向けられていた。

 

 エマに任せるしかないと言ったものの、本当に時春が部屋から出てくるかどうかはわからなかった。ラリーは今日一日、何度も彼へ声をかけていた。しかし、時春はずっと布団の中にいたのである。誰かに少し話しかけられたくらいで、急に元気になるとは思えなかった。

 

 そのとき、廊下から足音が聞こえた。

 

 ラリーが顔を上げる。

 

 ドアの向こうから、エマの声がした。

 

「……ほら、こっち!」

 

「……う、うん」

 

 聞き慣れた声だった。

 

 ラリーは思わず立ち上がった。

 

 そして、ラウンジのドアが開いた。

 

 最初に入ってきたのはエマだった。

 

 その後ろに、一人の小柄な少年が立っていた。

 

 高山時春。

 

 髪はまだ少し乱れていたが、顔は洗ったらしく、目元も先ほどよりさっぱりしていた。着替えたばかりのパーカーを着て、少し気まずそうに周囲を見渡している。

 

 全員の視線が、一斉に彼へ向けられた。

 

 時春は、思わず足を止めた。

 

「……あ、えっと……」

 

 何かを言おうとした。

 

 しかし、その前だった。

 

「……おい」

 

 ノアが低い声で呟いた。

 

 時春が顔を上げる。

 

 ノアは数秒間、彼を見つめていた。

 

 そして、突然。

 

「BROOOOOOOOO!!」

 

 ラウンジいっぱいに響く声を上げた。

 

「ようやく出てきやがったな、このバカ!!」

 

「うわっ!?」

 

 時春が驚くよりも早く、ノアが大股で歩み寄ってきた。

 

「いつまで凹んでんだよ!! 気持ち悪りぃ!!」

 

「ちょ、ちょっとノア!?」

 

 ノアは時春の頭を両腕で抱え込み、そのままぐしゃぐしゃと髪をかき回した。

 

「俺らがどんだけ心配したと思ってんだよ!!」

 

「痛い! 痛いって!!」

 

 時春が必死に抗議する。

 

 しかし、ノアは少しも手を緩めなかった。

 

 そこへジェイクが飛び込んできた。

 

「BROOOOO!! トキ!!」

 

「ジェイクまで!?」

 

「お前、昨日からメッセージ全然返さねえんだもん!!」

 

「ご、ごめんって!」

 

 ジェイクが肩へ腕を回し、ノアが頭をかき回す。二人の大柄な少年に挟まれ、時春はあっという間に身動きが取れなくなってしまった。

 

 その様子を見ていたゾーイが、呆れたように額を押さえた。

 

「ちょっと! やめなさいよ! せっかく出てきたのにまた部屋へ戻っちゃうでしょ!」

 

 マディソンは笑いながら近づいてきた。

 

「トキ! 大丈夫?」

 

「……だ、大丈夫じゃないかも!」

 

 その返事に、周囲から笑い声が起こった。

 

 さらにマイルズが歩いてきた。

 

「……おい、ノア」

 

「ん?」

 

「いい加減にしろよ」

 

 ノアがようやく時春を離した。

 

「……ちぇっ」

 

 時春は大きく息を吸い、乱れた髪を直そうとした。

 

 しかし、その直後。

 

 マイルズの大きな手が、頭の上へ置かれた。

 

 ぐしゃっ。

 

「……あっ!」

 

 さらに髪をかき回される。

 

「MILES!!」

 

 マイルズは豪快に笑った。

 

「HAHA! 元気そうじゃねえか!」

 

「ちょっと! ノアと同じことしないでよ!」

 

 時春が抗議すると、マイルズはますます楽しそうに笑った。

 

 その隣ではイーサンが小さく首を振り、マイクは口元へ手を当てて笑いをこらえていた。トムも珍しく声を出して笑っている。

 

 時春は、しばらく何が起きているのかわからなかった。

 

 昨日の試合が終わったあと、自分はあれほど泣いていた。みんなに申し訳なくて、誰とも顔を合わせたくなかった。だから、朝からずっと部屋に閉じこもっていたのである。

 

 しかし、目の前の仲間たちは。

 

 誰も、自分を責めなかった。

 

 最後のレイアップについて尋ねる者もいなかった。どうしてDJにブロックされたのかと問い詰める者も、もっと早くシュートを打つべきだったと説教する者もいない。

 

 ただ、いつもと同じように、くだらないことで騒いでいた。

 

 ノアが大声を上げ、ジェイクが余計なことを言い、ゾーイがそれを叱り、マイルズが笑っている。マイクは少し離れたところから冷静に突っ込み、トムは静かに微笑んでいた。

 

 何も変わっていなかった。

 

 昨日の試合に負けても。

 

 自分が最後のシュートを決められなくても。

 

 彼らは、変わらず仲間だった。

 

 時春は、その光景を見つめながら、小さく息を吐いた。

 

 そして、思わず笑ってしまった。

 

「……あははっ」

 

 最初は小さな笑い声だった。

 

 しかし、ノアがまだ何か言おうとしているのを見ているうちに、次第におかしくなってきた。ジェイクがノアの肩へ飛びつき、逆に頭をかき回され始めたところで、とうとう時春は声を出して笑った。

 

「……あはははっ!」

 

 その笑顔を見た瞬間、エマはほっとしたように目を細めた。

 

 ラリーも、少しだけ口元を緩めた。

 

 マイルズは時春の顔を見つめ、静かに頷いた。

 

「……おかえり、トキ」

 

 時春は顔を上げた。

 

 キャプテンは、いつものように笑っていた。

 

 時春の胸の奥に、温かいものが広がった。

 

 昨夜、あれほど泣いてしまったあとでも、マイルズは変わらず自分へ笑いかけてくれている。その事実が、何より嬉しかった。

 

「……ただいま」

 

 時春は小さく答えた。

 

 マイルズは満足そうに頷いた。

 

「よし!」

 

 そして、仲間たちを見渡した。

 

「じゃあ、行くか!」

 

 時春は目を瞬かせた。

 

「……え?」

 

 ノアが振り返る。

 

「何だよ、聞いてねえのか?」

 

「……何を?」

 

 ノアはにやりと笑った。

 

 そして、いつもの大きな声で言った。

 

「飯、食いに行こうぜ!!」

 

 時春は驚いたように顔を上げた。

 

「……今から?」

 

「当たり前だろ! お前、今日何も食ってねえんだって!?」

 

「……う、うん」

 

「BRO! そりゃもう大問題だろ!!」

 

 ジェイクも勢いよく頷いた。

 

「そうそう! 俺なんかもう腹減りすぎて死にそうだぜ!」

 

 ゾーイが呆れたように振り返る。

 

「あなた、さっきスナック菓子食べてたでしょ」

 

「あれは別腹!」

 

「……意味わかんない」

 

 また笑い声が起こった。

 

 時春は周囲を見渡した。

 

 マイクも、トムも、イーサンも、みんな立ち上がっていた。マディソンはバッグを肩へかけ、ゾーイはカメラをしまっている。ジェイクとノアはすでに誰が何を注文するかで揉め始めており、マイルズはそれを笑いながら眺めていた。

 

 エマが隣へ近づいてきた。

 

「トキ」

 

「……ん?」

 

「お腹、ちょっとは減ってきた?」

 

 時春は少し考えた。

 

 昨日の試合が終わってから、まともな食事を取っていない。朝も昼も何も食べず、ずっとベッドの中にいた。ところが、こうしてみんなの顔を見て話しているうちに、急にお腹の奥が空っぽであることを思い出した。

 

 彼は、少しだけ照れくさそうに笑った。

 

「……うん」

 

 そして、正直に言った。

 

「……めっちゃお腹減った」

 

 その瞬間、ノアが大きな声を上げた。

 

「THAT’S MY BRO!!」

 

 ジェイクも両拳を突き上げる。

 

「LET’S GOOOO!!」

 

 エマは笑いながら頷いた。

 

「じゃあ、決まり!」

 

 時春は少しだけ首を傾げた。

 

「……どこ行くの?」

 

 すると、マイルズが当然のように答えた。

 

「ダニーズだろ」

 

 その言葉に、時春は思わず笑った。

 

「……やっぱり?」

 

「ほかにどこがあるんだよ!」

 

 ノアが大げさに両手を広げた。

 

「今日はハンバーガーでもポテトでもシェイクでも、好きなもん食おうぜ!」

 

「おい、食いすぎんなよ」

 

 マイクが静かに口を挟む。

 

「お前こそ、いつもシェイク二杯飲むだろ!」

 

「……今日は一杯にしとく」

 

「嘘つけ!!」

 

 ラウンジに、再び笑い声が広がった。

 

     ◇

 

 夕暮れのクレセントベイ・アカデミーを、少年少女たちが連れ立って歩いていた。

 

 中庭にはまだ薄い夕日の名残があり、西の空には淡い紫色の雲が広がっている。海から吹いてくる風は少し冷たかったが、昼間の温もりが残る歩道には、心地よい空気が流れていた。校舎の窓にはところどころ明かりが灯り、遠くのグラウンドからは練習を終えた生徒たちの声が聞こえていた。

 

 先頭ではノアとジェイクが、どちらがより大きなハンバーガーを食べられるかという、何ともくだらない議論を始めていた。ゾーイはその隣で呆れた顔をしており、マディソンは笑いながら二人の会話を聞いている。マイルズとイーサンは少し後ろを歩き、マイクはトムと静かに何かを話していた。

 

 そして、その真ん中に、時春がいた。

 

 エマが隣を歩いている。

 

 ラリーも、反対側にいた。

 

 時春は二人を見比べ、少しだけ笑った。

 

「……何かさ」

 

 エマが顔を向ける。

 

「ん?」

 

「みんな、普通だね」

 

 その言葉に、エマは少しだけ首を傾げた。

 

「……普通?」

 

「うん。昨日、あんなに悔しかったのに……今日もみんな、いつも通りなんだなって」

 

 エマはしばらく考えた。

 

 それから、柔らかく笑った。

 

「……そりゃそうだよ」

 

「……え?」

 

「昨日負けたからって、急にみんなが別の人になるわけじゃないでしょ」

 

 時春は目を瞬かせた。

 

 エマは続けた。

 

「ノアは今日もノアだし、ジェイクは今日もジェイクだし。ラリーだって、今日もラリーだよ」

 

 隣で聞いていたラリーが、少しだけ眉をひそめた。

 

「……僕まで一緒にしないでほしいんだけど」

 

 時春が思わず吹き出した。

 

「あははっ!」

 

 ラリーは呆れたように肩をすくめたが、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。

 

 時春は再び前を向いた。

 

 歩道の向こうでは、ノアが何かを叫び、ジェイクが大げさに抗議している。マイルズはその様子を見て笑っており、マイクはすでに呆れた顔をしていた。昨日、あれほど厳しい試合を戦い、最後には敗北を喫したチームの仲間たちだった。

 

 けれど、彼らはまだ一緒にいる。

 

 試合が終わったあとも、こうして同じ道を歩いている。

 

 時春は、そのことが不思議なくらい嬉しかった。

 

 もちろん、悔しさが消えたわけではない。

 

 DJのシュートを思い出せば、今でも胸が苦しくなる。最後のレイアップをブロックされた瞬間を考えれば、また自分を責めたくなるかもしれない。きっと明日も、明後日も、あの試合のことを思い出すだろう。

 

 けれど、それでいいのかもしれなかった。

 

 昨日の敗北は、消えない。

 

 それでも、昨日まで一緒に戦ってきた仲間たちも、消えるわけではないのだから。

 

 時春は隣のラリーへ顔を向けた。

 

「……ラリー」

 

「……何?」

 

「昨日、ありがとね」

 

 ラリーは一瞬だけ目を丸くした。

 

 それから、少しだけ視線を逸らした。

 

「……別に」

 

 いつもの返事だった。

 

 時春は笑った。

 

「……ありがと、Buddy」

 

 ラリーは小さくため息をついた。

 

「……だから、そういうの急に言うなって」

 

「……へへっ」

 

 エマが二人を見て、楽しそうに笑った。

 

 そのとき、前方からノアの大声が飛んできた。

 

「HEY!! 何やってんだ、リトルマン!!」

 

 時春が顔を上げる。

 

「……えっ?」

 

「早く来いよ!! お前の分まで俺が食っちまうぞ!!」

 

「ちょっと! それはダメだって!!」

 

 時春は思わず走り出した。

 

 その姿を見て、マイルズが笑い、マイクが小さく首を振った。ジェイクは「COME ON!」と叫びながら先へ走り、ゾーイが慌ててその後を追いかける。エマも笑いながら歩く速度を上げ、ラリーはそんな全員を見つめて、少しだけ呆れたように息を吐いた。

 

 いつもの、騒がしい仲間たちだった。

 

 時春はその輪へ戻っていった。

 

 そして、一行はいつものダニーズ・ダイナーへ向かった。

 

 大きな敗北を経験した翌日も、世界は少しも変わらずに続いていた。授業があり、宿題があり、くだらない会話があり、腹が減ればみんなで食事をする。勝った日には勝った日の、負けた日には負けた日の夜がある。それでも、帰る場所があり、待っていてくれる誰かがいる限り、明日へ向かって歩くことはできるのだった。

 

 時春は歩きながら、ふと空を見上げた。

 

 夕暮れの雲の向こうに、小さな星が一つだけ見えていた。

 

 昨日の夜、あれほど遠くに感じられた未来が、今は少しだけ近くにあるような気がした。

 

 まだ、悔しい。

 

 まだ、負けたことを受け入れきれたわけではない。

 

 それでも、もう一度バスケットボールをしたいと思った。

 

 そして、次にコートへ立つときには、今よりもっと上手くなっていたかった。

 

 その思いを胸に、時春は前を向いた。

 

 ちょうどそのとき、ノアがこちらへ振り返り、いつもの大きな声で叫んだ。

 

「COME ON, TOKI!!」

 

 時春は笑った。

 

「……うん!」

 

 そして、仲間たちの後を追いかけた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。