第1話 海を越えた声
三月三日、水曜日。
南カリフォルニアの空は、春の訪れを待つまでもなく、今日も気持ちよく晴れ渡っていた。クレセントベイ・アカデミーの中庭には柔らかな陽光が降り注ぎ、芝生の上では昼休みを迎えた生徒たちが思い思いの時間を過ごしている。遠くのグラウンドからはホイッスルの音が聞こえ、開け放たれた教室の窓には、海から吹いてくる穏やかな風が時折入り込んでいた。
高山時春は、そんな午後の陽気とは裏腹に、目の前のプリントと格闘していた。
場所はESLの教室。英語を母語としない留学生たちが集まる、時春にとってはすっかり馴染み深くなった場所である。昨年の八月、初めてこの教室へ足を踏み入れた頃には、先生の言葉を聞き取るだけでも精いっぱいだった。しかし、半年以上が過ぎた今では、授業中に冗談を言ったり、友人たちと議論したりする余裕も生まれている。もちろん、だからといって英語が完璧になったわけではなく、特に作文となると、今でも辞書の助けを借りることが多かった。
「……うーん」
時春は鉛筆を指先で回しながら、プリントに書かれた質問を読み返した。
『Describe a person who has influenced your life.』
自分の人生に影響を与えた人物について説明しなさい、という課題だった。誰について書こうか迷っていた時春は、ふと隣の席へ目を向けた。そこには、机の下でこっそりスマートフォンを操作しているマテオ・ロサリオの姿があった。
「テオ、誰について書いてるの?」
「ショウヘイ・オオタニ」
「また大谷?」
「またって何だよ! 俺の人生に一番影響を与えてるんだから仕方ねえだろ!」
テオは当然のように胸を張った。ドミニカ共和国からやってきたこの野球少年は、相変わらず大谷翔平の熱狂的なファンであり、彼の話題になると途端に英語が早口になる。向かい側に座っていたイジーが呆れたように笑うと、テオは自分の作文を見せびらかしながら、いかに大谷が偉大な選手であるかを語り始めた。
「トキは?」
今度はMJが尋ねてきた。
「俺? まだ決めてない」
「バスケの選手じゃないの?」
「うーん、それも考えたんだけどさ」
時春は少し考え、それから小さく笑った。
「ラリーでもいいかなって」
「……ラリー?」
MJが目を瞬かせた。その隣では、イジーが何とも言えない顔をしている。
「うん。俺、アメリカ来たばっかりの頃、英語全然わかんなかったじゃん。でもラリーが色々教えてくれたし、あいつのおかげでマイクラも好きになったしさ」
「へえ。いいじゃん」
「でしょ?」
「でも、本人に見せたら絶対嫌がると思う」
「それは間違いないね」
三人が笑ったところで、教室の前方からリード先生の声が飛んできた。
「Alright, everyone. Let’s focus.」
時春たちは慌ててプリントへ視線を戻した。リード先生は苦笑しながら黒板へ向き直り、作文で使える表現をいくつか書き始めた。教室には再び鉛筆の走る音が広がり、窓の外から聞こえてくる鳥の声が、穏やかな午後の空気に溶け込んでいく。
そのときだった。
『Attention, please.』
天井のスピーカーから、突然校内放送が流れ始めた。
教室にいた生徒たちが顔を上げる。時春も何気なく鉛筆を止め、スピーカーへ視線を向けた。
『Would Tokiharu Takayama please report to the main office? Tokiharu Takayama, please come to the main office.(高山時春、至急校長室へ)』
「…………え?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。しかし、聞き覚えのある名前が二度繰り返されたことで、時春はようやく事態を理解した。
自分が呼ばれている。
「……俺?」
思わず呟いた瞬間、隣のテオが勢いよく振り返った。
「BRO! 何やらかしたんだよ!」
「えっ!? いや、何もしてないけど!」
「校長室に呼び出しだぞ! これは大事件だ!」
「いや、メインオフィスって言ってたじゃん!」
テオはすでに楽しそうだった。イジーも口元を押さえて笑い始め、MJは何やら考え込むような顔をしている。
「トキ、もしかして体育館でまた何か壊した?」
「壊してないって!またって何!?」
「じゃあ、カフェテリアでシェイク飲みすぎたとか?」
「それで呼び出されるわけないでしょ!」
「わかんないよ。君ならあり得る」
MJの冷静な一言に、教室のあちこちから笑い声が上がった。時春が慌てて否定していると、今度はイジーが身を乗り出してきた。
「ねえ、トキ。正直に言って。何したの?」
「だから何もしてないってば!」
「大丈夫。あたしたちは友達だから、ちゃんと面会に行くよ」
「逮捕される前提!?」
とうとうリード先生まで笑ってしまった。
「もういいでしょ、行ってきなさい」
先生は時春へ向かって手を振った。
「大丈夫よトキ、きっと朗報よ」
「……だといいですけど」
時春が少し情けない声で答えると、教室はまた笑い声に包まれた。
リュックを肩に掛けて立ち上がると、テオが両手を広げ、いかにも深刻そうな顔を作ってみせた。
「Good luck!お前のことは忘れないぜ」
「死ぬみたいに言わないでよ!」
時春は笑いながら教室を出たが、廊下へ足を踏み出した途端、少しだけ不安になった。考えてみれば、学校から突然呼び出されるなど、今までほとんど経験したことがない。先週の試合が終わってからは、授業にもきちんと出席しているし、宿題だって提出している。少なくとも、自分の記憶にある限り、問題を起こした覚えはなかった。
……いや、本当にないよな?
そんなことを考えながら、時春は校舎の中央にある事務室へ向かった。
◇
「失礼しまーす……」
事務室の扉を開けた時春は、受付の女性へ軽く頭を下げた。室内には電話の鳴る音とキーボードを叩く音が響いており、壁には学校行事の予定表やスポーツチームの写真が飾られている。いつもなら手続きをする生徒が何人かいる場所だったが、今日は受付の向こうに、見慣れた人物が立っていた。
「あっ、コーチ!」
グラント・ヘイズだった。
ブレイカーズのヘッドコーチは、いつもの青いポロシャツに黒いパンツという格好で、受付の女性と何かを話していた。時春の姿を見つけると、軽く片手を上げて近づいてくる。
「来たか、トキハル」
「はい! あの……俺、何かしました?」
「何かした覚えがあるのか?」
「いや、ないですけど……」
「だったらそんな顔をするな」
ヘイズは呆れたように笑った。
「今日はお前に、少し面白い話があってな」
「面白い話?」
「ああ。日本から取材の申し込みが来ている」
「…………え?」
時春は目を瞬かせた。
「日本?」
「そうだ。日本のバスケットボールメディアだ。バスケットボールネクストジャパンという名前を知っているか?」
「……バスケットボールネクストジャパン?」
時春は首を傾げた。聞いたことがあるような気もするが、すぐには思い出せない。するとヘイズは手元のタブレットを操作し、一つの画面を見せてくれた。
そこには、見覚えのある日本語が並んでいた。
『BASKETBALL NEXT JAPAN』
YouTubeチャンネルのトップページだった。国内リーグの試合分析や日本代表の特集、海外でプレーする日本人選手へのインタビューなど、数多くの動画が公開されている。登録者数も相当なもので、時春が以前見たことのあるNBAの解説動画も、どうやらこのチャンネルが制作したものらしかった。
「あっ! これ、知ってます!」
「そうか。なら話が早い」
ヘイズによれば、チャンネルを運営しているのは、日本国内でスポーツ報道を手掛けるネクストスポーツメディアという会社だった。単なる個人の動画投稿者ではなく、正式な取材体制を持つ報道会社であり、学校側もすでに運営元や担当記者の身元を確認しているという。
「先方は、お前がアメリカでどんな生活を送っているのか取材したいそうだ」
「俺の生活……ですか?」
「ああ。バスケットボールだけじゃない。学校での勉強や寮生活、友人関係も含めてな。日本ではまだ、お前のことを知らない人間の方が多いだろう。だからこそ、アメリカで頑張っている日本人の高校生がいることを伝えたいらしい」
時春は黙ってタブレットを見つめた。
画面には、自分と同じ日本人選手たちの姿が並んでいる。NBAのコートに立つ選手もいれば、大学バスケットボールで活躍する若者もいる。海外という大きな世界で、それぞれが自分の道を切り開こうとしている人々だった。
その中に、自分が加わるのだという。
「……マジですか?」
「マジだ」
ヘイズは時春の言い方を真似するように答えた。
「一月の招待大会で、お前がMVPを獲得しただろう。あの試合の映像が日本でも話題になったそうだ。それに、先日のウェストゲート戦も見ているらしい」
その言葉を聞いた瞬間、時春の胸の奥がわずかに動いた。
ウェストゲート・プレップ・ウルブズ。二月二十二日、ブレイカーズがCIFサザンセクション・プレーオフ二回戦で敗れた相手だった。八十一対八十三。わずか二点差の敗北。最後のプレーで、自分が放ったレイアップはDJにブロックされ、チームのシーズンはそこで終わった。
あれから一週間以上が経っていた。もちろん、時春はすでに普段の学校生活へ戻っているし、仲間たちと笑って過ごせるようにもなっている。しかし、あの最後のプレーを思い出すと、今でも胸の奥が少しだけ苦しくなった。
ヘイズはそんな時春の表情を見て、静かに言った。
「いいか、トキハル。取材を受けるかどうかはお前が決めていい。まだ十六歳なんだからな。学校も保護者も、必要な確認をしたうえで進めるつもりだ」
「……はい」
「ただ、俺は悪い話じゃないと思っている。お前がここで何を学んで、どんな仲間とプレーしてきたのか。それを日本の人たちに知ってもらうのは、きっと意味のあることだ」
時春はもう一度、タブレットへ目を向けた。
日本。
八月に飛行機へ乗って以来、帰っていない国だった。両親とは頻繁に連絡を取っているし、日本の友人たちとも時々メッセージを交わしている。それでも、自分がこちらでどんな毎日を送っているのかを、言葉だけで伝えるのはなかなか難しかった。
もし、この取材で少しでも伝えられるなら。
「……やりたいです」
時春は顔を上げた。
「俺、取材受けたいです!」
ヘイズは満足そうに頷いた。
「よし。なら、先方へ返事をしておこう」
「はい!」
「ただし、一つ条件がある」
「……えっ?」
時春が背筋を伸ばすと、ヘイズは真面目な顔で言った。
「取材があるからといって、勉強をサボるなよ」
「サボりませんって!」
ヘイズは声を上げて笑った。
◇
その日の放課後。
学生寮の共用ラウンジでは、時春本人の知らないところで、ある重大な会議が始まろうとしていた。
正確には、重大だと思っているのは一部の生徒だけだったのだが、少なくともジェイク・ハリスは本気だった。大きなテーブルの前に立ち、ホワイトボードに何やら文字を書き込んでいる。その周囲には、ラリー、オーウェン、MJ、テオ、そして練習を終えてやって来たノアたちが集まっていた。
ホワイトボードの一番上には、こう書かれている。
『OPERATION TOKI SUPERSTAR』
「……何これ」
ラリーが心底嫌そうな顔をした。
「決まってんだろ!」
ジェイクが勢いよく振り返った。
「トキの日本メディアデビューを成功させるための、特別プロジェクトだ!」
「普通に取材受けるだけでしょ」
「普通じゃねえよ、ラリー! 日本中の人がトキを見るんだぞ!」
「日本中は見ないと思うけど」
「細けえことはいいんだよ!」
ジェイクは両手を広げ、まるで国家的な事業について説明するかのように話し始めた。彼によれば、時春が日本のバスケットボールメディアに登場することは、クレセントベイ・アカデミーの歴史に残る出来事であり、親友である自分たちには、その成功を全面的に支援する義務があるらしい。
それがどこから生まれた義務なのかは、誰にもわからなかった。
「というわけで、俺たちCBAブラザーズが全面協力する!」
「……俺たち、そんな団体だったっけ?」
オーウェンが尋ねると、ジェイクは当然のように頷いた。
「今決まった!」
「適当すぎるでしょ」
ラリーの指摘は綺麗に無視された。
しかし、ジェイクが騒いでいるだけなら、いつものことで済んだはずだった。問題は、他の男子生徒たちまで妙に乗り気になっていたことである。
「いや、でもこれはちゃんとやりたいよね」
MJがカメラを机に置きながら言った。
「せっかく日本から取材に来るんだし、CBAがどんな学校なのか、いい映像を撮ってもらいたい。学校の広報担当とも相談して、撮影できる場所を確認した方がいいと思う」
「さすがMJ!」
ジェイクが指を鳴らす。
「お前は映像担当だ!」
「いや、僕は取材する側じゃないんだけど」
「じゃあ現地プロデューサー!」
「勝手に肩書きを増やさないでよ」
そこへノアが大きな声を上げた。
「YO! だったら俺たちブレイカーズも協力するに決まってんだろ!」
彼はソファから立ち上がり、胸を張った。
「日本の連中に、俺たちのリトルマンがどれだけヤバい奴か教えてやらねえとな!」
「ノア、お前が喋ったら全部大げさになるだろ」
マイクが冷静に指摘した。
「何だと!? 俺はいつだって事実しか言わねえぞ!」
「この前、トキが空を飛べるって言ってただろ」
「あれは比喩だよ、比喩!」
「お前、比喩って言葉知ってたんだ」
「BRO!」
マイクの一言でラウンジに笑い声が広がった。トムは隣で静かに笑っており、イーサンは腕を組みながら、何やら楽しそうに会議の様子を眺めていた。
そこへ、遅れてやってきたマイルズがホワイトボードを見上げた。
「……何だ、この騒ぎは」
「キャプテン!」
ジェイクが駆け寄る。
「トキの日本デビュー作戦だ!」
「……あいつ、NBAにでも入ったのか?」
「取材だよ、取材!」
事情を聞いたマイルズは、しばらく黙っていた。それから大きく笑い、ジェイクの肩を叩いた。
「なるほどな。じゃあ俺たちも協力するか」
「YEAH!」
「ただし、トキ本人が嫌がるようなことはするなよ」
「もちろんだ!」
「……その返事が一番信用できねえんだよな」
マイルズが苦笑したところで、ラウンジの扉が開いた。
「ただいまー!」
全員が振り返った。
高山時春だった。
「……え?」
時春は入口で足を止めた。
ホワイトボードの前にはジェイク。机の上にはMJのカメラ。ソファにはブレイカーズの仲間たちが並び、ラリーは何とも疲れた顔をしている。そして、壁には大きく『OPERATION TOKI SUPERSTAR』と書かれていた。
「……何してんの?」
その瞬間、ジェイクが両手を突き上げた。
「TOKIIII!」
「うわっ!?」
「お前の日本デビューを俺たちがプロデュースしてやるぜ!」
「ええええ!?」
時春は思わず後ずさった。
「ちょっと待って! 俺、ただ取材受けるだけなんだけど!」
「だからこそだろ!」
ノアが勢いよく肩へ腕を回してきた。
「BRO! お前はもうただのトキじゃねえんだ! ジャパニーズ・スーパースターだ!」
「いやいやいや!」
「日本のテレビに出るんだろ!?」
「YouTubeだよ!」
「同じようなもんだろ!」
「全然違うって!」
時春が必死に否定していると、ジェイクがすでに具体的な計画を説明し始めていた。
まず、撮影当日には時春の髪型を整える。制服に皺がないか確認する。インタビューで緊張しないよう、予想される質問を事前に練習する。体育館ではブレイカーズのユニフォームを用意し、チームの写真や過去の試合映像を整理しておく。さらに、MJが撮影した招待大会の映像も、本人と学校の許可を得たうえで提供する予定だという。
そこまでは、時春にも理解できた。
しかし、ジェイクが最後に提案した内容だけは、どう考えても理解できなかった。
「そして最後に、俺たち全員で後ろに立って、トキの名前を叫ぶ!」
「それ絶対いらない!」
「何でだよ! 最高のエンディングだろ!」
「取材の人が困るって!」
時春が抗議すると、MJが静かに頷いた。
「うん。それは僕もいらないと思う」
「MJまで!?」
ジェイクが大げさに胸を押さえ、ノアが腹を抱えて笑った。ラリーはようやくまともな意見が出たことに安心したらしく、深いため息をついている。
「……ねえ、トキ」
「ん?」
「一つだけ確認していい?」
「何?」
「僕は映らなくていいよね?」
時春は少し考えた。
それから、満面の笑みを浮かべた。
「ラリーも一緒に映ろうよ!」
「絶対嫌だ」
「えー!」
「その反応が出ると思ったから先に聞いたんだよ!」
再び笑い声が広がった。
時春はそんな仲間たちを見渡し、何だか不思議な気持ちになった。取材を受けるのは自分のはずなのに、どうしてみんなの方がこんなに楽しそうなのだろう。ジェイクはすでに撮影当日の服装を考えているし、MJは必要な映像を整理し始めている。ノアは勝手にインタビューの練習を始め、マイルズはそれを面白そうに眺めていた。
けれど、その光景は少しも嫌ではなかった。
むしろ、自分のことをこんなにも喜んでくれる人たちがいるのだと思うと、胸の奥が温かくなった。
「……みんな、ありがとね」
時春がそう言うと、ジェイクは一瞬だけ目を丸くした。
そして、にやりと笑った。
「何言ってんだよ、BRO」
彼は時春の肩を軽く叩いた。
「当たり前だろ。俺たち、CBAブラザーズなんだからな!」
◇
三月六日、土曜日。
取材当日の朝、クレセントベイ・アカデミーの体育館には、いつもと少し違った緊張感が漂っていた。
撮影のために用意された照明器具と三脚が、コート脇に整然と並べられている。学校の広報担当者が撮影範囲を確認し、MJは持参した機材の置き場所についてスタッフと相談していた。コート上ではマイルズたちが軽くシュート練習をしており、ノアはなぜか普段以上に張り切ってダンクを繰り返している。
そして、その中央に。
「……ラリー」
「何?」
「俺、変じゃない?」
時春が不安そうに尋ねた。
今日はブレイカーズの青いチームウェアを着ている。髪もいつもより丁寧に整えてきたし、シューズも綺麗に磨いた。本人としては十分に準備したつもりだったが、いざ撮影が始まるとなると、何だか急に落ち着かなくなってしまった。
ラリーは時春を上から下まで眺めた。
「……普通」
「普通?」
「うん。いつものトキ」
「そっか……」
「それじゃ不満なの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
時春が苦笑すると、ラリーは少しだけ肩をすくめた。
「変にかっこつけるより、いつもの方がいいんじゃない?」
その言葉に、時春は思わず笑った。
「……ありがと、ラリー」
「別に」
ラリーが視線を逸らしたところで、体育館の入口から女性の声が聞こえてきた。
「高山時春さん、いらっしゃいますか?」
時春が振り返る。久しぶりの日本語が聞こえた。
そこには、三十代前半くらいの日本人女性が立っていた。紺色のジャケットに動きやすそうなパンツを合わせ、肩には取材用のバッグを掛けている。その後ろにはカメラを持った男性スタッフが二人おり、学校の広報担当者が彼らを案内していた。
「あっ! はい!」
時春は慌てて駆け寄った。
「高山時春です!」
女性は柔らかく微笑み、丁寧に頭を下げた。
「初めまして。バスケットボールネクストジャパンの佐伯千尋です。今日はよろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします!」
「ふふっ。そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ」
佐伯千尋は、日本のスポーツ報道会社で長くバスケットボールを取材してきた記者だった。国内リーグや日本代表の取材経験があり、最近ではアメリカの大学バスケットボールやNBAでプレーする日本人選手たちの取材も担当しているという。落ち着いた口調と柔らかな笑顔が印象的な女性で、時春が緊張していることにもすぐに気づいてくれた。
「今日は高山くんの普段の様子を見せてもらいたいと思っています。かしこまったインタビューというより、普通にお話しできれば嬉しいです」
「はい!」
「それから、無理にかっこいいことを言わなくても大丈夫ですからね」
「……えっ」
時春が目を丸くすると、佐伯は楽しそうに笑った。
「さっき、お友達から聞いたんです。高山くんは、いつものままが一番面白いって」
時春は振り返った。
少し離れたところで、ジェイクが満面の笑みを浮かべて親指を立てている。
「……ジェイク!」
「YEAH!」
時春は思わず額を押さえた。
どうやら、取材は始まる前から賑やかなことになりそうだった。
◇
撮影は、体育館での練習風景から始まった。
時春がドリブルをしながらコートを走り、マイルズとのピック・アンド・ロールを繰り返す。ディフェンスがスクリーンを避けようとした瞬間、時春は鋭く方向を変え、空いたスペースへ切り込んだ。ヘルプに出てきたノアが進路を塞ぐと、今度は左手から素早くパスを送り、コーナーで待っていたマイクがスリーポイントを決める。
「NICE!」
時春が拳を握った。
佐伯はカメラの横で、その一連の動きを興味深そうに眺めていた。
「……なるほど」
彼女は小さく頷いた。
「すごいですね。パスを出す前から、もう次の動きが見えているみたい」
隣にいたヘイズが答えた。
「トキハルの長所は、周りの選手をよく見ていることです。もちろん、まだ判断を間違えることもありますし、体格的にも課題は多い。ただ、彼はチームメイトの能力を引き出すことに喜びを感じる選手なんです」
「なるほど。日本では珍しいタイプかもしれませんね」
「そうなんですか?」
「日本にも優秀なポイントガードはいます。ただ、彼のように小柄な体でアメリカの高校バスケットボールに挑戦している選手は、まだ多くありませんから」
佐伯はそう言って、再びコートへ目を向けた。
時春は今度、ノアからパスを受け取っていた。ドリブルで相手を引きつけると、背中の後ろからボールを回し、ゴール下へ走り込んでいたトムに鋭いバウンドパスを送る。トムはそのまま両手でボールを掴み、力強くリングへ叩き込んだ。
「LET’S GO!」
ノアが叫び、マイルズが大声で笑った。
体育館には、いつものブレイカーズの空気が戻っていた。
練習風景の撮影が終わると、いよいよインタビューが始まった。コート脇に置かれた椅子へ腰掛けた時春の前には、カメラと小さなマイクが設置されている。少し離れたところではヘイズが見守っており、友人たちも邪魔にならない場所から撮影を眺めていた。
「それじゃあ、始めましょうか」
「はい!」
佐伯は微笑み、最初の質問を口にした。
「まず、高山くん。アメリカに来ようと思った理由を教えてください」
時春は少し考えた。
「……やっぱり、NBAに行きたいからです」
「NBAですか」
「はい。小さい頃からずっとバスケが好きで、いつか世界で一番すごい選手たちと一緒にプレーしたいなって思ってました。でも、日本にいた頃は、アメリカの高校でバスケするっていうのが、どんな感じなのか全然わからなくて……」
時春は少し照れくさそうに笑った。
「来てみたら、思ってたよりずっと大変でした」
「例えば、どんなところが?」
「英語です!」
あまりにも即答だったため、佐伯は思わず笑ってしまった。
「ははっ、そこなんですね」
「いや、ほんとに! 最初はもう、何言ってるかわかんなくて。授業も全然ついていけなかったし、友達が冗談言ってても、何が面白いのかわかんなかったんです」
「それは大変でしたね」
「でも、みんなが助けてくれたから」
時春は少しだけ顔を上げた。
「今は、めっちゃ楽しいです」
佐伯はその言葉を聞き、柔らかく頷いた。
続いて話題は、バスケットボールそのものへ移った。身長百七十センチという体格でアメリカの高校バスケットボールに挑戦する難しさ。トライアウトでVarsityに選ばれたときの喜び。先輩のイーサンから教わったこと。そして、招待大会でMVPを獲得した経験について、時春は一つひとつ丁寧に答えていった。
「日本では今、NBAで活躍している二人の日本人選手が、若い世代に大きな影響を与えているんです」
佐伯がそう切り出したのは、インタビューが少し進んだ頃だった。
「篠原航平選手と、榊原玲央選手です。高山くんも、もちろん知っていますよね?」
「知ってます! めっちゃ見てます!」
時春の目が輝いた。
篠原航平。身長二百六センチのフォワード。日本の高校を卒業後にアメリカの大学へ進学し、四年間のNCAAでの経験を経て、二〇一八年のNBAドラフトでは指名されなかった。それでも夢を諦めず、NBAサマーリーグやGリーグでのプレーを通じてツーウェイ契約を勝ち取り、その後も複数のチームで出場機会を得てきた選手だった。
彼の武器は、長い腕と優れた運動量を生かしたディフェンス、そしてキャッチ・アンド・シュートのスリーポイントである。派手に得点を量産するタイプではないが、相手のエースを守り、速攻では誰よりも早く走り、必要な場面で確実にシュートを決める。NBAという厳しい世界で、自分に求められる役割を見つけながら生き残ってきた日本人選手だった。
一方の榊原玲央は、まったく違う道を歩んでいた。
身長二百三センチ。日本人の母とにルーツを持つ父の間に生まれた彼は、高校卒業後にアメリカの名門大学へ進学し、NCAAで三シーズンを過ごしたのち、二〇一九年のNBAドラフトで全体九位指名を受けた。日本人としては異例の高評価でNBA入りを果たし、その後はウイングとパワーフォワードの両方をこなす得点力の高い選手として活躍している。
力強いドライブ、ミドルレンジからのジャンプシュート、相手ディフェンダーを背負ってのポストプレー。二メートルを超える体格と優れた身体能力を生かし、自ら得点機会を作り出せることが、彼の最大の魅力だった。
「篠原選手は、決して簡単ではない道を歩いてきました。一方、榊原選手はドラフト上位でNBA入りして、得点力を武器に存在感を示してきた。二人とも、日本の子供たちにとっては大きな希望なんです」
佐伯はそう説明してから、時春へ尋ねた。
「高山くんは、この二人をどう見ていますか?」
時春は少し考えた。
「……すごいなって思います」
そして、小さく笑った。
「もちろん、二人ともめっちゃ上手いんですけど、それだけじゃなくて、アメリカでずっと頑張ってるのがすごいなって」
「なるほど」
「俺、こっち来てからわかったんです。知らない場所で生活するのって、結構大変なんだなって。言葉も違うし、文化も違うし、バスケだって日本と全然違うし。でも、篠原選手も榊原選手も、そういう中でずっと戦ってるじゃないですか」
時春は自分の手を見つめた。
「だから、俺も頑張りたいなって思います」
佐伯は静かに頷いた。
「高山くんも、いつかNBAへ行きたい?」
「もちろんです!」
「二人とはポジションもプレースタイルも違いますけどね」
「はい。でも、俺には俺のバスケがあると思うので」
その言葉を口にしたとき、時春の表情が少しだけ変わった。
「俺、やっぱりパスするのが好きなんです。自分で点取るのも嬉しいけど、仲間がシュート決めてくれたり、ダンクしてくれたりすると、めっちゃ嬉しくて。だから、自分がコートにいることで、みんながもっと上手くプレーできるような選手になりたいです」
「いいですね」
佐伯は微笑んだ。
「それが、高山くんの目指すポイントガードなんですね」
「はい!」
時春は力強く頷いた。
しかし、次の質問が向けられたとき、その笑顔はほんの少しだけ静かなものになった。
「……では、先日のプレーオフについても聞かせてもらっていいですか?」
時春は顔を上げた。
「ウェストゲート・プレップとの試合です。最後のプレーで、相手のDJ選手にシュートをブロックされましたよね。あのとき、どんなことを考えていましたか?」
体育館に、少しだけ静かな空気が流れた。
時春はすぐには答えなかった。
あの夜の光景が、頭の中に浮かんでいた。残り数秒。マイルズからのパス。必死に走ったコート。そして、リングへ向かって伸ばした右手の先に現れた、DJの大きな腕。
「……悔しかったです」
しばらくして、時春は静かに答えた。
「めちゃくちゃ悔しかったです。あのシュートが決まってたら、まだ試合できたのにって。みんなと、もっと一緒にバスケしたかったなって思いました」
佐伯は何も言わず、続きを待った。
「試合が終わったあと、俺、すごい落ち込んじゃって。次の日も、ずっと部屋にいたんです」
「そうだったんですね」
「でも……」
時春は少しだけ笑った。
「みんなが来てくれたんです」
彼は視線を上げ、体育館の向こうにいる仲間たちを見た。
ノアがジェイクと何やら言い合い、マイルズがその様子を笑って眺めている。マイクは静かにスマートフォンを操作しており、トムはMJのカメラを興味深そうに見つめていた。そして、少し離れたベンチにはラリーが座っている。
「みんな、俺のこと責めなかったんです。普通に笑って、いつもみたいにふざけて、それで一緒にダニーズ行こうって言ってくれて」
時春はゆっくりと言葉を続けた。
「だから、もう一回頑張ろうって思いました。あの試合には負けちゃったけど、俺にはまだ、こんなにいい仲間がいるんだなって」
佐伯は、しばらく時春を見つめていた。
それから、静かに微笑んだ。
「……素敵なチームですね」
「はい!」
時春は迷わず答えた。
「俺、ブレイカーズが大好きです!」
◇
その後も撮影は続いた。
体育館を離れた一行は、学校の中庭や図書館、カフェテリアを回りながら、時春の普段の学校生活を撮影した。ESLの教室ではリード先生が温かく迎えてくれ、テオはカメラを見つけた瞬間、なぜか大谷翔平について熱弁し始めた。イジーが慌てて止めに入り、MJはその様子を面白そうに撮影している。
カフェテリアではジェイクが時春との出会いを大げさに語り、ゾーイから何度も訂正されることになった。エマは少し照れくさそうに笑いながら、時春が初めて学校へ来た頃のことを話してくれた。
「最初は英語があんまり得意じゃなくて、授業でも困ってることが多かったんです。でも、すごく一生懸命で。誰にでも笑顔で話しかけるし、わからないことがあれば何度でも聞いてくれるから、自然とみんな仲良くなったんだと思います」
佐伯が頷く。
「エマさんにとって、高山くんはどんな人ですか?」
「……えっ?」
エマは一瞬、目を丸くした。
少し離れたところでは、ゾーイが何やら意味深な笑みを浮かべている。
「えっと……」
エマは小さく笑った。
「……一緒にいると、楽しくなる人です」
その言葉を聞いた時春は、嬉しそうに笑った。
「俺もエマと一緒にいると楽しいよ!」
「……ふふっ、ありがと」
エマは少しだけ頬を赤くしたが、当の時春はまるで気づいていなかった。
そして、撮影の最後。
佐伯は、学生寮の一室を訪れていた。
時春とラリーの部屋だった。
「……何で僕の部屋まで」
ラリーは相変わらず不満そうだった。
「だって、俺たちの部屋じゃん!」
「そういう問題じゃないんだけど」
佐伯は笑いながら、ラリーへ丁寧に尋ねた。
「もちろん、撮影したくないものは映しません。ラリーくんも、無理にインタビューを受けなくて大丈夫ですよ」
「……それなら」
ラリーはようやく少しだけ安心したようだった。
しかし、カメラが部屋の中へ向けられた瞬間、佐伯の視線は机の上に置かれた一つのものへ吸い寄せられた。
「あら……これ」
小さな金色のトロフィーだった。
周囲にはマインクラフトのフィギュアが並んでいる。クリーパーやスティーブ、エンダーマンたちに囲まれるようにして置かれたそのトロフィーは、明らかに他の品々とは違う輝きを放っていた。
「これ、招待大会のMVPトロフィーですよね?」
「そうです!」
時春が嬉しそうに頷いた。
「俺、ラリーにあげたんです!」
「……えっ?」
佐伯が驚いたように顔を上げる。
「MVPトロフィーを?」
「はい!」
「……どうして?」
時春は少し考えた。
けれど、答えはすぐに見つかった。
「だって、ラリーのおかげで頑張れたから」
彼は笑顔で続けた。
「こいつ、バスケあんまり好きじゃないんですけど、試合見に来てくれたり、俺が落ち込んでるときに話聞いてくれたりするんです。だから、優勝したときに、ありがとうって言いたくて」
佐伯は黙って聞いていた。
そして、ラリーへ視線を向けた。
「……ラリーくんは、もらったときどう思いました?」
ラリーは少しだけ困った顔になった。
「……正直、びっくりしました」
「そうですよね」
「だって、あれはトキが頑張って取ったものだから。僕はバスケットボールなんて全然やってないし、試合に出たわけでもないし……」
彼はそこで言葉を切り、机の上のトロフィーへ目を向けた。
「……でも、まあ」
少しだけ口元を緩める。
「嬉しかったですよ」
時春が振り返った。
「……えっ!」
「何?」
「ラリー、今嬉しかったって言った!?」
「言ったけど」
「うわっ! もう一回言って!」
「絶対嫌だ」
時春が笑い出し、佐伯も思わず吹き出した。
カメラの向こうでは、スタッフが静かに撮影を続けていた。
ラリーは呆れたようにため息をついたが、その表情はいつもより少しだけ柔らかかった。
◇
取材から六日後。
三月十二日、金曜日の夜。
ダニーズ・ダイナーには、いつも以上に大勢のCBA生が集まっていた。
赤いビニール張りのボックス席には、ブレイカーズの選手たちが肩を寄せ合って座り、その隣にはエマ、ゾーイ、マディソン、イジー、テオたちの姿がある。ジェイクとオーウェンは店の奥にある大きなテレビの前で何やら準備をしており、MJはノートパソコンを操作していた。
店内には、焼きたてのハンバーガーとフライドポテトの匂いが漂っている。しかし、今夜の主役は料理ではなかった。
先ほど、バスケットボールネクストジャパンの新しい動画が公開されたのである。
タイトルは、
『【独占取材】身長170cm、16歳。アメリカ高校バスケで躍動する日本人PG・高山時春の素顔』
というものだった。
「YOOOOO!」
ジェイクが大声を上げた。
「ついに来たぜ! トキの日本デビューだ!」
「だから日本デビューって何!?」
時春が笑いながら抗議する。
「俺、日本人なんだけど!」
「細かいこと言うなよ、BRO!」
ノアが大きな手で時春の肩を叩いた。
「お前、もう日本のスターになっちまったな!」
「まだ動画始まってもないじゃん!」
「関係ねえ! 俺たちのスターだろ!」
その言葉に、マイルズが笑った。
「まあ、そいつは否定できねえな」
時春が照れくさそうに笑っていると、MJがパソコンから顔を上げた。
「みんな、準備できたよ」
テレビの画面に、YouTubeの再生ページが映し出された。
その瞬間、店の奥から低い声が響いた。
「……おい」
全員が振り返る。
カウンターの向こうには、ダニーが立っていた。
「お前ら。今日は何の騒ぎだ」
ジェイクが嬉しそうに答える。
「ダニー! 今日はトキの記念すべき日本メディアデビューなんだ!」
「……またか」
「またって何だよ!」
「お前ら、何かあるたびにここで騒ぐだろ」
「だってここが一番いい場所なんだもん!」
時春が満面の笑みで答えると、ダニーは何とも言えない顔をした。
しばらく黙ってから、彼は大きくため息をついた。
「……他の客に迷惑かけんなよ」
「YEAH!」
「返事だけはいいんだよな……」
ダニーは呆れたように首を振り、再びキッチンへ戻っていった。
やがて店内の照明が少し落とされ、テレビの画面が明るくなる。
動画が始まった。
最初に映し出されたのは、南カリフォルニアの青い空だった。
ヤシの木が風に揺れ、海沿いの道路を車が走っていく。続いて、クレセントベイ・アカデミーの校門が現れ、広いキャンパスと体育館の外観がゆっくりと映し出された。
落ち着いた日本語のナレーションが流れ始める。
『アメリカ、カリフォルニア州南部。太平洋を望むこの街に、一人の日本人高校生が暮らしている。名前は高山時春。十六歳。身長百七十センチ。彼の夢は、NBAのコートに立つことだ』
画面が切り替わる。
体育館のコートを走る時春。鋭いドリブル。マイルズとのスクリーンプレー。そして、ノアへ送られる鮮やかなアリウープパス。
「OOOOOH!」
ノアが声を上げた。
「見たか今の! 俺のダンク!」
「お前のダンクじゃなくてトキの特集だろ」
マイクがすぐに突っ込む。
「BRO! 俺も映ってんだからいいだろ!」
店内に笑い声が広がった。
動画はさらに続く。
日本でバスケットボールを始めた少年が、十五歳でアメリカへ渡り、CBAのトライアウトに挑戦したこと。小柄な体格ながらVarsity入りを果たし、先輩たちに揉まれながら少しずつ出場機会を増やしていったこと。そして、一月の招待大会で、チームを逆転優勝へ導く活躍を見せたこと。
その過程が、MJの撮影した映像や学校の公式写真とともに丁寧に紹介されていた。
そして、時春本人へのインタビューが始まった。
『アメリカに来て、一番大きく変わったことは何ですか?』
佐伯の声が聞こえる。
画面の中の時春は、少し考えてから笑顔で答えた。
『……友達がいっぱいできたことです!』
「HAHAHA!」
ジェイクが大笑いした。
「BRO! 最初の答えがそれかよ!」
「だってほんとのことじゃん!」
時春も笑っている。
しかし、次の瞬間だった。
「……あれ?」
マイルズが画面を指差した。
「おい、下に英語が出てるぞ」
時春が目を向ける。
確かに、日本語のインタビューの下には、白い英語字幕が表示されていた。
『The biggest change? I made so many friends here!』
「あっ!」
時春は思わず声を上げた。
「英語字幕ついてる!」
MJが頷いた。
「佐伯さんから連絡来てたよ。僕らにも見てもらえるように、英語字幕を入れてくれたんだって」
「……マジで?」
時春は驚いたように画面を見つめた。
日本の人たちへ向けた動画だったはずなのに、ここにいるアメリカの仲間たちも、自分が何を話したのか理解できるようになっている。佐伯がそこまで考えてくれていたことが、何だかとても嬉しかった。
「……すげえ」
時春は小さく呟いた。
「佐伯さん、めっちゃいい人じゃん……」
ラリーが隣で頷いた。
「……うん。いい仕事するね」
それから動画は、ブレイカーズの仲間たちへのインタビューへ移った。
最初に登場したのは、マイルズだった。
『トキは小さいけど、あいつがいるとチームが動くんだ。自分だけが目立とうとしないし、いつも仲間を見てる。そういうポイントガードは、どんなチームにとっても大切だと思うぜ』
「OOOOOH!」
ジェイクが歓声を上げた。
「キャプテン! かっこよすぎるだろ!」
「普通のこと言っただけだ」
マイルズは照れくさそうに笑った。
次に登場したノアは、案の定、最初から最後まで大騒ぎだった。
『TOKI? BRO! あいつは最高だぜ! 小さいくせに誰よりも速いし、俺が走れば絶対パスが来るんだ! 世界中の奴らに教えてやりてえよ! あいつは本物だ!』
「YEAAAAH!」
本人が画面に向かって叫ぶ。
「見ろよ! 俺、めちゃくちゃかっこいいじゃねえか!」
「うるせえな!」
マイルズが笑いながら肩を叩き、マイクは呆れたように首を振った。
その後も、イーサンが時春の成長について語り、トムが彼のパスの正確さを褒め、ヘイズがポイントガードとしての可能性と課題を冷静に説明していった。
画面は再び、時春本人へ戻った。
『将来の夢は?』
『NBA選手になることです!』
『日本の子供たちに伝えたいことはありますか?』
時春は少し考えた。
そして、笑顔で答えた。
『……俺、身長百七十センチしかないんですけど、でも、バスケめっちゃ楽しいんです。もちろん、背が高い方が有利なこともいっぱいあるし、俺ももっと大きくなりたいです。でも、小さいからって諦めたくないし、自分にできることをもっと増やしていきたいです』
佐伯が静かに頷く。
『だから、もし俺と同じように身長が低くて悩んでる子がいたら、一緒に頑張ろうって言いたいです。俺もまだ全然上手くないけど、もっと練習して、いつかNBAに行きたいです!』
画面の中の時春が、満面の笑みを浮かべた。
ダニーズの店内には、少しだけ静かな時間が流れた。
マイルズは腕を組んで画面を見つめ、イーサンは小さく頷いている。エマは嬉しそうに微笑み、ゾーイは何やら感慨深そうな顔をしていた。
時春は少し照れくさくなって、手元のシェイクへ視線を落とした。
しかし、動画はまだ終わっていなかった。
映像が切り替わった。
二月二十二日。
ウェストゲート・プレップとのプレーオフ二回戦だった。
八十一対八十三。残り数秒。マイルズから送られたロングパスを受け取った時春が、全速力でリングへ向かって走る。必死に踏み込み、右手でレイアップを放とうとした瞬間、背後からDJの腕が伸びてきた。
ボールが叩き落とされる。
そして、試合終了のブザーが鳴った。
画面には、俯いたままコートに立ち尽くす時春の姿が映っていた。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
時春も黙って画面を見つめていた。
あの夜の悔しさは、やはり簡単には消えないものだった。
しかし、そこへ佐伯のナレーションが重なった。
『もちろん、彼の挑戦は決して順調なことばかりではない。二月のプレーオフでは、最後のシュートを阻まれ、チームは惜しくも敗退した。それでも、彼の周囲には変わらず仲間たちがいた』
画面が切り替わる。
体育館で笑い合うブレイカーズの選手たち。中庭を歩く時春とジェイク。カフェテリアで楽しそうに話すエマたち。そして、学生寮の部屋でラリーと並んで座る時春。
そこには、勝敗だけでは測ることのできない時間が映し出されていた。
佐伯の声が続く。
『かつて篠原航平が、ドラフトで指名されなかった悔しさを胸にNBAへの道を切り開いたように。そして榊原玲央が、大きな期待と重圧を背負いながら世界最高峰の舞台へ挑み続けているように。高山時春もまた、自分だけの道を歩み始めている』
時春は静かに画面を見つめた。
自分が、あの二人と同じような選手になれるかどうかはわからない。
身長も違う。プレースタイルも違う。これまで歩んできた道だって、何もかも違う。
それでも、いつか同じコートに立ちたい。
その気持ちだけは、確かにあった。
やがて映像は、最後の場面へ移った。
一月十七日。
招待大会の決勝戦だった。
十五点差からの大逆転。試合終了のブザー。コートへ飛び出してくる仲間たち。抱き合い、拳を突き上げ、声を上げて喜ぶブレイカーズの選手たち。
そして、ファイナルMVPの表彰式。
金色のトロフィーを受け取った時春が、満面の笑みで観客席へ駆け上がっていく。
その先にいたのは、丸いメガネを掛けた一人の少年だった。
ラリー・ナード。
時春は彼の前で足を止め、嬉しそうにトロフィーを差し出す。
困った顔をするラリー。
何度も頷きながら、受け取ってほしいと頼む時春。
やがてラリーは小さく笑い、両手でトロフィーを受け取った。
その瞬間、画面には佐伯の最後のナレーションが重なった。
『日本バスケの希望でもあり、そして一人の高校生でもある高山時春。彼がこのアメリカで見つけたものは、バスケットボールの技術だけではない。共に夢を追いかけ、喜びも悔しさも分かち合える、大切な仲間たちだった』
最後に映し出されたのは、トロフィーを抱えるラリーと、その肩へ腕を回して笑う時春の姿だった。
画面がゆっくりと暗くなる。
白い文字が現れた。
『TOKIHARU TAKAYAMA — THE JOURNEY CONTINUES(トキハル タカヤマ─彼の旅は続く)』
そして、動画が終わった。
◇
数秒間、誰も何も言わなかった。
テレビの画面には再生終了を告げる表示が現れ、店内には冷蔵庫の低い機械音と、厨房から聞こえる食器の触れ合う音だけが響いていた。時春は手元のシェイクを握ったまま、しばらく画面を見つめていた。そこに映っていたのは確かに自分だったが、同時に、自分がこれまで気づかなかったたくさんのものでもあった。仲間たちの笑顔や、コーチの言葉や、ラリーの照れくさそうな表情。それらが一つの映像として並んでいることが、何だか不思議で仕方なかった。
やがて、隣から小さな声が聞こえた。
「……よかったじゃん」
ラリーだった。
時春が振り返ると、彼は画面から視線を逸らしたまま、少しだけ笑っていた。
「……ラリー」
「何?」
「……めっちゃよかったね」
「うん」
ラリーは静かに頷いた。
「……結構、いい動画だったと思うよ」
その瞬間だった。
「YOOOOOOOOO!」
ジェイクが突然立ち上がった。
「最高じゃねえかああああ!」
「BROOOOOO!」
ノアも両手を突き上げる。
「俺たちのトキが日本のスターになっちまったぜえええ!」
「LET’S GOOOO!」
オーウェンが叫び、テオがテーブルを叩きながら笑い始めた。マイルズは大きな声で笑い、マイクは呆れたような顔をしながらも拍手を送っている。トムも嬉しそうに手を叩き、イーサンは時春へ拳を差し出した。
「やったな、トキ」
「……はい!」
時春は笑顔で拳を合わせた。
エマも立ち上がり、嬉しそうに拍手していた。
「トキ! すっごくよかったよ!」
「ほんと!?」
「うん! 最後のところ、ちょっと泣きそうになっちゃった!」
「ええっ!?」
「私も」
マディソンが笑いながら頷いた。
「すごくいい動画だった。ちゃんとトキらしさが伝わってたよ」
「……ありがと!」
時春は照れくさそうに笑った。
すると、ゾーイがスマートフォンを操作しながら顔を上げた。
「ちょっと待って。もうコメントついてるよ」
「えっ、マジ!?」
時春が身を乗り出す。
画面には、日本語のコメントが次々と並び始めていた。
『こんな日本人の高校生がアメリカで頑張ってるなんて知らなかった!』
『170cmでこのパスセンスはすごい』
『NBA目指して頑張ってほしい!』
『最後に友達へMVPトロフィー渡すの泣ける』
『バスケだけじゃなくて、学校生活も楽しそうでいいね』
時春は、一つひとつを夢中になって読んでいった。
知らない誰かが、日本のどこかで、自分のプレーを見てくれている。遠い海の向こうにいる人たちが、こうして自分の挑戦を応援してくれている。そのことが、これまで感じたことのないような嬉しさを胸の奥へ運んできた。
「……すげえな」
思わず呟く。
隣でラリーが小さく頷いた。
「……うん」
「日本の人たち、見てくれてるんだね」
「そうだね」
時春はしばらくスマートフォンを見つめていた。
そして、ふとラリーへ顔を向けた。
「……ねえ、ラリー」
「何?」
「俺、もっと頑張るよ」
ラリーは少しだけ目を瞬かせた。
「……うん」
「もっと上手くなって、またブレイカーズで勝ちたい。今度はプレーオフでも勝って、もっと先まで行きたい」
時春は笑った。
「それで、いつか本当にNBA行くから!」
ラリーはしばらく時春を見つめていた。
それから、小さくため息をついた。
「……知ってるよ」
「えっ?」
「君、最初に会った日からずっとそう言ってるじゃん」
「……あははっ!」
時春は声を上げて笑った。
そのとき、突然ジェイクがテーブルの上へ身を乗り出した。
「HEY! みんな!」
全員の視線が向けられる。
ジェイクは満面の笑みを浮かべ、片手に持っていたシェイクのグラスを高々と掲げた。
「俺たちのブラザー、トキの未来に乾杯しようぜ!」
「YEAH!」
ノアが真っ先に応えた。
「FOR TOKI!」
マイルズもグラスを持ち上げる。
マイク、トム、イーサン、MJ、オーウェン、テオ。エマもゾーイもマディソンも、次々と飲み物を手に取った。時春は少し驚いたように周囲を見渡していたが、やがて嬉しそうに笑い、自分のバニラシェイクを持ち上げた。
「……みんな、ありがと!」
その瞬間、店内に大きな声が響き渡った。
「CHEEEEERS!」
グラスが軽く触れ合い、笑い声が広がった。
そして、その直後。
「OOOOOI!」
厨房から怒鳴り声が飛んできた。
ダニーだった。
「お前ら! うるせえって言ってんだろうが!」
店内が一瞬、静まり返る。
しかし、ジェイクはまるで反省した様子もなく振り返った。
「ダニー! 今の動画見たか!?」
「見てねえよ!」
「最高だったんだぞ!」
「知るか!」
「トキが日本の希望なんだぞ!」
「だったら日本で騒げ!」
その返事に、店内は再び大爆笑に包まれた。
ダニーは心底疲れたように額を押さえたが、カウンターの向こうから時春が嬉しそうに笑っている姿を見つけると、ほんの少しだけ口元を緩めた。
そして、誰にも聞こえないような声で呟いた。
「……ったく。しょうがねえガキどもだ」
しかし、次の瞬間にはいつもの不機嫌そうな顔へ戻り、大声で追加注文を確認し始めた。
ノアがハンバーガーをもう一つ頼み、ジェイクがフライドポテトを追加する。マイクは呆れながらシェイクを飲み、マイルズは相変わらず豪快に笑っていた。エマとゾーイは動画の感想を話し合い、MJは次にどんな映像を撮ろうかと考えているらしい。ラリーは再びゲームの話を始め、オーウェンがそれに食いついていた。
時春は、そんな仲間たちの真ん中に座っていた。
つい半年前まで、自分はこの国でほとんど何も知らなかった。英語はうまく話せず、友達もおらず、バスケットボールのチームに入れるかどうかさえわからなかった。それが今では、こうして大勢の仲間たちと同じテーブルを囲み、くだらないことで笑い合っている。
日本の人たちに、自分のことを知ってもらえたのは嬉しかった。
いつかNBAへ行きたいという夢も、以前よりずっと大きくなっている。
けれど、今この瞬間に限って言えば、何より嬉しいのは、目の前にいる仲間たちと一緒に笑っていられることだった。
「……トキ!」
不意に、ノアが声を上げた。
「何ぼーっとしてんだよ! お前のポテト、俺が食っちまうぞ!」
「えっ!?」
時春が慌てて顔を上げる。
皿を見ると、ノアの大きな手がすでにフライドポテトへ伸びていた。
「ちょっと! それ俺の!」
「早い者勝ちだろ!」
「ダメだって!」
時春は笑いながら皿を引き寄せた。
マイルズが声を上げて笑い、ジェイクがさらに騒ぎ立てる。ゾーイは呆れたように首を振り、ラリーはいつものようにため息をついた。
窓の外には、クレセントコーストの穏やかな夜が広がっていた。海から吹いてくる風が街路樹を揺らし、通りを走る車のヘッドライトが、店の大きなガラス窓を柔らかく照らしている。遠い日本では、今も誰かが時春の動画を見ているのかもしれない。けれど、そのことを本人が考える暇もないほど、ダニーズの中は賑やかだった。
日本バスケの希望。
いつかNBAを目指す、十六歳の少年。
しかし、ここクレセントベイ・アカデミーでは、彼は今日も変わらず、仲間たちに愛される小さなポイントガードだった。
高山時春の新しい物語は、こうして始まった。
そして今夜もまた、ダニーズは大はしゃぎなのであった。