三月十八日、木曜日。
クレセントベイ・アカデミーの校舎には、ここ数日で新しいポスターがずいぶん増えていた。廊下の掲示板や食堂の入口、学生寮の共用ラウンジに至るまで、ピンクや黄色の紙が貼り出され、色とりどりの文字が生徒たちへ春の行事を知らせている。三月も半ばを過ぎた南カリフォルニアは、すでに昼間になると汗ばむほど暖かかったが、それでも学校には、新しい季節を迎えることへの独特の浮き立った空気が漂っていた。
高山時春がそのポスターに気づいたのは、午前中の授業を終えて体育館へ向かっていたときだった。
『SADIE HAWKINS DANCE — MARCH 27』
「……セイディ・ホーキンス?」
時春は足を止めた。
ポスターには、ダンスをする男女のイラストが描かれていた。周囲には星やハートの装飾が散りばめられ、下の方にはチケットの購入方法や会場となる体育館の名前が書かれている。どうやら学校主催のダンスパーティーらしいのだが、一つだけ意味のわからない説明があった。
『GIRLS ASK THE GUYS!』
「……女の子が、男の子を誘う?」
「YO! リトルマン!」
突然背後から大きな声が響き、時春はびくっと肩を揺らした。振り返ると、そこにはブレイカーズのチームメイト、ノア・レイノルズが立っていた。いつものように片手にスポーツドリンクを持ち、もう片方の手で時春の肩を勢いよく叩いてくる。隣にはマイク・トンプソンもおり、こちらは相変わらず落ち着いた顔で二人を眺めていた。
「何見てんだよ、トキ!」
「あ、ノア。これ、何のイベント?」
「はあ? セイディ・ホーキンス知らねえのか?」
「うん。初めて聞いた」
時春が素直に答えると、ノアは何やら嬉しそうに笑った。
「BRO! だったら教えてやるよ! セイディ・ホーキンス・ダンスってのはな、普段とは逆に女の子が男の子を誘うダンスパーティーなんだよ!」
「へえ!」
「普通のダンスなら男が誘うことも多いだろ? でも、こいつは女子から誘うのが伝統なんだ。誘われた男子は、まあ、嬉しいわけよ!」
ノアは妙に得意げだった。時春はもう一度ポスターを見上げ、なるほど、と頷いた。昨年の八月にアメリカへやってきてから、学校行事にはずいぶん慣れたつもりでいたが、まだまだ知らない文化があるらしい。秋にはホームカミングがあり、冬にはクリスマスの行事があり、春になれば今度は女の子から男の子を誘うダンスがある。アメリカの高校生活とは、本当に次から次へと面白いことが起こるものだった。
そんな時春の横顔を眺めていたノアが、突然にやりと笑った。
「でさあ、トキ」
「ん?」
「お前、そろそろ誰かに誘われんじゃねえの?」
「……えっ?」
「いや、だってよ! お前、今や学校の有名人じゃねえか! 日本のメディアにも出たし、招待大会のMVPだし、女子からの人気もなかなかのもんだろ?」
「な、何言ってんの!?」
時春が慌てて否定すると、ノアはますます嬉しそうになった。大きな体を屈め、時春の顔を覗き込んでくる。その表情には、からかうための口実を見つけた高校生特有の、実に楽しそうな悪意が浮かんでいた。
「OOOOH! 何だよ、その反応! 誰か心当たりでもあんのか!?」
「ないってば!」
「おいおい、隠すなよリトルマン!」
「だから違うって!」
時春は顔を赤くしながら抗議した。しかし、ノアがあまりにもしつこく肩を揺さぶってくるものだから、とうとう我慢できなくなり、思いついたことをそのまま口にしてしまった。
「じゃあノアはどうなの!?」
「…………は?」
「ノアは誰かに誘われたの?」
その瞬間、ノアの笑顔が消えた。
隣にいたマイクが、静かに顔を背けた。
「……おい、トキ」
「え?」
「お前……そういうこと聞くか?」
「えっ!? いや、ノアが先に聞いたんじゃん!」
「俺はお前のことを心配して聞いてんだよ!」
「何の心配!?」
「BRO! 俺とお前じゃ状況が違うだろうが!」
「どう違うの!?」
「うるせええええ!」
突然怒鳴り始めたノアに、時春は目を丸くした。どうやら触れてはいけない問題だったらしいが、そもそも先に話題を持ち出したのはノアである。時春としては、どうして自分が怒られなければならないのか、まったく納得できなかった。
そこで、それまで黙っていたマイクが口を開いた。
「ちなみに、ノアはまだ誰にも誘われてない」
「マイク!!」
「事実だろ」
「今から誘われるんだよ!」
「毎日それ言ってるな」
「BROOOO!」
ノアが頭を抱え、マイクが吹き出した。時春もつられて笑い始めたが、ノアはその様子を見てさらに腹を立てたらしく、今度は時春の首を腕で抱え込み、無理やり体育館の方へ引っ張っていこうとした。
「いいか、リトルマン! お前が先に誘われても絶対調子に乗るんじゃねえぞ!」
「乗らないって! ていうか苦しい!」
「俺だってそのうち誘われるからな!」
「わかった! わかったって!」
廊下には三人の笑い声が響き、通りかかった生徒たちが何事かと振り返った。いつものクレセントベイ・アカデミーの、いつもの賑やかな午前中だった。
しかし、時春はまだ知らなかった。
このセイディ・ホーキンス・ダンスという行事が、ほんの数時間後、自分にとって忘れられない出来事のきっかけになることを。
◇
正午を少し過ぎた頃。
カフェテリアには昼食を取る生徒たちが集まり、いつものように賑やかな話し声が広がっていた。大きな窓から差し込む日差しが床の上に明るい四角形を作り、トレーを持って行き交う生徒たちの足元を照らしている。厨房からは焼きたてのピザとフライドポテトの匂いが漂い、テーブルのあちこちでは、今週の宿題や週末の予定について楽しそうな会話が交わされていた。
時春は、今日もゲームクラブの仲間たちと昼食を取っていた。
ラリー、オーウェン、エイブリー、ニーナ。昨年の秋、クラブ・ラッシュをきっかけに親しくなった面々である。時春自身はバスケットボールの練習が忙しく、ゲームクラブの活動に毎回参加できるわけではなかったが、それでも昼食の席では彼らと一緒に過ごすことが多かった。
今日は、ラリーがマインクラフトの新しいワールドについて説明していた。
「だからさ、あそこに村を作るなら、先に地下を整備しないとダメなんだよ」
「えー、でもラリー。俺、でっかいお城作りたいんだけど」
「作ればいいじゃん」
「いいの!?」
「僕の家から離れたところなら」
「何で!?」
時春が抗議すると、オーウェンが勢いよく笑い始めた。
「お前、前にラリーの倉庫爆破したじゃねえか!」
「あれ事故だって!」
「事故でTNTをあんなに並べる人いる?」
エイブリーが呆れたように尋ねると、ニーナも笑いながら頷いた。時春は必死に弁解したが、ラリーはすでに聞く気がないらしく、何事もなかったようにポテトを一本つまんでいる。
そのときだった。
「……ねえ、ちょっと」
ニーナが、不意に声を潜めた。
「みんな、あっち見て」
その言葉に、オーウェンが何気なく顔を上げた。
そして、動きを止めた。
少し離れたテーブルに、一人の女子生徒が座っていた。
マディソン・リード。
明るい笑顔と社交的な性格で知られる彼女は、クレセントベイ・アカデミーでも人気のある女子生徒だった。時春とは昨年の秋に知り合い、それ以来、廊下で会えば声をかけたり、学校行事で一緒に話したりする間柄になっている。一月の招待大会にも応援に来てくれたし、二月の誕生日会では笑顔で抱きしめてくれたこともあった。
そんなマディソンが、今日は珍しく落ち着かない様子を見せていた。
友人たちと話しながらも、時折カフェテリアの入口へ目を向けている。誰かを探しているようにも見えたが、やがてその視線は、入口ではなく時春たちのテーブルへと移った。
マディソンはもう一度、食堂を見渡した。
エマ・パーカーの姿は、どこにもなかった。
そのことを確認すると、彼女は小さく息を吸い、椅子から立ち上がった。
「……おい」
オーウェンが呟いた。
「……まさか」
エイブリーが目を丸くする。
ニーナはすでに何かを察したらしく、手に持っていたフォークを静かにトレーの上へ戻していた。
マディソンが、こちらへ歩いてくる。
それも、まっすぐに。
「……ねえ、トキ」
「ん?」
ラリーと口論していた時春が顔を上げる。
目の前には、マディソンが立っていた。
「……あっ、マディ!」
時春は嬉しそうに笑った。
「どうしたの?」
マディソンはいつものように微笑んだ。しかし、よく見ると、その笑顔にはほんの少しだけ緊張が混じっていた。彼女は周囲の視線を気にするように一度だけ横を見てから、時春へ向き直った。
「トキ、ちょっといい?」
「……え?」
「少し、話したいことがあるんだけど」
時春は瞬きをした。
「えっと……今?」
「うん。できれば、二人で」
その瞬間。
オーウェンの手から、フォークが落ちた。
小さな金属音がテーブルに響いたが、誰もそれを拾おうとはしなかった。エイブリーは口元を押さえ、ニーナは目を輝かせたまま固まっている。ラリーはゆっくりとメガネを押し上げ、それから、ひどく面倒な未来を予感したような顔で時春を見た。
当の時春だけが、何もわかっていなかった。
「……うん! いいよ!」
彼はあっさりと答え、椅子から立ち上がった。
「どこで話す?」
「中庭でもいい?」
「もちろん!」
マディソンはほっとしたように笑った。それから時春を先導するように歩き始め、二人は並んでカフェテリアの出口へ向かっていった。
残されたゲームクラブの面々は、しばらくその背中を見送っていた。
そして、二人の姿がガラス扉の向こうへ消えたところで、オーウェンが両手で頭を抱えた。
「……BRO」
「……やばい」
ニーナが呟く。
「ついにマディが動いた……!」
「絶対そうだよね!?」
エイブリーが身を乗り出した。
「だって、今日でしょ!? あのポスター貼られ始めてから!」
「セイディ・ホーキンス……!」
オーウェンは信じられないものを見たような顔をしていた。彼らの周囲でも、事情を知る何人かの生徒が二人の行方を気にしている。隣のテーブルではジェイクが口を開けたまま立ち上がり、少し離れた席にいたゾーイも、マディソンの行動を目で追っていた。
「……おい、ラリー!」
オーウェンが振り返る。
「どうすんだよ、トキ!」
「……僕に聞かないでよ」
ラリーは深いため息をついた。
「トキのことなんだから、トキが決めるでしょ」
「いや、そりゃそうだけど!」
ラリーの言葉はもっともだった。しかし、そう言っている本人も、食堂の出口からなかなか視線を戻せずにいた。昨年、マディソンが突然時春の隣へ座り、インスタグラムを交換した日のことを、彼もよく覚えていたのである。
あのときも、時春だけが何もわかっていなかった。
そして今日も、まったく同じだった。
◇
一方、その頃。
エマ・パーカーは、職員室の近くにある廊下を歩いていた。
昼休みの少し前、先生に頼まれて授業用のプリントを整理していたのである。単純な作業だったため、すぐに終わるだろうと思って引き受けたのだが、予想以上に枚数が多く、気づけば昼食の時間がずいぶん過ぎてしまっていた。
「……あーあ、お腹すいた」
エマは小さく笑いながら、腕時計へ目を向けた。
もう十二時を回っている。ゾーイは先に食堂へ行っているはずだった。急がないと昼休みが終わってしまうかもしれない。そんなことを考えながら廊下を曲がったところで、エマは不意に、窓の向こうに見覚えのある後ろ姿を見つけた。
高山時春だった。
小柄な体に見慣れた青いパーカー。少し跳ねた黒い髪。歩きながら相手の方へ顔を向け、楽しそうに何かを話している。遠くからでもすぐにわかるほど、彼の表情はいつも明るかった。
エマは思わず微笑んだ。
しかし、その隣を歩いている人物に気づいた瞬間、足が止まった。
「……え?」
マディソンだった。
二人は並んで中庭へ向かっている。しかも、周りに他の友人たちの姿はない。時春とマディソンだけだった。
エマはしばらく窓の外を見つめていた。
別に、二人が一緒に歩いていること自体は珍しくなかった。マディソンは誰にでも気軽に話しかけるし、時春も相手が誰であろうと楽しそうに会話する。彼らが廊下で立ち話をしていたとしても、何も不思議ではない。
それなのに、胸の奥が小さくざわついた。
今日はセイディ・ホーキンスの話題で学校中が盛り上がっている。女の子が男の子をダンスへ誘う日。朝から何人もの女子生徒がその話をしていたし、すでに誘いを受けた男子が友人たちに冷やかされている光景も見かけた。
そして、マディソンは以前から時春に興味を持っていた。
そのことを、エマは知っていた。
知っていたどころか、ずっと気にしていた。
「……まさか」
小さく呟いたエマは、無意識に窓へ近づいていた。
中庭にはヤシの木や花壇が並び、校舎から伸びる屋根付きの回廊が、その一角を囲んでいる。時春とマディソンは、ちょうど人通りの少ないベンチの近くへ向かっていた。エマのいる廊下からは、少し遠回りをすれば回廊の裏側へ出ることができる。
そこまで考えたところで、エマは自分が何をしようとしているのかに気づいた。
……いやいや、待って。
何を考えてるの、私。
二人が何を話していようと、自分には関係ない。まして、わざわざ後をつけるなんて失礼だ。そんなことは、言われなくてもわかっていた。
けれど。
もう一度窓の外を見ると、マディソンが時春へ向き直るところだった。
「…………」
エマは数秒間、その場に立ち尽くしていた。
それから、誰にともなく言い訳するように、小さく呟いた。
「……ちょっとだけ。ちょっとだけだから」
そして、食堂とは反対の方向へ歩き始めた。
もちろん、本人としては尾行するつもりなどなかった。たまたま中庭を通りたくなっただけであり、たまたま同じ方向へ向かっている友人たちの様子が気になっただけである。そういうことにしておけば、少なくとも自分自身に対しては、まだ何とか説明がつくような気がした。
もっとも、その説明がひどく苦しいものであることも、エマは十分に理解していた。
◇
中庭には、春の陽光が柔らかく降り注いでいた。
花壇には白や黄色の小さな花が咲き、海から吹いてくる風が木々の葉を揺らしている。校舎の向こうからは生徒たちの話し声が聞こえていたが、二人のいる場所は食堂から少し離れているため、比較的静かだった。
マディソンはベンチの前で足を止めると、時春へ振り返った。
「ごめんね、急に呼び出して」
「ううん! 全然大丈夫だよ」
時春は笑顔で答えた。
「どうしたの? 何かあった?」
「うん。ちょっと、聞きたいことがあって」
マディソンは自分の髪を耳にかけた。
いつもなら、こういう場面でも彼女は迷わず話し始めるだろう。誰かと話すことが好きで、気になる相手には自分から近づいていく。昨年の秋、時春の隣へ座り、インスタグラムを交換したときもそうだった。周囲が驚くほど自然に距離を縮め、本人は少しも気後れした様子を見せなかった。
けれど、今日は違っていた。
マディソンは珍しく言葉を探していた。
時春もそれに気づいたらしく、不思議そうに彼女を見つめている。
少し離れた回廊の柱の陰では、エマが息を潜めていた。
ここまで来てしまったことを、彼女はすでに半分ほど後悔していた。二人の姿は植え込み越しによく見えるし、声も思ったよりはっきり聞こえる。どう考えても、友人同士の会話を盗み聞きしていい状況ではない。今すぐ引き返すべきだと思ったが、マディソンが口を開いた瞬間、足が動かなくなった。
「ねえ、トキ」
「ん?」
「今度の土曜日のことなんだけど」
「土曜日?」
「うん。セイディ・ホーキンス」
「あっ!」
時春が頷いた。
「ダンスのやつだよね!」
「そう、それ」
マディソンは小さく笑った。
そして、一度だけ深く息を吸った。
「……トキ、私と一緒にセイディ・ホーキンス行って」
その言葉を聞いた瞬間、エマの胸が大きく鳴った。
やっぱり。
そうだったんだ。
予想していなかったわけではない。むしろ、最初からそうではないかと思っていた。それでも、実際にその言葉を耳にすると、心のどこかがぎゅっと縮まるような感覚があった。
マディソンは素敵な女の子だった。明るくて、優しくて、誰とでもすぐに仲良くなれる。おしゃれで、自分の気持ちを素直に表現できるところも、エマは以前からすごいと思っていた。今日だって、きっと勇気を出して時春を誘ったのだろう。そんな彼女を責める理由なんて、どこにもなかった。
そもそも。
トキは私のものじゃない。
エマは心の中で、そう言い聞かせた。
自分と時春は付き合っているわけではない。何か特別な約束を交わしたこともないし、お互いに好きだと言い合ったわけでもない。仲のいい友達。それが、今の二人の関係だった。だから、マディソンが彼をダンスに誘うのはまったく問題のないことであり、もし時春がその誘いを受けたとしても、自分には何も言う権利などなかった。
……うん。そうだよね。
それに、マディは可愛いし。
トキだって、私なんかより……。
そこまで考えて、エマは思わず唇を噛んだ。
私なんかより、何だというのだろう。もっと可愛い。もっと人気がある。もっと積極的で、一緒にいて楽しい。いくらでも理由は思いついたが、それらはすべて、自分が傷つかないために急いで用意した言葉のような気がした。
もし二人がダンスへ行くことになったら、自分はちゃんと笑って祝福できるだろうか。
もちろん、できるはずだった。
だって友達なのだから。
そう思う一方で、二人が手をつないで踊っている姿を想像した途端、胸の奥にどうしようもなく嫌な気持ちが広がっていく。そんな自分が情けなくて、エマは小さく目を伏せた。
……聞かなきゃよかった。
今さら、そう思った。
けれど、その場を離れることもできなかった。
ほんの数秒の沈黙が、ひどく長く感じられた。マディソンは時春の返事を待っている。時春は少し驚いたように彼女を見つめていたが、やがて困ったように眉を下げた。
「……マディ」
「うん?」
「……ごめん」
エマは顔を上げた。
時春は申し訳なさそうに笑い、それから、ゆっくりと言葉を続けた。
「……一緒に行きたい人がいるんだ」
エマの呼吸が止まった。
マディソンも一瞬、目を丸くした。
「……そっか!」
しかし、彼女はすぐに笑顔を取り戻した。
「わかった!」
「……ほんと、ごめんね」
「いいのいいの! 聞いてみたかっただけだから!」
マディソンは明るく答えた。いつもの彼女らしい、さっぱりとした口調だったが、笑顔の奥にはほんの少しだけ寂しさが見えた。それでも彼女は時春に気を遣わせまいとしたのか、わざと大きく肩をすくめてみせた。
「じゃあ、その子をちゃんと誘わなきゃね!」
「……うん」
「頑張って、トキ!」
マディソンはそう言って、小さく手を振った。
そして、校舎へ向かって歩き始めた。時春は何度か振り返りながら彼女を見送っていたが、マディソンはもう一度だけ笑顔で手を振ると、そのまま廊下の向こうへ姿を消した。
回廊の陰からその様子を見ていたエマは、しばらく動けずにいた。
断った。
トキが、マディを断った。
しかも。
『一緒に行きたい人がいるんだ』
その言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
……誰?
エマは思わず時春へ視線を向けた。
一緒に行きたい人。
それは、いったい誰なのだろう。
学校にはたくさんの女子生徒がいる。時春は誰にでも親切だし、バスケットボールの活躍もあって、最近では以前よりずっと多くの生徒に顔を知られるようになっていた。マディソン以外にも彼に興味を持っている女の子はいるだろうし、時春自身が誰かを好きになっていても、何もおかしくはなかった。
そう考えた途端、今度は別の不安が胸を満たし始めた。
けれど、その不安のすぐ隣には、どうしても抑えきれない期待があった。
……まさか。
いや、でも。
そんな都合のいいこと。
エマは自分の胸元へそっと手を当てた。心臓の鼓動が、さっきよりもずっと速くなっている。
そのとき、時春が突然、両手で頭を抱えた。
「……う~~~~……!」
エマは目を瞬かせた。
中庭の真ん中で、時春が何やら一人で悶えている。
彼は数歩歩いては立ち止まり、空を見上げてからまた俯いた。前髪をぐしゃぐしゃとかき回し、何かを決心したように顔を上げたかと思えば、次の瞬間には再び頭を抱えている。バスケットボールの試合でどんな大きな相手にも立ち向かっていく少年が、今は誰もいない中庭で、たった一人、どうしようもなく落ち着かない様子を見せていた。
エマは思わず口元を押さえた。
……何してるの、トキ。
可笑しくて、少し笑ってしまいそうだった。しかし、その表情を見ているうちに、エマの中で一つの予感が、次第に確かなものへ変わり始めていた。
時春は何度も大きく息を吸った。
そして、ようやく決心したように、ポケットからスマートフォンを取り出した。
◇
エマのスマートフォンが震えたのは、その直後だった。
突然の振動に驚き、彼女は危うく声を上げそうになった。慌ててポケットへ手を伸ばし、画面を確認する。
そこには、見慣れた名前が表示されていた。
『トキ』
「…………っ!」
エマは反射的に、時春の方を見た。
彼は中庭の真ん中でスマートフォンを耳に当てている。
こちらにはまったく気づいていない。
エマは慌てて柱の陰へ身を引いた。まさか、ここで電話がかかってくるとは思っていなかった。しかも、よりによって本人のすぐ近くに隠れているのである。今、自分の声が聞こえてしまったら、どうしてここにいるのか説明しなければならなくなる。
……ど、どうしよう!
電話はまだ震えている。
出なければ不自然だし、出たら出たで、緊張のあまり何を言ってしまうかわからない。エマは数秒間迷った末、そっと通話ボタンを押した。そして、できるだけ普段どおりの声を出そうと努力した。
「と、トキ!?」
『あ、エマ! 今、大丈夫かな?』
「う、うん……大丈夫だけど」
『よかった!』
電話の向こうから、時春がほっとしたように笑う声が聞こえた。
エマは柱の陰から、ゆっくりと顔を出した。
中庭にいる時春は、先ほどよりも明らかに落ち着きを失っていた。スマートフォンを耳へ押し当てながら、その場で小さく足踏みをしている。空いている左手はパーカーの裾をぎゅっと掴み、時折、足元の小石を靴先で軽く蹴っていた。何か話そうとして口を開くのだが、すぐに閉じてしまい、また少し考え込んでいる。
その様子を見た瞬間、エマの胸は一気に熱くなった。
……えっ。
ちょっと。
これは。
もしかしなくても。
『あのさ、エマ』
「う、うん!」
『えっと……その……』
時春は言葉に詰まった。
エマはもう、笑いをこらえるのに必死だった。自分がどこにいるのか知らない時春は、電話の向こうにいる彼女が、その姿を一部始終見ていることなど想像もしていない。普段はあんなに人懐っこくて、初めて会った相手にも気軽に話しかけるくせに、今はたった一つの言葉を伝えるために、ひどく苦労しているようだった。
時春はもう一度、大きく息を吸った。
『あのね、今度のセイディ・ホーキンスなんだけど』
「……うん?」
『ほら、あれってさ、女の子が男の子を誘うやつじゃん』
「うん、そうだね」
『だから、その……俺から言うのって、ちょっと変なのかなって思うんだけど』
エマは唇を噛んだ。
笑ってしまわないようにするためだった。
時春は彼女が黙っていることを気にしたらしく、慌てて言葉を付け加えた。
『あっ、もちろん嫌だったら全然いいんだけど! 無理にとかじゃなくて! その、まだ誰かと行く約束してなかったら、なんだけど……!』
「……うん」
エマの声は、自分でも驚くほど柔らかくなっていた。
時春はしばらく地面を見つめていた。
そして、意を決したように顔を上げた。
『その……俺と一緒に踊ってくれない?』
その瞬間。
エマは、完全に固まった。
もちろん、予感はしていた。時春が誰かに電話をかけようとしたときから、もしかしたらと思っていたし、自分のスマートフォンに彼の名前が表示された時点で、ほとんど確信に近いものが生まれていた。
それでも、実際にその言葉を聞いたときの嬉しさは、想像していたものとはまるで違っていた。
頬が熱い。
胸が苦しい。
顔が勝手に笑ってしまう。
エマは片手で口元を押さえ、柱へ体を預けた。目の前には青い空が広がり、木々の向こうからは生徒たちの話し声が聞こえている。何も特別なことのない木曜日の昼休みだった。それなのに、世界中の何もかもが、ほんの少しだけ違って見えるような気がした。
そして、時春はまだ電話の向こうで返事を待っていた。
『……エマ?』
「……っ、あ! うん!」
『えっと……どう、かな?』
時春は心配そうな声で尋ねた。
エマはもう一度、中庭の方を覗いた。
時春は耳まで赤くなっていた。パーカーの裾を掴んだ手には力が入り、足元の小石は、すでにさっきよりずいぶん遠いところまで転がっている。それでも彼は逃げずに立っていた。自分から誘うのはおかしいかもしれないと悩みながら、それでもエマと踊りたいと思って、勇気を出して電話をかけてくれたのだ。
そんな姿を見てしまったら。
嬉しくないわけがなかった。
けれど。
エマ・パーカーには、少しだけ意地悪なところがあった。
特に、相手がこんなにも可愛らしい反応を見せてくれるときには。
「……あー、そうだなあ」
『……うん?』
「セイディ・ホーキンス、来週の土曜日だよね?」
『うん! 二十七日!』
「そっかあ……」
エマはわざと考え込むような声を出した。
「その日、もしかしたらバイト入るかもしれないんだよね」
『…………えっ』
中庭にいる時春の動きが止まった。
エマは思わず吹き出しそうになった。
『……バイト?』
「うん。まだ決まってないんだけど」
『あっ……そ、そっか』
時春の肩が、目に見えて下がった。
さっきまで何とか平静を保とうとしていた表情が、急にしょんぼりしたものへ変わっている。彼は小石を蹴るのをやめ、空いている手で首の後ろを掻いた。それから、無理に明るい声を出そうとした。
『そっか! じゃあ、しょうがないよね!』
「うん……」
『バイトだったら無理しなくていいし! あの、急に変なこと聞いてごめんね!』
エマはその様子を見て、胸の奥がきゅっとなった。
可愛い。
あまりにも可愛い。
普段はコートの上で堂々と相手へ向かっていくくせに、こういうときには、どうしてそんなに素直な顔をするのだろう。落ち込んでいることを隠そうとしているのに、表情には何もかも出てしまっている。もし今すぐ目の前へ飛び出せるのなら、その頬を両手で挟んで、思いきり笑ってしまいたいくらいだった。
エマはもう少しだけ、からかってみることにした。
「それに、私、ダンスあんまり上手じゃないし」
『えっ!? いや、俺も全然上手くないよ!』
「ほんと?」
『ほんと! 日本であんまりこういうのやったことないし!』
「じゃあ、二人とも踊れないかもしれないね」
『……うん。でも、別に上手く踊れなくてもさ』
時春は少しだけ声を落とした。
『……エマと一緒だったら、楽しいかなって思って』
「…………!」
今度は、エマの方が言葉を失った。
時春は、自分が何を言ったのか気づいていないらしい。むしろ恥ずかしくなったのか、再び俯いてしまい、今度は靴先で地面に何かの線を描き始めている。たった今、とんでもないことを口にしたという自覚は、どうやらほとんどないようだった。
エマは胸元へ手を当てた。
心臓がうるさい。
嬉しくて、どうにかなってしまいそうだった。
……もう、トキ。
そんなこと言われたら。
これ以上、意地悪できないじゃない。
エマは小さく息を吸った。
そして、とうとう我慢できなくなったように笑い始めた。
「……ふふっ」
『……え?』
「ふふふっ! あははは!」
『えっ!? エマ!?』
「ごめん! ごめんね、トキ!」
『えっ、何!?』
エマは笑いながら、目元に浮かんだ涙を指先で拭った。あまりにも嬉しくて、あまりにも可笑しくて、自分でもどうしてこんなに笑っているのかわからなかった。柱の向こうでは時春が完全に混乱しており、スマートフォンを耳に押し当てたまま、何が起こっているのか理解できない顔をしている。
エマはようやく笑いを収めた。
そして、満面の笑みを浮かべた。
「冗談!」
『……えっ!?』
「バイトの話、冗談だよ!」
『……えええっ!?』
「ふふっ! ごめん、ちょっとからかっちゃった!」
時春は口を開けたまま固まっていた。
エマはそんな彼を見つめながら、今度は少しだけ真面目な声で続けた。
「ねえ、トキ」
『……う、うん?』
「本当はね、私も一緒に行きたいって思ってたの」
中庭の風が、時春の髪を軽く揺らした。
彼はしばらく何も言わなかった。
エマは優しく微笑んだ。
「だから……私と一緒に踊って、トキ!」
『…………!』
「セイディ・ホーキンスなんだから、私からもちゃんと誘わせて?」
時春は何度も瞬きをした。
それから、ようやく言葉が出た。
『……ほんと!?』
「ほんと!」
『ほんとに!?』
「もう、何回聞くの!」
『だ、だって……!』
エマは声を上げて笑った。
「もちろん行くよ! トキと一緒に!」
その言葉を聞いた瞬間、時春の表情がぱっと明るくなった。
まるで、ずっと曇っていた空が突然晴れ渡ったようだった。さっきまで下がっていた肩が元に戻り、目が大きく開かれ、どうしても抑えきれない笑みが口元へ広がっていく。けれど、それを悟られるのが恥ずかしかったのか、彼は慌てて口を結び、何でもないことのように頷いた。
『……あ、うん! そっか!』
「ふふっ、うん」
『じゃ、じゃあ……来週の土曜日!』
「うん!」
『体育館で!』
「そうだね」
『えっと……楽しみにしてる!』
時春は少しだけ早口になっていた。
『じゃあ、またあとでね!』
「うん、またあとで!」
『……バイバイ!』
「バイバイ、トキ!」
通話が切れた。
エマはスマートフォンを胸元へ下ろした。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
電話越しに話していただけなのに、まるで長い距離を走ってきたあとのように胸が高鳴っていた。顔が熱い。頬の筋肉が痛くなるほど笑っている。何度落ち着こうとしても、嬉しさが次から次へと湧き上がってきて、どうにも止められそうになかった。
けれど、彼女はまだ気づいていなかった。
本当のお楽しみは、電話を切ったあとに残っていたのである。
◇
時春は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
スマートフォンを耳から離し、画面を確認する。通話は確かに終了していた。もう一度画面を見てから、何となく空を見上げ、今度は自分の足元へ視線を落とした。
エマが、一緒にダンスへ行ってくれる。
そう考えるだけで、胸の奥がくすぐったくなった。
朝、ノアにからかわれたときは、まさか自分がこんなことをするとは思っていなかった。セイディ・ホーキンスは女の子から男の子を誘う日なのだから、普通なら誘われるのを待つべきなのかもしれない。そう考えていたし、そもそも自分が誰かを誘うことになるなんて、ほとんど想像していなかった。
けれど、マディソンから誘われたとき。
時春の頭には、一人の女の子の顔が浮かんでいた。
エマだった。
どうして彼女だったのか、上手く説明することはできなかった。昨年の八月、初めて学校へやってきた頃から親切にしてくれたこと。英語がわからず困っていた自分を何度も助けてくれたこと。試合を応援してくれたこと。プレーオフで負けたあと、落ち込んでいた自分のそばにいてくれたこと。
そうした思い出を、一つひとつ数えることはできた。
しかし、本当はそんな理由を並べる必要などなかったのかもしれない。
エマと一緒にいたかった。
ただ、それだけだった。
そして、彼女も一緒に行きたいと言ってくれた。
時春はスマートフォンをポケットへしまった。
そのまま数秒間、何事もなかったような顔で立っていた。
しかし、やがて口元が緩み始めた。
「……っ」
笑いをこらえようとして、唇を噛んだ。
けれど、どうしても無理だった。
彼は周囲を見渡した。
誰もいない。
少なくとも、時春から見える範囲には誰もいなかった。
それを確認すると、彼は右手をぎゅっと握りしめた。
そして。
「……よっしゃあっ!」
小さく、しかし力いっぱい、ガッツポーズをした。
それはバスケットボールの試合でシュートを決めたときよりも、はるかに控えめな動きだった。声も周囲に聞こえないよう抑えていたし、跳び上がったわけでもない。ただ拳を胸の前で握り、嬉しさを噛みしめるように何度か頷いただけだった。
けれど、本人の表情は、今シーズン一番のシュートを決めたときと同じくらい輝いていた。
「……やった……!」
時春はもう一度、小さく呟いた。
そして、もう一度だけ拳を握った。
その一部始終を。
エマ・パーカーは、柱の陰から見ていた。
「…………っ!」
思わず声が出そうになり、彼女は両手で口を押さえた。
信じられなかった。
あのトキが。
いつも笑顔で、誰とでも仲良くなって、バスケットボールの話になると目を輝かせる、あの高山時春が。
自分とダンスへ行けることになったというだけで、誰も見ていないと思っている中庭で、一人こっそりガッツポーズをしている。
しかも、あんなに嬉しそうな顔で。
エマは柱へ背中を預けた。
胸の奥が、どうしようもなく温かかった。
自分が時春を好きなのは、ずっと前から薄々気づいていた。彼が試合で活躍すれば嬉しいし、落ち込んでいれば心配になる。廊下で偶然会えた日は、それだけで少し楽しくなるし、他の女の子と仲良く話している姿を見ると、どうしても気になってしまう。
けれど、今までの彼女には、一つだけわからないことがあった。
時春が、自分のことをどう思っているのか。
親切にしてくれるのは、彼が誰にでも優しいからかもしれない。楽しそうに話してくれるのは、ただ友達として仲がいいからかもしれない。笑顔を向けてくれるたびに嬉しくなっても、きっと自分だけが特別なのではないのだろうと、何度も考えてきた。
それなのに、今日。
エマは見てしまった。
マディソンの誘いを断った時春の姿を。
一人で悩み、何度も頭を抱えていた姿を。
勇気を出して電話をかけ、緊張しながら自分をダンスへ誘ってくれた姿を。
そして、返事を聞いたあと、誰にも見られていないと思って、心の底から喜んでいた姿を。
エマはそっと目を閉じた。
嬉しくて、泣いてしまいそうだった。
同時に、何だか笑ってしまいそうでもあった。あんなにわかりやすく喜んでくれる人がいるなんて、思ってもみなかった。しかも、その理由が自分なのだと思うと、どうしても頬が緩んでしまう。
「……もう、トキったら」
誰にも聞こえない声で、エマは呟いた。
それから、もう一度だけ中庭を覗いた。
時春はようやく落ち着いたらしく、校舎へ戻ろうとしていた。しかし、歩き始めてからも何度か笑みをこぼし、そのたびに慌てて口元を引き締めている。本人はきっと、誰にも気づかれていないつもりなのだろう。
エマはその様子を眺めながら、くすくすと笑った。
……可愛い。
ほんとに、可愛い。
どうしよう。
私、こんなにトキのこと好きだったんだ。
その気持ちは、もう誤魔化せそうになかった。
マディソンが彼を誘ったとき、胸が苦しくなった理由も。断ったと聞いて、思わず期待してしまった理由も。電話を受けた瞬間、顔が熱くなった理由も。すべて、今ならはっきりとわかった。
エマは時春の姿が校舎の中へ消えるまで、ずっと見守っていた。
やがて彼の背中が見えなくなると、彼女はようやく柱の陰から出た。春の風が髪を揺らし、頬に当たる日差しが心地よかった。昼食を取るには少し遅くなってしまったが、そんなことはもうどうでもよかった。
来週の土曜日。
時春と一緒にダンスへ行く。
その予定が自分の中に生まれたことだけで、今日という日が、急に特別なものになっていた。
エマは歩き始めた。
そして、ふと足を止めた。
さっきの時春のガッツポーズを思い出したのである。
「……ふふっ」
また笑ってしまった。
まったく、困ったものだった。
これでは来週まで、思い出すたびに笑ってしまうかもしれない。教室で彼と顔を合わせたら、きっとさっきの姿が浮かんでしまうだろう。何でもないふりをして話しかけてくる時春を見れば、余計に笑いをこらえられなくなるかもしれない。
けれど、そのことが何だか、たまらなく嬉しかった。
時春は、エマが中庭にいたことなど知らない。
彼女がマディソンとの会話を聞いていたことも、電話をかける前に一人で悶えていた姿を見られていたことも、そして電話を切ったあと、誰にも見られていないと思って小さなガッツポーズをしていたことも、何一つ知らなかった。
一方のエマは、全部知ってしまった。
彼がどれほど緊張していたのか。
どれほど勇気を出してくれたのか。
そして、どれほど嬉しそうに笑っていたのか。
それは今のところ、エマだけが知っている秘密だった。
彼女はその秘密を、誰にも話さずにおこうと思った。少なくとも、しばらくの間は。いつか二人でもっと仲良くなって、こんな日のことを笑いながら話せるようになったなら、そのときに教えてあげてもいいかもしれない。
きっとトキは、顔を真っ赤にして慌てるだろう。
その光景を想像するだけで、また頬が緩んだ。
エマはスマートフォンを取り出し、画面に残っている時春との通話履歴を眺めた。ほんの数分間の電話だった。それだけなのに、彼女の心には、春の陽光よりもずっと温かなものが残っていた。
やがて、食堂の方から昼休みの終わりが近いことを知らせる生徒たちの声が聞こえてきた。
エマはスマートフォンをしまい、軽やかな足取りで校舎へ戻っていった。
その顔には、どうしても隠しきれない笑みが浮かんでいた。
十六歳の高山時春は、この日、人生で初めて、女の子をダンスに誘うための電話をかけた。
そして、十六歳のエマ・パーカーは、この日、自分の好きな男の子が、誰もいない中庭でこっそりガッツポーズをする姿を目撃した。
二人とも、相手への気持ちが胸から溢れそうになっていた。
ただし、一つだけ大きな違いがあった。
時春は、自分の喜びが誰にも知られていないと思っている。
エマは、その喜びを全部知っている。
そして、そんな彼をますます好きになってしまった。
春のクレセントベイ・アカデミー。
セイディ・ホーキンス・ダンスまで、あと九日。
二人の初めての春は、まだ始まったばかりだった。