金曜日。
アメリカの高校に通い始めてから、時春はこの曜日が少し特別なものらしいと気づいていた。朝からみんな妙に機嫌がよく、廊下では「Happy Friday!(花金だ!)」という挨拶が飛び交い、昼休みには週末の予定を話す生徒が増える。先生たちまで、どこか浮き足立っていた。
そして何より、今日は学校中が青と白に染まっている。
CBAのスクールカラーだ。
青いTシャツを着た生徒、頬に白いペイントを施した女子、学校のロゴ入りキャップをかぶった男子。中には、顔の半分を青と白のペイントで塗りつぶしている猛者までいた。
……何事?
朝のカフェテリアで時春が首を傾げていると、向かいに座ったジェイクが両手を広げた。
「IT’S FRIDAY, BABY!(よっしゃあ! 金曜日だぜぇ!)」
「……イエス?」
「GAME DAY!(今日は試合の日だ!)」
「ゲーム?」
「FOOTBALL!(アメフトだよ!)」
フットボール。
その単語には聞き覚えがあった。そういえば先日、ジェイクが猛烈な勢いで何かを話していたときにも、その言葉が出てきた気がする。
フライデー。フットボール。オーサム。
……あっ。
まさか。
「Toki! You ready for tonight?(トキ! 今夜の準備はバッチリか!?)」
「……トゥナイト?」
「Yeah! The game! You said you were coming!(そうだよ! 試合だって! お前も来るって言ってただろ!)」
「…………」
時春は固まった。
言った。
確かに言った。
というか、あのときは何もわからず「イエス!」と返しただけなのだが、どうやら知らないうちに今夜の予定が決まっていたらしい。
……まあ、いいか。
アメリカの高校でアメフト観戦。
むしろ、ちょっと楽しそうじゃないか。
「オーケー! アイム、レディ!」
「THAT’S MY BOY!(そうこなくっちゃな! さすがトキだぜ!)」
ジェイクが嬉しそうに拳を突き出してきた。時春も拳を合わせる。
そこで、ふと不安になった。
……あれ?
フットボールって、サッカーじゃないよな?
ここ、アメリカだし。
たぶん、アメフトだよな?
◇
放課後、時春は寮の部屋へ戻ると、さっそくラリーに声をかけた。
「ラリー!」
「……What?(……何?)」
ラリーはいつものようにパソコンの前に座っていた。画面にはゲームのメニューが映っている。どうやら、今から遊び始めるところらしい。
「トゥナイト! フットボール!」
「……Okay?(……それで?)」
「キャン・ユー、カム? ウィズ・ミー!」
時春は両手を動かしながら、必死に説明した。今夜、アメフトの試合がある。一緒に見に行こう。たぶん、そんな感じの英語になっているはずだ。
ラリーは数秒間こちらを見つめ、それから鼻で笑った。
「……No thanks.(……遠慮しとくよ)」
「えっ?」
「Not interested.(興味ないね)」
「ホワイ!?」
「Because I have better things to do than watch a bunch of jocks run into each other for two hours.(筋肉バカどもが二時間もぶつかり合うのを眺めるより、僕にはもっと有意義な時間の使い道があるんでね)」
「…………」
長い。
それでも、ところどころは聞き取れた。
ジョックス。ラン。トゥー・アワーズ。
……二時間走る?
いや、違うか。
「ジョック?」
時春が聞き返すと、ラリーは椅子をくるりと回した。
「Jocks. You know, sports guys. Big muscles, tiny brains.(ジョックさ。ほら、運動部の連中だよ。筋肉は山ほどあるくせに、脳みそは豆粒サイズのね)」
そう言って、わざと大げさに力こぶを作る。
「‘Bro! Let’s go! Football!’(『よう、兄弟! 行こうぜ! アメフト最高ぉ!』)」
「…………」
時春は思わず笑ってしまった。
似ている。
めちゃくちゃジェイクに似ている。
「You know what I mean?(僕の言いたいこと、わかるだろ?)」
「アー……メイビー!」
「Of course you don’t.(まあ、君にはわからないだろうね)」
ラリーは呆れたように息を吐いた。
どうやらジョックというのは、アメリカの学校でよく使われる、運動部の人気者タイプを指す言葉らしい。もっとも、ラリーが使うときには、あまりいい意味ではないようだ。
筋肉ばかりで頭の中身がない。
そんな偏見が、彼の中にはあるらしい。
……いや、待って。
俺も運動部なんだけど。
「ラリー。アイ、プレイ、バスケットボール!」
「Yeah. I’m painfully aware.(ああ。嫌ってほど知ってるよ)」
「……?」
「You’re an exception, Toki. Unfortunately.(君は例外なんだ、トキ。実に残念なことにね)」
「……エクセプション?」
例外?
時春が意味を考えていると、ラリーはメガネを押し上げた。
「Look, I just don’t like that whole scene. Loud people, school spirit, everyone screaming like it’s the Super Bowl. No thanks.(いいかい、僕はああいうノリが嫌いなんだ。騒がしい連中に、くだらない愛校精神。まるでスーパーボウルでも始まるみたいに全員で絶叫してさ。勘弁してほしいね)」
全部はわからなかったが、どうやら大人数で騒ぐ雰囲気そのものが苦手らしい。
確かに、ラリーはそういうタイプだ。寮のラウンジが賑やかなときも、たいてい部屋でゲームをしている。
「バット……ファン!」
「You don’t know that. You’ve never been.(君、行ったこともないくせに。楽しいかどうかわかるわけないだろ)」
「……オーケー!」
「Seriously, that’s your argument?(マジで? それが君の反論なの?)」
ラリーは肩をすくめ、再びモニターへ向き直った。
「Have fun, dude. Just don’t come back yelling about touchdowns.(まあ、楽しんできなよ。ただし、帰ってきてタッチダウンがどうとか騒ぐのはやめてくれよ)」
「タッチダウン!」
「……Oh my god.(……まったく、君ってやつは)」
時春は笑いながらリュックを背負った。
まあ、仕方ない。無理に連れていっても楽しめないだろう。
「シー・ユー、ラリー!」
「Yeah, see you.(ああ、またね)」
ドアを開けようとしたところで、ラリーが声をかけた。
「Hey, Toki.(ああ、そうだ、トキ)」
「ん?」
「You told Ben you’re going out, right?(ベンには外出するって伝えたんだろうね?)」
「あっ!」
そうだった。
寮には門限がある。週末に外出するなら、行き先や帰る時刻をきちんと伝えておかなければならない。
時春は慌ててスマートフォンを取り出した。
「サンキュー! ラリー!」
「……You’re welcome, I guess.(……どういたしまして。まあ、別にいいけどさ)」
ラリーは少し呆れたように笑った。
時春はベンに今夜の予定を伝え、許可をもらってから部屋を出た。
危なかった。また何も考えずに出かけるところだった。
……あれ?
もしかして、ラリーって結構面倒見がいい?
いや。それを本人に言ったら、絶対に嫌がるだろうな。
◇
午後六時過ぎ。CBAのアメリカンフットボール場へ向かう道を歩きながら、時春はすでに圧倒されていた。
「……うわ、マジか」
人が多い。
学校の敷地内だというのに、まるでお祭り会場のようだった。
青と白の服を着た生徒たちが次々とスタジアムへ向かい、その周囲には保護者や地域の人々まで集まっている。小さな子供が学校の旗を振り、大人たちは飲み物を片手に談笑していた。
入口の近くには軽食の売店が並び、ホットドッグやポップコーンの匂いが漂ってくる。遠くからは、ドラムの重低音と金管楽器の鋭い響きが聞こえていた。マーチングバンドが演奏しているらしい。
……すっげえ。
高校の部活動の試合だよね?
これ、本当に高校の試合だよね?
「TOKI! OVER HERE!(トキィ! こっちだこっち!)」
人混みの向こうから、聞き慣れた大声がした。
ジェイクだ。
青いCBAのTシャツに白いタオルを首へ巻き、頬には学校のロゴまで描いている。その隣にはゾーイとエマがいた。
ゾーイは黒いジーンズに青いトップスという格好で、スマートフォンを構えて周囲の様子を撮影している。
エマは白いTシャツに青いデニムのショートパンツ。髪をゆるくまとめ、学校のロゴ入りキャップをかぶっていた。
……可愛い。
いや、毎回思うけど、何を着ても似合うな、この子。
「Hey, Toki!(やっほー、トキ!)」
エマが笑顔で手を振る。
「ハロー!」
「You made it!(来てくれたんだね!)」
「イエス!」
ジェイクが時春の肩を抱いた。
「Dude! You’re gonna LOVE this!(おいトキ! お前、絶対ハマるぜ!)」
「オーケー!」
「Have you ever watched American football before?(アメフトの試合って、今まで見たことあるか?)」
「アー……オン、TV!」
時春は少し考えて答えた。
アメフトは日本にいた頃、テレビや動画で何度か見たことがある。ただ、ルールを完璧に理解しているかと聞かれれば、正直かなり怪しい。
ボールを持って走ったり、投げたり、相手を倒したりするスポーツ。
その程度の認識である。
「Alright! First lesson!(よっしゃ! じゃあ、まずは基本からだ!)」
ジェイクが得意げに人差し指を立てた。
「Touchdown, six points. Field goal, three points. You got that?(タッチダウンは六点! フィールドゴールは三点! ここまではオーケーか?)」
「タッチダウン、シックス! フィールドゴール、スリー!」
「YES!(そのとおり!)」
ジェイクは満足そうに頷いた。
するとゾーイが、呆れたように口を挟む。
「That’s not even close to enough to explain football.(それだけでアメフトを説明したつもり? 全然足りないんだけど)」
「Hey, it’s a start!(おいおい、まずは第一歩だろ!)」
「He’s gonna be so confused.(トキ、絶対混乱するわよ)」
エマが笑った。
「Don’t worry, Toki. We’ll explain!(心配しないで、トキ! 私たちが教えてあげるから!)」
「サンキュー!」
時春は元気よく返事をした。
……うん。
何とかなるだろ。今までだって、何とかなってきたんだから。
◇
スタジアムに足を踏み入れた瞬間、時春は思わず立ち止まった。
「……うおおおお……!」
照明に照らされた鮮やかな緑色のフィールド。その両端には大きなゴールポストが立ち、白いラインと数字が等間隔に並んでいる。
フィールドの左右には観客席が広がり、片側は青と白、もう片側は相手校の色で埋め尽くされていた。
中央では、大勢の選手たちがヘルメットとショルダーパッドを装着してウォーミングアップをしている。
……でかっ。
何だ、あいつら。本当に高校生か?
肩幅がおかしい。腕が太い。太ももなんて、時春の胴体くらいありそうな選手までいる。
いや、それはさすがに盛ったか。
でも、とにかくでかい。
「Those guys are huge, right?(あの選手たち、すっごく大きいでしょ?)」
エマが笑いながら尋ねてくる。
「イエス! ベリー、ビッグ!」
「Hahaha!(あははは!)」
時春はフィールドに目を奪われた。
日本の学校でも、ラグビー部やアメフト部の選手を見たことはある。だが、ここまで大勢の体格のいい選手が一か所に集まっている光景は初めてだった。
しかも、スタンドの熱気がすごい。
応援席では生徒たちが大きな旗を振り、声を合わせている。
「LET’S GO, BREAKERS!(行け行け、ブレイカーズ!)」
「LET’S GO, BREAKERS!(行け行け、ブレイカーズ!)」
何百人もの観客が、同じ掛け声を繰り返す。
ブレイカーズ。
CBAのスポーツチームの名前だ。バスケだけではない。アメフトも、野球も、ほかの競技も、みんな同じ名前を背負っているらしい。
時春はその掛け声を聞きながら、少しだけ胸が熱くなった。
いつか、自分も。
あの体育館で、ブレイカーズのユニフォームを着てプレーできるだろうか。
……いや。
今はアメフトだ!
「トキ! こっち!」
エマに手招きされ、時春は観客席へ向かった。
四人は生徒たちが集まるエリアに腰を下ろした。周囲には同じ学校の生徒が何十人もいて、ジェイクはそのうちの何人かと早速ハイタッチしている。
……こいつ、知り合い多すぎだろ。
エマも次々と声をかけられていたが、ジェイクの勢いはまた別物だった。まるで、この場にいる全員が友達なのではないかと思うほどだ。
「Hey, Toki!(おい、トキ!)」
ジェイクが突然立ち上がった。
「Stand up!(立て立て!)」
「えっ?」
「STAND UP!(立つんだって!)」
「オ、オーケー!」
時春も慌てて立ち上がる。
すると、フィールドの向こうから大きな歓声が上がった。
マーチングバンドの演奏が始まり、ドラムが鳴り響く。トランペットが高らかに旋律を奏で、その音楽に合わせて青と白のユニフォームを着た選手たちがフィールドへ駆け出してきた。
「WOOOOOOOO!!(うおおおおお!!)」
スタジアムが揺れた。
いや、本当に揺れたような気がした。
周囲の生徒たちが一斉に立ち上がり、大声を上げる。ジェイクは両腕を突き上げて叫び、ゾーイは拍手し、エマは笑顔で手を振っていた。
時春はその光景を見て、思わず笑った。
何だこれ。
めちゃくちゃ楽しいじゃん。
まだ試合始まってないのに!
◇
試合が始まると、時春の興奮はさらに加速した。
まず、音がすごい。
ヘルメット同士がぶつかる乾いた衝撃音。スパイクが人工芝を蹴る音。選手たちの叫び声。そして、プレーが終わるたびに巻き起こる観客の歓声。
テレビで見ていたときとは、迫力がまるで違った。
「うおおおっ!」
時春は思わず身を乗り出した。
青いユニフォームの選手がボールを抱えて走る。相手のディフェンスが迫り、一人をかわしたところへ、もう一人がぶつかってくる。それでも選手は前へ進んだ。
「GO! GO! GO!(行け行け! そのまま行けぇ!)」
ジェイクが叫ぶ。
時春もつられて立ち上がった。
「ゴー! ゴー! ゴー!」
次の瞬間、選手は相手に捕まり、激しい音を立てて倒れた。
「うわっ!」
時春は思わず肩をすくめた。
……痛そう!
ところが選手は、何事もなかったかのように立ち上がり、仲間と軽く手を叩き合っている。
……強っ。
あれが普通なのか。アメリカの高校生、フィジカルどうなってんの?
「Fourth down!(フォースダウンだ!)」
ジェイクが叫んだ。
フォース・ダウン。
四回目?
時春が首を傾げていると、ゾーイが指を四本立てて説明してくれた。
「Four chances to get ten yards.(十ヤード進むために、四回チャンスがあるの)」
「テン・ヤーズ?」
「Yeah. If they don’t make it, the other team gets the ball.(そう。進めなかったら、基本的に相手チームの攻撃になるってこと)」
「オー……!」
なるほど。
攻撃側には四回のチャンスがあり、その間に十ヤード進めれば、また攻撃できるらしい。
……たぶん。
ルールは何となくわかった。ただし、今どちらが何回目の攻撃をしているのかは、さっぱりわからない。
時春はフィールドと電光掲示板を交互に見つめた。
数字。矢印。時間。
情報が多い。
バスケットボールなら、スコアもファウルも残り時間もすぐに理解できるのに、アメフトになると途端に難しい。
まるで英語の授業みたいだ。
しかし、それでも面白かった。
パスが通れば観客が沸き、タックルが決まれば歓声が上がる。いいプレーが出るたびに、周囲の生徒たちが飛び上がって喜んでいた。
そして第一クォーターの終盤。
CBAのクォーターバックがボールを受け取った。相手の選手たちが一斉に迫る中、彼は一歩下がり、右腕を大きく振った。
ボールが夜空へ舞い上がる。
「……おっ!」
時春の目が、その軌道を追った。
遠くを走っていた青いユニフォームの選手が、速度を落とさず両腕を伸ばす。
パシッ!
ボールが手の中に収まった。
そのまま、選手はエンドゾーンへ走り抜ける。
「TOUCHDOWN!!(タッチダァァァウン!!)」
スタジアムが爆発した。
「うおおおおおおっ!!」
時春も立ち上がって叫んだ。
「やっべえええ!!」
「LET’S GOOOO!!(よっしゃあああ!!)」
ジェイクが時春の肩を抱き、二人で跳ねる。ゾーイも笑顔で拍手し、エマは両手を上げて喜んでいた。
何がすごいって、会場全体が一つになっているのだ。
知らない生徒同士がハイタッチをし、後ろの席のおじさんまで立ち上がって叫んでいる。マーチングバンドが勝利を祝うように演奏を始め、応援席では何本もの旗が揺れていた。
時春は思わず笑った。
何だこれ。
めちゃくちゃアメリカじゃん!
◇
ハーフタイム。
時春はようやく席に座り、買ってきたレモネードを一口飲んだ。
「……ぷはぁ!」
冷たくて、甘い。日本で飲むレモネードより砂糖が多い気がするが、今はそれが妙に美味しかった。
「Having fun?(楽しんでる?)」
隣に座ったエマが尋ねてくる。
「イエス! ベリー、ファン!」
「I can tell!(見ればわかるよ!)」
エマはくすくすと笑った。
「You were screaming so loud!(トキ、さっきすっごい大声で叫んでたもん!)」
「えっ?」
「Like, REALLY loud!(もう、ほんっとにすごかったんだから!)」
そう言って、時春がさっき叫んでいたときの真似をする。
「WAAAAAH!(うわああああ!)」
「ちょっ!」
時春は思わず笑った。
そんな声を出していたのか。
……出してたか。たぶん、出してた。
だって、本当に楽しかったのだから。
「Football is amazing!(アメフトって最高だね!)」
時春は覚えたばかりの英語で言った。
「ベリー、ベリー、アメイジング!」
「Hahaha!(あははは!)」
エマは笑いながら頷き、何気ない調子で言った。
「You’re so cute, Toki.(トキって、ほんと可愛いね!)」
「…………」
時春の動きが止まった。
……ん?
キュート?
今、キュートって言った?
「……キュート?」
「Yeah!(うん!)」
エマはにっこり笑った。
「You’re like a little kid at Disneyland!(ディズニーランドに来た小さい子みたいなんだもん!)」
「…………」
リトル・キッド。ディズニーランド。
……え?
俺が?
可愛い?
時春は思わず自分を指差した。
「ミー?」
「Yes, you!(そう、トキのこと!)」
「……ミー、キュート?」
「Hahaha! Yeah!(あはは! そうだよ!)」
エマは楽しそうに笑った。
可愛い。
エマに、可愛いと言われた。
……これ、褒められてるよな?
いや、でもリトル・キッドとも言われたぞ。小さい子供。つまり、子供みたいにはしゃいでいたということか。
……うん。
たぶん、そういう意味だ。
そうだよな。危ない危ない。変な勘違いをするところだった。
時春が一人で納得していると、正面に座っていたジェイクとゾーイが妙な顔をしていた。
ジェイクは口元を押さえ、何か言いたそうにしている。ゾーイはそんなジェイクを肘で小突いていた。
……何だ?
また変なことを考えているのか、こいつら。
「What?(何だよ?)」
時春が尋ねると、ジェイクは両手を上げた。
「Nothing! Nothing, bro!(いやいや! 何でもねえって、兄弟!)」
「…………」
絶対に何かあるだろ。
だが、今はそれどころではなかった。
フィールドではマーチングバンドが隊列を組み直し、その向こうではチアリーダーたちが一斉にポンポンを振り始めている。
「……おおっ!」
時春はまた身を乗り出した。
すごい。何だ、あの動き。めちゃくちゃ揃っている。
エマがその様子を見て、また笑った。
「See? Cute.(ほらね? やっぱり可愛い!)」
「…………」
いや、だから、何で俺がキュートなんだよ!
◇
後半に入ると、試合はさらに白熱した。
CBAが得点すれば、相手校もすぐに取り返す。大きなタックルが決まるたびに観客席から歓声が上がり、時間が進むにつれて応援の声もどんどん大きくなっていった。
ジェイクはすっかり興奮し、ほとんど座っていない。ゾーイは何度も「Sit down!(座りなさいよ!)」と言っていたが、当然ながら効果はなかった。
時春も、いつの間にかジェイクと一緒になって叫んでいた。
「ゴー! ゴー!」
「COME ON!(行けぇぇ!)」
「レッツゴー、ブレイカーズ!」
「THAT’S IT, TOKI!(その調子だぜ、トキ!)」
もう、英語がわかるかどうかなど、どうでもよかった。
いいプレーが出れば喜び、失敗すれば悔しがる。それだけで、周囲の生徒たちと同じ気持ちになれる。
バスケットボールの試合でも、似たような瞬間はある。観客の歓声が大きくなり、コートの空気が変わる。誰もが次の一本に夢中になる、あの感覚だ。
ただし、アメフトは人数も迫力も桁違いだった。
第四クォーターの残り時間が少なくなった頃、CBAは三点差で負けていた。
電光掲示板を見上げた時春は、思わず拳を握る。
残り時間は、あとわずか。
ここで得点できなければ負ける。
「Come on, come on……(頼む……頼むぞ……!)」
ジェイクが祈るように両手を組んでいた。ゾーイも真剣な顔でフィールドを見つめ、エマは時春の隣で小さく「Let’s go(頑張って……!)」と呟いた。
時春も息を呑んだ。
クォーターバックがボールを受け取る。
右へ動く。
相手のディフェンスが迫る。
投げるか。走るか。
その瞬間、クォーターバックが大きく腕を振った。
ボールが右サイドへ飛ぶ。
「……!」
時春の視線が、その軌道を追いかける。
走り込んできた選手が、ぎりぎりのところでボールをキャッチした。
そして、そのままエンドゾーンへ飛び込む。
一瞬の静寂。
次の瞬間。
「TOUCHDOOOOOOWN!!(タッチダァァァァウン!!)」
「うおおおおおおおお!!」
時春は思わず両腕を突き上げた。
ジェイクも叫び、ゾーイも立ち上がる。エマは嬉しそうに笑い、両手を叩いていた。
スタジアム全体が、まるで地震でも起きたかのような大騒ぎになった。
その後、CBAは追加点も決め、見事に逆転勝利を収めた。
試合終了の合図が鳴った瞬間、観客席は再び大歓声に包まれた。
時春はしばらく立ち尽くし、フィールドを見つめた。
「……すっげえ」
気づけば、それしか言えなかった。
アメリカの高校の金曜日。
フライデーナイト・フットボール。
聞いたことはあった。でも、これほどのものだとは思わなかった。
ただの高校スポーツの試合ではない。
学校全体のお祭りなのだ。
選手も、生徒も、先生も、保護者も、地域の人たちも、みんな一緒になって同じチームを応援する。
時春は興奮したまま、青いユニフォームの選手たちを見つめた。
……いいな。
こういうの。
いつか自分も、あんなふうに応援される選手になりたい。
その気持ちが、ほんの少しだけ胸の奥で膨らんだ。
◇
試合が終わり、四人はスタジアムの外へ出た。
夜のカリフォルニアは、昼間とはずいぶん雰囲気が違っていた。
日差しはすっかり消え、空には星がいくつか見える。街灯に照らされたヤシの木が風に揺れ、少し涼しくなった空気が火照った頬を冷ましてくれた。
時春はまだ興奮が収まらず、何度も試合の最後のプレーを真似していた。
「ジェイク! ラスト! ラスト・タッチダウン!」
「DUDE, I KNOW!(だよな! あれはヤバかったぜ!)」
ジェイクも同じように腕を振り上げる。
「That throw was INSANE!(あのパス、マジで神がかってたよな!)」
「イエス! アメイジング!」
二人は顔を見合わせて笑った。
ゾーイが呆れたように首を振る。
「You two are exhausting.(あんたたち、ほんと騒がしいんだから)」
「What? We just won!(はあ? 勝ったんだぜ!?)」
「I know, Jake. I was there.(知ってるわよ、ジェイク。私もそこで見てたんだから)」
そのやり取りを聞いて、エマも楽しそうに笑っていた。
すると、ジェイクが突然両手を叩いた。
「Alright! Who’s hungry?(よっしゃ! 腹減ったやつ、手ぇ上げろ!)」
「……ハングリー?」
時春は反応した。
お腹が空いたか、ということだろう。
確かに、あれだけ叫んで騒いだのだから、少し小腹が空いてきた。
「アイム、ハングリー!」
「That’s what I’m talking about!(よっしゃ! そうこなくっちゃ!)」
ジェイクは満足そうに頷いた。
「Let’s go to Danny’s!(ダニーズに行こうぜ!)」
「ダニーズ?」
時春が聞き返すと、エマが笑顔で説明してくれた。
「Danny’s Diner! It’s a restaurant near here.(ダニーズ・ダイナー! この近くにあるレストランだよ!)」
「レストラン?」
「Yeah! Burgers, fries, milkshakes. Really good food!(そう! ハンバーガーにポテト、ミルクシェイクもあるの! すっごく美味しいんだよ!)」
バーガー。フライドポテト。ミルクシェイク。
時春の目が輝いた。
おお。めちゃくちゃアメリカだ。
「And Emma works there!(しかもエマ、そこで働いてるんだぜ!)」
ジェイクが付け加えた。
「……えっ?」
時春はエマを見た。
「エマ、ワーク?」
エマが頷く。
「Yeah! I work there part-time.(うん! そこでアルバイトしてるんだ!)」
「パートタイム……」
アルバイト。
……えっ。
エマ、バイトしてるの?
「そうなの! 実はね、ダニーのお店で働いてるんだ」
「マジ!?」
「うん! 週に何回かだけどね」
エマは少し照れくさそうに笑った。
なるほど。だから、授業が終わると時々急いで帰っていたのか。
今まで何度か、エマが「用事あるから!」と言ってそそくさと帰っていくことがあった。人気者だし、何かのクラブ活動でもしているのかと思っていたが、どうやらアルバイトだったらしい。
「今日は試合があったから遅めなんだけど、ちょっとだけお店手伝うの!」
「へえ〜!」
時春は素直に感心した。
学校に通いながら、アルバイトもしている。数学は苦手だと言っていたが、普段の授業ではかなり優秀だ。
何だか、すごいな。
俺なんて、英語の宿題だけで精いっぱいなのに。
「Come on! You’ll love it!(行こっ! トキも絶対気に入るよ!)」
エマが笑顔で手招きした。
時春も大きく頷いた。
「レッツゴー!」
◇
ダニーズ・ダイナーは、学校から少し離れた通り沿いにあった。
白い壁に赤い屋根。大きなガラス窓にはネオンの文字が光り、店先には数台の車が停まっている。
『DANNY’S DINER』
赤い看板が、夜の街に浮かび上がっていた。
「……おおっ」
時春は思わず足を止めた。
アメリカン・ダイナー。
映画やドラマで見たことがある、あのレストランだ。
ガラス越しには赤いソファとカウンター席が見える。店内には暖かなオレンジ色の照明が灯り、壁には古いアメリカのポスターやナンバープレートが飾られていた。
何というか、めちゃくちゃ雰囲気がある。
ジェイクが勢いよくドアを開けた。
カランカラン。
入口のベルが鳴る。
「DANNY! WE’RE HERE!(ダニィィ! 来たぜぇ!)」
「Jake! Not so loud!(ジェイク! 声が大きいってば!)」
ゾーイがすかさず注意した。
しかし、すでに遅かった。
カウンターの奥にいた男性が、ゆっくりと顔を上げる。
がっしりした体格。短く刈った髪に、少し無精ひげの残る顎。黒いTシャツの上からエプロンをつけ、片手には布巾を持っている。
年齢は四十代くらいだろうか。眉間には深い皺が寄っていた。
「……Harris.(……ハリス)」
低い声だった。
「Inside voice.(店ん中じゃ静かにしろ)」
「Hey, Danny! Good to see you too!(よう、ダニー! 俺も会えて嬉しいぜ!)」
ジェイクはまったく気にしていない。
男性は大きくため息をついた。
「Of course it is.(……そりゃよかったな)」
……怖っ。
何だ、この人。めちゃくちゃ機嫌が悪そうなんだけど。
時春は思わずエマの方を見た。エマは楽しそうに笑っている。
「Hi, Danny!(ただいま、ダニー!)」
「Parker. You’re late.(パーカー。遅刻だぞ)」
「By, like, five minutes!(たった五分くらいでしょ!)」
「Six.(六分だ)」
「Oh my god!(もう、細かいなあ!)」
エマが笑うと、男性は無表情のまま壁の時計を指差した。
「Clock’s right there.(時計ならそこにある)」
……やっぱり怒ってない?
時春が少し身構えていると、エマが小声で教えてくれた。
「Don’t worry. He’s not mad.(心配しないで。怒ってないから)」
「……ノット・マッド?」
「うん! 怒ってないよ!」
「……リアリー?」
「Really!(ほんとだって!)」
エマはにっこり笑った。
……いや、どう見ても怒っているだろ。
眉間に皺は寄っているし、声も低い。ジェイクのことを、すごい目で見ている。
それでもエマは気にする様子もなく、カウンターへ向かった。
「Danny, this is Toki! He’s my friend from school!(ダニー、紹介するね! こっちはトキ! 学校のお友達なの!)」
男性の視線が時春へ向く。
「……Toki?(……トキ?)」
「あっ!」
時春は慌てて背筋を伸ばした。
「ハ、ハロー! アイム、トキハル・タカヤマ! ナイス・トゥ・ミート・ユー!」
精いっぱいの挨拶。
男性は数秒間、時春を見つめた。
そして。
「……Danny.(……ダニーだ)」
「…………」
それだけ?
自己紹介、短っ。
「First time here?(初めてか?)」
「イ、イエス!」
「Sit anywhere.(好きなとこ座れ)」
「オーケー!」
ダニーはそれだけ言うと、またカウンターの奥へ戻っていった。
……怖い。
怖いけど、まあ、怒られなかったから大丈夫か。
時春がほっとしていると、ジェイクが肩を叩いてきた。
「Don’t worry, bro. That’s just Danny.(気にすんなって、兄弟。ダニーはいつもあんな感じだ!)」
「……オーケー」
なるほど。どうやら、あれが通常運転らしい。
◇
四人は窓際のボックス席へ向かった。
赤いビニール張りのソファは少し柔らかく、腰を下ろすと小さく音がした。テーブルにはメニューと紙ナプキン、ケチャップとマスタードのボトルが並んでいる。
窓の外では、車がゆっくりと通り過ぎていた。
店内には古いロック音楽が流れ、カウンター席では年配の男性がコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。少し離れた席には、試合帰りらしいCBAの生徒たちもいた。
どこか懐かしい雰囲気だった。
……いや、初めて来たんだけど。
でも、何だか落ち着く。
「Alright, Toki! What do you want?(よーし、トキ! 何食う?)」
ジェイクがメニューを広げた。
時春も覗き込む。
バーガー、サンドイッチ、パンケーキ、ステーキ、サラダ。そして、何種類ものミルクシェイク。
……おお。
全部美味しそうだ。
というか、写真が全部でかい。
どうしてアメリカの食べ物は、こうも堂々としているのだろう。
「The burgers are really good here.(ここのハンバーガー、すっごく美味しいんだよ!)」
エマが隣から教えてくれた。
「You should try one!(ぜひ食べてみて!)」
「バーガー! イエス!」
「And fries?(ポテトもつける?)」
「イエス! フライズ!」
「Nice!(いいね!)」
時春は頷いた。
バーガーにポテト。完璧だ。
アメリカに来たら、一度はちゃんとしたダイナーのハンバーガーを食べてみたかった。
そして、実はもう一つ、どうしても注文したいものがあった。
ミルクシェイク。
しかも、バニラ味。
時春は昔から、バニラシェイクが大好きだった。甘くて、冷たくて、濃厚で、バスケの練習後に飲むと最高なのだ。
チョコレートも悪くない。ストロベリーも美味しい。
でも、やっぱりバニラ。
何だかんだで、王道が一番だと思っている。
「アー……」
時春はメニューの一角を指差した。
「バニラ・シェイク!」
エマが顔を上げる。
「Vanilla shake?(バニラシェイク?)」
「イエス!」
「Oh! You like vanilla?(あっ、バニラが好きなの?)」
「イエス! アイ、ラブ、バニラ!」
時春は自信満々に答えた。
エマは少し驚いたあと、楽しそうに笑った。
「That’s cute!(可愛い!)」
「…………」
まただ。
またキュートって言った。
バニラシェイクが好きだと、可愛いの?
何で?
チョコレートだったら格好いいのか。ストロベリーだったらどうなるのか。
意味がわからん。
時春が真剣に悩んでいると、向かいに座るジェイクがにやりと笑った。
「Vanilla, huh?(バニラねえ?)」
「……ホワット?」
「Nothing, nothing!(いやいや! 何でもないって!)」
その顔、絶対に何かあるだろ。
時春は少し睨んだが、ジェイクは楽しそうにメニューへ視線を戻した。
ゾーイはそんな二人を見て、小さくため息をついている。
「You’re both ridiculous.(あんたたち、ほんっとバカみたい)」
……リディキュラス?
何それ。
また知らない英語が増えた。
◇
注文が決まったところで、エマが席を立った。
「Okay! I gotta go work now!(よし! じゃあ、そろそろ仕事しなきゃ!)」
「あっ、バイト!」
「Yeah! I’ll take your order!(そう! みんなの注文、私が取るね!)」
そう言って、エマは店の奥へ向かった。
時春はその後ろ姿を何となく目で追った。
カウンターの向こうに消えていくエマ。
しばらくして、再び姿を現す。
今度は、赤と白のストライプが入ったエプロンを身につけていた。髪も少しまとめ直し、胸元には小さなネームプレートがついている。
『EMMA』
……おお。
何だか、すごく店員さんだ。
いや、店員なんだから当たり前なんだけど。
学校にいるときとは、少し雰囲気が違う。
普段のエマは、明るくておしゃれな女子高生という感じだ。でも、エプロン姿になると、どこか大人っぽく見える。
……可愛い。
うん。やっぱり可愛い。
「Alright, guys!(はーい、みんな!)」
エマが小さなメモ帳を持って戻ってきた。
「What can I get for you?(ご注文は何になさいますか?)」
おお。店員さんの英語だ。ちゃんと仕事をしている。
時春は思わず感心した。
すると、エマがこちらを見てにっこり笑った。
「Toki! You first!(じゃあ、トキからどうぞ!)」
「……えっ?」
「What would you like?(何にする?)」
時春は慌ててメニューを開いた。
そうだ。注文だ。
英語で注文するチャンス。
よし。これくらいは、自分で言ってみよう。
「アー……キャン、アイ、ハブ……」
時春はメニューを指差した。
「ア、チーズバーガー!」
「Sure!(かしこまりました!)」
「アンド……フレンチフライズ!」
「Got it!(了解!)」
「アンド……」
時春は少しだけ姿勢を正した。
ここが一番重要だ。
「……ア、バニラ・ミルクシェイク!」
エマは笑顔で頷いた。
「One vanilla milkshake! Coming right up!(バニラシェイクを一つね! すぐにお持ちしまーす!)」
「サンキュー!」
「You’re welcome!(どういたしまして!)」
エマはさらさらとメモ帳に書き込み、今度はジェイクたちの注文を取った。
ジェイクは何やら大量に注文していた。バーガー、ポテト、オニオンリング、さらに飲み物。
……おい。
お前、どんだけ食うんだよ。
ゾーイは呆れたように彼を見ていた。
「Jake, you’re not gonna finish all that.(ジェイク、そんなに頼んで絶対食べきれないでしょ)」
「Watch me.(まあ、見てなって)」
「I have. Many times.(何度も見てるわよ。食べきれないとこまでね)」
エマが吹き出す。
ジェイクは不満そうに何か言い返していたが、時春にはよく聞き取れなかった。
ただ、何となくわかる。
こいつ、いつもこうなんだろうな。
注文を取り終えたエマは、メモ帳を閉じた。
「Okay! I’ll be right back!(はーい! じゃあ、ちょっと待っててね!)」
「オーケー!」
時春は笑顔で手を振った。
そして、エマがカウンターへ戻っていく姿を見送る。
……働くエマ。
いいなあ。
何というか、すごくいい。
時春は頬杖をつきながら、しばらくその様子を眺めていた。
すると、目の前から声がした。
「……Bro.(……なあ、兄弟)」
ジェイクだった。
時春が顔を上げると、ジェイクはにやにやしている。
「You’re staring.(めっちゃ見つめてるぜ?)」
「……え?」
「At Emma.(エマのこと)」
「…………」
アット・エマ。
……待て。
こいつ、またか。
「ノー!」
「Dude, yes!(いやいや、見てただろ!)」
「ノー!」
「YES!(絶対見てたって!)」
「シャラップ!」
時春が小声で言い返すと、ジェイクは爆笑した。
「HAHAHA! THERE IT IS!(あっははは! 出た出た、その反応!)」
ゾーイも呆れたように笑っている。
「Jake, leave him alone.(ジェイク、もうトキをからかうのやめなさいよ)」
「I’m just saying!(俺は見たまんま言ってるだけだぜ!)」
「You always are.(はいはい、いつものことね)」
時春は思わずため息をついた。
……まったく。
こいつ、毎回これだな。
そのとき、カウンターの奥から低い声が飛んできた。
「Harris.(ハリス)」
ダニーだった。
「Keep it down.(静かにしろ)」
「Sorry, Danny!(悪い悪い、ダニー!)」
「You’ve said that before.(それは前にも聞いた)」
ジェイクが笑いながら肩をすくめる。
ダニーは無表情のまま、再び鉄板へ向き直った。
……怖っ。
やっぱり怖い。
しかし、その横を通りかかったエマは、何事もないように笑っていた。
……本当に怒ってないのかな、あの人。
◇
しばらくすると、料理が運ばれてきた。
まずはバーガー。そして、山盛りのフライドポテト。
「……うわっ」
時春は目を丸くした。
でかい。
やっぱりでかい。
カフェテリアの食事も十分に大きかったが、ここのバーガーはまた別格だった。
厚いパティに、とろけたチーズ。レタス、トマト、ピクルス。ふっくらとしたバンズの間から、具材が今にもはみ出しそうになっている。
しかも、ポテトの量が多い。
多すぎる。
……これ、一人分?
「Enjoy!(はい、召し上がれ!)」
エマが笑顔で皿を置いた。
「サンキュー!」
時春はさっそくバーガーを両手で持ち上げた。
重い。そして、厚い。
どうやって食べればいいんだ、これ。
少し迷った末、思い切り口を開ける。
がぶっ。
「…………!」
うまっ。
めちゃくちゃうまい。
肉の旨味が口いっぱいに広がり、とろけたチーズとソースが混ざり合う。レタスの食感もいい。何より、焼きたてのパティが最高だった。
「……うっま!」
思わず日本語が出た。
エマが嬉しそうに笑う。
「Good?(美味しい?)」
「ベリー、グッド!」
「Yay!(やったぁ!)」
カウンターの奥から、ダニーがちらりとこちらを見た。
表情は変わらない。
だが、何も言わずに鉄板へ視線を戻した。
時春はポテトも食べてみた。外はカリッと、中はほくほく。塩気もいい。
これも美味しい。
……やばい。
アメリカ、食べ物が強すぎる。
こんなの毎日食べていたら、絶対に太る。バスケ選手としては気をつけなければならない。
……まあ、今日は特別だ。
今日はアメフトも勝ったし。
いや、自分は何もしていないんだけど。
すると、エマが再びテーブルへ近づいてきた。
「And……one vanilla milkshake!(それから……お待ちかねのバニラシェイク!)」
コトン。
目の前に、大きなグラスが置かれた。
「……おおおおっ」
時春は思わず声を上げた。
白くて濃厚なバニラシェイク。グラスの上にはたっぷりのホイップクリームが盛られ、そのてっぺんには赤いチェリーが一粒乗っている。
透明なグラスの外側には冷たい水滴がつき、太いストローが斜めに刺さっていた。
完璧。
完璧すぎる。
これだよ。
これ!
映画で見たアメリカのミルクシェイクだ。
「ワオ……!」
時春は目を輝かせた。
「ビューティフル……!」
エマが楽しそうに笑った。
「Hahaha! It’s just a milkshake, Toki!(あはは! トキったら! ただのミルクシェイクだよ?)」
ただのミルクシェイク?
いやいやいや。
違う。
これはただのミルクシェイクじゃない。
夢にまで見た、本場アメリカのバニラシェイクである。
時春はストローを口にくわえ、一口飲んだ。
冷たい。甘い。濃厚。
バニラの香りが口いっぱいに広がり、なめらかな甘さが舌に残る。
……うま。
ちょっと待って。マジでうまい。
時春は思わず目を閉じた。
「……オー、マイ、ゴッド……」
「Pfft!(ぷっ!)」
エマが吹き出した。
ジェイクも笑い始める。
「BRO! IT’S A MILKSHAKE!(おい兄弟! ただのミルクシェイクだぞ!)」
「イエス!」
「You’re acting like you just won the lottery!(宝くじにでも当たったみてえな顔してんじゃねえか!)」
「…………?」
ロッタリー。
宝くじ?
何の話?
時春はよくわからないまま、もう一口シェイクを飲んだ。
……うん。
最高。
ジェイクが何を言おうと関係ない。
バニラシェイクは正義だ。
◇
エマはそのあとも、忙しそうに店内を動き回っていた。
テーブルを拭き、飲み物を運び、常連らしき客に笑顔で声をかける。
時春は食事をしながら、その様子を何となく眺めていた。
学校でのエマは、いつも楽しそうに友達と話している。廊下を歩けばたくさんの生徒に挨拶され、授業中も先生の質問にきちんと答えている。
そんな彼女が、今はエプロンをつけて働いている。
しかも、思っていた以上に手際がいい。
注文を取り、料理を運び、カウンターへ戻る。その合間に、時春たちのテーブルへも時々顔を出してくれた。
「Everything okay?(みんな、大丈夫?)」
「イエス!」
「Need anything else?(ほかに何かいる?)」
「ノー! サンキュー!」
「Okay!(はーい!)」
エマは笑顔で頷き、また仕事へ戻っていく。
……すごいなあ。
時春は素直に感心した。
自分は英語で注文するだけでも緊張するのに、エマは何人もの客を相手に、当たり前のように仕事をこなしている。
もちろん、彼女はアメリカ育ちなのだから、英語が話せるのは当然だ。
でも、それだけではない。
誰に対しても明るく接し、相手の様子をよく見ている。学校で時春を助けてくれるときも、そうだった。
……いい子だなあ。
改めて、そう思った。
「Hey, Toki.(ねえ、トキ)」
ゾーイの声がした。
「ん?」
顔を上げると、ゾーイがこちらを見ていた。何やら、少し面白そうな表情をしている。
「You really like it here, huh?(ここ、ずいぶん気に入ったみたいね?)」
「……ヒア?」
「This place. Danny’s.(このお店よ。ダニーズのこと)」
「あっ!」
時春は笑顔で頷いた。
「イエス! ベリー、グッド!」
そして、バニラシェイクを持ち上げる。
「アンド、ディス! アメイジング!」
ゾーイは一瞬ぽかんとした。それから、小さく笑った。
「……Yeah. The milkshake. Sure.(……ええ。ミルクシェイクね。はいはい)」
「?」
何だ? 変な返事だな。
ジェイクも隣でにやにやしていたが、時春は気にしないことにした。
この二人は、たまに意味のわからない顔をする。
きっと、アメリカ人特有の何かなんだろう。
……たぶん。
◇
その頃には、店内も少しずつ落ち着いてきていた。
試合帰りの生徒たちが帰り始め、カウンター席には数人の常連客が残るだけになっている。
エマは空いたテーブルを拭き終えると、カウンターへ戻った。そこでは、ダニーがグラスを磨いていた。
「You done with that table?(そこのテーブルは終わったか?)」
「Yep!(うん、終わったよ!)」
「Good. Go take a break.(よし。休憩してこい)」
「Really?(えっ、いいの?)」
「You’ve been running around all night. Sit down for five minutes.(ずっと動きっぱなしだろ。五分くらい座ってろ)」
エマは嬉しそうに笑った。
「Thanks, Danny!(ありがと、ダニー!)」
「Yeah, yeah.(ああ、わかったわかった)」
ダニーは素っ気なく答えた。
時春はそのやり取りを見て、少し首を傾げた。
……あれ?
今、休憩していいって言った?
何となく、そう聞こえた。
エマはエプロンを軽く整えると、時春たちのテーブルへ戻ってきた。
「I’m back!(ただいまー!)」
「エマ!」
時春は思わず笑顔になる。
「Break time!(休憩もらっちゃった!)」
「ブレイク・タイム!」
なるほど。休憩か。
エマは時春の隣に腰を下ろした。
その瞬間、ジェイクが大げさに両手を広げる。
「Our favorite waitress is back!(俺たちの大好きなウェイトレスが帰ってきたぜ!)」
「Oh, shut up, Jake!(もう、うるさいってば、ジェイク!)」
「HAHA!(あっははは!)」
……おお。
エマもシャラップ使うんだ。
時春はちょっと感動した。あの単語、ちゃんと日常会話で使えるんだな。
ラリーの英語教育、間違ってなかった。
少なくとも、全部は。
「So, Toki!(それで、トキ!)」
エマがこちらを向いた。
「Did you have fun tonight?(今日は楽しかった?)」
「イエス!」
時春は大きく頷いた。
「フットボール! アメイジング!」
「Hahaha!(あははは!)」
「アンド……」
時春は目の前のグラスを持ち上げた。
「バニラシェイク! ベスト!」
エマは声を上げて笑った。
「You’re really obsessed with that shake!(トキって、ほんっとにそのシェイクが大好きなんだね!)」
「……オブセスト?」
何それ。知らない単語だ。
エマは少し考えてから、日本語で教えてくれた。
「大好きすぎる、みたいな!」
「あー!」
なるほど。それなら、合っている。
時春は真剣な顔で頷いた。
「イエス! アイム、オブセスト!」
「Hahahaha!(あはははは!)」
エマが笑う。ジェイクも笑い、ゾーイも小さく吹き出した。
……何だよ。また笑われた。
でも、今日は少しも嫌な気分にならなかった。
むしろ、自分の英語でみんなが笑ってくれるのが嬉しい。
アメリカに来たばかりの頃は、誰かが笑っていても、その理由がわからなかった。今だって、全部理解できるわけではない。
それでも、こうして一緒に笑える。
少しずつではあるが、自分もこの場所の一員になれている気がした。
そのとき、低い声がした。
「Hey, kid.(おい、坊主)」
時春が顔を上げると、ダニーが立っていた。手には小さなステンレスの容器を持っている。
「……イエス?」
ダニーは時春のミルクシェイクを見た。グラスの中身は、もうほとんど残っていない。
そして、何も言わずに容器を傾けた。
とろり。
白いバニラシェイクが、グラスへ注がれる。
「……えっ?」
時春は目を丸くした。
おかわり?
いや、待って。頼んでいないんだけど。
ダニーは無表情のまま言った。
「Made a little extra.(ちょっと余ったんだ)」
「……?」
「Don’t waste it.(捨てるのももったいねえからな)」
時春はグラスとダニーを交互に見た。
エマが笑いながら教えてくれる。
「余った分だって! 飲んでいいって!」
「……マジ!?」
時春の顔がぱっと明るくなった。
「サンキュー! ダニー!」
ダニーは小さく頷いただけだった。
「Mm-hmm.(ああ)」
そして、またカウンターへ戻っていく。
……何だ。
いい人じゃん。
ちょっと怖いけど。
いや、かなり怖いけど。
でも、いい人だ。
時春は嬉しそうにシェイクを一口飲んだ。
うん。やっぱり最高。
エマはそんな時春を見て、楽しそうに笑っていた。
カウンターの向こうでは、ダニーが再びグラスを磨き始めている。
無愛想な顔は相変わらずだ。
けれど、時春たちのテーブルへちらりと視線を向けたとき、その口元がほんの少しだけ緩んだように見えた。
……気のせいかな。
時春は首を傾げたが、すぐにシェイクへ視線を戻した。
◇
店を出る頃には、夜もすっかり更けていた。
外は涼しく、道路を走る車のヘッドライトがアスファルトを照らしている。少し離れたところでは、ヤシの木の影が長く伸びていた。
エマは店の入口で、時春たちに手を振った。
「Thanks for coming, guys!(みんな、今日は来てくれてありがとね!)」
「Anytime!(いつでも来るぜ!)」
ジェイクが元気よく答える。
「See you Monday, Em!(じゃあな、エム! また月曜に!)」
「Bye, Zo! Bye, Jake!(バイバイ、ゾー! ジェイクもまたね!)」
そして、時春を見る。
「Bye, Toki!(バイバイ、トキ!)」
「あっ!」
時春も笑顔で手を振った。
「バイ! エマ!」
「Did you like the diner?(お店、気に入ってくれた?)」
「イエス! アイ、ラブ、ダニーズ!」
エマの顔がぱっと明るくなる。
「Really?(ほんとに?)」
「イエス!」
時春は両手で大きな丸を作った。
「ベリー、ベリー、グッド!」
「Hahaha! I’m glad!(あはは! よかったぁ!)」
エマは嬉しそうに笑った。
「Come again sometime!(またいつでも来てね!)」
「オーケー!」
時春は元気よく頷いた。
もちろん、また来たい。
あのバーガーも美味しかった。ポテトも最高だった。そして、何よりバニラシェイク。
あれは絶対、また飲みたい。
……あと。
エプロン姿のエマも、もう一回見たい。
いや。
別に、そこは重要じゃないけど。
たぶん。
「See you, Toki!(またね、トキ!)」
「シー・ユー!」
エマは笑顔で手を振り、店内へ戻っていった。
ドアのベルが、カランと小さく鳴る。
時春はしばらくその扉を眺めていた。
すると、隣から聞き覚えのある気持ち悪い声がした。
「……Heeeeey.(……お〜い、トキく〜ん?)」
時春はゆっくりと振り返った。
ジェイクだった。もちろん、にやにやしている。
「You coming back for the milkshake……or Emma?(次も来るんだろ? ミルクシェイク目当てで……それとも、エマ目当てかなぁ?)」
「…………」
……何だって?
ミルクシェイク。
オア。
エマ。
おい。
おいおいおい。
またその話かよ!
「ジェイク!」
「Yeah?(何だい、兄弟?)」
時春は大きく息を吸った。
そして。
「シャラァァァップ!!」
「HAHAHAHAHA!!(あっははははは!!)」
ジェイクが爆笑した。ゾーイも笑いながら首を振っている。
「You guys are impossible.(もう、あんたたちってほんとしょうがないんだから)」
時春は頬を膨らませた。
……まったく。
アメリカ人って、みんなこうなのか?
でも、悪くない。
むしろ、結構楽しかった。
そんなことを考えていると、スマートフォンが小さく震えた。
画面を見る。
ラリーからのメッセージだった。
『You alive?(生きてる?)』
……生きてるか?
失礼な。
ちゃんと生きてるわ。
時春は笑いながら返信した。
『YES! VERY FUN!(もちろん! めっちゃ楽しい!)』
すると、すぐに返事が来た。
『Cool. Don’t forget curfew.(そりゃよかった。門限、忘れないでよね)』
……あっ。
門限。
そうだった。
時春は慌てて時刻を確認した。
ベンに伝えた帰寮時間までは、まだ余裕がある。
よかった。
どうやら今夜は、何とか無事に帰れそうだ。
時春はスマートフォンをポケットにしまい、夜空を見上げた。
今日一日を振り返る。
アメフトの試合を見た。
大声で応援した。
みんなと一緒に笑った。
美味しいバーガーを食べた。
最高のバニラシェイクも飲んだ。
そして、エマのアルバイト先まで知ることができた。
……うん。
何だか、すごくいい金曜日だった。
日本にいた頃は、金曜日といえば単に週末の始まりだった。部活が終われば家へ帰り、夕飯を食べて、ゲームをする。それはそれで楽しかった。
でも、アメリカの金曜日は少し違うらしい。
学校中が一つになってスポーツの試合で盛り上がり、そのあとは友達とダイナーへ行って、ご飯を食べながらくだらない話をする。
そんな夜が、ここでは当たり前のように存在している。
……いいな。
こういう高校生活。
時春は思わず笑った。
カリフォルニアの夜風が、火照った頬を優しく撫でていく。
高山時春、十五歳。
アメリカ生活、三週目。
英語はまだまだ苦手だし、知らないことも山ほどある。
でも、少しずつ、ここでの暮らしが楽しくなってきた。
そして何より。
アメリカの高校には、どうやら日本では味わえない金曜日があるらしい。
――フライデーナイト・フットボール。
そして、ダニーズ・ダイナー。
新しく見つけたお気に入りの場所が、一つ増えた夜だった。