九月に入っても、カリフォルニアの夏は終わる気配を見せなかった。
空は相変わらず澄み渡り、日中には容赦のない陽射しがキャンパスを照らしている。カレンダーの上では秋が近づいているというのに、芝生の上には濃い木陰が落ち、校舎の白い壁は真夏と変わらない眩しさを放っていた。
そんな日々の中で、高山時春は、自分の中に小さな変化が生まれていることに気づいていた。
英語が、少しずつ聞き取れるようになってきたのである。
もちろん、流暢に話せるようになったわけではない。先生が授業中に長い説明を始めれば、今でも理解が追いつかなくなるし、ルームメイトのラリーがゲームに熱中して早口になると、もはや何語を喋っているのかさえ怪しくなる。
特に厄介なのはジェイクだった。あいつの英語は、いまだに手強い。
それでも、日常会話の中には聞き覚えのある表現が増えてきた。誰かに「How was your weekend?」と尋ねられれば週末の話だとわかるし、「You wanna come?」と聞かれれば、どこかへ誘われているのだと察しがつく。渡米したばかりの頃には、相手の言葉を聞き取るだけで精いっぱいだったことを思えば、これは大きな進歩だった。
何しろ、少し前までは何を聞かれても「イエス!」で乗り切っていたのだから。
もっとも、今でも会話のすべてを理解できるわけではない。知らない単語が出てくれば、相手の表情や声の調子、前後に聞き取れた言葉を頼りに、どうにか意味を推測するしかなかった。
いわば、雰囲気で英会話。
……本当に上達しているのか、これ。
そんな疑問を抱くこともあったが、少なくとも以前ほど、英語を話すこと自体に身構えなくなっているのは確かだった。
◇
昼休みのカフェテリアには、いつもの賑わいが満ちていた。
大きな窓から差し込む陽射しがテーブルの表面を明るく照らし、あちこちから笑い声や話し声が聞こえてくる。食器の触れ合う音、椅子を引く音、誰かを呼ぶ声。それらが重なり合い、広い室内には絶え間ないざわめきが生まれていた。
時春はエマ、ジェイク、ゾーイと同じテーブルを囲み、チキンサンドイッチを頬張っていた。トレーにはフライドポテトとオレンジジュースも載っている。アメリカに来てからというもの、ポテトを食べる機会が妙に増えた気がする。
この食生活を続けていたら、さすがに太るんじゃないだろうか。バスケ選手としては、そろそろ本格的に体を動かしたいところだった。
「So, Toki!(それでさ、トキ!)」
向かいに座っていたジェイクが、サンドイッチを片手に身を乗り出した。
「You doing anything after school today?(今日の放課後、なんか予定ある?)」
「アフター・スクール……?」
放課後、という意味ならわかる。時春は今日の予定を思い返してから、首を横に振った。
「ノー! ナッシング!」
「Perfect!(よっしゃ、ちょうどいい!)」
ジェイクは待ってましたとばかりに、にやりと笑った。
……何だ、その顔。
嫌な予感がした。先日もこいつの話をろくに理解しないまま「イエス!」と答えた結果、知らないうちにアメフト観戦の約束が成立していたのである。
もっとも、あの日は最高に楽しかったのだから、結果的には何も問題なかったのだが。
「Open gym starts today!(今日からオープンジムが始まるんだ!)」
「……オープン、ジム?」
「Yeah! Basketball!(そう! バスケだよ!)」
「……えっ」
時春はサンドイッチを持ったまま動きを止めた。
今、バスケットボールと言ったか?
「バスケットボール!?」
「Yep!(そうそう!)」
「リアリー!?」
思わず身を乗り出すと、ジェイクは嬉しそうに頷いた。
「The gym’s open after school. Anybody can play!(放課後に体育館が使えるんだ。誰でもバスケしていいんだぜ!)」
「エニバディ……?」
「Everyone!(みんな!)」
「……おおっ!」
時春の顔がぱっと明るくなった。
オープンジム。その言葉には、入学前に目を通した学校の資料で見覚えがあった。秋の間は放課後に体育館が開放され、バスケ部員だけでなく一般の生徒も自由にコートを使えるらしい。
「It’s not official practice, though.(でも、正式な部活の練習じゃないよ)」
ゾーイがポテトを一本つまみながら口を挟んだ。
「Just people playing basketball.(みんなで適当にバスケするだけ)」
「Oh, and some of the basketball guys are usually there.(あ、それとバスケ部の子たちもよく来てるよ)」
エマが付け加えた言葉に、時春は顔を上げた。
「バスケ、ガイズ……」
「Yeah! The Breakers!(そう! ブレイカーズの選手たち!)」
ブレイカーズ。
その名前を聞いた途端、胸の奥で何かが弾んだ。
クレセントベイ・アカデミーのバスケットボールチーム。時春が日本を離れ、この学校へ来ることを決めた大きな理由の一つだった。
もっとも、今の時春はまだチームの一員ではない。十一月上旬に行われるトライアウトで実力を示し、選考を通過しなければ、正式にブレイカーズのユニフォームを着ることはできないのだ。
九月に入ったばかりの今、その日まではあと二か月ほどある。自主練習は続けていたが、正式なチーム練習に参加できるわけではなく、日本にいた頃のように仲間と毎日五対五をする機会もなかった。
ボールに触れない日が続くたび、胸の内に小さな物足りなさが積もっていた。だからこそ、ジェイクの何気ない一言が、時春には思いがけない朗報に聞こえたのである。
「……バスケ!」
思わず拳を握りしめる。
「バスケできるじゃん!!」
突然日本語で叫んだ時春に、ジェイクが目を丸くした。
「Whoa! Easy, bro!(おおっと! 落ち着けって、兄弟!)」
その隣でエマがくすくすと笑っている。
「You really missed basketball, huh?(ずっとバスケしたかったんだね?)」
「イエス! ベリー、ベリー、マッチ!」
「Aww!(ふふっ、そっか!)」
エマは嬉しそうに目を細めた。まるで、小さな子供が欲しかったおもちゃを見つけたときのような反応である。
……またその顔だ。
少し気にはなったが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。
「Toki, you wanna go?(トキ、行きたい?)」
「イエス!!」
時春は間髪を入れずに答えた。
「アイ、ウォント・トゥ・プレイ!」
「Then let’s go together!(じゃあ、みんなで行こ!)」
「……えっ?」
時春はエマを見た。
「エマも?」
「Of course!(もちろん!)」
「Me too!(俺も行くぜ!)」
ジェイクが得意げに親指を立てる。
「I’m basically a basketball legend.(俺なんか、ほぼバスケ界の伝説だからな)」
「You missed every shot last time.(この前、一球も入らなかったけどね)」
ゾーイが間髪を入れずに指摘した。
「THAT WAS ONE TIME!(あれはたまたまだろ!)」
「It was twelve times.(十二回外してたけど)」
「ZO!(ゾー!)」
ジェイクの大げさな抗議に、時春は思わず吹き出した。
どうやら、彼の言う「伝説」は、あまり信用しないほうがよさそうだった。
「What about you, Zo?(ゾーはどうする?)」
エマに尋ねられたゾーイは、肩をすくめて答えた。
「Sure. Someone has to make sure Jake doesn’t hurt himself.(いいよ。誰かがジェイクの怪我を見張ってなきゃね)」
「WHY DOES EVERYONE KEEP ATTACKING ME!?(何でみんな俺ばっかりいじるんだよ!?)」
ジェイクが両手を広げて天井を仰ぐと、テーブルにまた笑い声が広がった。
時春も笑いながら、残っていたポテトを一本つまんだ。
ついに、バスケができる。
その事実を思うだけで、午後の授業がいつもより長く感じられそうだった。
◇
放課後になると、時春は寮に戻って練習着とバッシュをスポーツバッグに詰め、足早に体育館へ向かった。
普段なら授業が終わる頃には、慣れない英語に頭も体も疲れ切っている。それなのに今日は不思議と足取りが軽く、校舎の間を吹き抜ける風さえ心地よかった。早くボールに触れたいという気持ちが、自然と歩く速度を上げていた。
「Toki, slow down!(トキ、ちょっと待って!)」
背後から声をかけられ、慌てて足を止める。
「あっ、ごめん!」
「Hahaha! You’re in such a hurry!(あはは! そんなに急がなくても!)」
追いついてきたエマは楽しそうに笑っていた。その隣でゾーイが呆れたように肩をすくめ、ジェイクは時春に負けないくらい浮き立った様子で歩いている。
「Dude, wait till you see our gym!(おい、うちの体育館見たらビビるぞ!)」
「ジム?」
「It’s awesome!(マジですげえから!)」
そう言ってジェイクは先頭に立ち、キャンパスの奥へと続く道を進んでいった。
体育館は、周囲の校舎とは少し趣の異なる大きな建物だった。外壁にはCBAのロゴが掲げられ、ガラス扉には青と白の文字で『HOME OF THE BREAKERS』と記されている。
ブレイカーズのホーム。その文字を見ただけで、時春の胸には言いようのない高揚が生まれた。
日本で何度も思い描いた場所が、今、自分の目の前にある。
一度小さく息を吸ってから、時春はジェイクに続いて扉をくぐった。
「……うおおおお……!」
目の前に広がった光景に、思わず声が漏れた。
天井の高い体育館には明るい照明が灯り、磨き上げられた木製のフロアがその光を柔らかく映していた。コートの中央には青と白のブレイカーズのロゴが大きく描かれ、両側には折り畳み式の観客席が並んでいる。壁には電光掲示板が設置され、そのさらに上には、過去の栄光を伝えるいくつものバナーが吊るされていた。
中でも時春の目を引いたのは、ひときわ目立つ位置に掲げられた一枚の青いバナーだった。
『STATE CHAMPIONS — 2009』
州優勝。
時春はその文字を見上げたまま、しばらく動けなかった。この学校は、かつてカリフォルニアの頂点に立ったことがある。その事実が、今さらのように重みを持って胸に迫ってきた。
……すげえ。本当に、強い学校なんだ。
「Pretty cool, right?(結構すごいでしょ?)」
隣からエマに声をかけられ、時春はゆっくり頷いた。
「イエス……!」
そして、もう一度体育館を見渡した。
「ベリー、ベリー、クール!」
すでにコートでは十数人の生徒がボールを追いかけていた。片方のゴールではシュート練習が行われ、反対側では二人の男子生徒が一対一をしている。その周りでは仲間らしい生徒たちが声を上げ、ときおり笑い声が弾けていた。
ボールが床を叩く乾いた音に、シューズがフロアを擦る鋭い音が重なる。シュートがリングに当たる金属音や、選手たちが交わす短い掛け声も聞こえてきた。
時春は懐かしさに似た感覚を覚えた。
国が違い、建物も、人も、使われている言葉さえ違う。それでも、体育館に満ちる音だけは、日本にいた頃とほとんど変わらなかった。
……ああ、これだ。
気づけば、自然と笑みが浮かんでいた。
◇
「See those guys?(あの子たち、見える?)」
エマが指差した先では、二人の大柄な男子生徒が一対一をしていた。
一人は、二メートル近い身長を持つ黒人の少年だった。肩幅が広く、ノースリーブの練習着から伸びる腕には分厚い筋肉がついている。体のどこを見ても力強く、その堂々とした立ち姿には、周囲の生徒とは明らかに違う迫力があった。
向かい合っているのは、ラテン系らしい顔立ちの少年だ。こちらも百九十センチを超えているだろう。短く整えた黒髪に、自信に満ちた笑顔。軽快なドリブルをつきながら、何やら楽しそうに相手を挑発している。
「あの大きい方がマイルズ・カーター。で、もう一人がノア・レイノルズ!」
「マイルズ……ノア……」
「Both really good players.(二人とも、すっごくバスケが上手いんだよ)」
エマの説明に頷きながら、時春はコートへ視線を戻した。二人が優れた選手であることは、その立ち姿を見ただけでも何となく伝わってくる。
ボールを持っていたノアが、挑発するように笑った。
「Come on, Miles! You can’t guard me!(来いよ、マイルズ! お前じゃ俺を止めらんねえって!)」
「Keep talking.(口だけは達者だな)」
マイルズが低い声で応じた、その直後だった。
ノアが鋭く右へ踏み込んだ。
速い、と時春は思った。百九十センチを超える体格でありながら、最初の一歩にほとんど無駄がない。重心の移動も滑らかで、ボールが体から離れることもなかった。
しかし、マイルズも簡単には抜かせなかった。ノアの踏み込みに合わせてすばやく横へ動き、長い腕を広げて進路を塞ぐ。その巨体からは想像できないほど、足の運びが素早い。
ノアは一度距離を取ると、今度は左へドリブルを切り返し、急停止からジャンプシュートを放った。
ボールは高い弧を描いて飛んだが、リングの奥に当たり、硬い音を立てて跳ね返った。
「HA! That’s what I thought!(ハッ! そんなもんかよ!)」
マイルズが得意げに笑った。
「That was a foul!(今のファウルだろ!)」
「Didn’t touch you!(触ってねえだろ!)」
「BRO, YOU PUSHED ME!(おい! 押したじゃねえか!)」
「YOU’RE JUST SOFT!(お前がヤワなだけだ!)」
「WHAT DID YOU SAY!?(何だと!?)」
「YOU HEARD ME!(聞こえただろうが!)」
……あれ?
時春は思わず二人を見比べた。ついさっきまで楽しそうにバスケをしていたはずなのに、いつの間にか顔を突き合わせている。
ノアがマイルズの胸を軽く押すと、マイルズも一歩前へ出た。周囲の生徒たちは止めるどころか、面白がって野次を飛ばしている。
「Oh my god, here we go again.(やれやれ、また始まったよ)」
ジェイクが呆れたように呟いた。
「……アゲイン?」
「Yeah. They do this all the time.(そう。あの二人、いつもあんな感じ)」
ゾーイが平然と肩をすくめる。
……いつも?
この学校のバスケ部、本当に大丈夫なのだろうか。
そんな心配をしているうちに、ノアがボールをマイルズの胸に押しつけた。
「Fine! Your ball!(わかったよ! お前の番だ!)」
「Watch this.(よく見とけ)」
マイルズはボールを受け取ると、力強く床へ叩きつけた。
ドンッ、と体育館に低い音が響く。
深く腰を落とした巨体が、一気にリングへ向かって動き出した。ノアが必死に体を寄せるが、マイルズはその接触をものともせず、勢いを保ったまま踏み切った。
「……うわっ!」
時春が声を上げるのと、マイルズの体が宙に浮くのはほとんど同時だった。
次の瞬間、ボールが凄まじい勢いでリングに叩き込まれた。
ガァァァンッ!!
金属が軋むような音とともにリングが大きく揺れ、体育館のあちこちから歓声が上がった。
「OOOOOOH!!(うおおおおっ!!)」
マイルズは着地すると、ノアを見下ろしてにやりと笑った。
「Too small.(ちっせえな)」
「OH, SHUT UP!(うるせえよ!!)」
時春は口を半開きにしたまま、二人のやり取りを眺めていた。
あの体格で、あれほどの跳躍力と瞬発力を持っているのか。
日本でも背の高い選手とは何度も対戦してきたが、マイルズほど恵まれた体と運動能力を兼ね備えた相手には、そう簡単に出会えなかった。
それも、彼はまだ高校生なのだ。
時春は、自分の手のひらを何となく見下ろした。バスケットボールを始めてからずっと使ってきた、小さな手だった。
これが、アメリカの高校バスケなのか。
頭では理解していたはずの体格差が、初めてはっきりとした現実になって目の前に現れた気がした。
◇
「And over there is Mike!(それから、あっちがマイク!)」
エマが今度は反対側のコートを指差した。
そこには、細身の黒人の少年が一人、静かにシュート練習を続けていた。身長は百八十センチほどだろうか。華奢な体つきにメガネという姿は、先ほどの二人と比べるとずいぶん控えめな印象を受ける。
そして、その隣に立つ少年を見たとき、時春は思わず目を見開いた。
……いや、ちょっと待って。でかくない?
「That’s Mike Thompson. And the tall guy is Tom Wake.(マイク・トンプソンと、背の高い子がトム・ウェイクだよ)」
「トム……」
時春はトムという少年の頭から足元まで、ゆっくりと視線を動かした。
二メートルを超えているのは間違いない。おそらく二百十センチ前後はあるだろう。それでいて、驚くほど細身だった。長い手足と薄い肩幅のせいで、まるで竹竿に人間の姿を与えたようにも見える。
……何食ったらそんなに伸びるんだよ。
「Tom’s, like, seven feet tall.(トムって、七フィートくらいあるんだぜ)」
ジェイクが教えてくれた。
七フィート。一フィートがおよそ三十センチだから、二百十センチを少し超えるくらいだろうか。
時春は頭の中で計算しながら、改めてトムを見つめた。
しかし、身長以上に気になるのは、その腕の長さだった。リバウンドを取ろうと両腕を伸ばすと、指先が驚くほど高い位置へ届く。
バスケットボールでは、身長だけでなくウイングスパンも大きな武器になる。両腕を左右に広げたときの指先から指先までの長さであり、それが大きい選手ほど広い範囲に手を伸ばすことができる。
トムは、その腕が明らかに長かった。
……あいつ、どこまで守れるんだ?
もし同じコートで敵として向かい合うことになれば、普通のレイアップなど簡単に叩き落とされてしまいそうだった。
ところが、本人にはその体格に見合った威圧感がまるでなかった。
トムはマイクのシュートが外れるたびに静かにリバウンドを拾い、丁寧にボールを返している。動作の一つひとつが遠慮がちで、近くを誰かが通ると、邪魔にならないように身を縮めていた。
「He’s nice, but he gets scared of everything.(いいやつなんだけどさ、何にでもビビるんだよ)」
ジェイクが笑いながら言った。
「You say hi, and he acts like you just jumped out of a horror movie.(挨拶しただけで、ホラー映画の怪物に襲われたみたいな顔するんだぜ)」
「Jake! Be nice!(ジェイク! ひどいよ!)」
「I’m serious!(いや、マジなんだって!)」
エマがたしなめたそのとき、ちょうど別の生徒がトムに声をかけた。
「Hey, Tom!(よう、トム!)」
「Oh! Uh—hey.(わっ! え、えっと……やあ)」
トムは驚いたように肩を震わせ、それから慌てて相手に挨拶を返した。
……本当だ。
時春は思わず笑ってしまった。あれほどの体格がありながら、話しかけられただけで身をすくめる姿には、どこか不思議な愛嬌があった。
一方、その隣にいるマイクは、先ほどからほとんど口を開いていなかった。
トムからパスを受け取ると、軽く膝を曲げ、流れるような動作でシュートを放つ。ボールは美しい放物線を描き、リングの中央へ吸い込まれた。
トムがリバウンドを拾い、再びパスを返す。マイクは同じ場所で構え直し、またシュートを決めた。
何度繰り返しても、その動作はほとんど変わらなかった。
時春は次第に、マイクのフォームから目を離せなくなっていた。
……うまい。
マイクのプレーには、ノアやマイルズのような派手さはない。豪快なダンクを決めるわけでも、鋭いドリブルで相手を抜き去るわけでもなかった。ただ、コーナーから何度もスリーポイントシュートを打ち続けている。
しかし、そのフォームは恐ろしく安定していた。
両足の開き方、膝の使い方、ボールを持ち上げる速さ、そしてリリースの瞬間に指先から伝わる力。時春が見ている限り、それらの動作に余分なものはほとんどなかった。
何より、シュートがよく入る。
ボールがリングに触れずにネットを通過するたび、乾いた小気味よい音が響いていた。
「あいつ、すげえな……」
思わず日本語が漏れた。
「Mike’s one of the regulars. He’s really good.(マイクは去年からレギュラーなんだ。すごく上手いよ)」
エマが教えてくれた。
「But he barely talks.(でも、ほとんど喋らないんだよね)」
ゾーイが付け加えると、ジェイクも大げさに頷いた。
「I’m not even sure I’ve ever heard his voice.(俺、あいつの声聞いたことあるかも怪しいぜ)」
「That’s not true, Jake.(それはさすがに嘘でしょ、ジェイク)」
「Okay, maybe once.(いや、たぶん一回くらいはある)」
……何だそりゃ。
時春は苦笑しながらマイクへ目を戻した。
ちょうど彼が新しいボールを受け取り、またシュートを放つところだった。
ボールは弧を描いて飛び、ほとんど音も立てずにネットを抜けた。
……やっぱり、あいつ。
絶対めちゃくちゃ上手いぞ。
◇
しばらくコートを眺めたあと、時春はベンチに腰を下ろし、スポーツバッグのファスナーを開けた。
中から取り出したのは、日本から持ってきたお気に入りのバッシュだった。
何度も履き込んできたため、靴底にはわずかな擦れがあり、紐にも使い慣れた柔らかさが残っている。その感触を確かめるように指を動かしていると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。
日本での最後の練習も、あの全国大会も、このシューズとともに過ごしてきた。遠く離れたアメリカの体育館にいる今も、それだけは何も変わっていない。
時春は靴紐をしっかりと結び、立ち上がった。
「Ready?(準備できた?)」
エマが声をかけてくる。
「イエス!」
「Alright! Let’s play!(よーし! バスケしよう!)」
ジェイクの元気な声に促され、四人は空いているゴールへ向かった。
最初は気楽に二対二をすることになった。チームは時春とエマ、そしてジェイクとゾーイである。
「Okay, Toki! We’re gonna destroy you!(よっしゃ、トキ! ボコボコにしてやるぜ!)」
ジェイクが不敵な笑みを浮かべた。
「……デストロイ?」
破壊、という意味だったはずだが、一体何を破壊するつもりなのだろう。
「Don’t listen to him. He can’t shoot.(気にしないで。ジェイク、シュート入らないから)」
ゾーイが平然と言った。
「ZO! YOU’RE ON MY TEAM!(ゾー! お前、俺の味方だろ!?)」
時春は思わず吹き出した。どうやら、気負わず楽しめそうだ。
差し出されたボールを受け取り、指先で軽く転がす。革の表面には独特のざらつきがあり、手のひらに馴染む感触は昔からよく知っているものだった。
時春はゆっくりとボールを床へついた。
ダンッ。
乾いた音が足元から響いた瞬間、体の奥に眠っていた感覚が静かに目を覚ました。
右手から左手へ。左手から右手へ。ドリブルを切り返し、膝を曲げて重心を落とすと、呼吸に合わせて自然に体が動いた。
ほんの数週間、まともな試合から離れていただけなのに、ずいぶん長い時間が経ったような気がする。
懐かしさと嬉しさが入り混じり、時春は知らず知らずのうちに笑っていた。
◇
「Here we go!(よっしゃ、始めるぞ!)」
ジェイクの掛け声で、二対二が始まった。
最初にボールを持ったジェイクは、得意げな顔で時春に向き直った。
「Watch this, Toki!(見てろよ、トキ!)」
勢いよく右へドリブルをつき、左へ切り返す。さらに肩を揺らしてフェイントをかけるその姿を見て、時春は少し驚いた。
意外と動けるじゃん。
そう思ったのも束の間、ジェイクは急にドリブルを止め、やたらと格好をつけたフォームでシュートを放った。
ボールは大きな弧を描いて飛んだものの、リングの手前に当たり、勢いよく跳ね返った。
短い沈黙が落ちる。
「……My bad.(……今のはミスった)」
ジェイクは真顔で言った。
「Shocking.(驚きだわ)」
ゾーイの冷静な返事に、時春はたまらず吹き出した。
……お前、本当にシュート苦手なんだな。
続いて、時春たちの攻撃になった。
「トキ! パス!」
エマが手を上げるのを横目に、時春はゆっくりとドリブルを始めた。
目の前にはジェイクが立ち、ゾーイはエマを守っている。ただし、二人の間にはまだ十分な距離があった。
時春は一度エマの位置を確認すると、右へ鋭く踏み込んだ。
「Whoa!(うおっ!?)」
ジェイクが慌てて進路を塞ごうとする。その動きに合わせ、時春は反対方向へ軽く切り返した。
ほんの一瞬で、ジェイクの体は置き去りになった。
「……えっ?」
背後から間の抜けた声が聞こえる。
時春はそのままゴールへ向かうと見せかけ、エマの方へボールを送った。
「エマ!」
「Oh!(わっ!)」
驚きながらもパスを受け取ったエマの前には、もう誰もいなかった。
「Shoot!(打って!)」
時春に声をかけられ、エマが慌ててシュートを放つ。
ボールはリングに当たって一度高く跳ね上がり、二人が見守る中、ゆっくりとネットへ落ちていった。
「……あっ!」
エマが目を丸くした。
「I MADE IT!(入ったぁ!)」
「ナイス、エマ!!」
時春が両手を上げると、エマも満面の笑みで駆け寄ってきた。
「High five!(ハイタッチ!)」
「イエス!」
二人の手がぱんっと音を立てて重なった。
「That was a great pass!(今のパス、すっごくよかった!)」
「サンキュー!」
エマの嬉しそうな顔を見ていると、時春まで自然と笑顔になった。
やっぱり、バスケは楽しい。
その後も四人は、のんびりと二対二を続けた。ジェイクは相変わらずシュートを外し、ゾーイは予想以上に粘り強いディフェンスを見せた。エマはドリブルこそ少し苦手だったが、時春からパスを受け取るたびに楽しそうにシュートを打っていた。
時春は本気で勝ちにいくつもりはなかった。三人とも本格的な経験者ではないし、無理に相手を抜いたり、難しいシュートを狙ったりする必要もない。
ただ、ボールを失わないようにドリブルをつき、味方が動いたところへ適切なタイミングでパスを送る。それだけで、十分に楽しかった。
ところが、何度か攻撃を繰り返すうちに、三人は時春の動きに不思議そうな視線を向けるようになった。
「Wait, Toki.(ねえ、トキ)」
ゾーイが首を傾げる。
「How do you always know where everyone is?(何でいつも、みんながどこにいるかわかるの?)」
「……えっ?」
時春はきょとんとした。
何でと言われても、見ればわかるのだから仕方がない。
「Dude, you’re not even looking at Emma when you pass!(おい、エマを見てないのにパス出してるじゃねえか!)」
ジェイクも驚いたように言った。
時春はどう説明すればいいものか、少し考え込んだ。
「アー……」
やがて自分の目を指差しながら、たどたどしく答える。
「アイ……シー! エブリワン!」
「……What?(……は?)」
ジェイクがぽかんとした顔になる。
それを見ていたエマが、小さく笑った。
「I think he means he watches everyone on the court.(たぶん、コートのみんなの動きを見てるってことだよ)」
「あっ! イエス!」
時春は嬉しそうに頷いた。
そう。それだ。まさに、そのとおり。
自分でもうまく説明できないことを、エマはいつも簡単な言葉にしてくれる。ありがたいことに、どうやら彼女は時春が何を言おうとしているのか、かなり正確に理解してくれるらしい。
時春は再びボールを受け取り、ゆっくりとドリブルを始めた。
一定のリズムで床を叩く音が響く。その音に耳を傾けているうちに、遠く離れた日本の体育館が、ふと脳裏に浮かんだ。
◇
全中。全国中学校バスケットボール大会。
日本にいた頃、時春が仲間たちと戦い抜いた、最後の大きな大会だった。
記憶の中の体育館には、むせ返るような夏の熱気が残っている。汗の匂いとワックスの匂いが混ざり合い、観客席からは絶え間なく応援の声が降り注いでいた。
試合終了を知らせるブザーが鳴り響いたとき、時春たちは日本一になった。
仲間たちと抱き合い、声を上げ、涙を流しながら笑った。誰かが優勝トロフィーを高々と掲げると、体育館は割れんばかりの歓声に包まれた。
時春も、その輪の真ん中にいた。
けれど、あの日のことを思い返すとき、何より鮮明に蘇ってくるのは、勝利が決まった瞬間そのものではなかった。
仲間へパスを送った、あの一瞬だった。
自分が相手のディフェンスを引きつけ、わずかに生まれた隙間へボールを通す。その先には、必ず味方がいる。仲間が迷わずシュートを放ち、ボールがリングを通過すると、ベンチから歓声が上がった。
コートに立つ五人が、同じ景色を見ていた。
時春は、あの感覚が好きだった。
自分で点を取ることも、もちろん楽しい。難しいシュートが決まれば嬉しいし、相手を抜き去った瞬間には、言葉にできない爽快感がある。
それでも、自分のパスから味方が得点する喜びには、ほかの何にも代えがたいものがあった。
日本での三年間、時春はそうやってバスケットボールをしてきたのだ。
しかし、今いる場所は日本ではない。
アメリカの高校生たちは、想像していた以上に大きく、速く、力強い。言葉も違えば、プレーの感覚も違う。自分の身長は百七十センチしかなく、先ほど見たマイルズやトムと並べば、小学生と大人ほどの差があるように感じられた。
本当に、この場所で通用するのだろうか。
日本一になったという過去も、ここでは何の保証にもならない。自分を知っている人間はほとんどおらず、目の前にいる選手たちにとっては、ただの小さな日本人留学生でしかない。
時春は足元へ視線を落とした。
オレンジ色のボールが手のひらから離れ、磨かれた床に触れて、また戻ってくる。
その動きを見つめているうちに、胸の奥に生まれかけていた不安が、少しずつ静まっていった。
コートに立つ人間が違っても、国が違っても、使われている言葉が違っても、バスケットボールそのものが変わるわけではない。
ボールをつき、仲間を見つけ、空いた場所へパスを出す。
その先には、いつだって同じ高さのリングがある。
時春は小さく笑った。
そして、もう一度ボールを床へついた。
ダンッ。
聞き慣れた音が、アメリカの体育館に心地よく響いた。
◇
「HEY! LITTLE MAN!(おーい、チビ助!)」
突然、少し離れた場所から大きな声が飛んできた。
時春が顔を上げると、先ほどマイルズと一対一をしていた少年が、こちらに向かって手を振っていた。
ノア・レイノルズだった。その後ろにはマイルズ、マイク、そしてトムの姿もある。
「Yeah, you! Little man!(そう、お前だよ! そこのチビ助!)」
リトルマン。
……俺?
時春が自分を指差すと、ノアは笑顔で頷いた。
「ミー?」
「Yeah! Come here!(そうそう! ちょっと来いよ!)」
……誰がリトルマンだ。
確かに自分は小さい。だが、それにしたって、あいつらの体が大きすぎるのではないだろうか。
時春は少しむっとしながらも、呼ばれるままノアのところへ歩いていった。
「What’s your name, little man?(名前は何ていうんだ、チビ助?)」
「……トキ!」
「Toki?(トキ?)」
「イエス!」
「Nice! I’m Noah!(いい名前じゃん! 俺はノア!)」
ノアは人懐っこい笑顔で手を差し出してきた。握手を返すと、その手は時春のものよりずいぶん大きかった。
「ナイス・トゥ・ミート・ユー!」
「So, you play basketball?(で、お前、バスケやってるんだろ?)」
「イエス!」
「I saw you over there. Nice handles, man!(さっき見てたぜ。いいドリブルしてんじゃん!)」
「……ハンドルズ?」
時春は首を傾げた。ハンドルと聞くと、どうしても車のものしか思い浮かばない。
すると隣にいたエマが、すぐに教えてくれた。
「ドリブルが上手いって!」
「あー!」
なるほど。そういう意味だったのか。
「サンキュー!」
時春が笑顔で答えると、ノアは満足そうに頷き、今度は何やら早口で話し始めた。
「Listen, we’re trying to get a five-on-five going, but we’re short one guy, and I figured since you look like you know what you’re doing, maybe you wanna run with us?(なあ、今から五対五やろうと思ってんだけど、一人足りなくてさ。お前、結構うまそうだし、一緒にやんねえか?)」
時春はしばらく無言でノアを見つめた。
長い。あまりにも長すぎる。
途中までは何とか聞き取ろうとしていたのだが、言葉が次々と押し寄せてくるうちに、頭の中で処理することを諦めてしまった。
かろうじて聞き取れたのは、ファイブ・オン・ファイブ、ワン・ガイ、それからユー・ワナという表現だった。
五対五。人数。そして、自分への質問。
……つまり。
「……バスケットボール?」
「Yeah! Five-on-five!(そう! 五対五!)」
ノアは指を五本立ててみせた。
ようやく話が見えてきた。どうやら五対五をするつもりなのだが、人数が一人足りないため、自分にも参加してほしいということらしい。
……たぶん。
「You should do it, Toki!(やってみなよ、トキ!)」
エマが笑顔で背中を押した。
「Yeah, dude! Go show ’em!(そうだぜ! いっちょ見せてやれよ!)」
ジェイクもすっかり興奮している。ゾーイは腕を組み、興味深そうにコートを眺めていた。
「I’m curious, too.(私もちょっと見てみたいな)」
時春は改めて、ノアたちの姿を見た。
ノア、マイルズ、マイク、トム。そして、その向こうには別のバスケ部員らしい男子生徒たちが集まっている。
誰もが自分より背が高く、体格にも恵まれていた。
……マジか。いきなり、あの中に入るの?
緊張していないと言えば嘘になる。先ほどの二対二とは違い、今度の相手は本格的にバスケットボールをしている選手たちだ。自分の力がどこまで通用するのか、まるで見当がつかなかった。
けれど、時春は足元のバッシュを見下ろし、すぐに顔を上げた。
せっかくアメリカまで来たのだ。目の前にこんな機会があるというのに、怖がって逃げてしまっては、何のためにここへ来たのかわからない。
それに、何よりバスケがしたかった。
時春はノアへ笑顔を向けた。
「オーケー! レッツ・プレイ!」
「THAT’S WHAT I’M TALKING ABOUT!(そうこなくっちゃな!)」
ノアが嬉しそうに叫んだ。
◇
時春のチームには、ノア、マイルズ、マイク、トムの四人が入ることになった。
相手は、同じくバスケ部に所属する上級生たちを中心とした五人組だった。まだ正式なシーズンではなく、あくまでオープンジムでの気軽な試合である。チーム分けに特別な意味があるわけではない。
それでも、時春にとっては、アメリカへ来て初めて経験する本格的な五対五だった。
コートへ入ると、マイルズが腕を組んだままこちらを見た。
「This the kid?(こいつが助っ人か?)」
「Yeah! Toki! From Japan!(そう! トキ! 日本から来たんだって!)」
「Japan, huh?(日本か)」
マイルズは時春を頭から足元まで眺めた。その視線には露骨な敵意こそなかったが、体格を確かめるような遠慮のなさがあった。
「You play point guard?(ポイントガードか?)」
「イエス!」
「Alright. Just don’t turn it over.(わかった。ボールだけは取られんなよ)」
「……オーケー!」
時春が元気よく頷くと、マイルズはそれ以上何も言わずにコートへ目を戻した。
……うん。何となく、舐められてるな。
しかし、それも無理はない。百七十センチの日本人で、しかも入学したばかりのフレッシュマン。彼らからすれば、実力もわからない小柄な新入生が突然加わってきたのだから、警戒するのも当然だろう。
少し離れたところでは、トムがこちらを見ていた。
「あっ、ハロー!」
時春が笑顔で声をかけると、トムはびくっと肩を震わせた。
「Oh! H-hi.(わっ! や、やあ)」
……いや、そんなに驚かなくても。
思わず苦笑してしまう。
一方、マイクは何も言わずにシューズの紐を結び直していた。時春が手を上げると、ほんの少しだけ頷いたが、それ以上の反応はなかった。
どうやら、本当に無口な性格らしい。
「Alright! First to eleven!(よーし! 十一点先取な!)」
ノアの声が体育館に響いた。
三ポイントシュートは二点、それ以外のシュートは一点として、先に十一点を取ったチームが勝ちになる。オープンジムではよく使われる、気軽なゲーム形式だった。
時春はコートの中央に立ち、静かに息を吸い込んだ。
周囲の生徒たちの声や、別のゴールから聞こえるドリブルの音が、少しずつ遠くなっていく。
視線は自然と、目の前のコートに集中していた。
……よし。やるぞ。
◇
最初の攻撃でボールを受け取った時春は、ゆっくりとドリブルを始めた。
目の前に立つ相手チームのガードは、百八十五センチほどの身長があった。時春より頭一つ大きく、肩幅も広い。長い腕を左右に伸ばした姿には、それだけで相手の進路を狭めるような圧迫感があった。
相手は時春を見下ろし、少し笑った。
「Come on, little guy.(来いよ、坊や)」
……またリトルか。
そんなに小さいか、俺。
いや、小さいんだけどさ。
時春は内心でぼやきながら、右へドリブルをついた。
相手はすばやく足を動かし、正面に回り込んでくる。時春がもう一度切り返そうとした瞬間、長い腕が鋭く伸びた。
バシッ。
指先がボールをかすめ、軌道がわずかに乱れた。
「……っ!」
時春は慌てて体を入れ、ボールを守った。
危なかった。ほんの少し反応が遅れていたら、完全に奪われていたかもしれない。
日本で対戦してきた選手とは、守備範囲が違う。相手との距離を十分に取っているつもりでも、予想していない場所まで手が伸びてくる。間合いの感覚を、改めて考え直さなければならなかった。
時春は一度ドリブルを引き、周囲へ視線を巡らせた。
右サイドではノアが手を上げ、ボールを要求している。
「Toki! Here!(トキ! こっち!)」
「オーケー!」
時春がパスを送ると、ノアは勢いよくリングへ向かった。
一人目のディフェンスをかわし、そのまま強引にシュートを放つ。しかし、ボールはリングに嫌われ、硬い音を立てて外れた。
「Ah, come on!(ああ、マジかよ!)」
悔しがるノアの横から、マイルズがリバウンドへ飛び込んだ。周囲の選手たちを押しのけるように跳び上がると、空中でボールを掴み、そのまま力強くゴールへ押し込む。
「LET’S GO!(よっしゃあ!)」
得点に喜ぶノアとは対照的に、着地したマイルズは不満そうな顔をしていた。
「Pass the ball next time.(次はパスしろよ)」
「I had it!(今のはいけただろ!)」
「You missed!(外しただろうが!)」
「BRO!(おい!)」
時春は二人のやり取りを聞きながら、思わず苦笑した。
……大丈夫かな、この二人。
試合が始まって一分も経っていないというのに、もう言い争っている。
もっとも、二人の実力が高いことは疑いようがなかった。ノアは鋭い一歩目と優れた得点能力を持ち、マイルズは圧倒的なフィジカルを生かしてリバウンドを支配している。
ゴール下では、トムが長い腕を広げて相手のシュートを牽制していた。その高さだけでも、相手には相当な脅威になるはずだ。
では、マイクはどうしているのだろう。
時春は何となくコートの隅へ目を向けた。
マイクは右コーナーに立っていた。
相手から完全に見失われているわけではない。それでも、彼の存在感は驚くほど薄かった。ノアは自分の得点に意識を向け、マイルズはゴール下の争いに集中している。その間、マイクはほとんどボールに触れることなく、静かに味方の動きを見守っていた。
時春は先ほどのシュート練習を思い出した。
あれほど正確なシュートを打てる選手が、コートの隅で待っている。
……なるほど。
胸の中で、何かが少しずつ形を取り始めた。
◇
次の攻撃で、時春は再びボールを受け取った。
相手のガードが前へ出てくる。先ほどの一対一で相手の腕の長さは十分に理解できたため、今度は無理に抜こうとせず、ゆっくりとドリブルを続けた。
視線を上げると、コート全体の配置が自然と頭に入ってくる。
右側にはノア、左側にはマイルズ。リング近くにはトムがいて、右コーナーにはマイクが立っていた。
誰がどこにいて、相手のディフェンスが誰を見ているのか。ボールを動かしながら、それらを一つずつ確認していく。
ノアが大きく手を振った。
「Toki! Toki! I’m open!(トキ! トキ! 俺が空いてる!)」
……いや、空いてないだろ。
相手がぴったりついている。
時春は一瞬、ノアの方へ顔を向けた。それにつられて、目の前のガードもわずかに視線を動かす。
その隙を逃さず、左へドリブルを切り返した。
相手はすばやく反応したが、時春は無理に前へ進まなかった。ただ一歩、ディフェンスの重心をずらすために動いただけだった。
ほんの小さな変化だったが、それで十分だった。
時春は右コーナーへ鋭くボールを送った。
パシッ、と空気を切るような音がする。
ボールは相手ディフェンスの間を抜け、まっすぐマイクの胸元へ飛んでいった。
「……!」
マイクが驚いたように目を見開いた。
自分にパスが来るとは思っていなかったのだろう。一瞬だけ、戸惑いに似た表情が浮かぶ。
しかし、次の瞬間には、体が自然に動いていた。
マイクはボールを受け取ると、軽く膝を曲げ、滑らかな動作でシュートを放った。
ボールが高い弧を描き、リングの中央へ吸い込まれる。
パサッ。
「……おおっ!」
時春は思わず拳を握った。
「ナイス、マイク!!」
「YEAH! NICE SHOT!(よっしゃ! ナイスシュート!)」
体育館の端から歓声が上がり、ノアも大きな声で喜んだ。マイルズは軽く手を叩いている。
だが、シュートを決めた本人だけは、少し違った反応を見せていた。
マイクはしばらくその場に立ち尽くし、何かを確かめるように時春へ視線を向けた。
「……You saw me?(……僕が見えてたの?)」
「……えっ?」
あまりにも小さな声だったため、時春は聞き返した。
「You knew I was there?(僕があそこにいるって、わかってた?)」
「……あー!」
今度は意味がわかった。時春は笑顔で頷く。
「イエス! アイ、ソー、ユー!」
マイクは少し驚いたように目を丸くした。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「……Thanks.(……ありがとう)」
「ノー・プロブレム!」
時春も笑い返した。
自分がしたことは、特別なものではなかった。コーナーにいる優秀なシューターを見つけ、パスを出しただけだ。
しかし、マイクの反応を見る限り、彼はあの場所でボールを受け取ることに、あまり慣れていないのかもしれない。
あれほど正確なシュートを打てるというのに、何とももったいない話だった。
時春はもう一度マイクの方を見た。
彼はすでに守備へ戻ろうとしていたが、その足取りは先ほどより少しだけ軽く見えた。
その様子を眺めていたノアが、にやりと笑った。
「Okay, little man! I see you!(へえ、チビ助! やるじゃん!)」
マイルズも時春へ視線を向ける。
「Nice pass.(いいパスだったな)」
「サンキュー!」
時春は嬉しそうに答えた。
……よし。
少しは認めてもらえたかな。
◇
そこから、試合の流れは少しずつ変わり始めた。
ノアは相変わらず派手なプレーを好み、マイルズも力強くゴールへ向かっていく。しかし、時春がボールを持つたびに、二人の動きには今までと違うものが生まれていた。
味方のパスを待つのではなく、自分から動いてボールを受け取ろうとするようになったのだ。
ノアが右サイドからリングへ向かって切り込む。相手のディフェンスが反応した瞬間、時春はその進路へボールを送り込んだ。
「Oh!(おっ!)」
ノアは走りながらパスを受け取り、勢いを殺すことなくレイアップを決めた。
「LET’S GO!(よっしゃあ!)」
次はマイルズだった。
相手の守備がノアへ意識を向けた隙に、マイルズがゴール下へ入り込む。時春は一瞬だけ別の方向へ視線を送り、ディフェンスを引きつけてから、低く鋭いパスを通した。
ボールはマイルズの手にぴたりと収まった。
「……おっ」
マイルズは短く声を漏らすと、そのまま強く踏み込み、シュートを押し込んだ。
「That’s what I’m talking about!(そうだよ! こういうのが欲しかったんだ!)」
ノアが笑い、マイルズも満足そうに頷いた。
時春には、二人の表情が少しずつ変わっていくのがわかった。最初は自分で得点することばかり考えていた彼らが、今は味方の動きを見ながらプレーしている。
そして、次の攻撃。
時春はコートの奥にいたトムへ目を向けた。
トムは相変わらず遠慮がちで、長い腕を持て余すようにゴール付近を動いていた。味方が攻撃していても自分からボールを要求せず、周囲の様子をうかがっている。
……もったいないなあ。
あれだけの高さがあるのに、使わない手はない。
時春はゆっくりドリブルを始め、相手のディフェンスが前へ出てきたところで、トムへ視線を送った。
「トム!」
「Oh?(えっ?)」
時春はリングを指差した。
「ゴー!」
「……Huh?(……え?)」
トムは一瞬戸惑ったが、時春がもう一度動きを示すと、ようやく意味を理解したらしい。
大きな体がゴール下へ動き出す。
時春はその瞬間を見逃さず、ふわりと高いパスを放った。
ボールが相手ディフェンスの頭上を越え、トムの伸ばした両手に収まる。彼はそのまま軽く跳び上がり、リングへボールを置くようにシュートを決めた。
着地したトムは、しばらく目を丸くしていた。
自分でも、あまりに簡単に得点できたことが信じられないようだった。
「ナイス、トム!」
時春が親指を立てると、トムは照れくさそうに笑った。
「Th-thanks.(あ、ありがとう)」
時春はその姿を見ながら、改めてトムの高さに感心していた。
二百十二センチという身長に、あの腕の長さ。リング近くで高い位置にパスを出せば、相手にとっては防ぎようのない攻撃になる。
……やっぱり反則だろ、あの身長。
そう思いながらも、胸の内には次第に楽しさが膨らんでいた。
マイクには正確なシュートがあり、ノアには鋭いドライブがある。マイルズは力強いプレーでゴール下を支配し、トムは誰にも真似できない高さを持っている。
それぞれが違う武器を持ち、その能力を十分に発揮できる場所がある。
……すげえ。
この四人が本当に噛み合ったら、どれほど強くなるのだろう。
時春はそんなことを考え、思わず笑った。
問題があるとすれば、一つだけだった。
「NOAH! PASS THE BALL!(ノア! パスを出せ!)」
「I WAS OPEN!(俺が空いてたんだよ!)」
「THERE WERE THREE GUYS ON YOU!(三人に囲まれてただろうが!)」
コートの向こうで、またノアとマイルズが言い争っている。
……うん。
仲が悪いことかな。
◇
その頃、コートの外ではエマたち三人が試合を見守っていた。
「……Whoa.(……すご)」
ジェイクが思わず呟いた。
いつもなら何かと冗談を言っている彼が、今は珍しく真剣な表情でコートを見つめている。
「He’s actually really good.(トキって、マジでうまいんだな)」
「I told you!(だから言ったじゃん!)」
エマが嬉しそうに答えた。
ゾーイはスマートフォンを構え、何枚か写真を撮ってから、画面越しに時春の動きを追った。
「He’s different from the others.(ほかの子たちと、ちょっと違うね)」
「What do you mean?(どういうこと?)」
ジェイクが尋ねると、ゾーイは少し考えてから、コートの中央を指差した。
「He doesn’t look like he’s trying to be the star.(自分が主役になろうとしてないっていうか)」
そして、落ち着いた声で続けた。
「But everyone’s playing better when he has the ball.(でも、トキがボールを持つと、みんな上手くプレーできてる)」
エマは黙ってコートへ視線を戻した。
時春からのパスを受け、マイクがシュートを決める。ノアは嬉しそうに声を上げ、マイルズは力強く拳を握った。トムも少し照れくさそうに笑っている。
そして、そんな彼らの真ん中で、時春自身も誰より楽しそうに笑っていた。
彼は自分が得点していなくても、まるで自分のことのように喜んでいる。
エマはその姿を見つめながら、小さく頷いた。
「……Yeah.(……うん)」
口元に、自然と笑みが浮かぶ。
「That’s so Toki.(トキらしいね)」
◇
試合が終盤に差しかかる頃には、体育館の空気も少しずつ変わっていた。
得点は八対九。時春たちのチームが一点差で追いかけている。
最初は気軽な遊びのつもりだったはずが、いつの間にか双方の選手たちは真剣な表情になっていた。マイルズは額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、ノアは肩で息をしながら次の攻撃に備えている。
相手チームの選手たちも、すでに時春を単なる小柄な新入生とは見ていなかった。
時春がボールを持つと、ディフェンスがすぐに距離を詰めてくる。ドリブルを始めれば、簡単には前を向かせまいと長い腕が伸び、パスコースにも警戒の目が向けられた。
それは、時春にとって決して嫌な変化ではなかった。
むしろ、少し嬉しかった。
相手が自分を警戒しているということは、それだけの選手だと認めてくれているということでもある。
日本を離れてから、初めて味わうその感覚に、時春は小さく笑った。
「Toki! Let’s go!(トキ! 一本取るぞ!)」
ノアが声を上げる。
「オーケー!」
時春はボールを受け取り、ゆっくりとドリブルを始めた。
相手のガードが低く構える。その向こうでは、マイルズがゴール下で相手と激しく位置を争い、ノアは右サイドでパスを待っていた。トムもリング近くに立ち、長い腕を使ってディフェンスを牽制している。
そして、左コーナーにはマイクがいた。
時春は何気なくそちらへ視線を走らせた。
マイクを守っている相手選手が、ボールの動きを気にしている。視線は時春へ向けられ、ときおりゴール下にも移っていた。
その一瞬、マイクから目が離れた。
……あっ。
時春の頭の中で、いくつかの動きが自然につながった。
右へ一歩踏み込むと、目の前のガードがすばやく反応した。さらにドリブルを一つ加えると、中央のディフェンスもわずかに時春へ意識を向ける。
その小さな変化を確かめた瞬間、時春は左コーナーへ鋭くパスを送った。
ボールがディフェンスの間を抜けていく。
受け取ったマイクの前には、誰もいなかった。
完全なフリーだった。
マイクは落ち着いてボールを構え、滑らかな動作でシュートを放つ。
その瞬間、時春にはもう結果がわかっていた。
ボールが美しい弧を描き、リングの中央を通過する。
パサッ。
「YOOOOOO!!(うおおおお!!)」
ノアが歓声を上げた。
十対九。時春たちのチームが逆転した。
「ナイス、マイク!!」
時春が拳を握ると、マイクは小さく頷いた。
そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
ほかの誰かが見ていれば、気づかなかったかもしれない。それほど小さな変化だったが、時春には彼が喜んでいることがはっきりとわかった。
しかし、その喜びに浸る間もなく、相手チームがゴール下で得点を返した。
十対十。
同点になったところで、選手たちは再びコートの中央へ集まった。
次の一本で勝敗が決まる。
時春は額の汗を拭い、静かに息を整えた。
◇
「Alright, alright!(よし、よし!)」
ノアがボールを受け取り、時春へ視線を向けた。
「Little man!(チビ助!)」
「……ん?」
またリトルマンか、と時春は少しむっとした。しかし、ノアの顔には挑発ではなく、楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「Your turn.(次はお前の番だ)」
「……?」
意味がわからず首を傾げる時春に、ノアはボールを差し出した。
「Go get a bucket!(一本決めてこい!)」
……えっ。
俺?
自分を指差して確認すると、ノアは大きく頷いた。
「ミー?」
「Yeah, you!(そう、お前だよ!)」
そして、仲間たちへ向かって声を張り上げた。
「Iso! Everybody clear out!(アイソだ! みんな場所を空けろ!)」
マイルズが小さく笑う。
「Let’s see what you got, Toki.(見せてもらおうじゃねえか、トキ)」
アイソレーション。
味方が左右へ広がってスペースを空け、ボールを持った選手に一対一の勝負を任せる攻撃だ。
ノアは、最後の一本を時春自身に決めろと言っているらしかった。
時春は少し驚いた。
ここまでの試合では、自分から積極的に得点を狙うことはほとんどなかった。別にシュートが苦手なわけではない。ただ、ほかにもっといい位置にいる味方がいたから、そちらへパスを出していただけだ。
自分で無理に得点を狙うより、確率の高い選択をする。それが、時春のこれまでのプレーだった。
けれど、今は少し状況が違う。
ノアもマイルズも、自分に勝負を任せようとしている。
……そっか。
最後は俺が決めろってことね。
時春はゆっくりと頷いた。
「……オーケー!」
ノアからボールを受け取ると、仲間たちが自然にコートの左右へ広がっていった。
目の前には、先ほどから何度も対戦している相手チームのガードが立っている。身長は時春より頭一つ高く、腕も長い。相手は両膝を曲げ、腰を深く落として構えた。
「Come on, Toki. Show me.(来いよ、トキ。見せてみろ)」
時春は一度、大きく息を吐いた。
周囲から聞こえていた声が、少しずつ遠ざかっていく。体育館の照明も、コートの外に立つ生徒たちの姿も、今はほとんど意識に入ってこなかった。
目の前には相手がいて、その向こうにはリングがある。
ただ、それだけだった。
時春は右手でボールを床へついた。
ダンッ。
相手は慎重に距離を詰めてくる。
右へ小さくフェイントをかけると、相手の足が動いた。左へ切り返してみるが、すぐに反応される。
いいディフェンスだった。
重心は低く、無駄な動きも少ない。腕が長いため、少しでもボールを体から離せば奪われる危険がある。
正面から強引に抜くのは簡単ではないだろう。
時春はドリブルを続けながら、相手の足元へ視線を落とした。
重心の置き方、膝の向き、床を踏む足の角度。何度かフェイントを繰り返すうちに、相手が次にどちらへ動こうとしているのか、そのわずかな兆しが見えてきた。
……見えた。
時春は右へ大きく踏み込んだ。
相手のガードが反応し、体重を右足へ移す。
その瞬間だった。
ダンッ!!
時春は鋭いクロスオーバーでボールを右手から左手へ切り返し、同時に体の重心を逆方向へ移した。
相手の体は、もう右へ動き始めていた。
「……っ!?」
方向を変えようとした足がついてこない。上半身だけが取り残され、重心が崩れる。
次の瞬間、相手のガードは床に片手をついた。
ドサッ!
アンクルブレイク。
急激な方向転換によってディフェンスのバランスを崩し、足をもつれさせるプレーだった。
時春の目の前から、相手の姿が消えた。
リングまでの道が、まっすぐに開いていた。
……よし。
左手でドリブルを続けながら、リングへ向かう。
ほかのディフェンスが慌てて寄ってきたが、すでに時春はゴール下へ踏み込んでいた。
一歩、そしてもう一歩。
軽く跳び上がり、右手でボールを持ち上げる。
力任せに投げる必要はなかった。
指先から静かに離れたボールが、バックボードへ柔らかく触れる。
コンッ。
そして、リングの内側を通り抜けた。
パサッ。
十一対十。
試合終了だった。
時春が着地した瞬間、体育館にはほんのわずかな静寂が生まれた。
それは、誰もが今のプレーを理解するまでの短い時間だった。
そして、次の瞬間。
「OOOOOOOOOOH!!!!(うおおおおおおおっ!!!!)」
大きな歓声が弾けた。
「BROOOOO!!(おいおいおいおい!!)」
ノアは両手を頭に乗せ、信じられないという顔で叫んだ。
「HE BROKE HIS ANKLES!!(あいつ、足もつれさせたぞ!!)」
マイルズも目を見開いている。
「OH, THAT WAS NASTY!(うっわ、えげつねえな!)」
コートの周囲では、ほかの生徒たちも次々と声を上げていた。
「YOOOO!(うおおっ!)」
「NO WAY!(マジかよ!)」
「DID YOU SEE THAT!?(今の見たか!?)」
時春はリングの下で振り返り、少し戸惑いながら周囲を見回した。
……えっ。
そんなに?
確かに、相手のバランスをうまく崩すことはできた。タイミングもよかったし、最後のレイアップも落ち着いて決められた。
けれど、似たようなプレーは日本でも何度か成功させたことがある。そこまで大騒ぎされるほど特別なことをしたとは、本人には思えなかった。
時春がきょとんとしていると、ノアが勢いよく駆け寄ってきた。
「LITTLE MAAAAAN!!(チビ助ぇぇぇ!!)」
「うわっ!」
突然肩を抱かれ、時春はよろけそうになった。
「THAT WAS CRAZY!!(今のヤバすぎだろ!!)」
「ア、サンキュー!」
ノアの興奮はなかなか収まらなかった。その隣へ、今度はマイルズが近づいてくる。
彼は大きな手で、時春の背中を力強く叩いた。
「Nice move, little man.(いい動きだったぜ、チビ助)」
「いって!」
思わず声が漏れた。
……痛っ! おい、力加減!
マイルズは気にする様子もなく豪快に笑っている。
その後ろでは、トムが控えめに拍手していた。
「Th-that was really good.(す、すごく上手だったよ)」
「あっ、サンキュー!」
時春が笑顔で答えると、トムも安心したように笑った。
最後にマイクへ視線を向けると、彼は少し離れた場所に立ち、こちらを見ていた。
目が合うと、マイクは小さく親指を立てた。
「……Nice.(……ナイス)」
……おお。喋った。
時春は思わず笑ってしまった。
こうして、アメリカで初めて経験した本格的な五対五は、思いがけない盛り上がりの中で幕を閉じた。
◇
「TOKIIIIII!!(トキぃぃぃ!!)」
試合が終わってベンチへ戻ろうとしたところへ、今度はジェイクが飛び込んできた。
「DUDE! WHAT WAS THAT!?(おい! 今の何だよ!?)」
「えっ?」
「YOU MADE THAT GUY FALL!(あいつ、転んじゃったじゃねえか!)」
ジェイクは興奮のあまり、いつも以上に声が大きくなっていた。
時春は少し照れくさくなりながら、笑って答えた。
「アー……バスケットボール!」
「I KNOW IT’S BASKETBALL!(バスケなのは知ってるわ!)」
ゾーイが吹き出した。
「That was actually impressive.(今のは本当にすごかったね)」
「サンキュー!」
時春は嬉しそうに頷いた。すると、その向こうから自分を呼ぶ声が聞こえた。
「Toki!(トキ!)」
エマが駆け寄ってきた。
ふわりと揺れる茶色い髪と、興奮したように輝く瞳。時春の目の前で足を止めると、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「That was amazing!(すっごくかっこよかった!)」
「……えっ?」
時春は思わず動きを止めた。
アメイジング。すごい、という意味だ。
……あっ。今、褒められた?
「You were so good out there!(コートのトキ、すっごく上手だったよ!)」
エマは嬉しそうに続けた。
「And that last move! Oh my gosh!(それに最後のあの動き! もう、びっくりした!)」
「ア、サンキュー!」
時春は少し頬を赤くした。
ノアやマイルズに褒められたときも、もちろん嬉しかった。自分よりずっと大きく、経験も豊富そうな選手たちに認めてもらえたことは、何よりの自信になった。
それなのに、エマの言葉には、また別の嬉しさがあった。
何が違うのか、自分でもうまく説明できない。けれど、彼女が笑顔で話しかけてくれるたびに、胸のあたりが妙に落ち着かなくなる。
……いや、別に。深い意味はないけど。
「Seriously, Toki. That was really cool.(ほんとに、トキ。すごくかっこよかった)」
エマはもう一度そう言って、にっこり笑った。
時春は思わず視線を逸らした。
……やばい。
ちょっと嬉しすぎる。
そのときだった。
「……Heeeeeey.(……お〜いおい)」
聞き覚えのある、妙に含みを持たせた声がした。
振り返ると、ジェイクが例によってにやにやしている。
「Look at our boy Toki!(見ろよ、俺たちのトキを!)」
「……何だよ」
「Showing off in front of Emma!(エマの前でかっこつけちゃってさ!)」
ショーイング・オフ。エマ。
時春はその二つの言葉を聞いた瞬間、嫌というほど意味を察した。
……おい。
何となくわかったぞ、今の。
顔が熱くなるのを感じながら、慌てて否定する。
「ノー!!」
「HAHAHAHA!!(あははは!!)」
「ジェイク!」
「Yeah?(ん?)」
ジェイクは面白がるばかりで、少しも悪びれる様子がなかった。
時春は大きく息を吸った。
「シャラァァァップ!!」
「THERE IT IS!!(出たぁぁぁ!!)」
ジェイクは腹を抱えて笑い、ゾーイも肩を震わせた。
エマは最初こそきょとんとしていたものの、二人のやり取りを理解したのか、やがて楽しそうに笑い始めた。
「Hahaha! Toki!(あはは! もう、トキったら!)」
時春は深いため息をついた。
せっかく最後のプレーを格好よく決めたというのに、どうして結局こうなるのだろう。
……まったく。
でも、エマがあんなふうに笑ってくれるなら、まあいいか。
そう考えてしまった自分に気づき、時春はまた少し恥ずかしくなった。
◇
それからしばらくして、時春がベンチに座って水を飲んでいると、ノアが近づいてきた。
「Yo, Toki!(よう、トキ!)」
「あっ、ノア!」
時春が手を上げると、ノアは隣に腰を下ろし、親しげに肩を叩いた。
「Man, you can really play.(お前、マジでバスケうめえな)」
「サンキュー!」
「You trying out for the Breakers?(ブレイカーズのトライアウト、受けるんだろ?)」
トライアウト。ブレイカーズ。
その二つの単語は、時春にもはっきりと聞き取れた。
「イエス!」
「Nice! We need guys who can pass like that.(いいね! お前みたいにパス出せるやつ、うちには必要だぜ)」
「……オー!」
時春は思わず笑顔になった。
この学校へ来た理由の一つが、ようやく現実のものとして手の届く場所に現れた気がした。
まだ正式にチームへ入れたわけではない。今日の試合はあくまでオープンジムでの遊びであり、本格的なトライアウトではもっと厳しく実力を試されるはずだ。
自分には足りないものも多い。体格差は埋められていないし、相手の長い腕や素早い守備に戸惑う場面もあった。
それでも、アメリカの選手たちを相手に、自分のプレーが通用する瞬間があった。
それも、ただ得点するだけではない。自分のパスで仲間がシュートを決め、笑顔になる。日本でずっと大切にしてきたプレーが、この場所でも確かに意味を持っていた。
そのことが、何より嬉しかった。
……よかった。
時春が静かにそんなことを考えていると、ノアが突然にやりと笑った。
「Oh, and hey!(あ、それとさ!)」
「ん?」
「I’m throwing a party at my place soon. You should come!(今度、俺んちでパーティーやるんだ。お前も来いよ!)」
時春は思わず顔を上げた。
パーティー。マイ・プレイス。カム。
聞き取れた言葉を頭の中で並べていくうちに、ある可能性が浮かんできた。
「……パーティー?」
「Yeah! A house party!(そう! ホームパーティーだ!)」
「……ホーム、パーティー?」
「Music, food, friends! It’s gonna be awesome!(音楽! 飯! 友達! 絶対盛り上がるぜ!)」
時春の目が、次第に輝き始めた。
ホームパーティーといえば、映画やドラマで何度も見たことがある。大きな家に友達が集まり、音楽を流しながら食べたり、喋ったり、踊ったりする、あのいかにもアメリカらしい光景だ。
もちろん、実際に参加したことはない。どういう服装で行けばいいのかも、どんなことをするのかもわからなかった。
それでも、想像しただけで胸が躍った。
……えっ、マジ?
俺も行っていいの?
「You in, little man?(どうだ、チビ助。来るか?)」
ノアが笑顔で尋ねる。
時春は一瞬だけ考えた。
知らない人も大勢いるだろう。英語だって、まだ十分には話せない。そもそもアメリカのホームパーティーがどんなものなのか、本当のところはよく知らなかった。
けれど、そうした不安は、今の時春には大した問題に思えなかった。
知らないからこそ、行ってみたい。
アメリカへ来てから、そんな気持ちが少しずつ大きくなっている。
「イエス!!」
時春は勢いよく立ち上がった。
「オブコース!! アイ、ワナ、ゴー!!」
「HAHA! THAT’S MY GUY!(ハハッ! 最高だぜ、お前!)」
ノアが大笑いし、嬉しそうに拳を突き出した。
時春も笑顔で拳を合わせる。
ごつん、と小さな音がした。
「I’ll send you the details!(詳しいことはあとで送るぜ!)」
「オーケー!」
時春は大きく頷いた。
ホームパーティー。
アメリカに来て、まだ一か月も経っていない。それなのに、映画の中でしか知らなかったような出来事が、少しずつ自分の日常になり始めている。
時春は興奮を抑えきれず、何度も小さく笑った。
……すげえな、アメリカ。
◇
体育館を出る頃には、夕方の陽射しが校舎を淡い橙色に染めていた。
昼間の熱気はまだ地面に残っていたが、海の方から吹いてくる風には、どこか涼しさが混じっている。遠くのグラウンドでは、アメフト部らしい生徒たちが掛け声を上げながら走っていた。
時春はスポーツバッグを肩にかけ、エマたちと並んで歩いていた。
体には心地よい疲労が残っている。長い間忘れていたような、練習後特有の重たさだった。
「So, Noah invited you to his party?(それで、ノアのパーティーに誘われたの?)」
エマが興味深そうに尋ねてきた。
「イエス!」
「That’s exciting!(いいじゃん! 楽しそう!)」
「ホームパーティー!」
時春は嬉しそうに両手を広げる。
「アメリカン・ホームパーティー!」
「Hahaha! Yeah!(あはは! そうだね!)」
エマが楽しそうに笑った。
その隣では、ジェイクもすっかり興奮している。
「Bro, Noah’s parties are legendary!(おい、ノアのパーティーってめちゃくちゃ有名なんだぜ!)」
「……レジェンダリー?」
「Legendary!(伝説級ってこと!)」
「オー!」
時春は目を輝かせた。
伝説級とは、なかなか大げさな表現だ。けれど、ジェイクがあそこまで言うのだから、きっと賑やかなパーティーなのだろう。
「Don’t get too excited.(あんまり期待しすぎないでよ)」
ゾーイが冷静に口を挟んだ。
「Last time, Jake spilled soda all over himself.(この前なんか、ジェイクが自分にジュースぶちまけてたし)」
「THAT WAS AN ACCIDENT!(あれは事故だろ!!)」
「You were trying to dance.(踊ろうとしてたよね)」
「I WAS DANCING!(踊ってたんだよ!!)」
ジェイクが必死に抗議する姿に、時春は思わず吹き出した。エマも口元を押さえながら笑っている。
……何やってんだ、こいつ。
そんな何でもないやり取りを聞きながら歩いていると、時春はふと、今日一日の出来事を思い返した。
昼休みにジェイクからオープンジムの話を聞いたときには、まさかこんな一日になるとは思っていなかった。
初めて足を踏み入れたCBAの体育館。そこに掲げられていた州優勝のバナー。そして、今まで見たこともないような体格を持つ選手たち。
マイルズの豪快なダンクには圧倒されたし、ノアの鋭いドライブには驚かされた。マイクの正確なシュートも、トムの長すぎる腕も、今まで知っていたバスケットボールの世界を、少しだけ広げてくれた気がする。
何より嬉しかったのは、その四人と同じコートに立てたことだった。
言葉がすべて通じなくても、パスを出すことはできた。国が違っても、いいシュートが決まれば嬉しいし、仲間が得点すれば自然と笑顔になる。
ボールを受け取ったマイクが驚いたように自分を見たことも、トムが得点したあとに照れくさそうに笑っていたことも、時春の記憶には鮮やかに残っていた。
日本を離れるとき、ずっと心配していたことがある。
百七十センチの自分が、アメリカのバスケで本当に通用するのか。
日本一になった経験も、積み重ねてきた練習も、こちらへ来れば通用しないのではないか。そんな不安がなかったと言えば嘘になる。
今日の試合だけで、その答えが出たわけではない。
十一月のトライアウトでは、もっと大きく、もっと速く、もっと強い相手と戦うことになるのだろう。今日一緒にプレーした四人と同じユニフォームを着られる保証も、まだどこにもない。
それでも、少なくとも一つだけ、確かめられたことがあった。
自分はこの場所でも、バスケットボールを楽しめる。
コートに立ち、仲間の動きを見て、パスを出す。あの瞬間、自分は日本にいた頃と何も変わらず、ただバスケに夢中になっていた。
その事実だけで、胸の中にあった不安が少し軽くなった気がした。
時春は夕暮れの空を見上げ、小さく笑った。
……やっぱり、バスケっていいな。
「Toki?(トキ?)」
隣からエマに呼ばれ、時春は顔を向けた。
「ん?」
「You’re smiling.(なんか、笑ってるよ)」
「……えっ?」
時春は自分の頬に触れてみた。
言われて初めて、口元が緩んでいることに気づいた。
どうやら、考えていることがそのまま顔に出ていたらしい。
「Having a good day?(今日は楽しかった?)」
エマは笑顔で尋ねた。
時春は少し考えた。
久しぶりのバスケ。新しく出会った仲間たち。初めての五対五。そして、これから待っているホームパーティー。
隣にはエマがいて、少し前を歩くジェイクは相変わらず騒がしく、ゾーイはそんな彼に呆れながらも笑っている。
少し前まで、この学校には自分の知り合いなどほとんどいなかった。
それが今では、こうして一緒に帰る友達がいる。
時春は改めて三人の顔を見た。
……うん。
これはもう、最高だろ。
「イエス!」
満面の笑みを浮かべ、両手を大きく広げる。
「アイ、ラブ、アメリカ!!」
「HAHAHAHA!!(あははは!!)」
ジェイクが声を上げて笑い、ゾーイもつられるように笑った。エマは嬉しそうに拍手している。
四人の笑い声が、夕暮れのキャンパスに広がっていった。
高山時春、十五歳。
アメリカでの生活は九月に入り、少しずつ日常らしい形を持ち始めていた。
英語はまだ十分に話せないし、アメリカの高校生の中では身長もかなり小さい。ブレイカーズの一員になれるかどうかも、今はわからない。
それでも、初めてこの学校へ来た頃とは、確かに何かが違っていた。
知っている顔が増え、挨拶を交わす相手ができた。行ってみたい場所や、楽しみにしている予定も少しずつ増えている。
自分の居場所というものは、きっと、最初から用意されているわけではないのだろう。
誰かと話し、一緒に笑い、ときには失敗しながら、少しずつ作っていくものなのかもしれない。
時春はそんなことを考えながら、夕陽に照らされた校舎を眺めた。
……いやあ。
アメリカン・ハイスクールライフ。
何だか、めちゃくちゃワクワクしてきたぞ。
◇
その日の夜。
寮のベッドに寝転がり、スマートフォンを眺めていた時春のもとへ、Instagramの通知が届いた。
送信者はノアだった。
メッセージにはホームパーティーの日時と場所が記され、最後にはこんな一文が添えられていた。
『Don’t be late, LITTLE MAN!(遅刻すんなよ、チビ助!)』
時春はしばらく画面を見つめた。
……リトルマン。
今日だけで何度、この言葉を聞いただろう。
ノアも、マイルズも、相手チームの選手まで、自分のことをそう呼んでいた。
確かに小さいのは認める。けれど、何もそこまで繰り返さなくたっていいじゃないか。
そう思った途端、昼間から溜め込んでいた不満が、思わず口をついて出た。
「……だから誰がリトルマンだよ!!」
隣のベッドでゲームをしていたラリーが、びくっと肩を震わせた。
「OH MY GOD, TOKI!(うわっ、何だよトキ!)」
ラリーはメガネを押し上げ、呆れたように振り返った。
「Can you stop yelling for five minutes!?(五分くらい静かにできないの、君は!?)」
「……ソーリー!」
「……Seriously?(……まったく、君ってやつは)」
ラリーは深いため息をつき、再びゲームの画面へ向き直った。
時春は思わず笑いながら、もう一度スマートフォンを見た。
画面にはノアからのメッセージが残っている。
ホームパーティーへの招待。
それは、アメリカへ来る前には想像もしていなかった、新しい楽しみだった。
昼間の体育館の光景を思い出す。マイクのシュート、マイルズのダンク、ノアの笑顔。そして、最後のプレーを褒めてくれたエマの顔。
そのどれもが、まだ鮮明に記憶に残っていた。
窓の外では、カリフォルニアの夜風が木々を静かに揺らしている。
遠い国までやってきて、まだ一か月も経っていない。
それなのに、明日が来ることをこんなに楽しみにしている自分がいる。
時春はスマートフォンを胸元に置き、満足そうに目を閉じた。
……うん。
やっぱり、最高じゃん。