CRESCENT BAY ACADEMY   作:西野圭吾

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第7話 クラブラッシュ

 九月のある水曜日、高山時春は朝から奇妙なことを考えていた。

 

 きっかけは、教室へ向かう途中で見つけた一枚のポスターだった。生徒たちが行き交う廊下の掲示板に、青と白の大きな文字でこう書かれていたのである。

 

『CLUB RUSH — TODAY!』

 

 クラブ・ラッシュ。

 

 時春はその文字を見つめ、ゆっくりと首を傾げた。

 

 クラブ。

 

 その単語には、もちろん聞き覚えがある。日本にもクラブ活動という言葉があるし、学校の資料にも何度か登場していた。ただ、今の時春にとって、クラブという言葉から真っ先に連想されるのは、学校の部活動とは少し違うものだった。

 

 薄暗い部屋。激しい音楽。色とりどりの照明。大勢の若者たちが踊り、飲み物を片手に歓声を上げる。

 

 そして、知らない部屋を開けてしまったときの、あの気まずい光景。

 

 ……いや。

 

 それはクラブっていうか、ノアのホームパーティーだろ。

 

 つい先日、時春は初めてアメリカの高校生のパーティーに参加したばかりだった。豪邸でゲームをしたり、知らない人たちと笑ったり、少々怖い思いをしたりと、なかなか忘れがたい経験になった。その記憶がまだ鮮やかだったせいで、目の前のポスターを見ても、ついそちらの世界を想像してしまう。

 

 ……でも、待てよ。

 

 クラブ・ラッシュ。

 

 今日。

 

 しかも、学校の掲示板。

 

「……えっ、学校でクラブ?」

 

 思わず日本語が漏れた。

 

 まさか、校内でパーティーでも開くのだろうか。体育館に大きなスピーカーを設置して、先生たちまで踊り始めたりするのかもしれない。

 

 いや、さすがにそれはないか。

 

 でも、アメリカだしなあ。

 

「TOKI!(トキ!)」

 

 背後から大きな声がして、時春はびくっと肩を揺らした。

 

 振り返ると、ジェイク・ハリスが満面の笑みで近づいてくるところだった。いつものようにリュックを片方の肩だけに掛け、もう片方の手には半分ほど食べたベーグルを持っている。朝からずいぶん元気である。

 

「You ready for Club Rush?(クラブ・ラッシュ、楽しみだろ?)」

 

「……クラブ?」

 

「Yeah! It’s gonna be awesome!(そうそう! めっちゃ盛り上がるぜ!)」

 

「……ミュージック?」

 

「Huh?(は?)」

 

「ダンス? パーティー?」

 

 時春は両手を上げ、ぎこちなく体を揺らしてみせた。自分では踊っているつもりだったが、ジェイクには何かの発作に見えたかもしれない。

 

 案の定、相手は数秒間ぽかんとしたあと、突然吹き出した。

 

「PFFFT! BRO!(ぶっ! おいおい!)」

 

「……?」

 

「You think Club Rush is a nightclub party!?(お前、クラブ・ラッシュを夜遊びのクラブだと思ってんの!?)」

 

「……ナイトクラブ?」

 

「HAHAHAHA!(あっはははは!)」

 

 ジェイクは廊下の真ん中で腹を抱えて笑い始めた。何がそんなに面白いのか、通りかかった生徒まで振り返っている。

 

 ……おい。

 

 ちょっと待て。

 

 まだ何も言ってないだろ。

 

 いや、ダンスの真似はしたけど。

 

「What’s so funny?(何がそんなにおかしいの?)」

 

 今度はエマの声がした。

 

 振り返ると、エマ・パーカーとゾーイ・ウォーカーが並んで歩いてきた。エマは淡いクリーム色のカーディガンを羽織り、ゆるく波打つ茶色い髪を肩へ流している。ゾーイは黒いトップスにデニムという格好で、首からカメラを下げていた。

 

 ……おっ。

 

 今日はカメラなんだ。

 

 そう思っている間に、ジェイクが早口で事情を説明し始めた。

 

「Toki thinks we’re throwing a nightclub party at school!(トキのやつ、学校でナイトクラブのパーティーやると思ってんだぜ!)」

 

「What!?(えっ!?)」

 

 エマが目を丸くした。

 

 そして、口元を押さえて笑う。

 

「Oh my gosh, Toki!(もう、トキったら!)」

 

「……えっ?」

 

「Club Rush is for school clubs!(クラブ・ラッシュは学校のクラブ活動のイベントだよ!)」

 

「……スクール、クラブ?」

 

「Yeah! Like photography, theater, robotics, things like that.(そう! 写真とか演劇とか、ロボット工学とか、そういうクラブ!)」

 

 時春は数秒間考えた。

 

 フォトグラフィー。

 

 シアター。

 

 ロボティクス。

 

 ……あっ。

 

 部活か!

 

 ようやく意味が繋がった。

 

 クラブ・ラッシュとは、CBAで毎年九月に開催されるクラブ勧誘イベントらしい。各クラブのメンバーがブースを出し、新入生や興味のある生徒に活動内容を紹介する。日本の新入生歓迎会や部活動紹介に近いが、運動部以外の活動も数多く参加するという。

 

 なるほど。それなら納得だ。

 

「……オー!」

 

 時春が大きく頷くと、ゾーイが淡々と言った。

 

「Sorry to disappoint you. No dance floor in the library.(残念だったね。図書館にダンスフロアはないから)」

 

「……ノー・ダンス?」

 

「Tragic, I know.(悲しいよねえ、わかるわ)」

 

 ジェイクがまた笑い始める。

 

 時春は顔を赤くした。

 

 ……くっそ。

 

 完全に勘違いした。

 

 だいたい、クラブって意味が多すぎるんだよ。部活もクラブ、夜遊びもクラブ。どうして同じ単語で、そんなに違うものを表すのか。

 

 アメリカに来てからというもの、英語には何度も振り回されている。

 

 今日もまた、一つ勉強になった。

 

     ◇

 

 午後三時を過ぎる頃、CBAの中央広場は、普段とはまったく違う景色になっていた。

 

 白い校舎に囲まれた芝生の上には何十ものテントや長机が並び、その一つ一つに色とりどりのポスターが掲げられている。青と白の小旗が風に揺れ、広場の奥では生徒たちが楽器を演奏していた。焼きたてのポップコーンの匂いが漂い、どこかのブースからは歓声が上がる。強い日差しの下を大勢の生徒が行き交い、あちこちで笑い声と呼び込みの声が交錯していた。

 

 時春は広場へ足を踏み入れるなり、思わず立ち止まった。

 

「……うおおお……!」

 

 すごい。

 

 何だ、これ。

 

 想像していた部活動紹介とは、規模がまるで違った。

 

 日本の中学校でも新入生向けの部活動紹介はあったが、ここまでお祭りのような雰囲気ではなかった。各部の代表が体育館で説明したり、先輩たちが練習風景を披露したりする程度だった気がする。

 

 ところが、目の前の広場はまるで小さなフェスティバルだった。

 

 演劇クラブのブースでは、衣装を着た生徒が舞台の一場面を演じている。ロボット工学クラブの机では、小さな車のような機械が走り回っていた。写真クラブには大きく引き伸ばされた風景写真が並び、サーフィンクラブでは本物のボードが何枚も立てかけられている。そのほかにも、ディベート、チェス、環境保護、料理、映画制作、ボランティア、天文学、ゲーム、学校新聞と、名前を読むだけでは何をするのかわからないクラブまであった。

 

 時春は入り口近くで配られていた案内用紙を広げた。

 

 そして、絶句した。

 

 ……多っ。

 

 何だよ、この数。

 

 小さな文字でびっしりと印刷されたクラブの一覧は、裏面まで続いていた。CBAには八百人ほどの生徒がいると聞いていたが、こんなに多くの活動が存在するとは知らなかった。スポーツだけでもかなりの種類があるのに、授業の外でさらにこれだけのことをしているのである。

 

「Pretty cool, right?(すごいでしょ?)」

 

 隣でエマが微笑んだ。

 

「イエス! ベリー、クール!」

 

 時春は目を輝かせて頷いた。

 

 ジェイクはというと、すでに我慢できなくなったらしい。時春たちを振り返るなり、両手を広げて叫んだ。

 

「ALRIGHT! LET’S GOOOO!(よっしゃ! 行くぞおお!)」

 

「Jake, it’s a club fair, not the Super Bowl.(ジェイク、これクラブ紹介だから。スーパーボウルじゃないからね)」

 

※スーパーボウル:アメリカンフットボールのプロリーグ「NFL」の年間王者を決める決勝戦。全米が熱狂する、アメリカ最大級のスポーツイベント。

 

 ゾーイが呆れたように言った。

 

「EVERYTHING IS THE SUPER BOWL IF YOU BELIEVE!(気持ち次第で何だってスーパーボウルになるんだよ!)」

 

「That doesn’t mean anything.(何一つ意味わかんない)」

 

 しかし、ジェイクはもう聞いていなかった。

 

 彼は近くのテントへ駆け寄ると、そこにいた男子生徒と勢いよくハイタッチを交わした。

 

「BRO! YOU’RE HERE!(おい! お前ここにいたのか!)」

 

「JAKE! WHAT’S UP!?(ジェイク! 元気かよ!?)」

 

 そのまま二人は肩を抱き合い、何やら大声で話し始める。

 

 ……いや。

 

 お前、そこのクラブのメンバーなの?

 

 時春が不思議に思っていると、ジェイクは今度は隣のブースに移動し、そこにいた女子生徒にも声をかけた。さらにその向こうのテントでは上級生らしい男子と拳を合わせ、演劇クラブの前では衣装を着た女子たちに囲まれていた。

 

「Jake! You should audition this year!(ジェイク! 今年こそオーディション受けなよ!)」

 

「Me? On stage? I’d be amazing!(俺が舞台に? 最高だろ!)」

 

「You said that last year.(去年もそう言ってたよね)」

 

「AND I WAS RIGHT!(で、実際その通りだろ!)」

 

 ……何だ、こいつ。

 

 時春は呆然とした。

 

 行く先々に知り合いがいる。

 

 しかも、どのブースでも妙に歓迎されている。

 

 ジェイクは演劇部のポスターを受け取り、次にチェスクラブの先輩と握手し、その五分後には環境保護クラブのテントで何かの抽選に参加していた。勧誘されているのか、勧誘する側なのか、もはや判断がつかない。

 

「……ジェイク、フレンズ……メニー?」

 

 時春が呟くと、エマは楽しそうに笑った。

 

「He knows everybody.(ジェイクって、みんなと知り合いなの)」

 

「……エブリバディ?」

 

「Pretty much.(ほとんどね)」

 

 ゾーイが肩をすくめる。

 

「He’s like a golden retriever that learned how to talk.(喋れるようになったゴールデンレトリバーみたいなやつだから)」

 

「…………」

 

 ゴールデンレトリバー。

 

 犬。

 

 時春は少し考えてから、吹き出した。

 

 ……ああ。

 

 似てるかも。

 

 確かに、誰にでも尻尾を振って近づいていく大型犬みたいだ。本人に伝えたら怒るかもしれないが、たぶん少し喜ぶ気もする。

 

     ◇

 

 最初に足を止めたのは、学校新聞のブースだった。

 

『THE CURRENT — CBA STUDENT NEWSPAPER』

 

 白いテントの下には過去の新聞や写真が展示され、ノートパソコンの画面には学校行事を撮影した画像が映っている。壁代わりに設置されたボードには、アメフトの試合やキャンパスの風景、海辺での清掃活動など、さまざまな写真が貼られていた。

 

 その中に、時春は見覚えのある光景を見つけた。

 

 フライデーナイト・フットボール。

 

 青と白の観客席。

 

 そして、両腕を突き上げて叫んでいる、どこかの男子生徒。

 

「……ん?」

 

 時春は写真へ顔を近づけた。

 

 青いユニフォームの選手がフィールドを走っている。その手前、観客席の端で、口を大きく開けている少年がいた。黒髪で、背はそれほど高くない。

 

 ……あれ?

 

 これ、俺じゃね?

 

「Hey! That’s you!(あっ! トキじゃん!)」

 

 エマも気づいたらしく、嬉しそうに指差した。

 

「……ミー!?」

 

「Yep.(そう)」

 

 ゾーイが平然と答えた。

 

「I took that one.(それ、私が撮ったの)」

 

 時春は目を丸くした。

 

 ゾーイはいつもスマートフォンやカメラで何かを撮っているが、まさか自分がこんなところに飾られているとは思わなかった。

 

 しかも、顔がひどい。

 

 口は全開で、目は真ん丸。

 

 両腕を振り上げ、今にも画面の外へ飛び出してきそうな勢いで叫んでいる。

 

 ……ちょっと待って。

 

 もっといい写真なかったの?

 

「ゾー! ディス……バッド・フェイス!」

 

「That’s your face, Toki.(それ、君の顔だから)」

 

「ノー!」

 

「I can’t fix that with a camera.(カメラじゃ顔までは直せないよ)」

 

 エマが声を上げて笑った。

 

 時春は頬を膨らませたが、写真をよく見ると、確かに悪いものではなかった。周囲の生徒たちも一斉に立ち上がり、誰もが同じ方向へ顔を向けている。画面の中には、あの夜の騒がしさや、スタジアム全体が熱を帯びた瞬間が閉じ込められていた。

 

 ……へえ。

 

 写真って、こういうこともできるんだ。

 

 自分が見ていたのはフィールドの中だったが、ゾーイは観客席から、あの夜を見ていたのである。

 

「Zo! We need you over here!(ゾー! ちょっとこっちお願い!)」

 

 テントの奥から上級生らしい女子が呼びかけた。

 

「Coming!(今行く!)」

 

 ゾーイはカメラを持ち直し、さっと仕事へ戻った。どうやら彼女は学校新聞の写真担当として、すでにかなり頼りにされているらしい。展示の配置を直し、来場した生徒の写真を撮り、興味を持った新入生には活動内容を説明する。その手つきには迷いがなく、普段の気だるそうな雰囲気とは少し違う、きびきびとした一面があった。

 

 そこへ、見覚えのある黒髪の少年が近づいてきた。

 

「Toki?(トキ?)」

 

「あっ! エムジェイ!」

 

 ミンジュン・ユン。

 

 ESLで知り合った、韓国出身の少年だった。今日も首から小さなカメラを下げ、肩には機材を入れたバッグを掛けている。

 

「You came here too?(トキも来てたんだ?)」

 

「イエス!」

 

 時春が笑顔で頷くと、MJは展示されている写真へ視線を向けた。

 

「These are really good.(どれもすごくいい写真だね)」

 

 その言葉を聞いたゾーイが、すぐに振り返った。

 

「Thanks. You shoot too?(ありがと。あなたも写真撮るの?)」

 

「Mostly video. I want to make movies.(主に動画かな。映画を作りたいんだ)」

 

「Oh, nice. What camera is that?(へえ、いいじゃん。そのカメラ何使ってるの?)」

 

 ゾーイがMJのカメラを指差した。

 

 そこから先の会話は、時春にとってほとんど暗号だった。

 

 レンズ。

 

 フレームレート。

 

 シャッタースピード。

 

 フォーカス。

 

 知らない単語ばかりが次々と飛び出してくる。MJは普段のESLでは比較的静かな少年なのだが、カメラの話になると明らかに口数が増えていた。ゾーイも興味津々らしく、カメラの画面を覗き込みながら何度も質問している。

 

「I like shooting little moments. Things people don’t notice.(僕、何気ない瞬間を撮るのが好きなんだ。みんなが見逃しちゃうようなもの)」

 

「Exactly. That’s the good stuff.(わかる。そういうのがいいんだよね)」

 

 ゾーイは嬉しそうに頷いた。

 

「A lot of people pose when they see a camera. I like the second before that.(カメラに気づくと、みんなポーズ取っちゃうでしょ。その直前が好きなの)」

 

「Yeah! When they forget they’re being filmed.(うん! 撮られてることを忘れてる瞬間とかね)」

 

 時春は二人を見比べた。

 

 ……すげえ。

 

 MJ、こんなに喋るんだ。

 

 ESLではカメラを持って静かに周囲を眺めている印象だったが、今は自分から何度も話題を振っている。ゾーイも普段の皮肉っぽい口調を少し忘れたように、真剣な顔で画面を覗き込んでいた。

 

 やがてゾーイが新聞の上級生を呼び、MJを紹介し始めた。映画制作に興味があるのなら、学校新聞の短い動画企画にも参加してみないか、という話らしい。

 

 時春には細かいことまで理解できなかったが、MJの顔が嬉しそうに明るくなったのはわかった。

 

 ……いいな。

 

 こういうの。

 

 好きなものが同じだと、初めて会った相手ともこんなに話せるんだ。

 

 時春は少し羨ましくなったが、同時に何だか嬉しかった。普段は控えめな友達が、自分の好きなことになると生き生きする。その姿を見るのは、思っていた以上に楽しいものだった。

 

     ◇

 

 次に向かったのは、音楽制作クラブのブースだった。

 

 広場の奥から、聞き慣れない電子音と軽快なリズムが響いてくる。近づいてみると、テーブルの上には小さなキーボードやパソコン、音楽制作用の機材が並べられ、数人の生徒がヘッドホンをつけたり外したりしながら何やら作業していた。

 

 その中心にいたのは、イザベラ・コスタだった。

 

「イジー!」

 

 時春が手を振ると、イジーは顔を上げ、ぱっと笑顔になった。

 

「Toki! Come here!(トキ! こっち来て!)」

 

 ESLで知り合ったブラジル出身の少女は、今日は鮮やかな緑色のトップスを着て、髪を後ろでまとめていた。机の上にはノートパソコンがあり、その画面には色とりどりの細長い帯が何本も並んでいる。

 

「Look! I made this!(見て! これ私が作ったの!)」

 

 イジーは嬉しそうに画面を指差した。

 

「……ミュージック?」

 

「Yep! Listen!(そう! 聴いて!)」

 

 彼女がキーを押すと、スピーカーから柔らかなピアノの音が流れ始めた。少しずつ低い電子音が重なり、その下に細かなリズムが生まれていく。やがて明るいメロディーが加わり、音楽はどこか冒険の始まりを思わせる雰囲気になった。

 

 時春は思わず目を見開いた。

 

「……おおっ!」

 

 何だ、これ。

 

 めちゃくちゃいいじゃん。

 

 ゲームのタイトル画面で流れていてもおかしくない。知らない世界へ旅立つ前、主人公が地図を開くような場面に似合いそうな曲だった。

 

「ワオ! ベリー・クール!」

 

「Really?(ほんと?)」

 

「イエス! ライク……ゲーム・ミュージック!」

 

 時春が両手を広げて言うと、イジーは嬉しそうに笑った。

 

「That’s exactly what I wanted!(それ! まさにそういう曲にしたかったの!)」

 

 そして、今度は画面の一部分を指差した。

 

「I recorded the ocean last weekend. Listen to this part.(先週末、海の音を録ったの。ここ聴いてみて)」

 

 イジーが別のキーを押す。

 

 音楽の奥から、微かな波の音が聞こえてきた。

 

 ……あっ。

 

 本当だ。

 

 ピアノと電子音のあいだに、潮騒が混ざっている。最初は気づかなかったが、意識して耳を澄ませると、海の音が曲全体に不思議な広がりを与えていた。

 

 時春は驚いた。

 

 音楽というものは、楽器だけで作るのではないらしい。

 

 イジーはそのあとも、キーボードの音を変えたり、リズムを重ねたりしながら自分の曲を聞かせてくれた。隣にいた音楽制作クラブの上級生が何度も感心したように頷き、そのうちイジーも自然に機材の説明を始めていた。

 

 ESLでは、単語を探しながら慎重に喋っていた少女だ。

 

 けれど今は違う。

 

 少しくらい英語が詰まっても、彼女は話すことをやめなかった。自分の作った音がどういうものなのか、どこを工夫したのか、それを伝えたくて仕方がないらしい。

 

 時春はその姿を見ながら、何となく微笑んだ。

 

 ……イジーって、こんなに音楽が好きなんだな。

 

「I’m signing up!(私、ここ入ることにした!)」

 

 イジーが登録用紙を掲げた。

 

「オー! ナイス!」

 

「Maybe I’ll make music for a game someday.(いつかゲームの音楽を作れたらいいな)」

 

「アメイジング!」

 

 時春は笑顔で拳を突き出した。イジーも笑いながら拳を合わせてくれる。

 

 そのとき、少し離れたところから懐かしいほど大きな声が聞こえた。

 

「TOKIIII!(トキぃぃ!)」

 

 振り返ると、テオがこちらへ走ってくるところだった。

 

 頭には野球帽をかぶり、片手には小さな白いボールを持っている。

 

「BRO! YOU GOTTA SEE THIS!(おい! ちょっと見に来いよ!)」

 

「テオ!」

 

「BASEBALL!(野球だよ!)」

 

「オー! ベースボール!」

 

 時春は笑顔で頷いた。

 

 ……ああ。

 

 こいつも、相変わらずだ。

 

     ◇

 

 テオに連れていかれた先には、野球に関係する活動を紹介するテントがあった。

 

 秋はまだCBAの野球シーズンではないが、オフシーズンの技術練習や試合のデータ分析に取り組む生徒たちが集まっているらしい。テーブルにはグローブやバットが置かれ、その奥には小さなネットまで設置されていた。壁にはメジャーリーグの選手たちの写真が並び、その中には大谷翔平の姿もあった。

 

「……オオタニ!」

 

 時春が指差すと、テオは勢いよく振り返った。

 

「SHOHEI OHTANI!(ショウヘイ・オオタニ!!)」

 

「イエス!」

 

「MY GUY!(俺のヒーローだぜ!)」

 

 テオは満面の笑みで拳を突き出してきた。

 

 ……出た。

 

 大谷翔平。

 

 やっぱり食いつくなあ。

 

 ESLの初日もそうだった。テオは大谷の話になると、普段以上に早口になる。今日はそこへ野球の道具とメジャーリーグのポスターまで加わっているのだから、もはや止められる気がしない。

 

「Look, look! They have a radar gun!(見ろよ! スピードガンまであるんだぜ!)」

 

「……レーダー?」

 

「For pitch speed!(球速を測るやつ!)」

 

「あー!」

 

 なるほど。

 

 テオはネットの前へ立つと、グローブからボールを取り出した。隣にいた上級生が測定器を構え、テオは少しだけ姿勢を低くしてから、素早く腕を振った。

 

 シュッ!

 

 白いボールがネットへ飛び込む。

 

 乾いた音が響き、測定器を見ていた生徒が何かを叫んだ。

 

「Nice throw!(いい球だな!)」

 

「LET’S GO!(よっしゃあ!)」

 

 テオは嬉しそうに拳を握った。

 

 時春も思わず拍手した。体育のキャッチボールでも速い球を投げていたが、こうして真剣に投げる姿を見ると、その動きには思っていた以上の鋭さがあった。

 

 普段のテオは、いつも笑っている。

 

 ESLでも大声で喋り、冗談を言い、時春の英語を面白がっている。

 

 だが、ボールを握った瞬間の目つきは、少し違っていた。

 

 真剣だった。

 

「I wanna play shortstop here. And someday, in the big leagues.(ここでもショートを守りたいんだ。いつかはメジャーでもね)」

 

 テオが笑顔で言った。

 

 時春は頷いた。

 

 メジャーリーグ。

 

 あの言葉を口にするとき、テオの声にはいつも少しだけ力がこもる。

 

 遠く離れたドミニカ共和国からやってきた少年が、このカリフォルニアの学校で、自分の好きな野球を追いかけている。時春とは競技も違うし、育った国も違う。けれど、その姿にはどこか見覚えがあった。

 

 きっと、自分もバスケットボールの話をするときは、こんな顔をしているのだろう。

 

「ナイス、テオ!」

 

「Thanks, bro!(ありがとな、兄弟!)」

 

 二人は笑い合い、拳を合わせた。

 

 そのあとテオは、上級生に呼ばれるとすぐにネットの方へ戻っていった。もう少し投げたいらしい。時春はその後ろ姿を見送りながら、何となく胸の奥が温かくなるのを感じた。

 

 ESLで出会った三人。

 

 MJは映画。

 

 イジーは音楽。

 

 テオは野球。

 

 みんな、それぞれに夢中になれるものがある。

 

 いつもの教室では、英語に苦戦して一緒に笑っている仲間たちだった。しかし、こうして別々の場所で彼らを見ると、それぞれが自分の世界をしっかりと持っていることがわかる。

 

 ……何か、いいな。

 

 時春は素直にそう思った。

 

     ◇

 

 

 

     ◇

 

 広場を半分ほど回った頃、時春は意外な人物を見つけた。

 

 ゲームクラブのブースだった。

 

 テントの入口にはゲームのキャラクターを描いたポスターが貼られ、テーブルにはコントローラーやノートパソコンが並んでいる。奥のモニターではスマブラの対戦画面が映し出され、その隣にはMinecraftで作った巨大な建築物の写真が飾られていた。

 

 そして、そのポスターを妙に真剣な顔で見つめている少年がいた。丸いメガネにくるくるとした髪、少し丸みのある体格。見覚えのある後ろ姿に、時春は思わず目を細めた。

 

「……ラリー?」

 

 少年の肩がびくっと震え、ゆっくりと振り返った。その顔は、間違いなくルームメイトのラリー・ナードだった。

 

「……Toki?(……トキ?)」

 

「ラリー!」

 

 時春は嬉しそうに駆け寄った。

 

「ホワット・アー・ユー・ドゥーイング?」

 

「……Nothing.(……別に何も)」

 

 ラリーは素早くポスターから視線を逸らした。

 

「Just walking around.(ただ歩いてただけ)」

 

「……ウォーキング?」

 

「Yeah. Walking. Normal human activity.(そう。散歩。人間なら普通にやることだよ)」

 

 時春は首を傾げた。散歩だと言い張っているが、さっきからずっとゲームクラブのポスターを眺めていたように見える。そもそも、人混みが嫌いなラリーがわざわざこんなところまで来て、何の目的もなく歩き回るだろうか。

 

 そう思っていると、ブースの奥にいた上級生が二人に声をかけてきた。

 

「Hey! You guys play Smash?(ねえ! 君たち、スマブラやる?)」

 

「イエス!!」

 

 時春が元気よく答えると、ラリーが慌てて振り返った。

 

「Toki!(トキ!)」

 

「アンド、マインクラフト!」

 

「TOKI!(トキ!)」

 

 だが、時春は止まらなかった。せっかくゲーム好きの友達を見つけたのだから、ここは紹介してやるべきだろう。

 

「ラリー! ベリー、ベリー、グッド・ゲーマー!」

 

「OH MY GOD, SHUT UP!(うわああ、もう黙ってよ!)」

 

 ラリーが真っ赤になって叫んだが、もう遅かった。ゲームクラブの上級生は目を輝かせ、興味津々といった様子で近づいてきた。

 

「Seriously? What’s your main in Smash?(マジ? スマブラ、誰をメインで使ってるの?)」

 

「……Uh……(……えっと……)」

 

 ラリーは困ったようにメガネを押し上げ、少し迷ってから、ぼそりとキャラクターの名前を答えた。

 

 すると、上級生が嬉しそうに反応した。

 

「No way! We need more people who play that character!(マジか! そのキャラ使う人、もっと欲しかったんだよ!)」

 

「……Really?(……本当に?)」

 

「Yeah! We’re running a tournament next month.(うん! 来月トーナメントやるんだ)」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ラリーの目がほんの少しだけ大きくなった。どうやら興味を引かれたらしい。

 

 時春は思わずにやりとした。

 

 最初こそ興味のないふりをしていたラリーだったが、ゲームの話が始まると次第に口数が増えていった。いつの間にかモニターの前に立ち、上級生とキャラクターの相性や操作方法について真剣に議論している。

 

「That matchup is terrible unless you know how to punish his landing.(あの組み合わせ、着地狩りのやり方を知らないとかなり厳しいんだよね)」

 

「Wait, you know that setup?(待って、その連係知ってるの?)」

 

「……Obviously.(……当然でしょ)」

 

「Dude!(すげえじゃん!)」

 

 時春は少し離れたところから、その様子を眺めていた。

 

 普段の寮では、ラリーはいつも面倒くさそうにゲームをしている。人が多いところは嫌いだと言うし、学校行事にもほとんど興味を示さない。ところが今は、初対面の上級生を相手に、自分から次々と話題を振っている。しかも、相手もかなり楽しそうだ。

 

 話題がMinecraftに移ると、ラリーの勢いはさらに増した。レッドストーンを使った自動装置や、巨大な建築物を何人かで作る企画について話しているらしい。専門的な英語はほとんど理解できなかったが、ラリーがいつもより生き生きしていることだけは、はっきりとわかった。

 

 ……よかったじゃん、ラリー。

 

 時春は何となく嬉しくなった。普段は自分の部屋でゲームをしてばかりの友達が、こうして学校でも気の合う相手を見つけられたのだから、悪いことではないだろう。

 

 やがて、上級生が登録用紙を差し出した。

 

「You should join! We meet every Thursday.(ぜひ入ってよ! 毎週木曜に集まってるんだ)」

 

「……Well, I don’t know.(……いや、どうだろう)」

 

 ラリーは急にいつもの無愛想な顔へ戻った。

 

「I’m pretty busy.(僕、結構忙しいし)」

 

「ラリー!」

 

「……What?(……何?)」

 

「ジョイン!」

 

 時春は満面の笑みで登録用紙を指差した。

 

「ユー、ラブ、ゲーム!」

 

「……I know that!(……そんなのわかってるよ!)」

 

「ベリー、ベリー、ラブ!」

 

「Toki, I’m begging you to stop talking.(トキ、頼むからもう黙ってくれない?)」

 

 時春が吹き出すと、ラリーは深いため息をついた。それからしばらく登録用紙を見つめ、何かを諦めたようにペンを取った。

 

「……I’m just putting my name down. Doesn’t mean I’m joining.(……名前だけ書くんだからね。入部を決めたわけじゃないから)」

 

「オーケー!」

 

「Seriously.(本当にだからね)」

 

「イエス!」

 

「……You’re not listening, are you?(……君、全然聞いてないでしょ)」

 

 時春は答える代わりに、笑顔で親指を立てた。

 

 ラリーはまたため息をついたが、登録用紙に名前を書き込むその口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。

 

     ◇

 

「TOKI! THERE YOU ARE!(トキ! こんなとこにいたのか!)」

 

 ゲームクラブを離れた直後、今度はジェイクが現れた。

 

 その手には大量のチラシが握られている。演劇、チェス、環境保護、料理、ディベート。どういう経緯で集めたのか知らないが、まるで学校中のクラブから一斉に勧誘されたような状態だった。

 

「……ジェイク?」

 

「Dude, you’ve gotta come see this!(おい、ちょっとこっち来いって!)」

 

「……ホワイ?」

 

「Robotics! They need someone good at math!(ロボット工学だよ! 数学できるやつ探してんだ!)」

 

 ロボット工学に数学。時春は少し首を傾げた。何となく関係がありそうなのはわかるが、具体的に何をするのだろう。

 

 そんなことを考える間もなく、ジェイクは時春の肩を抱き、広場の反対側へ歩き始めた。

 

「I told them you’re a math genius!(お前が数学の天才だって教えといたぜ!)」

 

「……ジーニアス?」

 

 天才? どうしてそんな話になっているのかわからず、時春は慌てて首を振った。

 

「ジェイク! ノー、ノー!」

 

「YES, YES!(いやいや、天才だろ!)」

 

「ノー!」

 

「BRO, YOU SOLVED THAT GEOMETRY PROBLEM IN LIKE TWO SECONDS!(お前、あの図形の問題、二秒くらいで解いたじゃねえか!)」

 

 そこでようやく、時春は入学して最初の頃にGeometryの授業で解いた問題を思い出した。確か、三角形の相似を使う簡単な問題だったはずだ。日本でも似たようなものを何度も解いていたし、別に大したことはしていない。

 

 なのに、ジェイクは今でもその話を持ち出してくる。

 

 ……いや、そりゃお前が数学苦手だからだろ。

 

 そう心の中で突っ込んでいるうちに、二人はロボット工学クラブのブースへ到着した。

 

『CBA ROBOTICS — BUILD. CODE. CREATE.』

 

 机の上には小型のロボットや電子部品が並び、ノートパソコンの画面には英語のコードが映っている。その奥では、小さな車輪のついたロボットが床のコースを走り、青と白の箱を避けながら進んでいた。周囲の生徒たちはその動きを確認してはパソコンに何かを入力し、ときどき意見を交わしている。

 

 時春は思わず足を止めた。

 

 ……おお、何だこれ。ちょっと面白そうじゃん。

 

「GRACE! I FOUND HIM!(グレース! 連れてきたぜ!)」

 

 ジェイクが大声で叫ぶと、机の奥にいた女子生徒が顔を上げた。

 

 黒髪を一つに束ね、丸いメガネをかけた上級生らしい少女だった。青いCBAのTシャツの上に薄いパーカーを羽織り、片手には小さなタブレットを持っている。

 

「Jake, why are you yelling?(ジェイク、何でそんなに叫んでるの?)」

 

「BECAUSE I FOUND YOUR GUY!(探してた人材を連れてきたからだよ!)」

 

「You say that about everyone.(あなた、誰にでもそう言うじゃない)」

 

「NOT THIS TIME!(今回はマジだって!)」

 

 少女は呆れたように笑ったあと、時春へ視線を向けた。

 

「Hi! I’m Grace Chen.(こんにちは! グレース・チェンよ)」

 

「あっ! ハロー! アイム、トキ!」

 

「Nice to meet you, Toki. Jake says you’re good at geometry.(よろしく、トキ。ジェイクから図形が得意だって聞いたよ)」

 

「アー……イエス?」

 

 時春が少し照れくさそうに頷くと、グレースは机の上に置かれた小さなロボットを指差した。

 

「Want to try something?(ちょっとやってみる?)」

 

「……トライ?」

 

「A math challenge.(数学の問題よ)」

 

 数学の問題と聞いて、時春の目が自然と輝いた。

 

「オー! オーケー!」

 

 グレースは紙とペンを取り出し、そこに簡単な図を描き始めた。左下にスタート地点があり、そこから右へ三十センチ、さらに上へ四十センチの位置に目的地が示されている。机の上には、その図と同じ配置のコースが作られていた。

 

「The robot can go right, then forward. That’s seventy centimeters.(ロボットが右に進んで、それから前に進むと、合計七十センチでしょ)」

 

 グレースは図の二本の線を指差した。

 

「But what if we go straight to the target? How far is it?(でも、目的地までまっすぐ進むなら、何センチかな?)」

 

 時春は紙に描かれた図をじっと見つめた。

 

 三十と四十を直角に結ぶ三角形。求めるのは斜辺の長さだ。そう気づいた瞬間には、もう答えが頭に浮かんでいた。

 

 時春はペンを取り、三十の二乗と四十の二乗を足して平方根を求める式を書いた。三対四対五の直角三角形なのだから、計算するまでもない。

 

「……フィフティ!」

 

 そう答えながら、紙に大きく『50 cm』と書き込んだ。

 

 グレースが目を丸くした。

 

「Oh! That was fast!(わっ! 早い!)」

 

「……えっ?」

 

「You didn’t even need a calculator!(電卓も使ってないじゃん!)」

 

「アー……イエス!」

 

 時春は少し照れくさくなった。日本にいた頃から何度も見ている問題なのだから、それほど驚くことではないと思うのだが。

 

 すると、隣で見守っていたジェイクが、まるで自分の手柄であるかのように両手を広げた。

 

「SEE!? I TOLD YOU!(ほらな!? 言っただろ!)」

 

「Jake, calm down.(ジェイク、落ち着いて)」

 

「MY BOY IS A GENIUS!(俺のダチは天才なんだよ!)」

 

「ジェイク! シャラップ!」

 

 時春が叫ぶと、近くにいた生徒たちが笑い始めた。

 

 グレースも楽しそうに笑っていたが、すぐにロボットの方へ視線を戻した。

 

「Okay, now here’s the fun part.(じゃあ、ここからが面白いところね)」

 

 彼女はノートパソコンを操作し、ロボットをスタート地点へ置いた。

 

「We can use math to tell it where to go.(数学を使って、ロボットに進む場所を教えられるの)」

 

 グレースは画面にいくつかの数値を入力したあと、小さなボタンを押した。すると、ロボットが静かな電子音を鳴らしながら動き始め、目的地へ向かって斜めに進んでいく。

 

 小さな車輪が床を転がり、やがてロボットは目的地の少し手前で止まった。

 

「……おおっ!」

 

 時春は思わず身を乗り出した。

 

 グレースは画面を見ながら説明を続けた。実際のロボットでは、車輪の大きさや床の状態、曲がる角度などによって誤差が生まれるため、計算した通りに動くとは限らないらしい。コードを直してもう一度動かし、失敗した理由を調べて、また試す。その繰り返しによって、少しずつ思い通りの動きに近づけていくのだという。

 

 時春は机の上のロボットを眺めながら、なるほど、と頷いた。

 

 普段の数学の授業では、紙に書かれた問題を解き、正しい答えが出ればそれで終わりだ。しかし、ここでは計算した数字を入力すると、目の前の機械が実際に動く。間違えればおかしな方向へ進み、上手くいけば目的地へ届く。

 

 自分の考えたことが形になるというのは、何だか不思議で面白かった。

 

「See? Math is everywhere.(ね? 数学って、いろんなところに使えるでしょ)」

 

 グレースが笑った。

 

「You should join us! We could really use someone like you.(ぜひ入ってよ! 君みたいな子、大歓迎だから!)」

 

「……ジョイン?」

 

「Yeah! Robotics Club!(そう! ロボット工学クラブ!)」

 

 差し出された登録用紙を見て、時春は思わずロボットへ視線を戻した。

 

 自分がロボット工学クラブに入るなんて、今まで考えたこともなかった。日本ではバスケットボールばかりやっていたし、学校の部活動も当然のようにバスケ部を選んだ。数学は得意だったが、だからといって何かを作ろうと思ったことはない。まして、ロボットやプログラミングとなると、知識らしい知識はほとんどなかった。

 

 それなのに、さっきの小さな機械が動く様子を見てから、妙に興味を引かれている自分がいた。

 

 改めて考えてみると、バスケットボールにも少し似たところがあるのかもしれない。コートの上では、味方や相手の位置、ゴールまでの距離、パスが通る角度を常に考えている。もちろん、試合中に三平方の定理を計算しているわけではないが、状況を読み、次の動きを考え、その結果が目の前に現れるという点では、どこか近いものを感じた。

 

 ……ロボットかあ。

 

 意外だったが、ちょっと面白そうだ。

 

「We meet twice a week after school.(活動は週二回、放課後だよ)」

 

 グレースが説明を続けた。

 

「You don’t need experience. We teach beginners too.(経験がなくても大丈夫。初心者にも教えるから)」

 

「……オー!」

 

 初心者でも参加できると聞き、時春の心はますます動いた。ただ、すぐに返事をするには気になることもある。

 

 十一月にはバスケ部のトライアウトが控えているし、今はオープンジムにも参加している。それに、毎日の英語の宿題だってまだまだ大変だ。授業についていくだけでも苦労しているのに、放課後の予定を増やしすぎれば、全部が中途半端になってしまうかもしれない。

 

 少し迷った末、時春は申し訳なさそうに笑った。

 

「アー……アイ・ウィル……シンク!」

 

 グレースはすぐに頷いた。

 

「Of course! Take your time.(もちろん! ゆっくり考えてね)」

 

 そして、活動内容の書かれたチラシを差し出してくれた。

 

「Come visit us again if you want.(興味があったら、また見に来てね)」

 

「サンキュー!」

 

 時春は嬉しそうにチラシを受け取った。

 

 今すぐ入部を決めることはできない。それでも、バスケ以外にこんなに面白そうな世界があると知れただけで、来てよかったと思えた。

 

     ◇

 

 ロボット工学クラブのブースを離れると、ジェイクはまた別の知り合いに呼ばれ、あっという間に人混みの中へ消えていった。

 

 時春はその後ろ姿を見送りながら、呆れたように笑った。まったく、本当に忙しいやつである。あれだけたくさんのブースを回って、結局どのクラブに入るつもりなのだろう。ひょっとしたら、全部入るつもりなのかもしれない。

 

 ジェイクなら本気でやりかねないな、と思いながら、時春は手元のチラシを見下ろした。ロボット工学クラブにゲームクラブ、写真クラブ、サーフィンクラブ。いつの間にか、持っている紙の枚数は随分増えている。

 

 今日の朝までは、アメリカの学校にも日本と同じような部活動があるのだろうと思っていた。しかし、実際に見てみると、その種類も雰囲気も想像していたよりずっと自由だった。

 

 勉強が好きな人もいれば、ゲームに夢中な人もいる。写真を撮ることが好きな人、音楽を作りたい人、スポーツに打ち込む人。みんなが自分の好きなものを持ち寄り、それについて楽しそうに話している。得意なことは惜しげもなく見せてくれるし、まだ何も知らない人にも、一緒にやろうと気軽に声をかけてくれる。

 

 何だか、いい学校だな。

 

 時春は素直にそう思った。

 

 日本にいた頃は、放課後といえばバスケットボールだった。ほとんど毎日体育館へ向かい、仲間たちと汗を流し、家に帰れば宿題をして眠る。そんな日々は充実していたし、今でも大切な思い出だ。

 

 けれど、ここにはバスケットボールとは別の世界がいくつも広がっている。しかも、興味さえあれば自分から飛び込んでいけるのだ。

 

 アメリカって、すげえな。

 

 そんなことを考えながら、時春はチラシをリュックへしまい、広場の中央へ向かった。

 

 そこで、エマの姿を見つけた。

 

     ◇

 

 エマは、大きな木の下に置かれたベンチに座っていた。

 

 片手には何枚かのチラシを持ち、もう片方の手で紙の端を軽く折り曲げている。広場の向こうでは生徒たちが賑やかに話していたが、彼女はその輪に加わるでもなく、ぼんやりと人の流れを眺めていた。

 

 時春は少し不思議に思った。

 

 エマは誰とでもすぐに仲良くなれる女の子だ。教室でも廊下でも、いつも誰かに声をかけられているし、初めて会った時春にも気さくに話しかけてくれた。困っている人を放っておけない性格で、英語が苦手な時春のことも何度も助けてくれている。

 

 今日だって、演劇クラブの女子と楽しそうに話したり、ボランティア活動のブースで先輩たちに手を振られたりしていた。写真クラブの近くでも知り合いに声をかけられていたし、行く先々で誰かと挨拶を交わしていたように思う。

 

 そんな彼女が、今は一人で座っている。

 

 ……ちょっと疲れたのかな。

 

 時春はそう考えながら、ベンチへ近づいた。

 

「エマ!」

 

 彼女が顔を上げた。

 

「Oh! Toki!(あっ! トキ!)」

 

「ハロー!」

 

「Hey! Having fun?(やっほー! 楽しんでる?)」

 

「イエス!」

 

 時春は大きく頷き、手にしていたロボット工学クラブのチラシを見せた。

 

「ルック! ロボティクス!」

 

「Oh! Robotics Club?(へえ! ロボット工学クラブ?)」

 

「イエス!」

 

「That’s cool! Did you like it?(いいじゃん! 面白かった?)」

 

「イエス! ベリー、インタレスティング!」

 

 時春は覚えたばかりの単語を得意げに使った。インタレスティング。確か「面白い」という意味だったはずだ。

 

 エマは嬉しそうに微笑んだ。

 

「See? You’re learning new words!(ほら! 新しい単語も覚えてるじゃん!)」

 

「サンキュー!」

 

 二人は顔を見合わせて笑った。

 

 時春はエマの隣に腰を下ろし、しばらく広場を眺めた。日差しは少し傾き始めていたが、まだ十分に暑い。芝生の向こうではジェイクが知らない生徒と何やら大騒ぎしており、音楽制作クラブの方からは軽快なリズムが聞こえている。

 

 周囲がこれだけ賑やかなせいだろうか。エマが手元のチラシを眺める姿は、どこか普段より静かに見えた。

 

「……エマ?」

 

「Hmm?(ん?)」

 

「ユー……ジョイン・クラブ?」

 

 時春が尋ねると、エマは一瞬だけ視線を落とし、チラシの端を指先で小さく撫でた。

 

「……I don’t think so.(……入らないと思う)」

 

「……ノー?」

 

「Yeah. Probably not this year.(うん。今年はたぶん入らないかな)」

 

 その答えは、時春にとって少し意外だった。

 

 エマなら、どんなクラブに入っても楽しそうだと思っていたからだ。演劇だって似合いそうだし、ボランティア活動でも活躍しそうだ。人と話すのが上手いから学校新聞の取材だってできるだろうし、何なら今日見たほとんどのクラブに馴染めそうな気がする。

 

 それなのに、どうして入らないのだろう。

 

「ホワイ?」

 

 時春が尋ねると、エマは少し考えてから、いつもの明るい笑顔を浮かべた。

 

「Well, I have work at Danny’s. And homework.(ほら、ダニーズのバイトもあるし。宿題もあるしね)」

 

「あー……」

 

 言われてみれば、その通りだった。エマはダニーズ・ダイナーでアルバイトをしているし、学校の授業だって忙しいはずだ。放課後にまでクラブ活動を増やすのは大変なのかもしれない。

 

 時春が納得しかけたところで、エマは少しだけ苦笑した。

 

「And honestly……I’m kind of worried about my math test.(それに、正直……数学のテストがちょっとやばくて)」

 

「……マス・テスト?」

 

「Yeah. On Friday.(そう。金曜日にあるやつ)」

 

「あっ!」

 

 そこで時春も思い出した。そういえば、Geometryの授業で先生が言っていた。今週の金曜日に小テストがあり、範囲は三角形の相似と、いくつかの角度に関する問題だったはずだ。

 

 日本では何度も解いている内容なので、それほど心配していなかったが、エマにとってはそうでもないらしい。

 

「I’m seriously gonna fail.(ほんと、落第しそう……)」

 

 エマが大げさに肩を落とすのを見て、時春は慌てて首を振った。

 

「ノー、ノー! エマ! ユー……グッド!」

 

「At math?(数学が?)」

 

「イエス!」

 

 すると、エマは呆れたように笑った。

 

「Toki, you’re sweet, but I’m terrible at geometry.(トキ、優しいけどね。私、図形がほんと苦手なの)」

 

「……ノー!」

 

「I am!(ほんとだって!)」

 

 エマは苦笑しながら、バッグからノートを取り出した。授業中に解いたらしい図形の問題が書かれており、あちこちに赤いペンで訂正が入っている。

 

 時春が横から覗き込むと、そこには三角形の二辺の長さをもとに、相似比を使って残りの辺を求める問題があった。落ち着いて図を見ればそれほど難しくはないのだが、どうやらエマは途中で比の順番を逆にしてしまったらしい。

 

 ……ああ、なるほど。ここか。

 

「……アー! ヒア! ディス、アンド、ディス!」

 

 時春は対応する二つの辺を指差した。

 

「セイム・レシオ!」

 

「……Huh?(……え?)」

 

「アー……」

 

 時春はそこで言葉に詰まった。

 

 レシオは「比」だから、単語そのものは合っているはずだ。しかし、それだけでは自分の言いたいことが伝わらない。日本語なら簡単に説明できるのに、いざ英語にしようとすると、どの単語を使えばいいのかわからなくなってしまう。

 

 時春が頭を抱えていると、エマがくすくすと笑った。

 

「It’s okay. You can explain in Japanese if you need to.(大丈夫だよ。難しかったら日本語で説明してもいいからね)」

 

「……オーケー!」

 

 時春は一度深呼吸してから、改めてノートの図形を指差した。

 

「この三角形とこっちの三角形、形が同じでしょ? だから、対応する辺の比が同じになるんだよ」

 

「ああ……」

 

 エマは頷きながら、時春が指差した場所を目で追った。

 

「で、ここが二倍になってるから、こっちも二倍。だから……」

 

 時春が途中の計算を書き込むと、エマはしばらくノートを見つめていた。

 

 そして、突然顔を上げた。

 

「……Oh!(……あっ!)」

 

「……?」

 

「I switched the numbers!(私、数字の順番を逆にしてたんだ!)」

 

「イエス!」

 

「Oh my gosh!(うわあ、ほんとだ!)」

 

 エマは額を押さえて笑った。

 

「I’ve been staring at this for twenty minutes!(これ、二十分も考えてたのに!)」

 

「……トゥエンティ?」

 

 二十分も考えていたと聞き、時春は少し驚いた。自分にとっては見慣れた問題だったが、苦手な人にはこんなにも難しく感じられるものなのかもしれない。

 

 もっとも、エマはすっかり嬉しそうな顔になっていた。ノートに書かれた計算をもう一度確認すると、今度は自分で答えを書き直し、満足そうに頷いている。

 

「Okay, that makes sense now!(うん、やっとわかった!)」

 

「ナイス!」

 

 時春は笑顔で親指を立てた。

 

 数学の問題を解くこと自体は、それほど難しくない。それでも、誰かがわからなかったことを理解できるようになる瞬間を見るのは、意外に楽しかった。

 

 その感覚は、バスケットボールで味方へいいパスを出せたときに少し似ている。自分のしたことが、相手のプレーにつながっていくような気持ちよさがあった。

 

 ……って、またバスケのこと考えてるな、俺。

 

 時春は思わず苦笑した。まあ、本当にそう感じたのだから仕方ないだろう。

 

     ◇

 

 エマがノートをしまい始めたところで、時春は突然、あることを思い出した。

 

 数学のテストといえば、勉強。勉強といえば宿題。そして、宿題といえば……。

 

「……オー、ノー」

 

 思わず声が漏れた。

 

 エマが顔を上げる。

 

「What’s wrong?(どうしたの?)」

 

「……エマ」

 

「Yeah?(ん?)」

 

「アイ……アム……デッド」

 

「……Dead?(……死んだ?)」

 

「イエス……」

 

 時春は両手で顔を覆い、絶望的な気分で叫んだ。

 

「イングリッシュ……エッセイ!」

 

 エマは一瞬きょとんとしたが、すぐに何かを思い出したように声を上げた。

 

「あっ! The essay for English 9?(English 9のエッセイ?)」

 

「イエス!!」

 

「Oh, right!(ああ、あれね!)」

 

 English 9は、高校一年生向けの英語の授業である。

 

 その授業では、数日前から短いエッセイの課題が出されていた。テーマは『A Place Where I Belong』。自分が居場所だと感じる場所について、具体的な経験を交えながら文章を書くというものだった。

 

 提出期限は来週の月曜日。まだ少し時間はあるものの、時春にとっては大問題だった。

 

 何しろ、英語で文章を書くのが苦手なのである。

 

 単語を並べることはできるし、簡単な文を作るのも以前よりは上達した。しかし、エッセイとなると話は別だ。先生は「Introduction」「Body Paragraph」「Conclusion」といった単語を使って説明していたが、時春にはそれぞれ何をどう書けばいいのか、さっぱりわからなかった。

 

 そもそも、作文なのにボディって何なんだよ。文章に腕とか足でも生えてくるのか?

 

 昨日の夜も机に向かって課題に取り組んだのだが、最初の一文を書いたところで手が止まってしまい、それから三十分ほどノートを眺め続けた。

 

 結局、書けたのは『I like Japan.』だけ。

 

 ……いや、小学生か。

 

 しかも、テーマは「自分の居場所」なのだから、これでは少し違う気もする。そう考えれば考えるほど何を書けばいいのかわからなくなり、時春は深いため息をついた。

 

「エマ……エッセイ、ベリー、ベリー、ハード!」

 

 エマは一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。

 

「Aww, Toki.(あらら、トキったら)」

 

「ノット・ファニー!」

 

「I’m not laughing!(笑ってないってば!)」

 

 いや、どう見ても笑っている。口ではそう言っているが、目元が完全に笑っていた。

 

 時春が頬を膨らませると、エマはようやく笑いを収めた。

 

「Did you start writing it?(もう書き始めた?)」

 

「……イエス」

 

「That’s good! How much?(いいじゃん! どれくらい書いたの?)」

 

「……ワン・センテンス」

 

「……One sentence?(……一文?)」

 

「イエス」

 

 エマは数秒間、時春を見つめた。

 

 そして、とうとう我慢できなくなったらしい。

 

「HAHAHAHA!(あはははは!)」

 

「エマ!!」

 

「Sorry! Sorry!(ごめん! ごめんって!)」

 

 またソーリーだ。しかも、笑いながら謝っているのだから、反省しているようにはとても見えない。

 

 時春は呆れてため息をついた。

 

 ……まったく。この子、意外と容赦ないな。

 

 だが、エマはひとしきり笑ったあと、何かを思いついたように顔を上げた。

 

「Wait. I have an idea!(待って。いいこと思いついた!)」

 

「……アイデア?」

 

「Yeah!(うん!)」

 

 彼女は時春の持っているロボット工学クラブのチラシと、自分のノートを交互に見た。

 

「You’re good at math.(トキは数学が得意でしょ?)」

 

「イエス!」

 

「And I’m good at English.(で、私は英語が得意)」

 

「……イエス!」

 

「So……we can help each other!(だから……お互い教え合えばいいじゃん!)」

 

 時春は少し考えた。

 

 お互いに教え合う。それなら確かに、二人とも苦手な課題を進められるだろう。

 

 ……あれ? でも、それって前にもそんな話をしたような。

 

 思い返してみると、入学してすぐの頃、エマと数学の授業で話したときに同じ約束をしていた。時春が数学を教えて、エマが英語を教える。あのときは小指まで絡めて約束したのだった。

 

 そうじゃん。すっかり忘れてた。

 

「……オー! イエス! ウィー・プロミス!」

 

 時春が小指を立ててみせると、エマは一瞬目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。

 

「You remembered!(覚えててくれたんだ!)」

 

「オブコース!」

 

 時春は得意げに頷いた。

 

 正確には今思い出したところなのだが、まあ、細かいことはいいだろう。

 

 エマは少し身を乗り出した。

 

「Then how about we study together tomorrow?(じゃあ、明日一緒に勉強しない?)」

 

「……トゥモロー?」

 

「Yeah! After school.(そう! 放課後に)」

 

「……オーケー!」

 

 時春はほとんど反射的に答えた。

 

 しかし、数秒後になって、ようやくその意味を理解した。

 

 明日の放課後、エマと一緒に勉強する。つまり、学校が終わったあとに二人で会って、数学と英語の課題を進めるということだ。

 

 ……ん? ちょっと待てよ。

 

 時春はゆっくりとエマの顔を見た。

 

「……ウィズ・ユー?」

 

「Of course!(もちろん!)」

 

「……ジャスト……ユー、アンド、ミー?」

 

 エマは一瞬、不思議そうな顔をしたあと、少しだけ頬を緩めた。

 

「Yeah. Just us.(うん。二人で)」

 

 その答えを聞いた途端、時春は何だか落ち着かない気分になった。

 

 もちろん、ただの勉強だ。エマは数学のテストが心配で、自分は英語のエッセイに困っている。お互いに得意な科目を教え合おうという、至って健全な約束である。

 

 それはわかっているのだが、改めて二人きりだと言われると、どうしても意識してしまう。

 

 ……何だろう。ちょっと緊張してきた。

 

「We can use the library. It’s quiet there.(図書館を使おうよ。静かだし)」

 

「……ライブラリー」

 

「How about four o’clock?(四時くらいはどう?)」

 

「フォー・オクロック!」

 

「Perfect!(決まり!)」

 

 エマは嬉しそうに笑い、時春も慌てて笑顔を返した。

 

「オーケー! フォー・オクロック!」

 

 こうして、明日の放課後四時、学校の図書館で一緒に勉強することが決まった。

 

 時春は心の中で、その予定をもう一度確かめた。木曜日の午後四時。場所は図書館。やることは数学のテスト勉強と英語のエッセイ。そして、相手はエマ。

 

 ……うわ、何だこれ。めちゃくちゃ楽しみじゃん。

 

 本来なら、英語のエッセイを書く時間なんて憂鬱なはずだ。それなのに、明日のことを考えるだけで自然と顔が緩んでしまう。

 

 勉強するだけなのに、どうしてこんなに嬉しいのだろう。

 

 時春は自分でも少し不思議だった。

 

     ◇

 

 そのとき、広場の向こうから聞き慣れた声が響いた。

 

「HEEEEY! TOKI! EMMA!(おーい! トキ! エマ!)」

 

 ジェイクだった。

 

 相変わらず大量のチラシを抱え、今度は首に何やら派手な花飾りまで掛けている。どこのクラブでもらったものなのか、時春には見当もつかなかった。どうやら、先ほど別れてからも各ブースを巡り続けていたらしい。

 

「What are you two doing over here?(二人で何してんだよ?)」

 

 ジェイクがにやにやしながら近づいてくる。

 

 その表情を見ただけで、時春は何となく嫌な予感がした。

 

「Oh, we’re just talking about studying together tomorrow.(あ、明日一緒に勉強しようって話してたの)」

 

 エマが何気なく答えると、ジェイクの足がぴたりと止まった。

 

 彼はゆっくりと時春を見て、それからエマへ視線を移した。もう一度時春の顔を確認すると、何かを確信したように口元を持ち上げる。

 

 ……おい、何だよその顔。

 

「……Studying?(……勉強?)」

 

「Yeah.(うん)」

 

「……Together?(……一緒に?)」

 

「Yes, Jake. Together.(そうよ、ジェイク。一緒に)」

 

「……Just you two?(……二人きりで?)」

 

「Yeah. Why?(そうだけど。何?)」

 

 ジェイクの笑みが、ますます大きくなった。

 

 時春はその顔を見て、すべてを察した。これは間違いなく、ろくでもないことを言い出すときの顔だ。

 

「OHHHHHH!(おおおおお!!)」

 

「ジェイク!!」

 

「LOOK AT YOU, TOKI!(やるじゃねえか、トキ!)」

 

「ノー!!」

 

「A LITTLE STUDY DATE, HUH!?(ちょっとした勉強デートってか!?)」

 

「……デート!?」

 

 時春は思わず声を上げた。

 

 デート。その単語だけは、英語が苦手な時春にもはっきりと聞き取れた。

 

 いやいや、違う。あくまで勉強だって。数学のテストと英語のエッセイのために、二人で図書館へ行くだけなのだ。

 

 ……まあ、二人きりなのは本当だけど。

 

 いや、だから何だよ!

 

「Jake! It’s not a date!(ジェイク! デートじゃないから!)」

 

 エマも少し頬を赤くして抗議したが、それを見たジェイクはますます嬉しそうになった。

 

「HAHAHAHA!(あはははは!)」

 

 その笑い声につられて周囲の生徒まで振り返り始め、時春はついに我慢できなくなった。

 

 深く息を吸い込み、いつものように叫ぶ。

 

「シャラァァァップ!!」

 

「THERE IT IS!!(出たぁぁぁ!!)」

 

 ジェイクは腹を抱えて笑い始めた。

 

 ちょうどそこへ戻ってきたゾーイが、三人の様子を見て呆れたように眉を上げた。

 

「What did he do this time?(今度は何やらかしたの?)」

 

「NOTHING!(何もしてねえって!)」

 

「Then why is Toki yelling?(じゃあ何でトキが叫んでんの?)」

 

「BECAUSE HE LOVES ME!(俺のことが大好きだからだよ!)」

 

「That’s the least believable thing you’ve said today.(今日いちばん説得力ない発言ね)」

 

 時春は思わず吹き出した。

 

 さすがゾーイ。相変わらず突っ込みが鋭い。あれだけ騒がしいジェイクを一言で黙らせられるのだから、ある意味すごい才能だと思う。

 

 エマも隣で笑っていた。さっきベンチに一人で座っていたときとは違い、その横顔はいつもの明るさを取り戻しているように見える。

 

 それを見て、時春は何となくほっとした。

 

 やっぱり数学のテストが不安だったのだろうか。それなら、明日はちゃんと教えてあげようと思う。自分だってエマに英語を教えてもらわなければ、エッセイを提出できる気がしないのだから、お互い様というやつだ。

 

 ジェイクはまだ何か言いたそうにしていたが、ゾーイに冷たい視線を向けられると、大げさに肩をすくめて黙り込んだ。

 

 時春はその様子を見て、もう一度笑った。

 

     ◇

 

 クラブ・ラッシュが終わる頃には、広場を照らす日差しが少し柔らかくなっていた。

 

 テントを片づける生徒たちの声が聞こえ始め、芝生の上には紙コップやチラシがいくつか落ちている。音楽制作クラブのスピーカーから流れていた曲も止まり、先ほどまであれほど賑やかだった広場には、風が木の葉を揺らす音が戻りつつあった。

 

 時春はエマたちと並んで校舎へ向かっていた。

 

 ジェイクは大量のチラシを抱えたまま、今日知り合った生徒たちの話を延々と続けている。ゾーイは撮影した写真を確認し、ときどきエマに画面を見せていた。エマはいつものように笑いながら相槌を打ち、時春にも写真を見せてくれる。

 

 そんな三人と歩きながら、時春は今日一日の出来事を思い返していた。

 

 学校新聞のブースで、カメラを片手に生き生きと喋っていたMJ。自分で作った音楽を嬉しそうに聞かせてくれたイジー。白いボールを握った途端、いつもの陽気な顔から真剣な表情に変わったテオ。そして、ゲームの話になった途端、初対面の上級生と驚くほど饒舌に話し始めたラリー。

 

 みんな、それぞれに夢中になれるものを持っている。

 

 しかも、ただ一人で楽しむだけでなく、誰かとその楽しさを分かち合おうとしていた。今日会ったグレースだってそうだ。時春がロボットについてほとんど何も知らないとわかっていても、嫌な顔一つせずに仕組みを教えてくれた。

 

 時春はリュックの中にしまったロボット工学クラブのチラシを思い出した。

 

 正直、今でも少し気になっている。バスケの練習との兼ね合いは考えなければならないし、英語の宿題だってまだまだ大変だ。それでも、これまで知らなかった世界を少し覗いてみるくらいなら、悪くないかもしれない。

 

 そんなふうに考えると、何だかワクワクしてきた。

 

 アメリカに来てから、こういう気持ちになることが増えた気がする。新しい友達ができたり、知らなかった文化に触れたり、聞いたこともない言葉を覚えたり。そのたびに、自分の世界が少しずつ広がっていくように感じるのだ。

 

 もちろん、楽しいことばかりではない。英語が通じなくて恥ずかしい思いをすることもあれば、文化の違いに戸惑うこともある。ときには怖い思いをすることだってあった。

 

 それでも今は、まだ知らないものに出会うことが、以前よりずっと楽しみになっていた。

 

「Toki?(トキ?)」

 

 隣からエマに呼ばれ、時春は顔を上げた。

 

「ん?」

 

「Don’t forget tomorrow, okay?(明日の約束、忘れないでね?)」

 

「……トゥモロー?」

 

 一瞬何のことかわからなかったが、すぐに思い出した。

 

 明日は木曜日。午後四時に図書館で、エマと一緒に勉強する約束をしているのだ。

 

「イエス! フォー・オクロック!」

 

「Good!(よかった!)」

 

 エマは満足そうに笑い、時春もつられて笑顔になった。

 

 明日は数学のテスト勉強をして、それから英語のエッセイを進める。やらなければならないことは山ほどあるし、決して楽な放課後にはならないだろう。

 

 それなのに、エマと二人で勉強するというだけで、何だか特別な予定に思えてしまう。

 

 時春はそんな自分が少しおかしくなったが、同時に、明日が来るのを待ち遠しく感じていた。

 

     ◇

 

 その日の夜、寮の部屋へ戻った時春は、机に向かって英語のエッセイの用紙を広げていた。

 

『A Place Where I Belong』

 

 自分が居場所だと感じる場所。

 

 改めてテーマを眺めてみると、意外と難しい質問だった。日本の家もそうだし、中学校の体育館だって自分にとっては大切な場所だ。CBAのバスケットボールコートも好きだし、友達と過ごすダニーズ・ダイナーにも、最近はすっかり馴染んできた。

 

 それに、ラリーと二人でゲームをしている、この寮の部屋も悪くない。

 

 こうして考えてみると、思いつく場所は意外とたくさんあった。どれか一つに決めるべきなのか、それとも複数の場所について書いてもいいのか。そもそも、自分が居場所だと感じる理由を英語で説明するには、どういう単語を使えばいいのだろう。

 

 時春はペンを握ったまま、しばらく用紙を眺めていた。

 

 隣ではラリーが、いつものようにゲームをしている。マウスをクリックする音が断続的に聞こえ、画面の中では何かが爆発しているらしかった。

 

 何気なくそちらへ目を向けると、ラリーは真剣な顔でモニターを見つめていた。その姿を見て、時春は今日のゲームクラブでの出来事を思い出した。

 

 あのときのラリーは、本当に楽しそうだった。

 

 普段は人混みを嫌がり、知らない相手と話すことにも消極的なのに、ゲームの話になった途端、あんなに生き生きしていたのだ。

 

 そういえば、登録用紙に名前も書いていたっけ。

 

 本人は入部を決めたわけではないと言い張っていたが、あの様子なら案外すぐに通い始めるかもしれない。

 

 時春はそんなことを考えながら、小さく笑った。

 

 そのとき、机の上に置いていたスマートフォンが震えた。

 

 画面を見ると、エマからメッセージが届いていた。

 

『Tomorrow, 4 PM, library! Don’t forget!(明日四時、図書館ね! 忘れないでよ!)』

 

 続けて、もう一通。

 

『And bring your essay!(あと、エッセイも持ってきてね!)』

 

「……あっ」

 

 時春は思わず笑った。

 

 そうだった。明日の楽しみばかり考えていたが、そもそもエッセイを進めなければならないのだった。

 

 エマに見せるのなら、せめてもう少しは書いておきたい。一文しか書けていないと知られたら、また笑われてしまうだろう。

 

 時春はスマートフォンを手に取り、短い返信を打ち込んだ。

 

『YES! SEE YOU TOMORROW!』

 

 送信すると、すぐに返事が届いた。

 

『See you, Toki! :)』

 

 時春はそのメッセージをしばらく眺め、自然と口元を緩めた。

 

 たったそれだけのやり取りなのに、何だか嬉しい。明日の放課後にはまたエマと会えるのだと思うと、それだけで少し元気が出てくる。

 

 ……へへ。楽しみだな。

 

 すると、隣から呆れたような声が聞こえてきた。

 

「……Toki.(……トキ)」

 

「ん?」

 

 振り返ると、ラリーがゲームの手を止め、こちらを見ていた。

 

「You’ve been smiling at your phone for like a minute.(さっきから一分くらい、スマホ見てニヤニヤしてるよ)」

 

「……えっ?」

 

「Who’s texting you?(誰からメッセージ来てるの?)」

 

「アー……エマ!」

 

「……Emma?(……エマ?)」

 

「イエス!」

 

 ラリーは数秒間、時春の顔をじっと見つめた。

 

 それから何かを察したように小さく息を吐いた。

 

「……Oh.(……ああ)」

 

「……?」

 

「Nothing.(別に)」

 

 そう言って、何事もなかったかのようにモニターへ向き直る。

 

 時春は不思議そうに首を傾げた。

 

 何なんだ、いったい。人の顔をじろじろ見ておいて、何もないとは変なやつである。

 

 もっとも、ラリーが妙な反応をするのは今に始まったことではない。時春はそれ以上気にせず、スマートフォンを伏せて、もう一度エッセイの用紙へ向き直った。

 

 さて、今度こそ続きを書かなければならない。

 

 時春は少し考えてから、ペンを走らせた。

 

『I feel at home when……』

 

 そこまで書いたところで、また手が止まった。

 

 ……あれ? このあと、何て書けばいいんだ?

 

 日本語なら、いくらでも言葉が浮かぶ。友達と一緒にいるとき、バスケットボールをしているとき、ラリーとゲームをしているとき。そういう時間は、自分にとって居心地がいいし、自然体でいられる気がする。

 

 それから、最近はエマと話しているときも楽しい。

 

 ……って、ちょっと待て。

 

 時春はそこで急に顔を赤くした。

 

 今、自分は何を考えたのだろう。確かにエマと話している時間は好きだが、だからといって、それを英語のエッセイに書くのは何だか違う気がする。

 

 何より、明日はそのエッセイを本人に見せることになるのだ。

 

 そんなことを書いてあるのを見つけられたら、いったいどんな顔をされるだろう。

 

 ……いや、絶対ダメだろ!

 

 時春は慌ててペンを置き、一度大きく息を吐いた。

 

 落ち着け。これはただの英語の課題で、自分が居場所だと思う場所について書けばいいだけだ。何も難しく考える必要はないし、変なことを意識する必要もない。

 

 そう自分に言い聞かせてから、時春はもう一度用紙を見つめた。

 

 白い紙の上には、まだ短い一文しか書かれていない。昨日と比べても、進んだと言えるほどの量ではなかった。

 

 それでも、不思議と嫌な気分にはならなかった。

 

 今日一日、学校でいろいろなものを見たせいだろうか。それとも、明日エマと一緒に勉強する約束をしたからだろうか。何を書けばいいのかは相変わらずわからないが、その続きを考えることが、昨日より少しだけ楽しく感じられた。

 

 高山時春、十五歳。

 

 アメリカでの生活が始まって、もう九月になる。

 

 クラブ・ラッシュで知ったのは、この学校には自分がまだ知らない楽しみが、想像以上にたくさんあるということだった。バスケットボール以外にも夢中になれるものがあって、それぞれの場所で、誰もが自分の好きなことを追いかけている。

 

 きっと、これからも新しい発見があるのだろう。

 

 そう思うと、明日学校へ行くのが少し楽しみになる。

 

 もっとも、今の時春には、それとは別に楽しみにしていることがあった。

 

 明日の放課後、午後四時。

 

 学校の図書館で、エマと二人で勉強する。

 

 時春はその予定を思い浮かべ、椅子の背もたれにもたれながら、思わず小さく笑った。

 

 英語のエッセイは相変わらず難しいし、明日になったからといって急に英語が上手くなるわけでもない。きっと何度も言葉に詰まり、エマに笑われることになるのだろう。

 

 それでも、明日だけはちょっと頑張れそうな気がした。

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