CRESCENT BAY ACADEMY   作:西野圭吾

8 / 8
第8話 居場所のかたち

 

 木曜日の午後三時五十二分。

 

 高山時春は、クレセントベイ・アカデミーの図書館の入口に立っていた。

 

 放課後のキャンパスには、まだ夏の名残を感じさせる強い日差しが降り注いでいる。校舎の向こうには青い空が広がり、遠くのグラウンドからはアメフト部の練習らしい掛け声が聞こえていた。

 

 つい先日まで授業の終わりを告げるベルにさえ慣れていなかったというのに、最近ではこうした放課後の風景も、少しずつ見慣れたものになってきた。

 

 しかし、今日ばかりは事情が違った。

 

 時春はスマートフォンを取り出し、画面に表示された時刻を確かめた。

 

 三時五十二分。約束の時間までは、あと八分もある。

 

 ……早く来すぎたかな。

 

 いつもなら放課後は体育館へ向かうか、寮へ戻って宿題をするところだった。けれど今日は、昨日のクラブ・ラッシュで決まった特別な予定がある。

 

 午後四時、学校の図書館で、エマ・パーカーと二人で勉強するのだ。

 

 やることは数学と英語の宿題。至って健全な学習活動であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 

 そう。勉強だ。

 

 ただの、勉強。

 

 ……何で俺、こんなに早く来ちゃったんだろう。

 

 時春は自分でもおかしくなって、少しだけ苦笑した。

 

 昨日、ジェイクに散々「勉強デート」だとからかわれたせいで、必要以上に意識してしまっているのかもしれない。もちろん、本人にそんなつもりはないし、エマだって金曜日の数学のテストが心配だから誘ってくれたのだ。

 

 それはわかっている。わかっているのだが、約束の時間が近づくにつれて、何となく落ち着かなくなる。

 

 ……まあ、ちょっとくらい楽しみでもいいだろ。

 

 時春はリュックの肩紐を握り直し、図書館の扉を開けた。

 

     ◇

 

 CBAの図書館は、時春が想像していたよりもずっと広かった。

 

 高い天井まで伸びる書架には数え切れないほどの本が並び、中央には大きな閲覧スペースが設けられている。壁の一面はほとんどガラス張りになっており、窓の向こうにはキャンパスの木々と、遠くに青く霞む海が見えた。天井から吊り下げられた照明は柔らかな光を落とし、午後の日差しと混ざり合って館内を静かに照らしている。

 

 聞こえてくるのは、ページをめくる音やキーボードを打つ音、それから時折交わされる小さな話し声くらいだった。外の賑やかさとは対照的に、ここには穏やかな時間が流れている。

 

 時春は思わず周囲を見回した。

 

 ……うわあ、すげえな。この図書館。

 

 日本の中学校にも図書室はあったが、ここは規模が違う。奥にはグループ学習用のガラス張りの部屋まであり、何人かの生徒がホワイトボードに図を書きながら話し合っていた。窓際には一人掛けのソファが並び、そこで分厚い本を読んでいる生徒もいる。

 

 しかも、何だかおしゃれだ。図書館というより、ホテルのラウンジにでも来たような気分になる。

 

 そんなことを考えながら歩いていると、カウンターの向こうにいた司書らしい女性と目が合った。

 

「Hi there!(こんにちは!)」

 

「あっ、ハロー!」

 

「Need any help?(何かお探し?)」

 

「アー……ノー! サンキュー!」

 

 時春が慌てて首を振ると、女性は優しく笑い、再び手元の本へ視線を戻した。

 

 ……よし。今のはちゃんと答えられたぞ。

 

 少し前なら、何を聞かれたのかわからず、とりあえず「イエス!」と言っていたかもしれない。そう考えると、確かに自分も成長しているのだろう。

 

 時春は窓際の四人掛けのテーブルを選び、リュックを下ろした。テーブルの中央には小さな照明があり、向かい側には空の椅子が置かれている。

 

 その椅子を見た瞬間、また妙に落ち着かなくなった。

 

 ……いや、何だよ。椅子だぞ。ただの椅子だぞ。

 

 自分に呆れながら、時春はノートと教科書を取り出した。

 

 まずは数学。それから英語のエッセイだ。

 

 昨日の夜、少しは続きを書こうと思ったのだが、結局大して進まなかった。用紙に残っているのは二つの短い英文と、その周囲に書き散らした日本語のメモばかりである。

 

 ……エマ、絶対笑うだろうな。

 

 時春がため息をついた、そのときだった。

 

「Toki!(トキ!)」

 

 聞き慣れた声に顔を上げると、エマがこちらへ歩いてくるところだった。

 

 薄い水色のシャツに白いスニーカー。肩まで流していることの多い茶色い髪を、今日は後ろで緩くまとめている。片方の腕には教科書を抱え、空いた手で小さく手を振っていた。

 

「あっ、エマ!」

 

「早いね! ずっと待ってた?」

 

「ノー! ジャスト……ファイブ・ミニッツ!」

 

 正確にはもう少し経っているが、そこは気にしない。

 

「よかった。私、遅れちゃうかと思った」

 

「ノー・プロブレム!」

 

 エマは向かいの椅子へ腰を下ろし、机に教科書を並べた。時春が何気なく時計を見ると、ちょうど午後四時になったところだった。

 

 ……おお、ぴったりじゃん。

 

 そんなことに感心していると、エマが数学の教科書を開きながら、いたずらっぽく笑った。

 

「Okay, Professor Toki. Ready to save my math grade?(じゃあ、トキ先生。私の数学の成績、救ってくれる?)」

 

「……プロフェッサー?」

 

「そう。今日はトキが先生だからね」

 

「……オー!」

 

 時春は思わず背筋を伸ばした。

 

「オーケー! アイム、プロフェッサー・トキ!」

 

「Shhh! Library!(しーっ! 図書館だよ!)」

 

「あっ!」

 

 慌てて口を押さえると、近くの席にいた上級生がちらりとこちらを見た。

 

 ……やっべ。開始三十秒で怒られるところだった。

 

 エマは肩を震わせながら笑っている。時春もつられて笑いそうになったが、今度は何とか声を抑えた。

 

     ◇

 

 まずは、エマの数学のテスト勉強から始まった。

 

 金曜日のGeometryの小テストは、三角形の相似と、平行線が作る角度の関係が中心だった。時春にとっては日本の中学校で何度も解いてきた内容だが、エマはどうも図形を頭の中で整理するのが苦手らしい。

 

 ノートを開くなり、彼女は困ったように眉を下げた。

 

「昨日の夜も勉強したんだけど、余計わかんなくなっちゃった気がする」

 

「……ワース?」

 

「Worse. More confused.(もっと混乱したってこと)」

 

「あー……オーケー」

 

 時春は頷きながらノートを覗き込んだ。

 

 そこには大きさの違う二つの三角形が描かれていた。小さい方の辺には六、八、十という数字が書かれており、大きい方には九、十二、そして未知数の x が記されている。

 

 ……ああ、なるほど。

 

 簡単な相似の問題だ。対応する辺の比を使えば、すぐに求められる。

 

「エマ! ルック!」

 

 時春は自分のノートを広げ、二つの三角形を描き直した。

 

「ディス……スモール。ディス……ビッグ!」

 

「Yeah.(うん)」

 

「シックス……ナイン!」

 

 対応する辺を指差し、続けて八と十二の数字を示す。エマは真剣な顔で頷いていた。

 

「And ten goes with x, right?(じゃあ、十に対応するのが x ってことだよね?)」

 

「イエス! セイム・レシオ!」

 

 時春はノートに式を書き込んだ。

 

 六から九は一・五倍。八から十二も一・五倍だから、十に対応する辺も一・五倍になっている。つまり、答えは十五だ。

 

「フィフティーン!」

 

 時春が数字を丸で囲むと、エマは小さく声を漏らした。

 

「……Oh」

 

 彼女はしばらく二つの三角形を見つめ、それから顔を上げた。

 

「Wait. That’s it?(待って。それだけ?)」

 

「……イエス?」

 

「ほかに何か計算しなくていいの?」

 

「ノー!」

 

 エマはもう一度図に目を落とし、やがて両手で顔を覆った。

 

「Oh my gosh……。私、めちゃくちゃ難しく考えてた!」

 

 どうやら彼女は、問題を解く前に複雑な公式を探そうとしていたらしい。しかも、図が少し回転しているだけで、どの辺とどの辺が対応するのかわからなくなるのだという。

 

 時春はもう一枚紙を取り出し、今度は三角形を反対向きに描いてみせた。

 

「エマ。ディス……セイム!」

 

「でも、逆さまじゃん」

 

「イエス! バット……セイム!」

 

 紙をくるりと回転させると、二つの三角形が同じ向きになる。

 

「あっ!」

 

 エマが目を見開いた。

 

「そういうこと!? 私、そこがわかってなかったんだ!」

 

 時春は嬉しくなって、大きく頷いた。

 

 理解してもらえたことがわかると、英語で説明するのが多少下手でも何とかなるものだ。むしろ、図や数字を使って伝えられる分、普段の授業よりずっと気が楽だった。

 

 その後、エマは先ほどまで間違えていた問題を自分で解き始めた。時春は向かいから見守り、対応する辺を間違えそうになったときだけ図を指差す。

 

 彼女のペンが止まり、しばらく考え込んだあと、また動き出した。

 

 数分後、エマが顔を上げた。

 

「……Fifteen.(……十五)」

 

「フィフティーン!」

 

「I got it!(できた!)」

 

 エマは思わず両手を上げかけたが、途中で図書館にいることを思い出したらしく、慌てて膝の上に戻した。

 

 時春も笑いながら親指を立てる。

 

「ナイス、エマ!」

 

「Thank you, Professor Toki.(ありがとう、トキ先生)」

 

「ユー・アー・ウェルカム!」

 

 時春は得意げに胸を張った。

 

 ……ふっ。悪くないな、数学の先生っていうのも。

 

 もっとも、エマがそのあと別の問題を三問続けて正解したことで、先生としての出番はほとんどなくなってしまった。

 

「うん、もうわかった気がする。考え方はすっごく簡単だったんだね」

 

「……リアリー?」

 

「Yeah! Thanks, Toki!(うん! ありがとう、トキ!)」

 

 エマは満足そうにノートを閉じた。

 

 時春が時計を見ると、午後四時二十三分だった。

 

 ……早っ。二十分ちょっとで終わっちゃったじゃん。

 

 昨日まであんなに悩んでいたのに、一度理解すると本当に早かった。エマは仕組みさえわかれば、あとは自分でどんどん進められるらしい。

 

 やっぱり頭がいいんだな、と感心していると、彼女がゆっくりとこちらへ顔を向けた。

 

「So.(それじゃあ)」

 

「……?」

 

「Your turn.(次はトキの番ね)」

 

 時春の笑顔がぴたりと止まった。

 

 ……あっ、そうだった。

 

 完全に忘れていた。いや、忘れようとしていた。

 

「The essay.(エッセイ)」

 

「……オー、ノー」

 

「ほら、見せてよ。どれくらい書けたの?」

 

 エマが楽しそうに手を差し出す。

 

 ……くっそ。数学の時間、短すぎるだろ。

 

     ◇

 

 時春は渋々、リュックから一枚の用紙を取り出した。

 

 English 9のエッセイ。タイトルは『A Place Where I Belong』。

 

 自分が居場所だと感じる場所について書く課題だった。

 

 テーマそのものは難しくない。自分の考えを日本語で説明することならできるのだが、英語の文章にしようとすると、途端に手が止まってしまう。使いたい単語がわからず、ようやく見つけても、今度は文法が合っているのか不安になる。

 

 そんなことを繰り返しているうちに、昨夜は結局ほとんど進まなかった。

 

 時春が用紙を差し出すと、エマは嬉しそうに受け取った。

 

「Okay, let’s see what you’ve got.(じゃあ、見てみよっか)」

 

「……アー……」

 

 時春は少し身を縮めた。

 

 用紙には、二つの英文が書かれている。

 

『I like Japan.』

 

『I feel at home when……』

 

 エマはしばらく黙って紙を見つめていた。

 

 やがて、ゆっくりと時春を見上げる。

 

「……トキ」

 

「……イエス?」

 

「これだけ?」

 

「…………」

 

 時春は小さく頷いた。

 

 エマは口元を押さえたまま、もう一度用紙に目を落とした。その肩がわずかに震えている。

 

 ……おい。笑うなよ。絶対笑うなよ。

 

「Pff……!(ぷっ……!)」

 

「エマ!」

 

「Sorry! I’m sorry!(ごめん! ごめんってば!)」

 

 しかし、もう遅かった。エマはとうとう吹き出し、声を抑えながら笑い始めた。

 

「昨日、本当に一文しか書いてなかったんだ!」

 

「トゥー! トゥー・センテンス!」

 

「二つ目は途中で終わってるじゃん!」

 

「…………」

 

 ……ぐぬぬ。何も言い返せない。

 

 しかも、正確に言えば二つ目は文章として成立すらしていない。昨夜、続きを考えようとして、そのまま諦めたのである。

 

 エマはひとしきり笑ったあと、ようやく表情を落ち着けた。

 

「Okay, okay. We’ll fix it.(大丈夫。ここから一緒に考えよ)」

 

「……リアリー?」

 

「もちろん。約束したでしょ?」

 

 そう言って、彼女は小指を立ててみせた。

 

 時春は一瞬目を丸くし、それから思わず笑った。

 

 入学して間もない頃、数学を教える代わりに英語を教えてもらうと約束したことがある。二人で小指を絡めて交わした、あの約束だ。

 

 エマはまだ、ちゃんと覚えていた。

 

 時春も小指を立てる。

 

「ウィー・プロミス!」

 

「Exactly.(そういうこと)」

 

 二人は軽く小指を絡め、すぐに手を離した。

 

 エマは用紙を机の中央へ置き、ペンを取り出した。

 

「まず、何を書きたいのか考えよう。まだ英語は気にしなくていいよ。日本語でも大丈夫だから」

 

「……オーケー」

 

 時春は少し考えた。

 

 自分の居場所。

 

 そう言われて最初に思い浮かぶのは、日本の家だった。家族がいて、昔からの友達がいて、何も説明しなくても自分のことをわかってくれる人たちがいる。

 

 それから、中学校の体育館。

 

 放課後、チームメイトと何時間も練習した場所だ。試合に勝って喜んだこともあれば、負けて悔しがったこともあった。仲間と過ごした時間のほとんどが、あの体育館には詰まっている。

 

 けれど、今の自分はアメリカにいる。

 

 時春は窓の外へ目を向けた。

 

 ヤシの木が揺れ、遠くには青い海が見える。午後の日差しに照らされた校舎も、最初に見たときほど見慣れないものではなくなっていた。

 

 日本から遠く離れた、この場所。

 

 ここにも自分の居場所はあるのだろうか。

 

 そう考えてみると、思ったより簡単に答えが出た。

 

 ……あるじゃん。しかも、結構たくさん。

 

「……エマ」

 

「ん?」

 

「アイ……ライク……マイ・ルーム、アンド……ジム……」

 

 時春は言葉を探しながら続けた。

 

「ダニーズ! アンド……フットボール!」

 

「Oh! You have lots of places you like.(好きな場所がたくさんあるんだね)」

 

「イエス!」

 

 時春は頷いた。

 

 ダニーズ・ダイナーには、赤いソファと美味しいバニラシェイクがある。少し怖そうな顔をしたダニーと、店内に響くジェイクの笑い声も、すっかり馴染みのあるものになった。

 

 体育館では、ノアやマイルズたちとバスケをしている。初めて五対五に誘われたときは緊張したが、今では放課後に彼らとプレーするのが楽しみだった。

 

 寮の部屋へ帰ればラリーがいる。一緒にゲームをしたり、くだらないことで言い合いをしたりする時間は、時春にとって大切な息抜きになっていた。

 

 そして、アメフトのスタジアム。青と白の観客席で、友達と声を枯らして応援した金曜日の夜は、今でも鮮明に覚えている。

 

 どれもアメリカに来てから知った場所で、今ではそれぞれに楽しい思い出がある。

 

 そうして一つずつ振り返っているうちに、時春はあることに気づいた。

 

 ……あれ? そういえば、最初は全部あそこから始まったんじゃないか。

 

     ◇

 

 アメリカへ来て、初めてCBAの校舎で迷子になった日。

 

 英語の授業がどこで行われるのかわからず、広い廊下を一人で歩き回っていた。教室の番号も案内板の英語も、何もかもがややこしく感じられた。

 

 知っている人は誰もいない。日本語を話す相手も見当たらず、周囲の生徒たちは当たり前のように英語で笑い合っている。自分だけが、その輪の外に取り残されているような気がした。

 

 あのときの心細さを、時春はまだ覚えている。

 

 そんなときに声をかけてくれたのが、エマだった。

 

 教室まで案内してくれただけではない。日本語で話しかけ、ジェイクとゾーイを紹介し、昼休みには一緒に食事をしてくれた。数学の授業でも隣にいて、時春が英語に戸惑っていると、何かと気にかけてくれた。

 

 あの日を境に、学校で過ごす時間が少しずつ変わり始めた。

 

 ジェイクに誘われて初めてアメフトの試合を観に行き、エマたちとダニーズへ行って、あの美味しいバニラシェイクを知った。放課後にはオープンジムへ足を運び、ノアやマイルズ、マイクたちとバスケをするようになった。

 

 もちろん、ラリーとはエマに出会う前から友達だったし、ESLでもテオやMJ、イジーと知り合うことができた。

 

 だから、今の友達がみんなエマのおかげでできたというわけではない。

 

 それでも、彼女が最初に声をかけてくれたことで、学校への不安が随分と薄れたのは間違いなかった。

 

 あの日の時春には、周囲の誰もが遠い存在に見えていた。けれど、エマのおかげで一人と話すことができたら、次はもう少し気楽に別の誰かへ話しかけられるようになった。そうやって知り合いが増え、気づけば学校のあちこちに友達ができていた。

 

 今では廊下を歩いていると誰かに声をかけられるし、カフェテリアや体育館へ行けば、見知った顔がいる。少し前までは名前すら知らなかった場所が、いつの間にか友達との思い出を持つ場所になっていた。

 

 時春は自分でも気づかないうちに、小さく笑っていた。

 

「Toki?(トキ?)」

 

 エマの声に顔を上げる。

 

「You okay?(大丈夫?)」

 

「……イエス!」

 

 時春は頷いたが、すぐには次の言葉が出てこなかった。

 

 今考えていたことを、エマに伝えたかった。

 

「アイ……ハブ、メニー・プレイセズ……アット、CBA!」

 

「うん。好きな場所がたくさんあるんだね」

 

「イエス! バット……」

 

 ここからが難しかった。

 

 日本語なら、もっと上手く説明できる。けれど、どうしても英語で伝えたかった。

 

 時春は少し考え、人差し指を一本立てた。

 

「ユー、ヘルプド・ミー……ファースト!」

 

「……Me?(……私が?)」

 

「イエス! ファースト・デイ!」

 

 エマが教室まで案内してくれた日。あのときの不安な気持ちと、そのあとに感じた安心感を思い出しながら、時春は懸命に言葉をつなげた。

 

「ビコーズ……ユー、ヘルプド・ミー……アイ……ハブ、フレンズ!」

 

 エマは少し驚いたように瞬きをした。

 

 時春は急に不安になった。

 

 ……あれ? 伝わってない? 文法、間違えたか?

 

 言い直そうと口を開きかけたところで、エマが柔らかく微笑んだ。

 

「……Toki. That’s really sweet.(……トキ。それ、すごく嬉しい)」

 

 彼女は少し照れくさそうに、耳へ髪をかけた。

 

「でもね、友達ができたのは、トキが自分で頑張ったからだよ」

 

「……?」

 

 時春が首を傾げると、エマはもう少しゆっくりと続けた。

 

「I just showed you where the classroom was.(私がしたのは、教室を教えたことくらいだよ)」

 

「ノー!」

 

 時春は反射的に首を振った。

 

 それだけじゃない。教室の場所がわかったことより、知らない学校で誰かが自分に話しかけてくれたことの方が、ずっと嬉しかったのだ。

 

 けれど、その気持ちを全部英語にするのは難しい。

 

 時春は少し考えた末、エマの顔を見て笑った。

 

「……サンキュー、エマ。フォー……エブリシング!」

 

 エマは一瞬目を丸くしたあと、ゆっくりと微笑んだ。

 

「……You’re welcome, Toki.(……どういたしまして、トキ)」

 

 その声は、いつもより少しだけ静かだった。

 

 時春は何となく照れくさくなり、視線をノートへ戻した。

 

 ……うわ。何か、めちゃくちゃ真面目なこと言っちゃったな。

 

 普段ならジェイクあたりに散々からかわれそうな台詞だったが、別に嘘を言ったわけではない。それに、エマが嬉しそうにしてくれたのだから、伝えてよかったのだと思う。

 

 すると、エマがペンを取り、用紙の余白へ英文を書き始めた。

 

『When I first came to America, I was nervous.』

 

「How about starting with this?(最初は、こう書いてみるのはどう?)」

 

「……ナーバス?」

 

「そう。アメリカに来たとき、緊張してたんでしょ?」

 

「オー! イエス!」

 

 まさにその通りだった。

 

 エマは続けて、別の文章も書いてみせた。

 

『I did not know many people at my new school.』

 

「それで、そのあと何が変わったのかを書けばいいの。最初にアメリカへ来たときの気持ちを書いて、次に学校で出会った人たちのことを書く。最後に、今どう感じているのかをまとめたら?」

 

 時春は真剣に頷いた。

 

 エマは完成した文章をそのまま渡すのではなく、どういう順番で考えれば書きやすくなるのかを教えてくれていた。

 

 最初は不安だった自分が、友達と出会い、少しずつ学校を好きになっていく。

 

 それなら、自分にも書けそうな気がした。

 

     ◇

 

 それからの一時間は、あっという間だった。

 

 時春は日本語のメモを参考にしながら、一つずつ英文を作っていった。わからない単語があればエマに聞き、文法を間違えれば教えてもらう。ときには辞書を引き、書いた文章を最初から考え直すこともあった。

 

 もちろん、簡単にはいかなかった。

 

 特に苦戦したのが、過去形と複数形である。英語では同じ意味の文章でも、いつの出来事なのかによって動詞の形が変わるし、名詞が一つなのか複数なのかも気にしなければならない。

 

「トキ、ここは過去形ね」

 

「あー!」

 

「And you need an ‘s’ here.(それと、ここは s が必要だよ)」

 

「……エス?」

 

「そう。友達が何人もいるんだから、複数形にしないと」

 

「……オー、マイ、ゴッド……」

 

 時春が頭を抱えると、エマはくすくす笑った。

 

「英語って難しいでしょ?」

 

「ベリー、ベリー、ハード!」

 

「これで私の数学の気持ちもわかったでしょ?」

 

「……イエス!」

 

 二人は声を抑えて笑い合った。

 

 最初はエマの顔を見るだけで妙に緊張していた時春だったが、勉強が進むにつれて、そんなことも気にならなくなってきた。わからないことは遠慮なく聞けるし、間違えてもエマは嫌な顔をせずに教えてくれる。ときには笑われることもあるが、それが不思議と恥ずかしくなかった。

 

 何度か、二人の手が同じ消しゴムへ伸びることもあった。

 

 そのたびに時春は一瞬だけ動きを止めたが、エマは特に気にする様子もなく、自然に消しゴムを渡してくれる。

 

 ……俺だけ変に意識してるじゃん。落ち着けって。

 

 そう自分に言い聞かせながら、時春はまたペンを握り直した。

 

 やがて、用紙にはいくつもの英文が並び始めた。

 

『When I first came to America, I was nervous. I did not know many people at my new school.』

 

『On my first day, a girl named Emma helped me find my classroom. She introduced me to her friends.』

 

『Now I have many friends at CBA. I like playing basketball in the gym, watching football games, and going to Danny’s Diner.』

 

『I also like playing games with my roommate, Larry.』

 

 時春はそこまで書いたところで、満足そうに息を吐いた。

 

 ……おお、めっちゃ書けてるじゃん。

 

 昨日まで「I like Japan.」で止まっていた人間とは思えない。

 

 もちろん、エマに何度も助けてもらっているし、簡単な単語ばかりを使った文章ではある。それでも、自分が伝えたいと思ったことを、少しずつ英語にできているのが嬉しかった。

 

 最後に残ったのは、結論だった。

 

「So, what’s the most important thing?(じゃあ、最後にいちばん伝えたいことは何かな?)」

 

 エマに尋ねられ、時春はノートを見つめた。

 

 自分の居場所はどこなのか。

 

 体育館だろうか。寮だろうか。ダイナーだろうか。それとも、この学校そのものなのだろうか。

 

 考えているうちに、時春はノートに書いた場所の名前を指でなぞった。

 

 体育館には、一緒にバスケをする仲間がいる。ダニーズには笑い合える友達がいて、寮の部屋へ帰ればラリーがいる。スタジアムでは、同じチームを応援する人たちと肩を並べて声を張り上げた。

 

 そして今、自分はこの図書館でエマと一緒に勉強している。

 

 どの場所も好きだけれど、一人で訪れていたら、きっと今ほど楽しい場所にはなっていなかっただろう。

 

 ……そっか。大切なのは、建物だけじゃないんだ。

 

 時春は顔を上げた。

 

「エマ!」

 

「ん?」

 

「プレイス……ノット、ジャスト……プレイス!」

 

 エマは興味深そうに首を傾げた。

 

「Not just a place?(場所だけじゃないってこと?)」

 

「イエス! ピープル! マイ・フレンズ!」

 

 時春はエッセイに書いた友達の名前を指差した。

 

 エマはしばらくその様子を見つめていたが、やがて納得したように頷いた。

 

「うん、わかった気がする」

 

 彼女はノートの端に、短い英文を書いた。

 

『I feel at home when I am with my friends.』

 

 時春はその文章をじっと見つめた。

 

 友達と一緒にいるとき、自分の居場所だと感じる。

 

 ずっと言いたかったことが、たった一つの英文にまとまっていた。

 

「……オー! イエス! ディス!」

 

「最後の一文にしたらどうかな?」

 

「オーケー!」

 

 時春は丁寧に文章を書き写し、最後にピリオドを打った。

 

 これで、ひとまず完成である。

 

 提出前にもう一度読み直す必要はあるし、先生が求める文章として十分な長さなのかも確認しなければならない。それでも、昨夜までほとんど白紙だった用紙が、自分の言葉で埋まっている。

 

 時春は完成したエッセイを持ち上げ、エマに見せた。

 

「フィニッシュ!」

 

「Yay! You did it!(やった! 書けたね!)」

 

「サンキュー、エマ!」

 

「どういたしまして、トキ先生」

 

「……プロフェッサー?」

 

「うん。今日はお互い先生だったでしょ?」

 

 エマが笑って言うので、時春も思わず胸を張った。

 

「イエス! グッド・チーム!」

 

「Exactly!(その通り!)」

 

 彼女は手を差し出し、時春も反射的に手を伸ばした。

 

 ぱちん、と小さな音が響く。

 

 図書館なので、ハイタッチもいつもより控えめだった。

 

 時春は自分の手のひらを見つめ、それからエマへ目を向けた。

 

 数学を教えて、英語を教えてもらう。最初は単なる宿題のための約束だったが、こうして一緒に勉強してみると、思っていた以上に楽しかった。

 

 ……グッド・チーム、か。悪くないな。

 

     ◇

 

 時計は午後五時半を少し回っていた。

 

 図書館にはまだ多くの生徒が残っていたが、窓から差し込む光は先ほどよりも柔らかくなっている。木々の影が床へ長く伸び、遠くの海は昼間とは少し違う色に見えた。

 

 時春がエッセイをリュックへしまい、大きく伸びをすると、エマもノートを片づけ始めた。

 

 今日ほど英語の宿題が楽しいと思えた日は、今までなかったかもしれない。もちろん、一人で同じ課題に取り組んでいたら、今頃まだ最初の一文を眺めていたに違いない。

 

 すると、エマが何かを思い出したように顔を上げた。

 

「Oh, by the way!(あ、そうだ!)」

 

「……ん?」

 

「もうすぐホームカミングの季節だね」

 

「…………」

 

 時春は固まった。

 

 ホーム、カミング。

 

 家が、来る?

 

 いや、違うか。帰ってくる?

 

「……ホーム、カミング?」

 

「Yeah!(そう!)」

 

「……ホワット・イズ……ホームカミング?」

 

 エマは意外そうに目を丸くしたが、すぐに納得したように笑った。

 

「あ、そっか! アメリカで初めての秋だもんね!」

 

「イエス!」

 

 時春は元気よく頷いたものの、内心では首を傾げていた。

 

 名前だけなら、何となく聞いたことがある。アメリカの高校を舞台にした映画やドラマで、登場人物たちが何かのパーティーへ行く場面を見た覚えもあった。

 

 しかし、具体的に何をするのかはまったく知らない。

 

 エマはスマートフォンを取り出し、学校の行事予定を開いた。

 

「じゃあ、説明するね。ホームカミングは、秋にある学校の大きなイベントなの」

 

「……オーケー!」

 

 時春は興味津々で身を乗り出した。

 

 エマの説明によると、ホームカミングはもともと卒業生を学校へ迎える行事で、現在では在校生も参加する大きなお祭りのようなイベントになっているらしい。

 

 学校によって内容は異なるが、アメフトの試合や応援イベント、ダンスパーティーなどが行われ、キャンパス全体が賑やかな雰囲気に包まれるという。

 

 CBAでも毎年十月に開催され、その週にはいくつもの特別な行事が用意されていた。

 

「First, there’s Spirit Week.(まず、スピリット・ウィークがあるの)」

 

「……スピリット?」

 

「一週間、毎日違うテーマの服を着て登校するんだよ。今年もいろいろあるみたい」

 

「……ドレス?」

 

 服を着る?

 

 ……いや、学校には毎日服を着て行ってるけど。

 

 時春が不思議そうな顔をしていると、エマは画面に表示された予定の一つを指差した。

 

「例えば、パジャマ・デーとかね」

 

「…………」

 

 時春は目を瞬かせた。

 

「……パジャマ?」

 

「そう! パジャマを着て学校に来るの!」

 

「……パジャマ!?」

 

 思わず声が大きくなり、エマが人差し指を唇へ当てた。

 

 時春は慌てて口を押さえたが、頭の中ではまだ理解が追いついていなかった。

 

 パジャマで学校へ行く。

 

 そんなことをしていいのだろうか。

 

「……スリーピング?」

 

 時春は両手を頬に当て、眠る真似をした。

 

「パジャマ? アット・スクール?」

 

「At school!(学校で!)」

 

「……オー、マイ、ゴッド……!」

 

 日本の学校だったら、絶対に先生から注意されるだろう。そもそも、家からパジャマのまま出ていくなんて、忘れ物をするよりよっぽど恥ずかしいことではないか。

 

 それを、学校全体でやるらしい。

 

 しかも、正式な行事として。

 

 ……アメリカ、やべえ。

 

 時春が驚いている間にも、エマは楽しそうに説明を続けていた。

 

 スピリット・ウィークには、友達と同じ格好をするツイン・デーや、昔の年代をイメージした服装を楽しむ日もあるという。学校の青と白を身につけてブレイカーズを応援する日には、全身をスクールカラーで揃える生徒もいるらしい。

 

「みんな、すっごく凝った格好してくるんだよ。ほら、去年の写真!」

 

 エマはスマートフォンを操作し、何枚かの写真を見せてくれた。

 

 そこには、まったく同じ服を着て並んでいる生徒たちや、昔の映画から飛び出してきたような格好の男子、全身を青と白で揃えた集団などが写っていた。

 

 そして、その中の一枚に時春は目を奪われた。

 

 青いチェック柄のパジャマを着た男子生徒が、教科書を抱えて廊下に立っている。隣には、大きなぬいぐるみを持った女子生徒までいた。

 

 ……うわ。本当にパジャマじゃん。

 

 完全に寝る格好で学校にいる。

 

「……アメイジング」

 

「Right?(でしょ?)」

 

 エマは嬉しそうに笑った。

 

「トキもパジャマ・デー参加しなよ!」

 

「……ミー?」

 

「もちろん!」

 

 時春は写真を見つめながら考えた。

 

 パジャマで学校へ行くなんて、日本ではまず経験できないだろう。普通なら恥ずかしいけれど、周りの生徒も同じような格好をしているのなら、案外平気かもしれない。

 

 いや、少しくらい恥ずかしい方が面白そうだ。

 

「……オーケー!」

 

 時春は親指を立てた。

 

「アイ・ウィル・ウェア……パジャマ!」

 

「Perfect!(決まり!)」

 

 エマと顔を見合わせて笑いながら、時春は早くも自分の持っているパジャマを思い浮かべていた。

 

 ……よっしゃ。パジャマ登校、決定。

 

     ◇

 

「それから、もちろんアメフトの試合もあるよ」

 

「……フットボール?」

 

 時春の顔がぱっと明るくなった。

 

「イエス!!」

 

「絶対喜ぶと思った!」

 

 ホームカミングの週には、金曜日に特別なアメフトのホームゲームが行われるという。

 

 普段のフライデーナイト・フットボールも十分盛り上がるが、この日は卒業生や家族も訪れ、いつも以上に大きなイベントになるらしい。学校の応援団も特別なパフォーマンスを準備し、試合前には大きな応援集会まで行われるそうだ。

 

 時春は、先日観に行ったアメフトの試合を思い出した。

 

 まぶしい照明に照らされたフィールドと、青と白の観客席。スタジアムを揺らす歓声に、最後の逆転劇。試合が終わったあと、友達とダニーズへ行って食べたハンバーガーや、バニラシェイクの味まで覚えている。

 

 あれだけ盛り上がった試合より、さらに大きなイベントになるというのだ。

 

「フットボール! ベリー、ベリー、エキサイティング!」

 

「私もアメフトの試合、大好き! きっと楽しいよ」

 

 エマの父親は昔アメフトをしていたらしく、彼女自身もルールに詳しい。以前の試合でも、時春がわからないことを何度も説明してくれた。

 

 ……また一緒に観られたらいいな。

 

 そんなことを考えていると、エマが別の写真を見せてくれた。

 

 そこには、きれいな服装をした男女が並んで写っていた。

 

 男子はスーツ姿で、女子はドレス姿。何人かの頭には、きらきらと輝く王冠が載っている。

 

 時春は首を傾げた。

 

 ……何だ、これ。結婚式?

 

「それから、ホームカミング・コートもあるよ」

 

「……コート?」

 

 時春は思わず反応した。

 

 コート。

 

 バスケットボールのコート?

 

「ディス……バスケットボール?」

 

 エマは一瞬きょとんとしたあと、吹き出した。

 

「No! Not that kind of court!(違う違う! バスケのコートじゃないよ!)」

 

「……オー……」

 

 また同じ単語で違う意味だ。

 

 ……ややこしいんだよ、英語!!

 

 エマは笑いながら説明してくれた。

 

 CBAでは毎年、ホームカミングの時期に候補者が発表され、生徒たちの投票によってキングとクイーンが選ばれるという。最終的に王冠を受け取るのは、最上級生であるシニアの男子と女子で、その発表も大きな見どころになっているらしい。

 

「Homecoming King and Queen!(ホームカミング・キングとクイーン!)」

 

「……キング? アンド、クイーン?」

 

「Yep!(そう!)」

 

 時春は改めて写真を見つめた。

 

 王冠にドレス、スーツ姿の生徒たち。みんな満面の笑みを浮かべていて、周囲には拍手を送る生徒たちの姿も写っている。

 

 ……すげえ。本当に王様と女王様を選ぶんだ。

 

 高校の行事なのに、まるで映画みたいだった。

 

 時春自身はまだ一年生だから候補にはならないが、先輩たちがどんなふうに選ばれるのかは少し興味がある。

 

 もし、あのノアやマイルズが王冠をかぶったら、どんな顔をするのだろう。

 

 ……いや、ノアとか絶対めちゃくちゃ調子乗るだろ。

 

 想像するだけで笑えてきた。

 

 すると、エマはスマートフォンを置き、最後に少し声を弾ませた。

 

「And then there’s the dance!(それから、ダンスパーティー!)」

 

「……ダンス?」

 

「The Homecoming Dance!(ホームカミング・ダンス!)」

 

 その言葉を聞いた瞬間、時春の脳裏にある光景が浮かんだ。

 

 薄暗い体育館に飾りつけられた天井。音楽に合わせて踊る男女と、きれいなドレスを着た女子たち。少し緊張した男子が女の子をダンスに誘う場面も、海外ドラマで見たことがある。

 

 ……あっ、これ知ってるやつだ!

 

「……ダンス・パーティー!?」

 

「Yeah!(そう!)」

 

 CBAではホームカミングの週末にダンスパーティーが開催されるらしい。男子はシャツやジャケット、女子はドレスなど、普段より少しおしゃれな服装で集まり、音楽に合わせて踊ったり、友達と写真を撮ったりするという。

 

 もちろん、ダンスが得意である必要はない。友達同士で参加する生徒も多く、踊るよりお喋りを楽しんでいる人だっているそうだ。

 

 それを聞いて、時春は少し安心した。

 

 ダンスには自信がないけれど、友達と遊ぶような感覚で参加できるのなら面白そうだ。

 

 しかし、次にエマが話した内容に、思わず姿勢を正した。

 

「それでね、男の子が女の子を誘うっていう習慣もあるの」

 

「…………」

 

 男の子が、女の子を、誘う?

 

「……ボーイ? アスク、ガール?」

 

「Exactly!(そういうこと!)」

 

 エマは頷いて、例を挙げた。

 

「Like, ‘Will you go to Homecoming with me?’(例えば『僕とホームカミングに行ってくれませんか?』って)」

 

「…………」

 

 時春は固まった。

 

 ……えっ。何それ、めちゃくちゃ青春じゃん。

 

 映画やドラマで見たことがある。男の子が緊張しながら女の子へ話しかけたり、花束を渡したり、友達に協力してもらって大きなメッセージを掲げたりする場面だ。

 

 もちろん、全員がそこまで大げさにするわけではないらしい。普段の会話の中で気軽に誘うこともあれば、友達同士でグループを作って参加することもある。

 

 それでも、本当にそんな文化があるのだと知ると、何だか感心してしまう。

 

「去年なんて、すっごく大きなボードを作って誘ってる子もいたよ」

 

 エマが見せてくれた写真には、色とりどりの風船と手作りのボードを持った男子生徒が写っていた。その向かいでは、女子生徒が両手で口元を覆い、驚いたように笑っている。

 

 ……うわあ、すげえ。ここまでやるのか。

 

「……ロマンティック……!」

 

「でしょ? すっごく可愛い誘い方もあるんだよ」

 

 エマが楽しそうに話しているのを聞きながら、時春はふと気になった。

 

 男の子が女の子を誘う。

 

 ということは、エマも誰かに誘われているのだろうか。

 

 彼女は学校でも人気者だ。廊下を歩いていれば何人もの生徒から声をかけられるし、誰とでも気さくに話している。

 

 それに、あれだけ可愛くて、明るくて、優しいのだから、誘いたいと思う男子がいても不思議ではない。

 

 ……いや、絶対誘われてるだろ。

 

 聞いてもいいのだろうか、と少し迷った。

 

 別に変な意味ではない。ただ、アメリカの高校生がこういうイベントにどう参加するのか、興味があるだけだ。

 

 ……そうだ。文化の勉強だからな。

 

「……エマ?」

 

「ん?」

 

「ユー……ホームカミング……ウィズ、ボーイ?」

 

 エマは一瞬目を丸くしたが、すぐに質問の意味を理解したらしく、笑顔で答えた。

 

「私? ううん。今年はそういう予定ないよ」

 

「……ノー?」

 

 時春は思わず聞き返した。

 

 少し意外だった。

 

「何人かには誘われたんだけどね」

 

「…………」

 

 時春の動きが止まった。

 

 ……やっぱり!!

 

 そりゃそうだよな。エマだもんな。誰がどう考えても、誘われるに決まっている。

 

 時春が何となく頷いていると、エマは何でもないことのように続けた。

 

「でも、みんな断っちゃった。今年はゾーイたちと一緒に楽しみたいんだ」

 

「……オー……」

 

 なるほど。そういうことか。

 

 エマは今年、誰か一人とペアになって参加するつもりはないらしい。ゾーイやジェイクたち、いつもの友達と一緒に楽しむことにしたのだという。

 

 それも楽しそうだと思った。

 

 実際、あの三人がダンスパーティーに参加したら、相当賑やかになるだろう。特にジェイクは、まともに踊ることよりも、変なダンスでみんなを笑わせることに夢中になりそうな気がする。

 

 ……ジェイク、絶対変な踊り方するだろ。

 

 時春が思わず笑うと、エマが不思議そうに首を傾げた。

 

「What’s funny?(何がおかしいの?)」

 

「……ジェイク! ダンス!」

 

 時春は両手を上げ、肩を左右に揺らしてみせた。

 

 エマは一瞬きょとんとしたあと、すぐに吹き出した。

 

「Oh my gosh!(もう、やだ!)」

 

 二人が声を抑えて笑っていると、少し離れた席にいた生徒がちらりとこちらを振り返った。

 

 時春は慌てて肩をすくめ、エマも口元を押さえる。

 

 ……危なっ。また怒られるところだった。

 

 笑いが収まると、時春は何気なくエマの横顔を見た。

 

 何人もの男子から誘われて、それを全部断ったという。彼女が人気者なのは知っていたけれど、こうして本人から聞くと、何だか不思議な気分だった。

 

 別に、何かが変わったわけではない。

 

 エマはいつものエマだ。明るくて、よく笑って、数学が少し苦手で、英語を教えるときにはとても頼りになる女の子。

 

 ただ、自分が知っているよりもずっと多くの男子が、彼女と一緒にホームカミングへ行きたいと思っているらしい。

 

 ……そりゃそうか。

 

 時春は小さく息を吐いた。

 

 何となく胸の奥がむずむずしたが、それがどういう感情なのかは、自分でもよくわからなかった。

 

     ◇

 

「What about you, Toki?(トキはどうするの?)」

 

 エマが尋ねた。

 

「……ミー?」

 

「そう! ダンスパーティー、行く?」

 

「……アー……」

 

 時春は少し考えた。

 

 ダンスパーティーは楽しそうだが、自分はダンスなんてほとんど踊ったことがない。日本の学校で体育の授業として何かを踊った記憶はあるものの、それとアメリカの高校生が参加するパーティーでは、事情がまったく違うだろう。

 

 しかも、男の子が女の子を誘う文化まであるらしい。

 

 ……いや、ハードル高くない?

 

 時春が黙っていると、エマは何かを察したように微笑んだ。

 

「You don’t need a date, you know.(別に、誰かとペアで行かなくてもいいんだよ)」

 

「……デート?」

 

「そう。友達と一緒に来ればいいの。ジェイクもゾーイもいるし、みんなで楽しもうよ!」

 

「……オー!」

 

 時春の表情が明るくなった。

 

 なるほど。それなら気楽だ。

 

 誰かを誘わなければ参加できないのかと思っていたが、そういうわけではないらしい。

 

「You should come! It’ll be fun.(トキも来なよ! きっと楽しいよ)」

 

「……リアリー?」

 

「Of course! We’ll all be there.(もちろん! 私たちもみんないるし)」

 

 その言葉を聞いて、時春は少し安心した。

 

 知らない文化のイベントでも、友達がいるなら何とかなる。フライデーナイト・フットボールもそうだったし、ノアのホームパーティーだって、最初は緊張したものの、最後には楽しい思い出になった。

 

 何より、エマたちと一緒なら、きっと面白いに違いない。

 

「……オーケー! アイ・ウィル・ゴー!」

 

「Yay!(やった!)」

 

 エマが嬉しそうに笑う。

 

 時春もつられて笑顔になった。

 

 パジャマで登校して、アメフトの試合を観て、キングとクイーンが選ばれて、最後にはダンスパーティーまである。

 

 ホームカミングの一週間は、どうやら想像していた以上に賑やかなものになりそうだった。

 

 ……楽しみだなあ。

 

 まだ九月だというのに、時春は早くも十月が待ち遠しくなっていた。

 

     ◇

 

 図書館を出る頃には、夕方の空が淡い橙色に染まり始めていた。

 

 ガラス扉を抜けると、昼間より少し涼しくなった風が頬を撫でる。遠くの体育館ではまだボールをつく音が聞こえ、グラウンドの方からはアメフト部の練習を終えた生徒たちの笑い声が響いていた。

 

 時春はリュックを肩にかけ、エマと並んで歩き始めた。

 

 普段なら、彼女とは昼休みや教室で話すことが多い。ジェイクやゾーイも一緒にいるから、会話はいつも賑やかで、誰かが冗談を言えばすぐに別の誰かが突っ込む。

 

 けれど今日は、ほとんど二人だけだった。

 

 図書館で数学を教え合い、英語のエッセイを書き、ホームカミングの話をした。何か特別なことをしたわけではないのに、振り返ってみると、随分と充実した放課後だったように思える。

 

 それに、時間が過ぎるのが少し早すぎたような気もした。

 

「Toki?(トキ?)」

 

 エマが顔を上げた。

 

「ん?」

 

「Thanks for today.(今日はありがとう)」

 

「……えっ?」

 

「数学、教えてくれて。すっごく助かったよ」

 

「あー! ノー・プロブレム!」

 

 時春は笑顔で首を振り、それから少し考えて付け加えた。

 

「エマ! サンキュー! フォー、イングリッシュ!」

 

「You’re welcome!(どういたしまして!)」

 

 エマは楽しそうに笑った。

 

 二人はしばらく校舎沿いの道を歩き、やがて分かれ道に差しかかった。

 

 エマはこのあと家へ帰り、時春は寮へ戻る。いつものように、ここで別れることになる。

 

「明日の数学の小テスト、頑張ってね!」

 

「エマ、トゥー!」

 

「ありがと! もうだいぶ自信ついたよ」

 

「ナイス!」

 

 時春が親指を立てると、エマも同じように親指を立てた。

 

 それから、何かを思い出したように笑う。

 

「あっ、それと、月曜日までにエッセイの見直しを忘れないでね!」

 

「……オー……」

 

 時春は思わず肩を落とした。

 

 ……やっぱり、まだ終わりじゃないのか。

 

 まあ、そりゃそうだ。先生に提出するのだから、もう一度読み直しておかなければならない。

 

「オーケー! アイ・ウィル!」

 

「Good!(よし!)」

 

 エマは満足そうに頷き、軽く手を振った。

 

「See you tomorrow, Toki!(また明日ね、トキ!)」

 

「シー・ユー、エマ!」

 

 時春も笑顔で手を振り返した。

 

 エマはもう一度こちらを振り返り、それから夕暮れのキャンパスを歩いていった。

 

 時春はその後ろ姿を少しだけ見送った。緩くまとめた茶色い髪が風に揺れ、やがて彼女が校舎の角を曲がると、その姿も見えなくなった。

 

 時春はリュックを背負い直し、寮へ向かって歩き始めた。

 

 ……いやあ、楽しかったな。

 

 今日は勉強しかしていない。バスケもしていないし、どこかへ遊びに行ったわけでもない。特別なものを食べたわけでもなければ、何か大きな事件が起きたわけでもなかった。

 

 ただ、図書館で友達と勉強しただけだ。

 

 それなのに、こんなに楽しい放課後になるとは思わなかった。

 

 時春はエッセイの最後に書いた英文を思い出した。

 

『I feel at home when I am with my friends.』

 

 友達と一緒にいるとき、自分の居場所だと感じる。

 

 さっきは英語にするのも一苦労だったけれど、今ならその言葉の意味がよくわかる気がした。

 

 ……うん。やっぱり、これで合ってるな。

 

     ◇

 

 寮の部屋へ戻ったのは、午後六時を少し過ぎた頃だった。

 

 扉を開けると、そこにはいつもの光景が広がっていた。

 

 ラリーが、パソコンに向かっていた。

 

 相変わらずである。

 

 机の上には飲みかけの炭酸飲料が置かれ、モニターにはゲームの画面が映っている。窓の外にはきれいな夕暮れが広がっているというのに、ラリーの関心はどうやら画面の中の世界へ向けられているらしい。

 

「ラリー! アイム・バック!」

 

「うん、見ればわかるよ」

 

 ラリーは振り返りもせずに答えた。

 

 時春は笑いながらリュックを下ろし、自分の椅子に腰を下ろした。

 

「ハウ・ワズ・ユア・デイ?」

 

「……普通。君は?」

 

「ベリー、グッド!」

 

「……そりゃよかったね」

 

 ラリーはそこでようやく振り返り、時春の顔を眺めた。

 

「そういえば、エマと図書館にいたんだろ? エッセイはどうなったの?」

 

「フィニッシュ!」

 

 時春は嬉しそうに拳を握った。

 

「……オールモスト!」

 

「……ほぼ、ね」

 

「イエス!」

 

「まあ、よかったじゃない」

 

 ラリーは少し呆れたように笑い、またモニターへ顔を戻した。

 

 時春は満足そうに頷き、椅子の背もたれにもたれた。

 

 今日は本当にいい一日だった。数学も教えられたし、エッセイも形になった。ホームカミングについても、いろいろなことを知ることができた。

 

 ホームカミング。

 

 スピリット・ウィーク。

 

 パジャマ・デー。

 

 ……あっ、そうだった!

 

 時春は勢いよく立ち上がった。

 

「ラリー!」

 

「……今度は何?」

 

「パジャマ!!」

 

「…………」

 

 ラリーがゆっくり瞬きをした。

 

「……Pajamas?(……パジャマ?)」

 

「イエス!」

 

 時春はクローゼットへ駆け寄り、引き出しを勢いよく開けた。

 

「ホームカミング! スピリット・ウィーク!」

 

 興奮したまま、エマに教えてもらったことを説明しようとする。

 

 ホームカミングでは毎日特別な服装で登校すること。その中にはパジャマで学校へ行く日があること。そして、自分も参加することに決めたということ。

 

 もちろん、英語の説明はかなり怪しかった。途中で単語が足りなくなり、時春はパジャマを着る真似をしたり、眠る仕草をしたりしながら必死に伝えた。

 

 ラリーはしばらく無言で見つめていたが、やがて深いため息をついた。

 

「……トキ。僕だってパジャマ・デーが何かくらい知ってるよ」

 

「……オー!」

 

「僕もこの学校の生徒なんだけど。覚えてる?」

 

「……イエス!」

 

 時春は笑った。

 

 それから、引き出しの中を再び探り始めた。

 

 日本から持ってきた服の中には、パジャマとして使っているものが何着かある。普段はTシャツと短パンで眠ることが多いが、秋になれば長袖のものも使うだろうと思い、母親が荷物に入れてくれていたのだ。

 

 時春はその中から、紺色のチェック柄のズボンを取り出した。

 

 ……おっ、これいいじゃん。

 

 少しゆったりとした生地で、いかにも寝るときに着る服という感じがする。

 

 次に、上に合わせるシャツを探した。灰色のTシャツ、白いTシャツ、それから古いバスケ部の練習着まで取り出してみたが、どれもしっくりこない。

 

 せっかくアメリカの学校でパジャマ登校をするのだから、もう少しそれらしい格好にしたかった。

 

 時春は真剣な顔でベッドの上に服を並べ始めた。

 

 すると、背後からラリーの声がした。

 

「……トキ」

 

「ん?」

 

「ホームカミングが十月だってことは知ってるよね?」

 

「イエス!」

 

「で、今はまだ九月なんだけど」

 

「イエス!」

 

「……じゃあ、何で今から準備してるの?」

 

 時春は一瞬、手を止めた。

 

 ……あっ。

 

 そういえば、ホームカミングはまだ何週間も先だった。

 

 明日でもないし、来週でもない。まして、今夜でもない。

 

 ……まあ、いいじゃん。準備は早い方が。

 

「ノー・プロブレム!」

 

「それ、全然答えになってないんだけど」

 

 ラリーは額を押さえた。

 

 しかし、時春はもう気にしていなかった。

 

 クローゼットの奥から薄い青色の長袖シャツを見つけ、先ほどのチェック柄のズボンと合わせてみる。

 

 ……おっ! これだ!

 

 鏡の前に立ち、上下を体の前に当ててみると、いかにも今から眠りにつきそうな男子高校生が映っていた。

 

 ……完璧じゃん。

 

「ラリー! ルック!」

 

「……今度は何?」

 

 時春はパジャマを体の前に当て、得意げにポーズを取った。

 

「パジャマ! ベリー、クール?」

 

 ラリーは一度だけこちらを見た。

 

「……No.(……全然)」

 

「…………」

 

 ……おい。即答かよ。

 

 時春が不満そうな顔をすると、ラリーは口元に笑みを浮かべ、再びモニターへ向き直った。

 

 時春も少し頬を膨らませたが、すぐに自分で笑ってしまった。

 

 確かに、まだ何週間も先の行事のために、一人でパジャマを選んでいるというのは、冷静に考えると少しおかしい。

 

 でも、楽しみなのだから仕方がない。

 

 時春はもう一度鏡を見てから、選んだ服を丁寧に畳み、机の隅へ置いた。

 

     ◇

 

 その夜。

 

 夕食を終え、シャワーを浴びた時春は、机の上に英語のエッセイを広げていた。

 

 昼間、エマと一緒に書いた文章には、まだ鉛筆で訂正した跡が残っている。余白には彼女が教えてくれた単語の意味や、小さな文法のメモが並び、ところどころに丸や矢印も書き込まれていた。

 

 時春はそれらを確かめながら、最初からゆっくりと読み返した。

 

 アメリカへ来たとき、不安だったこと。学校で友達ができ、バスケをする仲間が増えたこと。ダイナーへ行ったり、アメフトの試合を観たりしたこと。そして、寮でラリーとゲームをする時間が好きなこと。

 

 どれも、つい最近の出来事だった。

 

 日本を出発した日から、それほど長い時間が経ったわけではない。それなのに、こうして紙に書き出してみると、思っていた以上にいろいろなことが起きていたのだとわかる。

 

 初めてアメリカの空港に降り立った日には、まさか自分が高校の図書館でアメリカ人の女の子と二人で勉強することになるなんて、想像もしていなかった。

 

 寮でラリーと出会った日も、最初はこんなに仲良くなれるとは思わなかった。あの頃のラリーは、何だかずっと不機嫌そうにしていた気がする。

 

 教室がわからずに困っていたところを、エマに助けてもらったこともあった。初めてアメフトの試合を観た夜や、CBAの体育館でノアたちとバスケをした放課後も、今では大切な思い出になっている。

 

 そして、今日もまた、その一つに加わった。

 

 時春は用紙の最後に書かれた英文へ目を向けた。

 

『I feel at home when I am with my friends.』

 

 そこまで読んで、思わず小さく笑った。

 

 ……うん。いい文章じゃん。

 

 まあ、エマにめちゃくちゃ手伝ってもらったけど。

 

 それでも、自分が本当に思っていることには違いなかった。

 

 窓の外には、静かなカリフォルニアの夜が広がっている。遠くでは車が走る音が聞こえ、机の向こうではラリーがゲームの画面に向かって小さく文句を言っていた。

 

 時春は椅子の背もたれにもたれ、しばらく考えた。

 

 日本にいた頃は、毎日の中心にバスケットボールがあった。練習して、試合をして、仲間と笑い、また練習する。あの生活は大好きだったし、今でも自分にとって特別なものだ。

 

 もちろん、アメリカへ来たのもNBA選手になるという夢に近づくためだった。十一月にはバスケ部のトライアウトがあり、そこで結果を出せなければ、目標としているVarsityのユニフォームを着ることもできない。

 

 それは、今も変わっていない。

 

 けれど、アメリカに来てからは、バスケ以外にも楽しみなことが増えた。

 

 授業中のくだらないやり取りや、友達との昼食。放課後にダイナーへ寄ったり、寮でゲームをしたりする時間も好きになった。

 

 今日のように、図書館で英語の宿題をするのも悪くない。

 

 ……まさか、英語の宿題が楽しい日が来るとはなあ。

 

 自分でも少し信じられなかった。

 

 しかも、これからはホームカミングまで待っている。パジャマで登校する日があり、いつもより盛り上がるアメフトの試合があって、キングとクイーンが選ばれ、最後にはダンスパーティーも開かれるという。

 

 まだ経験したことのない行事ばかりだが、エマやジェイク、ゾーイたちと一緒なら、きっと楽しいに違いない。

 

 時春はペンを置き、机の隅へ目を向けた。

 

 そこには、先ほど選んだパジャマが丁寧に畳まれていた。紺色のチェック柄のズボンと、薄い青色の長袖シャツ。何週間も先の行事のために、わざわざ用意した服だった。

 

 それを見た途端、また嬉しくなってくる。

 

 ……よし。絶対これで登校してやろう。

 

 時春が一人でにやにやしていると、隣から声がした。

 

「……トキ」

 

「ん?」

 

 ラリーが怪訝そうに振り返っていた。

 

「君、まさかまだパジャマ・デーのこと考えてるの?」

 

「……イエス!」

 

 時春は満面の笑みで答えた。

 

「アイ・ラブ、パジャマ・デー!」

 

「まだ参加したこともないくせに!」

 

「ノー・プロブレム!」

 

「だから、何がノー・プロブレムなんだよ!」

 

 ラリーは呆れたように首を振った。

 

 時春は吹き出した。

 

 こうしてラリーに突っ込まれるのも、今ではすっかり日常の一部だった。最初は同じ部屋で上手くやっていけるのか少し心配だったのに、今では彼がいない寮生活なんて、あまり想像できない。

 

 時春はエッセイに書いた最後の一文を、もう一度思い出した。

 

 友達と一緒にいるとき、自分の居場所だと感じる。

 

 図書館でエマと勉強しているときも、体育館でノアたちとバスケをしているときも、こうしてラリーとくだらないことで笑っているときも、確かに自分は楽しかった。

 

 英語はまだまだ下手だし、知らない文化に驚くことも多い。これから上手くいかないことだって、きっとあるだろう。

 

 それでも、もう学校の廊下で一人ぼっちになったように感じていた頃とは違う。

 

 困ったときに頼れる人がいて、一緒に笑ってくれる友達がいる。

 

 いつの間にか、この学校には自分の居場所ができていた。

 

 時春はエッセイを丁寧に重ね、リュックへしまった。月曜日までにもう一度見直さなければならないが、それは明日でもいいだろう。

 

 机の上を片づけていると、視界の端にまたパジャマが入った。

 

 ……いやあ、それにしても。

 

 パジャマで学校行っていいとか、最高すぎない?

 

「……へへへ」

 

 思わず笑い声が漏れた。

 

 すると、ラリーが再び振り返った。

 

「……Oh my god.(……まったくもう)」

 

「……ん?」

 

「You’re such a little kid.(君って、本当に子供だよね)」

 

「……ノー!」

 

「Yes.(そうだよ)」

 

「ノー!」

 

「Definitely.(間違いないね)」

 

「シャラップ!」

 

 ラリーは吹き出した。

 

 時春も笑った。

 

 二人の笑い声が、いつもの小さな寮の部屋に響く。

 

 窓の外では、カリフォルニアの夜が静かに更けていく。明日には数学の小テストがあり、週が明ければエッセイの提出も待っている。十一月のトライアウトに向けて、バスケの練習だって続けなければならない。

 

 それに、十月にはホームカミングまであるのだ。

 

 アメリカの高校生活は、想像していた以上に忙しい。

 

 けれど、時春はそんな毎日が気に入っていた。

 

 明日は何があるのだろう。来週はどんなことが起こるのだろう。

 

 考えるだけで、何だか楽しくなってくる。

 

 時春は机の隅に置いたパジャマをもう一度眺め、満足そうに頷いた。

 

 すると、背後からラリーの呆れた声が飛んできた。

 

「……トキ。お願いだから、それを着て明日学校に行ったりしないでよ?」

 

「…………」

 

 時春はパジャマとラリーの顔を交互に見た。

 

 ……あっ。

 

 そういう手もあるのか。

 

「……オーケー!」

 

「……えっ?」

 

「トゥモロー! パジャマ!」

 

「NO! THAT’S NOT WHAT I MEANT!(違う! そういう意味じゃないって!)」

 

「ハハハハ!」

 

 時春はとうとう声を上げて笑った。

 

 ラリーも何か言い返そうとしたが、結局呆れたように笑うしかなかった。

 

 まったく、アメリカという国は面白い。

 

 そして、この学校で過ごす毎日は、どうやらまだまだ面白くなりそうだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。