十月になった。
カリフォルニアの空は相変わらず青く、昼間にはまだ夏の名残を感じさせる日差しが降り注いでいる。しかし、朝晩の風には少しずつ冷たさが混じり始め、キャンパスの木々も、わずかながら季節の移ろいを感じさせるようになっていた。
高山時春がアメリカへ来てから、およそ二か月が経とうとしている。
最近になって、時春は自分の英語が少しずつ上達していることを実感するようになっていた。
もちろん、何でも理解できるようになったわけではない。授業中に知らない専門用語が出てくれば相変わらず頭を抱えるし、ノアたちがバスケの話で盛り上がると、時々会話の速度についていけなくなる。
特にジェイクはひどい。あいつは今でも、何をそんなに急いでいるのかと思うほど早口だった。
それでも、以前のように相手の言葉を一つずつ日本語へ置き換える必要はなくなってきた。誰かに話しかけられれば、自然と意味が頭に入ってくる。わからない単語があっても、前後の会話から何となく察することができるし、冗談を言われれば、少し遅れてでも笑えるようになった。
最近では、自分から冗談を返すことさえ増えている。
最初の頃は、アメリカ人の友達と話すだけでも随分と緊張していた。それが今では、ジェイクに向かって遠慮なく「シャラァァァップ!!」と叫べるのだから、大した進歩ではないだろうか。
……いや、それは英語力の向上なのか?
どちらかというと、単にアメリカのノリに慣れてきただけのような気もする。
そんなことを考えながら、時春は寮の部屋で鏡を見つめていた。
十月、月曜日の朝。時刻は七時十五分。
そして、今日の時春はパジャマを着ていた。
◇
「……完璧じゃん」
鏡の前で一回転し、時春は満足そうに頷いた。
紺色のチェック柄のズボンに、薄い青色の長袖シャツ。足元には柔らかい室内用のスリッパを履き、念のため普段使っているスニーカーもリュックに入れてある。
どう見ても寝るときの格好だった。というか、実際に昨夜はこの服で寝ている。
しかし、今日はそれでいいのである。
ついにホームカミング・ウィークが始まったのだ。
クレセントベイ・アカデミーでは、十月のこの一週間がホームカミングの特別期間となっている。金曜日にはアメフトのホームゲームがあり、土曜日の夜にはダンスパーティーが開催される。そして、それまでの平日には毎日異なるテーマに合わせた服装で登校する、スピリット・ウィークという行事が行われるのだった。
その初日が、パジャマ・デー。
つまり今日は、パジャマを着たまま学校へ行ってもいい。
……うおおお、最高じゃん。
時春は改めて鏡の中の自分を眺めた。
アメリカへ来てからというもの、映画みたいな出来事はいくつも経験してきた。巨大なアメフトのスタジアムで応援したこともあれば、ノアの豪邸でホームパーティーに参加したこともある。
けれど、パジャマで学校へ行くというのは、また別の方向に衝撃的だった。
日本の中学校で同じ格好をして登校したら、間違いなく先生に呼び止められるだろう。それが、ここでは正式な学校行事なのである。
……自由すぎるだろ、アメリカ。
「……トキ」
背後から眠そうな声がした。
振り返ると、ルームメイトのラリーがベッドの上に座っていた。
くるくるとした髪は寝癖であちこちに跳ね、メガネは少しずれている。黒いTシャツに灰色のスウェットパンツという格好で、見るからに起きたばかりだった。
「ラリー!」
「君、朝から何回鏡見てるの?」
「パジャマ・デー!」
「……それは知ってるよ」
ラリーは深いため息をついた。
「先月からずっと楽しみにしてたもんね。僕、もう二十回くらい聞いた気がする」
「Hey! 今日は本番だぞ!」
「わかってるってば」
時春は得意げに親指を立てたが、そこでラリーの服装に気づいた。
「おっ! ラリーもパジャマじゃん!」
「……まあね」
ラリーは自分のスウェットパンツを見下ろした。
「いつもとほとんど同じだけど」
「いいじゃん! 似合ってる!」
「……どうも」
そう言って、ラリーは大きな欠伸をした。
何だかんだ言って、ラリーもちゃんと参加するらしい。もっとも、本人は面倒くさそうな顔をしているし、実際にはいつもの部屋着をそのまま着ているだけなのかもしれない。
しかし、時春にとってはそんなことはどうでもよかった。
今日から一週間、学校全体がお祭りになるのだ。
「よし、行こうぜ!」
「……まだ朝ご飯食べてないでしょ」
「あっ」
「それに君、そのスリッパで外を歩くつもり?」
「……あっ」
時春は足元を見た。
柔らかい室内用のスリッパ。たしかに、これでキャンパスを歩いたら、すぐに汚れてしまいそうだ。
慌ててスニーカーに履き替え始めると、ラリーが呆れたように笑った。
「パジャマ・デーが始まって五分で、もう問題起こしてるじゃん」
「シャラップ!」
「はいはい。まったく、朝から元気だねえ」
ラリーはようやくベッドから立ち上がった。
時春は履き替えたスニーカーを確かめ、リュックを肩にかける。鏡の中には、パジャマ姿で学校へ向かおうとしている男子高校生が映っていた。
何度見ても、やっぱりおかしい。
けれど、それがたまらなく面白かった。
◇
朝のキャンパスは、すでに異様な光景になっていた。
普段ならジーンズやパーカー、ポロシャツなどを着て歩いている生徒たちが、今日は思い思いの寝間着を身につけている。チェック柄のパジャマや大きなスウェットはまだ普通の方で、中にはふわふわしたガウンを羽織った生徒や、恐竜の着ぐるみで歩いている生徒までいた。
小さな枕やぬいぐるみを抱えている女子もいる。何人かは友達同士でお揃いの格好をしており、校舎の前で写真を撮り合っていた。
時春は思わず立ち止まった。
「……すっげえ」
想像以上だった。
パジャマ・デーという名前だから、てっきり普段着に近い部屋着を着てくる生徒が多いのだろうと思っていた。しかし、実際には寝間着を超えて、ほとんど仮装大会のような状態になっている。
……あいつ、恐竜じゃん。しかもしっぽまでついてる。
時春が感心していると、ラリーが隣でぼそりと呟いた。
「……まったく。こんな格好で授業を受けるなんて、変な学校だよね」
「でも、ラリーもパジャマじゃん」
「僕のは実用性重視だから」
「何だよ、それ!」
二人が笑いながら校舎へ向かおうとした、そのときだった。
「Hey! トキぃぃぃ!!」
聞き慣れた声が響いた。
時春は振り返り、思わず足を止めた。
そこにいたのは、犬だった。
いや、正確には人間である。ただし、その人間は全身を茶色い犬の着ぐるみで覆い、頭には大きな垂れ耳がついていた。
口元には、いつものように騒がしい笑顔が浮かんでいる。
ジェイク・ハリスだった。
「BRO! 見ろよ俺のパジャマ!」
時春は数秒間、相手を見つめた。
「……ゴールデンレトリバー?」
「そう! 最高だろ!?」
ジェイクは両手を広げ、その場でくるりと回ってみせた。背中から伸びた大きなしっぽが、動きに合わせて左右へ揺れる。
……いや、本当に犬になってるじゃん。
ゾーイの言ってたこと、現実になっちゃったよ。
「何だよ、その顔!」
「いや……似合いすぎ!」
「だろ!? 俺のために作られたパジャマだと思うんだ!」
「たぶんそうだろうな……」
時春が笑っていると、ジェイクは突然こちらへ駆け寄り、勢いよく肩を抱いた。
「写真撮ろうぜ! 記念だろ!」
「ちょ、待て!」
「Hey! 誰か撮ってくれ!」
ジェイクが大声で叫ぶと、少し離れたところから冷静な声が返ってきた。
「朝からうるさい犬がいると思ったら、やっぱりジェイクだった」
ゾーイだった。
今日はゆったりとした黒いルームウェアに白いスニーカーを合わせている。髪の編み込みはいつも通り整っており、首からは小さなカメラが下がっていた。
パジャマ姿なのに、妙におしゃれだ。ジェイクとは大違いである。
「ゾー! 俺の写真撮って!」
「いいよ。保健所に送る用でしょ?」
「何でだよ!!」
時春は吹き出した。
その隣から、今度は柔らかい笑い声が聞こえてきた。
「Oh my gosh! ジェイク、ほんとにそれ着てきたの!?」
エマだった。
薄いピンク色のパジャマ風の上下に、白いスニーカー。ゆるく波打つ茶色い髪を後ろでまとめ、片手には小さなタンブラーを持っている。
時春は思わず目を瞬かせた。
……おっ。エマもパジャマだ。
当たり前だけど、普段とは少し雰囲気が違う。
「Hey、トキ!」
エマが笑顔で手を振った。
「ちゃんとパジャマ着てきたんだね!」
「もちろん!」
「ふふっ、似合ってるよ」
「……えっ」
時春は一瞬固まった。
似合ってる。
今、そう言われた?
……パジャマなのに?
「……サ、サンキュー!」
「何それ、照れてるの?」
「ノー!」
「可愛い!」
時春は思わず視線を逸らした。
……やばい。朝から何なんだよ。
すると、当然のようにジェイクがにやにやし始めた。
「おーいおい! パジャマ姿を褒められちゃって!」
「ジェイク!」
「俺も褒めてくれよ、エマ!」
「ジェイクは……うん、犬だね」
「感想が雑すぎるだろ!!」
ゾーイが静かにカメラを構えた。
「はい、犬と飼い主さん、こっち向いて」
「誰が飼い主だよ!」
時春が抗議するより早く、シャッターが切られた。
写真を確認したゾーイが満足そうに頷き、ジェイクはさっそく自分にも送ってくれと騒ぎ始める。
隣でラリーが小さくため息をついた。
「……君たち、朝から本当に騒がしいね」
「まあまあ、ラリーも一緒に撮ろうぜ!」
「えっ、僕も?」
「もちろん!」
ジェイクが今度はラリーの肩まで抱き寄せたので、ゾーイはもう一枚写真を撮ることになった。
結局、五人で撮った写真には、満面の笑みを浮かべる時春とエマ、少し呆れた顔のラリー、落ち着いた表情のゾーイ、そして誰よりも大きく口を開けた犬が写っていた。
こうして、ホームカミング・ウィーク初日の朝は、いつも以上に賑やかに始まった。
◇
それからの一週間は、まさしくお祭りだった。
火曜日はツイン・デー。友達同士で同じような服装をして登校する日である。
時春はジェイクに半ば強引に誘われ、青いCBAのTシャツと黒いジーンズという、まったく同じ格好で学校へ行くことになった。
ジェイクはそれだけでは満足できなかったらしく、髪型まで時春に合わせようとして、朝から鏡の前で悪戦苦闘していた。
「Hey、トキ! これで双子だろ!」
「いや、全然似てないだろ!」
「何でだよ!」
「身長も顔も違うし!」
「心が双子なんだよ!」
……何だよ、心が双子って。
時春にはさっぱり意味がわからなかったが、ジェイクがあまりにも楽しそうなので、それ以上は突っ込まないことにした。
しかも、二人が並んで歩いていると、何人もの生徒から声をかけられた。
「Hey! そっくりじゃん!」
「いいコンビ!」
どこが似ているのかは最後までわからなかったものの、二人で写真を撮ったり、同じポーズを取ってみたりしているうちに、時春もすっかり楽しくなっていた。
水曜日にはレトロ・デーが行われ、昔の年代をイメージした服装の生徒たちがキャンパスを歩き回った。
大きなサングラスをかけた上級生や、古いロックバンドのTシャツを着た男子、派手な色のジャケットを羽織った女子たちが廊下を行き交い、まるで学校全体が映画の撮影現場になったようだった。
イジーは昔の音楽家をイメージした格好で現れ、テオは古い野球チームのユニフォームを着ていた。MJは小型のビデオカメラを片手に、そんな生徒たちの様子を撮影している。
ゾーイも学校新聞『THE CURRENT』のために写真を撮っており、二人は時折カメラの画面を見せ合いながら、楽しそうに話していた。
時春も何枚か撮ってもらったが、写真の中の自分を見て、思わず笑ってしまった。普段と少し違う服装をしているだけなのに、まるで昔のアメリカ映画に出演しているように見えたからだ。
こうした行事が特別なのは、普段ならあまり話さない生徒とも、自然に会話が生まれることだった。
廊下を歩いているだけで服装を褒められたり、知らない上級生から一緒に写真を撮ろうと誘われたりする。もちろん、英語が聞き取れずに戸惑うこともあったが、以前ほど緊張することはなかった。
何より、学校全体が同じイベントを楽しんでいるという雰囲気が心地よかった。
そして木曜日、校内の掲示板にはホームカミングのダンスパーティーを知らせる大きなポスターが貼られた。
『HOMECOMING DANCE — SATURDAY NIGHT』
青と白の文字の周囲には、星のような飾りが散りばめられ、楽しそうに踊る生徒たちの写真が載っている。
時春はその前で足を止めた。
……いよいよか。
土曜日の夜には、初めてのホームカミング・ダンスが待っている。
参加するつもりではいたものの、日程が近づいてくると、やはり少し緊張してしまう。何を着て行けばいいのかも悩んでいるし、そもそもダンスなんてほとんど踊ったことがない。
映画で見るような華やかなパーティーに、自分が上手く馴染めるのだろうか。
「トキ!」
背後から声をかけられ、時春は振り返った。
エマだった。
「ダンス、楽しみ?」
「……うん!」
時春は頷いたが、少し考えてから苦笑した。
「でも、ちょっと緊張する。俺、ダンスできないんだけど」
「大丈夫だよ。そんなに難しいことないから」
「ほんと?」
「私だって、そんなに上手じゃないよ」
「……そうなの?」
「うん! 踊りたかったら踊ればいいし、友達と喋ってるだけでもいいの。ホームカミングって、みんなで楽しむものだから」
エマがあまりにも気楽そうに話すので、時春も少し安心した。
それなら何とかなりそうだ。知らない文化のイベントでも、友達と一緒なら楽しめるということは、この二か月で何度も経験している。
「それに、ジェイクなんか絶対に変な踊りするから」
「……ああ」
時春は即座に頷いた。
それは間違いない。
あいつが大人しく踊っているところなんて、まったく想像できなかった。
エマも笑った。
その顔を見ながら、時春は図書館で聞いた話を思い出した。
エマは今年、誰かとペアで参加するつもりはないと言っていた。何人かの男子から誘われたものの、ゾーイたちと楽しみたいから断ったらしい。
エマが人気者なのは知っている。明るくて、誰にでも優しくて、学校のあちこちに友達がいるのだから、誘いたいと思う男子がたくさんいるのも不思議ではない。
それでも、あの話を思い出すと、何となく落ち着かない気持ちになる。
時春はもう一度ポスターへ目を向けた。
写真の中では、きれいに着飾った男女が楽しそうに踊っている。
……まあ、俺にはまだ、そういうの早いかな。
そう思ったものの、土曜日が待ち遠しいという気持ちは、少しも変わらなかった。
◇
金曜日になると、CBAのキャンパスは朝から青と白に染まっていた。
校舎の入口には大きな旗が飾られ、廊下には『GO BREAKERS!』と書かれたポスターが並んでいる。生徒たちは学校カラーの服を身につけ、授業の合間にも今夜のアメフトの試合について話していた。
ホームカミング・ゲームの日である。
普段から金曜日のアメフトの試合は盛り上がるが、今日は卒業生や家族も集まる特別な日だ。時春も朝から落ち着かず、休み時間になるたびにジェイクと試合の話をしていた。
そして昼休みには、全校生徒が体育館に集まり、大きな応援集会が行われた。
観客席は青と白の服を着た生徒たちで埋まり、中央のコートではチアリーダーたちが音楽に合わせてパフォーマンスを披露している。巨大なスピーカーから軽快な音楽が流れ、応援団がマイクを握るたびに歓声が上がった。
「LET’S GO, BREAKERS!!」
体育館に響き渡る掛け声に合わせ、時春も拳を突き上げた。
「うおおおお!!」
隣ではジェイクが、当然のように大騒ぎしていた。
「BRO! 今日は絶対勝つぞ!」
「お前が試合するわけじゃないだろ!」
「心はフィールドにいるんだよ!」
「また心かよ!」
ゾーイが呆れたように肩をすくめる。
「ジェイクの心、忙しすぎない?」
エマが吹き出し、時春も笑った。
そのあと、アメフト部の選手たちが次々と紹介された。防具を身につけた大柄な選手たちがコートへ現れるたびに、観客席から大きな歓声が上がる。
時春はその中に、見覚えのある顔を見つけた。
コールとブライアン。ノアのホームパーティーで出会った、あのアメフト部の男子たちだった。
「あっ、コール!」
時春が手を振ると、コールもこちらに気づいたらしく、大きく拳を突き上げた。
そして、何やら口を動かしている。
時春は目を細めた。
……ん? 何て言ってるんだ?
コールがもう一度、ゆっくりと口を動かした。
『Omae wa mou shindeiru.』
「…………」
……おい、まだ覚えてんのかよ!!
時春は思わず笑ってしまった。
ノアのホームパーティーで、知らない大男たちに囲まれたときのことを思い出す。あのときは本気で怖かったのだが、とっさに叫んだ日本のアニメの台詞が予想外に大ウケし、それがきっかけで仲良くなったのだった。
まさか、その台詞を今でも覚えているとは思わなかった。
コールは嬉しそうに笑い、隣のブライアンと拳を合わせている。
……まあ、あれで友達になれたんだから、いいか。
時春も笑顔で拳を突き上げた。
◇
夜になると、CBAのスタジアムは以前訪れたとき以上の熱気に包まれていた。
観客席には青と白の服を着た生徒たちが詰めかけ、その周囲には家族や卒業生らしい人々の姿もある。照明に照らされたフィールドは鮮やかな緑色に輝き、スタンドには大きな旗がいくつも掲げられていた。
応援団の掛け声に太鼓の音が重なり、試合開始前から観客席は大きな歓声に包まれている。
時春はエマたちと並んで席に座り、興奮した様子で周囲を見回した。
「……すっげえ」
「でしょ? ホームカミングの試合は、いつも特別なんだよ」
エマが笑顔で言った。
フィールドでは両チームの選手たちが準備を進めていた。防具を身につけた巨大な選手たちが走り回り、コーチたちはヘッドセットをつけて何やら指示を出している。
やがて、試合開始の合図が響いた。
「LET’S GOOOOOO!!」
ジェイクが勢いよく立ち上がった。
もちろん、時春も立ち上がる。
「うおおおおお!!」
二人が声を張り上げると、隣のゾーイが笑いながら耳を押さえた。
「ちょっと、二人とも! 始まったばっかりなんだけど!」
「これからだろ!」
「そうだぞ、ゾー!」
「はいはい、わかったから前見て!」
エマも笑いながらフィールドを指差した。
試合は序盤から激しい展開になった。CBAが先制すると、相手チームもすぐに反撃する。大柄な選手たちがぶつかり合い、ボールを持ったランニングバックがディフェンスの隙間を抜けるたびに、スタンドから歓声が上がった。
時春は以前よりもアメフトのルールを理解できるようになっていた。
タッチダウンやファーストダウンはもちろん、インターセプトがどれほど大きなプレーなのかもわかるようになった。まだ細かな反則などは理解しきれていないが、そのたびにエマが隣で教えてくれる。
「今のは何?」
「パスインターフェアランス。ボールを取ろうとしてる選手を邪魔しちゃったの」
「……あー、なるほど!」
時春はフィールドを見つめながら頷いた。
日本にいた頃は、アメフトのルールなんてほとんど知らなかった。それが今では、友達と一緒に試合を観て、プレーの意味が少しずつわかるようになっている。
アメリカへ来てから、自分でも驚くほどいろいろなことを覚えた気がした。
やがて前半が終了し、ハーフタイムになった。
フィールドの中央に、きれいに着飾った生徒たちが並び始める。
「……おっ?」
時春は身を乗り出した。
「エマ! あれって!」
「そう! ホームカミング・コート!」
エマが嬉しそうに教えてくれた。
候補に選ばれたシニアの生徒たちが、男女それぞれ並んで歩いてくる。男子はスーツやジャケット姿で、女子は華やかなドレスを身につけていた。
観客席からは、友達や家族らしい人々が候補者の名前を叫んでいる。スマートフォンを掲げて写真を撮る生徒も多く、フィールドの周囲ではカメラマンたちが忙しそうに動き回っていた。
やがて、アナウンスが流れた。
ホームカミング・キングとクイーンの発表である。
二人の名前が呼ばれた瞬間、スタジアム全体が拍手と歓声に包まれた。
選ばれた男子は驚いたように笑い、女子は両手で口元を押さえている。やがて、それぞれの頭に王冠が載せられると、二人は少し照れくさそうに並んで手を振った。
「うおおお!」
時春も思わず拍手した。
……本当に王冠かぶってる! しかも、めちゃくちゃ盛り上がってるじゃん!
日本の学校では、まず見ることのない光景だった。
映画で見たことのあるアメリカの高校生活が、今まさに自分の目の前で繰り広げられている。そう考えると、何だか不思議な気分になる。
すると、隣でジェイクが急に胸を張った。
「よし。俺も三年後はキングになるわ」
「……は?」
「絶対なる!」
ゾーイがすかさず答えた。
「犬の王様ならなれるんじゃない?」
「何でだよ!!」
時春は吹き出した。
月曜日のゴールデンレトリバー姿が頭に浮かんでしまい、ますます笑いが止まらなくなる。
……いや、犬の王様。ちょっと似合いそうだな。
「トキまで笑うなよ!」
「ごめんって! ハハハ!」
ジェイクは不満そうにしていたが、結局本人も笑い始めた。
そんなやり取りをしているうちにハーフタイムが終わり、後半の試合が始まった。
CBAのブレイカーズは相手チームの攻撃を何度も止め、終盤には見事なタッチダウンを決めた。そのままリードを守りきり、ホームカミング・ゲームを勝利で飾った。
試合終了の合図が響くと、スタジアムは割れんばかりの歓声に包まれた。
青と白の旗が揺れ、応援団が飛び跳ねる。フィールドでは選手たちが抱き合い、観客席でも生徒たちが立ち上がって喜んでいた。
「うおおおおお!!」
時春も両手を突き上げた。
隣のジェイクは今にも観客席から飛び降りそうな勢いで叫んでいるし、ゾーイはその様子を笑いながら撮影している。エマも立ち上がり、時春と顔を見合わせて歓声を上げた。
試合が終わる頃には、時春の喉はすっかり枯れていた。
それでも、気分は最高だった。
こんなにも大勢の人が一つの学校のために集まり、同じチームを応援している。しかも、自分もその中の一人なのだ。
初めてアメフトの試合を観に来たときは、まだ学校のこともよく知らなかった。それが今では、ブレイカーズが勝ったことを心から喜んでいる。
時春が満足そうにフィールドを眺めていると、エマがこちらを向いた。
「トキ! 楽しかった?」
時春は満面の笑みで答えた。
「最高!!」
「よかった!」
エマも嬉しそうに笑った。
明日は、いよいよダンスパーティーである。
時春はすでに、その夜が待ち遠しくなっていた。
◇
土曜日、午後六時半。
時春は寮の自室で、鏡の前に立っていた。
白いシャツに黒いスラックス。上には濃紺のジャケットを羽織り、足元にはきれいに磨いた黒い靴を合わせている。
普段のTシャツとジーンズ姿とは、ずいぶん違う格好だった。
……おお。何か、ちゃんとしてるじゃん。
時春は鏡の中の自分を眺めた。
日本でも入学式や卒業式には制服を着ていたが、こうして自分で選んだフォーマルな服を着る機会はほとんどなかった。
しかも、これから向かうのは学校のダンスパーティーである。
何となく、いつもより背筋が伸びる。
「……どう?」
時春が振り返ると、ラリーがベッドの上でスマートフォンを眺めていた。
「……何が?」
「この格好!」
時春は両手を広げた。
「どう? かっこよくない?」
ラリーはゆっくり顔を上げ、時春を上から下まで眺めた。
そして、少しだけ眉を上げた。
「……まあ、悪くないんじゃない?」
「おお!」
時春の顔が明るくなった。
「珍しく褒めた!」
「珍しくって何さ」
「いつも悪口ばっかりじゃん!」
「君がいつも変なことするからでしょ」
時春は吹き出した。
ちなみに、ラリーは今日のダンスパーティーには参加しないらしい。
一応誘ってみたのだが、返ってきた答えは予想通りだった。
「大勢の人間が集まって、うるさい音楽をかけて、踊るんでしょ? 無理。絶対無理」
ラリーはそう言って、あっさり断ったのである。
代わりに今夜は、ゲームクラブで知り合った生徒たちとオンラインで遊ぶ約束があるという。
クラブ・ラッシュのときは、入部を決めたわけではないと言い張っていたが、最近ではゲームの話をする友達が少しずつ増えているようだった。
本人は相変わらず大したことではないという顔をしている。しかし、ゲームの予定について話すときのラリーは、いつもより少し楽しそうに見える。
……よかったな、ラリー。
時春も嬉しくなった。
自分がエマやジェイク、ノアたちと仲良くなったように、ラリーにも少しずつ友達が増えているのだ。
「じゃあ、行ってくる!」
「うん。楽しんでおいでよ」
「サンキュー!」
時春は笑顔で手を振った。
扉へ向かおうとしたところで、ラリーがもう一度声をかけてきた。
「トキ」
「ん?」
「帰る時間、ちゃんと確認してるよね?」
「もちろん!」
「ベンにも?」
「言った!」
「……よし」
ラリーは満足そうに頷いた。
それから、少しだけ口元を緩める。
「あと、ジェイクに変なことさせられないようにね」
「……それは無理かも」
「……だろうね」
二人は顔を見合わせて笑った。
時春はもう一度鏡を確認し、ジャケットの襟を整えた。それからリュックではなく、スマートフォンと必要なものだけをポケットへしまい、部屋を出た。
◇
夜のキャンパスは、昼間とは違う表情を見せていた。
街灯に照らされた歩道を、きれいに着飾った生徒たちが歩いている。男子はシャツやジャケット、女子は色とりどりのドレス姿が多く、友達同士で写真を撮り合う声があちこちから聞こえていた。
何人かはカップルらしく、並んで手をつないでいる。また別の集団では、女子たちが互いのドレスを褒め合い、男子が少し照れくさそうに笑っていた。
……うわあ。本当に映画みたいだ。
時春は少し緊張しながら歩いた。
体育館へ近づくにつれて、遠くから音楽が聞こえ始める。重低音の響くリズムに人々の笑い声が重なり、時折大きな歓声も上がっていた。
入口には青と白の風船が飾られ、扉の上には大きな文字が掲げられている。
『CBA HOMECOMING 2026』
時春はその前で足を止めた。
……ついに来た。
初めてのホームカミング・ダンス。
こんなに本格的なパーティーに参加するのは、生まれて初めてだった。
少しだけ緊張しているが、それ以上に楽しみでもある。
時春は深呼吸し、入口へ向かおうとした。
「Hey、トキ!」
背後から声がした。
振り返ると、ジェイクが駆け寄ってくるところだった。
今日は黒いジャケットに白いシャツ、そして少し派手な青いネクタイを締めている。いつもよりきちんとした格好なのだが、本人の騒がしさのせいで、何となく普段とあまり変わらないように見えた。
「BRO! どうよ、この格好!」
「おお、似合ってるじゃん!」
「だろ!? 俺、今日めちゃくちゃかっこよくない!?」
「自分で言うなよ!」
「自信は大事だろ!」
ジェイクは得意げに笑った。
その隣から、ゾーイが姿を現した。
黒いドレスに控えめなアクセサリー。いつもより少し大人びた雰囲気だったが、表情は相変わらず落ち着いている。
「ジェイク、今日だけで同じこと十五回くらい聞いてる」
「まだ十五回!? 少なくない!?」
「……そういう問題じゃないでしょ」
時春は吹き出した。
どれだけきれいな服を着ても、この二人のやり取りは変わらないらしい。
「トキ!」
今度は別の方向から声がした。
振り返った時春は、思わず目を見開いた。
エマだった。
淡いブルーのドレスを着ている。
肩のあたりには柔らかな布が重なり、腰から裾へ向かって自然に広がっていた。派手すぎない、それでいて目を引く色合いで、夜の照明の下では少しだけ銀色がかって見える。
普段は下ろしていることの多い茶色い髪を今日は緩くまとめ、耳元には小さなアクセサリーが光っていた。
いつもの教室で見かけるエマとは、ずいぶん印象が違った。
……えっ。
時春は言葉を失った。
……めちゃくちゃ可愛くない?
エマはそんな時春の様子には気づかず、嬉しそうに微笑んだ。
「Hey、トキ! そのジャケット、すっごく似合ってる!」
「……あっ!」
時春は慌てて背筋を伸ばした。
「サ、サンキュー!」
「ふふっ。今日、いつもより大人っぽいね」
「……そ、そう?」
「うん!」
エマは笑った。
時春は一度、喉を鳴らした。
何か言わなければ。
せめて、彼女の服を褒めるくらいはできるはずだ。アメリカへ来てから二か月も経ったし、英語だって前よりずっと上達している。
それに、いつもエマから助けてもらってばかりではないか。
……よし。
「エ、エマ!」
「ん?」
「……その、ドレス……」
時春は少しだけ視線を逸らした。
そして、思い切って続けた。
「すごく似合ってる」
エマは一瞬、目を丸くした。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう、トキ!」
少し照れくさそうにドレスの裾へ目を向け、それからもう一度顔を上げる。
「嬉しい!」
「……うん!」
時春も思わず笑った。
……よかった。ちゃんと言えた。
ところが、すぐ近くから妙な声が聞こえてきた。
「……Heeeeeey」
時春は嫌な予感がして、ゆっくりと振り返った。
ジェイクだった。
もちろん、にやにやしている。
「何だよ、トキぃ〜。エマのドレス、褒めちゃってさあ〜」
「……おい」
「しかも、ちょっと照れてるじゃん!」
「ジェイク!」
「いいねえ! ホームカミングだねえ!」
「シャラァァァップ!!」
「HAHAHAHA!!」
ジェイクが腹を抱えて笑った。
ゾーイは呆れたように首を振る。
「まだ会場にも入ってないのに、もう騒がしいんだけど」
「ジェイクのせいだろ!」
「お前も叫んでたじゃん!」
「お前が変なこと言うからだろ!」
言い返す時春を見て、エマも楽しそうに笑っていた。
まったく、せっかく少しかっこよく決めたつもりだったのに、これではいつもと変わらない。
けれど、エマが嬉しそうにしてくれたのだから、それで十分だった。
◇
午後七時。
体育館の扉を抜けた時春は、思わず立ち止まった。
そこには、見慣れた体育館とはまったく違う景色が広がっていた。
普段はバスケットボールのコートとして使われているフロアが、今夜は大きなダンスホールになっていたのである。
天井からは青と白の装飾が吊り下げられ、壁際には光る星の飾りが並んでいる。観客席の一部は閉鎖され、その手前には飲み物や軽食を置いたテーブルが設けられていた。
体育館の中央には広いダンススペースがあり、奥にはDJ用の機材が置かれている。照明は少し落とされ、色とりどりの光が磨き上げられた床を照らしていた。
時春は呆然と周囲を見回した。
……すっげえ。本当に、同じ体育館なの?
ここは、あの体育館だ。
初めてオープンジムへ来た日、ノアやマイルズたちとバスケをした場所。マイクへパスを出し、最後にクロスオーバーからレイアップを決めた、あのコートである。
中央に描かれたブレイカーズのロゴも、壁に吊るされた優勝バナーも変わらず残っている。それなのに、今夜はまるで別の建物へ来たような気がした。
「どう? すごいでしょ!」
エマが笑顔で尋ねた。
「……すごい!」
「毎年、生徒会の人たちが頑張って飾りつけするんだよ」
「へえ……!」
時春は感心して頷いた。
日本の学校行事でも文化祭などの飾りつけはあったが、普段バスケをしている体育館が、ここまで本格的なダンスホールになるとは思わなかった。
すると、ジェイクが突然両手を上げた。
「よっしゃあ!! パーティーだああ!!」
「まだ音楽始まってないでしょ」
ゾーイが冷静に言った。
「心はもう踊ってるんだよ!」
「また心?」
時春は吹き出した。
……こいつ、今週ずっと心が忙しいな。
やがて、DJがマイクを握った。
「CBAのみんな! ホームカミングへようこそ!!」
体育館全体から歓声が上がり、生徒たちが一斉に手を突き上げる。
そして、スピーカーから大きな音楽が流れ始めた。
◇
最初のうちは、少し戸惑った。
DJが次々と曲を流し始めると、生徒たちは中央のダンススペースへ集まっていった。友達同士で肩を組んだり、手を叩いたり、リズムに合わせて体を揺らしたりしている。
中には本格的なダンスを披露する生徒もいて、見事なステップを踏むたびに周囲から歓声が上がっていた。一方で、特に踊り方を気にせず、友達とふざけながら楽しんでいる生徒もいる。
その中でも、ひときわ目立っていたのがジェイクだった。
「BROOOOO!!」
ジェイクはダンススペースの中央で、両腕を大きく振り回していた。
右へ大きく体を傾けたかと思えば、今度は左へ跳ねる。突然しゃがみ込んだり、意味もなくくるりと回転したりと、まったく予測できない動きを繰り返している。
何をしているのか、本人以外にはわからない。
……いや、何だその踊り。
時春は腹を抱えて笑った。
「ジェイク! 何やってんだよ!」
「見ろよ! 俺のダンス!」
「変だって!!」
「これが俺のスタイルなんだよ!!」
周囲の生徒たちも大笑いしている。
ゾーイはスマートフォンを構え、遠慮なく撮影していた。
「これ、一生保存しとく」
「やめろおお!!」
ジェイクが叫んだところで、ゾーイが撮影をやめるはずもない。
時春は笑いながら、その隣にいるエマへ目を向けた。
エマも音楽に合わせて楽しそうに踊っていた。大げさな動きではなく、軽く肩を揺らしたり、リズムに合わせてステップを踏んだりしている。ときどきゾーイと顔を見合わせて笑い、ジェイクの奇妙なダンスを見ては吹き出していた。
その様子を眺めているだけでも楽しい。
何より、みんなが本当に楽しそうだった。
すると、ジェイクがこちらに気づいた。
「トキ! 何してんだよ! 踊ろうぜ!」
「えっ!?」
「Come on, bro!」
ジェイクは時春の腕をつかみ、ダンススペースの方へ引っ張っていった。
「ちょ、待てって!」
「大丈夫だって! 何でもいいから動け!」
「何でもって何だよ!」
しかし、周囲の生徒たちはすでに笑いながら手を叩いている。
時春は仕方なく、音楽に合わせて体を揺らしてみた。
右へ一歩。次に左へ一歩。少しだけ肩を動かしてみる。
最初はぎこちなかったが、何度か繰り返しているうちに、だんだんリズムがつかめてきた。
……あれ? 意外と悪くない?
「そうそう! いいじゃん、トキ!」
ジェイクが大声で褒めてくる。
時春は少し嬉しくなった。
バスケットボールなら体を動かすことには慣れている。音楽に合わせてステップを踏むくらいなら、何とかできそうだ。
時春はリズムに合わせて軽く跳ね、左右へ体を揺らした。
「BRO! お前、意外といけるじゃん!」
「ほんと!?」
「よっしゃ! もっとやろうぜ!」
ジェイクが大興奮した。
……あっ、調子に乗った。
そう思ったときには、もう遅かった。
ジェイクは時春の両肩を抱き、周囲の生徒たちまで巻き込んで騒ぎ始めた。
いつの間にか、時春もその輪の中心にいた。
知らない生徒からハイタッチを求められ、音楽に合わせて拳を突き上げる。ジェイクが妙なステップを踏めば、それを真似してみる。あまりの下手さに自分でも笑ってしまったが、周りの誰も気にしていないようだった。
ふと見ると、エマもゾーイと一緒にこちらへ来ていた。
「トキ、楽しんでる?」
「うん! めっちゃ楽しい!」
「よかった!」
エマが笑った。
時春も笑顔で頷き、再び音楽に合わせて体を動かした。
ダンスなんて、もっと難しいものだと思っていた。決まったステップを覚えたり、上手く踊れなければ恥ずかしい思いをしたりするのではないかと心配していたのだ。
けれど、実際にはそんなことはなかった。
周囲の生徒たちは思い思いに踊り、笑い、友達とふざけ合っている。誰かが少し変な動きをしたところで、それを笑い話にするくらいだ。
……何だ。ダンスって、意外と楽しいじゃん。
時春はすっかり緊張を忘れ、ジェイクたちと一緒に踊り続けた。
◇
ところが、三十分ほど経った頃から、少しずつ様子が変わってきた。
最初は気にならなかった音楽の大きさが、だんだん耳に響くようになってきたのである。
DJが曲を切り替えるたびに、体育館には重低音が響き渡る。床から足の裏へ振動が伝わり、胸の奥まで音が入り込んでくるようだった。
生徒たちはさらに盛り上がり、歓声も次第に大きくなっていく。
時春も最初は一緒になって騒いでいたが、次第に疲れを感じ始めていた。
……うるさっ。
いや、楽しいのだ。
さっきまでジェイクと一緒に踊っていたし、エマやゾーイとも何度も笑い合った。せっかくのホームカミングなのだから、できればもっと楽しんでいたい。
ただ、体育館の中は想像以上に騒がしかった。
音楽は全身を包み込むほど大きく、誰かと話すためには相手の耳元で叫ばなければならない。周囲には大勢の生徒が集まっているため、移動するにも人の間をすり抜ける必要があった。
……ちょっと、疲れてきたな。
時春は額の汗を拭い、周囲を見回した。
ジェイクは相変わらず踊っている。あいつの体力は一体どうなっているのだろう。ゾーイは知り合いの女子生徒と写真を撮り合っており、エマも少し離れた場所で友達と話していた。
みんな、楽しそうだった。
だからこそ、時春は少しだけ困った。
……俺だけ疲れちゃったかな。
バスケの練習なら二時間でも三時間でも平気なのに、こうして大勢の人に囲まれていると、普段とは違う疲れ方をするらしい。
時春はダンススペースを離れ、壁際の飲み物のテーブルへ向かった。
紙コップに水を注ぎ、一口飲む。
冷たい水が喉を通り抜け、少しだけ気分が落ち着いた。
しかし、音楽は相変わらず大きい。むしろ、さっきよりも盛り上がっているようで、時折上がる歓声が体育館全体に響き渡っていた。
時春は水を飲み終えると、出口の方を見た。
……ちょっと外に出ようかな。
別に帰るわけではない。十分くらい静かな場所で休み、落ち着いたらまた戻ってくればいいのだ。
そう考えると、少し気が楽になった。
時春は近くのテーブルへ紙コップを置き、体育館の出口へ向かった。
◇
体育館の扉を抜けた瞬間、時春は思わず大きく息を吐いた。
「……ふう……」
廊下には柔らかな照明が灯っており、ダンスホールの音楽は扉の向こうから低く響いている。壁には学校行事のポスターが貼られ、窓の外には夜のキャンパスが広がっていた。
完全に静かというわけではないが、体育館の中と比べれば随分と落ち着いている。
……ああ、生き返る。
時春はゆっくりと歩き始めた。
せっかくなら、少し外の空気を吸いたい。
そう思って体育館の脇へ続く通路を進むと、建物の側面にある小さな出入口が見えた。扉の向こうには植え込みがあり、校舎の裏手へ続く舗装路が街灯に照らされている。
時春は扉を開け、外へ出た。
ひんやりとした風が頬を撫でた。
十月の夜は、昼間とは随分と気温が違う。海の方から吹いてくる風には少し冷たさがあり、火照った体を心地よく冷ましてくれた。
時春は深呼吸し、肩の力を抜いた。
……気持ちいいなあ。
遠くからはまだ音楽が聞こえているが、ここまで来ると気にならない程度だった。空を見上げると、校舎の屋根の向こうにいくつかの星が見える。
さっきまで大勢の生徒に囲まれていたせいか、誰もいない場所にいることが少し新鮮だった。
時春は建物の壁に沿って、ゆっくりと歩き始めた。
そのときだった。
「……ん?」
どこからか、微かな話し声が聞こえた。
体育館の裏手にある外階段の陰に、数人の生徒が集まっているらしい。
時春は足を止めた。
暗がりには三人ほどの男女がいた。一人は壁にもたれ、別の一人が何かを手にしている。残りの一人は階段に腰を下ろし、ときどき小さな声で笑っていた。
最初は、時春と同じようにパーティーの騒がしさから逃れてきたのだろうと思った。
ところが、風向きが変わった瞬間、妙な匂いが漂ってきた。
甘いような、焦げた草のような、独特の匂いだった。
時春は思わず鼻をひくつかせた。
……あれ?
何か、嗅いだことあるぞ。
記憶をたどっているうちに、ある光景が頭に浮かんだ。
ノアのホームパーティー。あの大きな豪邸で、二階の部屋を開けたときのことだ。
薄い煙が漂う室内に、赤い目をした生徒たちがいた。何をしているのかわからず戸惑っていたら、後になって大麻を吸っていたらしいと知ったのだった。
そして今、目の前の生徒たちからも、あのときとよく似た匂いがしている。
……えっ、ちょっと待って。
そのとき、壁にもたれていた男子生徒が顔を上げた。
「……Hey。誰かいる?」
時春はびくりと肩を揺らした。
少年の手元からは、細い煙が上がっている。
……あっ。
これ、またあれじゃん。
……ハッパだ!!
「うわっ!!」
思わず声が漏れた。
暗がりにいた生徒たちが一斉に振り返る。
「えっ、何!?」
「誰だよ!?」
時春は反射的に一歩下がった。
「ソ、ソーリー!」
相手が何か言いかけたが、時春はもう聞いていなかった。慌てて踵を返し、建物の方へ小走りで戻る。
……またかよ!!
何でだよ! 何でパーティーに来ると毎回こうなるんだよ!!
ノアの家で経験した、あの気まずさが一瞬にして蘇っていた。
もちろん、今の生徒たちが時春に何かしたわけではない。それでも、学校の敷地内であんな光景を見るとは思っていなかったし、向こうに気づかれた瞬間、どうすればいいのかわからなくなってしまった。
……しかも、ここ学校だぞ!?
見つかったら絶対怒られるだろ!
時春は急いで建物の中へ戻った。
扉を閉めると、ようやく足を止めて息を整える。
「……はあ……」
心臓が少し速く動いていた。
……落ち着け。別に、何かされたわけじゃないんだから。
そう自分に言い聞かせながら、周囲を見回した。
廊下の先に、男子トイレの表示が見える。
……あっ、トイレ。
ちょうどいい。顔でも洗おう。
時春は少し早足で、そちらへ向かった。
◇
男子トイレの中は、体育館に比べれば静かだった。
洗面台の前には大きな鏡があり、壁には淡い照明が灯っている。廊下から微かに音楽が聞こえるものの、少なくともここなら落ち着けそうだった。
時春は扉を押し開けた。
そして、その場で動きを止めた。
洗面台の近くに、男子生徒が二人いた。
一人は黒いジャケットを着た少年で、もう一人は白いシャツに青いネクタイを締めている。
二人は向かい合って立ち、ちょうどキスをしているところだった。
「…………」
時春は瞬きをした。
向こうの二人も、突然入ってきた時春に気づいたらしい。
三人の視線が、気まずい具合に交わった。
……あっ。
えっ。
これ、キスしてるじゃん。
時春の頭が一瞬真っ白になった。
もちろん、男の子同士で付き合うことがあるのは知っている。アメリカの学校に来てから、そういうカップルを見かけたことだってあった。
問題は、扉を開けた瞬間、完全に二人きりの時間を邪魔してしまったことである。
しかも、距離が近い。
めちゃくちゃ近い。
……うわああ、またやっちゃった!!
ノアの家でも似たようなことあったじゃん!
何で俺、こんなに人のキス現場に遭遇するんだよ!!
「あっ……」
黒いジャケットの少年が、慌てて一歩下がった。
もう一人も驚いたように時春を見つめている。
時春は反射的に頭を下げた。
「ソーリー!!」
「えっ、いや……」
「ソーリー! ソーリー!!」
「ちょ、待って!」
相手が何か言いかけたが、時春は聞き取る余裕もなかった。
さっきは大麻らしきものを吸っている生徒たちに遭遇し、今度は人のキスを邪魔してしまった。
ただ静かな場所を探していただけなのに、どうしてこんなことになるのだろう。
時春はもう一度謝り、慌ててトイレから出た。
扉が閉まると、廊下には再び静けさが戻ってきた。
……何なんだよ、今日!!
さっきまで普通にダンスしてたじゃん!
何で休憩しようとしただけで、こんな目に遭うんだよ!
時春は半ば自分に呆れながら、廊下を歩き始めた。
しかも、結局顔を洗うことすらできていない。
……もう、勘弁してくれよ。
◇
ようやく落ち着けそうな場所を見つけたのは、体育館から少し離れた廊下だった。
壁際には小さなベンチが置かれ、窓の外には暗いキャンパスが広がっている。ここまで来ると音楽もずいぶん遠くなり、先ほどまでの騒がしさが嘘のように静かだった。
時春はベンチへ腰を下ろした。
そして、両手で顔を覆った。
……疲れた。めちゃくちゃ疲れた。
さっきまで、最高の夜だったはずなのに。
初めてのホームカミング・ダンスは、想像していた以上に華やかだった。見慣れた体育館がすっかり様変わりし、友達はみんなおしゃれな服を着ている。ジェイクの意味不明なダンスも面白かったし、何よりエマのドレス姿には驚かされた。
自分でも少し踊ってみたら、思った以上に楽しかった。
それなのに、ちょっと休憩しようとしただけで、妙な出来事に続けざまに遭遇してしまったのである。
……俺、呪われてんのかな。
ノアのホームパーティーでも、知らない男子と女子がキスしそうになっている部屋へ突っ込んだ。おまけに、別の部屋では大麻を吸っているらしい集団に遭遇した。
そして、今回も同じようなことが起きている。
……何だよ、このコンボ。
ゲームだったら絶対バグだろ。
時春は深いため息をついた。
もちろん、さっきトイレにいた二人には悪いことをしたと思っている。
きっと、誰にも邪魔されずに二人きりになりたかったのだろう。そこへ突然知らない男子が入ってきたのだから、向こうだって相当驚いたはずだ。
……でも、男子トイレでキスしてるとは思わないじゃん。
せめて、もうちょっと人が来なさそうな場所でやってくれよ。
そこまで考えて、時春はふと顔を上げた。
そういえば、自分も人の少ない場所を探していたのだった。
あの二人も、きっと周囲の目が気になったのだろう。目的は全然違うけれど、静かな場所へ逃げてきたという意味では似ているのかもしれない。
……いや、やっぱり全然違うか。
時春は一人で小さく笑った。
何だか、少しだけ気が楽になった。
窓の外には街灯に照らされた歩道があり、遠くの校舎からは柔らかな明かりが漏れている。時折、生徒らしい人影が通り過ぎるものの、この廊下にはほとんど誰も来なかった。
時春はベンチの背もたれに体を預けた。
体育館の方からは、まだ音楽が聞こえている。
ジェイクは今頃も踊っているのだろうか。あいつなら、そろそろ汗だくになっていてもおかしくない。
ゾーイは写真を撮っているかもしれないし、エマは誰かと話しているのかもしれない。
時春はスマートフォンを取り出した。
まだ帰るには早い時間だった。
せっかくのホームカミングなのだから、できれば最後まで楽しみたい。けれど、あの騒がしさの中へすぐに戻るのも、少し気が重かった。
……もうちょっと休もうかな。
十分ほど座っていれば、また元気になるだろう。
そう考えてスマートフォンをしまうと、時春は窓の外へ目を向けた。
静かな夜だった。
少し前まで、あんなにも賑やかな場所にいたのが不思議なくらいである。
そんなことを考えていると、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
「……トキ?」
柔らかい声だった。
時春は顔を上げ、思わず目を丸くした。
「……エマ?」
そこには、淡いブルーのドレスを着たエマが立っていた。
緩くまとめた茶色い髪に、小さく光る耳元のアクセサリー。手にはバッグを持ち、少し不思議そうな顔でこちらを見つめている。
時春が立ち上がると、エマは近づいてきた。
「どうしたの? こんなところで」
「……あー……」
時春は言葉に詰まった。
どう説明したものだろう。
音楽が大きすぎて外へ出たら、大麻を吸っているらしい集団を見つけてしまった。慌てて逃げた先のトイレでは、今度は二人の男子がキスをしていて、また邪魔してしまった。
……いや、全部話したら絶対笑われるだろ。
時春は少し考え、ひとまず一番大きな理由だけを話すことにした。
「……ちょっと、疲れちゃって」
「ああ、そっか」
エマは頷いた。
「中、すっごくうるさいもんね」
「うん。楽しいんだけど、音楽が大きすぎて……」
時春が苦笑すると、エマは隣のベンチへ目を向けた。
「座ってもいい?」
「もちろん!」
エマは時春の隣に腰を下ろした。
ドレスの裾を軽く整え、少しだけ足を伸ばす。
「実は私も、ちょっと休もうと思って出てきたの」
「……ほんと?」
「うん。あの中にずっといると、さすがに疲れちゃうよ」
エマは笑いながら答えた。
時春は少し意外に思った。
彼女は誰とでも仲がよく、教室でも廊下でも楽しそうに話している。今日だって、ダンススペースでは何人もの生徒から声をかけられていた。
だから、ああいう賑やかな場所も平気なのだと思っていた。
「エマも疲れるんだ?」
「えっ? そりゃ疲れるよ!」
エマは思わず笑った。
「私だって普通の人間だもん」
「あっ、そっか!」
「何だと思ってたの?」
「……スーパー・エマ?」
「何それ!」
エマが吹き出した。
時春も笑った。
少し前までは、エマは何でもできる女の子なのだと思っていた。英語はもちろん、学校のこともよく知っているし、友達も多い。困ったときにはいつも助けてくれるから、何となく頼りっぱなしになってしまう。
けれど、考えてみれば彼女だって自分と同じ十五歳なのだ。
苦手な数学に頭を抱えることもあれば、賑やかなパーティーに疲れることだってある。
当たり前のことなのに、今まであまり考えたことがなかった。
「……でも、楽しかったね」
エマが体育館の方へ顔を向けた。
「うん! めっちゃ楽しかった!」
「ジェイク、相変わらずだったでしょ?」
「ハハハ! あいつ、絶対おかしいって!」
「ほんと。今頃まだ踊ってるんじゃないかな」
「絶対踊ってる!」
二人は顔を見合わせて笑った。
ジェイクのことを思い出すだけで、いくらでも笑えてしまいそうだった。
しばらくすると、エマはベンチの背もたれに体を預け、ゆっくりと息を吐いた。
時春も隣で同じように座り直した。
体育館の方からは、遠くに音楽が聞こえている。
廊下の窓には、夜のキャンパスと、二人の姿がぼんやりと映っていた。
時春は何となく、その窓を眺めた。
さっきまでドレス姿のエマに緊張していたはずなのに、こうして隣に座っていると、不思議といつものように話せる。
図書館で一緒に勉強したときもそうだった。
最初は妙に落ち着かなかったけれど、数学や英語の話をしているうちに、気づけば普段と変わらず笑い合っていた。
今も、そんな感じだった。
エマはしばらく黙って廊下の向こうを眺めていたが、やがて何かを思い出したように顔を上げた。
「……ねえ、トキ」
「ん?」
「静かな場所、知ってるよ」
「……えっ?」
時春は目を瞬かせた。
「静かな場所?」
「うん。ここよりずっと静かで、景色もきれいなところ」
エマは少し嬉しそうに笑った。
「私のお気に入りなんだ」
「へえ……!」
時春は興味を引かれた。
学校の外にも、エマがよく行く場所があるのだろうか。
「どこ?」
「ここからそんなに遠くないところ。丘の上なんだけど、海も街も見えるんだよ」
「……丘?」
「そう。夜は特にきれいなの」
エマは窓の外へ目を向けた。
街灯に照らされたキャンパスの向こうには、暗い空が広がっている。遠くの街の明かりが、建物の隙間から小さく見えた。
「私、たまにそこへ行くんだ。ちょっと考え事したいときとか、一人になりたいときに」
「……そうなんだ」
時春は頷いた。
エマがそんな場所を知っているとは思わなかった。
いつも友達に囲まれている彼女が、一人で考え事をするために行く場所。
どんなところなのだろう。
少し興味が湧いてきた。
すると、エマがこちらを向いた。
「トキも行ってみる?」
「……えっ?」
「せっかくだし、案内してあげる。今なら夜景もきれいだと思うよ」
時春は少し迷った。
ホームカミングのダンスは、まだ続いている。ジェイクやゾーイには何も言っていないし、ラリーにも帰る時間は守ると約束している。
それに、学校の外へ行くなら、寮のルールも気にしなければならない。
「……遠い?」
「歩いて少しだよ。もちろん、寮の門限までには戻れると思うけど……」
エマはそう言って、少し首を傾げた。
「どうする?」
時春はスマートフォンで時刻を確認した。
まだ、時間には余裕がある。
それなら、少しくらい寄り道をしても大丈夫だろう。
ただ、黙っていなくなるのはよくない。
「……ちょっと待って!」
「ん?」
「ジェイクたちに、メッセージ送る!」
「あっ、そうだね!」
エマもスマートフォンを取り出した。
二人はそれぞれ友達へ連絡し、少し外の空気を吸いに行くことを伝えた。
すると、すぐにジェイクから返信が届いた。
『BROOOOO WHERE ARE YOU TWO GOING 』
「…………」
時春は画面を見つめた。
……何だよ、その目の絵文字。
隣から画面を覗き込んだエマが、思わず吹き出した。
「もう、ジェイクったら!」
「絶対変なこと考えてるだろ、あいつ!」
「いつものことじゃん!」
「……確かに!」
二人は声を上げて笑った。
時春はとりあえず『SHUT UP』と返信し、スマートフォンをポケットへしまった。
エマもバッグを肩にかけ、ベンチから立ち上がる。
「じゃあ、行こっか」
「うん!」
時春も立ち上がった。
しかし、エマはすぐには歩き始めなかった。
何かを思い出したように時春の顔を見て、それから少しだけ笑った。
「……トキ」
「ん?」
「今日、来てくれてよかった」
「……えっ?」
「ホームカミング。楽しんでくれて嬉しいなって」
エマは少し照れくさそうに笑った。
「最初はダンス、緊張するって言ってたでしょ?」
「あー……うん!」
時春も笑った。
「でも、楽しかった! ジェイク、めちゃくちゃ面白かったし!」
「ふふっ、そうだね」
「エマたちもいたし!」
何気なくそう言うと、エマは少し目を丸くした。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「……そっか」
時春は頷いた。
エマに誘われなければ、そもそもホームカミングのダンスへ参加することすら考えなかったかもしれない。
まだ知らないことばかりだが、こうして新しい経験が増えていくのは楽しかった。
エマは廊下の奥へ目を向け、それから時春へ手を差し出した。
「Come on. I’ll show you.(行こ。案内してあげる)」
時春は一瞬、その手を見つめた。
白い照明の下で、エマが柔らかく微笑んでいる。
初めてCBAの校舎で迷子になった日も、彼女はこんなふうに声をかけてくれた。
あのときは、知らない学校の中で教室を探していた。
そして今は、ホームカミングの夜に、彼女が知っているという丘へ向かおうとしている。
時春は小さく笑った。
「……オーケー!」
差し出された手を取ると、エマは嬉しそうに頷いた。
二人は並んで廊下を歩き始めた。
体育館の前を通り過ぎると、扉の向こうからジェイクのものらしい大きな歓声が聞こえてきた。どうやら、まだ元気いっぱいに踊っているようだった。
時春は思わず笑ったが、エマはそのまま歩き続けた。
校舎の出口を抜けると、涼しい夜風が二人を迎えた。
時春は空を見上げた。
カリフォルニアの夜空にはいくつかの星が輝き、キャンパスの向こうには街の明かりが広がっている。
どんな丘なのだろう。
そこからは、どんな景色が見えるのだろう。
そして、どうしてエマはその場所がお気に入りなのだろう。
聞いてみたいことはいくつもあったが、今はとりあえず、彼女についていくことにした。
「寒くない、トキ?」
「大丈夫! エマは?」
「私も平気!」
エマが笑った。
時春も頷き、彼女と歩幅を合わせた。
背後では、ホームカミングの音楽がまだ遠く響いている。
けれど、少し歩くうちにその音も小さくなり、代わりに風が木々を揺らす音や、二人の靴音が聞こえるようになった。
時春は隣を歩くエマをちらりと見た。
淡いブルーのドレスが、街灯の下で柔らかく揺れている。
さっきまであんなに騒がしい体育館にいたのに、今は彼女と二人で静かな道を歩いている。
何だか、不思議な夜だった。
エマは前を向いたまま、楽しそうに言った。
「きっと気に入ると思うよ」
「……ほんと?」
「うん。私の大好きな場所だから」
時春は笑顔で頷いた。
そして、エマと並んで夜のキャンパスを歩いていった。
その先に、彼女がいつも一人で訪れるという丘が待っている。
そこから見える景色も、エマがその場所を好きな理由も、時春はまだ知らない。
ただ、今夜はもう少しだけ、彼女と一緒に過ごしていたいと思った。