資料室の安楽椅子 作:SAK0011
白い磁器のカップから、細く白い湯気が立ち昇り、夕闇の迫る部屋の空気へと溶けていく。琥珀色の水面に、窓から差し込む最後の茜色が小さく揺れていた。甘く、どこか懐かしい白い花の香りが鼻腔をくすぐる。
「さあ、どうぞ。ジャスミンティーに、少しだけアカシアの蜂蜜を落としてある。邪道だと怒るお茶の先生もいるんだが、疲れているときはこれくらいの方が五臓六腑に染み渡るんだよ」
室長と呼ばれたその青年は、机の端に積まれていた古い年鑑を無造作に脇へ押しやり、私のためにスペースを作ってくれた。さらに向かいのパイプ椅子の上に眠っていた分厚いバインダーをひょいと抱え上げ、床の上に下ろす。
「あの……っ」
私は扉の近くに立ったまま、一歩も動かずに言った。
「お構いなく。私はただ、生徒会長からこの封筒を届けるように言われただけですので。これをお渡ししたら、すぐに戻ります」
早口になりかけた声を必死に抑えながら、私は一歩だけ前に出て、両手で茶封筒を差し出した。早くここを出なければ。お茶なんて飲んでいる場合じゃない。まだ七時前だ。今から戻れば、門限までにトレーニングルームでウエイトを三セットはこなせるし、寮の周りを走る時間だってある。立ち止まっている暇なんて、私には一秒もないのに。
室長は私の硬い表情と、白く血の気の引いた指先をちらりと見比べた。それから「やれやれ」と小さく肩をすくめ、封筒を受け取った。
「律儀なお嬢さんだな。だが、せっかく淹れたお茶を排水溝に流すのは、茶葉を摘んだ農家の人に申し訳が立たないとは思わないかい? 三分でいい、そこの椅子に座って一口だけ付き合ってくれよ。ちょうど私が封筒の中身を検分する時間だ」
そう言って彼は、自分のカップを片手に革張りの回転椅子へとどかりと腰を下ろし、机の引き出しから真鍮のペーパーナイフを取り出した。断りきれず、私は唇を噛んでパイプ椅子の浅いところに腰を下ろした。いつでも立ち上がれるように背筋をピンと張り詰め、膝の上で両手の拳を固く握りしめる。
シュッ、と乾いた音を立てて封筒の封が切られた。
すると、中から出てきたのは、私が想像していたような重要書類の束ではなく、古びたクリアファイルがひとつと、その間に挟まれた、メモ用紙ほどの小さな便箋が一枚だけ。残りの厚みは、なぜか緩衝材代わりに詰め込まれた先週のスポーツ新聞の束だった。
「……ふむ。やっぱりな」
室長は小さな便箋に目を走らせると、苦笑いを浮かべてそれを机の上に放り出した。
「なにか、何か不備でもありましたか?」
「いや、完璧な紹介状だよ。『靴底を削りすぎた迷える小鳥をひとり送る。君の暇つぶしに、少しばかり古いレコードでも聞かせてやってくれ』だとさ。……まったく、生徒会長という生き物は、どうしてこうも詩人気取りで人使いが荒いのかね。私は超過勤務手当も出ないというのに」
私は息を呑んだ。
つまり封筒は、口実にすぎなかったのだ。生徒会長は最初から、泥の中で転んでいた私をこの男に引き合わせるために、わざわざ嵩増しした封筒を持たせたのだ。
……騙された、という思いよりも先に、熱い羞恥心が顔へと駆け上がってきた。惨めな姿を哀れまれたのだ。一人では立ち直ることもできない落ちこぼれだと見做されて、こんな隔離されたような古い部屋へ厄介払いされたのだ。
「……失礼しますっ」
私は椅子を蹴るようにして立ち上がろうとした。その瞬間、右足首に再び鋭い痛みが走り、小さくバランスを崩して机の角に手をついた。
「おっと、危ない。だから座っていなさいと言っただろうに」
室長は立ち上がることもせず、ティーカップを持ったまま、穏やかな、しかし不思議なほど澄み切った暗い瞳で私を見上げた。
「昨日の土曜日の第2レース。未勝利、芝千六百メートル。四番手から抜け出そうとして、最後の直線で足が止まった七番枠のウマ娘――それが君だね」
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。私は机に手をついたまま、凍りついたように彼を見返した。
「な、なんで……そのファイルに、書いてあるんですか!?」
「書いてあるのは、君が学園に入寮した時の基礎測定データだけさ。昨日のレース結果までは載っていないよ」
「じゃあ、どうして……」
室長は自分のカップから一口お茶を啜り、空いた方の指先で、私の足元と手元を順番に指差した。
「探偵の真似事というほど大層なものじゃないがね。物事にはすべて、そうなるだけの『原因』と『結果』の繋がりがある。よく見れば、君自身が全部教えてくれているんだよ」
彼は背もたれに深く身を預け、淡々とした声で続けた。
「まず、君がこの部屋に入ってきたとき、無意識に右足首への荷重を避けて、左足だけで床を蹴っていた。それなのに、履いているローファーは右足の小指側の革だけが不自然に外へ膨らんで型崩れしている。これは日常的に、自分の股関節の可動域を超えた無理な大股――オーバーストライドで走り続け、着地のたびに足の外側へ体重が逃げている証拠だ」
私はハッとして、自分の右足を左足の後ろへと隠した。
「次に、君の右手だ。綺麗に洗ってはいるが、手のひらの擦り傷の縁に、わずかに赤茶けた粒が残っている。今日のような雨上がりの夕方に、あれほど粘り気のある赤土が混じるのは、水捌けの悪い第3ダートコースの奥だけだ。おそらくパワーアンクルか何かで無理な負荷をかけて大股で走り、ぬかるみに足を取られて転んだんだろう。違うかい?」
何も言い返せなかった。まるで、あの夕暮れのダートコースをすぐ隣で見られていたかのような正確さだった。
「そして何より、君の呼吸と視線だ」
室長の声が、少しだけ低く、静かになった。
「ここに入ってきてから今まで、君は一度も腹の底まで息を吸い込んでいない。上がった右肩と鎖骨のあたりだけで、まるで水面に口を出した魚みたいに浅く息を継いでいる。そして、目の前の私を見ているようでいて、実際にはここにはいない『誰かの背中』をずっと睨みつけている。
……そんな状態で走れば、第4コーナーを回る頃には酸欠で筋肉が鉛になり、残り二百メートルで失速するのは物理学的に当たり前の帰結だよ。昨日の第2レースで、そういう負け方をしたのは七番枠の子だけだった。ただそれだけのことさ」
部屋の中に、古い柱時計の秒針が時を刻む音だけが、カチ、カチ、と響いていた。私は机の縁を掴んだまま、うつむいて唇を噛みしめた。図星だった。自分の秘密を、誰にも言えずに抱え込んでいたみっともない焦りを、こんな初対面の怠け者みたいな男にすべて暴かれてしまった。
悔しさと惨めさが胸の奥で沸騰し、栓をしていたはずの言葉が、震える声となって勝手に唇から溢れ出した。
「……真似をして、何が悪いんですか」
「ふむ?」
「自分の歩幅を超えて走ろうとして、何が悪いんですか!?」
顔を上げた私の目から、堪えていたものが滲み出しそうになるのを、私は必死に睨みつけることでごまかした。
「あなたには分からないんです! 同じ年に生まれて、同じターフを走っているのに、今日の午後、何万人もの大歓声の中で走っていたあの子たちと、午前中の誰もいないスタンドの前で泥を噛んでいた私の間に、どれだけの壁があるか……っ!」
一度言葉にしてしまうと、もう止まらなかった。傷つくたびに内側から閂をかけて閉ざしていた心の扉が、音を立てて軋んでいた。
「私には、あの芦毛の子みたいな化け物じみた末脚もなければ、生徒会長みたいな王者の風格もありません! 勝負服だってないし、誰かが叫んでくれるような特別な名前だってない! 新聞の隅っこに小さく記号みたいに載って、負けても誰の記憶にも残らない、ただの背景……その他大勢のひとりにすぎないんです! だから……っ、だから、あの子たちの走り方を真似してでも、自分を無理やり変えてでも、追いつかなきゃいけないんじゃないですか! そうしなきゃ、私がここにいる意味なんて、どこにもないじゃないですか……!」
叫び終えたあと、荒い呼吸だけが部屋に残った。
言ってしまった、と思った。これを口に出してしまったら、私は本当にただの弱い負け犬になってしまうと判っていたのに。そしてきっとこの男も、他の大人たちと同じように言うのだ。
「人と比べるな」
「自分のペースで頑張ればいい」
と、安全圏から綺麗事を並べるか、あるいは、
「それが現実だ」
と冷たく突き放すか。
けれど、室長はそのどちらでもなかった。彼はしばらくの間、黙って私の荒い息遣いを見つめていたが、やがてボサボサの黒髪をポリポリと掻きながら、ひどく困ったように、けれどどこか温かみの混じった声で呟いた。
「……やれやれ。君は、本当に真面目で、欲張りで、大変な完璧主義者なんだなあ」
「なっ……! 私は真剣に――」
「分かっているよ。君がどれほど真剣に苦しんでいるかは、その擦り剥いた手のひらを見れば嫌というほど分かるさ。だからまずは座って、そのお茶を飲んでごらん。せっかくの香りのいい湯気が、すっかり逃げてしまうからね」
拍子抜けするほど平熱なその言葉に、振り上げた拳のやり場を失い、私は崩れるようにパイプ椅子へと座り直した。彼は立ち上がると、部屋の壁一面を埋め尽くしている巨大な本棚へと歩み寄り、背表紙の金文字が剥げ落ちた一冊の分厚い革張りの年鑑を引き抜いた。
「君はさっき、『自分には特別な名前がない』『ただの背景だ』と言ったね」
室長は年鑑のページをパラパラとめくりながら、窓辺に背中を預けた。
「この部屋にはね、この学園が創設されてから今日までの、何万頭というウマ娘たちの全記録が保管されている。無敗で三冠を制した不世出の英雄もいれば、GⅠをいくつも勝って銅像になった大スターもいる。当時はそれこそ、世界中が彼女たちの名前を叫び、永遠に語り継がれると信じて疑わなかった」
彼は開いたページを私の方へ向けた。そこには、細かい活字と数字の羅列がびっしりと並んでいた。
「だがね、五十年前のこのページに載っている『特別な名前』を、今の学園の生徒で
私は黙って、その黄ばんだ紙のページを見つめた。
「名前だの、重賞のタイトルだの、一着と六着の差だのといったものはね、人間が記録を整理しやすいように後から勝手に貼り付けた『仮のラベル』にすぎない。固定された実体なんてどこにもないんだ。それなのに君は、そんな紙切れのラベルを自分の命の価値そのものだと勘違いして、ラベルのない自分には生きる意味がないと思い込んでいる。……記録係の私から言わせれば、ずいぶんともったいない話だよ」
「……でも」
私は掠れた声で言った。
「今、この瞬間には、勝つ子と負ける子がいるじゃないですか。私だって、勝ちたいです。思い通りの走りがしたいです。なのに、走れば走るほどタイムが落ちて、昨日の自分より今日の自分の方が駄目になっていくんです……!」
「それはね、お嬢さん。君が『変わらないもの』を必死に探して、思い通りにならないものを力ずくで思い通りにしようとしているからだよ」
室長は机に戻ると、私の前に置かれたままだったティーカップをそっと指先で突いた。カップの底には、茶こしをすり抜けた細かい茶葉の欠片が、琥珀色の液体の中でゆっくりと渦を巻いていた。
「たとえば、泥水が入ったコップがあるとしよう。君は今、『早く透明な水にしなきゃ!』と焦って、そのコップにスプーンを突っ込んで必死にかき回している状態だ。……さて、かき回せばかき回すほど、泥水はどうなると思う?」
「それは……」
私はカップの中を見つめたまま答えた。
「余計に、濁ります」
「その通り。君が夜遅くまでやっている自主トレや、誰かのフォームの物真似は、まさにそれなんだ。『負けたくない』『このままじゃ駄目だ』という焦りや恐怖で頭がいっぱいになっているのに、それを気合や根性というスプーンで無理やりかき消そうとしている。だから心も体も余計に濁って、君が本来持っていたはずの美しい走りまで見えなくなっているんだ」
胸の奥を真っ直ぐに貫かれたような気がした。泥水をかき回している。まさにその通りだった。確かに、私は、休むのが怖くて、立ち止まるのが怖くて。私はただ自分を痛めつけることで安心しようとしていただけ。
「じゃあ……どうすれば、水は透明になるんですか? 不安も、迷いも、あの子たちと比べて惨めになる気持ちも、どうやったら消せるんですか?」
すがるような目で見上げた私に、室長はふっと目元を緩め、開け放たれた窓の外を指差した。夜の帳が下り始めた深い群青色の空に、雨上がりのちぎれ雲がいくつか、風に吹かれてゆっくりと流れていくのが見えた。
「消さなくていいんだよ」
「……え?」
「悩みも、迷いも、誰かを羨んで沈む夜の気持ちも、無理に消そうとしなくていいんだ。コップの泥水を澄ませる唯一の方法は、何かを足すことじゃない。コップを机に置いて、ただ手を離し、静かに待つことだ。そうすれば、泥は勝手に底へと沈んでいく」
彼は窓の外の空を見上げたまま、まるで古い詩でも口ずさむように静かに言葉を紡いだ。
「人間の心というのはね、あの空のようなものなんだ。そして、君を苦しめている不安や劣等感、焦りといった感情は、空を通り過ぎていく『雲』にすぎない。……いいかい、どれほど真っ黒な雨雲が空を覆ったとしても、雲の向こう側にある空そのものが傷ついたり、消えてなくなったりするわけじゃないだろう?」
私は窓の外を見た。群青色の空の奥で、一番星が小さく瞬き始めていた。
「君は今、自分の心に黒い雲が浮かぶたびに、『こんな雲がある自分は駄目だ!』と怒って、雲を殴りつけて追い払おうとしている。だから疲れてしまうし、傷つくたびに心の扉を閉ざしてしまう。……だがね、雲は生まれては消え、満ちては欠けて、川の水のようにただ流れていくものなんだ。不安が来たなら、『ああ、今、私の空に不安という雲が来たな』と、ただそばに置いて眺めていればいい。追い払わなくても、手出しさえしなければ、雲はやがて勝手に風の向こうへと流れていくよ」
――悩みも、迷いも、消さなくていい。
――雲の向こうには、いつでも空がある。
その言葉が、耳からではなく、乾ききっていた胸の奥へと直接染み込んでいくのを感じた。今まで、弱音を吐いてはいけないと思っていた。ネガティブな感情を持つこと自体が、アスリートとしての敗北なのだと自分を責め続けていた。足りないものを数えては、自分の価値を見失っていた。
けれど、この人は「そのままでいい」「消さなくていい」と言い放ったのだ。
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「……私、ずっと怖かったんです」
気がつくと、私は自分の膝の上で固めていた拳をわずかに緩め、ぽつりと呟いていた。
「誰かと比べて落ち込む夜が来るたびに、自分がどんどん小さくなっていく気がして……。あの芦毛の子や、GⅠを走る子たちみたいに強くなれなかったら、私には何の価値もないんじゃないかって……」
室長は机の上のクリアファイルを開き、私の入寮時の測定データに目を落とした。
「この記録を見る限り、君は入寮したばかりの頃、とても綺麗なピッチ走法をしていたんだね。ストライドは小さいが、地面を撫でるように滑らかで、接地時間が驚くほど短い。まるで春の小川を滑る木の葉みたいな走りだ」
「……こんな小刻みで非力な走り方じゃ、重賞のパワー勝負には勝てないって、自分で思って……」
「やれやれ、またそれだ」
室長はファイルをとじ、優しい呆れ顔を向けた。
「森の梢で鳴いている小鳥はね、空高く飛ぶ大鷲(おおわし)を見て、『自分にはあんな大きな翼がない』と絶望したりしない。もし小鳥が鷲の飛び方を真似して、無理やり翼を広げて嵐の中へ飛び込んだらどうなる? 風に叩き落とされて、せっかくの美しい歌声まで失ってしまうだろう」
彼は私の目を真っ直ぐに見た。
「鳥は鳥の歌を歌い、花は花の時を生きるんだよ。道端に咲く名もなき白い花が、温室のバラになれなかったからといって、その命の価値が劣るなんて誰が決めたんだい? 誰かにならなくていい。あの芦毛の怪物にも、生徒会長にもならなくていいんだ。君はただ、君という命が持っている本来のリズムを、そのままターフの上で咲かせればいいんだよ」
――誰かにならなくていい。この命を咲かせればいい。
目の奥が、ぶわっと熱くなった。
堪えようとしたのに、今度はもう止められなかった。大粒の涙がぽろぽろと頬を伝い、制服のスカートの上に落ちて濃い染みを作った。泥の中で転んだときに流した、悔しさと惨めさの涙ではなかった。ずっと両手いっぱいに抱え込んでいた、重たくて冷たい鎧が、ガラガラと音を立てて剥がれ落ちていくような、温かくて静かな涙だった。
「……ほら、お茶がすっかりぬるくなってしまったじゃないか」
室長はわざとらしく嘆息してみせ、視線を窓の外へと逸らしてくれた。私は袖で目元を拭い、震える両手で、机の上の白いティーカップをそっと包み込んだ。
まだ、ほんのりと温かさが残っていた。口元に運び、一口だけ啜る。アカシアの蜂蜜の優しい甘みと、ジャスミンの花の澄んだ香りが、荒れ果てていた喉の奥をゆっくりと潤していく。
―――ああ、温かいな。
と思った。甘いものが美味しいと感じたのも、お茶の香りに気づいたのも、ここ数ヶ月で初めてのことだった。足りないものを数えるのをやめた瞬間、すぐ目の前に差し出されていた小さな優しさの温度に、私はようやく気づくことができたのだ。
カップをソーサーに戻したとき、私の呼吸は、いつの間にかお腹の底まで深く落ち着いていた。
「……少し、顔色が戻ったね」
室長が回転椅子を揺らしながら微笑んだ。
「ありがとうございます。あの……本当に、少しだけ、胸の奥が軽くなった気がします」
私は深く頭を下げた。それから、ふと現実の疑問が頭に浮かび、顔を上げた。
「でも、室長さん。私が誰かの真似をやめて、自分の走り方に戻るとして……来週の土曜日の未勝利戦までに、具体的にどんなトレーニングをやり直せばいいんでしょうか? 今の私は、その、……フォームがバラバラで、やっぱり何か特別な矯正メニューをこなさないと……」
すると室長は、まるで世の中で一番嫌な単語を聞いたかのように、露骨に顔をしかめて手を振った。
「特別なトレーニング? よしてくれ、私は努力だの特訓だのといった暑苦しい言葉が、この世で一番嫌いなんだ。必勝の信念なんてものは、だいたいは敗北の言い訳か、指導者の怠慢をごまかすための呪文にすぎないからね」
「えぇ……? じゃあ、私は明日から何をすれば……」
「私が君に出す処方箋は、拍子抜けするほど簡単なことさ。何かを『足す』んじゃない。余計なものを『手放す』ための練習だよ」
室長は机の引き出しから、古びた小さな湿布薬をひとつ取り出して私に放ってよこした。右足首に貼れ、ということらしい。そして彼は、人差し指を一本立ててこう言った。
「明日の朝、六時に起きて、ストップウォッチもパワーアンクルも全部寮の部屋に置いていきなさい。そして、誰もいない朝の芝コースへ出て、ただ『息をして』走るんだ」
「……息をして、走る?」
室長は椅子から立ち上がり、苦笑しながら頭を掻く。
「そう。昨日の敗北のことも、来週のレースの着順のことも考えるな。昨日も明日も、今ここにはいないんだからね。ただ、ひとつ息を吸って、ひとつ肩の力を抜いて、握りしめていたものを全部春の風に返してごらん」
そして彼は、机の上に置いてあったカップを掲げ、優しく微笑んだ。
「そうすれば、君の足が勝手に、本来の歌い方を思い出してくれるはずだよ」