午前十時四十分のファンファーレは、いつだって少しだけ音が割れて聞こえる。スタンドの半分以上を占める空席のプラスチック椅子に反響して、トランペットの乾いた高音が春の生ぬるい風の中に頼りなく吸い込まれていくからだ。
―――土曜日の第2レース、三歳未勝利戦、芝千六百メートル。
午後に行われる華やかな重賞レースの露払いにもならない、新聞の片隅に小さな活字で押し込められたレースだ。熱心なファンでさえ、パドックの脇で新聞を広げながらうどんを啜っていたり、スマートフォンで午後のメインレースのオッズを眺めていたりする、そんな時間帯。
それでも、ゲートの中に閉じ込められた私たちにとっては、そこが世界のすべてだった。
鉄格子の向こう側には、鮮やかな緑のターフが果てしなく伸びている。隣のゲートから、荒い鼻息と、金具を蹴飛ばす甲高い音が響いた。誰かが恐怖をごまかすように小さく唸り、誰かが祈るように目を閉じている。私もまた、白と紺のツートンカラーの布地――まだ自分だけの勝負服を持つことすら許されない、学園指定の汎用レーシングユニフォームの胸元を、冷たい指先で強く握りしめていた。
勝たなければならない。ここで勝たなければ、私は本当に「その他大勢」のまま終わってしまう。
ガシャン、と重い鉄扉が弾け飛んだ。
視界が一気に開け、十六頭のウマ娘が一斉に芝生の上へと雪崩れ込む。土くれと千切れた芝の葉が顔に張り付き、肺の奥へと乾いた砂埃が流れ込んできた。
「――っ、はぁっ、はぁっ!」
焦るなと言い聞かせるほど、肩に力が入った。
私が意識したのは、自分本来の小刻みな歩幅ではない。先週の夜も、その前の夜も、寮の消灯時間を過ぎてからスマートフォンの小さな画面が熱を持つまで繰り返し再生し続けた、あの「特別なあの子」の走り方だった。世代の頂点に君臨する、白い稲妻のような芦毛の少女。あるいは、王者の風格を纏って大観衆の真ん中を駆け抜ける、生まれながらのスターたち。彼女たちのように大きく、力強く、大地をねじ伏せるようなストライドで走らなければ、あの光の当たる場所へは行けないのだと、私は自分に言い聞かせていた。
だから私は、自分の小さな骨盤が悲鳴を上げるのも構わず、無理やり歩幅を広げて地面を強く蹴りつけた。向こう正面から第3コーナーへ。最初は良かった。好位の四番手につけ、先頭集団の背中がすぐ目の前にある。いける、今日こそ変われる、と胸が躍った。
だが、第4コーナーを回り、最後の直線四百メートルへ向いた瞬間だった。不意に、右の足首の奥で、錆びた針金をねじ切ったような鈍い痛みが走る。
「……っ!?」
無理に広げ続けたストライドのツケが、一気に下半身の筋肉を鉛へと変えていく。太ももの裏側が焼けつくように重くなり、地面を蹴るたびに上体が不自然に浮き上がった。呼吸が乱れる。酸素が足りない。喉の奥から血の味がせり上がってくる。もっと前へ。もっと強く。思い通りにならない自分の脚を、無理やり思い通りに動かそうとして、私は必死に腕を振り回した。
残酷な事に、その横を、風が通り過ぎていった。
ひとり、またひとりと、後方にいたウマ娘たちが私の脇をすり抜けていく。抜かないで、と叫びたかった。置いていかないで、と手を伸ばしたかった。けれど、焦れば焦るほど私のフォームはバラバラに砕け散り、靴底が芝の上を空回りするばかりで、前を行く背中との距離は絶望的なほどに開いていく。
先頭集団がゴール板を駆け抜け、まばらな歓声が上がった。それから数秒遅れて、私は泥だらけのユニフォームのまま、惰性のようにゴールラインを跨いだ。
■
肩で息をしながら、ゆっくりと足を止める。見上げた巨大なターフビジョンには、すでに上位五着までの枠番とゼッケン番号が誇らしげに灯っていた。
一着、三番。
二着、十二番。
三着、五番。
四着、八番。
五着、一番。
私の胸にある「七番」という数字は、その電光掲示板のどこにも存在しなかった。六着。掲示板にすら載らない、ただ「走ったという記録」だけがデータベースの片隅に一行書き加えられるだけの、透明な敗北だった。
誰も私の名前なんて呼んでいなかった。スタンドから聞こえてくるのは、
「あーあ、七番、直線で止まっちゃったな」
「やっぱり未勝利は荒れるなあ」
という、記号に対する乾いたぼやきだけだった。
■
地下道から検量室へと続くコンクリートの通路は、いつだって湿った土と消臭剤の混じった冷たい匂いがする。私は壁際に視線を落として歩いく。勝ったウマ娘が陣営のスタッフと抱き合って涙ぐんでいる横を、空気のように通り過ぎる。
「おつかれ。惜しかったな、4コーナーまではいい形だったんだけど」
通路の端で待っていた担当トレーナーが、バインダーから顔を上げて労いの声をかけてくれた。彼もまた、私専属というわけではなく、学園で十数人のウマ娘を同時に受け持っている若手の一人だ。決して悪い人ではない。むしろ優しい人だと思う。けれど、その手にあるストップウォッチには、もう三十分後に始まる次のレースに出走する、別の担当ウマ娘のデータが表示されていた。
「……すみません。最後の直線で、息が上がってしまって」
「うーん、やっぱり少し距離が長いのかなあ。来週、もう少し短いダートに挑戦してみようか。とりあえず、今日はゆっくり休みなさい」
ポン、と肩を軽く叩かれ、彼は足早に次のパドックへと向かっていった。
取り残された廊下で、私は自分の泥だらけの右足を見下ろした。白いレーシングシューズの靴底が、右足の外側だけ、まるでナイフで削り取ったみたいに不自然な角度ですり減っている。その奥で、足首の関節が熱を持ってジンジンと脈打っていた。痛い、と言えばよかったのかもしれない。最近の自分は、誰かの走り方を真似ようとして、自分の体を見失っているのだと打ち明ければよかったのかもしれない。
けれど、私にはできなかった。
それを認めてしまったら、この半年間の必死の努力がすべて間違いだったことになってしまう。
「やっぱり私には特別な才能なんてないんだ」
と、自分の口で宣告することになってしまう。傷つくたびに、私は心の扉に内側から重い閂(かんぬき)をかけた。弱音を吐いたら、そこから自分が崩れ落ちてしまいそうで、ただ唇を噛みしめて拳を握りしめることしかできなかった。
■
その日の夜、トレセン学園の学生寮は、翌日の日曜日に開催される春のクラシック一冠目――GⅠレースの話題で持ちきりだった。食堂の大型テレビでは、スポーツニュースのキャスターが熱狂的な口調で、明日の主役となる同期のウマ娘たちの名前を連呼している。
『無敗のまま頂点へと駆け上がるのか! 世代の絶対王者、注目の枠順は――』
画面の向こうで、華やかな勝負服を身に纏った同世代の少女が、カメラのフラッシュを浴びながら凛とした声でインタビューに答えていた。その瞳には、自分が世界の中心であることを疑わない者特有の、眩しいほどの光が宿っている。周囲のテーブルからは、
「すごいよねえ」
「明日、現地まで応援に行くんだ」
という明るい笑い声が弾けていた。
私はトレイの上の冷めかけたスープをスプーンでかき混ぜながら、自分の胸の奥にどす黒い泥のようなものが溜まっていくのを感じていた。同じ年に生まれ、同じ学園の門をくぐり、同じターフの芝を踏みしめているはずなのに、どうしてあの子たちはあんなにも特別で、私はこんなにも何者でもないのだろう。
自分に足りないものを数え始めると、きりがなかった。あの子のような爆発的な末脚もない。あの子のような強靭な心肺機能もない。観衆を一瞬で惹きつける華もなければ、語り継がれるような血統の物語もない。
足りないものを指折り数えるほど、すぐ目の前にあるはずのご飯の味も、隣に座るクラスメイトの何気ない気遣いも、すべてが遠い世界の出来事のように色を失っていった。
「……ごちそうさまでした」
半分も手をつけていない食器を返却口に戻し、私は逃げるように食堂を出た。寮の部屋には戻らなかった。いや、戻れなかった。ベッドに入って目を閉じれば、今日のレースで自分を追い抜いていった無数の背中と、自分の番号がなかった電光掲示板の残像が、きっと、瞼の裏に浮かんでくる。それが怖くて、私は今夜もまた、ジャージに着替えて夜のトレーニングコースへと向かった。
失いたくないものばかりを、私は両手いっぱいに抱え込んでいた。
まだ手に入れてすらいない「勝利」への執着。
周囲から「駄目な子だ」と思われたくないちっぽけなプライド。
そして、「いつか私だって特別な誰かになれるはずだ」という、縋りつくような幻想。
両手がそんな重荷で塞がっているから、夜風がどんな温度をしているのかも、今の自分の体がどれほど悲鳴を上げているのかも、当時の私には何ひとつ気づくことができなかったのだ。
■
翌日の日曜日。
学園中が午後のGⅠレースのテレビ中継や現地観戦で浮き足立つ中、私はひとり、昼過ぎに降った通り雨でぬかるんだ第3ダートコースの隅にいた。時刻は午後五時を回っている。西の空にはまだ鉛色の雲が低く垂れ込め、その隙間から、燃えるような夕日が濡れた砂の上を赤黒く照らし出していた。
「っ、はぁ、はぁ、はぁ……!」
両足首にトレーニング用のパワーアンクルを巻き、私は泥水を跳ね上げながら、昨日と同じように大股のストライドでダートを蹴り続けていた。もっと大きく。もっと強く。あの芦毛の子みたいに、一歩で五メートルも六メートルも飛ぶように走らなきゃ、私はいつまで経ってもモブのままだ。ストップウォッチのボタンを押す。百メートルのラップタイムは、昨日の朝よりもさらにコンマ四秒落ちていた。
「なんで……っ、どうしてよ……!」
掠れた声が漏れた。もう一度、スタートラインに戻る。呼吸はすでに限界を超えて浅くなり、鎖骨のあたりだけがヒューヒューと音を立てて上下している。右肩が極端に上がり、視界の端がチカチカと明滅していた。それでも私は地面を蹴った。十歩、二十歩、三十歩。
不意に、ぬかるみに右足が深く沈み込んだ、その瞬間だった。グキッ、と嫌な感触が足首から脳天へと突き抜けた。
「――あっ」
支えを失った身体が、無様に宙を舞った。受け身を取る余裕もなく、私は冷たい泥水の中へと顔から突っ込むように転倒した。ジャージの胸元と両膝が泥にまみれ、擦り剥いた手のひらからじわりと赤い血が滲んで泥と混ざり合う。
すぐに立ち上がろうとしたのに、足に力が入らなかった。四つん這いのまま、濡れた砂の上に額を押しつける。情けなくて、悔しくて、奥歯が砕けそうなほど噛みしめたのに、熱い雫が勝手に目尻から溢れ出して泥の中へと落ちていった。掌に爪が食い込むほど、私は泥の中で強く拳を握りしめていた。
思い通りにならない。自分の体なのに、自分の人生なのに、どうして何ひとつ思い通りにならないのだろう。
■
その時だった。ザク、ザク、と乾いた芝と砂利を踏む落ち着いた足音が近づいてきて、私のすぐ目の前で止まった。夕日の逆光を背負って、ひとつの長い影が泥まみれの私の上に落ちる。
「……そこまでにしておきなさい」
低く、よく通る、凛とした声だった。ハッとして顔を上げると、そこには見間違えるはずもない人物が立っていた。深い緑の生徒会役員章を胸につけた、トレセン学園の象徴――『皇帝』と呼ばれる生徒会長だった。彼女は小脇に分厚い茶封筒を抱えたまま、静かな、けれどすべてを見透かすような瞳で私を見下ろしていた。
「せ、生徒会長……っ、私、まだ、練習中で……!」
私は慌てて涙を袖で拭い、震える膝を叱咤して立ち上がろうとした。
―――見られたくなかった。こんな惨めな姿を、よりによって一番「特別」な場所にいる人にだけは、絶対に見られたくなかった。生徒会長は無理に私の手を取ろうとはせず、ただ、私が意地で立ち上がるのを黙って待ち、それから私の泥だらけの膝と、不自然に外側だけが削り取られた右足の靴底へと、わずかに視線を落とした。
「そんな無茶な練習をするな」
「フォームが崩れているぞ」
と、正しい言葉で裁かれるのだと身構えた。けれど、生徒会長はふっと小さく息を吐き、どこか遠い場所を見るように目を細めた。
「……すまないが、君にひとつ、頼まれてほしい用事がある」
「え……?」
「これを、北校舎の旧館まで届けてくれないか」
生徒会長が差し出したのは、角が少し擦り切れた古い茶封筒だった。中には紙の束が入っているらしく、ずっしりとした重みがある。表書きには万年筆の青いインクで、ただ『史料編纂室・室長宛』とだけ記されていた。
「私が、ですか……? でも、私は生徒会の役員でもありませんし、まだ自主トレが……」
「あいにく、私はこれから理事長のところへ向かわねばならなくてね。それに、その靴底と泥だらけのジャージでは、これ以上走っても靴を壊すだけだ。シャワーを浴びて、着替えてからで構わない。旧館の四階、廊下の一番奥にある部屋だ」
有無を言わせぬ、けれど不思議と威圧感のない声だった。断る理由を見つけられないまま、私は泥のついた指先で恐る恐るその茶封筒を受け取った。
「あそこにいる男は、少々変わり者でね。指導者としては落第点かもしれないが……少なくとも、美味しいお茶の淹れ方と、絡まった糸の解き方だけは知っている」
生徒会長はそれだけを言い残すと、踵を返し、夕暮れの風の中にマントのような制服の裾を翻して去っていった。残された私の手の中で、古い紙の束が入った茶封筒だけが、妙に生々しい重みを持って存在していた。
■
シャワー室で泥と汗だけを急いで洗い流し、学園指定の制服に着替えた頃には、窓の外はすっかり藍色に染まっていた。北校舎の旧館は、最新鋭のトレーニング機器が並ぶ中央トレセンの施設群から遠く離れた、敷地の北端の森に近い場所にひっそりと建っている。
石造りの階段を上るたび、右足首が鈍く疼いた。
どうして私がこんなお使いをしなければならないのだろう。時計の針はすでに午後六時半を指している。私がこんな場所で時間を無駄にしている間にも、ライバルたちは筋力を鍛え、フォームを磨き、どんどん先の場所へと進んでいくのに―――。
焦燥感が、胸の奥をヤスリで削るように苛んでいた。階段を上る私の呼吸は浅く、右肩には無意識のうちに力が入り、茶封筒を握りしめる親指の爪は白く血の気を失っていた。
四階の廊下には、蛍光灯すら半分しか点いていなかった。軋む木の床。高い天井。どこかの窓が少しだけ開いているのか、古い紙とインクの匂いに混じって、夕暮れの湿った春の風が廊下を吹き抜けていく。誰もいない廊下を、自分の硬い靴音だけを響かせながら一番奥へと進んだ。
そして、突き当たりに、焦げ茶色の重い木製の扉があった。目の高さに打ち付けられた真鍮のプレートはネジが片方緩んで少し傾いており、酸化して黒ずんだ文字で『レース史料編纂室』と彫られている。
その扉の前に立った瞬間、中から、カチャリ、と陶器と陶器が触れ合う涼やかな音が聞こえた。続いて、どこか気の抜けた、音程の怪しい鼻歌。そして扉の隙間から、今まで嗅いだこともないような、甘く芳しい、白い花の香りがふわりと漂ってきた。
私は一度だけ唾を飲み込み、右手の拳で、コンコン、と控えめに扉を叩いた。
「――ああ、開いているよ。どうぞ。ここの鍵なんて、赴任してから一度もかけたことがないからね」
扉の向こうから返ってきたのは、拍子抜けするほど間延びした、穏やかな若い男の声だった。
「失礼します」
と小さく呟き、私は真鍮のドアノブを回して、重い扉をゆっくりと押し開けた。
■
そこは、まるで時間の流れから取り残されたような空間だった。
壁という壁を天井まで埋め尽くす巨大な本棚には、背表紙の色褪せた年鑑や革張りのファイル、古いビデオテープが今にも雪崩を起こしそうなほど無造作に積み上げられている。開け放たれた西向きの大きな窓からは、夜の帳が下りる直前の、深い茜色と紫色が溶け合った最後の夕映えが差し込み、無数の塵を金色の粒のように宙に浮かび上がらせていた。
そして、その部屋の真ん中にある大きな木製の執務机。
書類の山に埋もれるようにして置かれた革張りの回転椅子に深く背を預け、行儀悪く机の上に組んだ両足を乗せたまま、ガラスのティーポットを傾けている男がいた。
少し伸びすぎた癖のある黒髪はボサボサで、着ている白衣のような薄手のジャケットは袖口がくたびれている。年齢は二十代の後半くらいだろうか。およそアスリートを指導するトレーナーの精悍さとは対極にある、昼行燈そのものといった風貌の青年だった。
彼は私と目が合うと、「おや」と間の抜けた声を上げ、机の上から慌てて足を下ろそうとした。
すると、ゴン、と乾いた音が部屋に響いた。
「……イテテ。やれやれ、格好をつけるとろくなことがないな」
くるぶしを机の角に思いきりぶつけたらしく、彼は涙目になりながら片足を押さえてボサボサの頭を掻いた。私は入り口に立ち尽くしたまま、茶封筒を胸に抱え直し、呆気にとられてその光景を見つめていた。生徒会長が言っていた「変わり者」という言葉の意味が、最初の数秒で嫌というほど理解できた気がした。
「やあ、いらっしゃい。驚かせてすまないね。……さて、その封筒の厚みと、苦虫を噛み潰したような真面目な顔つきから察するに、また
彼は苦笑いを浮かべながら立ち上がると、私の返事も待たずに、机の端にあったもうひとつの白いティーカップへと、琥珀色の透き通ったお茶をトクトクと注ぎ始めた。