資料室の安楽椅子   作:SAK0011

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重荷を風に返す朝と、ほどけていく世界

 ――翌朝、午前五時四十五分。

 

 目覚まし時計のベルが鳴るよりも先に、私は薄いカーテンの隙間から差し込む白々とした朝の光で目を覚ました。

 

■

 

 隣のベッドの上から、同室のルームメイトの規則正しい寝息が聞こえてくる。私は音を立てないように毛布を抜け出し、いつもの習慣で、学習机の上に置いてある黒いストップウォッチと、ずっしりと重い一キログラムのパワーアンクルへと手を伸ばした。

 

 冷たいプラスチックと鉛の感触が指先に触れる。これをつけなければ。今日だって一秒でも長く、そして速く走らなければ。土曜日のレースに間に合わなくなる。

 

 その時、あの昼行燈のような室長の間の抜けた声が脳裏に蘇った。

 

『昨日も明日も、今ここにはいないんだからね。ただ、ひとつ息を吸って、ひとつ肩の力を抜いて、握りしめていたものを全部春の風に返してごらん』

 

 昨日の夕暮れの史料室で嗅いだ、甘いジャスミンティーの香りとともに。

 

 私は伸ばしかけた手を止め、自分の右手を見つめた。手のひらの擦り傷には、白いガーゼが貼られている。そして右の足首には、室長が放ってよこした古びた湿布薬が貼られており、不思議なほど熱と痛みが引いていた。

 

 ストップウォッチを持たずにコースへ出るなんて、トレセン学園に入寮してから一度もしたことがなかった事だ。タイムを計らない練習なんて、地図を持たずに暗い海へ漕ぎ出すようなものだ。正直に言えば、怖い。もしこれで、ますます足が遅くなったらどうしようと、不安が襲う。

 

 けれど、と私は思った。

 

 今まで通り、を続けた先に何があるのかは、もう昨日のぬかるみの中で嫌というほど思い知った。

 

「……よし」

 

 私は小さく息を吐き、掴みかけたストップウォッチとパワーアンクルを、そっと机の引き出しの奥へとしまい込んだ。

 

 パタン、と引き出しを閉める小さな音が、なぜかとても大きな決断の音のように響いた。さらに私は、下駄箱の奥から一足の古いレーシングシューズを引っ張り出した。

 最近履いていた反発力の強い厚底のシューズではなく、入寮したばかりの頃、まだ誰の真似もしていなかった頃に履いていた、靴底が薄くて柔らかい、私の小さな足型にぴったりと馴染んだ白いシューズだった。

 

■

 

 午前六時のトレーニングコースは、乳白色の深い朝霧に包まれていた。

 

 まだ開門したばかりの時間帯で、広大な芝コースには人影もまばらだ。遠くのダートコースから、砂をならすハロー掛けのトラクターの低いエンジン音が、霧の向こうからくぐもった響きとなって届いてくる。

 

 私は芝コースの外ラチ沿いに立ち、準備運動を済ませたあと、ゆっくりと走り出した。

タッ、タッ、タッ、と朝露をたっぷりと含んだ芝生が、薄い靴底の下で柔らかく沈み込む。

 

 最初の二百メートルほどは、ひどく落ち着かなかった。胸の辺りがソワソワして、無意識のうちに右手が首元のストップウォッチを探して宙を掻く。

 

『今、どのくらいのペースだろう?』

『百メートルを何秒で入っているんだろう?』

『こんな軽い足取りで、本当にトレーニングになっているのか?』

 

 頭の中で、いつもの焦燥感が鎌首をもたげた。レースで突き付けられた惨めな数字が脳裏に浮かぶ。

 明後日の追い切りでタイムを出さなければ、土曜日の出走枠すら危うくなるかもしれないという恐怖。そして、今この瞬間にもどこかで猛特訓をしているであろう、あの特別な同期たちの幻影。

 

 気がつくと、私の右肩がぐっと持ち上がり、歩幅が勝手に広がり始めていた。呼吸が浅くなり、両手の拳が親指を中に巻き込んで固く握りしめられる。足首の奥が、警告するようにチクリと疼いた。

 

「――ああ、まただ」

 

 私は走りながら、小さく唇を動かした。昨日までの私なら、ここで――、

 

「もっと気合を入れろ!」

「雑念を振り払え!」

 

 と自分を怒鳴りつけ、さらに無理やり地面を蹴りつけていただろう。けれど今朝の私は、室長が窓の外を指差して言った言葉を思い出していた。

 

『不安が来たなら、「ああ、今、私の空に不安という雲が来たな」と、ただそばに置いて眺めていればいい。追い払わなくても、手出しさえしなければ、雲はやがて勝手に風の向こうへと流れていくよ』

 

 私は焦りを無理に消そうとするのをやめた。

 

(ああ、私は今、タイムが分からなくて怖いんだな。土曜日に負けるのが嫌で、誰かに置いていかれるのが寂しくて、胸の奥がこんなにも震えているんだな)

 

 ただ、そうやって自分の心の中に浮かんだ黒い雲を、一歩離れた場所から静かに見つめてみた。責めもせず、言い訳もせず、そこにあるんだね、と認めてやった。

 

 そして私は、走りながら一度、深く、お腹の底まで朝の空気を吸い込んだ。

 

 ひとつ、息を吸って。

 

 ひとつ、上がった右肩の力を、ストンと抜いて。

 

 固く握りしめていた両手の拳を、体側でそっとほどき、指先を緩めた。

 

 ふぅーっ、と長く白い息を吐き出した、その瞬間だった。まるで背中から見えない鉛のリュックサックが滑り落ちたみたいに、視界がふっと一段高くなり、身体の芯から余計な力みが消えた。

 

 タタッ、タタッ、タタッ。

 

 不意に、身体のリズムが変わる。

 

 地面を力任せに踏み潰して跳躍するような、借り物の大股のストライドではない。着地した足が、芝の葉先が折れるよりも早く、次の瞬間にはもう前へと送り出されている。接地時間が極端に短く、膝から下がまるで車輪のように滑らかに回転する、私自身の小さな体格に最も適した高速のピッチ走法。

 

 室長が、春の小川を滑る木の葉みたいだ、と言ってくれた、あの入寮当時の私本来のリズムが、誰に強制されるでもなく、足の裏から自然と湧き上がってきたのだ。

 

「……っ、あ……」

 

 驚きの声が、風に溶けた。全然、苦しくない。あれほど重かった太ももの裏側が、まるで羽でも生えたみたいに軽い。それどころか、自らの両手を塞いでいた、

 

「勝たなきゃいけない」

「誰かにならなきゃいけない」

 

 という重荷を手放して、手を空っぽにしてみた瞬間――今まで私の前を素通りしていた世界の輪郭が、信じられないほど鮮やかに五感へと流れ込んできた。

 

 風が、匂っていた。

 

 夜露に濡れた若い芝の青臭い香りと、コースの向こうの桜並木から運ばれてくる、少しだけ湿った花びらの甘い匂い。

 頬を撫でていく朝の風は、ひんやりとしていながらも、その奥に確かな春のぬくもりを孕んでいた。風の温度というものを、私はここ数ヶ月、一度だって肌で感じたことがなかったのだ。

 

 頭上の朝霧が、昇り始めた朝日の光に照らされて、金色の粒子となってみるみるうちに晴れていく。

 遠くの空で、ヒバリがチチチ、と高く澄んだ声で鳴いていた。

 自分の肺が膨らみ、新鮮な酸素が毛細血管の隅々まで巡っていく温かさ。心臓がトクトクと規則正しく命の拍動を刻む音。

 

 昨日の敗北は、もうここにはない。土曜日のレースも、まだここにはない。

 

 昨日も明日も、今ここには存在しない。ただ、この一呼吸、この一歩の芝の柔らかさの中にだけ、私の命は確かに生きていた。

 

■

 

 気がつけば、私は走りながら笑っていた。

 

 誰かに勝ったわけでもない。タイムが縮まったかどうかすら分からない。それでも、ただ自分の足で風を切って走っているという、ただそれだけの事実が、胸がいっぱいになるほど嬉しくて、たまらなく愛おしかった。

 

(ああ、そうだ。私は、誰かに名前を呼ばれたくて走り始めたんじゃなかった。故郷の野原で、ただ風と追いかけっこをするのが楽しくて、走るのが好きでたまらなかったから、この学園に来たんだ)

 

 千六百メートルを走り終え、ゆっくりと足を止めたとき、私の額には心地よい汗が滲んでいた。荒い酸欠の喘ぎ声ではなく、深く澄んだ呼吸を繰り返しながら、私は朝日を浴びて輝く緑のターフを、まるで初めて見る景色のようにいつまでも見つめていた。

 

■

 

 心の扉にかけていた重い閂が外れると、不思議なことに、自分の走りだけでなく、普段見ている学園の景色までが少しずつ姿を変え始めた。

 

 水曜日の午後、全体練習の合間のことだった。ウエイトトレーニング室のベンチでタオルを使って汗を拭いていた私は、隣のレーンでバーベルを睨みつけているひとりのウマ娘に気がついた。

 

 同じ未勝利クラスで、先週の土曜日の第2レースでも一緒に走っていた鹿毛の子だ。あの時は四着に入って掲示板に載っていたから、私は彼女のことを、

 

「私より上の場所にいるライバル」

「引きずり下ろさなければならない敵」

 

 だとばかり思っていた。けれど、少し離れた場所から静かな心で彼女を見てみると、今まで見えていなかったものが目に入る。

 

 彼女のジャージのポケットからは、角がボロボロになるまで読み込まれた小さなメモ帳が覗いていた。そして、バーベルを握る彼女の指先にはいくつものマメが潰れたのだろう、絆創膏が巻かれていた。なによりその横顔は、かつての私と全く同じように、ここで負けたら終わりだという悲壮な恐怖で張り詰めていたのだ。

 

「……あの子も、同じなんだ」

 

 胸の奥が、きゅっと小さく痛んだ。きっと、彼女だけではないんだろう。コースの向こうで、GⅠを目指して激しい併せを行っている一軍のスター選手たちでさえ、走り終えたあとに膝に手をつき、誰も見ていないところで不安そうに自分の足首をさすっている瞬間があった。

 

 私は今まで、

 

「自分だけが苦しい」

「あの子たちは特別で、私とは違う世界の住人だ」

 

 と決めつけ、自分の正しさや劣等感だけを握りしめて、勝手に周囲に壁を作っていた。   

 けれど、一歩離れて眺めてみれば、敵も味方も、光の中にいる子も影の中にいる私も、みんな同じひとつのターフの上で、同じように傷つき、同じように震えながら走っている命にすぎなかったのだ。

 

「ドリンク、余ってるけど飲む?」

 

 気がつくと、私は立ち上がって、隣のベンチで肩で息をしていた鹿毛の彼女にスポーツドリンクのボトルを差し出していた。彼女は驚いたように目を丸くして私を見上げ、それから張り詰めていた頬の筋肉をふっと緩めて、

 

「……ありがとう」

 

 と小さく笑った。―――誰か、を敵と見做して警戒するのをやめただけで、世界がこんなにも柔らかく、温かい場所になるなんて知らなかった。

 握りしめていた拳を開いて心を空っぽにしたからこそ、そこに他人の痛みや優しさが入り込む隙間が生まれたのだと、私はぼんやりと理解し始めていた。

 

■

 

 木曜日の最終追い切りでも、その変化は続いた。

 

 朝の芝コースで、担当トレーナーがストップウォッチを片手に柵の向こうに立っている。よく見れば、彼の目の下にはうっすらと寝不足の隈が浮かんでいた。小脇に抱えた分厚いバインダーには、十数人分の担当ウマ娘それぞれの適性や体調を分析した色とりどりの付箋が、ハリネズミのようにびっしりと貼られている。

 

 先日の敗戦のあと、彼が「もう少し短いダートのレースも検討してみるよ」と言ったのは、私を適当にあしらったからではなかったのだ。何とかして私に一勝を挙げさせてやろうと、夜遅くまで頭を悩ませてくれていたのだと、今さらながらに気づいた。

 

「よし、じゃあ千二百メートル、単走で行こうか。土曜日の第3レースに向けて、最後は無理せず流す感じでいいからな!」

 

 柵の向こうから飛んでくるトレーナーの声に、私は、

 

「はいっ!」

 

 と大きく頷いた。彼に対する後ろめたさも、見捨てられるかもしれないという怯えも、もう、心のどこにも存在し得なかった。自分を苦しみから解き放つということは、周りにいる人たちの不器用な愛を、そのまま受け取れるようになるということでもあったのだ。

 

■

 

 私はスタート地点に立ち、ひとつ息を吸って、ひとつ肩の力を抜いた。

 

 そして、春の風の中へと滑り出した。誰の真似でもなく、一歩の幅は小さくとも、小川の水面を撫でるように軽やかで、途切れることのない私だけのリズム。

 

 コースの芝を毎朝早くから刈り揃えてくれる造園スタッフのおじさんたちのこと。私の右足首の癖に合わせて、水曜日にミリ単位で蹄鉄のバランスを削り直してくれた装蹄師さんのこと。そして、柵の向こうで身を乗り出してくれているトレーナーのこと。

 

 たくさんの手と、たくさんの命が響き合って、今の私のこの一歩を支えてくれている。私は最初から、ひとりぼっちなんかじゃなかったのだ。

 

 ゴール板を駆け抜け、ゆっくりとキャンターで引き返してくると、トレーナーが自分の手元のストップウォッチと私の顔を交互に見て、信じられないものを見るように目を瞬かせていた。

 

「……今、最後の一ハロン、どこも力んでなかった。入寮した頃の一番良かった時のフォームに……いや、それ以上に滑らかになってるじゃないか! 右足首の違和感はどうなんだ?」

「はい、もう全然痛くありません。すごく気持ちよく走れました!」

 

 私が笑顔で答えると、トレーナーはしばらく呆気にとられたように口を開けていたが、やがて破顔してバインダーをポンと叩いた。

 

「よしっ、これならダートに替える必要はないな! 土曜日の第3レース、前走と同じ芝千六百メートルで行こう。今のそのリズムなら、勝ちも狙えるぞ!」

 

「はい! ありがとうございます!」

 

 頭を下げた私の胸の奥には、かつてのような悲壮な気負いではなく、静かな湖の水面のような澄み切った感覚が広がっていた。

 

■

 

 そして迎えた金曜日の夕方。レース前日だ。

 

 私は売店で買った小さな焼き菓子の袋を手に、再び北校舎の旧館、四階の一番奥にある『レース史料編纂室』の扉を叩いた。

 

「――どうぞ。相変わらず鍵はかかっていないよ」

 

 扉を開けると、五日前と寸分違わぬ光景がそこにあった。山積みの年鑑と資料の海に囲まれ、西日を浴びながら回転椅子に深く身を沈めた室長が、湯気の立つティーポットを片手にこちらを見ている。

 

 机の上から足を下ろすのだけは、今回は事前に間に合ったらしい。

 

「やあ、いらっしゃい。また生徒会長のお使いかい?」

「いえ、今日は自分の足で来ました。これ、この前のお茶のお礼です」

 

 私が焼き菓子の袋を机の上に置くと、室長は、

 

「おや、これは嬉しいね。ちょうど甘いものが切れていたところなんだ」

 

 と相好を崩し、手慣れた手つきで二人分の紅茶を淹れてくれた。向かいのパイプ椅子に私が腰を下ろすまでの、ほんの数歩の動き。それを見ただけで、室長は満足そうに目を細め、ふっと息を吐いた。

 

「……どうやら、小鳥が自分の歌い方を思い出したらしいね」

「え……分かりますか?」

「分かるさ。床を踏む靴音から角が取れて、水の音みたいに静かになった。右肩の力みも消えているし、何より、今の君はちゃんと『こ(・)の(・)部(・)屋(・)の(・)中(・)』にいて、目の前の紅茶の香りを楽しんでいる」

 

 私は照れくさくなって、白いカップを持ち上げた。一口飲むと、ジャスミンの香りと蜂蜜の甘みが、五日前よりもさらに深く、優しく身体に染み渡っていく。

 

「室長さんに言われた通り、ストップウォッチを置いて、朝のコースを走ってみたんです」

 

 私はカップを両手で包みながら言った。

 

「最初は怖かったですけど……握りしめていたものを手放してみたら、自分がどれだけ走るのが好きだったか、やっと思い出せました。それに、周りの子やトレーナーさんのことも、前よりずっと好きになれた気がします」

「結構なことだ。私が教えたんじゃない、君が元々持っていたものを、君自身が見つけ出しただけさ」

 

 室長は焼き菓子の包みをひとつ開け、クッキーを口に放り込みながら言った。

 

「人(・)間(・)の(・)心(・)というのはね、両(・)手(・)と(・)同(・)じ(・)なんだ。ガラクタや石ころを両手いっぱいに握りしめていたら、誰かと手を繋ぐことも、誰かから差し出された花を受け取ることもできないだろう? 両の手を思い切って空っぽにしたからこそ、そこを新しい風や、誰かへの愛着で満たすことができるんだよ」

 

 私は頷き、それからカップの中の琥珀色の水面を見つめて、少しだけ声を落とした。

 

「……あの、室長さん。明日の午前十時四十分から、私のレースなんです。土曜日の第3レース、芝千六百メートルです」

「ふむ。いいレースじゃないか」

「今はこうして落ち着いていますけど……明日、いざゲートの中に入って、隣の枠から他の子たちの荒い息遣いが聞こえてきたら。最後の直線で、後ろから足音が迫ってきたら……私、また『負けたくない』『怖い』って、パニックになってしまうかもしれません。せっかく澄んだ水が、また泥だらけに濁ってしまうんじゃないかって、それだけが少し心配で……」

 

 正直な気持ちだった。練習コースの朝霧の中では手放せた執着も、実際のレースという極限の戦場に放り込まれたとき、本当に手放したままでいられるのか、まだ完全な自信は持てなかったのだ。

 

 すると室長は、紅茶を一口啜り、実に何でもないことのように肩をすくめた。

 

「濁ったってい(・)い(・)じゃないか。怖くなったら、思いきり怖がればいいんだよ」

「え……?」

「お嬢さん、心を静かに保つというのはね、ロボットみたいに何の感情も持たない石ころになることじゃないんだ。レースに出れば、勝ちたいと思うのも、抜かれたくないと焦るのも、足が痛くて泣きたくなるのも、生きている人間なら当たり前の反応さ」

 

 彼は机の上に肘をつき、穏やかな、けれど底知れない深さを持った瞳で私を見た。

 

「怒りが来たなら、ただ深く息をすればいい。悲しみや恐怖が来たなら、『ああ、また来たね』とそばに置いて、涙も恐怖も全部連れたまま走ればいいんだ。空はどこまで行っても広いんだから、嵐だろうが雷だろうが、全部包んだまま飛ぶことができる。……苦(・)し(・)み(・)を(・)追(・)い(・)払(・)お(・)う(・)と(・)す(・)る(・)な(・)。苦しみの中にも、君が本気で生きているという光が宿っているんだからね」

 

 その言葉を聞いた瞬間、私の胸の中にあった最後の小さな引っかかりが、氷が水に溶けるように消えていった。

 

 怖がってもいいのだ。

 

 苦しくてもいいのだ。

 

 完璧な聖人君子になんてならなくていい。ただ、その恐怖や苦しみすらも自分の一部として抱きしめながら、今この瞬間の風に身を委ねて走ればいい。

 

「……はい。なんだか、すごく楽しみになってきました」

 

 私が顔を上げて微笑むと、室長はボサボサの髪を掻きながら、少しだけ眩しそうに目を細めた。

 

「やれやれ、明日の午前中は休日出勤で、この部屋の整理でもしながら昼寝を決め込むつもりだったんだがね。……仕方がない、ラジオのスイッチくらい入れてやるとしようか」

「本当ですか!?」

「ただし、勝とうが負けようが、私からはお祝いの言葉も慰めの言葉も期待しないでくれよ。私はただの記録係で、君が無事に走って、またここにお茶菓子を持ってきてくれれば、それで十分なんだから」

 

 憎まれ口を叩きながらも、彼の声はどこまでも優しかった。私はカップに残った最後の一口の紅茶を飲み干し、立ち上がって深く一礼した。

 

■

 

 史料室を出て、旧館の階段を下りていく私の足取りには、もう五日前のような重さも、足首の痛みもなかった。開け放たれた踊り場の窓から、明日のお天気を約束するような、澄み切った夕暮れの風が吹き込んでくる。

 

 私は立ち止まり、ひとつ息を吸って、ひとつ力を抜いた。

 

 ―――明日、私はレースを走る。特別な名前も、華やかな勝負服も持たない、ただの私のままで。

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