資料室の安楽椅子 作:SAK0011
午前十時四十分のファンファーレが、土曜日の高い青空へと吸い込まれていく。
一週間前と同じ、スタンドの半分以上が空席のままのプラスチック椅子。うどんを啜る観客の話し声や、新聞が風にめくれる乾いた音がまばらに響く、土曜日の第3レース、三歳未勝利戦、芝千六百メートル。
けれど、本バ場の芝を踏みしめる私の目には、先週とはまるで違う色の世界が広がっていた。
少し前、地下道の入り口で私を送り出してくれた担当トレーナーの手は、わずかに汗ばんで震えていた。
私はその時、ふと思ったのだ。
形あるものは、いつか必ず変わっていくと。ウマ娘には在籍期限があって、結果がどうあれ、今こうして同じクラスでひしめき合っている仲間たちとも、寝不足の目でバインダーを抱えているこのトレーナーとも、いつかは別れる日がやってくる。
永遠に続く時間なんてどこにもない。終わりがあるからこそ、こうしてターフへと送り出してもらえる「今日」という一日が、こんなにも眩しくて、胸が苦しくなるほど尊いのだ。
「トレーナーさん」
地下道を出る直前、私は立ち止まって彼を振り返り、真っ直ぐに頭を下げた。
「私を見つけてくれて、今週ずっと私の足に合わせてメニューを組んでくれて、本当にありがとうございました。……私、今日、ここで走れることがすごく嬉しいです」
トレーナーは虚を突かれたように目を丸くし、それから顔をくしゃりと歪めて、照れ隠しのようにつばの広い帽子を深く被り直した。
「……馬鹿野郎、礼を言うのは勝ってからにしろ。……いや、違うな。とにかく、無事に帰ってこい。お前のリズムで、気持ちよく走ってこい!」
背中をポンと叩かれた感触が、今も汎用レーシングユニフォームの布地越しに温かく残っている。私は促されるままに、六番のゲートへと歩み寄った。
■
ガシャン、と背後で鉄格子が閉まる。
狭い枠の中。すぐ隣の五番ゲートからは、水曜日にトレーニング室でスポーツドリンクを分け合った、あの鹿毛のウマ娘の荒い息遣いが聞こえてきた。反対側の七番ゲートからは、まだあどけない顔をした栗毛の子が、恐怖を振り払うように小さく靴底で地面を鳴らしているのが伝わってくる。
かつての私なら、この鉄格子の檻の中で、彼女たちを私の椅子を奪う敵だと見做して歯を食いしばっていただろう。
けれど今、目を閉じて耳を澄ませてみれば、隣のゲートから伝わってくる震えも、心臓の鼓動も、すべてが自分の胸の音とひとつのリズムで繋がっているように感じられた。
(そっか、私は、ひとりじゃないんだ)
このゲートの中にいる十六人も、スタンドの片隅で見守ってくれているわずかな観客も、朝早くから芝を整えてくれた人たちも、そしてきっと今頃、北校舎の古い部屋でラジオのスイッチを入れているであろうあの怠け者の記録係も。
すべての命が、この午前十時四十分のターフの上で、目に見えない糸となって静かに響き合っている。
私はゲートの中で、ゆっくりと瞼を開けた。
ひとつ、息を吸って。
ひとつ、肩の力を抜いて。
白と紺のユニフォームの胸元を掴んでいた指先をそっとほどき、握りしめていたものをすべて、ゲートの上を吹き抜ける春の風へと返した。
――その瞬間。
ガシャン! と重い鉄扉が弾け飛んだ。
■
十六人の塊が、緑の絨毯の上へと一斉に解き放たれる。前のめりに飛び出していく先行勢の激しい蹄鉄の音を聞きながら、私は焦ることなく、自分の小さな足裏が芝生を捉える感触だけに意識を澄ませた。
タタッ、タタッ、タタッ。
一歩目から、驚くほど滑らかに身体が前へと滑り出した。誰かの真似などではなく、大鷲の翼を持たない私が、私のままで空を飛ぶための、小刻みで軽やかなピッチ走法。
靴底が芝の葉先を撫で、接地した瞬間にはもう次の足が前へと送り出されている。春の小川の水面を滑る一枚の木の葉のように、私は先頭集団から少し離れた中団の七番手あたりで、風の通り道を見つけるようにスッと折り合いをつけた。
向こう正面の直線。千メートル通過の標識が、視界の端を後ろへと流れていく。周囲のウマ娘たちの荒い呼吸と、飛び散る土くれが顔の横を通り過ぎる。
「前が速い」
「このままじゃ届かないかもしれない」
という計算が、焦りと、闘争心と共に一瞬だけ頭をよぎった。
(落ち着け、私。そう、全部、受け入れる)
ただ、今この瞬間に自分の肺へと流れ込んでくる風の冷たさと、トクトクと全身へ血を送り出す心臓の温かいリズムだけを味わう。苦しくない。まだ、どこも力んでいない。前との距離も離れてはいない。
なら、焦る必要は何もない。
ただ、息を吸って、ただ、肩の力を抜いて―――。
■
第3コーナーから、第4コーナーへ。先頭集団の足色が鈍り始め、バ群が大きく波打ちながら外側へと広がっていく。
隣を走っていた五番の鹿毛の彼女が、歯を食いしばってスパートをかけるのが見えた。そのすぐ内側から、私もまた、自然な体重移動とともに回転数を上げた。
コーナーを回りきる。目の前に、最後の直線四百メートルが、眩しい光の帯のように開けた。
「――っ、いけぇっ!」
誰かの叫び声が風に千切れた。残り三百メートル。先頭を行く二人を捉え、五番の鹿毛の彼女と私が、ほぼ同時にバ群の中から抜け出した。先週のレースで、私の足が鉛のように止まった魔の地点が近づいてくる。
緊張からか、焦燥感からか、私の心臓がドクン、と大きく跳ねた。
『――怖い』
それまで軽やかだった太ももの裏側に、突如として焼けつくような乳酸の重みが雪崩れ込んできた。肺が酸素を求めて激しく痙攣し、喉の奥から鉄錆のような血の味がせり上がってくる。
すぐ真横では、鹿毛の彼女が悲鳴のような喘ぎ声を上げながら、必死に腕を振って私より半歩前へと出た。後ろからは、追い込み勢の重く激しい蹄音が、地面を揺らしてすぐ背中まで迫ってきている。
『――抜かれたくない! ここで負けたら、また先週と同じだ!』
胸の奥底から、嵐のような感情が噴き上がる。息が詰まる。視界が揺れる。右肩が勝手に跳ね上がり、指先が再び固い拳を作ろうとして震えた。
けれど、不思議なもので。
その激しい恐怖と痛みの真ん中で、私の耳には、あの夕暮れの史料室で聞いた穏やかな声が、はっきりと響いていた。
『怒りが来たなら、ただ深く息をすればいい。悲しみや恐怖が来たなら、「ああ、また来たね」とそばに置いて、涙も恐怖も全部連れたまま走ればいいんだ』
私は走りながら、焼けつく肺の奥底まで、大きくひとつ息を吸い込んだ。
(ああ、痛いね。苦しいね。負けたくなくて、こんなにも胸が張り裂けそうなんだね)
そして、上がった右肩の力を抜き、握りかけた拳を風の中でそっと開いた。
ふぅーっ、と熱を持った息をすべて吐き出した、その刹那だった。
「勝ちたい」
という渇きも、
「負けたらどうしよう」
という怯えも、
「特別な誰かになりたい」
という執着も。私を縛りつけていたすべての重荷が、まるで最初から存在しなかった幻のように、春の光の中へと溶けて消えた。世界から、雑音が消える。代わりに、透き通ったひとつの音楽が聞こえる。
残り二百メートルの坂を駆け上がる、自分のタタッ、タタッという軽やかな足音。
隣を走る鹿毛の彼女の、命を振り絞るような熱い息遣い。
ターフの芝が一本一本、靴底の下でしなって跳ね返る緑の弾力。
空を渡る風の匂い。
そこにはもう、勝者も敗者もいなかった。特別なスターも名もなきモブもなかった。ただ、この広い空の下で、自分の持てるすべてを尽くして風と踊っている、尊い命のきらめきだけがあった。
(―――あ、そっか)
私は、遠くのGⅠの大舞台へ行かなくてもよかったのだ。何万人もの大歓声に名前を呼ばれなくても、歴史の年鑑に太字で刻まれなくても、私と言うウマ娘は何ひとつ欠けてはいなかった。
今、この瞬間のターフの上――『ここ』こそが、私が目指していた場所そのものだったのだ。
隣を走っていた鹿毛の彼女の横顔が、スローモーションのように後ろへと流れていく。
私の小さな歩幅が、誰よりも速く、誰よりも軽やかに、最後の五十メートルの芝生を撫でるように駆け抜けた。
目の前に、白いゴール板の影が迫る。
私は天を仰ぐことも、拳を突き上げることもせず、ただ深く澄んだ一呼吸とともに、その白いラインを静かに駆け抜けた。
■
惰性で百メートルほど走り、ゆっくりとペースを落として足を止めたとき、止まっていた世界の音が、潮騒のように再び耳へと戻ってきた。
ワァッ、という、まばらだけれど温かい拍手と歓声。
荒い息を整えながら振り返ると、すぐ後ろで足を止めた五番の鹿毛の彼女が、膝に手をついて肩で息をしているのが見えた。そして、青空の下にそびえ立つ巨大なターフビジョンに、赤いデジタル数字が次々と灯っていく。
一着、六番。
二着、五番。
その一番上の場所に、私の胸にあるのと同じ「六番」という数字が、静かに誇らしげに輝いていた。
初めての、一着だった。あれほど喉から手が出るほど欲しくて、そのために自分の足を壊しかけてまで追い求めた「勝利」という名の数字。
けれど、それを見上げた私の胸にあったのは。ただ、お風呂上がりに冷たい水を飲んだときのような、どこまでも澄み切った、静かで温かい充足感だけだった。
「……っ、はぁ、はぁ……負けたぁ……」
背後から、悔しそうに、けれどどこか憑き物が落ちたような声が聞こえた。五番の鹿毛の彼女が、汗びっしょりの顔でよろよろと歩み寄ってきて、私の隣に立ち止まった。
「最後の百メートル、あなた、まるで風が吹いたみたいにスーッて伸びていった……。全然、足音が聞こえなかったよ。……おめでとう」
彼女が差し出してくれた泥だらけの右手を、私は両手でしっかりと握り返した。
「ありがとう。あなたが隣で並走してくれたから、私、最後まで走れたよ」
心の底からの言葉だった。彼女がいてくれたから、あの苦しい坂の途中で、私は限界の向こう側へと足を踏み出すことができたのだ。鹿毛の彼女は少しだけ照れたように鼻をすすり、
「次は負けないから」
と笑った。私も
「うん、また一緒に走ろうね」
と笑い返した。地下道へと引き上げていく途中、柵の向こうで、担当トレーナーがバインダーを胸に抱きしめ、帽子のつばの奥で目を真っ赤にしながら何度も何度も頷いているのが見えた。
私の名前は、ぜいぜい、明日のスポーツ新聞で小さな活字でしか載らないだろう。百年後の年鑑を開いても、ただのインクの染みにすら、ならないだろう。
それでも、今この瞬間、私の目の前にはこんなにも温かい笑顔があって、胸の奥には消えない光が灯っている。それ以上の特別な何かを、いったいどこに探す必要があるというのだろう。
■
週が明けた月曜日の放課後。
私は少しだけ奮発して買った駅前の老舗のリーフパイと、小さな缶に入った極上のジャスミン茶葉を紙袋に入れて、北校舎の旧館へと向かった。
石造りの階段を四階まで上り、半分だけ蛍光灯の点いた廊下を歩いていくと、前方から、カツ、カツ、と規則正しい革靴の音を響かせて歩いてくる長身の人物とすれ違った。生徒会役員章をつけた、生徒会長だった。おそらく、史料室にまた何か書類でも置いてきた帰りなのだろう。
私は慌てて廊下の端に寄り、立ち止まって深く一礼した。生徒会長も足を止め、私の顔と、その足元のローファーを静かに見つめた。今の私の靴には、もう不自然な型崩れはどこにもない。
「……土曜日の第3レース、見事な走りだったそうだな」
「え……っ、ご存じなんですか!?」
「ああ。風の噂でね。春の小川を滑るような、実に美しいピッチ走法だったと聞いたよ」
生徒会長は黄金色の瞳をわずかに細め、どこか悪戯っぽく口角を上げた。
「どうやら、あの昼行燈の淹れるお茶も、たまには役に立つらしい。……これからまた、たくさんのレースが君を待っているだろうが、今の君ならもう、自分の走りを見失うことはあるまい」
「はいっ。あの……生徒会長、あの時は、本当にありがとうございました!」
私がもう一度深く頭を下げると、彼女は、
「礼なら、中で居眠りしている男に言ってやりなさい」
とだけ言い残し、颯爽と階段の方へと去っていった。私は顔を上げ、廊下の一番奥にある『レース史料編纂室』の傾いた真鍮プレートの前に立った。
コンコン、と扉を叩く。しかし、中からは何の返事もない。
「……室長さん? 入りますよ」
真鍮のノブを回して扉を押し開けると、西日が差し込む金色の塵の向こうで、案の定というべき光景が広がっていた。
書類の山の真ん中。革張りの回転椅子に深く身を沈めた室長が、机の上に組んだ両足を乗せ、顔の上に開いたままの古い年鑑を屋根のように乗せて、すうすうと気持ちよさそうな寝息を立てていたのだ。
机の隅には、年代物の小さな携帯ラジオが置かれており、そのチューニングの針は、土曜日の競馬中継が流れる周波数にぴたりと合わされたままになっていた。
私は思わず吹き出しそうになるのを堪え、足音を忍ばせて机の前まで歩み寄った。そして、紙袋から取り出したリーフパイの箱と茶葉の缶を、机の空いているスペースへと、コツン、と音を立てて置いた。
「……んあぁ? ……ああ、地震かい?」
顔の上の年鑑がずり落ち、室長が目をしばしばさせながら間抜けな声を上げた。そして目の前に立っている私に気づくと、
「おや」
と目を丸くし、慌てて机の上から足を下ろそうとして――やっぱり、ゴン、とくるぶしを机の角に思いきりぶつけた。
「……イテテ。やれやれ、歴史は繰り返すというが、私の学習能力のなさも相当なものだな」
涙目になりながらボサボサの黒髪を掻く彼を見て、私は今度こそ声を上げて笑ってしまった。
「こんにちは、室長さん。約束通り、お茶菓子を持ってきましたよ」
「やあ、いらっしゃい。……ふむ、リーフパイに新しい茶葉とは、ずいぶん奮発したじゃないか。どうやら土曜日は、無事にゴールまで辿り着けたらしいね」
彼は立ち上がって電気ケトルのスイッチを入れると、私の顔をちらりと見て、あえて着順には一言も触れずに微笑んだ。私もまた、一着でした、とはあえて言わない。彼にとっては、そして今の私にとっても、一着という数字はただの結果のおまけにすぎないことを、お互いによく分かっていたからだ。
「はい。少しだけ足が重くなって、途中で怖くなりましたけど……室長さんの言った通り、恐怖も涙も全部連れて走ったら、最後の直線で、すごく静かで綺麗な場所に出られたんです」
「ほう。それはよかった」
「遠くの特別な場所へ行かなくても、私の探していたものは、最初からあのターフの上の、自分の胸の中にあったんだって……走っている最中に、なんだかすごくよく分かりました」
室長はガラスのティーポットに新しい茶葉を落としながら、
「やれやれ」
と嬉しそうに肩をすくめた。
「それを自力で体感できたのなら、もうこの部屋の退屈な記録係から君に話すことは何ひとつないよ。……本来なら、何十年も山に籠もって難しい本を読んでいる連中が、一生かかっても辿り着けないような場所なんだがね。やっぱり、自分の足で風の中を走っているウマ娘には敵わないな」
トクトク、と琥珀色のお茶がふたつの白いカップに注がれる。甘いアカシアの蜂蜜をひとさじ落とし、彼は私の前にカップを置いた。
開け放たれた西向きの窓から、夕暮れの春の風がふわりと吹き込み、机の上の古い書類の端を優しく揺らしていく。遠くのグラウンドから、下校前のトレーニングに励むウマ娘たちの元気な掛け声と、芝を蹴る軽やかな蹄の音が、風に乗って微かに届いてきた。
私は白いカップを両手で包み込み、ひとつ息を吸って、ひとつ肩の力を抜いた。
明日になれば、また新しいレースに向けた日々が始まる。クラスが上がれば、もっと強い相手と走ることもあるだろう。また思い通りにならない日々にぶつかって、心に黒い雲が浮かぶ夜だってきっと来る。
(けれど、きっともう大丈夫だ)
雲の向こうには、いつだってこんなにも広くて静かな空があることを、私はもう知っているのだから。
「いただきます、室長さん」
「ああ、どうぞ。冷めないうちにね」
名もなき私と、名もなき記録係の室長は、夕映えの差し込む古い部屋の窓辺で、ただ静かに、温かい茉莉花茶の湯気を見つめていた。