資料室の安楽椅子 作:SAK0011
本館三階にある生徒会室は、北校舎の薄暗い史料編纂室とは違い、磨き上げられたマホガニーの調度品と、整理整頓された書類棚が整然と並ぶ、いかにも権威ある空間だった。
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窓の外がすっかり茜色に染まった火曜日の放課後。
普段ならテコでも自分の部屋から動かない私が、わざわざ重い腰を上げてこんな場所まで歩いてきたのには、ささやかな理由があった。
「やあ、ご苦労さま。相変わらず、学生の本分を超えた決済書類の山と格闘しているようだね」
ノックもそこそこに扉を開けて入っていった私を見て、執務机の向こうで万年筆を走らせていた生徒会長――シンボリルドルフは、驚いたようにペンを止め、それからすぐに面白そうな笑みを浮かべた。
「これは珍しいこともあるものだ。史料室の地縛霊ともあろう者が、自ら本館の階段を上ってくるとはね。明日は槍でも降るのかな?」
「人聞きの悪いことを言わないでくれよ。私はただ、ゴミの分別に来ただけさ」
私は小脇に抱えていた角の擦り切れた茶封筒から、緩衝材代わりに詰め込まれていた先週のスポーツ新聞の束を取り出し、彼女の立派な執務机の端へとわざとらしく積み上げた。
そしてその隣に、昨日あの子が置いていった老舗のリーフパイをふたつ、駄賃とばかりに添えておく。
「まったく、いきなりなお客様だったよ。紹介状の厚みを偽装するために古新聞を詰めるなんて、生徒会長ともあろう者がずいぶん安上がりな工作をしたものだ。おかげで私の貴重な昼寝の時間が、丸々一週間分も削られてしまったじゃないか」
ボサボサの黒髪を掻きながら愚痴をこぼす私に、ルドルフは組んだ両手の上に顎を乗せ、瞳を細めて悪戯っぽく微笑んだ。
「君なら放っておかないと思ってね。ふふ、結果として、土曜日の第3レースは見事な走りだったではないか。私の目に狂いはなかったというわけだ」
「たまたまさ。あの子が素直で、自分の足で立ち上がるだけの強さを元々持っていたからだよ。私がやったことといえば、お湯を沸かして茶葉を蒸らしたくらいのものだ」
「その一杯のお茶を淹れるタイミングこそが、誰にも真似できない技術なのだけどね? 当時の私が、どれほどその湯気に救われたか」
ルドルフは懐かしむように目を細め、立ち上がって部屋の隅にあるティーセットへと歩み寄った。手慣れた所作でポットにお湯を注ぐ彼女の広い背中を見つめながら、私は革張りの来客用ソファにだらりと身を沈め、深いため息をついた。
「……ルドルフ、まったく君は昔から無茶ばかりを私に投げてくる。現役時代からちっとも変わっちゃいない。いったい私をなんだと思っているんだい?」
湯気の立つカップをふたつ盆に乗せて戻ってきた彼女は、私の前にそのひとつを置き、涼しい顔でこう答えた。
「偏屈者で、面倒臭がりな名トレーナー、かな」
「買い被りすぎだね、いったいどこの誰のことだいそれは」
私は苦笑いを浮かべて手を振った。
「人違いも甚だしいよ。今の私はね、日当たりのいい部屋の隅っこで、紅茶にブランデーでもたっぷり入れて飲みながら、百年前の古い歴史書をめくることだけを生きがいにしている、ただの無害な史料室長だよ。……もっとも、ここは健全な教育機関だから、ブランデーの代わりにアカシアの蜂蜜で我慢させられているのが目下の最大の不満なんだがね」
「はは、違いない。君の部屋から酒の匂いが漂ってきたら、いくら私でも庇いきれないからな」
ルドルフは自分の席に戻ると、私が置いていったリーフパイの包みを手に取り、満足そうに頷いた。そして、カップの縁から立ち昇る湯気の向こう側で、かつて私と共にいくつもの過酷なGⅠのターフを駆け抜けた頃と変わらない、真っ直ぐで力強い光を瞳に宿して言った。
「まぁ、そう邪険にするな。たとえ君がどれほど昼行燈を気取って書類の山に隠れようとも、我々はいまだ君のチームメイトだ。しばらくは、こちらのわがままに付き合ってもらうとも」
私はカップを持ち上げかけた手を止め、彼女の執務机の端――決済書類の山とは別に、少しだけ脇に避けて置かれている数冊のクリアファイルへとちらりと視線を滑らせた。そこにはおそらく、栄光の陰で人知れず靴底をすり減らし、自分の走りを見失いかけている別のウマ娘たちの記録が挟まっているのだろう。
「……やれやれ。年金暮らしの隠居老人を引っ張り出すような真似は感心しないな。で、少しは手加減ぐらい期待してもいいのかな? 皇帝陛下」
肩をすくめて軽口を叩いた私に、ルドルフはカップを傾けながら、実に不敵で、それでいてどこまでも優雅な笑みを返してきた。
「君の出方次第だよ」
その返答に、私は今度こそ降参したように小さく笑い、目の前の紅茶を一口啜った。
ルドルフの淹れる紅茶は、茶葉の分量から蒸らし時間まで完璧に計算されていて、私の淹れるいい加減なお茶よりもずっと上品な味がした。けれど、やっぱり少しだけ蜂蜜が足りないな、出来ればやはりブランデーの一垂らしは欲しい、と私は心の中でひとりごちた。
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開け放たれた生徒会室の窓の向こうでは、夕暮れの風の中を、明日のレースを夢見る無数のウマ娘たちが駆けていくのが見えた。
(彼女たちが選び取る道が、どうか少しでも穏やかで、心地よい風の吹くものでありますように)
―――そんな、柄にもない祈りを紅茶と一緒に飲み干して、私は自分の静かな部屋へと帰るために、ゆっくりとソファから立ち上がった。