MFG GREAT ––ナスカーの刺客–– 作:車っていいなって思うんすよね
ここまで一気に書きすぎて疲れました。
――箱根。
MFG第二戦、芦ノ湖GT。
ファイナルラップ。
濃霧に包まれたデスエリアで、片桐カナタは信じられない快進撃を見せていた。
前園和宏。
ベンジャミン・リヴィントン。
そして、赤羽海人。
並み居る強豪たちを次々と抜き去り、予選十番手から三番手へ浮上。
しかも、その三台を抜いたのは、前方の視界がほとんど失われた濃霧の中だった。
まるで、白い霧そのものを味方につけたかのような走り。
それは、世界中のMFGファンを驚愕させるに十分なものだった。
しかし。
その快進撃も、永遠に続くわけではない。
霧はいずれ晴れる。
雨も、すでに止んでいる。
そして、視界が回復した時。
圧倒的なパワーを誇るスーパースポーツたちが、再び牙を剥くことになる。
ライトニングレッドの86を追う、赤いフェラーリ。
さらに、その後方には。
アメリカからやってきた、ターコイズグリーンのマッスルカー。
ゼッケン283。
シボレー・カマロSS。
その運転席で、一人の青年が何とも言えない表情を浮かべていた。
「…………は?」
ベンジャミン・リヴィントン。
十九歳。
その若きレーシングドライバーが、今まさに困惑している理由。
それは、前方のフェラーリでもなければ、濃霧でもない。
『聞こえなかったの?』
片耳のヘッドセットから聞こえる、姉の声だった。
◇
「……いや、聞こえたけどよ」
『だったら、もう一度言う必要はないわね』
「いやいやいや!!」
ベンジャミンは、思わず声を上げた。
「姉貴! レース中だぞ!? 何言い出すんだよ!」
『だから、レースの話をしているのよ』
「……はあ!?」
『あなたの前を走っている赤羽海人。あの人を抜きなさいって言っているの』
実に、あっさりとした返答だった。
ベンジャミンは、思わず天を仰ぎたくなった。
しかし、今はレース中。
当然、そんなことはできない。
「……ったく」
小さくため息をつく。
「姉貴のそういうところ、マジで変わんねえな……」
『何か言った?』
「何でもねえ!!」
即答だった。
だが、その直後。
ベンジャミンの口元に、笑みが浮かんだ。
「……まあ、いいけどよ」
『あら?』
「どうせ、抜くつもりだったしな」
視線の先。
赤いフェラーリ488GTB。
ゼッケン2。
赤羽海人。
濃霧のデスエリアで、カナタに三番手を奪われた男。
そして、そのフェラーリを追うベンジャミンもまた、同じようにカナタの後塵を拝していた。
だが。
「……姉貴」
『何?』
「ひとつだけ、言っとくぜ」
ベンジャミンの声が、少しだけ真剣なものになった。
「俺は、カナタのサポートカーになるために日本へ来たわけじゃねえ」
『……ええ』
「チャンスがあれば、カナタだって抜く」
メイは、モニターを見つめながら微笑んだ。
『それでいいわ』
「……お?」
『あなたもレーシングドライバーでしょう? だったら、勝つために走りなさい』
そして。
『でも、せっかく従兄弟同士で走っているんですもの』
メイの口元が、わずかに上がった。
『少しくらい、仲良くしたっていいんじゃない?』
「……」
ベンジャミンは、思わず苦笑した。
「……ほんっと、姉貴には敵わねえな」
そして。
前方のフェラーリを見据える。
「……OK」
低く、呟いた。
「ミスター赤羽には悪いが……」
右足が、アクセルへと力を込める。
「俺も、そろそろ本気で行かせてもらうぜ!!」
◇
『さあ!! 片桐カナタが濃霧のデスエリアを脱出しました!!』
実況担当、田中洋二。
その声が、世界中へ響き渡った。
中継映像には、ライトニングレッドの86が映し出されていた。
先ほどまで車体を包み込んでいた白い霧は、すでに薄くなっている。
路面は濡れているものの、前方の視界は回復していた。
『そして!! ここで各車のタイム差が表示されます!!』
画面に、最新の通過タイムが表示される。
【3rd KANATA KATAGIRI】
【4th KAITO AKABA +8.1 SEC】
【5th BENJAMIN RIVINGTON】
『なんとおおおっ!!』
田中が叫ぶ。
『三番手の片桐カナタと、四番手の赤羽海人!! その差は約八秒です!!』
『……これは大きいですね』
池田竜次が、感心したように頷いた。
『カナタ選手は、濃霧の中でオーバーテイクを成功させただけではありません。その後もペースを維持して、大きなマージンを作っています』
『なるほど!!』
『赤羽選手は、濃霧によって大幅に速度を落とさざるを得ませんでした。一方、片桐選手はコースを正確に記憶している。その差が、ここまで大きくなったのでしょう』
田中が、モニターを見つめる。
『しかし池田さん!! この先は、視界が回復しています!!』
『ええ』
『しかも、雨は止んでいます!! これは、86にとって厳しい展開になるのではないでしょうか!?』
『そうですね』
池田は、頷いた。
『路面はまだ濡れていますが、時間が経てばグリップは少しずつ回復するでしょう。そうなると、ハイパワーマシンが有利になります』
画面が切り替わる。
赤いフェラーリ488GTB。
『赤羽選手のフェラーリは、非常に高い加速性能を持っています。八秒というマージンは決して小さくありませんが、残りのコースを考えると安心できる差でもありません』
『なるほど!!』
『そして、何より重要なのは……』
池田は、続けた。
『この先の林間区間です』
◇
芦ノ湖スカイライン。
濃霧のデスエリアを抜けた先には、木々に囲まれた林間区間が続いていた。
連続するコーナー。
アップダウン。
そして、先の見通せない山道。
ここでは、ドライバーの技術が大きく問われる。
しかし、デスエリアとは異なり、霧によって視界が奪われているわけではない。
通常のドライビングで勝負することができる。
そして、この区間にはもうひとつの特徴があった。
コースが曲がりくねっているため、前走車との距離が大きく離れている場合、互いの姿を確認できないのである。
カナタと赤羽。
その差は、約八秒。
この距離では、赤羽のフェラーリから86の姿を捉えることはできなかった。
そして、カナタもまた。
ルームミラーの中に、赤羽のフェラーリを見ることはできなかった。
だが。
見えないからといって。
追われていないわけではない。
◇
「……」
カナタは、静かにステアリングを握っていた。
濃霧のデスエリアを抜け、視界は完全に回復している。
路面の状態も、先ほどよりは幾分良くなっていた。
だが。
「……やっぱり」
カナタは、小さく呟いた。
「ここからが、難しいですね」
『……カナタ?』
緒方の声が聞こえる。
「はい」
『どうした?』
「後ろの車が、速くなると思います」
『……ああ』
緒方は、モニターへ目を向けた。
三番手。
片桐カナタ。
四番手。
赤羽海人。
五番手。
ベンジャミン・リヴィントン。
濃霧の中では、カナタが圧倒的な優位に立っていた。
しかし。
そこを抜けた今。
状況は、確実に変わり始めている。
『……そうだな』
緒方は、慎重に答えた。
『フェラーリも、カマロも、パワーは86よりずっと上だ』
「はい」
『でも、八秒近いマージンがある! そう簡単には追いつかれないはずだ!』
カナタは、微笑んだ。
「そうですね」
そして。
「……だからこそ」
その目が、わずかに鋭くなる。
「ここで、できるだけ逃げます」
『……!』
緒方は、思わず息を呑んだ。
先ほどまでの濃霧。
そこで作り上げた八秒のマージン。
それを守るために。
カナタは、さらに攻めようとしていた。
「……行きます」
アクセルを踏む。
86の水平対向エンジンが、力強く唸った。
ライトニングレッドの車体が、林間区間へ飛び込んでいく。
◇
その頃。
赤羽海人は、猛烈なペースでカナタを追いかけていた。
「……くそっ!」
フェラーリ488GTB。
その強力なV8ツインターボが、鋭いエキゾーストノートを響かせる。
濃霧を抜けたことで、ようやく本来の走りができるようになった。
ブレーキングポイントが見える。
コーナーの入口がわかる。
立ち上がりで、思い切ってアクセルを踏むことができる。
「……ここからだ!」
赤羽は、ステアリングを握り直した。
八秒。
濃霧の中で、カナタに奪われたタイム差。
それは、決して小さくない。
だが。
「……絶対に追いついてやる!」
赤羽は、アクセルを踏み込んだ。
フェラーリのリアタイヤが、濡れた路面を掴む。
強大なトルク。
それが、車体を前へと押し出していく。
――ヴオオオオオッ!!
赤いフェラーリが、林間区間を駆け抜けた。
もちろん、前方に86の姿はない。
木々に囲まれた道路。
連続するコーナー。
その先にあるはずの、ライトニングレッドの車体。
だが。
いくら目を凝らしても、その姿は見えなかった。
「……どこまで行きやがった……!」
赤羽は、歯を食いしばる。
その時だった。
ルームミラー。
そこには、別の車の姿があった。
ターコイズグリーン。
シボレー・カマロSS。
「……チッ!」
赤羽は、舌打ちした。
「まだついてくるのか、こいつ……!」
◇
「……へへっ」
ベンジャミンは、楽しそうに笑っていた。
前方のフェラーリ。
赤羽海人。
その走りは、間違いなく速かった。
濃霧を抜けた途端、明らかにペースが上がっている。
ブレーキング。
ターンイン。
そして、コーナーの立ち上がり。
どれも高いレベルでまとまっていた。
「……いいじゃねえか!」
ベンジャミンの目が、輝く。
「そうこなくっちゃな!」
カマロのV8エンジンが、重厚なサウンドを響かせる。
だが、赤羽のフェラーリは速い。
特に、直線。
高回転まで伸びるツインターボエンジンの加速力は、カマロを上回っていた。
それでも。
ベンジャミンは、離されなかった。
むしろ。
コーナーによっては、わずかに距離を詰めていた。
「……なるほど」
ベンジャミンは、前方のフェラーリを観察する。
赤羽は、明らかにカナタを追っている。
濃霧の中で奪われた三番手。
それを取り返そうとしているのだ。
だからこそ。
走りに、わずかな変化があった。
コーナーへの進入速度。
ブレーキングのタイミング。
そして、立ち上がりのアクセルワーク。
すべてが、先ほどよりも攻撃的になっている。
「……ふむ」
ベンジャミンは、少しだけ考えた。
このまま追いかけていけば、いずれ何かが起こる。
しかし。
今、無理に仕掛ける必要はない。
赤羽は、カナタとのタイム差を縮めようとしている。
つまり。
「……今は、こいつに引っ張ってもらうか」
ベンジャミンは、笑った。
フェラーリの走行ラインを観察する。
そして、その少し後方を追走する。
接近しすぎない。
しかし、離れすぎない。
前走車の動きを読みながら、カマロの巨体を正確にコントロールしていく。
『ベン』
メイの声が聞こえる。
『どう?』
「悪くねえ!」
『赤羽との差は?』
「まだ抜けねえな。でも、ついていける」
『……そう』
メイは、モニターへ視線を向けた。
前方のフェラーリ。
その後ろを走る、ターコイズグリーンのカマロ。
さらに前には、カナタの86。
だが。
この林間区間では、カナタの姿は映像にも見えない。
三台は、まだ直接争える距離にはなかった。
『……ベン』
「ん?」
『カナタと赤羽のタイム差、少しずつ縮まっているわ』
「……へえ」
ベンジャミンは、口元を上げた。
「そりゃ、面白くなってきたな」
◇
『さあ!! 赤羽海人が猛烈な追い上げを見せています!!』
田中洋二の声が響く。
『先ほどまで約八秒あった片桐カナタとの差が、徐々に縮まっています!!』
モニターに、最新の通過タイムが表示される。
【3rd KANATA KATAGIRI】
【4th KAITO AKABA +5.8 SEC】
『現在、約六秒!!』
田中が叫ぶ。
『赤羽海人!! 驚異的なペースで、カナタとのタイム差を削っています!!』
『さすがですね』
池田竜次が頷いた。
『赤羽選手は、非常に上手くフェラーリを走らせています』
『なるほど!!』
『雨が止んだとはいえ、路面はまだ濡れています。そんな状況でも、あれだけのパワーを使い切ろうとしている。相当な技術ですよ』
画面には、林間区間を駆け抜けるフェラーリ。
『ただ、片桐選手も決して遅いわけではありません』
続いて、86の走行映像。
『カナタ選手は、コーナリングで非常に高い速度を維持しています。ですが、直線ではどうしてもパワーの差が出てしまう』
『なるほど!!』
『特に、この先の最終ストレート。そこでは、フェラーリが圧倒的に有利になるでしょう』
田中が頷いた。
そして。
『しかし!! 忘れてはならないのが、五番手のベンジャミン・リヴィントン!!』
画面が切り替わる。
ターコイズグリーンのカマロSS。
『283号車!! 赤羽海人のフェラーリに、しっかりと食らいついています!!』
『彼も見事ですね』
池田が、感心したように言う。
『あの重量級のカマロで、フェラーリに追従しています。林間区間では車体の重さが不利になりやすいのですが、それを高いドライビング技術で補っていますね』
田中が叫ぶ。
『三番手争い!! まだまだ何が起こるかわかりません!!』
◇
林間区間も、終盤へ差しかかっていた。
ライトニングレッドの86。
カナタは、正確なラインでコーナーを駆け抜けていた。
「……」
表情は、落ち着いている。
だが。
その内側では、確かな焦りが生まれ始めていた。
雨は、止んでいる。
路面は、少しずつ乾き始めている。
そして。
前方には、長い直線が待っている。
そこでは、パワーの差が露骨に現れる。
86のエンジンは、自然吸気の2リッター水平対向4気筒。
フェラーリのV8ツインターボとは、比較にならない。
いくらコーナーで頑張っても、直線では追いつかれてしまう。
「……」
カナタは、ルームミラーを見た。
だが。
後方に、フェラーリの姿はない。
木々に囲まれた道路。
曲がりくねったコース。
その先にいるはずの赤羽は、まだ見えなかった。
『カナタ』
緒方の声。
『赤羽との差が、少しずつ縮まってる』
「……はい」
『まだ大丈夫だ! 今は落ち着いて走ってくれ!』
「わかりました」
カナタは、穏やかに答えた。
そして。
「……でも」
『ん?』
「最後のストレートでは、追いつかれると思います」
『……!』
緒方は、息を呑んだ。
カナタ自身が、そう予想している。
それはつまり。
この先、非常に厳しい戦いになるということだった。
「……だから」
カナタは、ステアリングを握り直した。
「ここで、できるだけ稼ぎます」
アクセルを踏む。
86が、次のコーナーへ飛び込んでいく。
◇
一方。
赤羽海人は、確実にタイム差を縮めていた。
「……くそっ!」
前方には、相変わらず86の姿がない。
しかし。
タイム差は、確実に減っている。
五秒。
四秒。
そして。
「……もう少しだ!」
赤羽は、アクセルを踏み込んだ。
フェラーリが加速する。
コーナーへ進入。
ブレーキ。
ターンイン。
そして、立ち上がり。
そのすべてが、攻撃的だった。
「……待ってろ、片桐!!」
赤羽は、低く唸った。
「絶対に、追いついてやる!!」
だが。
その後方。
ターコイズグリーンのカマロもまた、赤羽を追っていた。
「……へへっ」
ベンジャミンは、笑った。
「いいねえ……!」
赤羽の走り。
確かに速い。
だが、ベンジャミンにも負けるつもりはなかった。
コーナーで距離を詰める。
直線では、フェラーリの加速に食らいつく。
そして、次のコーナーで再び距離を縮める。
それを、何度も繰り返していた。
「……さあ」
ベンジャミンは、前方を見つめる。
「そろそろ、見えてくる頃だろ?」
その視線の先。
赤いフェラーリ。
そして、そのさらに前。
まだ姿は見えない、ライトニングレッドの86。
「……待ってろよ、カナタ」
ベンジャミンは、笑った。
「もうすぐ追いつくぜ!」
◇
やがて。
林間区間が、終わりを迎えようとしていた。
木々の間から、明るい空が見え始める。
そして。
前方の道路が、徐々に開けていく。
長い直線。
芦ノ湖GTの最終ストレート。
その入口が、近づいていた。
『さあ!! いよいよ最終ストレートが近づいてきました!!』
田中洋二が叫ぶ。
『片桐カナタ!! なんとか三番手を守っています!!』
画面には、86。
その走りは、依然として正確だった。
だが。
『しかし!! 赤羽海人の追い上げが凄まじい!!』
画面が切り替わる。
フェラーリ488GTB。
その赤い車体が、林間区間を抜けようとしていた。
『両者のタイム差は、ついに二秒台へ!!』
池田が、真剣な表情でモニターを見つめる。
『……追いつきますね』
『池田さん!?』
『ええ。最終ストレートでは、フェラーリの加速力が大きな武器になります。残念ながら、86単独では防ぎきれない可能性が高い』
田中が、息を呑む。
『では、片桐カナタ!! ここまで守ってきた三番手を、奪われてしまうのでしょうか!?』
『……可能性はあります』
池田は、慎重に答えた。
そして。
『ただし』
『ただし!?』
『赤羽選手の後ろには、もう一台います』
画面が切り替わる。
ターコイズグリーン。
ゼッケン283。
シボレー・カマロSS。
『ベンジャミン・リヴィントンです』
◇
「……見えた!」
赤羽が、声を上げた。
林間区間を抜ける。
視界が、一気に開ける。
そして。
その先。
長い直線の向こうに。
赤い車体が見えた。
ライトニングレッドのトヨタ86GT。
「……片桐!!」
赤羽の目が、鋭くなる。
ようやく、捉えた。
濃霧のデスエリアで奪われた三番手。
その相手が、ついに視界へ戻ってきた。
「……待ってろ!!」
赤羽は、アクセルを踏み込んだ。
フェラーリのV8ツインターボが、鋭く吠える。
――ヴオオオオオッ!!
車体が、猛烈な勢いで加速する。
前方の86。
その姿が、少しずつ大きくなっていく。
そして。
赤羽の背後には。
もう一台。
ターコイズグリーンのカマロが、同じように加速を開始していた。
「……おっ!」
ベンジャミンが、声を上げる。
「ようやく見えたぜ!」
前方。
ライトニングレッドの86。
カナタ。
その姿を確認した瞬間、ベンジャミンの表情が明るくなった。
「……へへっ」
そして。
笑う。
「……さあ、ここからだ!!」
◇
『追いついたあああああっ!!』
田中洋二の絶叫が響く。
『赤羽海人!! ついに片桐カナタを捉えました!!』
画面には、最終ストレートを走る三台。
先頭。
ライトニングレッドの86。
その後方から迫る、フェラーリ488GTB。
そして、さらに後方。
シボレー・カマロSS。
『濃霧脱出時には約八秒もあったタイム差!! それが、ここにきてほとんどなくなりました!!』
『さすがですね』
池田竜次が、感心したように言う。
『赤羽選手の追い上げは見事です。林間区間でも高いペースを維持して、ここまで差を縮めてきました』
『なるほど!!』
『そして、このストレートではフェラーリのパワーが圧倒的に有利です』
画面には、86へ迫るフェラーリ。
『カナタ選手にとって、非常に厳しい展開になりました』
田中が叫ぶ。
『さあ!! 三番手争い!! いよいよ決着の時が近づいています!!』
◇
「……!」
カナタは、ルームミラーを確認した。
赤い車体。
フェラーリ488GTB。
先ほどまで見えなかった赤羽が、ついに後方へ現れた。
そして。
そのさらに後ろ。
ターコイズグリーンのカマロ。
「……ベンも!」
カナタは、少しだけ目を見開いた。
赤羽だけではない。
ベンジャミンも、しっかりと追いついてきている。
しかも。
二台とも、圧倒的なパワーを持つマシンだ。
最終ストレート。
そこでは、86の非力さが致命的な弱点となる。
「……」
カナタは、ステアリングを握り直した。
アクセルは、すでに全開。
これ以上、加速する余地はない。
後方のフェラーリが、少しずつ大きくなる。
そして。
ついに。
フェラーリが、86のスリップストリームへ入った。
「……!」
カナタは、ルームミラーを見た。
その瞬間。
赤羽のフェラーリが、左側へ進路を変える。
スリップストリームから抜け出し、オーバーテイクを仕掛けてきたのだ。
「……くっ!」
カナタは、アクセルを踏み続ける。
しかし。
圧倒的なパワー差。
フェラーリのノーズが、少しずつ近づいてくる。
◇
「……もらった!!」
赤羽が、叫んだ。
フェラーリのエンジンが、鋭く唸る。
前方の86。
その車体が、目前に迫っていた。
そして。
左側へ進路を変える。
スリップストリームから抜け出し、86の横へ並びかける。
「……今度こそ!!」
赤羽は、アクセルを踏み込んだ。
濃霧の中で奪われた三番手。
それを、ここで取り返す。
そのつもりだった。
だが。
その時。
ルームミラーに映る、ターコイズグリーンの車体。
「……!?」
赤羽が、目を見開いた。
カマロ。
ベンジャミン・リヴィントン。
その車体が、急速に接近していた。
「……何だ!?」
赤羽は、思わず叫んだ。
「お前まで来るのかよ!!」
◇
「……へへっ」
ベンジャミンは、笑っていた。
前方のフェラーリ。
赤羽海人。
そのさらに前には、カナタの86。
赤羽は、明らかにカナタを抜こうとしている。
そして。
そのために、スリップストリームから飛び出した。
つまり。
フェラーリは、前走車の後方に発生する空気抵抗の少ない領域から外れたのである。
その瞬間。
ベンジャミンの目が、鋭くなった。
「……そこだ!!」
アクセルを踏み込む。
6.2リッターV8。
453馬力。
カマロのエンジンが、重厚な咆哮を響かせた。
――グオオオオオオッ!!
その巨大な車体が、猛烈な勢いで加速する。
赤羽が左側へ進路を変えたことで、前方には86が残っている。
ベンジャミンは、その後方へ車体を合わせた。
フェラーリの横を抜けるためではない。
まずは、空気抵抗の少ない領域を確保するためだ。
そして。
「……よし!!」
カマロが、さらに加速した。
前方の86。
そのリアバンパーが、急速に大きくなっていく。
赤羽のフェラーリは、左側から並びかけようとしている。
だが。
スリップストリームを外れたことで、一時的に加速が鈍る。
その隙を。
ベンジャミンは、逃さなかった。
「……行けえええっ!!」
カマロが、フェラーリの後方から一気に距離を詰める。
そして。
86の真後ろへ。
ターコイズグリーンの巨体が、吸い込まれるように入り込んだ。
◇
『おおおおっと!!』
田中洋二が叫ぶ。
『ベンジャミン・リヴィントン!! 片桐カナタの86の真後ろへ入りました!!』
『……これは!?』
池田竜次が、身を乗り出した。
画面には、二台のマシン。
ライトニングレッドの86。
その真後ろに張り付く、ターコイズグリーンのカマロ。
そして、左側から並びかけるフェラーリ。
『……まさか』
池田が、呟いた。
『池田さん!?』
その時だった。
カマロが、さらに距離を詰めた。
86のリアバンパー。
そこへ、カマロのフロントマスクが近づいていく。
『おおおおっと!!』
田中が叫ぶ。
『カマロのノーズが!! 86のリアバンパーへ!!』
そして。
――トンッ。
ごく軽い接触。
その直後。
86の加速が、わずかに増した。
『……なっ!?』
田中が、目を見開いた。
『こ、これは一体!?』
池田が、思わず立ち上がりそうになった。
『……バンプドラフト!!』
『……え!?』
『バンプドラフティングです!!』
◇
バンプドラフティング。
アメリカのNASCARなどで知られる、特殊な走行技術。
通常のスリップストリームは、前走車の後方に発生する空気の流れを利用し、空気抵抗を減らすことで速度を上げる。
だが。
バンプドラフトは、それだけではない。
後続車が、前走車のリアバンパーへ軽く接触する。
そして。
自らの推進力を、前走車へ伝える。
その結果。
前走車は、単独走行では得られない加速を得ることができる。
もちろん。
それは、非常に危険な技術だった。
接触する位置が少しでもずれれば、前走車の姿勢を乱してしまう。
特に、今回のように車重も車体形状も大きく異なる二台では、その危険性はさらに高い。
ましてや。
舞台は、濡れた公道。
ほんのわずかなミスが、重大な事故へつながりかねない。
だが。
ベンジャミンは、その技術を知っていた。
幼少期からストックカーレースに親しみ、NASCARの世界でも経験を積んできた。
そして。
何より。
彼には、前を走るドライバーへの信頼があった。
◇
「……!」
カナタは、驚いた。
86の後方から、わずかな衝撃が伝わってきたのである。
決して、大きな衝撃ではない。
だが。
確かに、何かに押された感覚があった。
「……ベン?」
ルームミラー。
そこには、ターコイズグリーンのカマロ。
その大きなフロントマスクが、86のすぐ後ろにあった。
そして。
86は、先ほどよりもわずかに加速している。
「……!」
カナタは、目を見開いた。
そして。
すぐに理解した。
「……なるほど」
小さく、笑う。
「……そういうことか」
バンプドラフティング。
アメリカのストックカーレースでは知られた技術。
もちろん、カナタも知識としては知っていた。
だが。
まさか。
この芦ノ湖GTの決勝で。
しかも、自分の86を相手に。
それを仕掛けてくるとは思っていなかった。
「……ふふっ」
カナタは、楽しそうに笑った。
「……ベンらしいね」
そして。
アクセルを踏み込む。
後方のカマロから伝わった、わずかな推進力。
それを利用しながら、86が加速する。
カナタは、ステアリングをしっかりと保持した。
車体を安定させる。
無駄な修正舵を入れない。
そして。
カマロとの距離が、わずかに開いた。
ベンジャミンも、それに合わせてアクセルを調整する。
二台の速度を合わせながら、スリップストリームを維持する。
無理に再接触はしない。
その判断が、二人の間で自然と共有されていた。
もちろん、無線で相談しているわけではない。
それでも。
二人は、互いの意図を理解していた。
◇
『信じられません!!』
田中洋二の声が響いた。
『ベンジャミン・リヴィントン!! なんと、片桐カナタの86を後ろから押しました!!』
『これは、バンプドラフティングという技術です』
池田竜次が、興奮した様子で解説する。
『NASCARでは知られている戦術ですが、MFGで見ることになるとは思いませんでした』
『なるほど!!』
『後続車が前走車へ軽く接触し、推進力を伝えることで、前走車の速度を引き上げています』
田中が叫ぶ。
『なんということでしょう!! つまり、ベンジャミンがカナタを助けているということですか!?』
『結果としては、そうなっています』
池田は頷いた。
『ただし、非常に難しい技術ですよ』
『難しい!?』
『ええ。まず、二台の速度差をほとんどなくす必要があります。そして、車体の中心がずれないように、極めて正確に接触しなければならない』
画面には、カマロと86。
『しかも、今回は車重の差が大きい。カマロの方が圧倒的に重いですからね』
『なるほど!!』
『少しでも強く押しすぎれば、86の姿勢が乱れる可能性があります。非常に危険な行為でもあります』
池田は、真剣な表情でモニターを見つめる。
『そのうえで、今の接触は驚くほど正確でした』
田中が、息を呑む。
『……なんという技術でしょう!!』
『そして、もうひとつ』
『もうひとつ!?』
『前を走るカナタ選手です』
画面が切り替わる。
86の運転席。
カナタは、驚くほど落ち着いた表情でステアリングを握っていた。
『彼は、後方から押されても車体の姿勢を乱していません。しかも、ベンジャミン選手が何をしようとしているのか、理解しているように見えます』
田中が叫ぶ。
『なるほど!!』
『二人の間には、強い信頼関係があるのでしょう』
池田は、微笑んだ。
『ただ、これほどの技術を公道で使うとは……恐ろしいですね』
◇
「……何だと!?」
赤羽海人は、目を見開いた。
前方の86。
その真後ろに、ターコイズグリーンのカマロ。
そして。
先ほどまで、確実に追いついていたはずの86が。
再び、加速し始めたのである。
「……ふざけるな!!」
赤羽は、アクセルを踏み込んだ。
フェラーリのV8ツインターボが、鋭く咆哮する。
しかし。
86は、簡単には離れない。
その後方には、カマロ。
二台が、まるで一体となったように走っている。
「……何なんだ、あいつらは!!」
赤羽は、歯を食いしばった。
トヨタ86。
シボレー・カマロ。
どちらも、フェラーリ488GTBより格下と思っていた車だ。
それなのに。
この二台が、互いの力を利用して速度を上げている。
「……くそっ!!」
赤羽は、再びアクセルを踏み込んだ。
だが。
カマロの後方から、二台をまとめて抜くのは簡単ではない。
スリップストリームを利用しようとしても、カマロが進路を塞いでいる。
かといって、横へ出れば空気抵抗が増える。
そして。
その間にも、86とカマロは速度を維持していた。
「……冗談じゃねえ!!」
赤羽は、叫んだ。
「二台がかりで、俺を止めるつもりかよ!!」
◇
『さあ!! これは一体どういうことでしょうか!!』
田中洋二が叫ぶ。
『カナタの86!! そして、ベンジャミンのカマロ!! 二台が一体となって、赤羽海人のフェラーリに対抗しています!!』
画面には、三台のマシン。
先頭。
ライトニングレッドの86。
その真後ろ。
ターコイズグリーンのカマロ。
そして。
左側から追い上げる、赤いフェラーリ。
『二対一!! まさに、二対一の戦いです!!』
池田が、頷いた。
『面白いですね』
『池田さん!!』
『二人は、まったく異なるレース文化で育ったドライバーです』
画面には、二台のマシン。
『カナタ選手は、イギリスでドライビングを学びました。一方、ベンジャミン選手は、アメリカのストックカーレースで腕を磨いてきた』
『なるほど!!』
『そして、その二人が今、互いの技術を活かして走っています』
池田は、感心したように続けた。
『カナタ選手は、車体を安定させながら正確に走っている。そして、ベンジャミン選手は、NASCARで培ったスリップストリームと車間距離のコントロールを使っている』
田中が、興奮した様子で叫ぶ。
『まさに!! イギリスとアメリカ!! 二つのレース文化が融合した、驚異のコンビネーション!!』
そして。
『従兄弟同士の二人が!! 今、フェラーリ488GTBに立ち向かっています!!』
◇
「……へへっ!」
ベンジャミンは、笑っていた。
前方には、カナタの86。
その後方へ、カマロを正確に合わせている。
赤羽のフェラーリは、左側から追い抜こうとしていた。
だが。
そう簡単にはいかない。
「……どうだよ、ミスター赤羽!」
ベンジャミンは、楽しそうに笑った。
「これが、アメリカ流だぜ!」
もちろん、カマロの方が86より重い。
そのため、接触する際には細心の注意が必要だった。
少しでも強く押しすぎれば、86の姿勢が乱れてしまう。
だが。
今のベンジャミンは、非常に冷静だった。
前走車との距離。
相対速度。
そして、ステアリングの角度。
そのすべてを、正確に把握している。
さらに。
前を走るカナタもまた、非常に安定したドライビングを続けていた。
「……やっぱ、すげえな」
ベンジャミンは、思わず呟いた。
カナタ。
幼い頃から、何度も一緒に遊んできた従兄弟。
いつも穏やかで、優しくて。
そして、車のことになると、誰よりも真剣になる。
そんな彼が今。
自分の前で、完璧な走りを見せていた。
「……ハハッ!」
ベンジャミンは、笑った。
「最高じゃねえか!!」
そして。
アクセルを踏み込む。
――グオオオオオオッ!!
カマロのV8エンジンが、力強く吠えた。
◇
その頃。
ライトニングレッドの86。
カナタは、ルームミラーを確認していた。
後方には、ターコイズグリーンのカマロ。
そのさらに後ろには、赤いフェラーリ。
「……ふふっ」
カナタは、微笑んだ。
「ありがとう、ベン」
もちろん、その声が相手へ届くことはない。
だが。
カナタは、確かに理解していた。
ベンジャミンが、自分を助けてくれていることを。
そして。
それが、ただの友情ではないことも。
ベンジャミンは、レーシングドライバーだ。
勝つために走っている。
今は、赤羽を抑えることが自分にとっても有利だから、こうして協力している。
それだけだ。
だからこそ。
カナタは、その判断を嬉しく思っていた。
「……でも」
カナタは、小さく呟く。
「次は、負けないよ」
そして。
アクセルを踏み続けた。
◇
最終ストレート。
残りわずか。
赤羽海人は、最後の追い上げを試みていた。
「……くそっ!!」
フェラーリのエンジンが、甲高いサウンドを響かせる。
だが。
前方の二台は、簡単には崩れない。
86。
カマロ。
その間隔は、驚くほど正確に保たれていた。
赤羽は、右側へ進路を変えようとした。
しかし。
カマロが、わずかにラインを調整する。
もちろん、強引なブロックではない。
だが、赤羽にとって有利なラインが、なかなか見つからなかった。
「……チッ!!」
赤羽は、舌打ちした。
このままでは、追いつけない。
それどころか。
フェラーリの前には、二台のマシン。
そして。
その二台が、互いに協力して走っている。
「……ふざけるな!!」
赤羽は、叫んだ。
「俺は、フェラーリに乗ってるんだぞ!!」
その声は、誰にも届かなかった。
そして。
次の瞬間。
コースの先に、フィニッシュラインが見え始めた。
◇
『さあ!! フィニッシュラインが近づいてきました!!』
田中洋二の声が、さらに大きくなる。
『三番手争い!! 片桐カナタ!! ベンジャミン・リヴィントン!! そして、赤羽海人!!』
画面には、三台のマシン。
『カナタが先頭!! その後ろにカマロ!! そして、フェラーリ!!』
田中が叫ぶ。
『このまま決まるのかあああっ!?』
池田が、真剣な表情でモニターを見つめた。
『……これは、決まりそうですね』
『池田さん!?』
『ええ。赤羽選手も最後まで追い上げていますが、前の二台が非常に安定しています』
画面には、86とカマロ。
『特に、ベンジャミン選手の判断が見事でした』
『なるほど!!』
『彼は、自分が三番手を狙うこともできたはずです。しかし、赤羽選手を先に抑えることで、結果的に自分の順位も守っています』
田中が、頷く。
『まさに、戦術的な走り!!』
そして。
『さあ!! フィニッシュラインまで、あとわずかです!!』
◇
「……よし!」
ベンジャミンは、前方の86を見つめた。
カナタ。
その小柄な車体が、フィニッシュラインへ向かって走っている。
そして、自分はその後方。
四番手。
だが。
その順位に、不満はなかった。
「……へへっ」
ベンジャミンは、笑った。
「……今回は、お前の勝ちだな」
もちろん。
レース全体では、まだ上位に二台いる。
だが。
従兄弟同士の直接対決。
それに関しては、カナタが一歩上だった。
濃霧のデスエリア。
あの驚異的な走り。
そして、最後のストレート。
自分のサポートを受けながらも、決して車体の姿勢を乱さなかった技術。
そのすべてが、見事だった。
「……でもよ」
ベンジャミンは、笑みを深めた。
「次は、俺が勝つぜ!」
そして。
アクセルを踏み込んだ。
――グオオオオオオッ!!
6.2リッターV8。
その咆哮が、箱根の山に響き渡る。
◇
『さあああああっ!!』
田中洋二の絶叫。
『フィニッシュラインです!!』
ライトニングレッドの86。
その車体が、ラインを通過する。
『片桐カナタ!! 三番手でフィニッシュ!!』
続いて。
ターコイズグリーンのカマロ。
『ベンジャミン・リヴィントン!! 四番手でフィニッシュ!!』
そして。
赤いフェラーリ488GTB。
『赤羽海人!! 五番手でフィニッシュです!!』
順位表示が切り替わる。
【3rd KANATA KATAGIRI】
【4th BENJAMIN RIVINGTON】
【5th KAITO AKABA】
『なんという結末でしょう!!』
田中が叫ぶ。
『片桐カナタ!! 濃霧のデスエリアで驚異の三台抜き!! そして、最後のストレートでは従兄弟のベンジャミン・リヴィントンとのコンビネーションで、赤羽海人の猛追を振り切りました!!』
池田が、感心したように頷いた。
『素晴らしいレースでしたね』
『池田さん!!』
『カナタ選手の走りも見事でしたが、ベンジャミン選手の判断も非常に興味深かったです』
池田は、続けた。
『MFG初決勝で四番手。しかも、あの重量級のカマロでここまで戦った。彼は、間違いなく今後のMFGで注目すべきドライバーになるでしょう』
田中が、力強く頷いた。
『まさに、アメリカからやってきた新たな才能!!』
そして。
『ベンジャミン・リヴィントン!! MFG初決勝で、堂々の四番手フィニッシュです!!』
◇
「……YEAAAAAAAH!!」
カマロの運転席。
ベンジャミンが、歓声を上げた。
「やったぜええええっ!!」
『ベン!!』
メイの声が聞こえる。
『お疲れ様!』
「ああ!!」
『四番手よ! 初めてのMFG決勝で四番手!』
「へへっ!」
ベンジャミンは、笑った。
「なかなか悪くねえだろ!?」
『ええ。本当に、よくやったわ』
メイの声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
『……誇らしいわよ、ベン』
「……!」
ベンジャミンは、一瞬だけ目を丸くした。
そして。
「……ハハッ!」
笑った。
「なんだよ、姉貴! 珍しいこと言うじゃねえか!」
『……何か文句でも?』
「ありません!!」
即答だった。
メイは、小さく笑った。
そして。
『……それに』
「ん?」
『カナタも、三番手でフィニッシュしたわ』
「ああ!」
ベンジャミンは、前方を見つめた。
ライトニングレッドの86。
その車体が、クールダウン走行を続けている。
「……やっぱ、すげえな」
ベンジャミンは、微笑んだ。
「……カナタ」
そして。
アクセルを軽く踏んだ。
V8エンジンが、低く唸る。
まるで。
前を走る従兄弟へ、声をかけるかのように。
◇
ライトニングレッドの86。
その運転席で。
カナタは、静かに微笑んでいた。
『カナタあああっ!!』
緒方の声が、ヘッドセットから響く。
『三番手だぞ!! 三番手!!』
「はい!」
カナタは、笑った。
「ありがとうございます、緒方さん!」
『……本当に、すごいよ……!』
緒方の声は、少しだけ震えていた。
『あの濃霧で三台抜いて……最後はベンジャミンと一緒に赤羽を抑えて……』
「……はい」
カナタは、ルームミラーを見た。
そこには、ターコイズグリーンのカマロ。
ゼッケン283。
ベンジャミン・リヴィントン。
「……ベン」
カナタは、小さく呟いた。
幼い頃から、何度も一緒に遊んできた従兄弟。
いつも元気で。
騒がしくて。
そして、車のことになると誰よりも楽しそうに笑う少年。
その少年が。
今は、自分と同じMFGの舞台で走っている。
しかも。
自分を助けてくれた。
「……ふふっ」
カナタは、微笑んだ。
「ありがとう、ベン」
そして。
もう一度、ルームミラーを見る。
そこには。
ターコイズグリーンのカマロ。
その大きなフロントマスクが、こちらを向いていた。
カナタは、少しだけ笑った。
「……次は」
ステアリングを握り直す。
「ちゃんと、勝負しようね」
もちろん。
その声は、ベンジャミンには届かない。
だが。
カナタは、確信していた。
きっと、ベンジャミンも同じことを考えている。
そして。
その予感は、間違っていなかった。
◇
ターコイズグリーンのカマロ。
その運転席で、ベンジャミンは楽しそうに笑っていた。
「……へへっ」
前方の86。
カナタ。
その赤い車体を見つめながら、呟く。
「……今回は、お前に譲ってやったけどよ」
もちろん。
それは、半分冗談だった。
あの濃霧の中で見せたカナタの走り。
そして、最後まで安定したドライビング。
そのすべてが、自分より一枚上だった。
だからこそ。
次は、負けたくない。
「……次は、俺が勝つ」
ベンジャミンは、笑った。
「覚悟しとけよ、カナタ!」
そして。
カマロのエンジンが、再び力強く唸った。
――グオオオオオオッ!!
その重厚な咆哮が、箱根の山に響き渡る。
アメリカの雷鳴。
そして、イギリスで磨かれた若き才能。
二人の従兄弟による戦いは、まだ始まったばかりだった。