その日、俺は神様に呼び出された。
もっとも、呼び出されたと理解するまでには、少々時間がかかった。
なにしろ、つい先ほどまで俺は自宅の台所に立っていたのだ。夕飯の支度をしようと冷蔵庫を開け、買い置きの卵が一つもないことに気づき、どうしたものかと考えていた。
そこまでは覚えている。
次の瞬間、足元の床が消えていた。
「…………は?」
踏み出しかけた足が宙を蹴る。
慌てて身体を引いたところで、そもそも立っている場所がなかった。落ちる、と思ったのに落ちなかった。
俺は何もない空間に浮いていた。
上下も左右も分からない。あたり一面が白く、遠くを見ても近くを見ても、何ひとつ目印がない。
おそるおそる自分の身体を確かめる。
着ている部屋着のままだった。
どうやら俺自身は無事らしい。
「……夢か?」
『違う』
声がした。
耳元で囁かれたようでもあり、頭蓋骨の内側を直接叩かれたようでもあった。
思わず振り返る。
そこに、何かがいた。
人の形をしている。
少なくとも、最初はそう見えた。
白い空間に、黒い人影が立っていた。背丈は俺と大して変わらない。手足があり、頭があり、顔らしいものもある。
ただ、輪郭が定まらない。
見つめていると、腕が一本増えたように見える。目を瞬かせれば元に戻る。顔には目も鼻もあるはずなのに、どこを見てもその形を思い出せなかった。
『ようやく来たか』
「……どちら様でしょうか」
『神だ』
「はあ」
反射的に返事をしてしまった。
相手が何を言っているのか理解できなかったわけではない。理解したうえで、どう反応すればいいのか分からなかったのだ。
神。
神様。
あの神様か。
初対面の相手がそう名乗った場合、普通は少し距離を取るべきだと思う。
だが、足元に地面がない現状では、それも難しかった。
『疑っているな』
「いえ、その……」
『構わん。貴様らのような矮小な存在には、我の偉大さなど理解できまい』
「そうですか」
『そうだ』
妙に満足げな返事だった。
神を名乗る影は、俺の周囲をゆっくり歩き始めた。
足場がないのに歩いている。
俺も浮いているのだから、今さら驚くことではないのかもしれない。
『貴様をここへ呼んだのは、我が偉業に参加する栄誉を与えるためだ』
「偉業、ですか」
『うむ』
影が片手を掲げた。
すると突然、白い空間に球体が現れた。
それは地球によく似ていた。
ただし、大陸の形が違う。海に囲まれた大地には巨大な山脈が走り、雲の隙間からは、見たこともない地形が覗いていた。
球体が近づく。
山々が大きくなり、森が広がり、川が光る。
やがて、石造りの街が見えた。
城壁の内側に家々が並び、人々が行き交っている。広場には露店が立ち、荷車を引く男の脇を、長い耳を持つ子供が駆け抜けた。
空には鳥が舞っていた。
いや、鳥にしては大きすぎる。
翼を広げた生き物が雲の間を悠々と飛んでいる。その背には、どうやら人が乗っていた。
「……すごいな」
思わず声が漏れた。
映像だとしたら、途方もない技術だ。
そして映像でないのなら、なおさら。
『そうだろう』
影の声が低くなった。
『腹立たしいほどにな』
「……はい?」
『見よ。この山河を。この生命を。この調和を!』
影が腕を振るうたび、景色が切り替わった。
黄金色の麦畑。
雲海を見下ろす白い塔。
深い森の奥で静かに眠る、巨大な竜。
月明かりの下、歌いながら船を漕ぐ人々。
どの景色も美しかった。
『あやつは、いつもそうだ』
影が吐き捨てた。
『何を作らせても、あやつの世界ばかりが称賛される。我がどれほど工夫を凝らそうと、誰も見向きもしないというのに!』
「……あやつ?」
『この世界を創った神だ!』
「ああ、なるほど」
なるほど、ではない。
何ひとつ分かっていない。
だが、相手の話を遮るのは危険な気がした。
『生命は繁栄し、文明は栄え、異なる種族が争いながらも手を取り合う。実に見事な世界だ。まったくもって気に食わん!』
そこで俺は、ようやく嫌な予感を覚えた。
この神様、ひょっとして。
「……つまり、嫉妬していらっしゃる?」
影の動きが止まった。
しまった。
『嫉妬だと?』
「すみません」
『違う! これは正当な憤りだ!』
「はい」
『あやつばかりが称賛されるのは不公平ではないか!』
「そうですね」
『だから、壊すことにした』
「そうで──え?」
今、何と言った?
『あの世界を滅ぼす』
影は何でもないことのように告げた。
眼前に広がる街の景色が、ゆっくりと回転している。
子供が笑っていた。
露店の主人が客に何かを手渡し、通りかかった老人が帽子を脱いで挨拶をしている。
ごく普通の生活だった。
俺のいた世界と、何も変わらない。
「……どうして?」
『聞いていなかったのか』
「聞いていました。でも、それだけの理由で?」
『それだけとは何だ!』
空間が震えた。
身体が押し潰されるような圧迫感に、思わず口を閉じる。
影が顔を寄せてきた。
『貴様、神の決定に異を唱えるつもりか』
「……いえ」
『ならばよい』
圧迫感が消えた。
俺は大きく息を吸った。
どうやら、この神様には逆らわない方がいい。
少なくとも、正面から反論するのは得策ではなさそうだった。
『だが、ひとつ問題がある』
影は再び世界へ視線を向けた。
『我はあの世界へ直接手を下せぬ。創造主の権限というものがあるのでな』
「……それは、よかったですね」
『何がだ?』
「いえ、何でもありません」
『そこで貴様だ』
影がこちらを指さした。
俺は自分の胸を見下ろした。
「……俺?」
『そうだ。貴様をあの世界へ送り込み、我の代わりに破壊を行わせる』
しばらく言葉が出なかった。
ようやく絞り出した声は、情けないほど小さかった。
「……人違いでは?」
『違う』
「俺、ただの一般人ですよ」
『知っている』
「喧嘩だって、ろくにしたことありませんし」
『問題ない』
「世界を滅ぼすなんて、できるわけが……」
『できるようにしてやる』
影が笑った。
顔は見えない。
それでも、笑っているのだと分かった。
『貴様には、我が力を与えよう。あの世界のいかなる生命も及ばぬ、絶対の力を』
球体が消え、代わりに巨大なものが現れた。
最初は、山かと思った。
黒い塊だった。
ところどころから鋭い骨が突き出し、巨大な機械のパーツが重なり合っている。幾本もの金属の柱が、肋骨のように湾曲していた。
その隙間を、濃い影が埋めている。
影は煙のように揺らぎ、ときおり生き物の手足に似た形を作っては、また崩れた。
やがて全体の輪郭が見えてきた。
竜だった。
いや、竜と呼んでいいのか分からない。
頭部らしき場所には、城門ほどもある顎があった。背には山脈のような突起が連なり、翼に見える構造物は、広げれば街ひとつを覆ってしまいそうだった。
あまりにも巨大で、全身を見渡すことすらできない。
「……何ですか、これ」
『貴様の新たな身体だ』
「…………」
『どうだ。素晴らしいだろう』
俺はもう一度、それを見た。
骨。
機械。
影。
およそ生命と呼べそうにないものが、無理やり一つにまとめられている。
しかも、でかい。
とにかく、でかい。
「あの」
『何だ』
「もう少し、普通の姿には……」
『ならん』
「せめて人型とか」
『ならん』
「……ですよね」
影は満足そうに頷いた。
『その身体ならば、山を砕き、海を裂き、国を滅ぼすことも容易い。あの世界の者どもは、貴様の姿を見ただけで恐怖するだろう』
恐怖するだろう。
そりゃそうだ。
俺だって怖い。
こんなものが突然、街の近くに現れたら、何も知らなくても逃げる。
『そして、貴様には名を与えよう』
「名前?」
『そうだ。新たな存在には、新たな名がふさわしい』
影が両腕を広げた。
『エデン』
その名が響いた瞬間、白い空間に波紋が広がった。
『楽園の名を冠する破壊者。あやつの愛する世界を滅ぼす存在に、これほど相応しい名はあるまい!』
皮肉のつもりなのだろう。
ずいぶん悪趣味な命名だ。
だが、口には出さなかった。
「……今の名前は、どうなるんですか」
『不要だ』
「不要って……」
『貴様はこれより、エデンとなる』
影が指を鳴らした。
何かが抜け落ちた。
そう感じた。
頭の中に、ぽっかりと穴が開いたような感覚。
自分の名前を思い浮かべようとした。
思い浮かばない。
「……あれ?」
もう一度、考える。
俺は誰で、どこで生まれ、そしてどんな名前だったか。
家で夕飯を作ろうとしていたことは覚えている。
仕事をしていたことも、学校に通っていたことも、家族がいたことも覚えている。
なのに、自分の名前だけが出てこない。
「ちょっと待ってください」
『何だ』
「名前が……」
『当然だ。不要なものは取り除いた』
「戻してください!」
思わず叫んだ。
影が不愉快そうに身じろぎする。
『くだらん。新たな名を与えてやったではないか』
「そういう問題じゃ……!」
言いかけて、口を噤んだ。
相手は神だ。
少なくとも、人間の俺をここへ連れてきて、記憶の一部を消せる程度には、常識外れの存在だ。
怒らせたところで、何も得られない。
俺は唇を噛んだ。
『さて、準備は整った』
影が手を伸ばす。
巨大な竜の身体が、ゆっくりと動き始めた。
骨と機械が軋み、黒い影が膨れ上がる。
「待ってください。まだ、やるなんて言ってません」
『貴様の意思など聞いておらぬ』
「そんな無茶な……」
『世界を滅ぼせ、エデン』
足元に、黒い穴が開いた。
先ほどまで何もなかった空間が、今度は底の見えない闇へと変わっている。
俺の身体が引き寄せられた。
「待っ──!」
『我が期待を裏切るなよ』
声が、急に冷たくなった。
『もし貴様が命に背けば、その存在を消し去る』
冗談には聞こえなかった。
俺は口を閉じた。
『せいぜい励むがよい。我を失望させるな』
そこで視界が暗転した。
◇
目を開けた。
いや、目を開けたつもりだった。
視界が広すぎる。
右を見ようとすると、遠くの山並みまで見える。左を向こうとすれば、巨大な森が視界の端を流れていく。
何より、身体が重かった。
重いというより、身体のどこまでが自分なのか分からない。
腕を動かそうとした。
地響きがして、目の前の地面が陥没した。
「…………」
しばらく、その光景を眺めた。
大地には、巨大な爪の跡が刻まれている。
爪。
俺の爪だ。
どうやら本当に、あの化け物の身体になってしまったらしい。
声を出してみる。
「……あー」
低い音が、周囲の空気を震わせた。
近くの木々が一斉に揺れ、枝から鳥が飛び立った。
鳥たちは慌てふためきながら森の向こうへ消えていく。
俺は黙った。
今のは、ただの声出しだ。
それでこれか。
もう一度、身体を確かめようとする。
今度は慎重に。
巨大な頭を持ち上げると、遠くに街が見えた。
城壁に囲まれた、小さな街だった。
いや、小さいのは俺の身体が大きすぎるせいかもしれない。
街の上空には、白い煙が幾筋も立ち昇っている。
炊事の煙だろうか。
人が暮らしている。
さっき神様に見せられた、あの世界のどこかなのだろう。
しばらく眺めていると、城壁の上で何かが動いた。
小さな点が、いくつも走り回っている。
人だ。
こちらを指さしている。
やがて鐘の音が響き始めた。
一つ、二つ。
それが街全体へ広がっていく。
俺は嫌な予感がして、少し後ずさろうとした。
足元で森が潰れた。
「…………」
動くのも駄目らしい。
どうしたものか。
神様は世界を滅ぼせと言った。
従わなければ、俺の存在を消すとも。
しかし、目の前の街を壊せと言われても、そんなことができるわけがない。
あそこには人がいる。
俺と同じように、朝起きて、働いて、食事をして、眠る人々が。
何の恨みもない。
ましてや、神様の嫉妬など知ったことではない。
俺はしばらく考えた。
そして、ひとつの結論に達した。
壊したことにすればいいのではないか。
神様は、世界の細かい様子まで見ているのだろうか。
直接干渉できないと言っていたし、俺を送り込んだのもそのためだ。
ならば、多少のごまかしは利くかもしれない。
街の近くで派手に暴れて、建物を少し壊す。
ただし、人のいない場所を選ぶ。
あとは人々が逃げるまで待ち、適当なところで立ち去ればいい。
そうすれば、少なくとも今日、この街の人々を殺さずに済む。
問題は、俺が少し動くだけで森が潰れることだった。
……まずは身体の動かし方から練習するべきだろう。
俺は遠くの街を見た。
鐘はまだ鳴っている。
人々は必死に避難しているのだろう。
よし。
逃げる時間を稼ごう。
俺はできるだけゆっくりと頭を上げ、空に向かって吠えた。
「グォオオオオオオオオオオオ──ッ!」
轟音が大気を揺るがした。
雲が裂けた。
山の斜面から、土煙が上がった。
遠くの街では、鐘の音がいっそう激しくなった。
……やりすぎたかもしれない。
俺は口を閉じた。
せめて人が逃げ切るまでは、ここでじっとしていよう。
そう決めて、地面に伏せる。
地響きがして、森がさらに潰れた。
「…………」
何もしていないのに被害が増える。
先行きが不安で仕方なかった。
◇
その日、ひとつの王国が滅亡の危機に瀕した。
北方の山脈に突如として出現した異形の巨竜は、山を震わせ、空を裂く咆哮を放った。
その威容を前に、王国軍は一兵たりとも近づくことができなかった。
幸いにも、王国に壊滅的な被害はなく竜は去っていった。
人々は奇跡的な生還を神に感謝した。
しかし、彼らは知らない。
その巨竜が、街を襲うべきかどうかではなく、どうすれば街を壊さずに済むかを真剣に考えていたことを。
そして、巨竜自身も知らなかった。
この日を境に、自らの存在が数多の伝承に刻まれ、やがて世界を滅ぼす邪竜として恐れられることになるなどとは。