街の鐘が鳴りやんだのは、日が傾き始めた頃だった。
それまで絶え間なく響いていた音が途絶え、遠くの街が静けさを取り戻している。
……避難は終わったのだろうか。
城壁の内側までは、さすがに見えない。
しばらく様子をうかがっていたが、これ以上ここに居座っていても、人々を怖がらせるだけだろう。
俺は、ゆっくりと身体を起こした。
地面が震えた。
遠くの城壁で、再び鐘が鳴り始めた。
「……すみません」
謝ってみたが、もちろん返事はない。
そもそも、俺の声が届いたところで、向こうには怪物の唸り声としか聞こえないだろう。
どうやら、この世界で平穏に暮らすのは、想像以上に難しいらしい。
とにかく、人のいない場所へ移動しよう。
俺は街に背を向け、山脈の奥へと歩き始めた。
一歩踏み出すたびに地響きが起こる。
岩が崩れ、木々が倒れる。
できる限り被害を出さないよう、岩肌の露出した場所を選んで進んだが、それでも山の形が少し変わってしまった。
……これ、歩いているだけなんだよな。
先が思いやられる。
それでも、街を踏み潰すよりはずっといい。
俺は慎重に足を運び、やがて街が遠くに小さく見える場所までたどり着いた。
周囲に人の気配はない。
山々に囲まれた、静かな場所だった。
「……よし」
とりあえず、ここなら大丈夫だろう。
そう判断して身体を伏せる。
また地面が揺れた。
「…………」
もう、気にしないことにした。
◇
それから三日が経った。
「……連絡先くらい教えておけよ、あの悪神」
返事はない。
目の前に広がるのは、どこまでも続く山々だった。
朝日を浴びた稜線は美しく、谷間には白い霧が漂っている。鳥らしき生き物が群れを成して飛び、そのさらに上を、翼の生えた巨大な獣が悠々と横切っていった。
いかにも異世界らしい光景である。
ただし、それを眺めている俺自身も、山と見紛うほど巨大な竜になっていた。
「聞こえてますかー」
呼びかける。
低い声が谷を渡り、遠くの斜面から岩が転がり落ちた。
「世界を滅ぼす件なんですけどー。もう少し詳しい説明を──」
今度は崖の一部が崩れた。
「……やめよう」
俺は口を閉じた。
人間だった頃の独り言が、今では立派な自然災害である。
あの悪神は、俺をこの世界に送り込んだ。
世界を破壊するための力を与え、エデンという名前を押しつけ、最後に命令に従わなければ消すと脅した。
しかし、それきりだ。
呼びかけても返事はない。頭の中に声が響くこともなければ、夢に現れることもない。
そもそも眠れないので、夢を見る機会もなかった。
腹は減らず、喉も渇かない。疲労さえ感じない。
便利な身体ではある。
ただ、人間らしいことが何ひとつできない。
転生する直前、冷蔵庫に卵がなかった。
それだけのことが、今となってはひどく贅沢な悩みに思える。
俺は長い首を動かし、山の向こうを見た。
そこには、城壁に囲まれた街があった。
数日前、俺が近くに現れただけで大騒ぎになった街だ。
あれからずいぶん距離を取ったつもりなのだが、どうやら向こうからも、こちらの姿が見えているらしい。
城壁には兵士が並び、見張り台が増設されていた。
俺が少し動くだけで、旗が振られる。
実に警戒されている。
まあ、当然だろう。
俺だって、山ほど大きな怪物が近くに居座っていたら、引っ越しを考える。
だからこそ、距離を取ったのだ。
ところが、どうやら向こうは、俺が街を見張っていると考えているらしい。
善意というものは難しい。
そんなことを考えていると、街の門が開いた。
小さな騎馬隊が出てくる。
先頭の男は、白い旗を掲げていた。
「……え?」
思わず身を起こす。
その途端、騎馬隊の足が止まった。
馬が暴れ、何人かが落馬する。
「あっ、ごめん」
謝ったところで、彼らには通じない。
俺の声は地鳴りにしか聞こえないだろうし、そもそも言葉が違う。
騎馬隊はしばらく混乱していたが、やがて先頭の男が再び白旗を掲げた。
そして、こちらへ進んでくる。
……勇気があるな。
いや、勇気だけではないのかもしれない。
あの街には、守らなければならない人々がいる。
俺という災厄がいつ襲ってくるか分からない以上、誰かが話をつける必要があったのだろう。
先頭の男は、俺から十分に距離を取ったところで馬を下りた。
兜を脱ぎ、膝をつく。
そして、何かを叫んだ。
言葉の意味は分からなかった。
ただ、彼の後ろに並ぶ兵士たちが、皆、震えていることだけは分かった。
俺は少し考えた。
彼らは命懸けでここへ来た。
ならば、こちらも誠意を示すべきだ。
ゆっくりと首を下げる。
彼らの目線に合わせるつもりだった。
だが、途中で気づいた。
俺の頭だけで、彼らが乗ってきた馬の何倍も大きい。
近づければ近づけるほど、恐怖心を与えてしまうかもしれない。
俺は首を止めた。
男たちも動かない。
しばしの沈黙。
やがて、俺は静かに身体を伏せた。
もう、これ以上は何もしない。
それだけを伝えたかった。
すると、先頭の男が額を地面につけた。
他の兵士たちも続く。
……なぜだろう。
ものすごく、服従を誓われている気がする。
結局、彼らは何度も頭を下げて街へ帰っていった。
翌朝、城壁の上には巨大な白旗が掲げられていた。
俺はそれを見て、ひとつの結論に至った。
たぶん、俺たちは何ひとつ意思疎通できていない。
◇
その後も、悪神からの接触はなかった。
一週間。
一か月。
そして、一年。
最初のうちは、いつ消されるか分からない恐怖があった。
何もせずにいれば、命令違反と判断されるかもしれない。
だから俺は、世界を滅ぼしているように見えることを、時折やってみた。
人のいない荒野で山を砕いた。
海へ向かって咆哮し、巨大な波を立てた。
戦争を始めようとしていた二つの軍勢の間に降り立ち、双方を逃げ帰らせたこともある。
最後の件は、我ながら良い仕事をしたと思っている。
しかし、後に知った伝承では、俺は「両軍を喰らおうとした邪竜」として記録されていた。
不本意である。
別の土地では、火山の噴火に巻き込まれそうな村を見つけた。
山肌を割って溶岩の流れを変えたところ、村は助かった。
ただし、割った山が地図から消えた。
村人たちは俺に祈りを捧げたが、周辺の王国は「邪竜が山脈を破壊した」と大騒ぎになった。
……まあ、山脈を破壊したのは事実だ。
俺は次第に、余計なことをするのをやめた。
何もしないほうが、世界は平和なのではないか。
そう思い始めた頃、ふと気づいた。
悪神は、一度も現れていない。
世界のどこかで何が起きようと、俺に命令を追加することも、行動を咎めることもなかった。
あの神は言っていた。
権限だかなんとかで、この世界には自分で直接干渉できないのだと。
最初は、単に言い訳だと思っていた。
しかし、これほど長く音沙汰がないとなると、話は違ってくる。
もしかして、本当に干渉できないのではないか。
俺を送り込むことが、あの神にできる精一杯だったのではないか。
ならば。
「……もう、頑張らなくてもいいのか?」
その問いに答える声はなかった。
それでも、初めて少しだけ、胸の奥が軽くなった気がした。
俺には心臓がないはずなのに。
おかしな話だった。
◇
それから、さらに長い年月が流れた。
いくつもの国が興り、滅びた。
かつて俺を恐れていた街は、城壁を二重に増築し、やがて大きな王都になった。
森は伐り開かれ、街道が敷かれた。
俺は人里から遠く離れた山奥で、静かに暮らしていた。
暮らす、といっても、ほとんど何もしていない。
空を眺める。
季節が巡るのを眺める。
時折、山に迷い込んだ獣を驚かせないよう、身を縮める。
そんな日々だった。
人間だった頃の記憶は、まだ残っていた。
家族の顔も、住んでいた街も、仕事帰りに立ち寄った店も。
ただ、自分の名前だけが、どうしても思い出せなかった。
悪神に奪われたのだ。
腹立たしいことに、あいつがつけた「エデン」という名前には、もう慣れてしまっていた。
ある年の冬。
山に、人間たちがやってきた。
数百人ほどの武装集団だった。
鎧をまとった騎士と、杖を携えた術師たち。
その中心には、白い法衣を着た老人がいた。
彼らは山腹に陣を築き、数日にわたって何かを準備していた。
俺は、遠くからそれを眺めていた。
やがて、山の地面に巨大な光の紋様が浮かび上がった。
幾重にも重なる円環。
複雑に絡み合う文字。
それが俺の足元から、山全体へと広がっていく。
「……なるほど」
封印だ。
どういう理屈かは分からないが、あの人間たちは俺を閉じ込めようとしているらしい。
当然だろう。
彼らにとって俺は、いつ世界を滅ぼすか分からない怪物なのだから。
法衣の老人が、杖を掲げた。
何かを叫ぶ。
その声は風に紛れて届かなかった。
だが、周囲の術師たちが次々に膝をつくのが見えた。
苦しそうだった。
ひとりが倒れた。
続いて、もうひとり。
どうやら、この術には相当な負担がかかるらしい。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、騎士たちが一斉に剣を抜いた。
老人の顔が強張る。
俺は彼らを見下ろし、少しだけ考えた。
このまま暴れれば、封印など簡単に壊せるだろう。
彼らを踏み潰すこともできる。
逃げることだって、おそらく難しくない。
だが。
逃げたところで、どこへ行く?
この身体でいる限り、俺は誰かを怯えさせ続ける。
善意で何かをしても、災厄として語られる。
ならば、いっそ。
「……いいですよ」
俺は、その場に伏せた。
騎士たちがどよめく。
老人が杖を握り直した。
「封印でも何でも、してください」
言葉は通じない。
それでも構わなかった。
俺は目を閉じた。
光の紋様が、身体を這い上がってくる。
骨の隙間を満たす影が、少しずつ動きを止めていった。
意識が遠のく。
眠ることのなかった身体に、初めて眠気に似たものが訪れた。
最後に見えたのは、雪の降る空だった。
……そういえば。
転生してから、ずっと休みがなかったな。
これでようやく、ゆっくり眠れる。
そんなことを思いながら、俺は長い眠りについた。
◇
その日、聖教の記録に、ひとつの偉業が刻まれた。
世界を滅ぼす邪竜エデン。
幾多の国を震え上がらせ、山を砕き、海を荒らした災厄。
その邪竜を、聖教の勇士たちは命を懸けて封印した。
戦いは苛烈を極め、多くの犠牲が払われたと伝えられる。
邪竜は最後まで抵抗したが、聖なる術の前に力尽き、深い眠りへと落ちた。
──そう、記録には残された。
封印を主導した老人が、最後に小さく漏らした言葉は、どこにも記されていない。
『……なぜ、抵抗しなかったのだ』
その疑問に答える者は、誰もいなかった。
時代が移り変わるにつれ、邪竜の伝承はさらに大きくなっていった。
原因不明の大地震。
海を覆う異常な嵐。
突如として滅びた古代国家。
その多くが、いつしかエデンの仕業とされた。
人々は邪竜を恐れた。
聖教は封印を守り続けた。
そして、長い年月の果てに。
世界は、ひとりの少女を、その封印のもとへ送り出すことになる。
◇
「……また、眠っていないのですね」
静かな声に、セレスティアは顔を上げた。
夜更けの書庫。
机の上には古い写本が積まれ、燭台の火が小さく揺れている。
窓の外では雨が降っていた。
扉のそばに立っていたのは、白い法衣をまとった老人だった。
聖教の頂点に立つ教皇。
その人物を前にして、セレスティアは慌てて椅子から立ち上がった。
「教皇猊下。こんな時間に、どうなされたのですか」
「それはこちらの台詞です。明日の出立に備え、今夜は休むように伝えたはずですが」
「……少しだけ、確認しておきたいことがありまして」
セレスティアは、開いた写本へ視線を落とした。
そこには、古い文字で封印の術式が記されている。
長い年月を経て、いくつもの部分が欠け落ちた写本だった。
彼女はその欠落を埋めるため、何年も学び続けてきた。
明日、ついにその成果が試される。
邪竜エデンの封印。
長らく世界の平和を守ってきたその術式に、綻びが生じている。
放置すれば、いずれ封印は破られる。
そう判断した聖教は、封印を維持するための儀式を行うことにした。
儀式を執り行えるのは、聖女だけ。
つまり、セレスティアひとりだった。
「不安なのですか」
教皇が尋ねた。
セレスティアは、すぐには答えなかった。
写本の端を指で押さえる。
薄い紙は、少し力を入れれば破れてしまいそうだった。
「……はい」
やがて、彼女は小さく頷いた。
「怖くないと言えば、嘘になります」
教皇は黙って聞いていた。
「儀式そのものも、もちろん怖いです。ですが、それ以上に……もし私が失敗したらと思うと」
言葉が途切れる。
教皇はゆっくりと机に近づいた。
「セレスティア」
「はい」
「あなたは、いつからそんなに立派になったのでしょうね」
「……え?」
「昔は、礼拝堂の鐘を勝手に鳴らして、リュシアと二人で逃げ回っていたというのに」
セレスティアの頬が、わずかに赤くなった。
「あ、あれはリュシアが先に……」
「あなたも楽しそうに鐘楼へ登っていたと聞いていますが」
「……よく覚えていらっしゃいますね」
「忘れられるはずがありません。あのときは、鐘守が腰を抜かしたのですよ」
教皇の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
セレスティアも、つられて笑った。
ほんの一瞬。
書庫に満ちていた緊張が、少しだけ和らいだ。
教皇は彼女の前に立ち、机の上の写本を閉じた。
「今夜は、もう十分です」
「ですが……」
「あなたがどれほど努力してきたか、私は知っています」
その声は、聖教の長としてのものではなかった。
幼い頃から彼女を見守ってきた、ひとりの老人の声だった。
「明日、何が起こるかは分かりません。ですが、今夜まであなたを働かせることが、私にできる最善だとは思えないのです」
セレスティアは、教皇を見上げた。
白髪の増えた横顔。
昔より少しだけ細くなった指。
いつの間にか、この人も年を取ったのだと気づく。
「……分かりました」
彼女は静かに頷いた。
「今日は、もう休みます」
「ええ。それがよいでしょう」
教皇は満足そうに頷き、扉へ向かった。
だが、出ていく直前に足を止めた。
「セレスティア」
「はい」
「必ず、帰ってきなさい」
その言葉に、彼女は一瞬だけ目を見開いた。
教皇は振り返らなかった。
ただ、扉の前に立ったまま、返事を待っていた。
セレスティアは胸の前で両手を重ねた。
「……はい。必ず」
教皇は、それを聞いてから静かに書庫を後にした。
残されたセレスティアは、しばらく閉じられた扉を見つめていた。
やがて、机の上の写本へ視線を戻す。
教皇に閉じられたそれを、そっと開く。
古い文字で記された封印の術式。その中心に、以前から気になっている一節があった。
「……安寧を、保つ」
聖教では、封印の内にあるものを鎮め、その安寧を保つための祈りと解釈されている。
術式全体の構造を見ても、その解釈に不自然なところはない。
ただ、一つだけ問題があった。
この一節には、安寧を保つべき対象が明記されていないのだ。
封印そのものなのか。それとも、封じられた存在なのか。
古代語の文法では、どちらの解釈も成立する。
セレスティアは机の端に置かれた手控えを開いた。
現存する写本の比較、古代語の用例、過去の研究者たちが残した注釈。
何年もかけて調べた記録が、そこには詰まっていた。
しかし、いずれの資料にも、決定的な答えはなかった。
「……困りましたね」
小さく息をつく。
もし、聖教に伝わる解釈が間違っていたとしたら。
その可能性を、考えなかったわけではない。
だが、別の読み方ができるというだけでは、誤りの証明にはならない。
ましてや、明日行うのは邪竜エデンの封印を維持するための儀式だ。
確証のない推測をもとに、長く受け継がれてきた術式を変更するわけにはいかなかった。
「……現地で、確かめましょう」
写本では分からないことも、実際の封印を調べれば、何か手がかりが得られるかもしれない。
もちろん、それで疑問が解消するとは限らない。
明日の儀式は、定められた手順に従って行う。
そのうえで、この一節に関わる部分を注意深く確かめる。
今の自分にできるのは、それくらいだった。
セレスティアは問題の一節に印をつけ、手控えを閉じた。
「……考えすぎであれば、よいのですが」
答える者はいなかった。
彼女は写本を閉じ、燭台の火を消した。
書庫は闇に沈んだ。
翌朝。
聖女セレスティアは、邪竜エデンの封印を維持するため、聖教の使節団とともに旅立った。
その儀式が、長き眠りについた邪竜を解き放つことになるなどとは。
このとき、誰も知らなかった。
──もちろん、邪竜本人も。
なにしろ彼は、まだぐっすり眠っていたのだから。