聖女セレスティアには、思い出すたびに頭を抱えたくなる失敗が三つある。
一度目は、八歳の頃。
リュシアと競争して礼拝堂の鐘楼に登り、勝手に鐘を鳴らして鐘守を驚かせ、二人揃って逃げ回ったとき。
二度目は、十二歳の頃。
聖女候補生の実技試験でリュシアに負けたくない一心から、習得前の上級魔法に挑み、訓練場の噴水を三日間凍らせてしまったとき。
どちらも、今となっては笑い話だ。
教皇に叱られ、リュシアと責任を押しつけ合い、最後には三人で笑うことができた。
そして、三度目。
邪竜の封印が、彼女の目の前で砕けたときだった。
◇
使節団は今朝、霊峰にほど近い街を発った。
霊峰の山腹、岩盤の奥深くに築かれた地下聖堂に到着すると、封印の状態を確かめ、儀式の準備を整えた。
十二本の白い石柱に囲まれた祭壇の中央には、天井に届くほど大きな黒い結晶が鎮座していた。
結晶の内側には、奇妙な奥行きがあった。
外から見える大きさとは釣り合わない、果てのない暗闇。その奥に、山と見紛うほど巨大な存在が眠っている。
邪竜エデン。
千年以上前、世界を滅亡の危機に陥れたと伝えられる災厄。
折り畳まれた翼。幾重にも重なる骨の装甲。金属とも生物ともつかない異様な輪郭。
全身を見通すことはできない。それでも、伝承に記された姿と一致する部分は多かった。
異変が起きたのは、祈りが第三節に差しかかったときだった。
セレスティアは杖を掲げ、祈りを紡いでいた。
「──聖なる光よ、古き盟約を守り、安寧を保ちたまえ」
杖の先端で聖石が輝く。
床に刻まれた古代文字が順に光を帯び、十二本の石柱へ魔力が流れ込んでいった。
ここまでは、すべて記録どおりだった。
「……?」
結晶の表面を細い光が走り、セレスティアは眉を寄せる。
封印の亀裂を修復する際、内部の魔力が反発することはある。記録にもそう記されていた。
だが、目の前の光は亀裂を埋めるのではなく、その輪郭をなぞっていた。
まるで、内側から何かが押し広げているように。
「魔力の流れを調べます」
祈りを維持したまま、左手で補助術式を展開する。
淡い光の文字列が宙に浮かんだ。
術式の構成に誤りはない。魔力の供給量も、十二本の石柱の働きも正常だった。
おかしいのは、魔力の行き先だ。
亀裂の修復に使われるはずの魔力が、一部だけ封印の奥へ流れ込んでいる。
結晶の内側に眠る、邪竜のもとへ。
「……おかしい」
昨夜、書庫で気になった祈りの一節が脳裏をよぎった。
──安寧を、保つ。
出立前から写本を読み比べ、現地では祭壇の術式とも照らし合わせた。
聖教では、邪竜を鎮め、封印を保つための祈りとされている。
だが、「安寧」が何を指すのかは、まだ確かめられていなかった。
もし、邪竜を鎮めるための術式が、同時にその身へ魔力を注いでいたとしたら。
それが封印を維持するための働きなのか、今の異変につながっているのかは分からない。これまで幾度も、同じ祈りによって封印は維持されてきた。魔力の流れだけで、儀式そのものが誤っているとは断定できなかった。
それでも、この魔力の流れを放置するわけにはいかなかった。
「皆さん、魔力の供給を止めてください」
外周に控えていた術師たちが顔を上げた。
「聖女様、まだ第三節の途中です!」
「魔力が封印の内側へ流れ込んでいます。原因を確かめるまで、儀式は中断します」
「ですが、ここで供給を止めては……!」
懸念はもっともだった。供給を止めても、祭壇に蓄積された魔力は残る。逃がし方を誤れば、術式そのものが崩壊しかねない。
「残った魔力は私が処理します。皆さんは退避の準備をしてください」
セレスティアは補助術式を組み替え始める。
蓄積された魔力を十二本の石柱から地脈へ逃がす。写本にはない応急処置だが、術式の構造上は可能なはずだ。
そう考えたとき、結晶の奥で何かが動くのが見えた。
折り畳まれた翼の隙間。深い暗闇の中に、赤い光が灯る。
セレスティアは息を呑んだ。
邪竜の眼だった。
だが、赤い瞳はどこを見ているともつかない。長く眠り続けていた存在が、封印の異変に反応しているのだろうか。
直後、祭壇が激しく揺れた。
「聖女様!」
床の古代文字が一斉に輝き、十二本の石柱から光が噴き上がる。
流れ込んだ魔力が、封印の内側から押し返されていた。
石柱が震え、足元の石畳に亀裂が走る。
術師たちを祭壇から離さなければならない。
「皆さん、祭壇から離れてください!」
術師たちは外周の通路へ向かったが、激しい揺れに足を取られ、思うように進めない。
「聖女様はどうなさるのですか!」
「私は残った魔力を処理します。皆さんは出口のほうへ!」
「ですが、お一人では危険です! せめて我々も──」
術師の一人が祭壇へ引き返そうとした。しかしその足元で石畳が割れ、身体が大きく傾く。
その様子を見て、セレスティアは杖を振り下ろした。
黄金の光が祭壇の外周を覆い、術師たちを包み込む。足元にも光が広がり、揺れに翻弄されていた彼らの身体を支えた。
「ここは私に任せてください。皆さんまで巻き込まれるわけにはいきません!」
術師たちはなおも気がかりそうに振り返りながら、出口に近い通路まで下がった。セレスティアはそれを見届け、祭壇へ向き直る。
組み替えた術式へ、魔力を流し込む。
激しい振動。
目を開けていられないほどの光。
それでも、彼女は杖を離さなかった。
すべての魔力が地脈へ流れ込んだとき、祭壇を満たしていた光が消え、地下聖堂に静寂が戻る。
セレスティアは荒い息を整え、結晶を見上げた。
黒い表面には、一本の亀裂が走っていた。
そこから枝分かれするように、次々と亀裂が広がっていく。
「そんな……」
封印を修復するための魔力は、すでに失われている。
再び術式を起動しようにも、結晶そのものが耐えられそうになかった。
手順は守った。異常に気づいてからも、できる限りの対処はした。
それでも、封印は崩れようとしている。
乾いた音が響き、黒い結晶の一部が剥がれ落ちた。
その奥から、再び赤い光が覗く。
セレスティアが杖を構えたとき、出口のほうから誰かが息を呑む音がした。
振り返ると、先ほど通路へ下がった術師の一人が、結晶を見つめている。
彼も、あの眼を見たのだろうか。
しかしそれを確かめる余裕はなかった。
「皆さん、地上へ避難してください! これ以上、ここに留まるのは危険です!」
「聖女様もご一緒に!」
「私はまだここを離れられません。お願いです、先に行ってください!」
術師たちはためらった末、出口へ駆け出した。
最後尾の術師が一度だけ振り返ったが、セレスティアは結晶から目を離せなかった。
せめて、ここにいた者たちだけでも守らなければ。
退避する者たちを結界で覆い、出口へ送り出す。
やがて足音が遠ざかり、地下聖堂にはセレスティアだけが残された。
そのとき。
黒い結晶が、砕けた。
◇
目が覚めた。
いや。
目が覚めてしまった。
「…………」
久しぶりの意識は、妙に重かった。
眠っていた間の記憶はない。どれほど時間が経ったのかも分からない。
ただ、俺はまだ眠っていたかった。
せっかく封印してもらったのに。
せっかく、あの巨大な身体で何も考えずに済むようになったのに。
……どうして起こすんだ。
まさか、あの悪神が迎えに来たのだろうか。
嫌な予感がして、俺は辺りを見渡す。
だが視界に飛び込んできたのは、白い石柱と、散乱した黒い結晶の破片だった。
その向こうに、人間がいる。
白い法衣を着た少女。
銀色を帯びた髪が肩にかかり、細い杖を握っている。
……あれ。
悪神じゃない。
というか、人間だ。
少し安心したところで、自分の身体がおかしな状態になっていることに気づいた。
頭と前脚は動かせる。だが、身体の大部分が妙に遠い。
感覚はあるのに、どこにあるのか分からない。まるで、身体の半分を別の場所へ置き忘れてきたようだった。
何だ、これ。
封印が壊れたせいだろうか。
俺が首を傾げようとしたそのとき、頭上から嫌な音がした。
石の軋む音。
見上げると、天井の一部に大きな亀裂が走っていた。
そして、その真下には少女が立っている。
……まずい。
亀裂が広がり、天井の石材が落ちてきた。
少女は杖を掲げて結界を張ったが、石材はその上から覆いかぶさろうとしている。
俺は反射的に前脚を伸ばした。
巨大な爪が、落ちてきた石材を受け止めた。
凄まじい音が、広い空間に響く。
危ない、危ない。
もう少しであの子が下敷きになるところだった。
いや、俺が壊したわけじゃないんだけど。
少女は無事らしい。ただ、頭上に現れた巨大な爪を見つめ、固まっていた。
怖がらせてしまったか。まずは敵意がないと伝えたい。
「あの……」
声をかけた途端、空気が震え、少女の肩が跳ねた。
……しまった。
この身体、声量の調節が難しいんだった。
◇
セレスティアは、目の前の邪竜を見上げていた。
人ひとりを覆い隠せそうな爪の上に、天井から落ちてきた石材が載っている。
偶然だろうか。邪竜は石材を下ろそうとせず、自分が退くのを待っているようだった。
セレスティアは慎重に後退した。
赤い瞳が、こちらを追う。
その口が開いた。
『────』
低い声が響く。
生物のものとは思えない奇妙な響きだったが、単なる咆哮ではない。
何かを伝えようとしている。
そう考え、セレスティアは左手を胸に当てた。
「──言霊を繋ぎ、異なる声に道を開け」
淡い光が耳元に集まる。
聖女の翻訳魔法。
異なる言語の意味を読み取り、互いの言葉を通じさせるための術だ。ただし、その効果は術者と会話相手との間に限られる。
加えて、相手の真意や発言の真偽まで見抜けるわけではない。
邪竜が再び口を開いた。
『……あの、聞こえますか?』
セレスティアは息を呑んだ。
今度は、意味が分かる。
『すみません、そこから少し離れてもらえますか?』
「何をするつもりですか」
『……あれ?』
「どうしました?」
『今、あなたの言葉が分かりました』
邪竜の声が、少し弾んだ。
『こんなふうに話せるの、久しぶりです』
「翻訳魔法を使いました。私の言葉も通じているようですね」
『そういう魔法があるんですか。……ありがたいです』
セレスティアは予想外の反応に戸惑ったが、今は頭上の爪の方が気にかかった。
「それで、何をするつもりなのですか?」
『ああ、すみません。落ちてきた石を、床に下ろしたいんです。そちらに転がるといけないので』
セレスティアは爪に載った石材を見た。確かに、あのまま手を離されれば危険だ。
「……分かりました」
彼女が距離を取ると、邪竜は崩れた石材をゆっくりと床へ下ろした。
重い音が響いたものの、それ以上の崩落は起きなかった。
『よし……これなら大丈夫そうですね』
邪竜の声は、どこかほっとしたようだった。
世界を滅ぼすと伝えられる存在が、彼女の無事を確かめている。罠の可能性は捨てきれないが、それにしては回りくどい。
「あなたが……邪竜エデンですか」
『そう呼ばれてます』
「なぜ目覚めたのですか」
問わずにはいられなかった。
『なぜ、と言われても……』
邪竜は足元に散らばった結晶の破片へ目を向けた。
『起こされたから、ですかね』
「起こされた……?」
『俺としては、まだ眠っていたかったんですけどね』
セレスティアは眉を寄せた。
「封印されていたことは覚えているのですね。それでも、眠ったままでいたかったと?」
『あそこなら静かですし、誰にも迷惑をかけなくて済みますから』
封印を望む邪竜など、どの文献にも記されていない。
こちらを欺こうとしているのか。それとも、本当にそう考えているのか。
『あの、ひとつお願いしてもいいですか』
「……何ですか?」
『もう一度、封印してもらうことってできませんか?』
「……はい?」
『できれば、さっきまでと同じように』
セレスティアは邪竜を見上げた。
巨大な赤い瞳。鋭い牙。骨と金属が入り混じった異形の身体。
その口から、もう一度封印してほしいと頼まれている。
「それは、あなたの意思で?」
『そうですけど』
「そこまでして、なぜ封印を望むのですか」
『この身体で外に出るのは、いろいろ大変でして』
「大変、ですか?」
『普通に歩くだけで地面が揺れますし、声だって下手に出せません。街に近づいたら、皆さん怖がるでしょう?』
確かに、あの巨体が人里に現れれば、誰もが警戒するだろう。まして、目の前にいるのは伝承に残る邪竜なのだ。
「では、世界を滅ぼすつもりはないのですか?」
『ないですよ』
「ですが、あなたは世界を滅ぼすために生まれたと伝えられています」
『まあ……そのあたりは、いろいろありまして』
邪竜は困ったような声で続けた。
『でも、俺はそんなことをしたくありません』
「私に、その言葉を信じろと?」
『すぐには無理だと思います。こんな姿ですし、俺だって同じ立場なら疑いますよ』
疑念を向けられても、邪竜は気にした様子がない。セレスティアには、それも不可解だった。
セレスティアは少し考え、口を開いた。
「再封印についてですが、残念ながらお引き受けできません」
『……できないんですか?』
「今に伝わっているのは、封印を維持するための術式だけです。新たに施す方法は、すでに失われています」
『そうですか……』
心底残念そうな声。
相手を信じたわけではない。それでも、こうして言葉を交わせることには、少し安堵していた。
「……申し遅れました。私は聖教の聖女、セレスティアと申します」
『セレスティアさん、ですね。よろしくお願いします』
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
◇
セレスティアさんの魔法のおかげで、ようやく人間と言葉を交わせた。しかも、俺の話をちゃんと聞いてくれる。昔は声をかけるだけで逃げられていたので、それだけでもありがたい。
再封印できないのは残念だが、失われた術では仕方がない。
そう思ったのも束の間、天井のどこかで石が軋んだ。
大きな揺れは収まっているものの、亀裂の入った石柱からは時折、細かな砂が落ちてくる。
……ここ、いつまで持つんだろう。
「セレスティアさん。ここ、まだ崩れる心配があるんですか?」
「この地下聖堂には、封印の術式によって支えられていた部分もあります。今は揺れが収まっていますが、安全とは言えません」
「それなら、早く外へ出たほうがよさそうですね」
「……その姿で地上へ出るのは、避けたほうがいいと思います」
セレスティアさんは出口の方角へ目を向けた。
「山腹には聖教の施設があります。麓には人の暮らす集落も。今のあなたが地上に出れば、すぐに見つかってしまうでしょう」
「……ああ。邪竜が出てきたなんて知られたら、大騒ぎですよね」
「逃げ惑う人が出れば、それだけでも危険です。あなたの身体の大きさを考えれば、なおさら」
崩れかけた地下聖堂に居続けることも、人々の前に姿を現すこともできない。
せめて、姿を隠して人のいない場所まで移動できればいいのだが。
そう考えているうちに、目覚めたときからの身体の違和感が、また気になり始めた。
封印される前は、骨と機械と影が一つの身体としてつながっていたはずだ。
ところが今は、影の部分についてはどこまでが自分の身体なのかはっきりしない。
どうも巨大な肉体の大半は、まだ結晶の奥にあった空間に引っかかっているらしい。
ふと足元を見ると、床に前脚の大きな影が落ちていた。
妙なことに、その影の奥まで、自分の感覚が続いている気がする。
「……お?」
前脚を少し動かした。床の影も、それに合わせて形を変える。
そこまでは当たり前だ。
だが、影が動いても、奇妙な感覚は消えなかった。床に映った黒い輪郭の向こうにも、自分の身体が続いているような。
……もしかして。
この影の中に、身体を入れられるんじゃないだろうか。
封印される前には、こんな感覚はなかったはずだ。
理由は分からないが、試してみる価値はありそうだった。
「セレスティアさん、ちょっと試してみたいことがあるんですが」
「何をするつもりで?」
「俺の身体、影みたいになってるところがありますよね。普通の影にも入れるかもしれなくて」
「影の中に、ですか?」
俺は前脚の下に落ちた影を示した。
セレスティアさんはしばらく観察したあと、近くの石柱へ目を向けた。
「……試すなら、まずあの石柱の影にしてください。結晶の破片には、まだ魔力が残っています」
「分かりました。あそこで試します」
俺は前脚を石柱の根元へ近づけた。
燭台の光によって、床には濃い影が落ちている。
その暗がりに触れた瞬間、指先を水面に沈めたような感覚があった。
……これ、入れるのか?
試しに、前脚を押し込んでみる。
巨大な爪が、音もなく影へ沈んだ。
「……おお」
本当に入った。
さらに意識を集中すると、影が身体全体へ広がっていった。
身体が縮むわけではない。
ただ、巨大な肉体が黒い水面の向こうへと沈んでいく。
最後に頭部が消えたところで、視界が変わった。
暗闇の中にいる。
けれど、外の様子は分かる。
石柱の根元には、俺が入り込んだ影があるだけだ。
「エデン? 聞こえますか?」
セレスティアさんが呼びかけてきた。
「ここですよ。聞こえてます」
「本当に、入れたのですか?」
「入れちゃいましたね」
彼女はしばらく言葉を失っていたが、やがて杖を掲げ、何やら魔法を使い始めた。
石柱の周囲に淡い光が広がる。
「この影から魔力を感じます。でも、身体そのものは別の場所にあるような……」
「こっちは真っ暗なんですけど、外の様子は分かりますよ」
「影を入口にして、別の空間へ入ったのでしょうか」
別の空間、と言われても実感はない。
だが、この能力を使えば、あの巨大な身体で周囲を壊さずに済むかもしれない。
このまま移動もできるだろうかと、身体を前へ進めようとして気づく。
「……あれ?」
進めない。
無理に身体を動かそうとすると、影の外へ前脚がはみ出してしまう。
石柱から離れた床に巨大な爪先が現れ、石床が軋んだ。
「うわ、まずい」
慌てて引っ込める。
影に潜れても、好きな場所へ移動できるわけではないらしい。
ここに留まっている間に石柱が倒れたり、燭台の火が消えたりしたらどうなるのだろうと思うが、試す気にはなれなかった。
封印が砕けた場所には、いずれ調査も入るだろう。セレスティアさんの魔法には反応したし、逃げようとすれば体が床から飛び出してしまう。
姿を隠せても、石柱の根元から離れられないのでは意味がない。
「エデン、確認させてください」
「何でしょう?」
「影の中を、そのまま移動することはできないのですね」
「そうみたいです。動こうとすると、身体が出てしまって」
セレスティアさんは少し考えてから、杖を掲げた。
杖先の光が石柱を斜めに照らし、床に落ちた影が長く伸びていく。
けれど、俺のいる場所は変わらなかった。影がどれだけ伸びても、身体の感覚は石柱の根元に留まっている。
「……影を伸ばしても、移動はできませんか」
「駄目みたいです。ここから動けませんね」
「それなら、影を落としているものが動けば……」
セレスティアさんの言葉が途切れた。
彼女は石柱から目を離し、自分の足元を見つめている。
その視線を追って、ようやく思い当たった。
……そうか。人間が歩けば、その影も一緒に動く。
セレスティアさんの影に入れれば、ここから出られるかもしれない。
それならありがたい。少なくとも、この場所を壊さずに済む。
「あの、セレスティアさんの影なら……」
「……そこまでは思いつきました」
セレスティアさんは、足元から目を上げなかった。
「入れてもらえるなら、助かるんですけど」
「少し、考えさせてください……」
◇
セレスティアは足元の影を見つめた。
影を作る物体そのものを移動させるという発想は理にかなっている。だが、それを自分で試すとなれば話は別だ。
邪竜がその気になれば、至近距離から襲われるおそれがある。善意を装っている可能性も捨てきれない。
それでも、このまま聖堂に残すことはできなかった。発見されれば争いになり、巨体を動かすだけで周囲を巻き込む危険がある。
先ほど落石から自分を守り、再封印まで望んだことは確かだ。その振る舞いを信じるべきか、まだ判断できない。
少なくとも彼の真意を確かめるまでは、自分の目が届くところに置いておきたかった。
「エデン。影を重ねれば、こちらへ移れますか?」
『たぶん。試したことはないですけど』
「では、先に約束してほしいことがあります」
セレスティアは石柱の影へ向き直った。
「私の許可なく影から出ないこと。人を傷つけないこと。それから、当面は私の指示に従ってください」
『構いません。無茶なことでなければ』
「それから、石柱の影では通常の探知魔法に反応しました。私の影に移るなら、隠蔽術式を施します」
『それなら、見つからずに済むんですか?』
「大きな力を使ったときまで隠せる保証はありません。その点は気をつけてください」
『分かりました』
邪竜は素直に彼女の提案を受け入れる。
「隠蔽の内側には、私だけが魔力の変化を確かめられる術式も組み込みます」
『……監視、ですね』
「あなたを力で止めることはできません。せめて異変には気づけるようにしたいのです」
『それで安心できるなら、どうぞ』
自分から監視を申し出ても、邪竜は嫌がらない。そのことにも、セレスティアは戸惑った。
「地上へ戻ってからのことも、お伝えしておきます。あなたの復活は、当面伏せるつもりです」
『……隠してもらえるんですか?』
邪竜に誤解されないよう、セレスティアは言葉を続けた。
「邪竜の復活が知られれば、聖教も諸国も動くでしょう。あなたが戦いを望まなくても、衝突は起こり得ます」
『それは困りますね。戦う気なんてありませんから』
「ですが、隠し通すつもりはありません。あなたが本当に何を望んでいるのか、もう少し確かめたいのです」
『それまでは、静かにしていればいいんですね』
「そうしてください。教皇猊下には、いずれ私からお話しします」
『分かりました。余計なことはしません』
セレスティアは頷いた。今は、人目に触れさせずに真意を確かめたい。
「準備をします。少し待っていてください」
セレスティアは杖を掲げた。
床に落ちた自分の影を、淡い金色の文字が取り囲む。
外からの探知を遮る術式。その内側に、自分だけが魔力の変化を確かめられる感知術式を組み込む。
最後に、影の輪郭を安定させる補助術式を重ねた。
文字が薄れ、床にはいつもの影だけが残った。
これで十分かどうかは、実際に試してみなければ分からない。
「では……試しましょう」
『お願いします』
セレスティアは石柱に歩み寄り、自分の影をその根元に落ちた影へ重ねた。
彼女は杖を握りしめた。
世界を滅ぼす邪竜を、自分の影へ迎え入れる。
昨夜の自分に話しても、信じてもらえないだろう。
石柱の影が彼女の影に触れた。
瞬間、隠蔽術式の内側に設けた感知術式が、途方もない魔力反応を捉えた。
「──っ!」
結晶の奥で見た、果てのない暗闇。
あの気配が今、自分の足元に収まろうとしている。
それでも術式は乱れず、影の輪郭も保たれていた。
『……移れました』
頭の中で響くように声がした。
セレスティアは自分の影を見下ろす。
見た目には何の変化もない。
セレスティアは、通常の探知魔法で自分の影を確かめた。石柱の影では捉えられたエデンの魔力が、今は反応しない。
隠蔽術式の内側に仕込んだ感知術式だけが、彼の存在を示していた。
通常の探知を防ぐことには成功した。ただし、エデンが力を振るったときの影響は未知数だ。
「少し歩いてみます」
彼女が一歩踏み出すと、影も動いた。
『おお。ついていけますね』
さらに数歩進んでみても、感知術式は安定している。エデンの身体が外へ現れる様子もない。
「無理はありませんか?」
『全然。いやあ、便利ですね』
セレスティアは足を止めた。
便利。
巨大な身体を動かさずに済む本人は嬉しいだろう。だが、その身体を自分の影に入れている側としては、複雑だった。
「エデン、ひとまず影からは出ないでください」
『勝手には出ませんよ』
「それから、しばらくは声も控えてもらえますか?」
『はい、静かにしてます』
それきり、声は聞こえなくなった。
……妙に律儀な邪竜だった。
◇
さて。
影の中というのは、思いのほか快適だった。
外の様子も分かるし、身じろぎしただけで周囲を壊す心配もない。
封印前にこの能力があれば、あんなに苦労せずに済んだのだろうか。
……まあ、今さらか。
セレスティアさんには感謝している。あれだけ警戒していたのに、こうして運んでくれているのだから。
歩き方が少しぎこちないのは、やはり落ち着かないからだろうか。
何か声をかけようとして、思いとどまった。
そうだ。しばらくは黙っていてほしいと言われたんだった。
俺は余計なことを言わず、彼女に任せることにした。
◇
地下聖堂の出口へ向かう途中、セレスティアは何度も足元に目を落とした。
自分の影に邪竜がいる。こんなことは聖女として、前例など聞いたことがない。あってほしくもなかった。
やがて地上へ続く階段が見え、足を止める。上では、退避した術師たちが待っているはずだ。
彼らは祭壇の異常も、結晶に走った亀裂も目撃している。あの赤い眼を見た者もいるかもしれない。
すべてを隠すことはできない。だが、封印が失われたと報告すれば、邪竜の復活が疑われる。調査が始まり、討伐を求める声も上がるだろう。
それは聖教として当然の対応だ。しかし、エデンの言葉を確かめる前に争いが始まれば、彼が抵抗しなくても周囲を巻き込む可能性がある。
まずは時間が必要だった。
セレスティアは杖を掲げ、階段の下に簡易的な封鎖術式を刻んだ。
地下聖堂への入口を、薄い金色の障壁が覆っていく。
封印を修復できる術ではない。それでも、残留魔力の拡散を抑え、許可のない者が祭壇へ立ち入ることは防げる。
地上では、儀式の異常と祭壇の損傷を報告し、安全が確認できるまで立ち入りを禁じる。
封印の喪失とエデンの存在を伏せる以上、不十分な報告であることは分かっていた。
幼い頃から見守ってくれた教皇猊下には、必ず自分の口から説明しなければならない。
エデンの真意を確かめ、争いを避ける方法を考える。それまでの、わずかな猶予でいい。
そう言い聞かせても、胸の重さは消えなかった。
「……教皇猊下」
セレスティアは、誰にともなく呟いた。
「私は、どうすればよいのでしょうか」
当然、返事はない。
影の中の邪竜は、頼まれたとおり黙っている。
……それだけでも、今はましだと思うしかなかった。