リュシアに言わせれば、セレスティアは昔から嘘が下手だった。
隠し事をすると、叱られる前から眉尻が下がる。幼い頃の悪戯は大抵それで露見し、教皇にまで表情だけで「今度は何をしたんだい」と尋ねられたことがある。
そんなセレスティアが今、聖教の術師たちに重大な事実を伏せようとしていた。
千年以上にわたって封じられていた邪竜エデンは、すでに目覚めている。そればかりか、当の邪竜は彼女の影に潜み、地上までついてきていた。
教皇に知られたら、どんな顔をされるだろう。子供の頃のように叱られるだけでは済まない。
「……大丈夫。説明することは決めたでしょう」
自分に言い聞かせ、セレスティアは法衣を整えた。階段の下には、つい先ほど施した封鎖術式がある。
地上で待つ術師たちには、儀式の異常と祭壇の危険性を伝える。それ以上のことは、今は話せない。
足元の影は静かなままだった。エデンは、黙っていてほしいという約束を守ってくれているらしい。
せめて自分も、取り乱さずに話を終えなければ。
セレスティアは最後の段を上がり、聖堂の扉に手をかけた。
◇
「聖女様!」
扉を開けるなり、待機していた術師たちが振り向いた。先頭にいた壮年の司祭は彼女の姿を認めると、ほっとしたように息を吐く。
「ご無事でしたか。なかなかお戻りにならないので、地下で何かあったのではと……」
「ご心配をおかけしました。こちらの負傷者は?」
「軽傷が数名です。皆、手当てを受けています。聖女様が結界を張ってくださらなければ、あの落石で……」
「それなら、よかった」
セレスティアは室内を見渡した。顔色の悪い術師はいるものの、重傷者は見当たらない。
ひとまず胸をなで下ろしたところで、司祭の視線が階段へ向かった。
「それで、封印の方はどうなったのでしょう」
やはり、避けられない。
「儀式は中断しました。封印を修復する術式に異常が起こり、これ以上続けられる状態ではありません」
「……封印は、保たれているのですか?」
セレスティアは返答を急がなかった。正直に答えれば、封印が失われたと告げることになる。だからといって、保たれていると嘘をつくこともできない。
「少なくとも、今の状態で再び術式を動かすべきではありません。地下には不安定な魔力が残っています。入口は封鎖しましたので、私が安全を確認するまでは誰も近づかないでください」
司祭は眉を寄せた。
「調査班も入れないということですか」
「はい。状況を知りたいのは私も同じです。ですが、先ほどの異常を思い出してください。調査のために人を危険にさらすわけにはいきません」
司祭が考え込んでいる間、セレスティアは視線を逸らさなかった。危険性を伝えたのは事実でも、その原因については伏せたままだ。
「……承知しました。入口にはこちらでも見張りを置きます。教皇猊下へは、私どもからご報告を」
「いえ。儀式の責任者は私です。報告も、直接行います」
「ですが、ひどくお疲れのようです。少しお休みになってからでも……」
「お気遣い、ありがとうございます。出発までは休ませていただきます」
セレスティアが頭を下げると、司祭はそれ以上引き留めなかった。周囲に指示を出すため離れていく背中を見送り、彼女はそっと息を吐く。
言ったことはすべて事実だ。それでも、司祭が最も知りたい事実を伏せているのだから、後ろめたさは消えない。
「……聖女様」
呼び止めたのは、地下聖堂で最後まで祭壇を見つめていた若い術師だった。
「何か?」
「退避する前に、結晶の奥で……何か、大きなものが動いたように見えたんです」
術師は言い終える前に周囲を気にし、声を落とした。
「あ、いえ、光のせいかもしれません。あんな状況でしたし」
セレスティアは彼の表情を見た。見間違いとして片づけたそうにしてはいるものの、本人も納得していないらしい。
何を、どこまで見たのだろう。今すぐ確かめたいが、ここで詳しく尋ねれば、ほかの術師の注意を引いてしまう。
「覚えていることを、後ほど書き残してもらえますか。小さなことでも構いません。私が必ず確認します」
「……はい。分かりました」
彼が頭を下げる。セレスティアは会釈を返してその場を離れたものの、背中に残る視線がなかなか振り切れなかった。
◇
控えの間に入ると、セレスティアは扉を閉め、念のため室内に遮音の術式を施した。
書き物机には水差しと杯が用意されている。椅子に腰を下ろす前に、疲れた身体を支えるように机の端を掴んだ。
「エデン。今なら話せます」
『あ、もういいんですね。お疲れさまです』
「……ええ、本当に」
『外の人たち、無事みたいでよかったです』
その言葉には、素直に頷けた。
「そうですね。それだけは安心しました」
『それにしても、さっきの説明は上手でしたね。誰にも気づかれずに済みましたし』
「……聞いていたのですか?」
『はい。影の中からでもセレスティアさん以外の声も聞こえるみたいで。あ、まずかったですか?』
「いいえ。ただ、上手く隠せたからといって、褒められることではありません」
水差しに伸ばした手が止まる。司祭は彼女の説明を信じ、地下聖堂に近づかないと約束してくれた。
若い術師ですら、自分が目にしたものを記憶違いと思おうとしていた。
「あなたが目覚めたことを私は報告しませんでした。本当なら真っ先に知らせるべきなのに」
『……すみません。そんなつもりで言ったんじゃなかったんです』
「分かっています。私が勝手に、後ろめたく感じているだけですから」
しばらく間があってから、エデンの声が戻ってきた。
『……じゃあ、この話はここまでにしておきます』
「ありがとうございます」
エデンはそれ以上、弁解も慰めも口にしなかった。セレスティアは杯に水を注ぎ、ひと口飲んでから、別の疑問を切り出した。
「それより一つ確かめたいのですが……あなたの声は、どうやって私に届いているのでしょう?」
『どうやって……と言われても、普通に喋っているつもりなんですが』
「しかし、空気を通して聞こえている感じではないのです。頭の中で言葉を受け取っているような……」
『俺にはよく分からないですね』
封印の祭壇で聞いた声とは、響き方が違っていた。影から直接言葉を受け取っているのかもしれないが、ほかの人にも聞こえるのかどうかまでは分からない。
「今は二人きりですから構いません。ただ、人前では話しかけないでください。あなたの声が仮に誰にも聞こえなくても、私が反応したり返事をすれば不審に思われます」
『なるほど。気をつけます』
セレスティアは頷きかけ、思い直す。エデンに話しかけないよう言っておきながら、自分の方が先にボロを出してしまうかもしれない。
封印の問題も、教皇への報告も残っている。だが、休まなければ考えをまとめることさえ難しそうだった。
セレスティアが椅子へ深く腰かけたところで、廊下を慌ただしい足音が近づいてきた。
「聖女様! 緊急の伝令です!」
彼女は遮音の術式を解いた。
「どうぞ、入ってください」
若い聖職者が一礼して入り、封書を差し出した。端には、遠方からの魔力通信を文字に転写した際の淡い光が残っている。
「アルメシアの聖教支部から、救援要請が届きました」
故郷の名に、セレスティアは椅子から立ち上がった。
「……アルメシアが?」
「はい。西門の防衛線が突破され、敵が市街へ入り込んでいるそうです。通信が乱れていて、詳しい状況はまだ……」
セレスティアは封書を開いた。欠けた文字を追ううちに、学院が避難民を受け入れながら防衛戦を続けていることが分かった。
そして、現地の指揮を執る者の名。
リュシア。
幼い頃から何かにつけて張り合い、喧嘩した翌日には平然と隣へ座ってきた友人。聖女として旅立つ日も、いつもと変わらない口調で送り出してくれた。
今、そのリュシアが故郷を守るために戦っている。
「最初の襲撃はいつですか?」
「報告によれば半刻ほど前です。ですが、続報が入らず……」
「イグノートの数は?」
「数百体規模とのことです。通常とは異なる個体も確認されたようですが、指揮している者までは分かっていません」
書面の途中に奇妙な符号が混じっていた。転写の失敗にも見えるが、術式そのものへの干渉を疑わせる乱れ方だ。
「……使徒が関わっている可能性があります」
「私どもも、そう考えています」
セレスティアは封書を畳んだ。
「移動の手配をお願いします。私が現地へ向かいます」
「聖女様が、今からですか? 封印の儀式を終えたばかりで……せめて教皇猊下のご指示を仰いでからでは」
「返事を待っている間にも、避難している人たちは危険にさらされます」
「ですが、お一人で向かわれるには……」
「戦えるかどうかは、現地を見て判断します。今は一人でも多くの人に逃げる時間をつくりたいのです。教皇猊下へは、アルメシアへの救援に向かったと報告してください」
聖職者はなお心配そうだったが、セレスティアの意思が変わらないと悟り、深く一礼して出ていった。
彼女は杖の聖石を点検し、携帯用の魔力結晶を取り出した。封印の儀式で消耗した魔力が、短い休息で戻るはずはない。準備を整えながら、使える術式を頭の中で数えていく。
『セレスティアさん』
影から声がした。
『……その街、セレスティアさんにとって大切な場所なんですね』
「ええ。私が育った街です。大切な友人も、まだそこにいます」
『……それは、急がないといけませんね』
セレスティアは手を止めずに頷いた。
『俺にもできること、ありますか?』
「いえ。私が許可を出すまでは、勝手に力を使わないでください。何があっても」
手助けを申し出た相手に、命令するような言い方になってしまった。彼の力で救える命もあるかもしれない。
それでも地下聖堂で見た巨大な爪を思い返すと、力の及ぶ範囲も加減の仕方も分からないまま、頼る気にはなれなかった。
『……はい。分かりました』
「ごめんなさい。あなたが助けようとしてくれるのは分かりました。ただ、あの街には大勢の人がいます。もし予想もしないことが起きたら……」
『あの身体ですもんね。俺も、うまく扱えるとは言い切れません』
エデンが先にそう認めたので、セレスティアは続ける言葉を失った。彼自身も自分の力を持て余している。
それを知りながら、協力を拒むほかないのが歯がゆい。
「現地を見てから判断させてください。本当に必要になったら、あなたにも相談します」
『ええ。呼んでくれれば、いつでも』
セレスティアは杖を握り直し、残りの準備に取りかかった。
窓の向こうでは、霊峰の稜線に雲がかかっていた。アルメシアは、そのずっと先にある。
セレスティアは旅装を整え、部屋を後にした。
◇
アルメシアの学院では、避難を知らせる鐘が鳴り続けていた。
西門から逃れてきた市民が正門へ押し寄せ、職員と術師たちは地下礼拝堂へ誘導している。その奥にある退避通路は街の東側へ通じており、学院の学生たちも同じ経路で避難する手はずだった。
「階段では走らないで! 子供たちを先に通して!」
リュシアは声を張り上げながら中庭を横切った。普段なら学生たちの話し声が聞こえる場所に、今は足音と怒号が反響している。
「リュシア様、第二防衛線も突破されました!」
駆け込んできた衛兵の肩には、鎧の破片が残っていた。
「西門から下がった部隊は?」
「こちらへ合流しようとしていますが、敵が速すぎて……」
「分かった。怪我人を先に通して。あなたも手当てを受けなさい」
「ですが──」
「次の報告を持ってくる前に倒れられたら困るの。行って」
その言葉を受け衛兵が駆け去ると、街路の向こうで石壁が崩れた。
粉塵の中から現れたのは、人間の背丈ほどもある白い塊。硬質な板を黒い糸のようなもので縫い合わせた胴体から、長さの違う六本の脚が伸びていた。顔はなく、前面に並ぶ穴から規則正しい音だけが漏れている。
かち、かち、かち。
イグノート。使徒が生み出す眷属は、生物よりも魔法で動く道具に近い個体さえある。
だがこうして迫るものを見ると、道具と呼べるかさえ怪しかった。
先頭の一体が瓦礫を越えると、同じ姿の個体が後ろから何十体も姿を現した。
「正門での受け入れは、ここまでよ。まだ街から逃げてくる人は、東側の通用門へ誘導して!」
「リュシア様、正面を空けるわけには……」
「だから、私が残るの。門の中には近づけさせない」
衛兵を走らせると、リュシアは杖の先へ魔力を集中させた。
幾筋もの光が街路を走り、先頭のイグノートを横倒しにする。倒れた個体は後続を巻き込んだが、群れは速度を緩めない。
仲間を障害物のように踏み越え、まっすぐ学院を目指してきた。
「……本当に、壊れるまで進む気?」
獣なら警戒する。軍勢なら陣形を変える。だが目の前の個体には、どちらの反応もなかった。
「リュシア様! 外周結界の術式が変化しています!」
振り返ると、学院の外壁に沿った結界が不規則に揺らぎ、光の壁に穴が開き始めていた。展開した術式の文字が、端から知らない形に変わっている。
「供給魔力は?」
「十分あります。でも、制御が利かなくて……」
「魔力不足じゃないわ。術式を誰かに書き換えられてる!」
イグノートたちは、開いた穴へ向かって進路を変えた。
「外周結界は解除! そのまま維持しないで!」
「解除したら、門が──」
「今の術式は相手に使われてるの。維持する方が危ない!」
リュシアは自ら外周結界を切り、短い基礎術式で独立した障壁を張り直した。守れる範囲は狭く、魔力の消耗も大きい。けれど一つ破られても、ほかまで巻き込まれる心配は少ない。
小さな光の壁がイグノートを押し返す。
「皆も簡易障壁へ切り替えて。異常が出たらすぐ解除、張り直すのをためらわないで!」
術師たちが次々と詠唱を始め、学院の入口に小さな障壁が並んだ。
それで十分とは思わない。だが、今必要なのは勝利ではなく、地下へ逃がすための時間だ。
街路のイグノートは一向に減らず、群れは障壁の薄い場所へ集まり始めた。何者かがこちらの対応を観察し、動きを変えているのだ。
「……なるほど。そういう相手がいるのね」
リュシアが杖を持ち直したとき、街路の足音が途切れた。白い群れが左右に割れ、その奥から黒い輪がゆっくりと浮かび上がる。
◇
黒い輪は、馬車の車輪を幾つも重ねたほどの大きさだった。
内側には触れ合わない薄板が幾枚も浮かび、異なる速さで回転している。
中心から垂れた細い腕には何十本もの指が生えており、板をなぞるたびに表面の文字が削られ、新たな文字へ置き換わっていった。
リュシアは魔力の流れを探った。周囲のイグノートとは比較にならない。あれが群れを動かしているのだろう。
「……不気味ったらありゃしないわね」
円環がゆっくり回り、板の一枚に文字が浮かんだ。ほどなく後方から、術師の切羽詰まった声がする。
「リュシア様、詠唱が……!」
「何が起きたの?」
「いつも使っているはずなのに、次の言葉が思い出せないんです!」
近くの術師も、魔法陣を展開しかけたまま動きを止めていた。杖には魔力が集まっているのに、詠唱だけが続かない。
リュシアは自分でも試した。
「光よ、我が手に集い──」
そこで言葉が途切れる。魔法の効果も、魔力の流し方も分かっている。それなのに、いつも自然に口をついて出るはずの一節だけが見つからない。
内側の薄板では、指が新たな文字を刻み続けている。外周結界のときとは違う。狙われているのは魔法陣ではなく、術を使う人間の側だった。
「詠唱は諦めて! 魔力を直接動かせる人は、できる範囲で迎撃して!」
難しい指示なのは承知している。詠唱も魔法陣も借りずに魔力を形にするには、相応の技量が要る。
実際、あれほど頼りにした簡易障壁も短い術式によって形を保っていた。
リュシアは杖に集めた魔力を押さえつけ、暴れる光を塊のまま前へ放った。しかし円環の前に現れた文字の膜が光を受け止め、幾筋にも裂いて散らしてしまう。
「……これまで防ぐわけ?」
ただ、その瞬間に見えたものがあった。
詠唱を妨げる板、攻撃を防ぐ板。内側の指は一枚ずつ文字を書き換え、そのたびに板の働きが変わっている。
防御を成立させるために使った板を、同じ瞬間に別の命令へ回すことはできないらしい。
板の枚数にも書き換えの速さにも限界がある。そこに気づいたリュシアの頭に、一つの案が浮かんだ。
「そういう仕組みなら、やりようがあるわね」
リュシアは門の内側を確かめた。幼い学生たちが地下礼拝堂へ向かい、職員が最後尾を見守っている。まだ全員は階段を下りきっていない。
「残っている人は地下へ! 最後の避難者が入ったら正門を閉めて!」
「リュシア様はどうなさるのですか?」
「もう少しだけ、あいつを引きつけるわ」
「お一人では危険です!」
「だから皆を下がらせるの。誰かを庇いながらじゃ、あいつの隙を狙えないでしょう?」
衛兵はなおも何か言いたそうだったが、やがて頷いて駆け去った。
正面から撃てば防がれる。それなら、相手が自分の防御を捨てざるを得ない状況をつくるしかない。
リュシアは詠唱を使わずに魔力を集め、細く絞って杖の先へとどめた。手元で光が暴れ、指に痺れが走る。それでもまだ放たない。
防御用の文字の膜は健在だ。あれを退かさなければ届かない。
「……さあ、こっちを見なさい」
彼女は杖を円環から逸らし、その下に集まるイグノートへ魔力を叩き込んだ。石畳が砕け、白い群れが巻き込まれる。
円環の指が動き、薄板の文字が次々と入れ替わった。イグノートたちが一斉にリュシアへ向き直り、学院から離れて迫ってくる。
どうやら、眷属を狙う攻撃に対して、彼女自身を排除する方を選んだらしい。
円環がさらに板を組み替える。自身の防御を担っていた文字が消え、別の指によって攻撃用の文字が刻まれ始めた。
それを確認した時、リュシアは杖を引いて残った魔力を一点へ圧縮した。術式で編んだ槍ではなく、力任せに形を保っただけの光だ。それでも、いま必要なのは威力と速さだけだった。
円環の指が最後の文字をなぞる。
「──そこ!」
光が放たれた。
光は守りの戻りきらない輪の内側へ滑り込み、文字を書き換えていた一枚の薄板を貫く。甲高い音とともに亀裂が走った。
後方から歓声が上がるが、リュシアは杖を下ろさない。
円環は大きく傾いたまま、なお空中に留まっていた。
「今のうちに後退して! 戦える人も無理に残らないで、学院の中で次の防衛線を作って!」
術師たちが動き出す。リュシアはその足音が遠ざかるのを確かめ、もう一度円環へ向き直った。
亀裂の入った薄板では文字が不規則に明滅している。その周囲で他の板が回転を早め、内側の指が次々と新しい文字を書き込んでいく。
やがて円環はゆっくりと傾きを戻し、損傷した板を内側へ引き込むように配置を変えた。
どうやら、残された板で失った機能を補おうとしているらしい。
薄板の一枚を損傷しても円環は自力で立て直してみせた。ならば、今の攻撃からも何かを学んでいると考えた方がいい。
ここは彼女が学び、友人と競い合った学院だ。これから魔法を覚える子供たちもいる。積み重ねてきたものを守りたい。そのためにも、まずは皆を生きて逃がさなければならなかった。
額を流れる汗を袖で拭い、リュシアは杖を構え直した。その表情に余裕は無い。それでも彼女は気丈に振る舞ってみせた。
「さあ、次はどう来るつもり?」
◇
地の底に築かれた広大な空間で、無数の透明な板が玉座を取り囲んでいた。
炎の上がる街路、逃げ惑う人々、学院の正門。アルメシアへ送り込んだ眷属たちが捉えた光景が、板の表面を絶えず流れている。
その一枚に、玉座の少女は目を留めた。
彼女の名はティルナノーグ。
六柱の使徒の一柱にして、世界を滅びへ導く存在である。
黒い円環の内側で、亀裂の入った薄板が不規則な光を放っている。
ほかの板は配置を変え、損傷によって生じた機能の欠落を補おうとしていた。
「あら。見事に一本取られましたね」
ティルナノーグは感心したように微笑んだ。
指先を動かすと、杖を構える赤髪の術師が大きく映し出される。
「攻撃を誘って、守りが手薄になる瞬間を狙う。なるほど、あの子の癖をよく見ていらっしゃる」
円環は彼女のお気に入りの眷属の一つだった。
術式を読み解き、書き換え、相手の工夫に応じて自ら対処法を組み立てる。与えられた権能をただ振るうだけではなく、経験から学ぶことのできる優等生だ。
もっとも、今回の駆け引きでは人間の術師に出し抜かれてしまったらしい。
「少し、相手を素直に見すぎましたね。ですが、失敗から何を学ぶかも大切です」
叱るでもなく、ティルナノーグは円環の動きを見守った。
損傷した板は元に戻らない。それでも残された板の働きを組み替え、守りを立て直し始めている。
同じ誘いに乗ることは、もうないだろう。
「ええ。よくできました」
その声には、教え子の成長を喜ぶような穏やかさがあった。
ティルナノーグは別の光板へ視線を移す。
学院の正門では、術師たちが負傷者を支えながら後退していた。
門の内側には避難を誘導する職員が残り、地下へ続く階段にはまだ人の列がある。
誰もが懸命に動いている。
傷ついた仲間を置き去りにせず、魔力が尽きかけても杖を下ろさない。
あの赤髪の術師など、学院から逃げる素振りさえ見せていなかった。
「……立派な方々ですね」
彼女は心からそう思った。
光板を切り替えると、学院の見取り図が現れる。教室、書庫、訓練場。いくつもの建物が渡り廊下で結ばれ、その中央には古い講堂が置かれていた。
長い年月をかけて増築されたのだろう。建物ごとに造りが異なり、同じ用途の部屋にも時代による違いが見て取れる。
「これほどの学院を築くまでに、どれだけの歳月を重ねたのでしょう」
ティルナノーグは書庫の位置に指を置いた。
誰かが発見したことを記録し、それを読んだ者が新たな知識を積み上げる。教師は自分の学んだことを生徒へ伝え、その生徒がいつか次の世代を育てていく。
ひとりの人間が生涯をかけても到達できない場所へ、別の誰かが辿り着く。
彼女は、その仕組みが好きだった。
「本当に、素晴らしいことです」
書庫から教室へ、指先がゆっくりと滑る。
「建物が失われても、人はまた建て直せます。書物を焼かれたところで、覚えている方がいれば同じように書き残すこともできるでしょう」
だからこそ、この学院の術師たちは最後まで戦うのだ。
自分たちが生き残れなくても、学んだ者が一人でも逃げ延びれば、積み重ねてきたものは次の時代へ受け継がれる。
ティルナノーグは彼らの考えを理解していた。
理解したうえで、残念そうな顔を浮かべる。
「ですが、それでは困ります」
彼女の指が、今度は見取り図ではなく、避難誘導を続ける人々の映像に触れた。
「書物も、教える方も、学ぶ方も。それぞれが残っていれば、また始められてしまいますから」
その声に怒りはない。
長年続けてきた研究の、当然の結論を述べるような口調だった。
ティルナノーグは円環へ次の目標を伝えた。学院の書庫と教室、そして退避する人々を守ろうとしている術師たち。
どのように攻略するかは、あの子自身に考えさせればよい。
光板の中で、赤髪の術師が再び杖を構える。
その周囲には、彼女が張り直した障壁がいくつも並んでいた。先ほどより小さく、術式の構造も単純だ。円環の干渉を避けるための工夫なのだろう。
「ふふ。まだ、そんな手があるのですね」
ティルナノーグは嬉しそうに目を細めた。
優れた術師だ。
詠唱を奪われても魔力を操り、守りを崩されても別の方法を考え出す。追い詰められるほど、新しい答えを見せてくれる。
ならば、次はどうだろう。
詠唱でも、魔法陣でもない。
長い訓練の末に身につけた、魔力を操る感覚そのものが失われたとしたら。
あの術師は、なお戦う術を見つけられるだろうか。
「……楽しみですね」
円環の内側で指が動き、残された薄板に新しい文字が刻まれ始める。
アルメシアを覆う炎の光景を前に、ティルナノーグは静かに微笑んでいた。