母と妹を奪われ、ひとり生きる少年アーサーは、天馬騎士を目指す一人の少女と出会う。
彼女との交流を通じて、少年は心の奥に隠していた想いと向き合っていく。
原作で語られるアーサーの孤独な境遇と、他人に無関心なようでいて、実は優しいという人物像。
それらを手がかりに、彼がどのような少年時代を過ごし、成長してきたのかを想像してみました。
『ファイアーエムブレム 聖戦の系譜』のアーサーが旅立つ前の、小さな出会いを描いた原作補完短編です。
シレジアの北、トーヴェ。
冬になると、町は深い雪に閉ざされた。
家々の屋根は白く埋まり、石畳の道は朝には見えなくなる。軒先に下げた水桶には薄い氷が張り、戸口を開けるだけで冷気が家の奥まで入り込んだ。人々は薪の残りを数え、空を見上げて次の雪を案じながら暮らしていた。
少年アーサーにとって、雪は美しいものではなかった。
道を塞ぎ、食べ物を奪い、ときには人の命まで奪っていく。降り積もる白さを喜べるのは、暖かな部屋と十分な食べ物を持つ者だけだと、少年は早くから知っていた。
父はいない。
母と妹は、遠い土地へ連れていかれた。
ふとした拍子に思い浮かぶのは、母の声だった。妹の小さな手だった。もう一度聞きたい、もう一度握りたいと思っても、その願いに応えてくれる人は目の前にいない。
アーサーには、まだ自分の力だけで生きていく術がなかった。
それでも、彼は生きていた。
トーヴェには、かつてシグルド軍に助けられた人々が暮らしていた。その軍は、圧政に苦しんでいた町の民を守るために戦った。アーサーの母、ティルテュもそこにいた。
村人たちは、その恩を忘れていなかった。
「ほら、持っていきな。あの人たちには、世話になったからな」
焼きたてのパンを半分に割って渡してくれる人がいた。受け取ったアーサーが礼を言うと、相手は少しだけ困ったように笑った。
「おまえの母さんも、よく頑張ってくれたんだぞ」
そう言いながら、薪の割り方を教えてくれる人がいた。斧を持つにはまだ幼い腕を見て、まずは薪を運ぶことから覚えろと諭してくれた。
雪道の歩き方を教えてくれる人もいた。吹雪の日に外へ出るなと叱ってくれる人もいた。
アーサーは、そんな人々の情けに支えられて育った。
助けられるたびに礼を言い、教わったことは忘れないよう何度も試した。できる仕事がひとつ増えると、次にできそうな仕事を探した。
誰かの世話にならずに済む日が来ればいい。そうなれば、きっと遠くへ行くこともできる。
少年の胸には、そんな漠然とした思いがあった。
そして、ある冬の日。
アーサーは、自分よりも五つほど年上の、一人の少女と出会った。
*
「……また、そんな薄着で出歩いて」
町外れの柵のそばで、少女は呆れた声を上げた。
前にも顔を合わせたことがあったが、今日は風がいっそう冷たい。少女は襟元を押さえながら、雪の上にしゃがみ込んでいる少年を見下ろした。
「寒くないの?」
「さむいよ」
「だったら、どうして?」
「もってないから」
あまりにも当たり前の答えだった。
少女は思わず口を閉じた。寒さを我慢しているのではない。着込む服がなければ、我慢するしかないのだ。そんなことを、少年はまるで今日の天気を告げるように言う。
当のアーサーは、手元の縄と格闘していた。かじかんだ指で端を通しては、結び目がほどけてしまう。何度やってもうまくいかないらしい。
「それより、さっきの結び方、もう一度教えてくれない?」
「……あなたねえ」
少女はため息をついた。それでも手袋を外し、彼の手から縄を受け取る。
「いい? ここを通して、それから引っ張るの」
「うん」
「ただ巻きつけただけじゃ駄目よ。力がかかったときに、ほどけないようにするの」
彼女の指が素早く動く。縄が輪を描き、交わり、ひとつの結び目になる。アーサーは目を輝かせた。
「ちゃんと覚えた?」
「たぶん」
「たぶん、じゃ困るのよ」
言われるままに、アーサーは何度も結び直した。一度目は輪を間違え、二度目は引く方向を間違えた。三度目には形になったが、力を入れるとほどけてしまった。
少女はそのたびに手を止め、何が違うのかを指さして教えた。
ようやく縄がしっかり結ばれると、アーサーは思い切り両端を引っ張った。結び目は崩れない。
「ありがとう。これなら使えそうだ」
「何に使うつもり?」
「いろいろ」
「……本当に、変な子ね」
アーサーは笑った。少女も呆れたまま、ほんの少し口元を緩めた。
彼女が天馬騎士を目指していることを、アーサーは知っていた。
剣の扱いにも、馬の世話にも詳しかった。雪の中で身体を冷やさない方法も、食べ物を長持ちさせる工夫も知っていた。荷物をほどけないように縛るにはどうすればいいか、濡れた革をどう手入れすればいいか。そうした話をするとき、少女の声は自然と生き生きしたものになった。
アーサーにとって、彼女は何でも知っている人だった。
だから、何でも聞いた。
「馬って、雪の中でも走れるの?」
「道によるわ。馬だって足を取られるのよ」
「じゃあ、天馬は?」
「天馬なら空を飛べるけど、飛べば何でも解決するわけじゃないの」
「そうなんだ」
「ねえ、おねえちゃんは、どうして天馬騎士になりたいの?」
「どうしてって……そうね。私のお母さんも、天馬騎士だったらしいから」
「へえ! じゃあ、おねえちゃんのお母さんは、今どこにいるの?」
「もういないわ。昔の戦争で死んだんですって。お父さんも一緒に」
「……そうだったんだ」
アーサーは縄を握ったまま、少女の顔を見上げた。彼女は悲しそうにするでもなく、遠くの雪山を眺めていた。
「私、まだ小さかったから、二人のことはほとんど覚えていないの。親戚の家で育ったのよ」
「おねえちゃんのお母さん、強かったの?」
「そうらしいわ。昔、盗賊が村を襲ったとき、天馬騎士を率いて追い払ったんですって。今でもお母さんに感謝している人がいるの」
「すごいね!」
「でもね、前の領主様は、町の人たちを苦しめたひどい人だったそうなの。お母さんは、その人に仕える軍人だったらしいわ」
「……じゃあ、おねえちゃんのお母さんも、悪い人だったの?」
「どうかしら。私には分からない」
少女は少し考えてから、言葉を続けた。
「町を解放してくれた人たちは、敵だったお母さんの娘だと知っても、私を助けてくれたそうよ。だから、今こうして暮らしていられるの」
「そっか……」
「お母さんがどんな人だったのか、私はまだよく知らない。でも、ひとつだけ思うの」
「なに?」
「人を、その人の立場だけで決めつけちゃだめよ、アーサー」
アーサーは少し首をかしげた。すぐに全部を理解できたわけではなかったが、少女が大切なことを話しているのは分かった。
「うん。覚えておく」
「……本当かしら」
「本当だよ」
少女は小さく笑い、アーサーの手元の縄を指さした。
「それなら、さっきの結び目も忘れないでね」
「それもおぼえてるって」
聞けば聞くほど、知らないことが増えていく。
少女には不思議だった。普通なら、分からないことが続けば嫌になるものだ。けれどこの少年は、知らないことに出会うと、むしろ嬉しそうな顔をした。
教えれば、次に会うときには覚えている。間違えて叱られても、ふてくされずにもう一度やってみる。そして最後には、必ず礼を言った。
いつしか少女も、彼が何を尋ねてくるのか楽しみにするようになっていた。
*
雪が少しずつ緩み始めたある日、二人はいつもの場所で縄を整えていた。
柵の向こうでは、屋根から落ちた雪が小さな山を作っている。冷たい風は残っていたが、雲の切れ間から差す光は、冬の盛りよりいくらか柔らかかった。
少女は、手を動かすアーサーを眺めていた。
この子は、人から教わることを恥ずかしがらない。知らないと認めることも、助けを求めることも、自然にできる。
なのに、肝心な何かだけは、いつも言葉の外に置いているような気がした。
「あなた、どうしてそんなに何でも知りたがるの?」
「知らないから」
「それは分かってるわ」
「知らないと困るだろ?」
アーサーは不思議そうな顔をした。少女は返す言葉を失い、少し考えてから問いを変えた。
「じゃあ、あなた自身のことを聞いてもいい?」
「いいよ」
「何をしているときが、一番楽しい?」
「……何だろうな」
縄を持つ手は止まらなかった。
しばらく待っても答えが出ないので、少女は別のことを尋ねた。
「好きな食べ物は?」
「食べられるものなら、何でも」
嫌いなものがないのではなく、選べるほど食べ物に恵まれてこなかったのだろう。少女はそう思ったが、口にはしなかった。
「寂しくなることは?」
その瞬間、アーサーの手が止まった。
指にかかっていた縄が、膝の上へ落ちる。
「……どうして?」
「どうしてって、あなた、いつも一人でしょう」
「まちの人がいるよ」
「そうじゃなくて」
少女はアーサーの顔を見つめた。
さっきまでの朗らかな表情は残っている。けれど、こちらを見返す目が、ほんの少しだけ遠くなっていた。
「お母さんや、妹さんに会いたくならない?」
アーサーはしばらく黙っていた。
遠くの家から、薪を割る乾いた音が聞こえた。道を行く人の足が、溶けかけた雪を踏みしめている。
「会いたいよ。だから、いつか会いにいく」
やがて少年は、いつもの調子で答えた。
「……そう」
「そのためにも、いろいろおぼえないとね」
アーサーは再び縄を手に取った。今度は先ほど教えた結び方を、確かめるように繰り返している。
少女は、それ以上何も言わなかった。
この子は、嘘をついているわけではない。
聞かれたことには、きちんと答える。知らないことは素直に教わる。人の親切にも、まっすぐ礼を言う。
会いたいと言ったのも、本当なのだろう。いつか会いに行くと決めているのも、きっと本当だ。
けれど、会えない今がどんなにつらいかは、言わない。
誰かに助けを求める声は出せても、自分の心の奥にあるものだけは、決して見せようとしない。
あるいは、見せ方を知らないのかもしれなかった。
少女はその横顔を見つめながら、何か言葉をかけたいと思った。
だが、どんな言葉なら届くのか、そのときの彼女には分からなかった。
*
それからも、二人の交流は続いた。
少女は結び目の作り方だけでなく、道具の手入れや荷のまとめ方を教えた。アーサーは町の仕事を手伝う合間に、教わったことを試しては報告に来た。
できなかったことができるようになるたび、彼は嬉しそうに笑った。その笑顔を見ていると、少女まで少し誇らしい気分になった。
やがて季節が巡り、再び春が近づいた頃。
少女は、町を離れることになった。
天馬騎士としての訓練を受けるためだった。
知らせを聞いたアーサーは、いつもの場所へやって来た。雪はまだ日陰に残っていたが、柵の下には黒い土が顔を出している。
少女は何度も言い方を考えていた。それでも、いざ少年を前にすると、ありふれた言葉しか出てこなかった。
「しばらく会えなくなるわ」
「そう」
アーサーはうなずいた。
「がんばってね」
いつものように、屈託なく笑う。
その笑顔を見て、少女の胸に小さな引っかかりが残った。自分がいなくなっても、この子は変わらず元気でいるのだろうか。それとも、何も言わずに寂しさをしまい込むのだろうか。
「……それだけ?」
「え?」
「寂しくないの?」
アーサーは困った顔をした。どうしてそんなことを聞くのか、本当に分からないらしい。
「……でも、おねえちゃんがやりたいことなんでしょ?」
「そうだけど……」
「だったら、おうえんする」
その言葉に、少女はしばらく少年を見つめていた。
行ってほしくないと言うより先に、相手が望んでいることを考える。彼はいつもそうだった。親切を受ければ喜ぶ。人が新しいことに挑むと聞けば喜ぶ。自分が取り残されるかもしれないことなど、少しも気にしていないように振る舞う。
「あなたらしいわね」
少女は小さく笑った。
しかし、これだけは伝えておかなければならないと思った。
「ねえ、アーサー」
「なに?」
「あなたは、誰かに助けてほしいとき、ちゃんと助けてって言えるでしょう?」
「うん」
「それは、とてもいいことだと思う」
アーサーは照れくさそうに頭をかいた。薪を運べないときも、難しい仕事が分からないときも、確かに彼は人を頼った。頼れば教えてもらえる。助けてもらったら礼を言えばいい。それが、これまで身につけてきた暮らし方だった。
「でもね」
少女は膝を折り、アーサーと目の高さを合わせた。
彼の頬は寒さで赤くなり、髪には吹き寄せられた雪の粒が残っていた。
「悲しいときは、悲しいって言ってもいいのよ」
アーサーの表情が変わった。
何かを返そうとして、口を閉じる。
「……べつに」
「ええ。無理に言わなくてもいいわ」
少女は静かに続けた。
「あなたが何を考えているのか、私には全部は分からない」
「……」
「それでも、あなたには元気で暮らしてほしいの」
アーサーは俯いた。
握っていた縄の端が、指の間でくしゃりと曲がる。
「……げんきだよ」
「そうね」
「ちゃんと食べてるし、仕事もおぼえたし」
「ええ」
「まちの人も、いろいろおしえてくれる」
「そうね」
「だから……」
その先の言葉が出なかった。
母に会えなくても、妹がそばにいなくても、こうして生きていられる。親切にしてくれる人がいる。覚えた仕事だって増えた。いつか迎えに行くために、もっと強くなればいい。
そう考えていれば、寂しいなどと言わずに済んだ。
寂しいと認めてしまったら、次に何をすればいいのか分からなくなる気がしていた。
なのに、目の前の少女はそれでいいと言う。
悲しいなら、悲しいと言ってもいいのだと。
アーサーは唇を噛んだ。
最初の涙が、頬を伝った。
慌てて袖で拭ったが、すぐに次がこぼれた。一度あふれたものは、もう止められなかった。
「……オレだって」
少女は何も言わなかった。
「……オレだって、さびしいよ」
声が震えた。
強くなるつもりだった。仕事を覚えて、誰の手も煩わせないようになるつもりだった。そうすれば、いつか母と妹に会えると信じていた。
けれど、その『いつか』がいつ来るのか、少年には分からなかった。
「かあさんにも、ティニーにも……会いたいよ……!」
アーサーは少女に抱きついた。
手にしていた縄が雪の上へ落ちた。細い肩が震え、押し殺していた声が嗚咽に変わる。
少女は驚いて目を見開いたが、すぐにそっと少年の背中に腕を回した。
「……うん」
それ以上、何も聞かなかった。
大丈夫とも、泣かないでとも言わなかった。母と妹に必ず会えると約束することもできなかった。
ただ、抱きしめた。
凍てついた道を風が通り抜けていく。家々の煙突から立ちのぼる煙が、薄い雲の下へ流れていった。
アーサーは声を上げて泣き続けた。
少女は、その涙が止まるまでそばにいた。
やがて少年の息が落ち着き、ぎゅっと掴んでいた服の裾から指が離れる。
少女はもう一度だけ背中を撫で、それから小さな声で言った。
「元気でいてね、アーサー」
アーサーは何度もうなずいた。
涙を拭った顔には、まだ幼さが残っていた。
それでも少女には、ようやく彼のことを少し知ることができたように思えた。
*
それから、いくつもの冬が過ぎた。
少年は青年になった。
剣を扱えるようになった。魔法も覚えた。薪を割る腕には力がつき、荷を縛る縄は一度で結べるようになった。
厳しい季節を越える方法も、長い道のりに備える方法も、あの町の人々が教えてくれたものだった。
助けられたことを、恥ずかしいと思ったことはない。
むしろ、助けてもらわなければ今日の自分はいなかった。そのことを、アーサーは誰よりよく知っていた。
そして、ついに旅立つ日が来た。
妹を探すために。
トーヴェを離れる朝、アーサーは世話になった人々に挨拶して回った。
朝の空気は冷たかったが、道の脇では雪が解け始めていた。戸口に立つ人々の顔には、心配と、隠しきれない喜びとが入り交じっていた。
「本当に、行くのかい?」
「ああ」
「無茶するんじゃないよ」
「分かってる」
「困ったら、人を頼るんだよ」
「もちろん」
青年は笑った。
その笑顔は、子どもの頃とあまり変わっていなかった。
最後に、町の外れで足を止めた。
柵は古くなっていた。縄を結んでいたあたりの木には傷が増え、冬を幾度も越えたことが分かる。
ここで、一人の少女とよく話した。
結び方を教わった。雪を避ける工夫を教わった。剣や馬のことを聞いては、いくつも質問を重ねた。何を聞いても呆れた顔をしながら、結局は答えてくれる人だった。
彼女は今頃、どこにいるのだろう。
天馬騎士になれただろうか。
もう一度会えたら、礼を言いたい。
あのとき教わったことが、どれほど役に立ったのか。町の人々に助けられながら、ここまで大きくなれたことも。
それから――。
「……元気でいてね、か」
青年は、小さくつぶやいた。
あの日、ただ繰り返した『元気だよ』という言葉を、今なら少し違う気持ちで口にできる。
元気でいることは、何もかも一人で抱え込むことではない。誰かに助けられ、誰かの言葉を受け取りながら、それでも自分の足で歩いていくことなのだと、今は思う。
アーサーは町を振り返った。
家々の屋根から雪解けの雫が落ち、細い煙が空へ昇っている。ここで受けたものを、いつか自分も誰かに返せるだろうか。
答えは、まだ分からない。
だが、歩き始めることはできる。
雪解けの道を、南へ。
まだ見ぬ世界へ。
やがて彼は、解放軍に加わることになる。その先で、幾人もの仲間と出会うことになる。
だが、それはまだ遠い未来の話だった。
今の彼の胸にあるのは、ただ一つ。
受け取った恩を、決して忘れない。
そう心に決めて、アーサーはまだ見ぬ国を目指して旅立った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
アーサーは、他人の心の奥底にあまり踏み込まない人物なのではないか、と考えています。
それは冷淡だからではなく、自分自身も心の奥底を他人に見せようとしないから。
また、アーサーが「家族を奪われて一人ぼっち」だったとしても、決して孤立していたわけではないと解釈しました。
今回は、そんなアーサーの幼少期を想像してみました。
さて、次回は11月8日(日)17:00公開予定です。
『誓いの聖剣』
アーサーとラインハルト。直接対峙することのない二人の指揮官を、ラインハルトとオルエンの視点から描いた短編です。
同じ戦乱の時代を生きながら、異なる道を歩む二人。
その違いを、オルエンはどう受け止めるのでしょうか。
引き続き、お楽しみいただければ幸いです。