砂漠と荒野がどんな書物よりも重要なことをソトアに教えた。それは、わたしたちが現象に抵抗するためだ。人間と言うのは現象に抵抗するとき、最大の力を発揮するものなのだ。尤も対抗するには道具が必要だ。それは大工の鉋であったりする。それは料理人の包丁であったりする。そして、わたしたちの場合はそれが戦闘機であるわけだ。
わたしは、あの訓練中の墜落を今でも記憶している。あのころは今の機体に乗っていなかったから、複座に同僚が乗っていた。相棒と呼ばないのは、それこそ彼とわたしの関係値を表現している。別にきらいなわけではなかったが、仲間に入れこむのは必ずしもすばらしいことではない。そんなふうに感じるには、ソトアは痛みを知りすぎている。つまり喪失することの痛みを。
「どうした?」
同僚は訓練中に、わたしの動揺を感じとった。
「制御ができない」
「どこだ」
「おそらくエンジンだろう。ベイル・アウトの準備をしてくれ」
わたしはできるかぎりの抵抗をしたが無駄に終わった。仕方がないので空中に踊りだすと、機体が墜落してゆくのが見える。そのときは報告書が面倒だとか、始末書はパイロットと整備士のどちらが書くのだろうだとか――あるいは両方なのかとか。そんなことを考えていた。
やがて地上に立ち、遠くの煙をふたりで眺めた。一緒に訓練中の戦闘機が見えなくなっていて、そのうち救助がくるだろうと楽観した。
「故障だろうか」
「そうだな」
身内の整備士が不出来だとは思わなかった。道具と言うのは、そのうち壊れるものなのだ。
それにしても砂漠。そして荒野がわたしたちを取りかこんでいた。不帰順の大地――生命を拒み、どこにも魂をひらかない。こんなふうに大地のはらわたを歩くのは、本当に久しぶりのことだった。しかし、それは記憶の中の大地とはちがっていた。あの香りたつような草の匂いがしない。上空で見るときの印象とはちがう――わたしたちはこの土地を征服することができない。あるいはできなかった。つまり故郷は敵だった。
救助を待っているとき、わたしたちは子供のようにそわそわと落ちつかなかった。と言うのは無邪気にも国の政策――緑化の事業がすこしでも成功していないかと期待しているのだった。
それに孤独感が“わたしたち”を“捉えて”いた。それは今と昔の大地の差異であり、視線はその境界上でわたしたちを見ている。そして(そんなことを知っていながら)この土地に何もないことを認めさせるのだった。
この恐怖をユークトバニアの人間に、ユージアの人間に分かってもらえるなら! わたしたちはよろこんで酒の席を用意するだろう。土地に何もないと言うことは、故郷に何もないと言うことは。国が存在しないのと同じことなのだ。
それでも畢竟――ソトアの人間が旅行先で話をしても、誰にも理解されないのだった。
わたしたちは呆然とする、ユークトバニアの強さに。
わたしたちは愕然とする、ユージアの森林に。
こんなにも外の大地に若草色があることに。
そう言えば、こんな話が残っていたっけ。なんでもソトアの人間がエルジアへ旅行に行ったとき、案内人を困らせたのだとか。どうしてかと言うに、そいつはエルジアのどこかで森を見たときに祈りはじめたのだとか(おそらく敬虔な老人だろう)
――どうして祈るんです?
案内人は言った。
――森があるからです
――どこにでもありますよ
わたしなら、それに“だからです”と返したはずだ。
やがて砂を巻きあげながら、救助のヘリコプターが来た。
「早かったな」
「分かりやすいですから」
ヘリコプターのパイロットは簡単に返した。
「なるほど」
わたしは砂漠を眺めた。
不毛の土地。一杯の水よりも、金塊のほうが安価な大地。
そこには非常に分かりやすく、戦闘機の残骸が散らかされていた。
「昇進前に災難ですね」
「配属先が変わるだけさ」
「謙虚ですね」
「そんなに羨ましいものかな」
わたしは遠くを見るような調子だった。
「ルクス・ルーナエに配属されると言うことは」
これもどことなく、曖昧な記憶だった。と言うのもわたしはすでにシーヴの翼に撃墜されているのだった。
どうにも不便なものだ。残留思念と言うのは。現役のパイロットたちは感じさえもしないだろう。大気中にどれほどの思念が滞留しているのか。
しかし、わたしたちは無念が原因でこの世に残っているわけではない。全員がそうではないかもしれないが――ほとんどは。
それなら、どうして? わたしたちは残っているのだ。
分からない。わたしたちは飛びたいからそうするだけだ。そして、それこそがパイロットたちの本懐なのだ。
すくなくとも、そうしなければならない――しばらくは――戦争の結末を知るまでは。
三番機のタック・ネームをパンテーラと言うのだが、こいつが非常に賭けが好きなやつなのだ。しかもこいつは、そのへんの素人とはわけがちがう。彼の賭けは専攻の経済学を基礎にしていて――これが――そう。
「厄介だな」
ブラフ。
パンテーラの表情を眺める。
フルハウス。
「それなら勝負に出るべきではないですよ」
「今日は最後の勝負なのに?」
「ポーカーはいつでもできますよ」
「イチバチだ」
コール。
「フルハウス」
「フォー・カード」
わたしは“ダイパン”だ。ふざけやがって。
「向いてないですよ」
四番機のウルぺスが申しわけなさそうに言った。
「中尉は向いてない」
「おまえはどうなんだ」
「こいつは……ほら……直情型なので」
パンテーラが顎を撫でた。
「だから?」
「直情型のポーカーは意外とわるくないものですよ」
「わたしよりも?」
「どうかな」
すくなくとも隊長のティグリスとウルぺスが賭けなかったことは認めなければならない。
「賭けと言うのはね。勇気ではなく、計算なんですよ」
パンテーラがカードを回収したあと、わたしは金を彼に渡した。
わたしがいらいらとビールを飲むと、パンテーラが誇らしげに笑った。
これが賭けごとだ。ひとりの真面目な軍人を愚者に変貌させてしまう。と言うのもパンテーラは相手を釣りこむのが非常にうまいのだった。口車に乗せられて、気がつくとチームで輪を囲んでいる。
そして誰もがじつのところ、この時間をわるくないと思っているのだった。不真面目な趣味と言うのは愛嬌があるもので、賭けごとはこのチームに於いての潤滑だった。パンテーラがいなければ、第九十九小隊は頑固者の集団になっていたにちがいない。
ところで食堂の時計が夜の十時に短針を向けていた。
「ぼくは寝ますよ」
先に立ったのはウルぺスだった。真面目な人間らしく、就寝も早いのだった。
「おいおい。明日は非番だぞ」
「パンテーラ。軍人はいつでも万全でいるものだよ」
「誰の受けうりかな? 言ってしまえばね……上官が朝に強いのは単に老人だからだよ」
ウルぺスは「ハイハイ」とでも言うように去っていった。
「やれやれ」
パンテーラはトランプの束を机に投げだす。
「そんなに年齢は変わらないはずですがね」
「遊びと言うものを知らないのだろう」
その愚直を宝石のように思う。ウルぺスは貴重な青春を、軍隊へ忠実であることに使っているのだった。だからこそ彼は青春を浪費する。だからこそ彼はルクス・ルーナエに所属している。尤も彼の美質はそれだけではない。彼のすばらしさは、空の英雄に憧れているところにある。同僚を信じているところにある。そして、それだけの理由で彼は空で死ぬこともできるのだった。
そのうちパンテーラも去ると、ティグリスとふたりになった。
「隊長はどうしますか」
「そうだな」
ティグリスは腕を組んだ。
「そうだな」
ティグリスが思考を巡らしているのは明白だった。わたしは待った。
こう言うときは黙っているのがわたしの特徴だった。
それからティグリスが口をひらいたのは、わたしがビールを飲みほしたあとだった。
「おまえはどちらに賭ける?」
「なんですか」
「つまりユークトバニアと戦争をするか、FCUと戦争をするかと言うことについて」
「そんな」
噂。
「分かっている。単に噂と言うのだろう?」
そんな噂はいつでも、どこにでもあるのだった。ファトシアが陸上戦艦を増設する。すると、たちまち戦争の話題で持ちきりである。
「それにしたって、このごろはどうも妙だ。この基地にも兵隊が招集されているのは知っているだろう?」
「しかし、それでは賭けになりませんよ。この基地は海岸線なわけですから、仮に進行するとしたら……」
それはFCUである。とまでは言えなかった。
この基地はファトシアの東側。つまり本土の海岸線にあるのだった。そして周辺の基地に兵隊が集められていると言う――そんな。
「噂ですよ……所詮。その……本当は合同で訓練をするためとか」
わたしは曖昧に笑った。しかし、その表情は引きつっていた。
第九十九小隊がファトシアに招集されたのは、それから一週間後のことだった。
『見ろ』
ティグリスの声が無線でざらついている。それが静かな夜間飛行にあって、どことなく厳かな意味を含んだ。
『漁火が下に』
海蛍の集まりが眼下の海でたゆたっている。その光の粒は故郷を失ったとしても、がむしゃらに生きることの意味を暗示していた。あそこの漁師も十数年前までは馬に乗ったり、羊肉を食べたりしたのかもしれなかった。あるいは恋人と草原で横になりながら、夜に星座を見ていたのかもしれなかった。しかし今ではあれがソトアの、重要な産業のひとつなのだ。最初は苦手だったはずの海産物の味も、今では慣れたものでしかなく、肉の味は曖昧な追憶に感じるのみだ。
『うつくしい』
ウルぺスが吐息を漏らすように言った。
それから急に無線がジャカジャカと音を鳴らした。音楽だった。
『なんだ?』
『到着するまで退屈ですからね。音楽でも……どうです?』
『パンテーラ! 今日も説教が必要らしいな』
ティグリスがどなりつけると、音楽がさらに増幅した。
『なんの曲?』
ウルぺスの邪気のなさには苦笑してしまう。
『パープル・マジック』
『ユージアのバンドじゃないか!』
『だから?』
『軍隊のバンドだぞ』
『音楽の罪ではない』
『……敵対するかもしれないのに』
『だからだよ』
パンテーラは思ったよりも真剣な口調で言った。
『これからは新曲が聴けなくなるかもしれない』
わたしたちは戦争の予感を海の向こうに見る。
誰もこない
この場所がおれの墓場なのだ
おれが流星のように燃えつきたら
おまえが終わりを眺めてくれるのか
不吉な歌詞。
わたしはまた、海の向こうを見た。そして眺める。すべてが闇の彼岸にある。
すると、わたしは曖昧な想いに囚われる。
それは孤独かもしれない。あるいは不安かもしれない。
それは頭の深いところにあるのだが、今は漠然としていて、なんとも形容することができない。
『パンテーラはそのバンドが好きなの?』
『そうだよ』
『なんで?』
戦争がやってくる。あるいは、わたしたちのほうから――戦争のほうへと駆けつける。
『空の孤独を知っているから』