夜更かしに理由なんているのかしら。
眠るのが惜しい夜もある。何かをしたいわけでもないのに、目を閉じる気になれない夜もある。
そういうときは、誰かのところへ行けばいい。くだらない話をして、お茶を飲んで、ついでにお菓子でもいただく。相手が迷惑そうな顔をしたって、知ったことじゃないわ。
夜は長いんだもの。少しくらい、好きに過ごしたっていいでしょう?
さて、今夜は何を話そうかな。
レミリア・スカーレットが地下の図書館に降りてきたのは、時計の針が夜の深いところを指していた頃だった。
もっとも、地下に時計があったところで、時刻を確かめる者がどれほどいるだろう。窓のない部屋では朝も昼も訪れない。陽光に追い立てられることもなく、夕暮れに急かされることもない。書物の背表紙に積もった薄い埃だけが、ここにも時間が流れていると、かろうじて教えてくれる。
図書館の主であるパチュリー・ノーレッジは、机に頬杖をつき、一冊の詩集を開いていた。
「貴女、まだ起きているのね」
「夜はまだ始まったばかりよ」
「もうずいぶん遅いと思うけれど」
「いいえ、ずっと始まったままなのよ。終わりなんてこない。そう思わせてくれるのが、一夜では苦しみであり、また一夜には癒しになるんじゃない」
「ま、わたしは吸血鬼だしね。昼の方が苦しいけど」
レミリアは、返事を待つようにパチュリーの顔を覗き込んだ。けれど、パチュリーは本から目を上げなかった。
「……聞いてる?」
「聞いているわ」
「本当かしら」
「貴女が昼を苦しんでいるという話でしょう」
「お悩み相談を持ちかけたみたいになってる」
「充分じゃない。吸血鬼が昼を苦しむ。魔女が夜更かしをする。どちらも至極当然のことだわ」
「私はね、わざわざ貴女に会いに来たのよ」
「そう」
「それだけ?」
「ほかに何か?」
レミリアは黙った。怒ったわけではない。ただ、自分が期待していた反応と、実際に返ってきた反応とのあいだに、深い溝があることを認めざるを得なかったのである。
その溝を埋めるのは、たいていの場合、レミリアの役目だった。
「……まあ、いいわ。今夜は特別に許してあげる」
「ありがとう」
「感謝が足りないわね」
「では、感謝しているわ」
「心がこもっていない!」
「注文の多い客ね」
パチュリーはようやく顔を上げた。
その目は、いつもどおり少し眠そうで、しかし本を読んでいるとき特有の、妙に冴えた光を宿していた。
「それで、何の用?」
「用がなければ来てはいけないの?」
「いけないとは言っていないわ。用がないなら、静かにしていてくれればいいのよ」
「ひどいわね。紅魔館の主に向かって」
「ここは紅魔館の図書館よ。主であろうと、読書を邪魔するならお庭へポイよ」
「本当にひどい言われようねえ」
レミリアは椅子を引き寄せ、パチュリーの向かいに腰を下ろした。許可は取らなかった。取ったところで断られるだけだと知っていたし、断られたところで聞くつもりもなかった。
しばらく、紙をめくる音だけがした。
地下の図書館に風は吹かない。少なくとも、吹くはずがない。窓はなく、扉は閉じられ、分厚い石壁が地上とこの部屋を隔てている。空気の動きといえば、ごく小さな揺らぎくらいのものだ。もしくは誰かさんが掃除掃除とせわしなくしてるときとかね。彼女の話はまた今度にでも。
ふと、レミリアは窓のある部屋を想像した。
夜の風にカーテンが揺れ、遠くの木々がざわめいている。月明かりが床に落ち、机の上の本を白く照らす。どこかで梟が鳴き、風は開いた窓から入り込んで、読んでいたページを勝手にめくってしまう。
そんな光景が、この部屋にはひどく似合う気がした。
「ねえ、パチェ」
「何?」
「ここに窓があったら、どう思う?」
「壁が壊れるわね」
「そういう話じゃないのよ」
「では、どういう話?」
「窓があって、風が吹くの。月が見えて、夜の空気が入ってくる。そういうことよ」
「地下なのに?」
「地下なのに」
「地上まで何メートルあると思っているの」
「知らないわ。貴女の図書館でしょう」
「私の図書館だからこそ、壁に窓を作ったところで土しか見えないことくらい知っているわ」
「夢がないわね」
「夢なら眠っているときに見るものよ」
「貴女はいつも眠そうなのに、夢の話になるとずいぶん現実的ね」
「眠いからこそ、夢と現実を混同しないようにしているの」
レミリアは笑った。
こういうところが、パチュリーの面白いところだった。突き放すような言葉を吐きながら、会話を終わらせる気はない。相手の言葉を否定しながら、その言葉の先にあるものを見ようとしている。少なくともレミリアは、そういうふうに解釈していた。
都合のいい解釈だという自覚は、少しだけあった。
「でも、窓があったら素敵だと思わない?」
「素敵かどうかと、必要かどうかは別の問題よ」
「必要だから作るんじゃないわ。あったらいいなと思うから作るの」
「誰が?」
「私たちが」
「私は一度も欲しいと言っていないけれど」
「今から欲しくなるのよ」
「随分と強引な魔法ね」
「魔法じゃないわ。始まりよ」
パチュリーは、開いていた本に栞を挟んだ。
「始まり?」
「あるかもしれないと思ったら、作ればいいの。窓がないから風が吹かない。風が吹かないから窓はいらない。そうやって何もないところに、何もない理由ばかり積み上げていくのはつまらないじゃない」
「……」
「なら、窓を作りましょう。風が吹くかもしれないと思ったら、風が吹く場所を作りましょう。それが始まり。私たちの夜の始まりなのよ」
口にしてから、レミリアは少しだけ気恥ずかしくなった。
言い過ぎたかもしれない。こんな話をするために地下へ来たのではなかった。もっと気軽な、くだらない話をするつもりだったのだ。今夜の紅茶がどうだとか、咲夜がまた何かを勘違いしたとか、フランドールが昼間に何を壊したとか。そういう、明日には忘れてしまうような話を。
けれど、パチュリーは笑わなかった。
「……悪くないわね」
「でしょう?」
「ただし、窓を作るなら本棚の配置を変えないといけないわ」
「そこなの?」
「風が吹くなら、紙が飛ぶでしょう。月明かりが入るなら、保存状態も考える必要があるわね。カーテンは防塵性の高いものを選びましょう」
「もういいわ」
「何を言っているの。窓を作るのでしょう?」
「そうだけれど!」
「それに、地下の壁を抜くのは構造上の問題があるわ。土砂が流れ込んだらどうするの。風どころじゃないわよ」
「貴女って、本当に夢を壊すのが上手ね」
「壊してはいないわ。実現するために必要な話をしているだけ」
「……ふうん」
レミリアは頬を膨らませた。もっとも、本人は不機嫌を表しているつもりでも、傍から見れば子どもが拗ねているようにしか見えない。
パチュリーはその顔を一瞥し、何か言いかけて、やめた。
「さあ、今宵は?」
「え?」
「貴女、何か話したいことがあって来たのでしょう。窓の話は聞いたわ。それで、今夜は何をするの?」
レミリアは、待っていた言葉をようやく受け取った気がした。
だからといって、すぐに答えられるわけではない。
「さてね。どうしようかしら」
「考えていなかったの?」
「考えていたわよ。ここに来るまでは」
「来たら忘れた?」
「貴女のせいよ」
「便利な責任転嫁ね」
レミリアは机の上に視線を落とした。そこには、パチュリーが読んでいた詩集が置かれている。古びた紙の端はわずかに黄ばんでいて、表紙には長い時間を経たものだけが持つ、独特の落ち着きがあった。
「それ、何の本?」
「詩集よ」
「見ればわかるわ。誰の?」
「萩原朔太郎。以前、話したでしょう。『青猫』という詩集」
「ああ、あのときの。貴女が珍しく、ずいぶん熱心に話していたわね」
「珍しく、は余計よ」
「そうかしら。貴女が本の話をするのはいつものことだけれど、誰かに読ませたいという顔をするのは珍しいもの」
「そんな顔をしていた?」
「ええ。自分では気づかなかった?」
「……さあね」
パチュリーは詩集を手元へ引き寄せた。
「『顔』という詩があるの。こういう一文があるわ」
彼女はページを確かめ、声に出して読んだ。
「『私はひとつの憂ひを知る/生涯のうす暗い隅を通つて/ふたたび永遠にかへつて来ない。』」
読み終えてから、パチュリーは指先でページの端を押さえた。
「この一文だけだと伝わりにくいけれど、旧かなが用いられていて、陳腐に感じないし、中々雰囲気があるのよね」
「ふうん。『生涯』に『らいふ』と振り仮名がふってあるのね」
「そう」
「ねぼけた桜の咲くころ、というのも意味深ね。霊夢のことかしら」
「どうしてそこで霊夢が出てくるのよ」
「桜といえば春でしょう。春といえば博麗の巫女。博麗の巫女といえば、宴会でいつも……」
「ねぼけた桜、というのが気になるわよね」
「そうそう、それでほら、この間の宴会でね……」
レミリアは身を乗り出した。あの宴会には、いくつもの話の種があった。霊夢が何を言ったか、魔理沙が何を持ち込んだか、誰が酔い潰れて、誰が最後まで平然としていたか。話し始めれば、少なくとも夜明けまでは困らない。
ところが、パチュリーはもう詩集へ目を戻していた。
「……それでね、霊夢が――」
「ねぼけた桜というのは、どういう桜なのかしら」
「聞いてる?」
「聞いているわ。霊夢がどうかしたのでしょう」
「まだ何も話していない!」
「では、続きをどうぞ」
「もういいわよ!」
レミリアは椅子の背にもたれ、腕を組んだ。
心の中では、別の会話が始まっていた。
――宴会の話をしたくて地下に降りてきたのに。せっかく面白い話があるのに。そもそも、今夜はパチュリーと話をするために来たのであって、詩集の相手をするために来たのではない。もう帰ってしまおうかしら。
しかし、立ち上がることはしなかった。
パチュリーが本を読んでいる姿は嫌いではなかった。誰かに見せるためでもなく、知識をひけらかすためでもなく、ただ自分の中に何かを置くように本を読む。その横顔を眺めていると、ここには時間がないのではなく、時間を急ぐ理由がないのだと思えてくる。
だから、帰るには少し惜しかった。
「ねえ、パチェ」
「何?」
「その詩集、そんなに面白い?」
「面白いわよ」
「私と話すよりも?」
「それは別の問題ね」
「どういう意味よ」
「本と貴女を比べることに、あまり意味がないということ」
「私の方が面白いに決まっているでしょう」
「そうね。貴女は本よりも騒がしいし、ページをめくる必要もない」
「褒めているの?」
「ええ。たぶん」
「たぶんって何だ」
パチュリーは、とうとう小さく笑った。
それを見て、レミリアの機嫌は少しだけ直った。
「……もう一度、最初のところを読んでくれる?」
「詩を?」
「ええ」
「貴女、詩なんて興味がないでしょう」
「興味がないものを聞いてはいけないの?」
「そうは言っていないわ」
「じゃあ、読んで」
パチュリーは、ほんの一瞬だけ不思議そうな顔をした。それから、先ほどと同じ箇所を開いた。
今度は、レミリアも黙って聞いた。
言葉の意味をすべて理解できたわけではない。理解しようと努めたわけでもない。ただ、声に出された言葉が、地下の空気に静かに沈んでいくのを聞いていた。
読み終えると、レミリアは机の上に頬杖をついた。
「ねえ。詩って、誰かに読んでもらうものなのかしら」
「書いた人に聞いてみたら?」
「本人はもういないでしょう」
「なら、本人以外に聞くしかないわね」
「貴女に聞いているのよ」
「そうね……。誰かに読んでもらいたいものもあるでしょうし、自分だけで読んでいたいものもあるでしょう。誰にも読まれないまま、どこかに残っているものだってあるでしょうね」
「それは寂しくない?」
「どうして?」
「せっかく書いたのに、誰にも読まれない」
「誰にも読まれないことと、何の意味もないことは同じではないわ」
レミリアは答えなかった。
パチュリーも、それ以上は続けなかった。
沈黙が降りてきた。気まずい沈黙ではない。言葉を探している沈黙とも違う。ただ、会話がいったん休んでいるだけだった。
地上では、きっと風が吹いている。
紅魔館の庭の木々を揺らし、湖の水面に細かな波を作り、どこかの窓を鳴らしているかもしれない。あるいは、風など吹いていないのかもしれない。そんなことは、地下にいる二人には確かめようがなかった。
「……やっぱり、窓が欲しいわね」
「まだ言っているの?」
「だって、外の様子がわからない」
「外がわからなくても、夜は夜よ」
「それじゃつまらない」
「そう?」
「ええ。風が吹いているのか、月が出ているのか、桜が咲いているのか。知らないままなのは、なんだか損をしている気がするの」
「知らないからこそ、好きに想像できることもあるわ」
「また夢の話?」
「いいえ。貴女が窓を欲しがる理由を考えていたの」
「それで?」
「外を見たいのではなくて、外があると確かめたいのかもしれないわね」
レミリアは目を細めた。
「……貴女、時々そういうことを言うわね」
「どういうこと?」
「普段は何も考えていないような顔をしているのに、急にわかったようなことを言うの」
「普段から考えているわよ。顔に出ないだけ」
「本当かしら」
「貴女の顔には、考えていることが全部出ているわね」
「失礼ね!」
「今も、何か反論を考えている顔をしている」
「……」
「ほら」
「……窓の話は、もう少し考えておいてあげるわ」
「私が?」
「そうよ。貴女が欲しくなるまで、私が何度でも話してあげる」
「それは迷惑ね」
「楽しみにしていなさい」
「ええ、憂鬱にならない程度にね」
レミリアは笑い、パチュリーは本を閉じた。
夜はまだ始まったばかりだった。
地下の図書館に、窓はない。
風も吹かない。月明かりも届かない。桜の花びらが迷い込むこともない。
けれど、窓がないという理由だけで、風の吹く夜を想像してはいけない道理はなかった。
あるかもしれないと思ったら、作りましょう。
それが窓でなくてもいい。誰かのための言葉でも、誰にも見せない物語でも、今夜だけの他愛ない会話でもいい。
何もない場所に、何かが始まる余地を残しておく。
それは、永遠に生きる吸血鬼にも、長い時間を本とともに過ごす魔女にも、案外必要なことなのかもしれなかった。
「……ところで、貴女が話そうとしていた宴会の話だけれど」
「え?」
「霊夢が何をしたの?」
「今さら聞くの?」
「今なら聞けるわ」
「もう遅いよ。話す気がなくなった」
「そう。残念ね」
「本当に残念だと思っている?」
「ええ。少しは」
「少しだけなのね……」
レミリアはわざとらしくため息をついた。
それから、椅子を引いて立ち上がる。
「帰るわ」
「おやすみなさい」
「まだ夜は始まったばかりでしょう?」
「そうだったわね」
「……もう!」
扉の前で、レミリアは振り返った。
「明日も来るから」
「明日も夜ならね」
「夜に決まっているでしょう!」
「そうね。ここではね」
レミリアは何か言い返そうとして、結局、笑った。
扉が閉じる。
再び静けさが戻った図書館で、パチュリーはしばらく閉じた扉を眺めていた。やがて詩集を開き、挟んでおいた栞を抜き取る。
読みかけのページには、まだ読んでいない言葉が残っていた。
「……窓、ね」
彼女は小さく呟いた。
それから、机の上の紙を一枚引き寄せ、図書館の簡単な見取り図を描き始めた。
壁の位置を確かめ、本棚の並びを記し、窓を作るならどこがいいかと考える。もちろん、本当に壁を壊すつもりはない。土砂が流れ込む危険も、書物が傷む可能性も、彼女はよく理解していた。
それでも、紙の上に窓を描くことくらいはできる。
窓の向こうには、月を描こう。
風は、あとで考えればいい。
地下の図書館に、風が吹く。
そんな夜があってもいい。
☆窓の向こうに誰がいる
翌日の夜。
レミリア・スカーレットは、地下の図書館へ続く階段を下りていた。
片手には一枚の紙を持っている。丁寧に折り畳まれたそれは、彼女が夕方から時間をかけて描いたものだった。もっとも、本人に言わせれば時間をかけたのではなく、構想を練っていたということになる。
階段を下りきると、いつものように図書館の扉があった。
レミリアは扉を開ける前に、手元の紙を広げた。
昨日の会話を思い出しながら、何度も描き直した窓である。窓枠は三つに区切られ、その向こうには大きな月が浮かんでいる。右端には枝の張った木がある。
我ながら、なかなかの出来栄えだった。
ただし、窓の向こうに何があるのかについては、まだ決めていなかった。
それでも構わないだろう。窓とは、外を見るためにあるものなのだから。
レミリアは満足げに頷き、扉を開けた。
「パチェ、いる?」
「いないわ」
「そう。じゃあ帰るわね」
「どうぞ」
「……」
「……」
「いるじゃない!」
机に向かっていたパチュリーは、顔も上げずに答えた。
「いることと、貴女に構うことは別の問題よ」
「相変わらず愛想がないわねえ」
「貴女が相変わらず遠慮を知らないだけでしょう」
レミリアは返事の代わりに、持ってきた紙を机の上へ置いた。
パチュリーはしばらくそれを見ていたが、やがて読んでいた本に栞を挟んだ。
「……これは何?」
「見ればわかるでしょう」
「紙ね」
「その先よ」
「絵が描いてあるわね」
「その先!」
パチュリーは、わずかに眉を寄せた。
「また注文の多い客ね」
「窓よ。昨日の話を覚えているでしょう?」
「窓がないから、窓を作ろうという話?」
「そう。どうかしら」
パチュリーは紙を持ち上げ、少し離して眺めた。
それから、裏返した。
「何をするのよ!」
「裏にも何か描いてあるのかと思って」
「あるわけないでしょう!」
「そう」
パチュリーは紙を元に戻した。
「それで、窓を三つも作るつもり?」
「大きい窓が一つだけだと、少し寂しいじゃない」
「窓というのは、寂しさを埋めるために作るものなの?」
「少なくとも、私はそう思っているわ」
「初めて聞いたわね。窓にそんな用途があったなんて」
「貴女は本当に、何でも理屈で考えるのね」
「理屈で考えなければ、窓を三つも描いた理由がわからないでしょう」
パチュリーは絵を机に置き、指先で窓枠をなぞった。
「それに、月が大きすぎるわ」
「いいじゃない。月は大きい方が素敵よ」
「この大きさだと、窓の向こうの景色がほとんど月で埋まってしまうわね」
「月を眺めるための窓なんだから、問題ないでしょう?」
「なら、窓は一つで十分じゃない」
「……貴女、私の話を聞いていた?」
「聞いているわ。貴女が月を大きく描きすぎたという話でしょう」
「違うわよ!」
レミリアは紙を取り返そうとしたが、パチュリーはひょいと持ち上げた。
「待って。もう少し見せて」
「何よ。文句ならいくらでも聞いたわ」
「文句とは言っていないでしょう」
パチュリーは、今度は絵を近づけたり遠ざけたりして眺めた。
その目が、ほんの少しだけ真剣になっている。
レミリアはそれに気づいていたが、あえて何も言わなかった。
「……この木は何?」
「桜よ」
「どうして桜なの?」
「昨日、貴女が読んでいた詩に出てきたから」
パチュリーの手が止まった。
「覚えていたの?」
「当然でしょう。私は一度聞いたことを忘れたりしないのよ」
「宴会の話は途中で忘れていたようだけれど」
「それは貴女が聞いてくれなかったからでしょう!」
「人のせいにするのはよくないわね」
「誰のせいだと思っているのよ……」
レミリアは椅子に腰を下ろし、頬杖をついた。
パチュリーは絵を机に戻した。
「でも、桜なら季節が合わないこともあるわね」
「窓の向こうの季節まで気にするの?」
「気にするでしょう。窓を開けたら、桜が咲いているはずなのに雪が降っていた、なんてことになったら困るじゃない」
「別にいいじゃない。雪が降る桜だって、きっと綺麗よ」
「花が凍るわよ」
「貴女って、どうしてそう夢のないことばかり言うの?」
「夢を見ているのは貴女でしょう。私はその夢の後始末を考えているの」
レミリアは言い返そうとして、口を閉じた。
確かに、そうかもしれない。
自分はいつだって、こうだった。面白そうなものを見つけては手を伸ばし、そこに何があるのかを確かめたくなる。失敗するかもしれないとか、うまくいかないかもしれないとか、そういうことは、たいてい後になってから考える。
そして、その後始末をするのは、いつも誰か別の人だった。
咲夜だったり、美鈴だったり、あるいは目の前の魔女だったり。
「……じゃあ、どうすればいいのよ」
思いのほか素直な声が出た。
パチュリーは少しだけ目を丸くした。
「何が?」
「窓よ。どうすれば、貴女が文句を言わない窓になるの?」
「そんな窓は存在しないわ」
「最初から諦めないでちょうだい!」
「冗談よ」
パチュリーは椅子の背にもたれた。
「そうね。まず、本物の壁に穴を開けるのはなし。図書館の空調も変えないこと。風が吹くなら、紙や本に影響が出ないようにする。それから、窓の向こうにあるものが、こちらへ勝手に入り込んでこないこと」
「最後の条件、ずいぶん物騒ね」
「貴女が何を連れてくるかわからないからよ」
「私を何だと思っているの?」
「吸血鬼」
「種族の話じゃなくて!」
「紅魔館の主」
「それも今は関係ないでしょう!」
「では、面倒な客」
「もういいわ!」
レミリアは机に突っ伏した。
パチュリーは、今度こそ笑った。
「……でも、絵は悪くないわよ」
「え?」
「窓の形は、ね」
「月が大きすぎるって言ったじゃない」
「大きすぎるとは言ったけれど、悪いとは言っていないわ」
「それ、褒めているの?」
「ええ。たぶん」
「その『たぶん』をやめなさい!」
図書館に笑い声が響いた。
窓のない部屋で、風の代わりに声が揺れる。
レミリアは机から顔を上げ、もう一度、紙を眺めた。
「ねえ、パチェ」
「何?」
「窓の向こうには、誰がいると思う?」
パチュリーはすぐには答えなかった。
窓の向こうにあるもの。
月や木々や、風に揺れる花。そういうものなら、いくらでも想像できる。けれど、誰かがいるとしたらどうだろう。
窓を開けた先に、誰かが立っている。
こちらを見ているのかもしれないし、向こうもまた、窓のこちら側を想像しているのかもしれない。
「誰もいないんじゃない?」
「つまらない答えね」
「誰かいると決まっているわけでもないでしょう」
「でも、誰かいたっていいじゃない」
「それはそうね」
パチュリーは、机の上の紙に目を落とした。
「……もし誰かいるとしたら、その相手も窓を見ているのかもしれないわね」
「窓を?」
「ええ。こちら側に窓があるように、向こう側にも窓がある。そこから、こちらを見ているの」
レミリアは顔を上げた。
「それって、ちょっと怖くない?」
「貴女が言い出した話でしょう」
「そうだけれど。窓の向こうに誰かがいるのはいいとして、向こうもこちらを見ているとなると、話が変わってくるわ」
「どうして?」
「だって、私たちが何をしているか、全部見られてしまうじゃない」
「今さらね。貴女は誰かに見られているかもしれないと思いながら、いつも堂々と歩いているでしょう」
「それは、私が見られる側にふさわしい存在だからよ」
「便利な理屈ね」
「そうでしょう?」
レミリアは得意げに胸を張った。
パチュリーは、もう何も言わなかった。
それでも、彼女の視線は絵から離れていなかった。
「……ねえ」
今度はパチュリーが口を開いた。
「窓の向こうに鳥を描いてもいい?」
「鳥?」
「ええ。桜の枝に一羽。窓があるのなら、鳥くらい飛んでいてもいいでしょう」
レミリアは驚いたように目を瞬かせた。
パチュリーの方から、何かを加えたいと言い出すのは珍しい。まして、窓の向こうに鳥を描くなんて、昨日までの彼女なら真っ先に必要性を問うていたはずだ。
「いいわよ。好きに描いてちょうだい」
「そう。では一羽ね」
「……一羽だけ?」
「何か問題でも?」
「別に問題はないけれど」
レミリアは、少し考えた。
「一羽だけだと、寂しいでしょう?」
パチュリーは顔を上げた。
その目は、いつもどおり眠たげだった。ただ、ほんのわずかに、何かを考えているような色があった。
「鳥は一羽でも生きていけるわ」
「そういう話じゃないのよ」
「では、どういう話?」
「……窓の向こうに誰かがいるなら、その誰かにも、そばに誰かがいてほしいと思っただけ」
言い終えてから、レミリアは自分の言葉を少し不思議に思った。
どうしてそんなことを言ったのだろう。
別に、鳥が一羽でも二羽でも、窓の景色が大きく変わるわけではない。月は同じ場所に浮かんでいるし、桜の枝だって増えるわけではない。
けれど、一羽の鳥がいる景色と、二羽の鳥がいる景色は、きっと少し違う。
それだけのことだった。
パチュリーは何も言わず、机の引き出しから鉛筆を取り出した。
そして、紙の端に、小さな鳥をもう一羽描き足した。
「これでいい?」
「ええ。とてもいいわ」
「そう」
パチュリーは鉛筆を置いた。
レミリアは満足そうに頷き、絵を手に取った。
月があり、桜があり、鳥が二羽いる。
窓の向こうには、まだ何もない。
けれど、何もないということは、何を描いてもいいということでもある。
「ねえ、パチェ」
「今度は何?」
「この窓、貴女にも預けておくわ」
「預ける?」
「ええ。私だけで考えていたら、きっと月と桜と鳥だけで終わってしまうもの。貴女も何か考えておいてちょうだい」
「宿題というわけね」
「そういうこと」
「嫌よ」
「即答しないで!」
「考えるとは言っていないわ。ただ、嫌だと言っただけ」
「……本当に素直じゃないわね」
「貴女ほどではないでしょう」
レミリアは笑った。
それから、絵を机の上に戻した。
「じゃあ、考えておいてね」
「聞いていた?」
「ええ。考えないということを考えておいてちょうだい」
「随分と難しい注文ね」
「貴女ならできるわ」
「その信頼、別のところで使ってほしいわね」
しばらくして、レミリアは図書館を後にした。
扉が閉じると、再び静けさが戻ってきた。
パチュリーは机の上の紙を見下ろした。
窓の向こうには、月がある。桜がある。鳥が二羽いる。
そこまで描いておきながら、その先を考えていなかったことに、彼女は今さら気がついた。
鳥たちは、どこから来たのだろう。
どこへ帰るのだろう。
窓の向こうにある世界は、どこまで続いているのだろう。
答えはなかった。
けれど、答えがないことは、考える理由になった。
パチュリーは紙を引き寄せ、窓の向こうに小さな道を描き足した。
道は桜の木の向こうへ続いている。
その先に何があるのかは、まだわからない。
わからないからこそ、描き足すことができる。
彼女は鉛筆を置き、少しだけ考えてから、紙の端に小さな文字を書いた。
――窓の向こうに、誰がいる?
答えは、明日でもいい。
夜は、まだ続くのだから。
夜更けの図書館というものは、不思議な場所です。
昼間と同じ本棚、同じ机、同じ椅子。それなのに、夜になると何かが違って見える。お嬢様がそこへ足を運ばれる理由も、私にはわかるような、わからないような。
もっとも、夜更かしに理由など必要ないのかもしれません。少なくとも、お嬢様はそうお考えのようです。
さて、今夜も紅魔館は平穏です。図書館の本が一冊増えたわけでも、減ったわけでもありません。
ただ、夜だけは少し長くなったような気がいたします。
それでは皆様、どうぞよい夜を。
ああ、もちろん。明日の朝食までにはお休みくださいませ。私からのお願いです。