昔のことを思い出すのに、理由なんて必要ない。
本を読んでいると、ふと昔の自分に出会うことがある。忘れたはずのこと。忘れたかったこと。今となっては、どうしてあんなことを気にしていたのかさえわからないこと。
記憶というものは、ずいぶん勝手ね。こちらが忘れたつもりでいても、向こうはそう思っていないらしい。
もっとも、ここには本がある。
遠い昔に書かれた言葉も、昨日の夜に読んだ言葉も、同じページの上に並んでいる。書かれたときには届かなかった言葉が、ずっと後になって、ようやく意味を持つことだってある。
それが何かを教えてくれるのか、それとも、余計なことを思い出させるだけなのか。
……読んでみなければ、わからないわ。
地下の図書館には、風が吹かない。
窓がないからだ、と言ってしまえば話は終わる。けれど、窓がないことと風が吹かないことのあいだには、案外いろいろな事情があるのかもしれなかった。
少なくとも、パチュリー・ノーレッジはそう考えていた。
机の上には一冊の詩集が開かれていた。吉本隆明の『記号の森の伝説歌』。パチュリーはページの上を目で追いながら、ときどき指先で机を叩いていた。一定のリズムではなかった。何かを考えているときの癖なのか、単に退屈しているだけなのか、本人にも区別はついていない。
「病院のまえに鏡をみよう、ね」
声がした。
パチュリーは顔を上げなかった。
「何よ」
「挨拶より先に、詩の朗読をしてあげたのよ。少しくらい感謝したらどう?」
「本を読んでいたの。静かにしてくれることが、いちばんありがたいわ」
「相変わらずね」
レミリアは机の向かいに腰を下ろした。断りもなく、そこにあった小さな菓子皿からクッキーを一枚取る。
「それ、誰の?」
「図書館のものよ」
「図書館はクッキーを食べないでしょう」
「持ち主が誰かという話をしているの」
「じゃあ、私のものか」
パチュリーは本に栞を挟んだ。
「その理屈でいくと、ここにある本も全部貴女のものになるわね」
「そうしたいところだけど、読むのが大変そうだから遠慮しておく」
「賢明ね。貴女が本を読むのは、せいぜい表紙に自分の名前が書いてあるときくらいでしょう」
「失礼ね。私は自分の名前が書いていなくても読むわよ。招待状とか、決闘状とか」
「どちらも長い文章ではないわね」
レミリアはクッキーをかじった。
「それで、何を読んでいるの?」
「吉本隆明」
「誰?」
「詩人よ」
「ふうん。詩人って、そんなにたくさんいるものなのね」
「貴女が知らないだけでしょう」
「私が知らない人間は、だいたい知られていない人間よ」
「世界の中心に自分を置くのは、吸血鬼の習性なのかしら」
「違うわ。私がいれば、そこが世界の中心なのよ」
レミリアは当然だという顔で、パチュリーの続きを待っていた。
「……それで、何の話だったかしら」
「貴女が勝手に始めた話でしょう」
「私は貴女の読書を邪魔しているだけ」
「それを自覚しているなら、少しは遠慮なさい」
パチュリーは詩集を持ち上げた。
「ここに、気になる一節があるの」
「気になる?」
「『病院のまえに鏡をみよう』」
レミリアは少しだけ首を傾けた。
「病院のまえに?」
「そう」
「病院のなかじゃなくて?」
「そう書いてあるわね」
「変なの。具合が悪いから病院へ行くのでしょう。そこで鏡を見るならわかるけれど、病院の前で鏡を見る必要があるのかしら」
「病院に入る前に、自分の顔を確かめるのかもしれないわ」
「化粧直し?」
「貴女は何でも化粧に結びつけるのね」
「顔を確かめるのでしょう? だったら、顔に関することでしょう」
レミリアは自分の頬に触れた。
「病院に入る前に、まだ自分が自分に見えるかどうか確かめるのかもしれないわね」
パチュリーの指が止まった。
「……急にそれらしいことを言うのね」
「私はいつだってそれらしいことを言っているわ」
「それらしいことと、正しいことは別よ」
「詩の話をしているのに、正しいかどうかが重要なの?」
「重要よ。少なくとも、考えるときにはね」
パチュリーは本のページに目を落とした。
病院の前に鏡を見る。
病院へ行く理由は、何かしらの不調があるからだろう。身体の痛みか、熱か、あるいは自分ではうまく説明できない違和感かもしれない。けれど、病院へ入れば、その不調には名前がつけられるかもしれない。
名前がつけば、説明ができる。治療の方法も見つかるかもしれない。
しかし、名前をつけられる前に、自分の状態を自分自身で確かめることはできないのだろうか。
「ねえ、レミィ。病院へ行く前に、自分の顔を見ることに意味があると思う?」
「顔を見ることに?」
「自分がどんな状態なのか、確かめるという意味で」
「鏡を見れば、顔の状態くらいはわかるでしょうね」
「顔以外は?」
「鏡をもう一枚用意すればいいんじゃない?」
「そういうことを聞いているんじゃないわ」
「では、どういうことを聞いているの?」
パチュリーは答えなかった。
自分の状態を知ることと、他人から状態を説明されること。その二つは同じなのだろうか。
鏡に映る顔を見て、疲れていると気づくことはある。けれど、その疲れがどこから来たのかまではわからない。顔色が悪いとわかっても、なぜ悪いのかは鏡には答えられない。
鏡は自分を映す。自分のすべてを映すわけではない。
「自分のことは、自分がいちばんよくわかっていると思う?」
パチュリーが尋ねた。
レミリアは少し考えた。
「当然でしょう。自分のことを自分でわからなくて、どうするの?」
「自分では気づかないこともあるわ」
「それは他人が気づくこともある、というだけでしょう。他人のほうが自分をよく知っていることにはならないわ」
「他人に言われて初めて、自分のことに気づく場合もあるでしょう」
「それなら、気づいたのは自分じゃない。言われたことを聞いて、自分で納得したのよ」
レミリアはそこで一度言葉を切り、クッキーの欠片を指で払った。
「ただし、他人が言ったことを全部信じる必要はないわね。人間はよく間違えるもの」
「吸血鬼もね」
「私は例外」
「便利な例外ね」
「偉大な存在には、例外である権利があるんだよ」
パチュリーは小さく息を吐いた。
この話を続けても、レミリアは自分の答えを変えないだろう。けれど、彼女の言葉には、考える手がかりがないわけでもなかった。
他人に説明される前に、自分の状態を知ること。
他人から説明された自分を、そのまま自分だと思い込まないこと。
そして、自分自身を見つめたところで、必ずしも答えが見つかるわけではないこと。
鏡は診断をしてくれない。だからこそ、鏡を見ることには、別の意味があるのかもしれなかった。
「それで、その詩にはほかに何が出てくるの?」
レミリアが尋ねた。
「風の村。鏡の村。それから、燃えつきた欅の巨木」
「ずいぶん妙な村ね」
「そうかしら」
「鏡ばかりある村なんて、落ち着かなさそうじゃない。どこを向いても自分がいるのよ」
「他人が映るかもしれないわ」
「それはもっと嫌ね。自分の顔を見に行ったのに、知らない誰かが映っているなんて」
「鏡なんだから、後ろに誰かがいれば映るでしょう」
「そういう話をしているんじゃないの」
レミリアは不満そうに腕を組んだ。
「もっとこう、鏡の向こうに別の世界があるとか、映っている自分が勝手に動くとか、そういう話よ」
「鏡の向こうに世界があるなら、窓と何が違うの?」
「窓は向こう側が見えるでしょう。鏡はこっち側が見えるのよ」
「どちらも、見る側がいるという点では同じね」
「違うわ。窓の向こうにいるものは、私が見なくてもそこにいる。でも鏡の中の私は、私がいなければ現れない」
言ってから、レミリアは少し考えた。
「……たぶんね」
「自信がないのね」
「哲学的な発言には、少しばかり余白が必要なの」
「便利な言葉ね、哲学」
パチュリーは本の余白に、何かを書きかけた。けれど、すぐにペンを止めた。
「ねえ、レミィ。燃えつきた木というのは、どういうものだと思う?」
「燃えた木でしょう」
「それはそうね」
「木が燃えた。以上。何か問題がある?」
「おととし燃えつきたまま、というのが気になったのよ」
「おととし?」
「そう。燃えたのは過去のことなのに、木はまだ空に刺さっている」
「巨木なんだし、燃えたくらいでは簡単に倒れないんじゃない?」
「そういう意味ではなくて……」
パチュリーは一度言葉を探した。
「何かが終わったあとも、その痕跡だけが残っている。そういうことはあるでしょう」
「あるでしょうね。壊れた家具とか、割れた窓とか」
「もっと大きなものよ」
「城?」
「たとえば、心に残る傷とか」
レミリアはクッキーを食べる手を止めた。
「傷なら、治るものもあるでしょう」
「ええ。でも、治ったからといって、何もなかったことになるとは限らないわ」
「傷痕が残る、ということ?」
「そう。出来事そのものは過去になっても、その影響まで消えるとは限らない」
レミリアは少しのあいだ黙っていた。
「木が燃えたあとも、木だった形が残っている。そういうことかしら」
「そう読めると思うわ」
「でも、燃えた木がいつまでも空に刺さっていたら、危なくない?」
「……貴女は本当に、詩を読むのに向いていないわね」
「危険なものを危険だと言って何が悪いのよ」
「悪くはないけれど、今は木の安全性について話しているわけではないの」
「木にも安全に立っている権利があるでしょう」
「もういいわ」
パチュリーは額に手を当てた。
レミリアは楽しそうだった。難しい話をしていると、パチュリーはときどき、いつもより言葉を慎重に選ぶ。その様子を見るのが、レミリアは嫌いではなかった。
「それで、木はどうなるの?」
「どうなるって?」
「燃えたあとも残っているんでしょう。ずっとそのままなの?」
「わからないわ。ただ、この詩では、そのあとに『あなたはそうやってもどってくる』と続くの」
「あなた、って誰?」
「それもわからない」
「わからないことばかりね」
「詩というのは、いつも答えを用意してくれるわけではないもの」
「ずいぶん不親切な本ね」
「貴女のために書かれたものではないから」
「私のために書かれた詩があってもいいじゃない」
「自分で書けば?」
「私が書いたら、私のための詩ではなくなるでしょう」
「……どういう理屈よ」
「私は読む側でいたいの」
レミリアは何でもないことのように言った。
パチュリーは、その言葉を少しだけ考えた。
読む側でいたい。
書くことと読むこと。作ることと受け取ること。その違いを、レミリアはどこまで意識しているのだろう。
詩の中の「あなた」が誰なのか、今の二人にはわからない。けれど、過去にあったものが、何かの拍子に戻ってくることはある。
忘れたと思っていたこと。もう済んだはずのこと。二度と考えなくていいと思っていたこと。
それらが戻ってきたとき、人は本当に以前と同じ場所にいるのだろうか。
「ねえ、レミィ」
「今度は何?」
「貴女は、同じ失敗を繰り返したことがある?」
「失礼ね。私は失敗を繰り返さないわ」
「一度も?」
「一度も、とは言っていないでしょう」
「今、繰り返さないと言ったじゃない」
「失敗したことと、同じ失敗を繰り返すことは別よ」
「そうかしら」
「そうよ。二度目は、経験を積んだうえでの失敗だもの」
「それは単に、失敗の言い訳が上手くなっただけでは?」
「貴女、今日はずいぶん失礼ね」
「いつもでしょう」
「そうだった」
二人は少し笑った。
パチュリーは、詩集に目を戻した。
同じ場所に戻ってくることは、必ずしも、同じ状態に戻ることではない。過去の傷が再び痛むこともあるだろう。以前と似た状況に陥ることもあるだろう。
けれど、そこに戻ってきた自分は、かつての自分とまったく同じなのだろうか。
経験を積んだことは、繰り返しを防ぐのか。それとも、繰り返していることに気づかせるだけなのか。
「……難しい話ね」
レミリアが言った。
「貴女が始めた話でしょう」
「私は木の話をしていたのよ」
「いつの間にか人生の話になったわね」
「人生なんて、木より面倒よ」
「木は何も言わないものね」
「だから木のほうが賢いのかもしれないわ」
レミリアは椅子の背にもたれた。
「ねえ、パチュリー。こうありたい自分と、こうあらねばならない自分。貴女なら、どちらを選ぶ?」
パチュリーは本を閉じた。
「急にどうしたの?」
「さっきの詩にあったでしょう。こうありたいもの、こうあらねばならぬもの」
「ええ」
「私は、こうありたい自分を選ぶわ。こうあらねばならないなんて、誰が決めたのよ」
「自分で決めることもあるでしょう」
「それなら、なおさらよ。自分で決めたことなら、自分で変えたっていいじゃない」
「変えたくないと思うこともあるわ」
「それは、こうありたいと思っているから?」
「そうかもしれないし、変えるのが怖いだけかもしれない」
レミリアはパチュリーを見た。
「貴女らしくない答えね」
「何が?」
「いつもなら、もっと理屈っぽく答えるでしょう」
「考えているところなのよ」
「ふうん」
レミリアは机の上に残っていた最後のクッキーを手に取った。
「では、考えているあいだに、紅茶を淹れてちょうだい」
「どうしてそうなるのよ」
「考えるには環境が大切なの」
「便利な言葉ね、環境」
「哲学よりは実用的でしょう?」
パチュリーは立ち上がらなかった。
レミリアも、それ以上は何も言わなかった。
答えを先延ばしにするための沈黙なのか。それとも、答えを探し始めたための沈黙なのか。
その区別をつけることは、二人とも得意ではなかった。
机の上の詩集は、開かれたままだった。
地下の図書館には、風が吹かない。
それでも、ページの端がかすかに浮き上がったように見えた。
☆あなたはそうやってもどってくる
しばらく経っても、レミリアは帰らなかった。
パチュリーにとって、それ自体は珍しいことではない。レミリアはしばしば、用事が済んだあとも書庫に居座る。用事がないのに訪ねてくることもある。本人に言わせれば、夜の時間を有効に使っているらしい。パチュリーに言わせれば、単に暇なのだ。
「ねえ、パチェ」
「なに」
「昔のことって、どこまで覚えているものなのかしら」
パチュリーは本から目を上げた。
「急にどうしたの」
「別に。ちょっと気になっただけよ」
「貴女の『ちょっと』は信用できないわね」
「失礼ね。私はいつだって、気まぐれに見えて一貫性のある吸血鬼よ」
「その一貫性が問題なのだけれど」
レミリアは不満そうに頬を膨らませた。もっとも、彼女が本当に傷ついたのか、単に会話を続けるための仕草なのか、パチュリーには区別がつかなかった。
「昔のことって、忘れたと思っていても、ふとした拍子に思い出すでしょう?」
「そうね」
「それも、思い出そうとしたわけじゃないのに。匂いとか、音とか、景色とか。何の関係もないものを見ていたはずなのに、突然、昔の自分が目の前に立っている」
「昔の自分が?」
「ええ。しかも、ずいぶん嫌な顔をしてね」
レミリアは自分の顔を指でなぞった。
「今の私より、ずっと不機嫌で、ずっと生意気で、ずっと可愛げがないの」
「今と大差ないわね」
「貴女、今日は私を怒らせるために起きているの?」
「夜はまだ長いもの」
パチュリーはページをめくった。レミリアは抗議しかけて、やめた。代わりに、テーブルの上に置かれた本を覗き込む。
「この詩集、まだ読んでたのね」
「ええ、『あなたはそうやってもどってくる』この一文の謎が解きたくて」
「ああ、さっきの。……それで、誰が戻ってくるんだっけ?」
「さあ。人かもしれないし、記憶かもしれない。昔の出来事そのものではなく、それによって残された何かかもしれない」
「曖昧ねぇ」
「詩なのだから、多少は許されるでしょう」
「便利な言い訳ね。私も今度から、何をやっても詩だったことにしようか」
「貴女の場合は、詩にしても許されないことが多そうだけれど」
レミリアは笑った。笑ってから、少しだけ黙った。
「でも、戻ってくるというのは、妙な言い方ね。そこにずっといたものが、こちらを向いただけかもしれないのに」
パチュリーは本の上に視線を落としたまま、返事をしなかった。
地下の図書館には、過去のものがいくらでもある。古い本、古い記録、誰も開かなくなった魔導書。忘れられたというより、忘れられることを許されずに、棚の奥に残り続けているものたちだ。
けれど、記憶は本とは違う。書架に収めて、分類して、必要なときだけ取り出せるわけではない。
「私には、そういう経験がないと思う?」
レミリアが尋ねた。
「貴女の過去を全部知っているわけではないもの」
「そうね。私だって、全部は知らないわ」
「自分のことでしょう?」
「自分のことだからよ」
レミリアは椅子の背にもたれた。
「長く生きていると、昔のことなんて、いくらでも増えていくでしょう。忘れたことも、覚えていることも。誰かに話したことも、誰にも話さなかったことも。いつの間にか、どれが本当にあったことで、どれが自分の中で何度も語り直したことなのか、わからなくなる」
「記憶は、保存するたびに少しずつ変わるものよ」
「本みたいに、同じ文章を何度も読み返せればいいのに」
「本だって、読むたびに同じ意味になるとは限らないわ」
「それは本が悪いのよ」
「読者が悪い可能性もあるわね」
「貴女は本当に、読者に厳しいわね」
レミリアはテーブルに頬杖をついた。
「それで、昔のことが戻ってくるのは、どうしてなのかしら」
「私に聞かれても」
「知識と何とかの魔女でしょう?」
「知識と深淵の魔女は、世界中のあらゆる疑問に答える便利な辞書ではないの」
(暈してあげたのに深淵にされてる! これは凄い魔法だわ)
「……でも、辞書なら引けば答えが載っているでしょう?」
「辞書に載っているのは言葉の意味よ。貴女が知りたいこととは違う」
「そうかしらね。言葉の意味がわかれば、だいたいのことはわかるのではなくて?」
「では、貴女にとって『寂しい』という言葉の意味を説明してみて」
レミリアはすぐには答えなかった。
「一人でいること?」
「一人でいても寂しくないことはあるわ」
「誰かがいても寂しいことがある」
「そうね」
「なら、誰かがいないことではなくて、誰かがいないと感じること?」
「少し近づいたわね」
「何よ。正解を教えなさいよ」
「正解がひとつなら、こんなに面倒な話にはならないでしょう」
レミリアは不服そうに唇を尖らせた。
「つまり、言葉にすればわかった気になるけれど、実際にはよくわからないことがあるのね」
「そういうこと」
「では、昔のことが戻ってくるというのも、そういうことなのかしら。昔のことそのものが戻るのではなくて、今の自分が、昔のことを別の形で感じてしまう」
「あり得るでしょうね」
「ずいぶん簡単に認めるのね」
「否定する理由がないもの」
レミリアは満足したように笑った。
「そういうことなら、私は昔の自分に会うたび、今の私のほうが優れていると教えてあげればいいのね」
「何を教えるつもりなの?」
「今の私のほうが強くて、美しくて、賢くて、何よりも偉大だということよ」
「それを聞いて、昔の貴女は納得するのかしら」
「当たり前でしょう。何しろ、私が言うのだから」
「昔の貴女も、同じことを言うでしょうね」
レミリアは口を閉じた。
それから、楽しそうに笑いだした。
「なるほど。これは面白いわ。昔の私と今の私が、互いに自分のほうが偉大だと言い張るのね。どちらも譲らない。どちらも相手を見下している。最後には喧嘩になる」
「そして、図書館の備品が壊れる」
「そこは未来の私が弁償するわ」
「未来の貴女も、きっと同じことを言うわね」
「……貴女、私のことをよくわかっているじゃない」
「長い付き合いだもの」
その言葉を口にしてから、パチュリーはほんの少しだけ目を細めた。
出会ったころのレミリアと今のレミリアは、同じ人物でありながら、同じではない。パチュリー自身もそうだろう。
それでも、二人はこうして同じ場所で、似たような言い争いを繰り返している。
戻ってくるものがあるとすれば、こういうことなのかもしれなかった。
「ねえ、パチェ」
「今度はなに」
「もし、昔の私が本当にここへ戻ってきたら、貴女はどちらの味方をする?」
「どちらにもつかないわ」
「ひどいわね」
「二人とも追い出すかもしれない」
「この私を?」
「二人の貴女を、よ」
レミリアはまた笑った。
「それは困る。ここは私の行きつけの場所なのに」
「私の図書館よ」
「私の親友の図書館よ」
「その理屈で所有権が移るなら、世界中の図書館が大変なことになるわね」
レミリアは椅子から立ち上がり、書架のあいだをゆっくり歩いた。指先が背表紙をかすめていく。題名を読んでいるようにも見えたし、ただ歩くために歩いているようにも見えた。
「燃えつきた木は、もう一度燃えるのかしら」
背中を向けたまま、レミリアが言った。
「木そのものは、燃えつきてしまえば、もう燃えるものが残っていないかもしれないわね」
「でも、灰は残る」
「ええ」
「灰に火をつけることはできる?」
「何を燃やすかによるわ」
「そういう答えが欲しかったわけじゃないのだけれど」
「質問が曖昧なのよ」
レミリアは書架から手を離した。
「昔にあったことは、もう一度起こるのかしら。それとも、残ったものが、別の何かを燃やすのかしら」
今度は、パチュリーもすぐには答えなかった。
詩の中の欅は、空に向かって刺さっている。燃えつきたまま、それでもそこに立っている。過ぎ去ったもののはずなのに、景色の一部として残り、戻ってくる誰かを待っているようにも見える。
ただ、何を待っているのかは書かれていない。
「同じことが起こるとは限らないわ」
やがてパチュリーは言った。
「でも、同じ場所が痛むことはあるかもしれない。昔のことを思い出したからといって、昔に戻ったわけではないのよ」
「それなら、少し安心ね」
「何が?」
「戻ってきたものを、全部追い払わなくてもいいのかもしれないと思ったの」
レミリアは窓のない壁を見上げた。
そこには、何もない。
けれど彼女は、そこに何かを見つけようとするように、しばらく視線を動かさなかった。
「昔の私は、今の私に会いたいと思うかしら」
「さあね。会ってみればわかるのではなくて?」
「そうね。もし会えたら、紅茶くらいは出してあげましょう」
「二人分?」
「当然よ。昔の私も、私なのだから」
「では、カップをもうひとつ用意しておくわ」
パチュリーはそう言って、再び本に目を落とした。
レミリアは何か言いたそうにしていたが、結局、口を開かなかった。
書架の奥で、古い本が一冊、わずかに傾いている。
誰も触れていないはずなのに。
パチュリーはそれに気づき、立ち上がろうとした。けれど、その前にレミリアが歩み寄り、背表紙を指先で押し戻した。
「これでいい?」
「ええ」
「昔の本も、たまには姿勢を正さないとね」
「本に姿勢を求めるのは、貴女くらいでしょうね」
「昔の貴女なら、きっと賛成してくれるわ」
「昔の私を勝手に作らないでちょうだい」
レミリアは満足げに笑い、自分の席へ戻った。
ページはまだ開かれたままだった。
そこに書かれた言葉が、誰かを呼び戻すのか。それとも、戻ってきた誰かが、そこに言葉を見つけるのか。
パチュリーにはわからなかった。
わからないまま、本を閉じずにおくことにした。
☆★風が倒れるまで
レミリアが帰る気配を見せないまま、夜はさらに深くなっていた。
パチュリーは三冊目の本を開いていた。最初に読んでいた詩集は、まだテーブルの端に置かれている。レミリアはその隣で、いつの間にか持ち込んだ菓子の包み紙を弄んでいた。
「ねえ、パチェ」
「今度は何かしら」
「理想って、必要だと思う?」
「何の?」
「私の」
「貴女の理想なら、毎晩聞かされているわ」
「それは理想じゃなくて、事実」
「そう。では、事実について話すことは何もないわね」
「あるわよ。たとえば、私が世界を支配したらどうなるか、とか」
「世界が気の毒だから、やめておきなさい」
レミリアは包み紙を丸め、テーブルの上に置いた。
「冗談よ。……半分くらいはね」
「残りの半分が問題なのよ」
「貴女は本当に、夢のない魔女」
「夢を見るのは寝ているときだけで十分よ」
「それなら、どうして起きているの?」
「本を読んでいるから」
「眠ればいいじゃない」
「貴女が帰ればね」
レミリアは声を立てて笑った。
パチュリーは笑わなかった。笑わなかったが、追い出しもしなかった。
レミリアはそういうところを、案外よく見ている。
「さっきの詩だけれど」
レミリアはテーブルの詩集を指で叩いた。
「こうありたいもの、こうあらねばならぬもの。あれは、別々のものなのかしら」
「どうして?」
「こうありたいと思うことが、いつの間にか、こうあらねばならないことに変わっている場合もあるでしょう?」
パチュリーは本を閉じた。
「あるでしょうね」
「最初は、自分で望んだはずなのに。いつの間にか、それを望み続けなければいけなくなる。やめたら、自分が自分でなくなるような気がする」
「望みが自分の一部になったのね」
「そう。それって、少し窮屈じゃない?」
「少しどころではないでしょうね」
パチュリーは椅子の背にもたれた。
望むことと、望みを捨てられないことは、よく似ている。外から見れば、同じ方向を向いているように見えるかもしれない。けれど、その人が自分の足で歩いているのか、背中を押されて歩いているのかは、本人にさえわからなくなることがある。
「でも、望まなければ何も始まらないわ」
レミリアは言った。
「そうね」
「何かになりたいと思うから、努力する。何かをしたいと思うから、手を伸ばす。何も望まなかったら、ずっとこの地下で本を読んでいるだけになる」
「それの何が悪いの?」
「……貴女、本当にそれでいいの?」
「私は今、そうしているのだけれど」
「そういう意味じゃなくて」
レミリアは少し身を乗り出した。
「貴女は、もっといろいろなことができるでしょう。外へ出るとか、誰かに会うとか、魔法を教えるとか。もっと大きなことをしたっていい。なのに、いつもここにいる」
「私がそうしたいからよ」
「本当に?」
パチュリーは黙った。
レミリアは勝ち誇ったような顔をした。どうやら、今の一言で相手を追い詰めたつもりらしい。
「ほら。答えられない」
「貴女の質問が面倒なだけよ」
「言い訳ね」
「便利な言葉ね、それ」
「何が?」
「言い訳。相手が答えに困ると、すぐにそう呼べるのだから」
レミリアは口を尖らせた。
「では、貴女にとって、ここにいることは望みなの? それとも、ここにいなければならないという思い込み?」
「両方かもしれないわ」
「ぼんやりしてるなあ」
「人間の心ほど複雑ではないと思うけれど」
「今、人間の話はしていないわよ」
「そうね。貴女の話だったわ」
レミリアは何か言い返そうとしたが、少し考えてからやめた。
パチュリーは、彼女がそうやって言葉を飲み込むことがあるのを知っている。普段なら、何かしらの冗談に変えてしまうところだ。けれど今夜は、そうしなかった。
「ねえ、パチェ。もし私が、吸血鬼であることをやめたいと言ったら?」
「やめられるの?」
「質問に質問で返さないでちょうだい」
「やめられるかどうかわからないものを、やめたいと言われても困るわ」
「では、紅魔館の主をやめたいと言ったら?」
「咲夜が困るでしょうね」
「少しくらい驚いてくれてもいいんじゃない?」
「驚いてほしいの? それとも、引き止めてほしいの?」
「……貴女、そういうところは嫌いよ」
「それは残念。……それで?貴女は何をやめたいの?」
レミリアは答えなかった。
問いかけた本人が、問いかけられる側に回ると、急に不機嫌になる。パチュリーはそれを知っていたし、レミリアもまた、自分がそういう性格だということを知っていた。
「別に、何もやめたいわけじゃないわ」
「そう」
「ただ、何かをやめたいと思ったときに、それまでの自分を否定しなければならないような気がするのは、嫌ね」
「やめることと、否定することは同じではないわ」
「でも、周りはそう思うかもしれない」
「周りがどう思うかは、周りの問題でしょう」
「貴女は簡単に言うわね」
「簡単なことではないもの。でも、分けて考えることはできるわ」
パチュリーは詩集を引き寄せた。
「自分が何を望んでいたのか。今、何を望んでいるのか。それから、何を望まなければならないと思っているのか。全部をひとつにしてしまうと、身動きが取れなくなる」
「昔と今と、それから、そうあるべきだと思っている自分?」
「そういうこと」
「面倒な話」
「自分のことだもの。簡単にはいかないわ」
「それでも、考えるのをやめないの?」
「疲れたらやめるわ」
「都合がいいね」
「考えることまで義務にしたくないもの」
レミリアは、しばらくパチュリーの顔を見つめていた。
「……それは、少し羨ましい」
パチュリーは返事をしなかった。
羨ましいと言われるようなことをした覚えはない。自分の暮らし方を説明しただけだ。それでも、レミリアには何か違うものが見えたのかもしれない。
鏡を見るというのは、そういうことなのだろうか。
自分の顔を確かめることではなく、自分が何を当然だと思っているのかを、少しだけ疑ってみること。
ただし、鏡に映ったものが本当の自分だと決めつけてしまえば、今度はそこから逃げられなくなる。
「ねえ、パチェ」
「まだ何かあるの?」
「私、今夜は少し賢くなった気がする」
「気のせいよ」
「即答しないでちょうだい」
「賢くなったかどうかを、今夜だけで判断するのは早いでしょう」
「では、明日の夜にもう一度聞くわ」
「来なくていいわよ」
「そうはいかないわ。私は、自分の成長を確かめる義務があるんだから」
「……それは、ここに来る口実ではなくて?」
「何か問題でも?」
「大ありよ」
二人は顔を見合わせた。
レミリアが笑い、パチュリーも、ほんのわずかに口元を緩めた。
そのとき、書架の隙間から風が吹いた。
パチュリーは顔を上げた。
「……今、何か感じた?」
「風でしょう?」
「ここに風は吹かないわ」
「でも、吹いたじゃない」
レミリアは髪を指先で整えた。風はほんの一瞬で、蝋燭の炎も、机の上の紙片も、ほとんど揺らさなかった。
ただ、開いたままの詩集のページが一枚、静かにめくれていた。
「魔法の悪戯かしら」
「調べてみるわ」
「今すぐ?」
「気になるもの」
「さっき、考えることまで義務にしたくないと言っていたのは誰だったかしら」
「調べることと、考え続けることは別よ」
「便利な区別ね」
「貴女も使えばいいでしょう」
パチュリーは立ち上がり、書架のほうへ歩いていった。レミリアも後を追おうとしたが、途中で足を止めた。
「ねえ、パチェ」
「今度こそ最後にしてちょうだい」
「風は、何かを倒すのかしら」
パチュリーは振り返った。
詩の最後の一節が、二人のあいだに残っていた。
こうありたいもの。こうあらねばならぬもの。
それらと一緒に、風は倒れる。
「さあね。風が何かを倒すこともあるでしょうし、倒れたものが風を止めることもあるでしょう」
「どちらが先なの?」
「詩に聞いてちょうだい」
「詩は答えてくれないわ」
「だから、読むのよ」
レミリアは納得したような、していないような顔をした。
「では、私たちはどうするの?」
「どうもしないわ。今夜はもう遅いもの」
「夜はまだ終わっていないけれど」
「終わらなくても、眠くなることはあるの」
「貴女らしい答えね」
パチュリーは詩集を閉じた。
鏡は、まだ見なくてもいいのかもしれない。今夜の自分をひとつの答えにしてしまうには、夜が長すぎる。明日になれば、今日の考えを笑うかもしれないし、昨日の自分に少しだけ同意するかもしれない。
それで構わないのだろう。
変わらないことだけが、自分である証拠ではないのだから。
「ねえ、パチェ」
「……何?」
「明日は、鏡を持ってくるわ」
「いらないわよ」
「どうして?」
「この図書館には、鏡を置く場所がないもの」
「壁に掛ければいいじゃない」
「本棚を動かすことになるわ」
「では、本棚を動かしましょう」
「本が崩れたら、貴女が片づけるのよ」
「私は紅魔館の主よ?」
「だから何?」
レミリアはしばらく考えたあと、きっぱりと言った。
「……咲夜に頼むわ」
「最初からそう言いなさい」
今度は二人とも笑った。
笑い声は書架のあいだを抜けて、すぐに消えた。風はもう吹いていない。詩集も閉じられ、ページは静かに眠っていた。
レミリアは帰り際、扉の前で一度だけ振り返った。
「パチェ」
「今度こそ何?」
「私、明日も私でいられるかしら」
パチュリーは、少しだけ考えた。
「明日になってみないとわからないわ」
「ひどい答え」
「でも、明日になっても貴女が貴女である必要はないでしょう」
レミリアは目を丸くした。
それから、いつものように笑った。
「そうね。明日の私は、今日より少しだけ偉大かもしれないもの」
「その可能性は低そうね」
「覚えていなさい、パチェ」
「ええ。忘れたころに思い出すわ」
扉が閉じた。
地下の図書館に、再び静けさが戻ってくる。
パチュリーは詩集を棚に戻そうとして、ふと手を止めた。最後の一節が、まだ頭の中に残っていた。
こうありたいもの。こうあらねばならぬもの。
どちらも捨てる必要はないのかもしれない。けれど、それらに引きずられて、自分の足で立っていることまで忘れてしまうのは、少し困る。
そんなことを考えてから、パチュリーは自分の考えに少し呆れた。
詩を一篇読んだだけで、ずいぶんと面倒な夜になってしまった。
彼女は本を棚に戻し、蝋燭をひとつ消した。
鏡を見るのは、また今度でいい。
夜はまだ、終わらないのだから。
本を読めば、自分のことがわかるのでしょうか。
私には、少し難しい問いに思えます。何しろ私は、毎日決まった時間に起き、決まった仕事をこなし、決まったように一日を終える身です。自分について考える時間がない、と申し上げれば聞こえはよいのですが……実のところ、考えたところで仕事が減るわけでもありません。
とはいえ、本を読むことに意味がないと考えているわけではございません。
お嬢様方が本を手に取る理由は、それぞれ違うのでしょう。知りたいことがあるのか、知らないことを知りたいのか。それとも、ただ退屈を紛らわせたいだけなのか。
私ですか?
私は、図書館の本がきちんと元の場所に戻されているかどうかを確認するために、ときどき本棚を眺めております。
……ええ、本当に。それ以上のことは、今のところ必要ございません。
それでは皆様、次の夜までごきげんよう。
読み終えた本は、どうぞ元の場所へ。私が探しに参りますので。