私は、ナイフのようなものだ。
決められた場所に収まり、必要なときに取り出され、与えられた役目を果たす。切るべきものを切り、終われば鞘に戻る。それだけのことに、理由はいらない。
誰かが望むのなら、私はそれを叶える。明日のために食事を用意し、散らかった部屋を片づけ、主の命令に従う。仕事はいくらでもあるし、ひとつを終えれば、次にするべきことが見つかる。
だから、退屈を知らないわけではない。ただ、退屈だからといって、何かを変えようとは思わないだけだ。
ナイフは、自分から獲物を探したりはしない。
けれど、ときどき考えることがある。
もし、誰からも必要とされなくなったら。もし、何ひとつ切る必要がなくなったら。
そのとき私は、いったい何をすればいいのだろう。
地下の図書館には、今日も何も起こらなかった。
少なくとも、パチュリーはそう思っていた。
本棚の隙間を抜ける風もなければ、窓から差し込む月明かりもない。ここには地上の天気を知らせるものがなく、朝も昼も夜も、外の世界から切り離されたまま過ぎていく。
それでも、時計は時を刻んでいた。
パチュリーは机に向かい、開いた本の頁をめくった。先ほどから読んでいる魔術書には、古い術式についての記述が続いている。特別に面白いというわけではないが、かといって読むのをやめるほど退屈でもなかった。
少なくとも、今のところは。
「パチェ、退屈だわ」
向かいの椅子から声がした。
パチュリーは頁をめくった。
「そう」
「……それだけ?」
「退屈だという報告に、どう返事をすればいいのよ」
レミリアは不満げに頬を膨らませた。
「少しくらい、主人を気遣ったらどうなの」
「退屈を感じるのは貴女でしょう。私が代わりに退屈してあげるわけにもいかないわ」
「気持ちの問題よ、気持ちの」
「では、気持ちを切り替えたら?」
「そういう話をしているんじゃないのよ」
レミリアは机に身を乗り出した。パチュリーの本を覗き込もうとしたが、文字が細かいうえに、聞いたこともない術式の名前が並んでいる。少し目を走らせただけで、読む気が失せた。
「何を読んでいるの?」
「魔術書」
「見ればわかるわよ。何の魔術書なのか聞いているの」
「古い術式について」
「どういう術式?」
「今のところ、貴女に説明する必要のない術式ね」
「どうして?」
「説明したら、貴女は途中で飽きるでしょう」
「そんなことないわ」
パチュリーは本から顔を上げた。
「本当に?」
「……たぶん」
「ほらね」
「まだ何も説明していない!」
レミリアは椅子の背に身を預けた。
反論したい気持ちはあったが、説明を聞きたいかと改めて問われれば、少し困る。興味がないわけではない。ただ、今はその興味を育てるために必要な手間が、ひどく面倒に思えた。
何か面白いことがあればいい。
そう思ってここへ来たのだが、面白いことというのは、どうすれば見つかるのだろう。
「ねえ、パチェ」
「今度は何?」
「何か面白いことをしてちょうだい」
「嫌よ」
「即答ね」
「貴女の退屈を解消するために、私が何かをする義務はないもの」
「友人でしょう?」
「そうね」
「だったら?」
「友人だからといって、何でもしてあげるわけではないでしょう」
レミリアは少し考えた。
「……そういうものかしら」
「そういうものよ」
「ふうん」
納得したのか、していないのか。レミリアは椅子から降り、図書館の通路を歩き始めた。
本棚はどこまでも続いているように見えた。実際には、図書館にも端はある。けれど、レミリアはその端まで歩いていく気にはならなかった。
棚の背表紙を眺める。見覚えのある題名もあれば、読んだことのない本もある。読んだことのない本を手に取れば、ひょっとしたら何かが変わるかもしれない。
レミリアは一冊を抜き出した。
ぱらぱらと頁をめくる。
知らない言葉が目に入った。次の頁にも、その次の頁にも、知らない言葉があった。途中からは図が載っていたが、それも何を示しているのかわからなかった。
レミリアは本を閉じた。
「難しいわね」
「難しい本を選んだのだから、当然でしょう」
机の向こうから、パチュリーの声が返ってきた。
「聞こえていたの?」
「貴女、独り言が大きいもの」
「独り言じゃないわ。感想よ」
「誰に向けた感想なの?」
「図書館に向けてよ」
「図書館は返事をしないわ」
「だからパチェが返事をしているんじゃない」
パチュリーは何も答えなかった。
レミリアは本を元の場所に戻した。背表紙の位置を少し間違えたので、隣の本と高さが揃わなくなった。直そうとして、別の本までずらしてしまう。
「……もういいわ」
「戻しておきなさい」
「パチェが直せばいいじゃない」
「貴女が動かしたのでしょう」
「私が動かしたから、私が直さなきゃいけないの?」
「そうよ」
「世の中は厳しいわね」
「本棚の話よ」
レミリアは渋々、本を並べ直した。最後に一冊だけ、どうしても高さが合わない本が残った。何度か位置を調整したあと、ようやく隣の背表紙と揃う。
それだけのことだった。
けれど、レミリアは少し満足した。
「できたわ」
「おめでとう」
「心がこもっていないわね」
「感動するほどの仕事ではなかったもの」
「そうかしら。乱れた本棚を元に戻したのよ」
「貴女が乱さなければ、元に戻す必要もなかったわ」
「始まりがなければ、終わりもなかったということね」
「その理屈でいくと、貴女は退屈を解消するために、わざわざ退屈を増やしていることになるわね」
レミリアは口を閉じた。
しばらくして、彼女は笑った。
「いいじゃない。何も起こらないよりは」
パチュリーは返事をしなかった。
レミリアは再び椅子に戻った。今度は座る前に、座面を手で払った。埃などほとんどついていなかったが、何となくそうしたくなったのだ。
「ねえ、パチェ。本を読んでいると、時間が経つのを忘れるの?」
「本によるわ」
「またそれ?」
「何でも一括りにできるわけではないでしょう」
「じゃあ、面白い本を読んでいるときは?」
「時間が経つのを忘れることもあるわね」
「それって、退屈じゃないということ?」
「そうかもしれないわ」
「でも、時間が経つのを忘れるくらい夢中になっているなら、時間が経ったことに気づかないだけじゃない。退屈がなくなったのかどうかなんて、わからないでしょう?」
パチュリーは頁をめくる手を止めた。
「……貴女、今日もまた面倒なことを考えているのね」
「暇なのよ」
「それは知っているわ」
「暇じゃなかったら、こんなこと考えないわ」
「では、忙しくなれば解決するのではなくて?」
「それは違うな」
レミリアはすぐに答えた。
「忙しいのと、退屈じゃないのは別のことでしょう?」
今度は、パチュリーが黙った。
レミリアは得意げに笑う。
「ほら。私だって、何も考えていないわけじゃないのよ」
「ええ。考えた結果、私の読書を邪魔しているわけね」
「そういう言い方はないでしょう!」
「事実を述べただけ」
パチュリーは本に目を戻した。レミリアの言うことには、一理ある。忙しくしていれば、退屈を感じる暇はなくなるかもしれない。けれど、それは退屈が消えたということとは違う。
仕事をしている間は、仕事のことを考える。何かを読んでいる間は、その本のことを考える。誰かと話している間は、相手の言葉に耳を傾ける。
それぞれの時間に、それぞれの目的がある。
目的があることと、満ち足りていることは、同じなのだろうか。
パチュリーは、そんなことを考えた自分に少し驚いた。
レミリアが持ち込んだ問いは、思いのほか厄介だったらしい。
「ねえ、パチェ」
「まだ何かあるの?」
「パチェは退屈しないの?」
「するわよ」
レミリアは目を丸くした。
「するの?」
「どうして驚くのよ」
「だって、いつも本を読んでいるじゃない」
「本を読んでいれば、何もかも満足するわけではないわ。読みたい本が見つからないこともあるし、読んでいる本が思ったほど面白くないこともある」
「それでも読むの?」
「途中でやめることもあるわ」
「じゃあ、やめたら何をするの?」
「別の本を読むこともあるし、何もしないこともある」
「何もしない?」
「ええ」
レミリアは、まるで珍しい生き物でも見るような顔をした。
「何もしないで、退屈じゃないの?」
「退屈なこともあるわね」
「だったら、何かすればいいじゃない」
「何かしたいと思わないときもあるでしょう」
「……それは、どういう状態なの?」
「私に聞かれても困るわ」
パチュリーは本を閉じた。
「ただ、退屈だからといって、必ず何かをしなければならないわけではないでしょう。退屈している自分に、いちいち対処しなければならないと考えるほうが、疲れると思うわ」
「退屈を放っておくの?」
「そういうこともあるわね」
「退屈は、放っておいたらどこかへ行くのかしら」
「知らないわ。どこへも行かないかもしれない」
「それじゃ意味がないじゃない」
「退屈をなくすことだけが、意味のあることではないでしょう」
レミリアは机の上に両手を置いた。
「……パチェって、そういうところがあるわよね」
「どういうところ?」
「何でも、そのままにしておこうとするところ」
パチュリーは答えなかった。
「わからないことは、わからないままでいい。退屈なら、退屈なままでいい。何かが足りなくても、無理に埋めなくていい。そういう感じ」
「勝手な解釈ね」
「違うの?」
「違うとは言っていないわ」
「ほらね」
レミリアは椅子の上で足を組み直した。
「私は、そういうのは苦手だわ。何かが足りないと思ったら、何かを持ってきたくなるもの。足りないままにしておくなんて、気持ちが悪いじゃない」
「何が足りないのか、わかっているならね」
「わかっていなかったら?」
「何を持ってくればいいのか、わからないでしょう」
レミリアは黙った。
何かが足りない。
そう感じることはある。けれど、それが何なのかを説明しようとすると、途端に言葉が見つからなくなる。紅茶が飲みたいのか、お菓子が食べたいのか、誰かと話したいのか。それとも、ただ何かが起こるのを待っているだけなのか。
考えてみても、はっきりしなかった。
「……そういうときは、どうすればいいのよ」
「さあね」
「さあね、って」
「わからないもの」
「パチェでも?」
「私でもよ」
レミリアは意外そうにパチュリーを見た。
パチュリーは、わからないことをわからないと言うのに、あまり抵抗がない。答えが出ないなら、いったん脇に置いておけばいい。別のことを考えているうちに、答えが見つかることもあるし、見つからないままになることもある。
それで困ることも、もちろんある。
ただ、答えが出ないというだけで、すべてを投げ出す必要はないと思っていた。
「何だか、つまらない答えね」
「貴女が何を期待していたのか知らないけれど、私にだってわからないことはあるわ」
「そうね。パチェは何でも知っているわけじゃないものね」
「当然でしょう」
「でも、知っていることはたくさんあるわ」
「それも当然ね」
「だから、少しくらい教えてくれてもいいじゃない」
「何を?」
「退屈のなくし方」
パチュリーはしばらくレミリアを見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……紅茶でも飲んだら?」
レミリアは瞬きをした。
「それで退屈がなくなるの?」
「少なくとも、紅茶を飲んでいる間は紅茶を飲んでいるでしょう」
「それ、答えになっていないわ」
「さっきから、貴女は答えを求めているのか、私に構ってほしいのか、どちらなの?」
レミリアは口を開きかけて、閉じた。
「……両方じゃ駄目なの?」
パチュリーは、わずかに目を細めた。
「別に、駄目とは言っていないわ」
「なら、いいじゃない」
レミリアは、勝ち誇ったように笑った。
パチュリーは本に目を戻した。これ以上相手をしていたら、いつまで経っても読書が進まない。けれど、先ほどから同じ頁を開いたままなのだから、もう十分に邪魔はされている。
「ねえ、パチェ」
「何?」
「紅茶が飲みたいわ」
「咲夜に頼めばいいでしょう」
「今はいないじゃない」
「呼べばいいでしょう」
「それじゃ、私が退屈していることがばれてしまうわ」
「もう十分にばれていると思うけれど」
「パチェにだけよ」
レミリアは、少し得意げに言った。
「だから、パチェが淹れてちょうだい」
「私は魔女であって、給仕係ではないのだけれど」
「知っているわ。でも、パチェが淹れた紅茶も、たまには飲んでみたいじゃない」
パチュリーはレミリアを見た。
今度の言葉には、いつものような挑発も、勝ち誇った調子もあまりなかった。単純に、そう思ったのだろう。
「……あとでね」
「今がいいのに」
「本を読んでいるの」
「その本、そんなに面白い?」
「さっきも説明したでしょう」
「じゃあ、読み終わったら?」
「紅茶を淹れるわ」
「本当に?」
「ええ」
レミリアは椅子に座り直した。
「じゃあ、待っているわ」
パチュリーは再び本を開いた。
レミリアは黙って待つことにした。何かを始めようとするのはやめた。面白いことを探すのも、退屈をどうにかしようとするのも、ひとまず後回しにした。
本を読むパチュリーの手元を眺める。
頁がめくられる。紙の擦れる小さな音がする。
それだけだった。
それだけなのに、レミリアは先ほどよりも、少しばかり落ち着いていた。
退屈がなくなったわけではない。紅茶が出てきたわけでもない。面白い話が始まったわけでもなかった。
ただ、待つことにした。
そのことが、何かを変えたのかもしれない。
もちろん、レミリアはそんなことを認めるつもりはなかった。
「……パチェ」
「何?」
「まだ?」
「まだよ」
「遅いわね」
「待つと言ったのは貴女でしょう」
「そうだけど」
レミリアは、また頬杖をついた。
「退屈だわ」
「そう」
パチュリーは、頁をめくった。
☆忙しさの行方
「……まだ?」
「まだよ」
「本当に遅いわね」
「貴女が話しかけるからでしょう」
「私のせいにするの?」
「ほかに誰がいるのよ」
レミリアは頬を膨らませた。
パチュリーは机に向かったまま、開いた本を読んでいる。先ほどから頁は少しずつ進んでいるが、紅茶を淹れる気配はなかった。
「ねえ、パチェ。あとどれくらい?」
「わからないわ」
「本を読んでいるだけでしょう?」
「本を読んでいるから、わからないのよ」
「それじゃ、いつまで経っても紅茶が飲めないじゃない」
「自分で淹れればいいでしょう」
「私はお客様よ」
「ここは喫茶店ではないわ」
レミリアは机を指先で叩いた。一定の間隔で、こつ、こつ、と音が鳴る。パチュリーは最初のうちは無視していたが、やがてその音が読書の邪魔になり始めた。
「……レミィ」
「何?」
「その指を止めなさい」
「退屈なのよ」
「知っているわ」
「なら、仕方ないでしょう?」
「退屈なら何をしてもいいという理屈にはならないわ」
「退屈というのは、何をしてもいい時間のことじゃないの?」
「初めて聞いたわ、そんな定義」
「今、私が決めたのよ」
「時々貴女が怖くなるわ」
レミリアは指を止めた。代わりに、椅子の上で足を揺らし始める。
パチュリーは本を閉じた。
「……わかったわ。紅茶を淹れるから、少し待っていなさい」
「最初からそう言えばいいのに」
「貴女が最初から静かにしていれば、もっと早かったでしょうね」
パチュリーは立ち上がり、部屋の隅にある小さな棚へ向かった。そこには茶葉やカップ、必要最低限の道具が置かれている。咲夜が用意してくれるものとは違い、特別な飾りつけもなければ、菓子が添えられることもない。
ただ、紅茶を飲むためのものがある。
レミリアはその様子を眺めていた。
「パチェが紅茶を淹れるところって、あまり見ないわね」
「そう?」
「いつも咲夜に頼んでいるじゃない」
「自分で淹れることもあるわよ」
「へえ。どんなとき?」
「咲夜がいないとき」
「それだけ?」
「ほかに理由が必要?」
「そうねえ。たとえば、今日は紅茶を淹れたい気分だった、とか」
「そんな気分になることは、あまりないわね」
パチュリーは湯を用意しながら答えた。
「必要だからする。それだけよ」
「つまらない答えね」
「紅茶を淹れることに、面白さを求めていないもの」
「じゃあ、パチェは紅茶を飲んでいても退屈なの?」
「どうしてそうなるのよ」
「必要だから飲むのでしょう?」
「飲みたいから飲むこともあるわ」
「必要だからすることと、したいからすることは違うのね」
「当然でしょう」
レミリアは、何かを考えるように目を細めた。
「でも、必要だからすることばかりだったら、つまらなくない?」
「そういうこともあるでしょうね」
「それでいいの?」
「よくないと思うなら、変えればいいのよ」
「簡単に言うわね」
「変えるのが簡単だとは言っていないわ」
パチュリーはカップを二つ用意した。片方を自分の前に置き、もう片方をレミリアの前に置く。紅茶の香りが、静かな図書館に広がった。
レミリアはカップを手に取り、ひと口飲んだ。
「……悪くないわね」
「それはどうも」
「でも、咲夜のほうが上手よ」
「でしょうね」
「悔しくないの?」
「何が?」
「紅茶を淹れる腕前で負けているのよ」
「私は咲夜と紅茶を淹れる腕前を競っているわけではないもの」
「競争心がないのね」
「競争する必要がないだけよ」
レミリアはカップを置いた。
「パチェって、そういうところがあるわよね」
「また?」
「自分が必要だと思わないことには、あまり興味を持たないところ」
「そうかしら」
「そうよ。私だったら、咲夜より上手に紅茶を淹れられるようになろうと思うわ」
「それで、上手に淹れられるようになったら?」
「咲夜に勝ったことになるでしょう」
「それで満足するの?」
「もちろんよ」
「そのあと、どうするの?」
レミリアは答えに詰まった。
「……そのあと?」
「ええ。咲夜に勝ったら、それで終わりなの?」
「勝ったら、勝ったことを喜ぶわよ」
「いつまで?」
「いつまでって……」
パチュリーは紅茶をひと口飲んだ。
「勝ったことが嬉しいのなら、嬉しいうちは満足するのでしょうね。でも、いつかはその気持ちも薄れる。そうしたら、また別のことを始めるのかしら」
「そうね。そうするかもしれないわ」
「では、次の目標を見つけるまで、また退屈するの?」
レミリアは眉を寄せた。
「……パチェ、今日は一段と意地悪ね」
「質問しているだけよ」
「質問の形をした意地悪もあるのよ」
「初めて聞いたわ、そんな定義」
「今、私が決めたのよ」
パチュリーはからかうように笑う。
「さっきの根に持ってるのね」
レミリアはなんだかおかしくて、どうでもよくなってきた。けれど、さっきの問いは頭の隅に残っていた。
何かに勝つ。何かを手に入れる。何かを成し遂げる。
そうしたとき、確かに嬉しい。自分が望んでいたものが手に入れば、満たされた気持ちになる。けれど、それがずっと続くかといえば、そうとも限らない。
ならば、次を求めるのは悪いことなのだろうか。
レミリアには、よくわからなかった。
「……咲夜はどうなのかしら」
「何が?」
「仕事よ。咲夜はいつも仕事をしているでしょう?」
「ええ」
「仕事を終わらせたら、満足するの?」
「本人に聞いてみたらどう?」
「今はいないじゃない」
「そうね」
レミリアはカップの縁を指でなぞった。
「咲夜って、忙しいじゃない。私の世話をして、館のことをして、食事の準備をして、掃除をして。毎日、やることが山ほどあるわ」
「ええ。よく働いてくれているわね」
「でも、やることがなくなったら、どうするのかしら」
「休むのではなくて?」
「休むって、退屈じゃないの?」
「疲れているときは、休むことが必要でしょう」
「必要だから休むの?」
「それもあるでしょうね」
レミリアは納得していない様子だった。
「なんだか、みんな必要なことばかりしているのね」
「貴女は違うの?」
「私は……」
言いかけて、レミリアは口を閉じた。
自分だって、食事をする。眠る。紅茶を飲む。館の主として決めなければならないこともあるし、誰かと会うこともある。
それらをすべて、必要だからしているのだろうか。
それとも、したいからしているのだろうか。
「私は、やりたいことをやっているわ」
「そう」
「退屈したら、面白いことを探す。誰かと話したくなったら、話しかける。出かけたくなったら、出かける。それだけよ」
「なら、今はどうしてここにいるの?」
レミリアはパチュリーを見た。
「……ここにいたいからよ」
答えは、思ったよりも早く出てきた。
パチュリーは、それを聞いても特に何も言わなかった。ただ、紅茶を飲み、カップを机に戻した。
レミリアは少し気恥ずかしくなった。
「な、何よ。変なことを言った?」
「別に」
「何か言いなさいよ」
「ここにいたいのなら、いればいいでしょう」
「それだけ?」
「それ以外に、何を言えばいいのよ」
レミリアは頬を膨らませた。
けれど、今度はすぐに反論しなかった。
ここにいたいから、ここにいる。
それは、退屈を解消するためとは少し違う気がした。面白いことが起きるかどうかはわからない。パチュリーがいつまでも本を読んでいる可能性だってある。
それでも、ここにいたい。
その気持ちを、退屈という言葉だけで説明することはできなかった。
「……まあ、そうね」
レミリアはカップを持ち上げた。
「せっかく紅茶を淹れてもらったんだもの。飲み終わるまでは、ここにいてあげるわ」
「どうぞご自由に」
「それから、もう一杯お願いするかもしれないわ」
「自分で淹れなさい」
「友人でしょう?」
「その言葉を便利に使いすぎではなくて?」
二人は、しばらく紅茶を飲んだ。
会話が途切れても、レミリアはすぐに何かを言おうとはしなかった。パチュリーも、沈黙を埋めようとはしなかった。
紅茶は少しずつ冷めていく。
そのことに気づいたレミリアは、カップの中を覗き込んだ。
「ねえ、パチェ」
「今度は何?」
「紅茶って、冷めても紅茶なのよね」
「当たり前でしょう」
「熱いうちに飲んだほうがおいしいのに、冷めてしまう。なんだか、もったいないわね」
「冷めたなら、温め直せばいいじゃない」
「そういう問題かしら」
「どういう問題なの?」
レミリアは考えた。
「……わからないわ」
「そう」
パチュリーはそれ以上、尋ねなかった。
レミリアは冷めかけた紅茶を飲んだ。熱いときとは少し違う味がしたが、飲めないほどではない。
温め直せば、また熱くなるだろう。
けれど、最初に淹れたときとまったく同じになるわけではない。
そんなことを考えているうちに、レミリアはふと、地上のことを思い出した。
紅魔館の廊下。食堂。広い庭。門の前で居眠りをしている美鈴。仕事に追われている咲夜。どれも見慣れた光景で、普段なら特に気に留めることもない。
それでも、そこにはいつも何かがあった。
仕事があり、用事があり、誰かの声がする。
地下の図書館には、それが少ない。
ここでは、何かが起こるのを待っていても、なかなか何も起こらない。
だからこそ、レミリアは退屈しているのかもしれなかった。
「……咲夜って、退屈しないのかしらね」
また同じ問いを口にしてしまった。
パチュリーは、今度は答えなかった。
そのとき、図書館の扉が開いた。
「失礼いたします、パチュリー様」
咲夜が立っていた。
手には書類の束と、古びた帳簿が一冊。いつものように姿勢は整い、表情にも乱れはない。
「あら、咲夜。どうしたの?」
「こちらの帳簿について、確認をお願いしたく存じます。倉庫の整理をしておりましたら、古い魔道具の管理記録が見つかりまして」
「私に?」
「はい。いくつか、記録と現物の名称が一致しないものがございますので」
パチュリーは手を差し出した。咲夜は帳簿を渡し、確認してほしい箇所を説明する。
レミリアはそのやり取りを眺めていた。
「咲夜、忙しそうね」
「おかげさまで」
「それ、忙しい人はみんな言うのかしら」
「さあ、どうでしょう」
咲夜は微笑んだ。
「ただ、今は少し時間に余裕がございます。こちらの確認が終われば、厨房へ寄り、明日の準備をする予定です」
「明日の準備?」
「はい。食材の確認と、備品の補充を」
「それが終わったら?」
「明日の朝の支度を整えます」
「それが終わったら?」
「そのときに、次に必要なことをいたします」
レミリアは、パチュリーを振り返った。
「ほらね。やっぱり、次から次へと仕事が出てくるのよ」
「咲夜がそういう働き方をしているというだけでしょう」
「でも、仕事がなくなったら退屈するんじゃない?」
「お嬢様」
咲夜が、静かに口を挟んだ。
「仕事がなくなったら、そのときに考えます」
「……それだけ?」
「はい」
レミリアは、つまらなそうに視線をそらす。
けれど、咲夜の返事は、パチュリーの返事とは少し違って聞こえた。
パチュリーは、わからないことをそのままにしておく。咲夜は、まだ来ていない時間について、今から答えを決めようとはしない。
どちらも、退屈を恐れているようには見えなかった。
「ねえ、咲夜」
「はい、お嬢様」
「仕事が全部終わったら、何をしたい?」
咲夜は少し考えた。
「そうですね。ゆっくりお茶を飲むのもよいかもしれません」
「それだけ?」
「今は、それで十分です」
レミリアは黙った。
十分。
その言葉が、妙に耳に残った。
「……ふうん」
レミリアは椅子から立ち上がった。
「じゃあ、私は出かけるわ」
パチュリーが顔を上げる。
「どこへ?」
「さあ。まだ決めていないわ」
「退屈を紛らわせに行くのではなかったの?」
「そうよ。だから、何か探しに行くの」
レミリアは扉へ向かいかけ、振り返った。
「咲夜、ここの用事が終わったら、少しだけ私に付き合いなさい」
「承知いたしました。帳簿の確認が済み次第、お伺いいたします」
「よろしい」
レミリアは満足げに頷いた。
「パチェ、紅茶はごちそうさま。悪くなかったわ」
「それはどうも」
「次はもっとおいしく淹れてちょうだい」
「自分で淹れなさい」
「考えておくわ」
レミリアは笑い、図書館を出ていった。
扉が閉まる。
咲夜は、レミリアが座っていた椅子を一瞥した。それからパチュリーに向き直る。
「……お嬢様は、何をなさるおつもりなのでしょう」
「さあね。本人にもわかっていないんじゃないかしら」
「そうですか」
「退屈を紛らわせるために出かけたそうよ」
「それなら、何か見つかるとよろしいですね」
咲夜はそう言って、机の上の書類を整えた。
パチュリーは帳簿を開いた。
「それで、確認してほしい箇所はここね?」
「はい。こちらと、こちらです」
二人は帳簿の確認を始めた。
レミリアのいなくなった図書館には、再び静けさが戻っていた。
けれど、さっきまでとまったく同じ静けさではなかった。
机の上には、二つのカップが残っている。
片方は空で、もう片方には、冷めた紅茶が少しだけ残っていた。
☆★何もない夜
咲夜は、机の上に広げた帳簿を一枚ずつ確かめていた。
古い記録は、思っていたよりも手がかかった。魔道具の名称が現在の呼び方と違っていたり、保管場所が変わっていたりする。ひとつ確認するたびに、別の不明点が見つかった。
パチュリーは隣で本を開いていたが、ときおり顔を上げて、咲夜の手元を眺めていた。
「何か?」
「いえ。ずいぶん熱心だと思って」
「仕事ですから」
「それは、さっきも聞いたわ」
「では、何度でも申し上げます。仕事ですから」
咲夜は顔を上げずに答えた。
パチュリーは小さく息を吐いて、本のページをめくった。
「仕事が好きなの?」
「嫌いではありません」
「好きではないのね」
「好きか嫌いかで分ける必要があるのでしょうか」
「別に。気になっただけよ」
「お嬢様にも、同じことを聞かれました」
「そう」
パチュリーはそれ以上、尋ねなかった。
咲夜が仕事をしていることと、咲夜が満足していること。そのふたつが同じなのか、違うのか。考えてみても、今のパチュリーには答えが出なかった。
そもそも、満足とは何だろう。
本を読んでいるとき、彼女は満足しているのだろうか。それとも、まだ知らないことがあるから読み続けているのだろうか。
知りたいことがなくなったら、本を読む理由もなくなるのか。
そんなことを考えているうちに、咲夜が最後の一枚を閉じた。
「確認できました。ありがとうございます、パチュリー様」
「もういいの?」
「ええ。少なくとも、今回の分は」
「少なくとも、ね」
「すべてを一度に片づけることはできませんから」
咲夜は書類を整え、帳簿を閉じた。仕事を終えたというのに、特別な表情は浮かべなかった。喜んでいるわけでも、疲れ果てているわけでもない。ただ、次にすることを考えている顔だった。
「お嬢様を探しに行きます。お誘いを受けましたので」
「そう。紅茶はどうするの?」
咲夜の視線が、机の上のカップに落ちた。
片方は空になっている。もう片方には、冷めた紅茶が少しだけ残っていた。
「今は結構です。厨房に戻れば、また飲む機会もあるでしょうから」
「十分なのね」
「何がでしょう?」
「紅茶よ。飲みたいと思っても、今は十分だということでしょう」
「……そうですね」
咲夜は少しだけ考えた。
「今、ここで飲まなくても、困りませんから」
「そう」
パチュリーは頷いた。
咲夜は一礼して、図書館を出ていった。
扉が閉まると、再び静かになった。
パチュリーは本に目を落とした。
文字は変わらずそこにあった。さっきまで読んでいた箇所から、何ひとつ進んでいない。咲夜の仕事が終わったことも、レミリアがどこかへ行ったことも、この本には関係がなかった。
それでも、しばらく文字を追っているうちに、彼女は同じ行を三度読んでいることに気がついた。
「……退屈ね」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
その言葉は、思ったよりも簡単に口から出た。
パチュリーは本を閉じ、冷めた紅茶を飲み干した。
少し渋かった。
新しく淹れ直すこともできたが、そうする気にはならなかった。
代わりに、彼女は椅子の背にもたれた。
何かをしなければならないわけではない。何かをしたいわけでもない。ただ、しばらくそうしていたかった。
それを満足と呼ぶのか、退屈と呼ぶのか。
今は、どちらでもよかった。
*
レミリアは、廊下の途中で足を止めた。
特に目的があったわけではない。図書館を出てから、館内をあちこち歩いてみた。窓の外を眺め、誰もいない部屋を覗き、途中で見つけた古い絵画に文句をつけた。
それだけだった。
咲夜はまだ来ない。
仕事が終わったら来るように言ったのは自分なのだから、文句を言うのもおかしな話ではある。けれど、待たされるのは好きではなかった。
「まったく。忙しいのも考えものね」
そう言ってから、レミリアは首を傾げた。
自分は、何をしているのだろう。
退屈だから図書館を出た。退屈を紛らわせるために歩き回った。けれど、歩き回った先で、特に何かを見つけたわけでもない。
それなら、図書館にいたときと何が違うのか。
「お嬢様」
振り返ると、咲夜が立っていた。
「遅いわよ」
「申し訳ありません。帳簿の確認に、少々時間がかかりました」
「もう終わったんでしょう?」
「はい」
「なら、どこかへ行きましょう。せっかく来たんだから」
咲夜は頷きかけて、ふとレミリアの顔を見た。
「お嬢様は、何か見つかりましたか?」
「何が?」
「退屈を紛らわせるものです」
レミリアは眉を寄せた。
「……見つかっていたら、あなたを待っていないでしょう」
「それもそうですね」
「何よ、その顔」
「いえ。お嬢様らしいと思いまして」
「褒めているの?」
「ご想像にお任せします」
レミリアは鼻を鳴らした。
咲夜と一緒なら、何か面白いことが見つかるかもしれない。そう思ったのは確かだった。
けれど、咲夜の顔を見た途端、別にどこへ行かなくてもいいような気もしてきた。
「……やっぱり、いいわ」
「よろしいのですか?」
「ええ。あなたは仕事の続きでもしていなさい」
「帳簿の確認は終わりましたが」
「じゃあ、ほかの仕事をすればいいじゃない」
「かしこまりました」
咲夜は、それ以上は尋ねなかった。
レミリアは踵を返した。
「私は図書館に戻るわ」
「承知いたしました」
「……あなたは?」
「私は厨房へ。明日の準備がありますので」
「そう」
それだけ言って、レミリアは歩き出した。
咲夜もまた、反対の方向へ進んだ。
ふたりは別々の場所へ向かった。
それが、今夜のふたりにとっては、ちょうどよかった。
*
図書館の扉を開けると、パチュリーは椅子にもたれたまま、こちらを見た。
「おかえり」
「ただいま」
レミリアは当たり前のように答え、いつもの席に腰を下ろした。
「退屈は紛れた?」
「まったく」
「そう」
「パチェは?」
「私も、少し退屈していたところよ」
「だったら、ちょうどいいわね」
「何が?」
「私が戻ってきたこと」
パチュリーは一瞬だけ黙った。
「……そうね」
レミリアは満足そうに笑った。
机の上には、空になったカップと、もうひとつの空のカップが並んでいた。紅茶はどちらにも残っていない。
「あら。紅茶は?」
「飲んだわ」
「私の分は?」
「貴女が戻ってくるとは限らなかったもの」
「ひどいわね。私がここに戻ってくるのは当然でしょう?」
「さっきまで、退屈だから出ていったのでしょう」
「だから戻ってきたのよ」
「理由になっていないわ」
「理由なんて、必要ないでしょう?」
パチュリーは返事をしなかった。
レミリアは机に頬杖をつき、彼女の読んでいた本を覗き込んだ。
「何を読んでいたの?」
「貴女が出ていってから、ずっと同じところよ」
「面白くないの?」
「そういうわけではないわ」
「じゃあ、どうして進まないの?」
「……貴女が戻ってきたからじゃないかしら」
レミリアは目を丸くした。
それから、楽しそうに笑った。
「そう。私のせいなのね」
「ええ。そういうことにしておきましょう」
「ふふん。なら、責任を取ってあげるわ」
「どうやって?」
「話し相手になってあげる」
「それは、私が頼んだことだったかしら」
「今、頼みたくなったんでしょう?」
「素敵な考え方ね」
「吸血鬼だからね」
「関係ないでしょう」
レミリアは笑い、椅子の上で姿勢を整えた。
「ねえ、パチェ。何か話しなさいよ」
「貴女が話したいことがあるのではなくて?」
「私は聞く側でもいいのよ」
「珍しいわね」
「たまにはね」
パチュリーは本を閉じた。
話すことなら、いくらでもあった。読みかけの本のことでも、魔法のことでも、館の中で起きた些細な出来事でもいい。
けれど、今すぐ話したいことは、特になかった。
「……何もないわ」
「そう」
レミリアは、少しも残念そうではなかった。
「じゃあ、何もない話をしましょう」
「何もない話?」
「ええ。何も起こらなかったこととか、何も見つからなかったこととか。そういう話よ」
「それは、話になるのかしら」
「なるわよ。私たち、いつもそうしているじゃない」
パチュリーはレミリアを見た。
それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……そうね」
ふたりのあいだに、しばらく沈黙が落ちた。
レミリアは何かを思いついたように口を開きかけ、やめた。パチュリーは本を開き直したが、すぐに読むのをやめた。
話は始まらなかった。
それでも、レミリアは席を立たなかった。
「パチェ」
「何?」
「明日は、何か面白いことがあるかしら」
「知らないわ」
「そうよね」
レミリアは椅子の背にもたれた。
「まあ、明日考えればいいわ」
「そうね。明日になったら、明日の退屈があるでしょうし」
「……それ、少しも慰めになっていないわよ」
「慰めたつもりはないもの」
「本当に、あなたって魔女ね」
「今さらね」
レミリアはくすくすと笑った。
図書館には、相変わらず何も起こらなかった。
本は本棚に収まり、机には空のカップがふたつ並んでいた。咲夜は厨房で明日の準備をしているだろう。廊下の向こうでは、誰かが扉を閉めた音がした。
夜はまだ続いている。
レミリアは、もう一度だけ「退屈だわ」と呟いた。
今度は、パチュリーも否定しなかった。
退屈であることと、ここにいたいことは、きっと両立する。
けれど、それをわざわざ口にする必要はなかった。
レミリアは椅子に座り、パチュリーは本を開いた。
何もない夜は、何もないまま、ふたりのあいだに置かれていた。
退屈とは、いったい何なのでしょう。何もすることがないから退屈なのか、それとも、何かをしていても満たされないから退屈なのでしょうか。
ところで、次回は私がメインだそうです。ドキドキしてしまいます、なんて。言ってみたかっただけですよ。