夜桜が月明かりを浴び、白々と浮かび上がる。その光を跳ね返して、相対する娘たちの刃が冴え冴えと煌めいていた。
ひゅっ。
横薙ぎが、夜気を割る。紫の娘は、半歩だけ退く。腰を越えるほど長くまっすぐな紫の髪が、一拍遅れて流れる。毛先が切っ先をかすめ、ちり、と三本、宙に散る。
三本は、花片に混じって、ひらりひらりと舞い落ちる。その向こう、三歩の間合いを置いて、二人は向き合う。
花はしんしんと降りしきり、二人の肩へ、袖へ、抜き身の刀へと触れては、ちらちらと瞬く。
紫の娘は、眉ひとつ動かさない。引き結んだ口、足元だけを見据える切れ長の目、下げたままの刀。肩から腕にかけて、白く光沢のある筒状の袖当てが、花明かりを映している。赤い袴の裾が揺れ、オリーブ色の和装の肩に、花びらが一枚、止まる。
金の娘は、笑っている。褐色の肌が艶めき、外へ跳ねた金の短髪が、きらりと閃く。口元は、愉快でたまらないと言わんばかりにほころんでいる。明るい青の上着の裾と、水色の短い襞のスカートが躍り、膝が、ぐっと撓む。太ももから足首まで、赤い分厚いレッグカバーが、月の光を吸って、ひときわ濃い。
ふっ、と短く息が漏れる。
沈む、縮む、溜める――どっ。
赤い脚が、ばね仕掛けのように伸びきる。土が飛び、花がぱっと宙へ吹き上がる。
金の娘が、来る。斜めに落ちる赤い刃を、紫の娘の刀が受ける。きん。火花が、胸の横長の白い当て板を、一瞬だけ照らす。
右から迫れば外して返し、下から跳ね上がれば押さえて流す。薙ぐ、払う、突く、弾く。拍が崩れる。間が詰まる。振り下ろす、躱す、掬う、逸らす、打ち込む、叩きつける――かん、かん。
長いものと長いものが擦れ合う、澄んだ音。紫の娘が刀を振るうのではない。刀が、紫の娘を連れて動いている。音の合間に、蜂の群れが羽を鳴らしているような低い唸りが混じる。腕で受ける。袖当てが、鋼を滑らせる。火花が咲く。咲いたそばから、花片が吹き消す。
間合いが、伸び縮みしながら、じりじりと広場の端へずれていく。桜の切れ間、石段のはるか下に、瓦斯灯と電灯がまだらに灯る街が覗く。
金の娘の足が、桜の幹を蹴る。どうと、花が雪崩れる。
その白を突き破り、月を背にして翻る。人の背丈の、倍の空。
眼下に、吉野の都の灯。路面電車の最終が、名残惜しげに鐘を鳴らす。その向こうで、帝のおわす山が、どっしりと闇に沈む。
赤い刃が、真上から落ちてくる。
紫の娘は、見上げもしない。白い袖当てを、真上へかざす――
ぎぃん、ぎぃん、と鉄が鳴る。受けた衝撃で、足元の土がわずかに凹む。
音をたどって石段を上がりきったところで、佐藤西行は息を呑んだ。
(甲冑のようで、甲冑ではない。からくり仕掛けのようで、からくりよりずっと滑らかだ)
怖い、とは思わなかった。美しかった。語りの山場で、太夫が三味線と息を合わせるあの一瞬に似ていた。互いの呼吸を読み、わずかでも間を外せば崩れてしまう、張りつめた糸の上の掛け合い。それが、刀と刀で行われている。
そして西行は、美しいものを見ると黙っていられない男だった。
大和帝国大学、法科の学生。それが昼の肩書きである。だが日が暮れれば、寄席の木戸の前でちらしを握りしめて腕を振り回す、ただの追っかけに戻る。今夜も、つい先ほどまで、娘義太夫の追っかけ仲間と蕎麦屋の二階を占領して、太夫の「間」を語り明かしていた。腰には手拭い、懐には寄席のちらしが三枚。
(これは見世物だ。どこかの一座の、野外の立ち回りだ。新派か、活動写真の撮影か。こんな上等なものを、木戸銭も取らずに見せてくれるのか!)
壮大な勘違いである。だが、ひとたび「これは芸だ」と思い込んだ頭には、それ以外の筋書きが入る隙間がなかった。芸には客がいる。客がいるなら、声をかけねばならない。黙って見ているのは、演者に対する無礼である。それが、堂数連の掟であった。
手拭いを腰から抜く。両手に構える。足を肩幅に開く。身を沈める。息を吸う。腹の底から――
「どうす! どうす!」
広場から、音が消える。火花を散らしていた二本の刀が、ぴたりと宙で止まり、その上へ、花びらだけが、何も知らずに降り続ける。
娘義太夫の見せ場で、追っかけの若者たちが一斉に腕を振り上げ、体を揺らして囃し立てる、あの掛け声である。西行は手拭いを頭上で回す。足を踏み鳴らす。ちびた下駄の歯が、からんころん、からんころんと鳴る。桜吹雪のただ中で、書生がひとり、踊っている。顔は、真剣そのものである。
(いいぞ、紫の! 今の受けは日本一だ! 金のほうも、負けるな!)
金の髪の娘が、ゆっくりとこちらを向いた。
「……なに、あれ」
心底わからない、という顔だった。珍しい虫でも見つけたように、きょとんと小首をかしげている。紫の娘も振り向いた。なにも言わない。ただ、切れ長の目が、ほんのわずかに見開かれたように見えた。
金の娘が、にいっと笑った。さっきまでとは違う、刃物の背のように冷えた笑みだった。
「ねえ、楠の。あなたのところでは、月夜の晩に人の喧嘩へ首を突っ込む野暮天を、どう扱うの?」
紫の娘は答えない。
「わたしのところではね。首ごと、お引き取りいただくの」
花びらが一枚、落ちた。もう一枚、赤い刃の上を滑った。西行の喉が、ごくりと鳴った。
次の瞬間、褐色の脚が地を蹴る。土が爆ぜ、花が一斉に跳ねる。
速い、と思う間もない。赤い刀が、闇を裂いて西行の喉元へ――。
かん、と高い音。
紫の髪が、目の前に広がっていた。いつ割って入ったのか、まるで見えなかった。娘の背は西行の鼻先にあり、突き出した刀が赤い刀を受け止めている。いや、受けきれていなかった。背後に西行がいるぶん、半歩、踏み込みが足りなかったのだ。半歩。たった半歩だ。赤い刃は袖当ての縁をかすめ、その下の腕を深く裂いていた。オリーブ色の袖が、みるみる暗く濡れていく。
「……あ」
間の抜けた声が、西行の口から漏れた。鉄の匂いがした。芝居の血糊に、こんな匂いはない。
「余計なことを」
金の娘が、つまらなそうに言った。
紫の娘は答えず、受けた刀をそのまま返す刀に変えた。
すっ、と短く息を吸う。裂かれた腕の痛みなど、はじめからなかったかのようだった。袖を伝った血が、振るたびに赤い粒になって飛ぶ。
下から斜めに、迷いのない一閃。のけぞる金の娘へ、捻る、割り込む、押し込む、食らいつく。
金の娘が、下がる。一歩、二歩。唇の端は吊り上がったまま。踵が、桜の幹に当たる。
もう、下がれない。
詰める、踏む、斬り上げる――ざっ。
切っ先が、脇腹の布を裂く。褐色の肌に、赤い筋が浮く。
「っ、やるじゃない!」
金の娘は、翻る。その幹を蹴る。上へ、さらに高く。舞い上がった花が、あとから降りかかる。しなる枝の上で、片手で脇腹を押さえ、それでも笑っている。
「庇うなんて、あなたらしくもない。処刑人が、見ず知らずの書生さんを?」
紫の娘の肩が、ほんのわずかに動いた。
「今夜はここまで。見物人が増えるのは、好みじゃないの。……それに、そこのお客さん。囃し方は下品だけど、間の取り方は悪くなかったわ。また今度ね、楠の」
花片が渦を巻いて、その姿は枝の向こうに消えた。唸りの音だけが、遠ざかりながらしばらく尾を引いて、やがて夜に溶けた。
あとには、舞いやまぬ桜吹雪の中、袖を濡らした紫の娘と、手拭いを握りしめたまま足の動かない西行。
娘は刀を鞘に戻す。ちん、と鍔が鳴る。小さな音が、やけに大きく聞こえた。袖を押さえた指の間から、血が滴って、白い花びらに赤い点を落とした。
ゆっくりと、娘は西行のほうを向いた。間近で向き合うと、思ったより若かった。自分と同じか、少し下かもしれない。それなのに、目の奥にはひどく遠いものがあった。人を見るというより、塀や柱を見るような目だった。見られて、西行は初めて背筋が冷えた。
「あの、怪我……。手当てを。いや、すみません、俺が余計なことをしたから。これで縛って、坂の下に、夜でも戸を叩けば開けてくれる町医者が――」
「見世物では、ない」
低く、澄んだ、よく通る声だった。張り上げているわけでもないのに、花の降る音の上をまっすぐ渡ってくる。差し出した手拭いは、宙に浮いたままだった。娘はそれを見もしなかった。
「忘れろ」
それだけ言うと、彼女は背を向けた。紫の髪が一度だけ大きくなびき、桜の向こう、闇の中へ呑まれていった。足音ひとつ、残さなかった。
差し出したままの手拭いの端を、花吹雪がはたはたと叩いていく。西行は、腕を下ろすことも忘れていた。足元の花の上で、血の点が、ひとつ、ふたつ、月を映して黒く光っている。
(見世物じゃ、ない。……そうか)
あれは、芸ではなかった。冷静になれば、見紛いようもない。自分は、触れてはならないものの前で、手拭いを振り回して踊っていたのだ。自分のせいで、あの娘は腕を裂かれた。
分かっている。分かっていて、それでも。目の前に広がった紫の髪に、自分を庇って前に出た小さな背中に、新しい贔屓を見つけた追っかけの熱が湧いたのを、西行はどうしても否定できなかった。法科の頭をいくら回しても、贔屓を禁ずる条文は、どこにも見つからなかった。
頭上では、桜が枝を差し交わして、花の天井を架けていた。染井吉野である。物知りの学友は、この木が東の染井村の生まれだと言って面白がっていた。北朝の側の土地で育った桜が、帝の都の並木を張っているのだ、と。「敵地の間者だぞ」と笑う学友に、西行は「花は花だろう」と返した。美しければ、生まれはどうでもいい。
西行は屈んで、血のついた花びらを一枚、そっと拾い上げる。手拭いに包んで、寄席のちらしの隣にしまう。なぜそんなことをしたのか、自分でも分からなかった。
(死ぬなら、桜の下で、春の満月の晩がいい。……けど、今夜じゃなかったらしい)
「忘れろ、か」
つぶやいて、空を仰ぐ。月を透かした花びらが、なおも降り続けていた。
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