宮の奥は、煙の匂いがした。
白檀に似て、しかしもっと苦く、もっと古い匂いである。護摩の煙が薄い帳のように廊下から広間へ流れ込み、梁の高みへ吸われていく。
楠は、板の間に膝をついていた。
両手は膝の上。背は真っ直ぐ。頭は、深く垂れている。
刀は取り上げられていた。袖当ても胸当ても外されて、着ているのは飾りのない白の小袖一枚である。紫の長い髪は、後ろでひとつに結わえられていた。
目の前には、御簾が下りている。
御簾越しに、人影とも煙ともつかない揺らぎが、うっすらとあるだけだった。それ以上は何も見えない。見ようとも思わなかった。
悪党を裁けるのは、帝のみ。
そして、務めに背いた悪党の末を、彼女は誰よりもよく知っていた。南朝に仇なす者は、同胞でも始末する。それが悪党である。その悪党が、勅命の囚人を北朝に渡した。
(死を賜るのだろう)
恐れは、なかった。ただ、これで終わるのだ、と静かに思った。
鈴が、一度だけ鳴った。
ちりん、と澄んだ音が、広間の空気を震わせる。
御簾の脇に控えた侍従が一歩進み出て、巻物を広げた。
「勅である」
乾いた声だった。
「楠 正義。勅裁を下す」
空気が、ぴんと張りつめた。
「一つ。楠の姓を、召し上げる」
彼女の指先が、膝の上でかすかに揺れた。
(ここからか)
まず姓を取り、それから命を取る、ということか。
「楠の名は、しかるべき者に継がせる」
しかるべき者。
誰なのかは、読み上げられなかった。尋ねる立場にもなかった。
「二つ。朽木と名乗れ。名も改め、荼枳尼とせよ」
くちき。だきに。
胸の中で、小さく音がした。
自分の名を、心の中で呼んでみた。
くすのき、せいぎ。
呼んだ先に、誰もいなかった。
「三つ。悪党の任を解く」
それは、予期していた言葉だった。それでも、肩がわずかに下がった。
悪党であること以外に、自分が何者であるかを示すものを、彼女は持っていなかった。姓がなくなり、任がなくなる。残るのは何か。数えようとして、数えるものが見つからなかった。
(次は、命か)
侍従は、一呼吸おいた。
「四つ。そなたはもはや、金剛は使えぬ。金剛は、そなたの手に置く。身は、見張りのもとに置く」
広間に、長い沈黙が落ちた。
護摩の煙が、梁の間をゆるゆると昇っていく。遠くで、鳥が一声鳴いた。
侍従は、巻物を巻き取りはじめた。
「……以上である」
彼女は、頭を垂れたまま、待った。
待ったが、続きは来なかった。
死の一語は、最後まで読み上げられなかった。
(……斬られぬ)
肩の力が抜けた、のではなかった。
足元の床が、すうっと遠のいたような気がした。
斬られるのなら、まだ、務めに背いた者として終われた。そうではなかった。生きて、名を持たず、任を持たず、動かぬ鉄を手の中に置いたまま、見張られて生きよ、と言われたのだ。
命を取られるより、重かった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、初めて御簾のほうを見た。
御簾の向こうで、煙が静かに揺れていた。誰の顔も見えない。声も聞こえない。
再び、深く頭を下げた。
「承りました」
声は、震えていなかった。
「謹んで、お受けいたします」
鈴が、もう一度鳴った。
◇
広間を出ると、廊下に新田が待っていた。
小柄な体に、大きな赤いリボン。いつもは騒がしいほど元気なその顔が、今日は妙に神妙だった。足元に、革のトランクが一つ置かれている。英国製の、大きな、立派なものだった。濃い茶色の革に、真鍮の留め金がついている。蓋の隅には、『472E』と刻印があった。
「……正義」
新田は、言いかけて口をつぐんだ。
「いや、えっと、荼枳尼、でごじゃる」
大きな赤いリボンが、しおれたように片側へ傾く。握りしめていた拳がほどけた拍子に、堰を切って言葉が転がり出た。
「新田は、死罪かと思ったでごじゃる。控えの間で、ずっと拳を握っていたんだ。そしたら、名前だけ替わって出てきて、どうしていいか分からない……」
新田は両手をばたばたと振った。
「新田」
「……うん」
新田は、しゅんとうつむいた。
「これ、荷物だ。金剛が入ってる」
楠は、トランクの前に膝をついた。
留め金に手を伸ばす。かちり、と小さな音がして、蓋が開いた。
中には、見慣れた白い部品が、きちんと畳まれて収まっていた。袖当て、胸当て、籠手。傍らに、刀が一振り添えられている。いつも唸りを上げていた機械は、いまは黙っていた。
指先で、触れてみた。
何も応えなかった。
あの肌を撫でるような脈打つ熱も、遠くで鳴る低い唸りもない。ただの、重くて冷たい金属だった。
蓋の隅の刻印に、指が触れた。四七二、E。
金剛をいただいた日のことを、思い出した。
国守の楠に、帝から下賜された。国を守る証だと聞かされた。その場に、英国の者がひとり立ち会っていた。名は聞かなかった。その男が、機体の名を口にした。
『Four seven two E. E is for Executioner』
意味は、あとで知った。処刑する者。
知らない言葉で、自分の役目に名がついていた。
先般、大使館街で七人の将校を斬った。英国大使の馬車の前だった。殺さなければ、国際問題になる。だから殺した。大使は、なってない、と言った。自分は、頭を下げた。
あの日、白い袖当ては、確かに唸っていた。異国の貴人の前で、同胞を斬るときに。
国守の証だと思っていたものは、悪趣味の塊だった。
そして今、国守の名は取り上げられ、その印だけが手の中に残った。
国守ではなく、ただの処刑人として生きよ。
そう突きつけられたのだ、と彼女は受け取った。
蓋を閉じた。留め金が、かちりと鳴った。
「持っていけ、ということか」
「そうだ。……あと、見張りは新田だ」
「見張り」
「金剛は、得体が知れなくて、誰にも仕組みが分からないって、偉い人たちが言ってた。取り上げて次の誰かに渡しても、動くか分からない。かといって手放して、何が起こるかも分からない。だから、お前に持たせたまま、誰に会うか、どこへ行くか、見ておけって。つまり、泳がされてるんだ」
新田は、気まずそうに鼻をこすった。
「ごめん。命令なんだ」
「構わぬ」
楠は、トランクを持ち上げた。
重かった。腕の傷が、まだ癒えきっていない。それでも持ち上げた。藍色の木綿の風呂敷に包んで提げると、いかにも地方から出てきた者の荷物に見えた。
廊下を抜け、門を出る。
空は、やたらと青かった。吉野の山々が、初夏の光を受けて濃く茂っている。
彼女は、振り返らなかった。
背後で、重い門が閉ざされる音がした。
門前を行く人が、すれ違いざまに道を譲った。誰も、名を呼ばなかった。呼ばれる名が、もうなかった。