鉄輪ぬ夢を馳せる   作:Rameso

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桜の下、トランク一つ

 憲兵隊を出たその足で、西行は実家の門をくぐった。

 

 佐藤家の屋敷は、吉野の駅を見下ろす坂の上にある。洋風の応接間と和風の座敷を継ぎ足したような奇妙な造りで、庭の向こうに家業の私鉄の車庫の屋根が見える。坂の下では、煉瓦の駅舎の軒を白い蒸気がかすめて流れている。

 

 玄関で、女中が目を丸くした。

 

「まあ、西行坊ちゃま! 旦那様が、お待ちでございます」

「……うん、そうだよね」

 

 覚悟は、決めていた。

 

 応接間の扉を開けると、革張りの椅子に、恰幅のいい男が深く身を沈め、組んだ指の上から、こちらを見ていた。鉄道で財を成した、佐藤家の当主。西行の父だった。

 

「座りなさい」

 

 穏やかな声だった。それが、逆に恐ろしかった。

 

 西行は、向かいの椅子に浅く腰を下ろした。

 

「憲兵隊の将校さんから、電話があった。おたくの息子さんが、大審院の法廷で踊っておられた、と」

「はい」

「何をしていた」

「……堂数連の、掛け声を」

「それは分かっている。なぜ、そんなことを、大審院の法廷でしたのか、と聞いているんだ」

「それは」

 

 西行は、言葉に詰まった。あの法廷で、自分は何を言いたかったのか。うまく説明できる自信はなかった。

 

「……放っておけなかったんです」

「何を」

「その、ある人を」

 

 父は、目を細めた。

 

「この数日、私がどれだけの方々に頭を下げて回ったか、分かっているかね。南朝の将校さんに三度、役所に二度、大学に一度。釈放の口利きなど、あの手この手を使っても骨が折れたよ」

「申し訳ありません」

「大学は、退学になった。罪には問わん、表沙汰にもせん、その代わり、名は消す。口利きの先で、そう聞かされた。向こうも、事を大きくしたくないらしい。私が言えるのは、それだけだ」

「……はい」

「しかもだ。うちは、東の出だろう。ただでさえ北朝寄りだの、フランスと内通しているだの、陰口を叩かれている家だ。法廷で北朝の連中と一緒に騒ぎを起こして、疑われないはずがない。わざわざ噂の種を蒔いてどうする」

「いえ、一緒にというか、あれは向こうが勝手に」

「反省のかけらもない顔だな」

「……すみません」

 

 父は、深いため息をついた。

 

「お前は、本当に、どうしようもない道楽者だな」

「はい」

「家の跡取りのくせに」

「はい」

「寄席ばかり通うくせに」

「はい」

 

 叱られるのは、覚悟していた。それでも今日は、さすがに堪えた。

 

 父は椅子から立ち上がり、窓の外を眺めた。夕日が、庭の松の枝の間に沈んでいくところだった。

 

「下宿の荷は、明日にでも引き取らせる。部屋は、前のまま空けてある。それから、少し頭を冷やしてきなさい。話は、あとで聞く」

 

 西行は、肩を落として応接間を出た。

 

 

◇

 

 

 行く当てなどなかった。

 

 門を出て、坂を下り、石畳の通りを歩く。夕暮れの吉野は赤く染まっていた。路面電車の鐘が遠くで鳴り、屋台の主が呼び声を上げ、店々に灯りがともっていく。

 

 ぼんやり歩いていると、前方の往来に、見覚えのある色。

 

 紫の長い髪。

 

 後ろでひとつに結わえてある。着ているのは飾りのない着物で、袖当ても胸当ても、赤い袴もない。藍色の風呂敷包みを、片手に提げていた。

 

 西行は、足を止めた。

 

 彼女は、歩いていた。ふらついているのではない。まっすぐに、歩いている。ただ、どこへ向かっているのでもない歩き方だった。人にぶつかりそうになると、無意識に半歩よける。よけたあとは、また、前へ。

 

 目が、何も見ていなかった。

 

(楠、さん)

 

 声を出しかけて、飲み込んだ。

 

 いや、そのときには、もう足が動いていた。

 

 堂数連の癖である。贔屓の太夫の人力車が走り出せば、考えるより先に、足が追っている。理由も段取りも、後からついてくる。西行は半間ほどの距離を保って、彼女の後ろを歩いていた。自分でも、何をしているのか分からなかった。探しに来たのではない。見かけて、追っただけである。

 

 角を曲がる。路地に入る。通りを抜ける。

 

 やがて、石段が見えた。

 

 坂の途中、古い桜のある広場。春の夜に、二人の娘が斬り合っていた、あの場所だった。桜はすっかり花を落とし、青々とした葉桜になっている。枝の間から、夕空の赤が透けていた。

 

 彼女は、木の根元で立ち止まった。

 

 風呂敷包みを足元に置く。そして、そのまま動かなくなった。

 

 西行は、広場の入り口、石段の陰で、息をひそめた。

 

 夕日が、その横顔を赤く照らしている。

 

 いつもの無表情だった。けれど、今日の無表情は、これまで見たどれとも違った。刃を納めたあとの無表情ではない。何も入っていない。空っぽの器が、木の下に置かれているようだった。

 

 どれほど経ったか。風が吹いて、葉桜の枝がざわめいた。

 

 彼女は動かない。

 

(何もかも捨ててきたような顔をして、それでも、桜の下には来てしまうんだな)

(あの人、自分でも、なんでここに来たのか分かってないんじゃないか)

 

 その考えが浮かんだとき、西行の足が、勝手に石段を上がっていた。

 

 靴の下で、落ち葉がかさりと鳴った。

 

「……あの」

 

 彼女は、振り向かなかった。

 

「大丈夫?」

 

 それは、考えた言葉ではなかった。口から、ぽろりと落ちたのである。

 

 長い間があって、彼女はゆっくりとこちらを向いた。

 

 切れ長の目が、西行を映した。焦点が合うまでに、少しかかった。

 

「ああ」

 

 抑揚のない声だった。

 

「どうすの書生か」

(名前じゃなくて、掛け声で覚えられてるのか)

 

 身も蓋もない。が、あの法廷を思えば、仕方がない気もした。

 

「無事、だったんですね。あの後、憲兵に連れていかれて」

「御前で、裁かれた」

 

 彼女は、淡々と言った。

 

 それから、足元の風呂敷包みに目を落とし、長い沈黙のあとで、ぽつりと続けた。

 

「私は、全て失ってしまった」

 

 それだけだった。嘆きでも、訴えでもない。ただ、事実を告げる声だった。

 

 西行は、言葉を探した。

 

 何を失ったのか。なぜ。どうして。訊きたいことは山ほどあった。法科の頭は、いくつも質問の条文を並べ立てた。どれも、この場には使えなかった。

 

 木の上でがさりと音がして、赤い大きなリボンが枝の間からちらりとのぞいた。誰かが見張っているらしい。この人は見張られているのだ、と西行は思った。名も、居場所も、力も、持っていないのに。

 

 夕空が、少しずつ暗くなる。石段の下では、瓦斯灯の黄ばんだ輪と電灯の白が谷の底で重なり、路面電車の窓明りが、その上をするりと滑る。帝のおわす山の稜線には、残照の金が細く引っかかっている。

 

 彼女は、まだ動かない。葉桜の影が肩を撫でても、結わえた髪の先が風にほどけても、行く先を決める力もないように見えた。

 

 そして西行は、自分の口が、また勝手に動くのを聞いた。

 

「……とりあえず、うちで飯でも食べていきますか」

 

 彼女の目が、わずかに見開かれた。

 

 言ってしまってから、西行は後悔した。飯である。この状況で、飯。もっと言うべきことがあっただろう。

 

 しかも、うち、というのは、さっき自分を叱りつけた父のいる家である。

 

 彼女は、しばらく西行を見ていた。

 

 責める目ではなかった。呆れる目でもなかった。何も入っていない目が、ただ、西行の顔を映していた。

 

「……好きにしてくれ」

 

 飯一杯のつもりだった。

 

 

◇

 

 

 西行が風呂敷包みを持つと、それは驚くほど重かった。結び目の隙間から、茶色い革の角と、蓋の隅の『472E』の刻印がのぞいている。

 

 彼女は取り返そうとした。「私が」「怪我してるんでしょう、その腕」「もう、ほとんど癒えている」「いいから」。二人で押し問答しながら、広場を出た。

 

 背後で、枝ががさがさと揺れた。

 

「あっ、こら、勝手に動いたら駄目でごじゃる! 見張りだぞ!」

 

 新田の声が、梢の向こうから降ってきた。赤いリボンが、木から転げ落ちそうになっている。西行は、見なかったことにした。

 

「新田」

「ごじゃる?」

「ついてくるなら、勝手にせよ」

「それは見張りの職務だ! 言われなくても付いていく!」

 

 坂を上りながら、西行は横目で楠を見た。

 

「あの、なんとお呼びすれば。楠さん、でいいんですか」

「楠は、もうない」

 

 彼女は、前を向いたまま言った。

 

「朽木、というらしい」

「くちき」

「変な名だろう」

 

 西行は、頭の中で漢字を思い浮かべた。ひどい名前だった。悪意があるというより、悪ふざけのような。いや、悪ふざけにしては、冗談の筋がどこにもない。

 

「……ひどい、ですね」

「そうか」

 

 彼女は、それ以上は何も言わなかった。

 

 ひどい、と言われても、怒りも悲しみもしない。ただ、自分のものではない名を、荷物のように運んでいる。そういう声だった。

 

 

◇

 

 

 屋敷の門の前で、西行は一度、深呼吸した。

 

「大丈夫ですか」

「何がだ」

「いや、これから親父に、あなたを何と紹介するかって話で。悪党だったとは言えないし」

「そなたの好きにすればいい」

「じゃあ、えっと……懇意にしている、娘義太夫、と」

「娘義太夫なら、私は本当に娘義太夫だ」

「そう、そうなんだよな。そこは嘘じゃない」

 

 応接間の扉を開けると、父は、まだそこにいた。洋燈が灯り、窓の外はもう暗い。帳面を繰っていた手を止めて、顔を上げた。

 

「戻ったか。頭は冷えたか」

「少しだけ」

「そうか。……ところで」

 

 父の目が、西行の背後の娘を捉えた。

 

 紫の髪の、無表情の娘。風呂敷包みを提げた、見知らぬ客。

 

「その方は」

「あの、親父。紹介したい人が」

「うん」

「その、懇意にしている娘義太夫の、朽木さんです」

 

 父の目が、きらりと光った。

 

「ほう」

「行き場がなくて、困っていて。よかったら、うちで飯を」

「ほう」

 

 父は、帳面を机に置いた。そして、非常に長い間、息子の顔を見た。それから、娘の顔を見た。もう一度、息子の顔を見た。

 

 西行は、背中に冷や汗が流れるのを感じた。

 

(終わった)

 

 憲兵沙汰の直後に、娘を連れて帰ってきた。しかも懇意の、娘義太夫である。勘当かもしれない。

 

 娘が、一歩前に出た。深く頭を下げる。

 

「朽木と申します。突然お邪魔して、申し訳ありません」

 

 声には、少しの揺らぎもなかった。

 

「ご迷惑でしたら、すぐに立ち去ります」

「朽木さん」

 

 父は、静かに言って、立ち上がった。

 

「西行」

「はい」

「頭を冷やしに行って、娘さんを連れて帰ってくる奴があるか」

「……すみません」

「連れてきた以上は、お前が責任を持ちなさい。部屋は空いている。食卓に、一人分足すように言いなさい」

 

 それだけ言って、父は先に応接間を出ていった。廊下から、女中を呼ぶ声がする。

 

 西行は、肩の力が全部抜けて、その場にへたり込みそうになった。

 

 隣で、彼女が頭を下げたまま、小さく呟いた。

 

「……あれは、許された、のか」

「たぶん。うちの親父は、ああいう人で」

「よく分からぬ家だ」

「俺もそう思います」

 

 その晩、彼女は、出された飯を黙って平らげた。食べ終えると立ち上がり、自分の膳と西行の膳を手際よく下げようとした。女中が慌てて止めた。

 

「お客様は、座っていてくださいな」

「手が空いていると、落ち着かぬ」

 

 女中は、ぽかんとして、西行を見た。西行は、首を振るしかなかった。

 

 翌朝、女中たちが起きてくると、台所の火はもう熾っていた。

 

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