鉄輪ぬ夢を馳せる   作:Rameso

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第十二章 女中・朽木

 釜の米は、一粒の無駄もなく炊きあがっていた。

 

 味噌汁の塩加減は、父の舌に寸分違わず合う。座敷の畳には塵ひとつなく、廊下の板は鏡のように光り、洗濯物は、風の向きまで読んだようにいちばんよく乾く場所に干されていた。

 

 朝は夜明け前に起きて、台所の火を熾す。それを、楠は来た翌日から毎日やった。

 

 佐藤家の古参の女中たちは、揃って口をあんぐりと開けた。

 

「あの子、どこの奉公先で修業したのかしらねえ」

「娘義太夫さんだっていうじゃないの」

「娘義太夫って、そんなに家事を仕込まれるのかい」

 

 裏の勝手口で、そんな噂話が毎日のように飛び交った。

 

 あの子はお客様ですよ、と誰かが言うと、決まって誰かが答える。

 

「それが、聞かないのよ。手が空くと落ち着かない、って」

 

 女中、と呼ぶのは周りだけだった。本人は、女中になったつもりなど一度もない。

 

「私は、雇われてはおらぬ」

 

 廊下で西行と鉢合わせたとき、彼女は雑巾を絞りながら、真顔で言った。

 

「だが、一宿一飯の恩がある。この家の朝の飯を絶やさぬことは、私の務めだ。釜の火は、命に代えても守る」

「釜の火、ですか」

 

 楠は、大真面目に頷いた。

 

 西行は、あいまいに頷き返すしかなかった。命に代えるほどの火では、たぶん、ない。

 

「勝手にやっている。迷惑なら、言ってくれ」

「迷惑なんて、そんな。親父も、何も言いませんし」

 

 父は、何も言わなかった。

 

 ただ、楠にはときどき、元の稼業の癖が出る。

 

 足音がしない。女中が洗い物をしていて、ふと振り返ると、真後ろに立っていたりする。悲鳴を上げられるたびに、楠は申し訳なさそうに半歩下がった。

 

 

◇

 

 

 楠にとっていちばん困るのは、名前だった。

 

「朽木さん」

 

 呼ばれる。振り向くのに、一拍遅れる。

 

 それが自分の名だとは、まだ体のどこも思っていない。呼ばれるたびに、背後に誰かが立っているような気がした。振り向くと、誰もいない。いるのは、呼んだ女中だけである。

 

 夜、与えられた小さな座敷で、布団に横になる。

 

 英国製のトランクは、部屋の隅に、風呂敷に包まれたまま置かれていた。蓋の刻印も、藍色の木綿の下に隠れている。開けない。開けても動かない。

 

 天井を見ていると、胸の中が広かった。

 

 広いのに、何も入っていない。何を入れればいいのか、分からない。

 

 国守でありたいという思いは、まだそこに残っていた。残ったまま夜が明け、また火を熾した。

 

 

◇

 

 

 ある日の午後、女中頭が言った。

 

「朽木さん、今日は半日、お暇をあげますからね。ゆっくりなさいな」

「暇」

「ええ。お休みですよ」

 

 楠は、その言葉をよく知っていた。寄席の楽屋でも、太夫たちが口にするのを聞いた。世間の人間がそういう時間を持つことも、知っている。

 

 自分がその側に立ったことが、なかっただけである。

 

「承知した。全うする」

「全うって、そんな大げさな」

 

 縁側に座った。庭を見た。松の枝が風に揺れている。

 

 三十分ほど、そうしていた。

 

 次に、庭に降りて立った。立って、庭を見た。

 

 一時間ほど経った頃、西行が通りかかった。楠は庭の真ん中で踵をそろえ、両の手を脇にぴたりとつけて、松を睨んでいた。まるで、見張りに立つ兵のようだった。

 

「朽木さん、何してるんです」

「暇を、過ごしている」

「……立ってるだけに見えるけど」

 

 楠は、庭の松を見たまま、微動だにしなかった。

 

 西行は、言葉に詰まった。堂数連の追っかけとして、暇を持て余したことは一度もない。暇とは、寄席の開演を待つ時間のことだった。

 

「じゃあ、買い物でも行ってきたらどうです。味噌が切れかけてたよ」

「それは、暇ではなく、用事だ」

「いいんです、暇つぶしの用事なら。俺も行きます。一人だと、味噌を買ったらすぐ戻って、また働くでしょう」

(これは逢引き……いや、要件を欠く。味噌の買い出しだ)

 

 楠は、少し考えて、頷いた。

 

 用事ならば、分かる。

 

 坂を下りる。並んで歩く、書生と娘。

 

 通りへ出ると、日傘の朱が人波に揺れ、角の青物売りの声に、自転車のベルが重なった。

 

 近道の路地へ入った。足が勝手に選んだ道だった。

 

 寄席の木戸の前で、楠の足が止まった。

 

 奥から、ぺん、と三味線が鳴った。調子を合わせる音である。

 

 楠の顎が、音のほうへ、ほんの少し上がった。

 

 ぺん、と、もう一度。楠は、動かなかった。

 

 西行は、声をかけなかった。間は、外さない。

 

 楠は、歩き出した。ここへ来たときより、半歩ぶん遅かった。

 

 

◇

 

 

 佐藤家に来客があったのは、楠が来て季節がひとつ移った頃である。

 

 玄関の呼び鈴が鳴った。

 

「ごめんください!」

 

 出迎えたのは、楠だった。誰かは、見るまでもなかった。赤い大きなリボンが、戸の隙間から先に見えていたからである。

 

「新田」

「見廻りでごじゃる! 荼枳尼が変なことをしていないか、確認に来た!」

「三日にあげず来ているではないか」

「三日にあげず来るのが、仕事だ!」

 

 新田は、返事も待たずに上がり込んだ。

 

 そのまま台所まで突き進み、楠の背後に陣取った。

 

「荼枳尼、今、大根を洗った! 異状なし!」

「見ていれば分かる」

「荼枳尼、今、包丁を持った! 異状なし! 切った! 異状なし!」

「報告は、誰にしている」

「新田自身にだ!」

 

 背中にぴたりとくっついて、楠が右へ行けば右、左へ行けば左へついてくる。振り向くと、新田はにいっと笑った。楠は何も言わずに前を向いた。

 

「荼枳尼は、今日も完璧だ!」

「離れろ。包丁を持っている」

「離れない!」

 

 そのとき、もう一つの声が、玄関から聞こえた。

 

「ごめんくださーい。あの、道に迷った者なんですけど」

 

 西行が、奥から顔を出した。

 

 玄関では、新田といくらも変わらない小柄な娘が、肩の力を抜いて戸にもたれ、幼い顔で、こちらを見上げていた。

 

「道に、ですか」

「はい。あの、吉野の駅はどっちですか」

「駅なら、この坂を下りて」

 

 言いかけた西行の後ろから、新田が顔を出した。

 

「何者でごじゃる! 怪しいぞ!」

「え、あ、いえ、怪しくなんかないです」

 

 娘は、新田を見て、楠を見て、西行を見て、それから、あたふたと両手を振った。

 

「あ、えーと、実は、北朝の見張り役の高です。ルクレールのいとこです。面が割れてないわたしが、見張りです。……あっ、これ、言っちゃ駄目なやつだった」

 

 玄関に、沈黙が落ちた。

 

「北朝の間者だ!」

 

 新田が、拳を構えた。

 

「帰れ! ここは見張りの先客がいる!」

「先客って、見張りに先も後もないじゃないですか」

「ごじゃる!」

「それ、答えになってません」

 

 二人は、玄関先で睨み合った。

 

 西行は、楠と並んで、冷や汗を流していた。

 

「……どうするんだ、これ」

「分からぬ」

「南と北の見張りが、同じ日に、同じ玄関に」

「放っておけば、そのうち疲れる」

 

 楠は、淡々と言った。

 

 結局、二人は座敷に通された。

 

 卓の前に並んで座り、むすっとした顔で茶を待つ。楠は、二つの湯呑みを運んできた。

 

 緑色の液体が、ゆらりと揺れた。

 

「……緑茶ですか」

「ほかには置いていない。飲まぬなら、下げるが」

 

 新田と高は、顔を見合わせた。

 

 それから、同時に湯呑みを手に取って、ずずっと啜った。

 

「……うまい」

「うん、おいしいです」

「ここに来たら、これしか出ないのか」

「そうだ」

「じゃあ、毎週来ても、飽きるのが早そうだ」

「それは困ります。お茶菓子は出るんですか」

「出る」

 

 楠は、羊羹の皿を置いた。

 

 それから、午後いっぱい、二人は帰らなかった。

 

 新田が羊羹を三切れ食べ、高が四切れ食べた。新田が「この北朝の者、図々しい」と文句を言い、高が「南朝の人、声が大きいんですよ」と返した。新田が一口ごとに羊羹の感想を叫び、高が一口ごとに注意した。西行が間に入るたびに、二人から同時に怒られた。帰りしなに、高が「ちょっと様子を見るだけのつもりだったんですけど」と首をかしげ、新田が「四切れも食べておいて、何を言う!」と怒鳴った。

 

 夕方、ようやく二人が帰ったあと、西行は座敷の畳の上にぐったりと倒れ込んだ。

 

「疲れた……」

「そうか」

 

 楠は、湯呑みを片付けながら言った。

 

「だが」

「ん?」

「久しぶりに、にぎやかだった」

 

 西行は、目を見開いた。

 

 台所の方を向いた楠の横顔は、いつもと変わらない無表情だった。けれど、何かがほんの少しだけ柔らかかった。

 

(朽木さん、今、ちょっと嬉しそうだったな)

 

 そう思うと、疲れが、どこかへ飛んでいった。

 

 庭の向こうでは、夕日が、車庫の屋根を赤く染めていた。

 

 

◇

 

 

 それからも、新田は三日にあげず、高は五日にあげずやってきた。

 

 その日は、二人が同じ刻に、玄関で鉢合わせた。

 

「また来たな、北朝の間者」

「見張り役です。それに、先に来たのはわたしですよ。玄関の外で、待ってたんです」

「待ってた? いつから?」

「一時間前から」

「何でごじゃる、その暇人ぶりは!」

 

 二人は、座敷の座布団を取り合うのが、すっかり習いになっていた。今日の争いは、楠の隣の席である。

 

「ここは新田の席だ!」

「見張りですから、ここが一番よく見えるんです」

「誰が決めた!」

「わたしが、今決めました」

 

 西行は茶碗を運びながら、廊下で足を止めた。この二人の口喧嘩は、止めようとして止まったためしがない。

 

「二人とも、見張りって、普通はこっそりやるもんじゃないのか」

「こっそりしてたら、お茶が出ない!」

「それは、確かに」

 

 楠が、湯呑みを三つ並べた。二人は同時に、自分の湯呑みの縁を睨んだ。

 

「新田さんのほうが、茶が多いです」

「同じだ!」

「いえ、指一本ぶん違います」

「指で測るな!」

 

 楠は、少し考えて、二人の湯呑みに黙って茶を足した。

 

 

 楠は、朝の茶を、最初は父の分だけ黙って置いていた。気がつくと、西行の分も並べている。

 

 食事のときは、はじめ、膳の脇に立って給仕をしていた。女中頭に「座りなさいな」と三度言われて、四度目に座った。五度目からは、言われる前に座っていた。

 

 呼ばれて振り向くのに、一拍遅れていた。その一拍が、いつの間にかなくなった。

 

 西行が帰ってくる頃には、玄関の廊下に、灯りがともっている。

 

 誰も、それを口にしなかった。

 

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