釜の米は、一粒の無駄もなく炊きあがっていた。
味噌汁の塩加減は、父の舌に寸分違わず合う。座敷の畳には塵ひとつなく、廊下の板は鏡のように光り、洗濯物は、風の向きまで読んだようにいちばんよく乾く場所に干されていた。
朝は夜明け前に起きて、台所の火を熾す。それを、楠は来た翌日から毎日やった。
佐藤家の古参の女中たちは、揃って口をあんぐりと開けた。
「あの子、どこの奉公先で修業したのかしらねえ」
「娘義太夫さんだっていうじゃないの」
「娘義太夫って、そんなに家事を仕込まれるのかい」
裏の勝手口で、そんな噂話が毎日のように飛び交った。
あの子はお客様ですよ、と誰かが言うと、決まって誰かが答える。
「それが、聞かないのよ。手が空くと落ち着かない、って」
女中、と呼ぶのは周りだけだった。本人は、女中になったつもりなど一度もない。
「私は、雇われてはおらぬ」
廊下で西行と鉢合わせたとき、彼女は雑巾を絞りながら、真顔で言った。
「だが、一宿一飯の恩がある。この家の朝の飯を絶やさぬことは、私の務めだ。釜の火は、命に代えても守る」
「釜の火、ですか」
楠は、大真面目に頷いた。
西行は、あいまいに頷き返すしかなかった。命に代えるほどの火では、たぶん、ない。
「勝手にやっている。迷惑なら、言ってくれ」
「迷惑なんて、そんな。親父も、何も言いませんし」
父は、何も言わなかった。
ただ、楠にはときどき、元の稼業の癖が出る。
足音がしない。女中が洗い物をしていて、ふと振り返ると、真後ろに立っていたりする。悲鳴を上げられるたびに、楠は申し訳なさそうに半歩下がった。
◇
楠にとっていちばん困るのは、名前だった。
「朽木さん」
呼ばれる。振り向くのに、一拍遅れる。
それが自分の名だとは、まだ体のどこも思っていない。呼ばれるたびに、背後に誰かが立っているような気がした。振り向くと、誰もいない。いるのは、呼んだ女中だけである。
夜、与えられた小さな座敷で、布団に横になる。
英国製のトランクは、部屋の隅に、風呂敷に包まれたまま置かれていた。蓋の刻印も、藍色の木綿の下に隠れている。開けない。開けても動かない。
天井を見ていると、胸の中が広かった。
広いのに、何も入っていない。何を入れればいいのか、分からない。
国守でありたいという思いは、まだそこに残っていた。残ったまま夜が明け、また火を熾した。
◇
ある日の午後、女中頭が言った。
「朽木さん、今日は半日、お暇をあげますからね。ゆっくりなさいな」
「暇」
「ええ。お休みですよ」
楠は、その言葉をよく知っていた。寄席の楽屋でも、太夫たちが口にするのを聞いた。世間の人間がそういう時間を持つことも、知っている。
自分がその側に立ったことが、なかっただけである。
「承知した。全うする」
「全うって、そんな大げさな」
縁側に座った。庭を見た。松の枝が風に揺れている。
三十分ほど、そうしていた。
次に、庭に降りて立った。立って、庭を見た。
一時間ほど経った頃、西行が通りかかった。楠は庭の真ん中で踵をそろえ、両の手を脇にぴたりとつけて、松を睨んでいた。まるで、見張りに立つ兵のようだった。
「朽木さん、何してるんです」
「暇を、過ごしている」
「……立ってるだけに見えるけど」
楠は、庭の松を見たまま、微動だにしなかった。
西行は、言葉に詰まった。堂数連の追っかけとして、暇を持て余したことは一度もない。暇とは、寄席の開演を待つ時間のことだった。
「じゃあ、買い物でも行ってきたらどうです。味噌が切れかけてたよ」
「それは、暇ではなく、用事だ」
「いいんです、暇つぶしの用事なら。俺も行きます。一人だと、味噌を買ったらすぐ戻って、また働くでしょう」
(これは逢引き……いや、要件を欠く。味噌の買い出しだ)
楠は、少し考えて、頷いた。
用事ならば、分かる。
坂を下りる。並んで歩く、書生と娘。
通りへ出ると、日傘の朱が人波に揺れ、角の青物売りの声に、自転車のベルが重なった。
近道の路地へ入った。足が勝手に選んだ道だった。
寄席の木戸の前で、楠の足が止まった。
奥から、ぺん、と三味線が鳴った。調子を合わせる音である。
楠の顎が、音のほうへ、ほんの少し上がった。
ぺん、と、もう一度。楠は、動かなかった。
西行は、声をかけなかった。間は、外さない。
楠は、歩き出した。ここへ来たときより、半歩ぶん遅かった。
◇
佐藤家に来客があったのは、楠が来て季節がひとつ移った頃である。
玄関の呼び鈴が鳴った。
「ごめんください!」
出迎えたのは、楠だった。誰かは、見るまでもなかった。赤い大きなリボンが、戸の隙間から先に見えていたからである。
「新田」
「見廻りでごじゃる! 荼枳尼が変なことをしていないか、確認に来た!」
「三日にあげず来ているではないか」
「三日にあげず来るのが、仕事だ!」
新田は、返事も待たずに上がり込んだ。
そのまま台所まで突き進み、楠の背後に陣取った。
「荼枳尼、今、大根を洗った! 異状なし!」
「見ていれば分かる」
「荼枳尼、今、包丁を持った! 異状なし! 切った! 異状なし!」
「報告は、誰にしている」
「新田自身にだ!」
背中にぴたりとくっついて、楠が右へ行けば右、左へ行けば左へついてくる。振り向くと、新田はにいっと笑った。楠は何も言わずに前を向いた。
「荼枳尼は、今日も完璧だ!」
「離れろ。包丁を持っている」
「離れない!」
そのとき、もう一つの声が、玄関から聞こえた。
「ごめんくださーい。あの、道に迷った者なんですけど」
西行が、奥から顔を出した。
玄関では、新田といくらも変わらない小柄な娘が、肩の力を抜いて戸にもたれ、幼い顔で、こちらを見上げていた。
「道に、ですか」
「はい。あの、吉野の駅はどっちですか」
「駅なら、この坂を下りて」
言いかけた西行の後ろから、新田が顔を出した。
「何者でごじゃる! 怪しいぞ!」
「え、あ、いえ、怪しくなんかないです」
娘は、新田を見て、楠を見て、西行を見て、それから、あたふたと両手を振った。
「あ、えーと、実は、北朝の見張り役の高です。ルクレールのいとこです。面が割れてないわたしが、見張りです。……あっ、これ、言っちゃ駄目なやつだった」
玄関に、沈黙が落ちた。
「北朝の間者だ!」
新田が、拳を構えた。
「帰れ! ここは見張りの先客がいる!」
「先客って、見張りに先も後もないじゃないですか」
「ごじゃる!」
「それ、答えになってません」
二人は、玄関先で睨み合った。
西行は、楠と並んで、冷や汗を流していた。
「……どうするんだ、これ」
「分からぬ」
「南と北の見張りが、同じ日に、同じ玄関に」
「放っておけば、そのうち疲れる」
楠は、淡々と言った。
結局、二人は座敷に通された。
卓の前に並んで座り、むすっとした顔で茶を待つ。楠は、二つの湯呑みを運んできた。
緑色の液体が、ゆらりと揺れた。
「……緑茶ですか」
「ほかには置いていない。飲まぬなら、下げるが」
新田と高は、顔を見合わせた。
それから、同時に湯呑みを手に取って、ずずっと啜った。
「……うまい」
「うん、おいしいです」
「ここに来たら、これしか出ないのか」
「そうだ」
「じゃあ、毎週来ても、飽きるのが早そうだ」
「それは困ります。お茶菓子は出るんですか」
「出る」
楠は、羊羹の皿を置いた。
それから、午後いっぱい、二人は帰らなかった。
新田が羊羹を三切れ食べ、高が四切れ食べた。新田が「この北朝の者、図々しい」と文句を言い、高が「南朝の人、声が大きいんですよ」と返した。新田が一口ごとに羊羹の感想を叫び、高が一口ごとに注意した。西行が間に入るたびに、二人から同時に怒られた。帰りしなに、高が「ちょっと様子を見るだけのつもりだったんですけど」と首をかしげ、新田が「四切れも食べておいて、何を言う!」と怒鳴った。
夕方、ようやく二人が帰ったあと、西行は座敷の畳の上にぐったりと倒れ込んだ。
「疲れた……」
「そうか」
楠は、湯呑みを片付けながら言った。
「だが」
「ん?」
「久しぶりに、にぎやかだった」
西行は、目を見開いた。
台所の方を向いた楠の横顔は、いつもと変わらない無表情だった。けれど、何かがほんの少しだけ柔らかかった。
(朽木さん、今、ちょっと嬉しそうだったな)
そう思うと、疲れが、どこかへ飛んでいった。
庭の向こうでは、夕日が、車庫の屋根を赤く染めていた。
◇
それからも、新田は三日にあげず、高は五日にあげずやってきた。
その日は、二人が同じ刻に、玄関で鉢合わせた。
「また来たな、北朝の間者」
「見張り役です。それに、先に来たのはわたしですよ。玄関の外で、待ってたんです」
「待ってた? いつから?」
「一時間前から」
「何でごじゃる、その暇人ぶりは!」
二人は、座敷の座布団を取り合うのが、すっかり習いになっていた。今日の争いは、楠の隣の席である。
「ここは新田の席だ!」
「見張りですから、ここが一番よく見えるんです」
「誰が決めた!」
「わたしが、今決めました」
西行は茶碗を運びながら、廊下で足を止めた。この二人の口喧嘩は、止めようとして止まったためしがない。
「二人とも、見張りって、普通はこっそりやるもんじゃないのか」
「こっそりしてたら、お茶が出ない!」
「それは、確かに」
楠が、湯呑みを三つ並べた。二人は同時に、自分の湯呑みの縁を睨んだ。
「新田さんのほうが、茶が多いです」
「同じだ!」
「いえ、指一本ぶん違います」
「指で測るな!」
楠は、少し考えて、二人の湯呑みに黙って茶を足した。
楠は、朝の茶を、最初は父の分だけ黙って置いていた。気がつくと、西行の分も並べている。
食事のときは、はじめ、膳の脇に立って給仕をしていた。女中頭に「座りなさいな」と三度言われて、四度目に座った。五度目からは、言われる前に座っていた。
呼ばれて振り向くのに、一拍遅れていた。その一拍が、いつの間にかなくなった。
西行が帰ってくる頃には、玄関の廊下に、灯りがともっている。
誰も、それを口にしなかった。