その朝、吉野の街じゅうが、白い紙で埋まっていた。
晩秋の、よく晴れた朝だった。山々の紅葉が燃えるように赤く、風は冷たかった。西行が自室の窓を開けると、通りの向こうの屋根の上が、白かった。
最初は、雪かと思った。
違った。紙だった。小さな紙片が、あたり一面にばらまかれていた。路面電車の屋根に積もり、電柱に引っかかり、人々の足元に溜まり、店の軒先で風にめくれている。瓦斯灯の笠の上では、一枚が旗のようにひらひらと翻る。
「なんだ、これ」
西行は、一枚を拾い上げた。
粗末な藁半紙に、太い活字が並んでいる。
『南朝の閉ざされた裁きを許すな』
『証人調べもなく、一人の思想家を大逆の名で葬ろうとした者たちを、日本人は忘れてはならない』
『戸を閉ざしたまま人を裁く国に、誰が従うのか』
読み進めるうち、西行の背筋が寒くなった。
事実は、おおむね正しかった。あの裁判には証人調べがなかった。戸は閉ざされていた。だが、紙の最後の一行は、あからさまに火をつけようとしていた。
『西の者よ、目を覚ませ。お前たちの帝は、お前たちを守ってはくれない』
署名はなかった。
誰が撒いたのか、見た者はいない。
拾った紙を握りしめたまま、西行は階段を駆け下りた。
◇
庭は、すでに紙で白くなっていた。
女中たちが総出で、竹箒で掃き集めている。その中で、楠だけが手を止めていた。
庭の隅に立ったまま、一枚の紙を、じっと見つめている。
横顔は、いつもと同じ無表情だった。けれど、西行には、その指先が白くなるほど紙を握りしめているのが分かった。
「朽木さん」
「……そなたか」
彼女は、紙から目を離さなかった。
「この紙は、誰が撒いている」
「分からない。誰も、見てないそうだ」
「そうか」
短い返事だった。
しばらくして、彼女は、ぽつりと言った。
「秋水の名が、使われている」
「はい」
「私が、北朝に渡した男だ」
その声は、いつも通り抑揚がなかった。
「あの男を渡さなければ、この紙は撒かれなかったかもしれない」
「それは違う」
西行は、思わず声を強めた。
「渡すと決めたのは朽木さんだけど、あの場では、他にどうしようもなかった。それに、紙を撒いたのは朽木さんじゃない」
「かもしれぬ。だが」
彼女は、紙をぐしゃりと握り潰した。
「渡したのは、私だ」
その言葉の重さを、西行は受け止めきれなかった。
庭の松の枝が、ひゅうと鳴った。
◇
紙が撒かれた翌日から、街の空気が変わった。
最初は、ざわめきだった。
喫茶店の隅で、書生たちが声を潜めて囁き合う。市場で、行商人が紙を手に議論する。大学では、教授が窓の外を気にして講義が途切れるらしい、と人づてに耳に入った。
三日目には、噂が形を持ちはじめた。
関ヶ原に近い、西の境の町――長浜で、騒ぎが起きているという。
そこにも同じ紙が撒かれたらしい。町の人々は、それを読み、言い争った。東の者は何を企んでいるのか。西の帝はなぜ何も言わないのか。あの男は、本当は救われるべきだったのではないか。
不安は、怒りに変わった。
怒りは、群衆となって、長浜の駅前の広場に溜まっていった。
号外売りが、鈴を鳴らして走る。
『長浜、騒然』『官憲、手に負えず』
米屋の店先には、新しい貼り紙が出た。『米は一人一升限り』。野菜の店の前には、いつもより長い列ができている。誰も騒がず、静かに買い溜めていた。
父は、書斎の机に大きな地図を広げていた。
扉を開けた西行に、父は地図から目を離さずに言った。
「入りなさい。お前も、見ておきなさい」
地図の上には、琵琶湖があった。その東岸に沿って、京都から長浜へと線が伸びている。長浜から先は、関ヶ原へ向かって、細い線が山あいに入っていた。
「この線を知っているか」
「官営の線、でしょう。京都から関ヶ原まで」
「そうだ」
父は赤い鉛筆の線を、指でなぞった。
「かつて、英仏が両統迭立のひとつの国という形で手打ちをしたとき、その建前の象徴として、国が敷いた線だ。この国がひとつである証として、な」
「でも、実際には」
「実際には、不破関で断ち切られている。京都から長浜までは、いまも南朝の官営線として動いている。だが、長浜から先、関ヶ原へ向かう区間は、もう長いこと列車が走っていない。レールは赤く錆び、枕木は半ば腐っている。それでも、線路は線路として地面に残っている」
父は、鉛筆を置いた。
「その線の利権は、動いている区間も錆びた区間も、イギリスが握っている。われわれのような民間の汽車が勝手に走れば、不法侵入だ。そもそも、そんなことをしようとする者はいない」
西行は、地図を見つめた。
京都から、長浜、関ヶ原。
赤い線が、地図の中でひとつの血管のように見えた。
「ところで、西行」
父が、顔を上げた。
「この騒ぎが京都に伝わると、厄介だ」
「京都、ですか」
「あそこは、吉野に協力的ではない。火がつけば、収まりがつかん」
父はそれきり黙って、地図を睨んでいた。
西行は胸のざわつきを、うまく言葉にできなかった。
◇
それから、事態は加速した。
最初の報せは、フランス軍の動きだった。
小田原に駐留していたフランス軍の一部が、条約を破って関を越えたというのである。貼り出された電文には、名目が二つ並んでいた。京都で狙われた北の宮様の御身を案じてのこと。そして、撒かれた紙の文句にあった、戸を閉ざしたままの南の裁きを質すため、と。
南の土地で、北の皇族が襲われた。南の裁きが、戸の内で行われた。どちらも、口実としては十分だった。フランス軍は、関ヶ原に陣を張った。
次の報せは、南朝の軍の動きだった。長浜へ、軍が出たという。
「関を越えられちゃ、出さないわけにいかんだろう」
駅前で、誰かがそう言っているのが聞こえた。聞いている者も、みな同じ顔で頷いていた。
そして、三つ目の報せ。
イギリス軍が、長浜に駐軍している。関の近くで南北がぶつかりそうになったので、自国の利権である官営の旧線と、長浜を押さえに来たのだという。
新聞の掲示板に、見出しが貼り出された。人垣ができて、誰も口をきかない。見出しは、やがて一行に落ち着いた。
『すわ、関ヶ原か』
その字が吉野の街角にも貼り出された日、人々は足を止めて、息をのんだ。
関ヶ原。
あの戦で決着がつかなかった日から、東と西を隔ててきた土地。三百年を経て、再び両軍が向き合おうとしている。
街から、人が減った。電灯だけが夕ごとに白く並び、座席のまばらな路面電車が、ちんちんと鐘を鳴らして通り過ぎる。
駅の掲示板には、新しい貼り紙が増えた。
『軍用につき、長浜方面行き乗車券は当分発売せず』
改札の前では、軍人が銃を肩に、乗客の顔を一人ずつ見送っている。大学では休講が続き、教室は空いているという。北畠はあの法廷以来、大学にも姿を見せていないらしい。
(どうしてるんだろう、あの人)
嫌われている相手を案じる自分が、西行には、おかしかった。
佐藤家の屋敷では、夕食の席が静かになった。
父は新聞を畳の上に置いたまま、箸を動かしていた。女中頭は、やたらと味噌汁のおかわりを勧めた。楠だけが、いつものように、無表情で給仕をしていた。
新田と高は相変わらず、時々顔を出していた。
けれど、西行は気づいていた。
楠が、夜な夜な、庭の松の影に身を置いていることに。
月の下で、藍色の風呂敷包みを抱えて、東の空を、じっと見つめていることに。
ある晩、西行は、湯呑みを二つ持って、庭に出た。
「冷えるよ」
楠は、黙って受け取った。口をつけず、湯気を見ている。
「見張りの者が庭を見張るのに、茶は要らぬ」
「見張りって、誰を」
「……この家を」
「ここには、見張られるような人は、いないよ」
「いる」
楠は、東の空を見たまま言った。
「東から来るものは、いつも、見えないうちに来る」
西行は、それ以上は聞けなかった。楠は茶を飲み干して、湯呑みを返した。礼は、言わなかった。
夜の庭で、楠は、一言だけ呟いた。
「私が、渡さなければ」
風が、白い息を運んでいった。