出ていく前の夜、楠は、与えられた座敷の灯りの下で膝を揃え、畳の目に落ちる自分の影を見ていた。
書き置きは、もう書き上げてある。トランクは、藍色の風呂敷に包んである。持っていくものは、それだけだった。
(情など知らぬ身のはずが、この家の秋の夕暮れは、存外、しみた)
ふと、高座にいた頃のことが、胸をよぎった。
(今思うと、浄瑠璃を語っていた時が、一番無心になれていたのかもしれない)
務めの仮の姿だった。そう思ってきた。口にしたことはない。今も、口にはしない。
そのとき、耳の奥で、掛け声が鳴った。
どうする、どうする、どうする……!
高座の客席から、幾度も飛んできた声である。いまは、自分に問うているように聞こえた。
秋水を渡したのは、自分だ。そのせいで火がついた。そう思っている。誰に言われたのでもない。
名も勅も、もうない。それでも、国守でありたい心構えだけは、捨てられなかった。関を越えた者は、斬る。処刑人として、行く。
(所詮、処刑人は処刑人か)
口の端が、わずかに歪んだ。自嘲だった。
(……だが、これしか世を守る方法は考えられぬ)
楠は、静かに立ち上がった。
夜のうちに、屋敷を出た。
◇
その朝、台所の火は、起こされていなかった。
西行が気づいたのは、起き抜けに水を飲みに降りたときである。いつもなら夜明け前から釜の湯気が立ち、味噌汁の匂いが廊下に漂っている。その台所が、冷えていた。釜の蓋は閉じたまま、竈の灰は昨夜のまま白い。
女中頭が、おろおろと廊下を行き来していた。
「坊ちゃま、朽木さんがいないんですよ」
「いない?」
「お部屋の布団はきちんと畳まれていて、荷物も何もないんです。ただ、こんなものが」
女中頭が差し出したのは、半紙を一枚、丁寧に折った書き置きだった。
西行は、受け取って開いた。
細く、まっすぐな、迷いのない筆跡が並んでいた。
『佐藤様
長らくお世話になりました。身に余るご厚情に、御礼の言葉もございません。
このたびの騒ぎは、私が明徳秋水を北朝に引き渡したことに端を発するものと存じます。責は私にあります。
つきましては、できる限りのことをいたしたく、今宵、発ちます。金剛は動きませんが、持参いたします。
西行様にも、ご迷惑をおかけしました。ご恩は忘れません。どうか、お元気で。
朽木 拝』
読み終えても、しばらく動けなかった。
どこへ、とは、書いていなかった。責任。動かない金剛。それだけ。
どれも、無茶な言葉だった。金剛の動かない娘が、たった一人で、何をするというのか。普通なら、命を捨てに行くようなものだ。
それでも、あの人なら、やるだろう、と思った。
(俺は、何も言ってやれなかった)
あの夜、庭の月の下で、東の空を見つめていた背中。
声をかけたのに、肝心の言葉が出なかった。
(月が明るすぎたから、なんて。月は何も悪くない。俺の口が、回らなかっただけだ)
西行は書き置きを握りしめて、屋敷を飛び出した。
◇
どこへ行けばいいのか、分からなかった。
駅へ行った。改札の前で、軍人が切符を一枚ずつ改めている。時刻表の横には、見慣れない貼り紙が出ていた。『長浜方面は、臨時列車のほか、運転を見合わせます』。
「紫の髪の娘を見ませんでしたか」
「さあ。今朝は兵隊さんの切符改めで、人の顔を見る暇がなくて」
駅員は、袖口の煤を気にしながら、首を振った。楠らしい娘を見た者は、いなかった。
車庫へ行った。機関車は静かに眠っていた。
幾日も、街を歩き回り、路面電車に乗り、また降りた。駅も車庫も、幾度も覗いた。気がつくと、足は大学のほうへ向かっていた。
もう通えない場所へ、である。
大和帝国大学の正門は、閑散としていた。門の内側に、休講の札が出ている。広い構内に学生の姿はまばらで、落ち葉が風に舞っていた。
西行は正門の脇の石段に、どさりと腰を下ろした。
頭を抱えたまま、動けない。
どれだけそうしていたか。
「ひどい顔ですこと」
頭の上から、声が降ってきた。
顔を上げると、落ち葉の舞う逆光の中から、北畠がこちらを見下ろしていた。
白い襟付きのブラウスに、えび茶の袴。肩に短い黒のケープ。腰まで届く黒髪を半分だけ結い上げ、顎をつんと上げている。法廷で倒れて以来、一度も見なかったその顔は、少し痩せていた。眉は、きりりと吊り上がっている。
「北畠さん……」
「ごきげんよう、佐藤さん。まあ、今日は一段とお間抜けな顔をなさって」
「どうして、ここに」
「大学に来ることの、何がいけませんの。わたくしは、ここの学生ですわ」
西行は、すぐには言い返せなかった。自分はもう、そうではない。
少し離れたところに、二人の女子学生が、並木の陰で肩を寄せ合っているのが見えた。京から来た公家の娘たちだった。心配そうな顔で、こちらを窺っている。
「いえ、そうじゃなくて。……俺に、何か?」
「別に。たまたま通りかかっただけですわ」
「たまたま」
「たまたまですわ!」
北畠は、ぷいと顔を背けた。
それから、しばらく黙っていた。西行はどうしていいか分からず、足元の落ち葉を眺めていた。やがて、北畠のほうから口を開いた。
「あの方、行かれましたのね」
西行は、息をのんだ。
「あの方?」
「とぼけないでくださいな。貴方のお屋敷で、女中をしておられる方ですわ」
「……知ってるんですか」
「わたくしは、悪党ですもの。耳は早いのですわ」
北畠は、腕を組んだ。
「関ヶ原でしょう。他に、どこへ行くと思いますの」
西行の背中が、冷えた。
「金剛も動かないのに、あの騒ぎの真ん中へ向かわれたそうですわね。どこで野垂れ死んでも、おかしくありませんのに。ほんとうに、いい気味ですこと」
西行は、ぐっと拳を握った。
「いい気味って、そんな言い方」
「いい気味ですわ。あの方は、秋水を勝手に北朝に渡して、名を奪われて、それでも偉そうに、責任だの何だの。わたくしがあの法廷で、どれだけ」
彼女の声が、わずかに震えた。
「どれだけ、悔しい思いをしたと」
北畠は、唇を噛んだ。
それから、ふいと続けた。
「ご存じかしら。金剛というのはね、楠の名と、国を守る信念で動くものなのですわ」
「名と、信念……」
「楠の名。代々、国を守ってきた歴史。それが機体の力になりますの。そこへ、乗り手自身の、国守りとしての信念が重なって、はじめて金剛は動くのです」
北畠は、淡々と説明した。
「あの方は、楠の名を奪われました。そのうえ、秋水を渡したことで、信念も揺らいでおります。だから、もう金剛は動かせませんの」
西行は、息を詰めて聞いていた。
(そんなの、丸腰同然じゃないか)
「それなのに」
北畠は、かすかに声を落とした。
「あの方は、行かれたのですわ。動かない金剛を提げて」
「止められないんですか」
「わたくしが?」
北畠は、皮肉に笑った。
「止めて、聞く方だと思いますの? それに、わたくしは南朝の守護ですもの。関ヶ原へ走ることなど、できませんわ」
「でも」
「できませんの」
彼女は、強く繰り返した。
それから、不意に口をつぐんだ。
長い沈黙があった。北畠は、足元の落ち葉を見つめていた。その横顔に、いつもの高慢さの下から、別の何かがのぞいていた。
やがて、絞り出すような声で言った。
「……わたくしが、先に倒れてしまったから」
西行は、目を見開いた。
「あの法廷で、わたくしが先に倒れなければ、あの方は二対一にはならなかった。秋水を渡さずとも、済んだかもしれませんわ。名を奪われることも、なかったかもしれませんの」
「北畠さん」
「そもそも」
北畠は、きっと顔を上げた。
その目は、涙ぐんでいた。いや、涙ではない。怒りだ。燃えるように赤い目が、西行を睨みつけた。
「そもそも、貴方のせいですのよ!」
「え」
「あの法廷で、貴方がおかしな踊りを始めるから、わたくしは気が散って、佐々木の一撃を受けてしまいましたの! 貴方さえいなければ、わたくしは倒れなかった! 貴方が全部の元凶ですわ!」
「それは、その、確かに」
「確かに、ではありませんわ!」
北畠は、拳を振り上げた。振り上げて、そのまま、力なく下ろした。
「……ですから」
声が、急に小さくなった。
「貴方が、責任を取りなさいな」
「責任?」
「あの方を、連れ戻してきなさい」
その言葉に、西行は息が止まった。
「わたくしには、行けません。だから、仕方なく、貴方に」
北畠は、苦しげに言った。
「大嫌いな貴方に、頼むしかないのですわ」
肩が、かすかに震えていた。
西行は、石段から立ち上がった。
「北畠さん」
「何ですの」
「ありがとう」
「礼など要りませんわ!」
北畠は、すぐに怒鳴った。
「わたくしは、いい気味だと言いに来ただけですもの! 勘違いなさらないでくださいな!」
「はい」
「第一、貴方に何ができますの。武力もない、権力もない、ただの踊るだけの書生に」
「ええ。何もできません」
西行は、ふっと笑った。
「でも、連れ戻すだけなら、できるかもしれません」
「どうやって」
「分かりません。でも、家に、汽車があります」
北畠は、目を瞬いた。
「汽車」
「関ヶ原まで、歩いたら何日もかかる。軍に止められる。でも、うちには、線路があって、機関車がある」
「官営の線は、イギリスのものですわ。不法侵入になりますのよ」
「でしょうね」
「捕まりますわよ」
「そうですね」
「それでも、行きますの」
西行は、頷いた。
「俺は、戦を止めたいわけじゃないんです。国のために動く人間でもない。ただ、あの人を連れ戻したいだけで」
北畠は、しばらく黙って西行を見ていた。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「やはり、お間抜けな方ですこと」
「よく言われます」
「……お行きなさい」
北畠は、くるりと背を向けた。
「さっさと、行きなさいな。後悔しても知りませんわよ」
西行は、深く頭を下げた。
そして、走り出した。
背後で、北畠の小さな声が聞こえた気がした。
「……お願いしますわ」
その声は、風に消えた。
並木道を駆けながら、西行は、頭の中で段取りを組み立てていた。夜になるのを待たなければならない。車庫の鍵。石炭の量。水の補給。時刻と、先行する列車。官営線へ乗り入れる大坂の分岐。
汽車の走らせ方なら、知っている。
ただ、止め方は、知らなかった。
(まあ、そのうち、なんとかなるだろう)