その夜の夕食を、西行は二杯おかわりした。
女中頭が、不思議そうな顔で見ている。父は、新聞から目を上げなかった。楠のいない食卓は、箸の音がやけに大きく響いた。
「坊ちゃま、今夜は、よくお召し上がりになること」
「腹ごしらえだよ」
「何のですか」
「……夜食の」
誰も、それ以上は訊かなかった。父が、新聞の端を、わずかに畳み直しただけだった。
◇
夜の車庫は、巨大な獣の寝所に似ていた。
煉瓦の高い壁に囲まれた薄暗がりの中に、黒い機関車が数両、並んで眠っている。ランプの灯りを向けると、鉄の肌がぬらりと光った。煙突は天井の梁に届きそうに高く、動輪は、西行の胸ほどもある。
真夜中を回っていた。
屋敷の灯りは、とっくに消えている。女中たちも、父も、寝静まっていた。西行は靴音を殺して、車庫の鍵を開けた。鍵の場所は、子供の頃から知っている。
壁の高いところに、墨書きの看板が掲げてあった。
『点呼確実』
誰が書いたのか、角が丸く、こすれて薄くなっている。この車庫に来るたび、目に入る文字だった。
(まず、火だ)
一番手前の機関車に近づく。朝一番の列車のために、火を残してある一台である。
運転台に上がり、火室の扉を開けた。灰の下に、赤い熾火が残っていた。灰を払い、石炭を足すと、炎はすぐに息を吹き返し、石炭の角を赤く染めていく。
ただ、蒸気機関車は、動かすまでに時間がかかる。圧力を上げ、少しずつ鉄の体を目覚めさせなければならない。
西行は運転台の隅の圧力計の針を、じっと見つめた。
針は、ゆっくりと、ゆっくりと、右へ傾いていく。
その間に、石炭をくべ、水を足す。給水栓を捻り、管を繋ぎ、水槽を満たす。手順は、体が覚えていた。
(親父には、悪いことをするな)
無断で機関車を持ち出す。しかも官営の線へ乗り入れる。法科の学生が聞いたら、卒倒する行為だった。
けれど、迷いはなかった。
あの庭の月の下に立つ背中を、一人で行かせてしまったことが、何より悔しかったのだ。
針が、赤い印に届いた。
西行はほとんど無意識に、背筋を伸ばしていた。機関手の真似で、針を睨んで、短く声を出す。
「圧力、ヨシ!」
声が、煉瓦の壁に響いた。
言ってしまってから、西行は少し赤くなった。
そのときだった。
車庫の入り口で、がたん、と音がした。
西行は凍りついた。
(見つかった)
守衛だろうか。あるいは、父か。
ランプを消して、運転台の影に身を潜める。足音が近づいてくる。軽い、小さな足音だった。それも、二つ。
「ここでごじゃる……」
「こそこそしないでくださいよ。ばれちゃうじゃないですか」
「静かにしろ、高!」
「声が大きいのは、新田さんです」
西行は、顔を覆いたくなった。
赤い大きなリボンと、小柄な影が、薄闇の中でゆらゆらと揺れていた。
新田と高だった。
「……なんで、君たちが」
運転台から顔を出して言うと、二人は同時に飛び上がった。
「うわっ! 見つかった!」
「見つけたのは、わたしたちです。見張りですから」
「そうだ! 荼枳尼は、夜のうちに書き置きだけ残して、いなくなったんだ! 何日も探した! お前が何か動くと睨んで、昼から尾けてたんだ!」
新田は、びしりと指を突きつけた。
「それを、こんな夜中に、機関車を動かそうとして! 何をする気だ!」
高が、小さく手を挙げた。
「わたしは、この家の見張りなので。あなたが夜中に出歩くなら、見失えないんです」
「関ヶ原に行く」
西行は、正直に答えた。
二人は、ぽかんと口を開けた。
「朽木さんが、あそこへ行った。連れ戻したい」
「……」
「……」
「で、汽車で行くんですか?」
「そう」
「官営の線に、無断で乗り入れて」
「そう」
「不法侵入だ」
「そうだね」
「バカだ」
「うん」
「バカ以外の何物でもない!」
新田は、頭を抱えた。
「止める! 降りろ!」
言いながら、新田は運転台の梯子をよじ登ってきた。止めようと飛びかかるつもりだったのだろう。高も、仕方なさそうに後に続いた。
「やれやれ、困りましたね。でも、見失うわけにもいかないし」
二人が運転台に上がりきったとき、西行は、ためらわずに動いた。逆転機を前へ倒し、加減弁を引く。
「ごめん」
「えっ」
汽筒が唸りを上げた。鉄の体の底から、重い息のような音が響き、動輪が、ごとり、と回った。
機関車が、動き出した。
「ちょ、ちょっと待て! 降りる! 降りる!」
「あ、もう動いてますよ」
車庫の扉が、ぎいと開いた。夜の闇の中へ、黒い鉄の塊が滑り出していく。慌てて飛び降りようとした新田は、地面が流れていくのを見て、悲鳴を上げた。
「ひいっ! 速い! 降りられない!」
速度は、まだ人が歩く程度だった。けれど、飛び降りるには、ためらわれる速さだった。
高はため息をついて、運転台の手すりに肘をかけた。
「……降りそびれましたね」
「降りそびれた……」
二人は、顔を見合わせた。
「どうするんですか」
「知らない!」
西行は、運転台から外を見ていた。前方の線路が、夜の中に、ほの白く伸びている。
そして気づいた。
このまま走り続けるには、人手が要る。機関手と、石炭をくべる火夫。二人いなければ、機関車は走り続けられない。
「あの、二人とも」
「何だ!」
「石炭を、くべてもらえないかな」
沈黙が、落ちた。
それから、新田が叫んだ。
「ふざけるな!」
「でも、君たちが降りられないなら」
「降りられないのは、お前が無理やり動かしたせいだ!」
「そうだけど」
「南朝の悪党に、釜焚きをさせるのか!」
「悪党は、もう関係ないんじゃ」
「うるさい!」
新田は、地団駄を踏んだ。
その隣で、高が、シャベルの柄に手をかけた。
「貸してください」
「え」
「わたしがやります。降りられないなら、やるしかないじゃないですか。それに」
高は、のんびり言った。
「南朝の悪党が、北朝の見張りに、仕事を取られていいんですか?」
「なっ」
「ほら、そっちの石炭箱、持ってきてください」
「なっ、なっ、何だ、その言い方は! 負けない!」
新田はシャベルを奪い取り、石炭の山に突き立てた。
「くべてやる! 一番くべるのは新田だ! あんたは後ろで見てろ!」
「はいはい」
火室の扉が開く。炎が、二人の顔を赤く照らす。
新田が石炭を放り込む。炎が、ごおっと膨れ上がる。
「ごじゃるーっ! 燃えろーっ!」
新田は、すでに半分楽しくなっていた。何も考えていないのである。
高は、その横で、シャベルを持ち上げかけて、石炭箱に爪先をぶつけた。
「いたっ」
「どんくさい!」
「うるさいです」
西行はそれを見て、少しだけ笑った。
(心強い、なんて言ったら、怒られるだろうな)
前を向く。
吉野の駅を過ぎると、線路は夜の山あいへ入っていく。王寺を過ぎ、奈良を過ぎる。佐藤家の線は大坂までだ。その先は、官営の線へ乗り入れるしかない。
機関車は、速度を上げていった。
蒸気の音。鉄輪が継ぎ目を叩く調子。赤い火の粉が、煙突から夜空へ舞い上がる。
(家も、世間体も、まとめて後ろへ振り捨ててきた。この先、俺の身はどうなるんだか)
西行は、加減弁を握りしめた。
(朽木さん、待っててくれ)
行き先は、関ヶ原。
◇
翌朝、吉野の佐藤家では、当主が、いつもより早く目を覚ました。
庭に出て、朝の空気を吸う。車庫の方角から物音がしないことに気づいた。普段なら、この時間には機関手たちが出入りしているのに、妙に静かである。
当主は寝巻きの上に羽織を掛けて、車庫の前まで歩いた。
扉が、開け放たれていた。
中は、がらんとしていた。一番手前の機関車が、そこにいなかった。レールだけが、冷たい朝の光を受けて、白く光っている。床には、石炭の屑と、灰が散らばっていた。
当主は長いこと、空っぽの車庫を眺めていた。
息子の部屋にも、あの娘の部屋にも、誰もいなかった。
壁の看板が、朝の光の中で、墨の字を浮かべている。
当主の目が、ゆっくりと細くなった。
それから、ふっと息をついた。
「……行ったか」
誰もいない車庫に、独り言が落ちた。
彼は、背を向けた。
「朝飯の支度を。いつもの人数で」