夜明け前の京都は、息をひそめていた。
千年の古都の屋根瓦が、東の空の薄明かりに青く浮かんでいる。駅の構内に人影はなく、通り過ぎる黒い機関車を、眠そうな駅員がぼんやりと見送った。「あれ、佐藤さんのところの汽車じゃないか」と首を傾げたときには、もう鉄の塊は遠ざかっていた。
西行は、運転台で目を凝らしていた。
大坂で、佐藤家の線は、官営線と合流していた。接続の分岐は、手打ちの建前が生きていた頃のまま、官営線の側へ開いて固まっていた。西行は、ぐっと加減弁を握り直した。
「大坂から、ずっと不法侵入だぞ」
「今さら言うな!」
釜の前で、新田が叫んだ。顔は煤で真っ黒になり、リボンまで黒ずんでいる。それでも、その目は爛々と輝いていた。
「燃えろーっ! 走れーっ! 不法侵入でも、走るのは楽しいぞーっ!」
「新田さん、目的を忘れていませんか」
高が、隣でシャベルを動かしながら言った。こちらも顔は真っ黒で、袖は肘までまくり上がっている。
「ちょっと待ってください、前から風が来て、顔が痛いです」
「そりゃ、走ってるからだ!」
「知ってます」
磨かれたレールが、鈍く光っている。
早朝の官営線に、時刻表にない汽車が一台、潜り込んだのである。
夜が明けていく。
やがて、左手の窓いっぱいに、琵琶湖が広がった。朝日が湖面を金色に染め、波がきらきらと砕けている。線路の上を駆ける黒い汽車の影が、湖岸の砂浜に長く伸びた。
駅をいくつも飛ばすうちに、町々の人々が、窓から顔を出して汽車を見送った。誰もが、信じられない顔をしていた。
北へ進むにつれて、空気が変わった。
道端に、荷を担いだ避難民の群れが見えはじめた。長浜の方角から、西へ逃げてくる人々だった。女も子供も、不安に顔を青ざめさせている。
線路脇の土手で、荷を背負った子供が足を止め、口を開けて、駆け抜ける汽車を見ていた。
「手を振ってる!」
新田が、窓から身を乗り出して、石炭まみれの手を振り返した。子供は、きょとんとして、それから、ぱっと笑った。
「何してるんですか、新田さん」
「手を振られたら、振り返すのが礼儀だ!」
「今、不法侵入中ですよ」
「それはそれ、これはこれだ!」
「関ヶ原が近いな」
西行は、小さく呟いた。
◇
その少し前、長浜では、イギリス軍の兵たちが、貨車を並べていた。
軍服の袖をまくり、土嚢を積む。日本の朝の霧は、冷たい。
「この線は、我が国の利権だ。南北がぶつかる前に、線と長浜を押さえておく」
「関では、もうフランスが陣を張っているとか」
「だから急ぐのだ。まず道を押さえる」
指揮官は懐から電報を取り出して、読み返した。線路を押さえよ、とある。
兵のひとりが、湖のほうを見て、ぽつりと言った。
「静かな朝ですね。これから戦になるとは、思えない」
「戦にならぬように、ここに立つのだ」
指揮官は、電報を畳んだ。
そこへ、遠くから、汽笛が聞こえた。
「……汽車? こんな時刻に?」
「時刻表にはありません」
兵たちは、銃を取った。
◇
湖岸を北へ走ってきた線路は、長浜で東へ折れる。その曲がり角の手前、薄れかけた朝霧の向こうで、行く手が、ぬうっと黒く塞がった。
貨車だ。線路の上に、何両も連なり、板壁が城のようにそびえている。裾には土嚢が積み上がり、その上から、銃を携えた兵士たちが、ずらりと顔を並べていた。朝日を受けて、銃身がちかちかと瞬く。茶褐色の軍服。イギリス軍だった。
「止まれ!」
筒を通した声が、朝の空気を裂いた。英語混じりの日本語だった。
「ここは、英国の管理下にある線路だ! 直ちに停止せよ! 繰り返す、直ちに停止せよ!」
がしゃり、と金具が鳴る。兵士たちが、一斉に銃を構えた。黒い銃口の列が、まっすぐ運転台を向く。
「ひいっ!」
新田が悲鳴を上げた。
「止めろ! 撃たれるぞ!」
「止められるなら止めてるよ!」
西行は、歯を食いしばって把手を引いた。まず、加減弁を絞る。蒸気が抜け、がくん、と速度が落ちる――が、ここは緩い下りである。鉄の塊は、おのれの重みで、坂を転がっていく。
「ブレーキ、ブレーキ……」
運転台を見回す。
目の前には、見慣れた把手や弁が、ずらりと並んでいる。そのどれで止まるのか、西行は知らなかった。
「これか!」
ぐい、と引いた。
ぴいいいいいいいいっ、と、けたたましい汽笛が鳴り響いた。
「違う!」
別の把手を引いた。
今度は、機関車の足元から蒸気がしゅうっと噴き出して、前方が白く見えなくなった。
「違う! これも違う!」
「何をしているんですか、あなた!」
高が叫んだ。
「ブレーキくらい知ってるでしょう、鉄道の家の息子なのに!」
「走らせ方は知ってるけど、止め方は知らないんだ!」
「どうしてですか!」
「知らないものは知らないんだ!」
「今こそ覚える時でしょう!」
貨車の壁が、迫る。板の継ぎ目が見える。釘の頭が見える。土嚢の縫い目まで、くっきりと見える。
兵士たちの列が崩れた。悲鳴を上げて銃を放り出し、土嚢を蹴って、左右へ転げ散る。ぱん、ぱん、と乾いた銃声が二つ。弾は、汽車の鉄の肌をかすめて、きいんと跳ね、火花を散らした。
「撃つなー! 撃つなー! 汽車が来る!」
「危ない! 避けろ!」
西行は、目を閉じた。
どうと、世界が揺れた。
めり、と撓んで、ばきばきと――木と鉄の砕ける音が、体の芯を貫く。顔に、首筋に、ばらばらと何かが降りかかった。砂だ。木っ端だ。
恐る恐る目を開けると、貨車の壁が、真っ二つに裂けていた。左右へ飛び散る板と土嚢。その割れ目を、汽車は、速さを少しも落とさずに突き抜けていく。長浜の駅が、窓の外を、一瞬で流れ去った。
伏せた兵たちの背へ、木の破片が、雨のように降る。帽子が転がり、投げ出された筒が、からんと鳴った。指揮官は口をあんぐりと開けたまま、白い息を吐くばかりである。
「……ファッ?!」
その呟きだけが、取り残された。
指揮官は我に返ると、手綱をひっつかみ、馬に飛び乗った。数騎の兵が、それに続く。蹄が土を打ち、砂利が跳ねる。暴走する汽車の後を、旧線に沿って、土煙を上げて追う。
長浜を過ぎると、線路が一変した。レールは赤く錆び、継ぎ目は大きく浮き、枕木は半ば腐っている。ここから先が、見捨てられた旧線であった。車体ががくりと揺れ、鉄輪が軋んだ。それでも、汽車は走った。
◇
その前日の、夕暮れのことである。
関ヶ原の盆地の縁を、夕風が吹き上げてくる。紫の髪がその風に煽られ、楠の頬を打った。
藍色の風呂敷包みを、右手に提げている。幾日も、線路沿いの道を歩き、通りがかりの荷車にも乗せてもらった。足の裏には肉刺ができていた。それでも、彼女はここまで来た。
眼下に、盆地が広がっていた。
西の縁には、南朝の軍が陣を敷いていた。白い幟が風にたなびき、天幕が整然と並んでいる。軍装の青年将校たちが、盆地を睨んでいる。
東の側には、見慣れぬ旗が見えた。青、白、赤の三色旗。フランスの旗である。その下に、紺の上着に赤い脚絆の兵士たちが、陣を築いていた。大砲が、いくつも並べられている。
条約を破って、関を越えた軍だった。
そして、盆地の東の端には、石の関門がそびえていた。
不破の関。
東と西を隔ててきた、境の門。いまは、その門に鉄の格子が降ろされ、両側では、見張りの兵が銃を抱えて、行きつ戻りつしている。石の門柱が、夕日に赤く染まっていた。
(来てしまったか)
楠は、静かに思った。
三百年前、西と東の武家が決着をつけられなかった土地。そこで再び、刃が向き合おうとしている。しかも、操っているのは、異国である。
彼女は、坂を降りた。
誰にも見咎められなかった。女中姿の、風呂敷包みを提げた娘など、軍人たちの目には入らなかったのだろう。
盆地の真ん中には、旧線のレールが走っていた。
錆びた鉄の線が、西の縁から東の関門へ向かって、一直線に伸びている。その両脇には、枯れ草が風に揺れていた。レールを挟んで、南朝の軍とフランス軍が向き合っている。この線の上は、誰の陣でもない。
楠は、レールの脇に立った。
風呂敷をほどき、トランクを地面に置く。留め金を外すと、蓋が開いた。
中の金剛は、昨日と変わらず、冷たいままだった。
その傍らに、刀があった。
鞘を握ると、手に馴染んだ重みが返ってきた。
日が落ちた。
盆地に夜が降りると、両軍の焚き火が、錆びたレールを挟んで、ぽつぽつと灯った。西の縁には南朝の火、東にはフランスの火。互いの火は、よく見える。声は、届かない。
夜が更けるほどに、静けさは重くなった。馬の鼻息。歩哨の交代を告げる低い声。毛布を引き寄せる音。どちらの陣からも、笑い声ひとつ、聞こえてこない。
引き金に指をかけたままの者が、どちらの陣にも数えきれぬほどいるのだと、彼女には分かった。誰かの手が滑れば、それで始まる。始まってしまえば、止める者はいない。
(三百年、誰も撃たなかった場所で)
彼女は一晩中、レールの脇から動かなかった。夜露が肩を濡らし、刀の柄が、掌の下で冷えていく。南朝の将校が来て、「何者だ」と尋ねた。「通りがかりの者です」と答えたら、「危ないから下がれ」と言われた。それだけだった。
やがて、東の山の端が白んだ。盆地に朝霧が立つ。冷たい空気の中を、ひとつの足音が近づいてくる。
霧の中から、金色の髪が現れた。
褐色の肌、明るい青の上着、水色の短い襞のスカート。赤い柄の刀を腰に提げ、レッグカバーが朝露に濡れていた。
足利ルクレール。
「来たのね、楠の」
「もはや、楠ではない」
ルクレールは、くすりと笑った。けれど、その目は、笑っていなかった。
「あなた、金剛はどうしたの」
楠は、足元のトランクに視線を落とした。
「ここにある。動かぬがな」
「動かない? あは、本当に動かないのね」
ルクレールはトランクの中をのぞき込んで、小さく息をついた。
「金剛なくして、わたしの前に立つとはねえ」
その声には、挑発とも哀れみともつかないものが混じっていた。
「何を考えているの。死にに来たの?」
「違う」
「じゃあ、何」
「私が、秋水を渡した。この事態は、私が招いた。だから」
楠は、刀の柄に手を掛けた。
「自分で、決着をつけに来た」
「ふうん」
ルクレールは、ゆっくりと自分の刀に手を掛けた。
「生身のままで?」
「生身のままで」
「馬鹿ね。あなたも」
「そうかもしれぬ」
「でも、嫌いじゃないわ、そういうの」
ルクレールは、にいっと笑った。
「夜桜の続きと行きましょうか。あの晩の決着、今度こそ、つけましょう」
二本の刀が、同時に抜かれた。
しゃり、と鞘が鳴る。朝霧が、鋼の上で、さっと二つに割れた。
盆地じゅうの空気が、ぴんと張りつめる。南朝の軍の最前列では、青年将校たちが身を乗り出し、フランス軍の砲手たちは、望遠鏡を一斉にこちらへ向けた。馬の鼻息さえ、止んでいる。
三歩の間合い。濡れた枯れ草。霧の底で、金の髪と紫の髪が、じっと互いを測る。
先に動いたのは、金の髪だった。
褐色の膝が、ふっと沈む。赤いレッグカバーが、低く唸る。――ばっ、と枯れ草が弾けた。
間合いが、一足で消える。閃く切っ先は、常人の目には、光の筋としか映らない。
楠は、後ろへ跳ぶ。金剛の補助のない体で、それでも紙一重――切っ先が、鼻先を過ぎていく。袖の端が、ざっくりと裂けて飛ぶ。紫の髪が一房、朝日の中で、はらりと落ちる。
返す刀が、下から跳ね上がる。ぎいん、と赤い刃が受ける。金属の悲鳴が、尾を引いて、霧の中を渡っていく。
重い。
一撃で、骨が鳴る。二撃で、肩が痺れる。三撃目には、踏みしめた足が、ずぶりと地へ沈みかける。
だが、楠は退かなかった。
受ける、いなす、捌く、踏み込む。右へ、左へ、また右へ。鋼と鋼が、かあん、かあんと、澄んだ音を重ねていく。生身の技だけで、機械の速さに食らいつく。型は、体の芯に染みついている。
「やるじゃない!」
刃を擦り合わせたまま、ルクレールが、白い歯を見せて叫んだ。
「金剛なしで、これだけ動けるなんて!」
「そなたに、褒められても」
「嬉しくない?」
「複雑だ」
「そうよね!」
笑ったまま、赤い脚が、もう一段、地を蹴る。
金が打ち、紫が流す。金が薙ぎ、紫が屈む。金が突き、紫が弾く。躱す、逸らす、潜る、外す、捻る、噛ませる。間が潰れ、息が絡み、霧が二人の足元で渦を巻く――がきん、がきん。
火花。火花。火花。
盆地の真ん中で、二人の娘が、踊るように刃を交わしていた。
かつて、楠は、命じられて斬っていた。
いま、楠は、自分の意志で、刀を握っていた。
◇
山名はフランス軍の天幕の陰で、背中を丸めていた。
フランス風の軍服は、大きすぎて袖が余っている。その胸に、金やら銀やらの勲章が、これでもかというほど縫いつけられていた。卑屈な目つきの、小さな娘だった。
「ミラボー殿」
背後から、フランス軍の将校が声をかけた。
「は、はい! 何でございましょう、大佐殿!」
「前線の様子はどうか」
「ええ、その、盆地の真ん中で、足利殿と、あの、紫の髪の娘が……」
「ああ、あの楠の」
「楠でございます」
「分かっておる。まあ、せいぜい楽しませてもらおう。ミラボー殿も、見物なさるといい」
将校は、ふんと鼻で笑った。
「お前はミラボーなのだからな」
「は、はあ。へへ、ありがとうございます」
山名は、へらへらと頭を下げた。
将校が去ったあと、彼女は深く息を吐いた。
ミラボーは、裏切り者の名である。「お前にぴったりだな」と、フランスの士官たちは、いつも笑った。
山名の家は、昔、裏切ったことがあった。
彼女自身は、何もしていない。なのに、誰からも信用されない。北朝の同僚にも、フランスの将校たちにも。だから、へつらう。へつらって、居場所を作る。
(ああ、でも)
彼女は天幕の端から、盆地を見下ろした。
遠く、朝霧の底で、白刃が二つ、きらきらと閃いている。
胸の底の、しばらく眠っていたものが、じわりと熱を持った。
「血が騒ぐなあ……」
誰にも聞かれないように、小さく呟いた。
ふと見ると、転轍機の詰所のあたりに、背の高い影があった。深紅の裏地のマント。前髪が片目を覆い、大きな雫形のイヤリングが朝日にきらりと光っている。
佐々木だった。
その少し後ろに、縄も掛けられず、痩せた男が一人。こけた頬を朝風にさらして、ぼんやりと盆地を眺めている。何のためにここにいるのか、誰も訊かないし、本人も言わない。用のない人が、風に吹かれて、置き忘れられているようだった。
山名はその姿を見て、ひそかに身を縮めた。あの人は、苦手だ。何を考えているのか分からない。
◇
長浜を抜けた汽車は、関ヶ原への坂を、喘ぎながら上っていた。
「石炭が足りない!」
「あとどれくらいですか?」
「あと、半分もない!」
「これ、本当に着くんですか」
高がぼやく。西行は、前方を睨んでいた。
坂の頂きを越えると、視界が一気に開けた。
朝霧の晴れた盆地。背後の西の縁には南朝の陣。行く手の東には、フランスの陣。真ん中を貫く錆びたレール。そして、そのレールの脇に。
紫の髪が、翻っていた。
西行の心臓が、跳ねた。
「いた」
その隣には、金髪の娘がいる。二人の刀が、今まさに、火花を散らしていた。
あの夜と同じだった。桜の下の、あの光景と。
そのとき、高の動きが、ぴたりと止まった。
盆地の東側に翻る、青白赤の旗。紺の上着の兵の列。並んだ大砲の砲口。
「……ちょっと。あれ、フランスの陣じゃないですか」
「そうでごじゃる! 目の前に、ずらーっと並んでるぞ!」
「あの真ん中を、突っ切るんですか。この汽車で」
高はシャベルを握ったまま、しばらく黙っていた。それから、のんびりしていた顔に、ゆっくりと笑みが広がった。
「へえ……面白いじゃないですか」
「高?」
「わたし、フランスの旗の下で働いた覚えは、一度もないんですよね」
高は、シャベルを石炭の山に突き立てた。
「飛び乗ったのは、お務めだったからです。でも、こうなると話は別です。新田さん、どいてください。一番くべるのは、わたしです」
「なっ、一番くべるのは新田だ! 勝手に決めるな!」
「だったら競争です。ほら、もっと景気よく!」
「望むところだー!」
二人の娘は、競うように石炭を放り込みはじめた。火室が唸り、煙突から黒煙が噴き上がり、汽車はさらに速度を上げた。
西行は、加減弁を握りしめた。
汽車は、止まらなかった。
止め方を、知らなかったからである。