鉄輪ぬ夢を馳せる   作:Rameso

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不和の関

 刃と刃が噛み合ったまま、楠は、細く長く息を吐いた。吸う息に、霜の冷たさが、鋭く刺さる。

 

 いつの間にか、二人は錆びたレールの上まで来ていた。足元に降りた薄い霜が、二人の踏み込みの熱で、白く煙っている。

 

 体は、限界に近かった。

 

 金剛なしの生身で、ルクレールの打ち込みを受け続けて、腕の感覚が遠のいている。手の中の柄が、汗と血で滑る。それでも、退かなかった。

 

(まだだ)

 

 夜桜の晩の決着を、今度こそつける。そう決めてここへ来た。

 

 かくん、と力が抜けた。

 

 楠は、霜の上に膝をつく。腕が、もう持ち上がらない。冷たさが、じわじわと這い上がってくる。

 

「ここまでね」

 

 朝日を背に、赤い刃が、頭上高く振り上げられた。

 

 刃が、落ちる。その寸前、楠は、前へ転がった。がん、と刃がレールを打つ。錆の粉が舞い、甲高い響きが、霜の野に散った。

 

「ちっ」

 

 ルクレールが、笑いながら舌打ちした。

 

「錆びた線路まで味方にするなんて」

「使えるものは、使う」

 

 きれいな剣ではなかった。それでも、まだ立てた。

 

 楠は、膝を伸ばし、刃を押し返した。鍔と鍔が、ぎり、と再び噛み合う。

 

 額が触れるほどの間近で、ルクレールが、囁いた。

 

「ねえ、楠の」

「何だ」

「もう、いいんじゃない? あなたが斬られても、わたしが斬られても、何も変わらないのよ」

「承知している」

「じゃあ、なぜ」

「変わらなくても」

 

 楠は、歯を食いしばった。

 

「私が、決めたことだ」

 

 ルクレールの目が、わずかに細められた。

 

「……そう。なら、仕方ないわね」

 

 その刀に、力が籠もった。

 

 鍔が軋む。火花が散り、霜が弾ける。ルクレールの脚が、ぐっと地を噛んだ。

 

 楠の足が、枕木の継ぎ目を踏み外す。半歩、滑る。

 

 そこを狙って、赤い刃が落ちる。

 

 捻る。躱す。頬をかすめた刃が、ひゅっと風を切り、細い血の線が、一本、走った。

 

 返す一太刀が、下から伸びる。ルクレールの上着の裾を、裂いた。

 

 互いに、一歩も引かない。引けば終わると、二人とも分かっていた。

 

 二人の息が、白く混じり合った。盆地じゅうが、固唾を呑んでいる。

 

 その瞬間だった。

 

 遠くから、音が聞こえた。

 

 最初は、風の音かと思った。それから、地鳴りに変わった。足元の枕木が、小刻みに震えはじめる。霜の粒が、レールの上で踊る。

 

 ぴいいいいいいいっ、と、甲高い汽笛が盆地に響いた。

 

 しかも、一度ではない。二度、三度、四度。調子外れに、でたらめに、鳴り続けている。

 

「……何?」

 

 ルクレールが、顔を上げた。

 

 楠も、顔を上げた。

 

 西の坂の上から、黒い煙が見えた。その下に、鉄の塊がある。猛烈な勢いで、こちらへ向かって駆けてくる。

 

 汽車であった。

 

 煙突から噴き出す黒煙。軋む鉄輪。足元から迸る白い蒸気。吼えながら、一直線に、盆地の中を突き進んでくる。

 

 その行く手の線路には、刃を噛み合わせたまま向かい合う、二人の娘。

 

 その、真っ只中へ。

 

「ちょ、ちょっと待って」

 

 ルクレールが、後ずさった。

 

「まさか、あれ、止まらないの?」

 

 止まらなかった。

 

 噛み合っていた刃が、ぎっと擦れて離れる。楠は、咄嗟に飛び退いた。ルクレールも、反対側へ跳ぶ。二人は、レールを挟んで、左右に分かれた。

 

 轟音が、二人の間を駆け抜けた。

 

 凄まじい風圧。髪が千切れそうなほど靡き、裾がはためき、目を開けているのがやっとだった。鉄輪が、レールを叩く。がたん、がたん、がたん――鉄の車体が、目と鼻の先を、過ぎていく。熱い蒸気と石炭の匂いが、顔を撫でた。

 

 その窓に、顔が見えた。

 

 運転台の窓から身を乗り出し、必死の形相で前方を睨んでいる、ひとりの書生。

 

 その後ろから、真っ黒に煤けた二人の娘が、顔をのぞかせていた。

 

「どいてくれー! どくんだー! 止まれないー!」

「危ないですよ! それにしても、どうして二人ともそこにいるんですか!」

「石炭くさいー!」

「うるさいです!」

 

 赤いリボンと、小柄な影が、窓の外を流れていった。

 

「あれは、佐藤の……!」

 

 ルクレールの声が、風の中でひっくり返った。

 

 書生は、一瞬だけ、こちらを見た。

 

 目が、合った。

 

 楠は刀を構えたまま、固まっていた。

 

 書生は、何かを叫んだ。声は、轟音にかき消されて聞こえない。唇だけが、動いている。

 

 ――朽木さん。

 

 そう言っているように見えた。

 

 次の瞬間、汽車は、通り過ぎていた。

 

 巻き上げられた風と蒸気が、ゆっくりと収まっていく。舞い上がった霜の粉が、きらきらと、二つの切っ先へ降りてくる。その向こうで、列車の後ろ姿が、小さくなっていった。

 

 レールの両側に、二人の娘が残された。刀を構えたまま、凍りついたように。

 

 頭が追いつかなかった。

 

(また、あの男か)

 

 楠は、思った。

 

 怒りは、湧かなかった。それよりも先に、頭の中が、真っ白になっていた。

 

 

◇

 

 

 山名は天幕の陰で、目を疑っていた。

 

 盆地の中央を、黒い汽車が走ってくる。錆びたレールをがたがたと揺らしながら、フランス軍の陣の真ん中を通って、まっすぐ東へ向かってくる。そのレールの先は、不破の関の門である。

 

「な、何ですか、あれは!」

 

 山名は、悲鳴のような声を上げた。

 

「汽車! 止まらないんですか! どうして、どうしてあんなものが!」

「汽車が来るぞ!」

「止めろ!」

「線路に障害物を置け!」

 

 フランス軍の陣は、大混乱に陥った。将校たちが怒鳴り、兵士たちが走り回る。誰かが貨車を引きずってきて、レールの上に押し出そうとした。大砲の砲手が、汽車に狙いを定めかねて、右往左往していた。

 

「撃て!」

「味方を撃つ気か!」

「敵だ、あれは敵だ!」

「どこの敵だ!」

 

 山名は、おろおろと天幕の前を行き来した。

 

 血が騒ぐなあ、などと呟いていたのは、ほんの数十分前のことである。実際に血が騒いで出てきたのは、冷や汗だけだった。

 

「どうしましょう、どうしましょう、大佐殿……! い、今から車止めなんか、間に合わんけえ……!」

 

 誰も答えなかった。

 

 汽車が、迫ってくる。

 

 兵士たちが、貨車を何台か、レールの上へ押し込む。錆びた車輪が、ごとり、とレールにはまり、壁のように、行く手を塞いだ。

 

「これで止まる!」

 

 将校が叫んだ。

 

 山名は、胸を撫で下ろしかけた。

 

 そのとき、近くで、のんびりした声がした。

 

「……まさかな」

 

 転轍機の詰所の陰で、マントの裾を風に遊ばせていた佐々木が、迫る汽車を眺めて、頭を掻いていた。

 

「あの堂数連の馬鹿か? おもしれえじゃねえか」

 

 佐々木は、のそりと歩み出た。そして、無造作に、片手を振る。

 

 ごう、と空気が鈍く撓んだ。

 

 貨車が、子供の玩具のように、横へ滑る。ひとつ、またひとつ。鉄の車輪が、ぎいぎいと軋んで、レールの上から押し出されていく。ジャン・バールの唸りが、その周りを、一瞬だけ掠めた。

 

 もう片方の手が、転轍機の錆びた把手を引く。

 

 分岐は、汽車を脇へ逸らす向きに開いていた。それが、がちゃり、と音を立てて、関へ向かう本線に合わさった。

 

 一瞬のことだった。

 

 フランス軍の兵士たちは、誰も気づかない。蒸気と砂塵が、すべてを覆い隠している。貨車は勝手に弾け飛び、分岐は勝手に切り替わった――そうとしか見えない。

 

 ただ、山名だけが、見た。

 

 佐々木が、振り返って、にやりと笑った。悪戯が成功した子供のような、愉快で、屈託のない笑みだった。

 

 山名は、口をぱくぱくと動かした。

 

「さ、佐々木殿……?」

 

 その横を、汽車が駆け抜ける。

 

 地響きが、天幕を揺らした。フランスの旗が、千切れんばかりにはためき、将校の帽子が、宙へ吹き飛ぶ。汽車は、まっすぐに、関門へ向かって、黒い煙の尾を引いていった。

 

 山名はその場に、へなへなと座り込んだ。

 

 佐々木だけが、にやにやしながら、遠ざかる黒い煙を見送っていた。

 

 

◇

 

 

 関門が、迫る。

 

 西行は、運転台の窓から身を乗り出して、目を見開いた。朝日を背負う巨大な石の門柱が、影絵のように黒く、行く手にそびえている。その間に降りた、鉄の格子。両脇に張り出す、石の見張り台。関門が、盆地の東の端を、ぴたりと塞いでいる。

 

 不破の関。

 

 東西を隔ててきた、日本の壁。

 

「止まれー! 止まれえええー!」

 

 西行は、必死に把手を引き倒した。

 

 汽笛が鳴る。蒸気が噴く。ブレーキは、効かなかった。そもそも、どれがブレーキなのか、まだ分からなかった。

 

「止まれ! 止まってくれ!」

「無理だー!」

「無理じゃない、無理じゃないはず!」

「石炭、足りなくなってきましたよ!」

「石炭は関係ない!」

「止まらなくても、石炭は要るんです!」

 

 新田と高が、背後で叫んだ。

 

 関門の前には、フランス兵の小隊が、横木を渡して待ち構えていた。

 

 その真ん中へ、窓から身を乗り出した高が、シャベルを槍のように突き出す。

 

「どいたどいた! 汽車のお通りです!」

 

 ばきり、と横木が跳ね飛んだ。小隊が悲鳴を上げて、左右へ転げ散る。新田も負けじと、石炭の塊を、ぶん、と投げつけた。

 

「ごじゃるーっ!」

 

 格子が、迫る。錆の浮いた鉄の棒が、一本、一本、数えられるほどに。その向こうに、東の光。

 

 どうする、どうする……、どうする……!

 

 西行の口から、掠れた声が漏れた。答えは、どこにもなかった。

 

 思わず目を閉じた。

 

(ごめん、親父)

 

 それから、小さく付け足した。

 

(朽木さん……)

 

 次の瞬間、世界が割れた。

 

 どおん、と腹の底が抜ける。鉄が軋み、石が砕ける。礫が、運転台の屋根をがらがらと叩き、砂まじりの熱い蒸気が、頬を打った。足の下で、車体ががくんと跳ね上がり――ごり、ごりごり、と、何か巨大なものを踏み砕いていく。

 

 石の門が、崩れた。目を閉じていても、音で分かった。

 

 轟音が、盆地じゅうに響き渡る。

 

 汽車は、瓦礫を撥ね飛ばしながら、突き進んだ。

 

 そのまま、関の向こう側へ、抜けた。

 

 東の光の中へ。

 

 瞼の裏が、ぱっと明るくなった。朝日が、まっすぐ差し込んでくる。眩しい。閉じたままでも、光が透る。

 

「……抜けた?」

 

 西行は、恐る恐る目を開けた。

 

 前方には、広い野が開けていた。霜の降りた田畑、遠くの山並み、細く伸びる線路。誰もいない。東へ向かって、まっすぐに続いていた。

 

(生きてる。……生きてりゃ、越えられるもんなんだな)

「抜けたでごじゃる……!」

「関、壊れましたよ、あれ」

「壊れた!」

「あなた、いったい何をやったんですか、本当に」

「俺だって、知らないよ!」

 

 三人は、絶叫に近い声で笑った。

 

 笑いながら、汽車は、東へ駆けていった。

 

 止まれないまま。

 

 

◇

 

 

 転轍機の詰所のそばで、関門が崩れ落ちるのを見ていた者がいる。

 

 北朝の陣の後ろに、用のない人として置かれていた秋水と、いま転轍機の把手を引いたばかりの佐々木だった。

 

 土煙が、朝日の中に立ち上る。石の門柱が倒れ、鉄の格子が飴細工のようにひしゃげていく。その向こうへ、黒い汽車が、何事もなかったような顔で抜けていった。

 

 縄もない秋水は、佐々木の横で口を開けたまま、瓦礫の山を見つめている。

 

「……関が」

 

 かすれた声が漏れた。

 

「関が、壊れたのか。汽車、一台で」

「みたいだな」

 

 佐々木は詰所の壁にもたれて、涼しい顔で答えた。

 

 秋水はまだ瓦礫を見つめたまま、言った。

 

「窓から、若い者らが顔を出しとった。煤だらけで、泣いとるのか笑うとるのか、分からん顔じゃった」

 

 秋水の肩が、小さく震えた。

 

「あの法廷で、ワシは若い者を、体たらくと罵った。その体たらくが、関を壊しおったのか」

 

 彼は、ふと目を閉じた。

 

 ワシが書いてきたものは、何じゃったのか。書いて、書いて、顔も知らん者が、ワシの言葉を背負って走って、斬られて、捕まって。根源を正さねばならんと、そう思って、ずっと机に向かってきた。

 

 それが、汽車の体当たりで、あっけなく壊れたという。

 

「こんな奴らが……」

 

 声が、掠れた。

 

「こんな奴らが……」

「ワシの理想より、現実のほうが先に動きよったわ」

 

 秋水は、がくりと肩を落とした。笑っているのか泣いているのか、分からなかった。

 

 佐々木の肩が、震えはじめた。最初は小さな笑いだった。それがだんだんと大きくなり、やがて、腹を抱えての大笑いになった。

 

「だっはっは! そうだな、そうだな、先生! 現実のほうが先に動いた! 全くだ!」

 

 詰所の壁を、ばんばんと叩いて、涙を拭った。

 

「おもしろき こともなき世を おもしろく、ですなあ」

 

 並んで立つ二つの影が、長く地面に伸びていた。

 

 

◇

 

 

 盆地には、奇妙な静けさが落ちていた。

 

 楠は、刀を下ろさずにいた。腕の先で、切っ先だけが、小さく震えている。

 

 東の空に、砂塵がまだ舞っている。関門のあったところには、瓦礫の山と、折れ曲がった鉄の格子。その向こうに、遠ざかる汽車の黒煙が小さくなっていく。

 

 周囲では、誰も動かなかった。

 

 フランス軍の兵士は、銃を構えたまま。南朝の将校たちは、あんぐりと口を開けたまま。

 

 そこへ、西の縁から、数騎の馬が駆け込んできた。イギリス軍の指揮官と、その兵たち。汽車を追ってきたらしい。馬を止めたまま、砕けた関門を見つめている。

 

「ファッ?!」

 

 指揮官が、叫んだ。

 

「ファッ?!」

 

 兵たちも、口々に続いた。

 

 それを皮切りに、盆地じゅうが、ざわめきはじめた。

 

「な、何だ、今の」

「汽車が、関を」

「壊した?」

「壊したのか?」

「え、ええ?」

 

 誰の言葉も、同じ意味に聞こえた。

 

 ルクレールが、刀を握ったまま、ぽつりと呟いた。

 

「……は?」

 

 その表情は、笑うべきか、怒るべきか、呆れるべきか、決めかねているように見えた。

 

 そのすぐそばで、楠の唇も、同じ形に動いた。

 

「……は?」

 

 声が、重なった。

 

 二人は、顔を見合わせた。

 

 一拍。

 

 楠の頭の中に、ようやく、先ほど見た顔が戻ってきた。

 

 運転台の窓から、身を乗り出していた書生。手拭いも振らず、必死の形相だった。

 

 口の動き。――朽木さん。

 

 耳の奥で、掛け声が鳴った。

 

 どうする、どうする、どうする……!

 

(だが、どうする、と聞かれた時には、私はいつも、こうした――)

 

 体が、先に動いていた。

 

「何をしているんだ、あの人は――!」

 

 喉から、声が出ていた。自分でも聞いたことのない声だった。

 

 その瞬間、金剛が、起動した。

 

 低い唸りが、盆地の空気を震わせる。足元の霜が、一斉に跳ねる。冷えきっていた鉄が、みるみる熱を帯びていく。

 

 気づいた時には、白い袖当てと胸当てが、腕に、胸に、あった。朝日を弾いて、白く光る。足元のトランクは、蓋を開けたまま、空になっていた。

 

 責任も、勅も、名も、すべて吹き飛んでいた。

 

 縄の端を握った夜の声が、耳に戻ってきた。成った成らぬは論ずるな。残るのは意気だけだ。

 

 成るか成らぬかは、後でいい。ただ、あの人を止める。それだけだった。

 

(Eは処刑人だと、誰かが言っていたが――)

 

 そこで、思いは切れた。足は、もう、走り出そうとしていた。

 

 楠は、顔を上げた。

 

 ルクレールと、目が合った。

 

「……行くの?」

「行く」

「そう」

 

 ルクレールは、ふっと息をついた。

 

「止めはしないわ」

 

 楠は、レールの上へ飛び出した。

 

 一歩目で、地面が割れる。二歩目で、風が裂ける。三歩目には、すでに残像となっていた。金剛の脚力が、彼女の体を前へ前へと押し出していく。舞い上がった霜が、白い尾となって、後ろへ引かれた。

 

 関の脇に陣を張るフランス軍が、ざわりと動く。据えられた機関銃が、こちらへ、黒い銃口をぴたりと向ける。

 

 ひと呼吸。――ばらばらっ。

 

 雹の雨が、白い袖当てを、胸当てを、横ざまに打つ。当たる、はじける、散る。ことごとく、跳ね返る。

 

 楠は、足をゆるめない。撃たれながら、ただ前だけを睨み、黒煙の先の、あの人へ駆ける。

 

 その後ろから、もうひとつの足音が追ってきた。

 

 ルクレールだった。赤いレッグカバーが低く唸り、褐色の脚が大地を蹴る。金の髪が、風に逆立つ。ふたりは、並んで走った。

 

 かつて夜桜の下で刃を交わした二人が、いま、同じ汽車を追っている。

 

 砕けた関門の瓦礫を、ひらりと飛び越える。その向こうには、広い野が続いていた。遠くに、汽車の黒煙が見える。

 

「ねえ!」

 

 並走するルクレールが、風の中で叫んだ。

 

「あなたのところの、あの書生、何なの!」

「知らぬ!」

「知らないの?」

「私も、よく分からぬ!」

 

 楠は、叫び返した。

 

「汽車の止め方も知らないのに、動かしたのよ、きっと!」

「そうだ!」

「どういう頭の造りをしているのかしら!」

「知らぬと言っている!」

 

 ルクレールが、笑い出した。

 

「あはは! そう! 知らないのね!」

「笑うな!」

「だって、おかしいんだもの!」

 

 走りながら、二人は笑った。気がつけば、楠の口元もほころんでいた。

 

 しばらく、そうして並んで駆けた。

 

 やがて、ルクレールの足が、少しずつ緩みはじめた。

 

 ふっと、速度を落とす。

 

「やれやれ」

 

 ルクレールは、立ち止まった。

 

 肩で息をしながら、野原の真ん中で、腰に手を当てた。

 

「馬鹿らしくなってきたわ」

「ルクレール」

「行きなさい、楠の」

 

 ルクレールは、手をひらひらと振った。

 

「あなた一人で、あの汽車を追って」

 

 楠は一瞬だけ、振り返った。

 

 褐色の娘は、野原の風の中で、金色の髪を揺らして笑っていた。それは、敵意のない、さっぱりした笑顔だった。

 

「……恩に着る」

「いいのよ」

 

 ルクレールは、肩をすくめた。

 

「あの御曹司を、落とさないでね。あの家の線路は、江戸にとっても、大事なものだから」

 

 楠は頷いて、前を向いた。

 

 遠くの汽車の運転台で、小さな影が動いた。煤まみれの二人が、石炭を放り込む合間に身を乗り出して、線路の前方へ向かって、何かを蹴り飛ばしている。

 

「新田と、高か」

 

 楠は、呟いた。

 

 露払いは、あの二人がやってくれているらしい。

 

 ならば、自分のやることは、一つだった。

 

 金剛が、低く唸った。

 

 楠は、ぐっと身を沈める。霜が舞う。風が鳴る。そして、汽車を追って、東へ駆けた。

 

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