汽車は、東へ走り続けた。
関ヶ原を抜けた先は、見たことのない景色だった。西行は生まれて初めて、関の東側の空気を吸っていた。田んぼの畔には、見慣れない形の藁塚が積まれ、遠くの山並みは、吉野の山より低く、丸い。道端の地蔵が、見知らぬ衣を着ていた。
線路は、まっすぐに続いていた。かつて東西を結んだ官営の線が、錆びた鉄の身を横たえて、旅人を待っていた。
駅舎が、窓の外を流れていく。ホームの端で旗を振りかけた駅員が、その手から旗を取り落とした。
「石炭は、あと一掬いしか残っていませんよ」
高が、シャベルを下ろして、床に尻をついた。
「あとは、運を天に任せるしかないです」
「天に任せたら、いつもろくなことにならない!」
「でも、新田さん、楽しそうな顔してますよ」
「それは……」
新田は石炭まみれの顔で、にいっと笑った。
「楽しいでごじゃる!」
「でしょう?」
高も、笑った。
西行は前を向いたまま、微笑んでいた。
(煙は風になびいて、空に消えていく。行く先を知らないのは、あの煙も、この汽車も、俺も同じか)
窓の外を、ひとつの影が追ってくる。
最初は、点にしか見えなかった。それが、少しずつ近づいてくる。白い袖当ての光。紫の長い髪が、風の中で流れていた。
金剛だった。
楠が、汽車と並走していた。
地面を蹴るたびに、大きく跳んでいる。線路の脇の草が千切れ飛び、霜の粒が舞い上がる。汽車の速度に、ぴたりと合わせて、駆けていた。
運転台の窓越しに、目が合った。
「朽木さん!」
西行は、叫んだ。
風の音で、聞こえないかもしれない。それでも叫んだ。
「迎えに来た!」
楠の口が、動いた。
――何をしている。
そう読み取れた。西行は、懸命に声を張り上げた。
「止め方が、分からなくて!」
楠の表情が、ほんの少しだけ、崩れた。
呆れたような、困ったような、笑い出しそうな。
あの無表情な娘の、はじめて見る顔だった。
その間にも、圧力計の針は、じりじりと下がっていた。最後の一掬いが火室に放り込まれたが、炎はもう勢いを取り戻さなかった。汽車の足は、目に見えて鈍っていく。
それから、前方に、街が見えてきた。
名古屋であった。
屋根瓦の海が広がり、煙突がいくつも立ち、路面電車の線が縦横に走っている。荷を積んだ貨車の列が、朝の光を鈍く返す。駅舎の屋根には、イギリスとフランスの旗が並び、同じ風にはためいている。
線路は、駅の構内へ吸い込まれていく。力を失った鉄の塊は、惰性のまま、ごろごろと転がり込んでいった。線路の突き当たりには、砂を盛った車止めが待ち構えていた。
「名古屋だ!」
「終点ですよ!」
「止まれ! 止まれ!」
「どうやって!」
西行は、把手を片っ端から引き倒した。
汽笛が鳴る。蒸気が噴く。何か、ぎゃりり、と車輪が悲鳴を上げた。
ゆるゆると、だが確かに、車止めが目の前に迫る。
新田と高が、頭を抱えた。
「ぶつかるー!」
「もうだめですー!」
衝撃。
鉄の車体が、砂の山にのしかかるように乗り上げる。車輪がレールを外れ、機関車が横ざまに傾く。世界がぐるりと回る。西行の体は、運転台から宙に放り出された。
空が見えた。
名古屋の朝の、薄青い空。
そこへ、白い腕が伸びた。
がしり、と体が掴まれた。
誰かの腕に、抱きとめられていた。ふわりと衝撃が和らぎ、足が地面に着く。
「……」
顔を上げると、そこに、紫の髪の娘がいた。
白い袖当てが、朝日に光っていた。金剛の唸りが、静かに収まっていく。彼女の腕が、まだ西行の背中を支えていた。
「怪我は」
「……ない」
「そうか」
沈黙が、落ちた。
背後で、機関車が、ずん、と横倒しになった。もうもうと蒸気が上がり、土煙が舞う。石炭が散らばり、車輪が空回りしていた。
その中から、真っ黒な二人が這い出てきた。
「死ぬかと思ったでごじゃる……」
「二度とやりません……」
「けど、楽しかった……」
「それは否定しません……」
二人は、地面にぺたりと座り込んだ。
西行は楠の腕から離れて、頭を下げた。
「ごめん。迎えに来たつもりが、迷惑ばかり」
「そうだな。……そなたは、何をしているのだ」
「えっ」
「国を救うつもりではあるまい」
「ない」
「戦を止めるつもりでもあるまい」
「ない。ただ、朽木さんを連れ戻したくて」
「それで、関を壊したのか」
「壊すつもりは、全然なくて」
「汽車を奪って」
「ああ」
「不法侵入して」
「ああ」
「止め方も知らずに」
「……ああ」
楠は、じっと西行を見ていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……なんなのだ、そなたは」
それは、問いというより、呆れだった。
彼女の口元が、また少しだけ、持ち上がった。笑っているのだと、西行はようやく気づいた。
「バカバカしい」
「ごめん」
「バカバカしすぎて」
楠は言葉を探すように、一度、目を伏せた。
「放っておけぬ」
呆れの底に、もっと温かいものがある。西行には、そう聞こえた。
西行はその言葉を聞いて、へなへなとその場に膝をついた。
「よかった……」
「何がだ」
「いや、その、連れ戻せたというか、連れ戻されたというか」
「どちらでもいい」
彼女は、手を差し伸べた。
「立て」
西行は、その手を取った。
駅の構内には、いつの間にか人垣ができていた。駅員が、帽子を握りしめて走ってくる。荷車引きも、物売りも、乗客も、横倒しの機関車を遠巻きにして、誰も近づかない。
「あれは、どこの汽車だ」
「西からだよ。関を越えてきたらしい」
「関を? あの関を?」
囁きが、人から人へ、波のように広がっていく。
新田と高は立ち上がって、煤だらけの顔を見合わせた。
「逃げる」
「逃げましょう」
二人は人垣のすき間から、するりと抜けていった。西行と楠も、それに続いた。
名古屋は、英仏の租借地である。誰も、四人を追わなかった。
◇
関が壊れて、数か月が経った。
世の中は、がらりとは、変わらなかった。
英仏の軍は、依然として日本に駐留していた。南朝は吉野にあり、北朝は江戸にあった。京都は寂れたままで、名古屋は英仏の租借地のままで、小田原にはフランス軍がいた。
ただ、ひとつだけ、違うことがあった。
不破の関が、直らなかった。
英国の大使は、当初は「即刻修復を」と各所に求めた。仏国の大使も、同じ文言を書面で何度か寄越した。しかし、じきに、どちらの声も途絶えがちになった。
欧州で、悪い風邪が流行りはじめたのである。
最初は、新聞の片隅の小さな記事だった。診療所が、学校が、次々と閉まっていく。やがて、記事は大きくなり、英仏の本国は、日本どころではなくなっていった。
使節が帰国し、軍の増派は止まり、関の修復の話は、いつの間にか立ち消えになった。
誰も、直さなかった。
壊れた関の門柱は、瓦礫のまま、野に積まれていた。その脇を、近在の百姓が、荷車を引いて通り抜けるようになった。商人が、旅人が、そしておそるおそる、西と東の人々が、行き来するようになった。
大きなものは、何も変わっていない。
だが、東西を隔てていた壁が、ひとつ壊れたまま、誰も直さずにいる。
◇
名古屋の朝は、早い。
西行は下宿の二階の窓を、少し持ち上げてから、がたりと横へ滑らせた。この窓は、そうしないと開かない。朝のうちだけの涼しい風を、胸いっぱい吸い込んだ。
眼下の通りを、荷車が行き交っていた。東から米俵を積んだ馬車が来る。西から反物を載せた荷が来る。その脇を、藁にくるんだ氷の大八車が、雫を点々と落としてすり抜けていく。
商人の呼び声も、西の抑揚と東の抑揚が、ひとつの通りで混ざり合う。車輪の音、遠くの汽笛。
普請場の足場が、また一段高くなっている。駅の構内で、発車の鐘が鳴る。かんかん、かんかん。貨車を連ねた汽車が、それを合図に動きだした。最初は耳についた鉄の音も、いまでは目覚ましの代わりである。
屋根瓦が、もう白く光っている。日が高くなれば、目も開けていられないほど照り返すだろう。
壊れた汽車は、とっくに片付けられていた。だが、錆びたレールは、そのまま残っている。東へ、西へ、細く伸びていた。
西へは、帰れなかった。
汽車を乗っ取って、不法侵入して、関を壊した書生が、吉野へ戻れるはずもなかった。大学は、とうに追われた身である。
機関車は盗まれたのだと父が届け出て、京都と吉野ではずいぶん金が動いたと、人づてに聞いた。佐藤家の線は、今日も大坂と吉野の間を走っている。罪を負うのは、息子だけである。
(親子の間の盗みは、罪に問われない。法科の人間なら誰でも知っている。……盗まれた、とはな)
(去年は吉野の坂を駆け下りて、寄席へ通っていたのに。通い慣れた道は、もう通れない。……なら、道を変えて、まだ見ぬ方へ、か)
つい先日、下宿の主人が、階段の下から呼んだ。
「佐藤さん、電報だよ」
受け取った紙には、片仮名ばかりが並んでいた。
『ナンダカワカランガ トニカク カラダダイジニ ヨシ チチヨリ』
読んで、西行は少し笑って、少し泣いた。
隣の部屋の戸が、からりと開く音がした。
「起きたか」
楠が、顔を出した。
薄い単衣に、前掛け。髪は後ろでひとつに結わえている。右手には、お盆を持っていた。味噌汁と、焼き魚と、白飯。
彼女も、西へは帰れない身であった。
「飯だ」
「ありがとう、朽木さん」
「そなたが作る気配がなかったのでな」
「……悪い」
楠は、お盆を机に置いた。膳は、二つあった。一つは西行の分、もう一つは楠の分である。
佐藤家に来たばかりの頃の彼女は、立ったまま給仕をしていた。この下宿では、いつの間にか、向かい合って座るようになっていた。誰も、そのことを口にしなかった。今朝も、西行が座布団を二枚放ると、楠はそのまま膝を揃えた。
「金剛は」
「手元にある」
彼女は部屋の隅の英国製のトランクを、顎で示した。蓋の隅の刻印が、朝の光を受けていた。
「名は、取り戻さない。動くかどうかは、私が決める」
「そうか」
「ああ」
階段の下から、賑やかな声が聞こえてきた。
「正義ーっ! 西行さーん! 朝ご飯でごじゃるー!」
「わたしの分もあるって、言ったじゃないですか」
「ない!」
「ありますよ」
新田と高が、またやってきたのである。
二人は見張りと称して、時々この下宿へ顔を出した。
階段が、どたどたと鳴った。戸口から、新田が突っ込んでくる。そのあとから、高が、襟元をぱたぱたとあおぎながら、のろのろと入ってきた。
「……暑いですねえ。汽車はかんかん、お日様もかんかん。フランスの人なら、ここらでカンカンでも踊りだすところですよ」
返事は、なかった。
新田は、膳の前に陣取るなり、焼き魚を覗き込んでいる。楠は、黙って味噌汁をすすった。西行は、聞こえなかったことにして、飯をかき込んだ。外で、また発車の鐘が、かんかんと鳴った。
「……ですよねえ」
高は、独りうなずいて、畳に崩れるように座り込んだ。
楠が、ため息をついた。
「また、やかましいのが来たな」
「でも、悪くないだろ」
「……悪くは、ない」
彼女は、立ち上がった。
窓の外に、遠くの汽笛。
西行は、日に温んだ窓枠に肘をついて、東西に伸びるレールの先を眺めた。
この先どうするかは、誰も知らない。大国の思惑も、国の未来も、自分たちの暮らしも。
考えていくしかない。自分たちで、一つずつ。
そして、ふと、声に出していた。
「さぁ、どうする!」
隣で、楠が、振り向いた。
その口元に、かすかな笑みが浮かんでいた。
鉄輪の音が、朝の街のどこかで、小さく鳴っていた。