翌朝の吉野は、何事もなかった顔で明けた。
西行は下宿の二階の窓を開け、ぼんやりと外を眺めていた。ほとんど眠れていない。目を閉じると、紫の髪と、血の点と、「忘れろ」の一言が、順番に瞼の裏を通り過ぎていくのである。
(忘れろと言われてもなあ)
窓の下を、乳売りの自転車、魚の担ぎ売り、山高帽の勤め人が過ぎていく。その向こうを、緑色の路面電車がちんちんと鐘を鳴らして横切った。架線が青い火花をぱちりと弾く。角では点灯夫が長い竿を差し上げ、夜通し灯っていた瓦斯灯を、ひとつ、またひとつと消していく。
西行は袴をつけ、手拭いを腰に下げて、駅へ向かった。大学へ行く前に、なんとなく汽車が見たくなったのである。
赤い煉瓦の駅舎の、長いホームの端に立つ。吉野の駅は、山の底にある。どちらを向いても山の壁で、空は細く切り取られ、北の谷から入ってくる線路だけが、この盆地への入り口だった。毎朝そこを、黒い煙が一本、山の襞を縫うようにして上ってくる。そのたびに西行は、感心するのである。
(よくまあ、こんな所まで運ぶものだ)
川は細い。平らな土地は、猫の額ほどしかない。畑も田も、満足に取れない。それでも帝のおわす山だというだけで、人が寄り、役所が建ち、京の学者や公家が呼び寄せられ、大使館が並び、最高の学問所と最高の裁判所が置かれた。そこへ毎朝、汽車が京阪神の富を積んで上がってくる。大坂の米と菓子、神戸の洋酒、京の織物。山の都は、帝の威光と汽車に、無理やり押し上げられているのだ。吉野で暮らす者は誰もがそれを知っていて、誰もがそれを誇りにしていた。
ぎゅううう、と鉄輪が鳴って、機関車がホームに滑り込んだ。
降りてくるのは、大坂の商人、神戸の貿易商、呉服の行商、出張帰りの官吏、大風呂敷を抱えた老婆。みな疲れた顔で、しかしどこか浮き立った足取りで改札へ向かう。貨車の扉が開き、木箱が降ろされ、荷役の若い衆が声を張る。板の隙間からは、藁にくるまれた瓶の肩が覗き、朝日を透かして琥珀色にとろりと光っている。
車体の脇腹に、小さな金文字の社章が打たれていた。西行の家のものだった。
佐藤家の鉄道。祖父は、この線をわざと「儲からない山の線」に見せかけたのだという。イギリスの技師たちは、小さな線には目もくれなかった。そのうちに、線は王寺へ、奈良へ、大坂へ伸びて、いつの間にか大坂と吉野を結ぶ太い動脈になっていた。官営の線の利権は、西でも東でも異国の持ち物だが、この線だけは日本人のものである。西行はその跡取りだったが、家業を継ぐ心構えがあるかと問われれば、「追っかけを続ける覚悟ならある」としか答えようがなかった。
「おや、書生さん。佐藤さんとこの坊ちゃんじゃないか」
ホームの縁で、風呂敷包みを抱えた小柄な老人が声をかけてきた。京から来た茶道具屋で、吉野の商いのたびに顔を合わせる相手である。
「ええ、いつもお世話に」
「吉野さんは、毎度ながら山深いなあ。帝のおわす山やよってに、文句は言えへんけどな。わてらは、坂と階段で脚が悪うなる」
「京のお方が、よく言いますよ」
「京はなあ。人がみんな吉野へ引き抜かれてしもて、寂しいもんや」
老人は笑った。恨みがましさはなく、ただの世間話の口調だった。
西行は路面電車に乗り、大学へ向かった。
車内で、同じ法科の学友と一緒になった。物知りで噂好きの男である。
「なあ、聞いたか。叔父貴が商用で江戸へ行ってきたんだ」
「へえ。どうだった」
「関でな、荷を全部あけさせられたそうだ。手形があっても、行李の底まで改められる。それで江戸に着いたら、都というより、でかい沼だとさ」
「沼」
「お城のまわりだけは、石垣も道もきれいに整っているらしい。だが一歩出れば、杭と水ばかりだ。今年もまた川が溢れて、町が膝まで浸かっていた。堤を築いても築いても、追いつかんのだと。叔父貴は蚊に三十ヶ所食われて、泥の中を駕籠で運ばれたと言っていた」
「江戸の人たちも、大変だな」
「それでも、帰りは新潟を回ったそうだ。東の米蔵だからな。ところが港に、フランスの旗が立っていた。荷揚げも船もフランスさんの許しがいるそうで、米俵はまずあちらの検めを通ってから、こっちへ回ってくる。道理で米の値が下がらんわけだ」
「そうか」
「江戸は水に浸かり、新潟は旗が立つ。あっちは気の毒だが、あれで都と名乗っているのだから、大したもんだ」
学友は呑気に笑った。西行も、つられて笑った。笑いながら、窓の外へ目をやった。人力車の幌が、日傘と帽子の波をかき分けて、こちらと先を競っている。
電車は山の斜面を登っていた。通りの先に、石造りの洋館が並ぶ一画が見える。向かい合う二つの大使館の屋根に、イギリスとフランスの旗が、同じ風にはためいていた。もう毎日見ている景色で、何を思うでもなかった。
「それより、今朝の新聞見たか。また千里眼だとさ」
「千里眼?」
「どこぞの娘が、封をした箱の中の字を言い当てたんだと。どういうわけか、若い娘ほどよく当たるらしい。本物か眉唾か、えらい騒ぎだ」
西行は、ふうんと言った。それ以上は思わなかった。
「おい、聞いてるのか。今朝はやけに上の空だな」
「悪い。昨夜からこっち、心がどうも、身に付いてこなくてな」
学友は笑って、それ以上は訊かなかった。
大和帝国大学の校舎は、煉瓦と石で組まれていて、この国の最高学府にふさわしく厳めしい。門をくぐれば、黒い学生服の群れが講堂へ流れていく。誰もが、この国を背負うと信じて疑わない顔をしていた。
廊下の向こうから、三人連れの女子学生が来た。真ん中を歩くのは、背筋のぴんと伸びた娘だった。白い襟付きのブラウスに、えび茶の袴。腰まで届く黒髪を半分だけ結い上げ、細いリボンで留めて、顎を少し上げている。北畠である。公家の家柄で、成績は優秀、気位が高く、そして短気だった。両脇の二人は京から来た公家の娘たちで、話す言葉にどこか柔らかい抑揚がある。
「あら、佐藤さん」
北畠は、すれ違いざまに立ち止まった。
「今朝も、お元気そうですこと。昨夜も、また寄席ですの?」
「ええ、まあ」
「法科の学生ともあろう方が、娘義太夫の追っかけなどなさって。恥ですわ」
「楽しいですよ。北畠さんも、一度いかがです」
「結構ですわ!」
ぴしゃり、と扇子で空気を打つように言い放って、北畠は歩き去った。京の二人が、くすくす笑いながら後に続く。
この大学で、自分をいちばん嫌っているのは北畠だと思う。理由は分からない。寄席通いが気に入らないのかもしれない。そんな嫌われ方にも、西行はあまり傷つかなかった。気にしていたら、追っかけはやっていられない。
講堂では、老教授が憲法の講義を始めていた。
「湊川で楠公が勝たれて以来、我が国は、南朝の帝と北朝の帝を迭立させるひとつの国である。これは、建前である」
老教授は、その建前を、流麗な言葉で語っていく。学生たちは、ノートを取りながら聞いている。当たり前のことを、当たり前のように、聞いている。
「江戸と吉野はそれぞれ都を称しているが、国家として統べるのは、あくまで――」
教授が地図を示した。関ヶ原の一点が、赤く丸で囲まれている。
「この不破の関を境に、東西は往来を許されている。建前の上では、自由である」
後ろの席で、誰かが小声で言った。
「不和の関、だろう」
くすくす、と笑いが広がった。教授は聞こえなかった顔で、咳払いをひとつした。西行は笑わなかった。笑うには、あまりに誰もが知っていることだったからである。
窓の外の空は、吉野の山に切り取られて、思いのほか狭かった。その空を、電線が幾本も斜めに渡っている。桜が一枝、窓の縁を揺らしている。
(あの二人は、何者なのだろう)
夜桜の下で、人の身では出せない速さで斬り合う娘たち。白い袖当てを嵌め、機械の唸りを響かせ、迷いなく刀を振るう。あんな技は、どの新聞にも載っていない。
(まあ、考えても仕方ない。忘れろって言われたんだし。……それより、待ちかねた花だ。山風さんよ、せめて三日は、お手柔らかに頼むよ)
そう自分に言い聞かせて、西行はノートに目を落とした。ペン先が、いつの間にか「紫」という字をなぞっていた。