恋しくば 尋ね来て見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉――
その寄席は、吉野の路地の奥にあった。
路地の板壁は、色刷りのちらしと墨書の貼り紙で幾重にも覆われ、風が吹くたびに端がぱたぱたと鳴っている。間口は狭いが、奥行きは深い。入り口の提灯に「娘義太夫」の文字が踊り、木戸の前には開演を待つ若者たちが黒山を作っている。書生、職工、小店の若旦那、軍人の見習い。年齢も身分もばらばらだが、みな同じ目をしていた。贔屓を追う者の目である。
大学の帰り、西行はその列の最後尾に並んでいた。
この寄席には、今いちばんの人気を集めている太夫が出る。他の太夫がみな素顔を晒して人気を取るなかで、この太夫だけは、狐の面をつけて語るのだった。
「毎度、この黒山だ。人がこうも群がって来るのは、いい太夫を抱えた罪ってやつだな」
西行がぼやくと、前に並んだ仲間が振り向いた。
「その黒山の一人が、何を言う」
返す言葉がなくて、西行は肩をすくめた。
客席は満員だった。天井の電灯が煙草の煙に滲んで暈をかぶり、その下に、羽織と洋服の背中がぎっしりと詰まっていた。西行は堂数連の仲間たちと並んで、最前列の少し後ろに陣取った。手拭いは、まだ腰に下げたままである。
隣で物知りの学友が、小声で囁く。
「西行、今日は目の下に隈があるぞ。昨夜、夜桜でも見て感傷にひたっていたのか?」
「……まあ、そんなところだ」
まさか斬り合いを見たとは言えない。
拍子木が鳴り、幕が開いた。
舞台の上手から、床本を載せた見台の前へ、ひとりの太夫が進み出る。白地に藤色の裃。髪は結い上げられ、そして顔には、白い狐の面。目元と口元だけが小さく切り抜かれて、そこに闇が覗いている。
客席が、ふっと静まった。
ぴん、と三味線が鳴る。張った糸の音に、太夫の声が重なった。
演目は「葛の葉」である。人間の男に恋をして、子を産み、しかし正体が狐であることを知られて、森へ帰っていく女の物語だ。
声は、低く澄んで、よく通った。
その声を聞いた瞬間、西行の背筋が、ぴんと伸びた。
(この声……)
聞き慣れた声のはずだった。何度もここで聞いた声である。それなのに、昨夜の「忘れろ」と同じ高さ、同じ温度で、耳の奥に響いたのである。
だが、すぐに西行はその声に身を預けた。語りが始まれば、考えるより先に、体が客になるのが堂数連である。
客席の熱が、じわじわと上がっていく。
誰も声を出さない。手拭いを握る手だけが、膝の上でそわそわと動く。
掛け声は、いつ入れてもいいものではない。
語りが山へ差しかかる。太夫が息を継ぐ。三味線が、その息に寄り添って、ほんの一瞬、音を細める。その一瞬に入れる。早ければ語りを潰す。遅ければ余韻を踏む。外せば野暮である。堂数連の掟は、結局のところ、この一点に尽きた。
西行は、その間を読むのが、仲間のうちで誰よりもうまかった。
語りが、子の寝顔を見つめる母の段に入る。
太夫の声が、一段低くなる。三味線が、ひそやかに揺れる。
(来る)
すう、と太夫が息を吸った。三味線が、糸ひと筋ぶん、音を落とす。
「どうす! どうす!」
西行の声が、ぴたりと間に嵌まった。続いて、客席のあちこちから拳が上がる。手拭いが回る。熱がぶわっと膨らんで、天井の梁を震わせた。
狐面の太夫は、動かない。ただ、続く声が、さっきより深く客席の底まで届いた。
「出た、西行の間だ」
学友が、嬉しそうに肘で脇腹をつつく。
「いい声だったな。今のは太夫も気持ちよかったろう」
「だといいが」
西行は照れ隠しに笑った。笑いながら、面の下の顔を思った。昨夜の無表情が、この声の持ち主の顔なのだろうか。
語りは進む。
夫に正体を知られた狐の妻が、眠る我が子を抱き、障子の前に座る。人の世に留まれぬ女の、静かな覚悟。太夫の声は、泣かない。泣かないことで、かえって客席の誰もが胸を締めつけられていた。
太夫が、見台の上の手を動かした。
袖が、わずかにずり落ちる。
その手首の少し上に、白い包帯が見えた。
西行の呼吸が止まった。
右腕を、庇っているのだ。見台に置く手の動きが、ごくわずかに硬い。袖の合わせ目にうっすらと染みた色は、昨夜、桜の花びらの上に落ちたのと同じ色だった。
(あの子だ)
間違いない。夜桜の下で、金髪の娘の刀を受けた、紫の髪の娘。目の前の狐面の太夫と、同じ人間だ。
その瞬間、語りは山場を迎えていた。
太夫が息を継ぐ。三味線が、音を細める。
西行の手拭いが、宙で止まった。
止まったのは、手だけだった。間は、体が覚えている。
「どうする、どうする、どうする……!」
最後のひと声が、ぴたりと嵌まった。ほんの少し、掠れていた。続いて、客席のあちこちから拳が上がる。
狐面は、揺れなかった。語りは、客席の熱の上を、一本の糸のようにまっすぐ渡っていった。
「おい、西行」
学友が、肘でつつく。
「今夜は、えらく冴えてるな。声が掠れてるぞ」
「……そうか」
気づいてしまったあとは、もう浄瑠璃どころではなかった。声だけが、勝手に仕事をしていた。
幕が降りたとき、西行の掌は汗で濡れていた。
「いつもなら、ここから大騒ぎなのに、どうした。もう帰るのか」
「ちょっと……用事を思い出した」
西行は立ち上がり、出口と反対の、楽屋のほうへ向かって歩き出した。
◇
寄席の裏手の細い廊下は、薄暗く、味噌と白粉と古い木の匂いがした。
自分でも、何をしているのか分からなかった。礼を言いたいのか、傷の具合を尋ねたいのか、それとも単に確かめたいのか。とにかく、聞かずにはいられなかったのである。
楽屋と書かれた暖簾の前で、西行は立ち止まった。
そのときだった。
「ふ、不審者でごじゃる!」
頭の上から、甲高い声が降ってきた。
見上げる間もなかった。何か小さなものが天井の梁から飛び降りてきて、西行の背中に乗り、ぎゅうっと首に腕を回して締め上げたのである。
「ぐえっ」
(これは暴行……いや、向こうから見れば、正当防衛か)
法律の頭が、こんな時にも回る。
「楽屋に忍び込もうとは、いい度胸だ! 成敗してやる!」
「ち、違う、誤解だ、苦し……」
西行は必死で首を捻じって、背中の相手を見た。
小柄な娘だった。西行の肩に届くかどうかという背丈で、頭には、顔と同じ幅ほどもある大きな赤いリボンが結ばれている。目は爛々と光り、鼻息は荒く、袖から出た細い腕は意外なほどの力で首を絞めている。
「新田、離せ」
暖簾の奥から、静かな声がした。
新田と呼ばれた娘は、むっとした顔のまま、ぱっと手を離した。西行は床に膝をつき、ごほごほと咳き込んだ。
暖簾が持ち上がる。
その下から、狐の面を外した娘が、裃の肩で暖簾を押し分けて現れた。
紫の長い髪。切れ長の目。結ばれた口。昨夜と同じ顔だった。ただ、舞台衣装の藤色の裃のままで、右の袖口から白い包帯がちらりと覗いている。
彼女は咳き込む西行を見下ろして、言った。
「見に来たのか」
「あ、いや、その……そのとおり、で」
西行はよろよろと立ち上がった。言いたいことはたくさんあるはずなのに、出てきたのは、またしても間の抜けた言葉だった。
「怪我は、大丈夫ですか。昨夜は、その、俺のせいで」
「そなたのせいではない」
彼女は短く答えた。
「ただ、一つだけ言っておく」
切れ長の目が、まっすぐに西行を見た。その眼差しは、冷たいというより、がらんどうだった。
「昨夜のこと、他言は無用。公言すれば、命はないぞ」
それは脅しというより、ただの事実の告知のように聞こえた。
西行の喉が、ごくりと鳴った。
「は、はい……あの、お名前は」
「正義」
彼女は答えた。
「楠、正義」
新田が横で口を尖らせている。
「いいのか、正義。名前まで教えて」
「構わぬ。この男、口が軽いようには見えぬ」
「悪党の仕事を見られたのだぞ。素人に嗅ぎ回られては困るでごじゃる。それに昨夜の手拭い踊りとやらも、聞くだに目に余る。あんなものを見て、全部忘れるなんて出来っこない」
「新田」
「……ごじゃる」
新田はしぶしぶ口をつぐんだ。
楠はしばらく西行を見ていたが、やがて踵を返して、暖簾の奥へ消えた。最後に聞こえたのは、白粉を落とす布の音だけだった。
西行は寄席を出た。
表はもう夕暮れで、通りの先で路面電車の鐘が鳴っていた。軒先に瓦斯灯が灯りはじめ、人力車の梶棒に提げた小さな提灯が、その下を赤く揺れながら流れていった。
(悪党……)
新田が口にした言葉が、頭の中に残っていた。
悪党。南朝に仇なす者を処刑する影の組織。そんな話は、書生仲間の噂話に聞いたことがある。ただの与太話だと思っていた。だが、あの白い袖当てと、機械の唸りと、命はないぞという声。
背筋がひやりとして、同時に、胸の奥がかすかに跳ねた。
(俺はいったい、何に首を突っ込んだんだ?)
◇
三日後の夕刻のことである。
西行は大学の帰り道、見知らぬ男たちに囲まれることもなく、馬車に押し込められることもなく、ただ、気づいたら二人の女に両脇を挟まれて歩いていた。
「やあやあ、いい夕暮れじゃねえか。傾いた気分にもなるってもんだ」
右側の女が言った。
背が高く、細身だった。黒に近い濃紺の髪が、跳ねるように短くまとめられ、長い前髪が顔の半分を覆い隠している。見えているほうの目は半ば閉じられ、口元には獲物を見つけた猫のような笑みが浮いていた。耳には、大きな雫形のイヤリングが揺れている。
黒い詰襟のような上着に、深紅の裏地が覗く。肩から掛けたマントには金の縁取りがあり、夕日にぎらぎらと光っていた。
佐々木と名乗った。
左側の女は、見覚えがあった。
褐色の肌に、金の髪。明るい青の上着に、水色の短い襞のスカート。そして、ほんの少し歩き方が硬い。脇腹を庇っているのだ。
「まったく、手間がかかるわ。逃げ回らないだけ、ましだけれど」
夜桜の娘だった。足利ルクレールという名は、あとで聞いた。
「あ、あなたは、あの夜の」
「そう。あなたが、わたしたちの決闘を台無しにした、堂数連の人」
ルクレールはにっこりと笑った。笑顔の奥に、全然笑っていない目があった。
「安心して。ここで斬ったりはしないから」
「ここで『は』、ですか」
「あら、察しがいいのね」
佐々木が、ははっ、と笑った。
「いいねえ、いいねえ。このあたしに連行されながら軽口を叩けるやつは、そうそういねえ。気に入ったぜ、書生。傾いてるじゃねえか」
西行は答えようがなくて、とりあえず頭を下げた。
夕暮れの通りを、三人は並んで歩いていく。二頭立ての馬車が蹄を高く鳴らして追い越し、新聞売りの少年が、束を小脇に人波をすり抜けていく。やがて辿り着いたのは、吉野の大使館街だった。
石畳の広い通りの両側に、洋館が建ち並んでいる。各国の国旗が風にはためき、鉄の門の向こうに、手入れの行き届いた庭園が見える。奥の車寄せでは、電灯がひと足先に白く点り、磨かれた石段に、暮れ残る空の色が映っている。通りをはさんで、イギリスとフランスの大使館が向かい合っていた。
西行たちは、フランス大使館の門をくぐった。
◇
応接室は、深い緑の壁紙に、金の額縁が並んでいた。
テーブルの上には、白磁のカップが置かれている。立ち上るのは、苦くて香ばしい匂いだった。コーヒーである。
その向こうで、フランスの大使が肘掛けに片肘を預け、湯気越しにこちらを眺めていた。
白髪まじりの、品のいい紳士だった。仕立ての良い黒の上着に、胸には赤い小さな勲章が光っている。ゆったりとカップを持ち上げ、一口飲んでから、流暢な日本語で言った。
「ようこそ、佐藤西行君。急にお呼び立てして失礼した。まあ、おかけなさい」
西行は椅子に浅く腰を下ろした。両脇に、佐々木とルクレールが立った。
「コーヒーはお好きかな。我が国では、朝も昼も夜も、これがないと始まらないのでね」
「は、はあ」
「紅茶ばかりの西とは、少々事情が違うのだよ」
大使は笑った。穏やかな笑顔だった。だが、その目は、西行の身の上を隅から隅まで品定めしているようだった。
「君は、大和帝国大学の法科で、将来を嘱望されているそうだね。素晴らしい。若く優秀な人材こそ、この国の宝だ」
「恐れ入ります」
「そして、鉄道の佐藤家の跡取りでもある」
西行の背筋が、少しだけ強張った。
「君のお父上が、大坂と吉野を結ぶ線を、実に見事に育てられたことは存じている。お祖父様の代に東から西へお移りになったこともね。お家の来歴は、君が思う以上によく知られているのだよ」
大使は、カップをソーサーに置いた。かち、と小さな音が鳴った。
「ところで、先日の夜のことだが」
西行の胸が、どくんと鳴った。
「吉野の夜桜の下で、娘たちの斬り合いを見物した書生がいたそうだ。君の身元は、すでに割れているのだよ。それに、君のご家族のことも」
佐々木が、ふっと息を吐いた。ルクレールの足が、かつ、と鳴った。
「脅すつもりはない。ただ事実を申し上げているだけだ」
大使はにこやかに続けた。
「見たものを、我々のために、少しだけ教えてくれればいい。それだけだ。南朝の影の組織について、君の知る限りのことを。そして、君が日々過ごす大学で、聞くことのできる話を。なに、悪いようにはしない。報酬も、君のお父上の事業へのご支援も、惜しまない」
つまり、スパイになれということだった。
西行は、膝の上で拳を握った。握りながら、それでも、頭のどこかでは醒めたことを考えていた。
(この人は、俺じゃなく、家の線路が欲しいんだな)
父の鉄道。日本人の手に残った、数少ない大きな動脈。異国の人間が、喉から手が出るほど欲しがっているもの。
返事に詰まっていると、ルクレールが、すっと前へ出た。
「大使、この子は、ただの追っかけよ」
西行は目を丸くした。
「叩いても出てくるのは、埃と手拭いくらいのものだわ。あまり脅かすと、怯えて何も話せなくなるでしょう。それに」
彼女は、ちらりと西行を見た。
「見物人には、見る目があった。この子の目は、嘘をつける目じゃない。急かさず、少し考えさせたほうが、実りがあると思うけれど」
応接室の空気が、緩んだ。
大使はしばらくルクレールを見ていたが、やがて、小さく頷いた。
「なるほど。君がそう言うなら」
佐々木が、ひゅう、と口笛を鳴らした。
「へえ。足利のお嬢が人をかばうなんざ、珍しいこともあるもんだ」
「うるさいわよ、佐々木」
大使は椅子の背にもたれた。
「よろしい。では、返事は、少し待とう。ただし長くは待てない。賢い君なら、分かるね」
「……はい」
西行は、立ち上がった。足が少し震えていた。
門を出て、夕闇の通りに立ったとき、後ろから声がかかった。
「ねぇ」
ルクレールだった。外へ出てきたのだ。夜風が、金の髪を揺らした。
「勘違いしないで。かばったわけじゃないわ」
「そう、ですか」
「でも」
彼女は、少しだけ視線を逸らした。
「あの晩の桜は、見事だったわね。ちょっと、おかしな掛け声つきで」
それだけ言って、彼女は門の中へ戻っていった。
夜風に袴の裾をあおられながら、西行はしばらく、ルクレールの消えた門の奥を見つめていた。
返事は保留のまま。フランスのスパイになるのか、ならないのか。南朝の悪党に命を狙われるのか、狙われないのか。何一つ分からないまま、彼は坂を下りて、下宿へ帰る道を歩いた。
通りの向かいのイギリス大使館の窓に、灯りがともった。紅茶の国と、コーヒーの国。その二つの灯りの間に挟まれて、書生がひとり、とぼとぼと歩いていく。
日常に戻れるのか。戻れるはずがない、と胸のどこかが言っていた――――。