鉄輪ぬ夢を馳せる   作:Rameso

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皇国史観の大逆

 その頃、吉野の街には妙な紙切れが回っていた。

 

 粗末な藁半紙に、活字を拾って刷っただけの小冊子である。学生の下宿の戸の隙間に挟まれ、喫茶店の卓の下に置き忘れられ、書生たちの懐から懐へと渡っていく。題名はまちまちだったが、書かれていることは、ほとんど同じだった。

 

 この国は、独立していない。

 

 英国と仏国の傀儡である。帝は二人いて、国は二つに裂かれ、鉄道も港も異国の手にある。我らは自らの国の主ではない。この屈辱を雪ぐには、日本が一つにならなければならない。そのためには、いかなる手段も辞さない――。

 

 西行も読んだ。講義の合間に、物知りの学友が、どこかで手に入れたものを見せてきたのである。

 

「どう思う、佐藤」

 

 学友の目が、いつになく熱い。

 

「御代替わりが近いってのに、世の中は浮つくばかりだ。次は北の番だぞ。そのくせ、誰も彼も、胸の底に何かを溜めている」

「だから、こういうものが回る、と」

「そうだ。で、どう思う」

「どうって。……法科の人間としては、内容より前に、届け出もないことが気になるな」

「そういうことを訊いたんじゃない」

 

 学友は不満げに言った。

 

 西行は、答えに困った。反論する言葉は出せる。こんな冊子の矛盾なら、いくらでも指摘できる。だが、火の元は冊子の理屈ではないのだ。この国の若者が、日ごと胸の奥に溜めている、言葉にならない屈辱のようなもの。冊子は、それに注がれる燃料にすぎない。

 

 特に、南朝の軍人の若者たち――青年将校と呼ばれる者たちの間で、この思想は火の手を広げているという。

 

 嫌な噂だった。

 

 西行は冊子をたたんで、懐にしまった。

 

 そして今日は、もうひとつ、胸にしまっているものがあった。

 

 スパイの返事である。そろそろ、フランス大使館へ持っていかなければならない。

 

 

◇

 

 

 大使館街の石畳は、午後の陽に白く光っていた。

 

 西行の足取りは重かった。断るつもりだった。断れば、家のことをどうされるか分からない。引き受ければ、悪党に狙われるだろう。結局、どちらを選んでも、碌なことにはならない。

 

(けど、断る。……断るしかない、と思う)

 

 自分を励ますように頷いたとき、通りの向こうから、かつ、かつ、と蹄の音が寄せてきた。

 

 黒塗りの、立派な馬車だった。磨き上げた車体が午後の陽を弾き、扉に描かれたイギリスの紋章が、きらりと瞬く。前後を固める日本人の警備兵は、騎馬の背をぴんと伸ばして進み、制服の肩章が眩しい。

 

 イギリス大使の馬車だった。

 

 西行は道の端に寄って、通り過ぎるのを待った。ちょうどイギリス大使館の門の前である。車輪の音がゆるみ、馬車が門をくぐろうと速度を落とす――そのときだった。

 

 通りの両側、建物の陰から、人影が一斉に躍り出る。

 

 七人。南朝の陸軍の制服に、白い鉢巻を締めた若者たち。抜き身の軍刀がぎらつき、拳銃の黒い銃口が覗く。先頭の背の高い男は目が血走り、いちばん後ろの小柄な者は、まだ頬に子供の丸みを残していた。

 

「大日本国のために!」

「売国奴の大使に、天誅を!」

 

 叫びながら、馬車へ殺到する。軍靴が路面を乱打する。

 

 警備兵たちの馬が、嘶いて棒立ちになった。ひとりが鞍から転げ落ち、ひとりは、同じ南朝の軍人に刃を向けることができず、手綱を握ったまま固まる。その一瞬の隙に、若者たちの輪が、馬車を囲んで閉じた。

 

 西行は、凍りついた。

 

 法科の頭が呟く。異国の貴人に刃が向けば、犯人の首と賠償が求められる。

 

(ここで大使に何かあったら、戦争になる)

 

 怒号、悲鳴、嘶き。渦巻く声の底で、軍刀の柄頭が扉を殴りつける。蝶番が、みしり、みしりと軋む。あと一打。あと一打で、扉が破られる――

 

 その瞬間、空から小さな影が落ちてきた。

 

「そこまでだ! 榛名号、いくでごじゃる!」

 

 風が裂ける、赤が翻る、空気が震える――ごっ。

 

 小さな拳が、先頭の将校の胸の真ん中へ、深々とめり込む。次の瞬間、背の高い体が、横ざまに吹き飛ぶ。

 

 新田だった。

 

 寄席で見た時と同じ、大きな赤いリボン。だが、袖から伸びる腕には、鈍い艶を帯びた茶褐色の機械の籠手がはまっていた。肩口にも、小さな白い当て板。その籠手が、蜂の羽音のような唸りを上げている。

 

「おのれ、悪党の犬めが!」

「犬で結構でごじゃる」

 

 言い捨てて、新田は懐へ潜り込む。

 

 腹に拳。どすっ。

 

 くの字に折れた体が崩れるより早く、別の将校の足を払う。軍靴が宙を泳ぐ。身を捻る、跳ね上がる、頭を蹴り抜く――がっ。白い鉢巻が、ほどけて舞う。襟首を掴み、担ぎ、投げる。どうと、地が鳴る。

 

 足取りは軽く、赤いリボンが弾む。その動きは、どこか楽しげですらあった。

 

 将校たちは、殺されこそしない。ただ、叩きつけられ、転がり、呻き声だけを残して、次々と動かなくなっていく。どの胸も、浅く上下していた。

 

 西行は道端の電柱の陰に身を縮め、指の隙間から、その嵐を見ていた。

 

(それにしても、過剰では)

 

 七人のうち、五人が地に伏した。残る二人が、必死の形相で、大使の馬車へ走る。

 

 その行く手に、紫の髪が揺れる。

 

 ひとりの娘である。腰を越えて流れる長い髪が、駆け寄る二人の起こした風に、ゆらりと波打つ。オリーブ色の和装に赤い袴。肩から腕にかけて嵌まった白い筒状の袖当てが、午後の光を冷たく返し、胸の横長の板が、一瞬だけ白く閃く。

 

 楠だった。

 

 いつからそこにいたのか。刀はすでに、抜かれていた。切っ先は、地を向いたまま、ぴくりとも動かない。

 

「退け!」

 

 叫びかけた先頭の男が、娘の腕を見て息を呑んだ。止めた足の下で、砂が、ざっ、と鳴る。

 

「その袖……楠の……! 退かぬ。大日本国のために、命を捨てた身だ!」

「そうか」

 

 楠は短く答えた。

 

 その表情には、何の色もなかった。

 

 倒れていた五人の将校のうち、意識の残っていた若者が、石畳に爪を立て、声を絞り出した。

 

「大日本国……万歳!」

 

 それに、もう一人が続いた。

 

「大日本国、万歳!」

 

 残る二人も、軍刀を握りしめたまま叫んだ。

 

「万歳!」

「万歳!」

 

 声が重なり、うねって、通りの石に跳ね返る。

 

 西行は、目を逸らした。逸らした視界の端で、白い刃が一度だけ、光った。

 

 ひゅん。

 

 ぷつり、と万歳が絶えた。

 

 それから、静寂が来た。

 

 吹き抜ける風の音と、馬の荒い息と、遠くの路面電車の鐘。それだけが、石畳の通りに残った。

 

 楠が刀を拭い、鞘に納める。その手つきは、台所で包丁を拭うのと変わらなかった。

 

 イギリス大使の馬車の扉が、内側から開かれた。

 

 降りてきたのは、背の高い、赤毛まじりの白髪の紳士だった。上等な山高帽を片手に持ち、石畳に並ぶものを一度ぐるりと見渡し、鼻を鳴らした。

 

「ふむ」

 

 続いて降りた随員が、大使に身を寄せ、英語で囁いた。静まり返った通りでは、小声でも西行の耳まで届いた。

 

「Four seven two E held the line, sir.」

「Adequate. Barely.」

 

 西行は、その意味を聞き取った。四、七、二、E。あの娘のことを、数字で呼んでいるらしい。

 

 ふと視線を上げると、通りの向かいのフランス大使館の二階の窓が、薄く開いていた。白髪まじりの紳士が窓枠に片手を添え、もう片方の手のカップから、細い湯気をくゆらせている。見下ろす顔は、一度見たことのあるものを、もう一度眺めているような顔だった。

 

 警備兵の隊長が、真っ青な顔で駆け寄る。

 

「閣下、ご無事で何よりであります! この不始末は、必ずや……」

「なってない」

 

 大使は言った。流暢な日本語だった。

 

「まったくもって、なってない。これが貴国の警備か。主権国家を名乗るのであれば、自国の兵ぐらい、きちんと統率してほしいものだ」

 

 隊長の顔が、ぐっと強張った。

 

 大使は、次に楠へ視線を向けた。倒れた若者たちと白い袖当ての娘を、順番に見る。

 

「君たちのような者がいなければ、私は今ごろ死んでいただろう。有り難いことだ。だが、それも本来ならば不要であるはずだった。貴国の兵が、同国人の暴徒を始末できずに、娘に手を汚させるとは」

 

 彼は手袋を整えながら、淡々と続けた。

 

「実に、なってない」

 

 その声は、倒れた若者にも、立ち尽くす警備兵にも、楠にも、まんべんなく突き刺さった。

 

 西行は、拳を握った。

 

 楠は大使の前で、深く頭を下げた。

 

「申し訳ありません」

 

 抑揚のない声だった。

 

「我らの不手際、お詫びいたします」

 

 顔は上げなかった。表情は見えなかった。

 

 西行は、胸の奥がぎゅうっと痛くなった。

 

 殺し、殺したあとに、詫びる。それが、どうしようもなく悲しかった。

 

 ふと顔を上げた楠と、目が合った。

 

 距離は十間ほどあった。電柱の陰に隠れていたはずなのに、彼女はまっすぐに西行を見ていた。

 

 切れ長の目が、わずかに揺れたように見えた。

 

 その横で、新田が気づいた。

 

「あっ、あの時の不審者でごじゃる!」

 

 西行は、弾かれたように踵を返した。

 

 大使館へ行くつもりだったことなど、完全に吹き飛んでいた。ただ、足が勝手に走り出していた。通りを駆け、坂を下り、路面電車を横目に、下宿の階段を転げるように上がる。部屋に入って戸を閉め、畳の上にへたり込んだ。

 

 息が上がっていた。

 

 掌が、汗でびっしょりだった。

 

「……あの人は、笑わないんだな」

 

 誰にともなく呟いた。

 

 窓の外、吉野の空は、どこまでも青く、どこまでも狭かった。

 

 

◇

 

 

 その夜、吉野の一室で、ひとりの男が号外を握りしめていた。

 

 痩せていて、頬がこけている。壁際に、書物の山が積まれていた。机の上には、書きかけの原稿がある。

 

 明徳秋水といった。

 

 若い将校たちの思想的な源流とされる人物である。大学に席はない。ただ、書く。書いたものが冊子になって、街へ出ていく。

 

 号外には、見出しが踊っていた。

 

『イギリス大使襲撃、青年将校七名、処断さる』

 

 秋水は、しばらくその文字を睨んでいた。

 

 七人の名が、並んでいた。どの名も、知らない。会ったことも、ない。ただ、記事の端に、彼らの懐から出てきたという紙の文句が、引かれていた。この国は、独立していない――。秋水が書いた文句だった。

 

「……馬鹿者どもが」

 

 絞り出すように、彼は言った。

 

「顔も知らん者が、ワシの言葉を勝手に背負って、走りおって。大使を殺せなどと、ワシは一行も書いておらん。書いたものを、そのまま鵜呑みにしおって」

 

 拳が、机を叩いた。

 

 外から、夜警の拍子木の音が聞こえる。

 

「イギリスの大使を殺しても、傀儡の首はすげ替わるだけだ」

 

 彼は立ち上がり、窓の障子を開けた。

 

「この国を縛る根は、もっと深いところにある」

 

 静かな声だった。

 

「根源を正さねばならん」

 

 夜風が、机の上の紙をめくった。

 

「この国が見て見ぬふりをしとるものを――誰も言わんのなら、ワシが書く」

 

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