からから、からから、と車輪が鳴る。
夜の吉野の大通りを、人力車が一台、全速力で駆けていく。幌の隙間から、白い襟足と、結い上げた髪の端が覗いた。贔屓の太夫である。
その後ろを、袴の書生が十数人、ばらばらと追っていた。
手拭いを振る。振りながら走る。下駄が石畳を叩く。からん、ころん、からん、ころん。連なる瓦斯灯が、手拭いを一本ずつ橙に染めては、後ろへ送っていく。
「次の寄席は、どこです!」
「どうす! どうす!」
西行も、その中にいた。腰の手拭いが、風を切ってはためく。隣を走る仲間が、息を切らしながら叫んだ。
「西行、次の寄席は路地二つ向こうだ! 先回りすれば木戸が間に合う!」
「近道は任せろ!」
西行は袴の裾をたくし上げ、路地へ飛び込んだ。人力車より先に着かなくては、木戸の前の列に並べない。堂数連の夜は、一軒では終わらない。寄席から寄席へ、はしごをする。贔屓の太夫が高座に上がる限り、どこまででも追う。
息が上がる。心臓が鳴る。夜風が、汗ばんだ首筋に気持ちいい。
(ああ、生きてるな)
そう思う。これ以上、何を欲しがる必要があるのだろう。
◇
木戸銭を払い、下足札を受け取って、中へ入る。
座布団の敷き詰められた客席に、火鉢がぽつぽつと置かれている。煙草の煙と、人いきれ。洋服の勤め人の胸では、懐中時計の金鎖が、赤い火を映してちらちらと光る。見台には肩衣をつけた太夫が座り、その横で三味線が、ぺん、ぺん、と調子を整えていた。
太夫が、語りの山へ差しかかる。「さわり」である。客席が、わっと沸いた。
「どうす! どうす!」
西行の声が、また間に嵌まる。仲間たちが続く。拳が上がる。手拭いが回る
太夫が素顔のまま、ふっと口の端をゆるめた。
それだけで、拳にぐっと力が入る。
これだけの熱を、新聞は「風紀紊乱」と書く。学校は睨む。教授たちは眉をひそめ、下宿の主人は戸締まりを早める。それでも、やめる者はいない。書生たちは、手拭いを握りしめて、やはり木戸の前に並ぶのだ。
幕間に隣の仲間が、ぽつりと言った。
「今夜は、あいつ、来なかったな」
「あいつ?」
「お前の隣にいつもいた、物知りだよ」
「……ああ」
西行は、空いている座布団を見た。そこには、ほかの誰かが尻を据えている。
学友は今夜、来なかった。
ここのところ、ずっとだ。誘えば「今夜はやめておく」と返ってくる。理由を訊くと、決まって目を逸らす。
「読んでるんだ、あの冊子を。いや、もう冊子じゃない。写して、書き込みまでして」
「そうか」
「あいつは、前から言っていた。この国は息が詰まる、と。出口がどこにもない、と」
仲間は手拭いをいじりながら、続けた。
「太夫のために声を上げるのと、何が違うんだろうな。あいつも、声を上げたいんだろう」
西行は、すぐには答えられなかった。
違う、と思う。思うが、どこが違うのかを、はっきり言葉にできない。
太夫のために上げる声は、太夫に向かって上がる。腹の底から出て、空に消える。それで終わりである。
けれど、あの冊子に預けた声は、どこへ行くのだろう。自分の声のはずなのに、いつの間にか、書いた誰かの声になっている。
若者の熱が、二つに分かれていく。
西行は、それをただ見ている。見ているだけだ。
(何か、変だぞ)
胸の奥で、小さな声がした。
手拭いを回して囃している場合なのか。そんな問いが浮かんで、すぐに打ち消した。囃すのが、自分のやり方だ。それでも、一度浮かんだ問いは、座布団の下の火鉢の熱みたいに、じんわりと尻に残った。
「次の寄席に間に合わなくなるぞ」
仲間に肩を叩かれて、西行は立ち上がった。
◇
翌日の大学の中庭には、風に乗って、紙の乾いた音がしていた。
桜の下のベンチに、学生が五、六人、頭を寄せ合っている。真ん中の一人が、何かを小声で読み上げていた。
「いいなあ。秋水先生は、書くものが違う」
「誰も言わんことを書く」
読む声は低く、聞く者の顔はみな紅潮している。風が、頁をひらひらとめくった。黒い学生服の金釦が桜の木漏れ日にきらめき、塀の向こうでは、荷馬車の車輪が石畳を重く鳴らして遠ざかる。
西行は、その後ろを通り過ぎた。
名前だけは、聞いたことがある。明徳秋水。大学には席のない、在野の人だという。
(かぶれているのが、増えたな)
横目で見るが、足は止めなかった。今日は夜、また別の寄席で、贔屓の太夫が高座に上がるのである。講義が終われば、すぐに走らなければならない。
学生たちの輪の端に、見覚えのある背中があった。
物知りの学友である。
頁を覗き込み、真剣な顔で頷いている。西行に気づいた様子はなかった。
声をかけようとして、やめた。かけたところで、何を言えばいいのか、分からなかった。
その背中が、ほんの少し、遠く見えた。
◇
その夜の寄席には、昼から客が詰めかけていた。
狐面の太夫が出る晩である。木戸の前は黒山で、下足札の番号は、あっという間に三桁に達した。路地の口の向こうを、窓という窓に灯をともした路面電車が、明るい箱のようにゆっくりと過ぎていく。
西行は、仲間たちとともに、いつもの場所に座った。最前列の少し後ろ。座布団の下に火鉢の熱がじんわりと伝わってくる。
中入りの間、客席のあちこちで、書生や将校の卵たちが声を落として話している。
高座の前は、いつもこうだ。熱と噂が、煙草の煙と一緒に天井へ昇っていく。
「聞いたか、秋水のこと」
「京にいるらしい」
「京? 吉野じゃなかったのか」
「いや、京だ。この間、見たやつがいる」
「誰が」
「誰がって……みんな、そう言ってる」
西行の耳が、勝手にそちらを向いた。
どこからともなく湧いた声が、客席の端から端へ、ひそひそと広がっていく。誰が見たのか、誰も知らない。
(何か変だぞ。何か変だぞ)
西行の背中を、ひやりとしたものが撫でた。冊子の写しを抱えた学友の背中。京にいるという、誰も見ていない男。世の中全体が、同じ方向へ静かに傾いている。
ふと、客席の後ろの隅で赤いものが動いた。
大きなリボンである。小柄な娘が、座布団に膝を抱えて座り、噂する書生たちのほうへ首を傾けていた。耳を澄ましているのだ。目は、舞台のほうを見てもいない。
(新田だ)
西行は、慌てて目を伏せた。
拍子木が鳴る。幕が上がる。
見台の前に、狐面の太夫が進み出た。
白地に藤色の裃。白い面。三味線が、ぴん、と張った音を鳴らす。
客席が静まる。噂話が、すうっと消える。
太夫は、見台の上に手を置いた。袖の下の右腕を、西行は知っている。そこに、あの夜の傷があることを。
「本朝廿四孝――奥庭狐火」
演目が告げられた。
許嫁の勝頼が、危ういと知った姫の物語である。
八重垣姫。凍った諏訪の湖は、舟では渡れない。岸の向こうの勝頼のもとへ、どうしても行けない。姫は、諏訪明神の兜に祈る。ただ、一心に祈る。
太夫の声が、姫になる。
震えた声が、祈りの言葉を紡いでいく。叫ぶのではない。抑えた声の底に、火が灯っている。三味線が、それを追う。
やがて、兜に白狐の力が宿る。
姫の足が、氷を蹴った。
語りが、駆け出す。
凍った湖の上を、姫が駆ける。何かを追って、何かに追いつこうとして、ただ駆ける。
客席の熱が、みるみる膨らんでいく。
山が、来る。
太夫が息を継ぐ。三味線が、糸ひと筋ぶん、音を細める。
堂数連の手が、いっせいに上がりかけた。西行の隣の仲間が、肩に力を込める。
西行の手拭いも、膝の上で握られている。
間は、ここだ。この一瞬だ。誰よりもうまく、読めている。
それなのに、西行は息を吸わなかった。
声が、喉まで来て、止まった。
客席のあちこちから、掛け声が上がる。「どうす!」「どうす!」。熱い声。まぶしい声。いつもなら、その先頭にいるのは、自分だった。
太夫の面が、ほんの少し、こちらを向いたように思えた。
間が、わずかに長くなる。
西行は、手拭いをさらに強く握りしめた。
囃している場合じゃない、と思った。何かが変なのだ。何が変なのかは、まだ言葉にならない。ただ、いつもの調子で叫べば、この人の声の邪魔になる気がした。叫ばないことでしか、渡せないものが、あるように思った。
(見ています)
言葉にならない言葉を、胸の中で繰り返す。
(あの夜の傷も、大使館の前で下げた頭も、見ています。見ていますから)
面の黒い穴は、何も答えない。
語りは、また走り出した。
狐火が、ひとつ、ふたつ、湖の上に灯る。姫は駆ける。駆けて、駆けて、駆ける。
幕が降りたとき、西行の掌には、手拭いの跡が赤く残っていた。
「おい、西行」
仲間が、不思議そうに覗き込む。
「今夜は、一度も声を出さなかったな」
「……ああ」
「体調でも悪いのか」
「いや」
西行は、小さく首を振った。
「いい高座だった」
それだけ言って、立ち上がった。
客席の隅の赤いリボンは、もう、そこになかった。
◇
寄席の楽屋に、行灯が一つ。
狐の面が、鏡台の前に置かれている。その傍らで、楠が襟を直していた。無表情である。
「秋水が、京にいると」
新田が、鼻をふんふん鳴らしながら入ってきた。
「客席の端から端まで、その話だった。どこで誰が見たのかは、誰も言えない」
「噂ですわ」
戸口に腕を組んで立つ北畠が、冷ややかに言った。白い襟付きのブラウスにえび茶の袴。大学帰りの女子学生そのものである。
「大学でも、同じ話を聞きました。出どころを探ったけれど、辿れなかったの。糸の端が、どこにもありませんのよ」
「誰かが流したのではないのか」
「わたくしも、そう思いました。けれど、そういう匂いがしないの。誰も流していないのに、みなが口にする。まるで……」
「まるで?」
「空気のようなものよ」
北畠は、扇子で膝を叩いた。苛立ちが、小さな音になって漏れた。
楠は、黙って聞いている。
「京へ下る」
抑揚のない声だった。
「噂であろうと、動かねばならぬ。世の不安を鎮めよとの勅命だ。火元と見られる男が京にいるというなら、行く」
「新田も行くでごじゃる!」
「わたくしは、吉野に残りますわ」
北畠が、ぴしゃりと言った。
「菊池は」
「九州よ。来られるはずがないでしょう」
新田が、ぱん、と手を打った。
「じゃあ、新田と正義だ。佐藤家の私鉄なら、大坂までずっと一本だ!」
「そう。吉野から京へ、下る」
楠は、面を手に取った。
白い狐が鏡の中から、こちらを見る。
顔に当てることはしなかった。
鏡の中には、表情のない娘の顔が、ただ映っている。
窓の外で、遠く、汽笛が鳴った。
それが、吉野から京へ下る夜汽車の音なのか、それともただの風の音なのか。楽屋にいる誰にも分からなかった。