高は縁側に腰かけて、足をぶらぶらさせていた。
小柄なので、床に足が届かない。届かないことを、本人は少しも気にしていない。いや、少しは気にしているが、気にしても背は伸びないので、ぶらぶらさせることにしている。
庭は手入れが追いつかず、苔が石を呑みかけていた。
北の御所である。
両統迭立をやっている以上、京都には、北朝の要人が入れる場所が、いくつかある。ここはその一つだ。吉野の山から戻ってきて、高たちはまた、この古い建物の軋む床を踏んでいる。
(寂れたなあ、京都)
築地塀の向こうから、物売りの声が、間延びして聞こえた。往来は、ある。人も歩いている。けれど、千年の都というには、どこかがらんとしていた。みんな吉野に引き抜かれてしまったんだ、と誰かが言っていた。
それでも北朝の者は、この京都を「本当の首都」と呼ぶ。
江戸は仮の宿で、帝のおわすべき場所はここだ、と。高も、そう習って育った。習ったとおりに、そう思ってもいる。思ってはいるが、実感はない。千年の都は、教科書の中の言葉だった。
(江戸はなあ、また水が出たって)
その江戸の台所を握る新潟の港には、フランスの旗が立っている。
頼るしかないのだ。高は知っている。北の海峡の向こうには、ロシアがいる。冬でも凍らぬ港を手に入れた国が、すぐそこに見えている。年寄りは、「北はもう日本ではない」とこぼす。こぼしながら、フランスの大使には頭を下げる。フランスと手を切れば、あの海峡を止めるものが、何もなくなるから。
(悔しいけど、さ)
悔しい。それは確かだ。ただ、悔しがっても米は戻らないし、水も引かない。
それに比べて、南は。
山の奥の吉野で、一日中汽車に守られて、外が見えていない。北が海峡の向こうの国を毎日睨んでいることを、あの山の人々は、肌で知らない。「北はフランスに尻尾を振っている」と平気で言う。
(尻尾を振りたくて振ってるんじゃないんだよなあ)
拗ねたように思って、高は足を止めた。ぶらぶらは、考え事の邪魔になる。
足音がした。軋む床を、迷いなく踏む音。
「高、ここにいたの」
ルクレールだった。
明るい青の上着に、水色の短い襞のスカート。金の髪が、薄暗い廊下の奥で、そこだけ陽が差しているようだった。
高は、反射的に背筋を伸ばした。
「は、はいっ」
「そんなに固まらなくていいわ。いとこでしょう」
「いとこでも、格が違いますから」
本音である。ルクレールは足利の名を背負って、ヴァルミー号を駆る。同じ血でも、自分とは立っている場所の高さが違う、と高は思っている。ルクレールの背中を見ていると、いつも少しだけ、首が疲れる。
「山名が呼んでいたわよ。式典の段取りだって」
「はーい」
廊下の向こうから、佐々木の笑い声がした。何がおかしいのか、高には分からない。あの人は、いつもそうだ。何を考えているのか、さっぱり読めない。
ヴァルミー号、ジャン・バール号、ヴォルテール号、ミラボー号。四つの機体と、四人の乗り手。それが、この北の御所に揃っている。
(わたしだけ、一番ひよっこだ)
ヴォルテール。皮肉と風刺で、権威を笑った思想家の名。そんな名を背負わされて、自分は何も笑えないまま、ここにいる。
高は、ふう、と息を吐いた。庭の苔が、風にそよいだ。
◇
京都は、ざわついていた。
高は付き添いとして、足利たちと御所の外へ出ることが多い。そのたびに肌で分かる。町の空気が、ぴりぴりと粟立っている。
辻の角ごとに、巡査が腰のサーベルに手を添えて、往来へ目を光らせている。以前より数が多い。夜の見回りも増えたというが、そのわりに酔った男の喧嘩が絶えない。商家の戸は早く閉まる。誰もが、何かを待っているような顔をしている。
(何を待ってるんだろう)
政治が安定していない。御代が替わる前は、いつもこうだと年寄りは言う。南から北へ。もうじき、そういう時だ。そういう時に限って、世の中は足元から揺らぐ。
揺らぐのは、不安のせいだけではない。北では、御代が移ると聞いて、ほっと息をついている者のほうが多い。貧しい土地に、ようやく順番が回ってくる。少しは、水も引くだろう。米も回ってくるだろう。そういう期待が、江戸からの便りの端々にもにじんでいた。南の人たちは反対に、青い顔をしているという。同じ空の下で、みんな別々のほうを見ている。
京の公家たちも、おとなしくしてはいなかった。
「公家の方々、近ごろ何をしているんですか」
「さあな」
山名が、肩をすくめた。
「公家の方々は、いろいろと忙しいようだけえ」
お国の言葉が、ぽろりと出たらしい。
京の公家は、吉野には協力的でなかった。北にも、そう親切というわけではない。何やら蠢いている。それだけは分かる。何をしているのかは分からない。
(きな臭いんだよなあ)
高の鼻が、勝手にそう言った。
その晩、御所の庭で、見回りの青年兵たちが焚き火を囲んでいた。
北朝の兵である。高よりも年上の、若い男たち。その輪の端を、高は通りかかった。
「秋水のことだが」
誰かが、ぽつりと言った。
「京にいるらしい」
「本当か」
「分からん。みなが言っている」
高は、足を止めかけて、止めなかった。気づかないふりで、庭の端を歩く。
秋水。
名前だけは、聞いたことがあった。吉野の思想家で、日本は一つにならねばならぬと書く人だという。だが、その言葉は、関を越えて東へは来ていない。江戸では、誰も読んでいない。高も、読んだことがなかった。
その名を噂として聞いたのは、この京都が初めてだった。
「ひとつの国、か」
焚き火の向こうで、若い兵が言った。
「南の者は、いつもそう言う。北は、そうは言わん。言えんのだ」
「言えんでも、思う者はいる」
「……俺は、思わんでもない」
小さな声だった。誰も、咎めなかった。
別の兵が、焚き火の薪をつついた。火の粉が、ぱっと舞った。
誰かが、口の中で呟いた。
「君死にたまふことなかれ……」
焚き火が、ぱちりと鳴った。
誰も、それ以上は何も言わなかった。
高は、庭の端を歩き続けた。耳に、その句だけが残った。北にも、思うところのある者はいる。それだけは、はっきりと分かった。
◇
その日の昼、楠と新田は吉野から京都へ下った。
大坂までは、佐藤家の私鉄である。
車窓の景色が、緑の山から平らな野へ、ゆっくりと変わっていく。座席の端では、楠が背筋を伸ばし、汽車の揺れにも、紫の髪ひと筋さえ乱さない。向かいでは、新田が窓に額を押しつけている。
「四條畷だ!」
新田が、窓の外を指さした。
「ここだ。楠の若様が、高師直を退けた野だ!」
向かいの席で、楠は黙って窓の外を見ていた。
広い野である。田が、きれいに並んでいる。昔ここで戦があったことなど、野の様子からは少しも分からない。
「……ああ」
楠は、小さく頷いた。
「この線路は、その野を、通っている」
「汽車は、すごいな。昔のことなんて、一瞬で過ぎてしまう」
新田は、窓から離れず、鼻歌のようなものを口ずさんだ。
楠は膝の上で、静かに手を組んでいた。
汽車は、淀みなく走る。
京都の駅に降りた二人は、市中へ散った。
◇
高はその二人を、遠くから見ていた。
付き添いとして、足利たちと一緒に外へ出た帰りだった。往来の端で、人混みに紛れていると、目立つ赤いリボンが目に入った。
新田だ。吉野でルクレールと斬り合った相手の、悪党の仲間だ。
その隣に、紫の長い髪の娘がいる。
(あれが、楠の)
ルクレールが、決着をつけ損ねたと言っていた相手だ。切れ長の目に、無表情な顔。悪党の処刑人。
二人は茶店の主人に、何かを問うていた。
「秋水を、見なかったか。痩せた男だ」
「秋水? 知らんなあ。ここんとこ、そういう話は、よう聞くけどなあ」
「誰が見た」
「誰って……みんな、そう言うてはるで」
新田が、地団太を踏んだ。
「どこにもいないでごじゃる!」
次の店でも、同じことが繰り返された。見たという者は、いない。けれど、いると言う者は、いくらでもいる。
打ち消せば打ち消すほど、噂は膨らんだ。「悪党が来たのは、本当にいるからだ」と、誰かが囁いた。
(……ああ、これは)
高は、物陰で息を呑んだ。
斬っても、斬っても、どこにも刃が届かない。そういう相手と、あの二人は戦っているのだ。
紫の髪の娘が、ふと立ち止まった。
往来の向こうを、じっと見ている。そこには誰もいない。ただ、噂だけが、風のように流れていく。
娘の横顔は、やはり少しも動かなかった。
けれど、高には肩の線が、少しだけ落ちて見えた。
(面が割れていないって、こういうことか)
向こうは、こちらを知らない。こちらだけが、見ている。
居心地が悪くなって、高は、そっと人混みの中へ下がった。
◇
式典の日は、よく晴れていた。
英国と仏国が、礼を交わす。それだけの式典である。英国の随員が礼を述べ、仏国の随員が礼を返す。両国の大使は、顔を見せない。
それなのに。
(なんで随員のくせに、あんなに偉そうなんだろう)
高は列の端から、ぼんやりと眺めた。
英国の随員も仏国の随員も、背を反らして顎を上げている。この国の帝より偉そうな顔をしていた。誰も咎めない。咎められないのだ。
式場の正面には、御簾が下りていた。
その向こうに、北の宮様がおられる。
格の高い方である。座しておられる気配だけで、場の空気がしんと締まる。御簾の内の姿は、見えない。高が見えるのは、そこに控える侍従たちの、ぴんと張った背中だけだ。
足利の一行は北朝の者として、そこにいた。フランスの付き添いではない。ルクレールの背筋は、まっすぐに伸びていた。
列の端には、京の公家たちが並んでいる。誰も、足利の一行に目を合わせようとしない。何やら、袖の中で手を組んでいる。
山名は、フランスの随員のそばで、腰をかがめていた。ぺこぺこと頭を下げる姿が、何とも情けない。
(ああいうの、見たくないんだよなあ)
礼が、一巡する。二巡目に入る。
退屈なはずだった。ところが、高の首筋はずっと粟立っていた。
列のあちこちで、咳払いが妙に多い。御簾の房が、風もないのに、わずかに揺れる。
(何かが、来る)
ルクレールの肩が、ほんの少し上がった。佐々木は、あくびの形に口を開けたまま、目だけを動かさない。山名が、しきりに汗を拭っている。
いやな静けさだった。足元で、四つの機体が息を殺しているのが、高には分かる。
礼が、三巡目に入ろうとした。
そのときだった。
高の目の端で、何かが動いた。
列の中ほどにいた男が、一歩、前へ出ていた。
顔は、ごく普通の顔だった。役人のような、勤め人のような。名も知らない、誰でもない顔。それが、目だけを妙に光らせている。
男の手が、懐へ入った。
(え)
高の頭が、真っ白になった。
男は、御簾に向かって駆けていた。
誰かが叫んだ。侍従たちが、動く。間に合わない。
その瞬間、金の髪が高の視界を横切った。
ルクレールだった。
赤い刀が、鞘から走る。踏み込みの音が、石畳を叩いた。足元から、蜂の群れのような低い唸りが立ち上る。ヴァルミー。
男の腕が、弾かれた。何かが、宙を舞って、遠くへ落ちた。
その横を、黒い影が駆け抜ける。マントの縁の金が、陽に光った。佐々木が、ふわりと御簾の前に降りる。ジャン・バールの低い音が、地面の底で鳴った。
「あたしらの目の前で、傾いたことをするねえ」
笑っている。笑っているのに、声は、ひどく静かだった。
高の足は、もう動いていた。
考えるより先に、体が前へ出ていた。膝の下から、唸りが這い上がる。ヴォルテール。男の背後に、回り込む。
男は、振り返った。
その目は、高を見ていなかった。何も見ていなかった。
空っぽの目だった。
(この人は)
憎しみが、あるようには見えなかった。恨みが、あるようにも見えなかった。ただ、何かに呑まれて、押し流されて、そこに立っている。
高は男の肩を掴んで、地面へ押し倒した。
手が、震えていた。
遅れて、山名のミラボーが、どすどすと走ってきた。
「だ、大丈夫か、みんな!」
「遅いわよ」
ルクレールが、涼しい顔で刀を納めた。
御簾の向こうは、静かだった。侍従たちが、慌てて前に出て、御簾の前に壁を作った。
場が、騒然としていた。
男が、引き立てられていく。その背中を見ながら、高は肩で息をしていた。
(誰も、死ななかった)
血の一滴も、流れていない。侍従たちは「ご無事でございます」と、口々に言い交わしている。それなのに、場の誰もが、何かが始まってしまったという顔をしていた。
列の端で、仏国の随員が四つの機体をじっと眺めていた。品定めするような、冷たい目だった。
英国の随員は、何事もなかったような顔で、帽子の位置を直していた。
◇
夕暮れの御所の縁側に、ルクレールがいた。
庭の苔が、橙色に染まっている。式典の騒ぎは、嘘のように静まり返っていた。
高は、そっと隣に腰かけた。
「お疲れさまでした。……あの、わたし、あんまり役に立たなくて」
「何を言うの。最後に押さえたのは、あなたでしょう」
「あれは、体が勝手に」
「それでいいのよ」
ルクレールは、少し笑った。それから、庭を見たまま、口を開いた。
「高。あなたにだけ、話しておくわ」
「え」
「あなたは、わたしのいとこだから」
高は、背筋を伸ばした。
「江戸のことよ」
ルクレールの声は、静かだった。
「吉野の夜は、水の匂いがしないのね。整いすぎているのよ、あの町は。江戸は、水の匂いがするわ。川が溢れるたびに、町が膝まで浸かる。堤を築いても築いても追いつかなくて、泥の中で、人は黙って畳を上げる。それでも、わたしたちの都よ」
「……うん」
「江戸が水に沈むたびに、わたしは思うの。フランスに頼らなければ、新潟の港ひとつ動かせない。それを、江戸の者は誰も口にしない」
高は、黙って聞いた。
「わたしの名はね、高。足利ルクレール・シャルロットというの」
「知ってますよ」
「足利と呼ぶ人は少ない。大概は、ルクレールと呼ぶ。ルクレールの名が、いつの間にか先に立つのよ。名の真ん中に、縫い付けられたみたいに」
ルクレールは自分の金の髪を、指でつまんだ。
「北朝がどれほどフランスに頼っているか。それをひと目で伝える飾りとして、わたしほど具合のいいものはないわ。わたしも、それを分かっていて立っている」
「そんな」
「事実よ」
さらりと言う。その横顔に、迷いはなかった。
「でも、飾りにされたままで終わる気はないの。……フランスの思惑と、北朝の思惑は、違うのよ、高。同じ方向を向いているように見えて、見ている先が違う。そのことを、あなたは忘れないで」
「はい」
高は、ごくりと唾を飲んだ。
夕風が、庭の苔をそよがせた。
「あの佐藤家のこと、覚えている?」
「あの書生の、ですか」
「そう。あの堂数連の書生。……あの子の家は、日本人の手に残った、数少ない大きな私鉄よ。大坂と吉野を結ぶ、西の動脈」
「はい」
「大使は、あの線路が欲しいの。フランスの旗が、新潟から吉野の山の中まで届くわ。英国の手に落ちれば、今度は英国の旗で、同じことが起きる。どちらの旗も、江戸の者には気持ちのいい図ではないわね」
ルクレールは、少しだけ息を吐いた。
「あの子が誰の手に落ちるかで、線路の行き先が決まる。勢力図の話よ」
「……はあ」
「江戸のために、わたしは動く。それだけ。……あなたも、そうでしょう」
「はい」
答えた声が、思ったよりしっかりしていた。
ルクレールは、満足そうに頷いた。
その横顔が、夕陽の中で、いつもより少しだけ遠く見えた。
◇
翌朝、北の宮様は江戸へお帰りになった。
行列は早朝の京都の町を、静かに出ていった。護衛に付くのは、山名だけである。フランスの随員たちと一緒に、宮様を送り返す。
高は御所の門の前で、それを見送った。
ルクレールと佐々木と高は、西に残る。
「じゃあ、行ってくるけえ……行ってまいります」
山名が、頭を下げた。やはり、ぺこぺこしている。
「気をつけてくださいよ、山名さん」
「うん。あんたこそ、ね」
山名は、苦笑いのようなものを浮かべて、行列の後ろに回った。
行列が見えなくなったあとも、高はしばらく門の前で爪先立ちになり、土埃の消えていく道の先を目で追っていた。
隣に、佐々木が立った。
片目を隠した長い前髪が、朝風に揺れている。
「なあ、お嬢ちゃん」
「は、はい」
佐々木は、行列の去った道を見ていた。
「朝飯は、食ったかい」
「え、はい」
「そりゃ結構。腹が減っちゃあ、傾けねえからな」
哄笑。