吉野の山は、花が散って若葉の色になっていた。
京都で空振りをした二人が戻ったのは、その日の午後だった。汽車を降りた新田は、不貞腐れた顔でホームの石を蹴った。
「どこにもいなかった。ほんとに、どこにも、いなかったでごじゃる」
「そうだな」
楠は、短く答えた。
改札の外で、宮の使いの者が待っていた。二人の姿を見ると、無言で頭を下げ、手で山の上を示した。
帝のおわす宮へ、ということである。
二人は顔を見合わせた。
京都へ下ったのは、勅命の務めの内だった。それが済まぬうちに、迎えが来た。
山の上の宮は、薄暗かった。
護摩の煙が、天井の梁に溜まっている。香の匂いが喉の奥にこびりつく。広い座敷の奥に御簾が下り、その向こうに人の気配がある。
帝である。
顔は見えない。声も聞こえない。ただ、御簾がごくわずかに動いた。
二人は畳に額をつけた。
侍従が進み出て、巻物を広げた。
「勅である」
乾いた声だった。
「京の式典の件につき、明徳秋水を捕らえ、大審院に引け」
それだけだった。
新田の肩が、ぴくりと跳ねた。
侍従が巻物を閉じる。
護摩の煙が、ゆらりと揺れた。
楠は、顔を上げなかった。
「謹んで、お受けいたします」
新田がおずおずと顔を上げ、楠の横顔を見た。何か言いかけて、口を噤む。
大使館の前で頭を下げたときと同じ、抑揚のない声だった。
◇
夕暮れの吉野の裏通りを、二人は黙って歩いた。
新田は下駄を鳴らしながら、何度も口を開きかけては閉じた。
「……正義」
「何だ」
「秋水は、京にいなかった」
「ああ」
「でも、捕まえるのか」
「勅だ」
新田は唇を尖らせ、足元の小石を蹴った。小石は石畳を転がって、溝に落ちた。
古い家並みの奥に、灯りのついた窓が一つあった。
戸口の前で、二人は足を止めた。
「ここだ」
「大逆の黒幕だ」
新田の声が小さくなった。さっきまでの不貞腐れた顔が、引き締まっている。拳に、籠手の唸りが宿る。
楠の手が、刀の柄にかかった。
夜が近づいている。路地の奥で、犬が一声鳴いた。
青年将校たちを大使襲撃へ駆り立てた男。南朝の帝の暗殺を企てると噂される男。世の不安を煽り、国を二つに割る火種を撒いたことになっている男。
そういう男がいる。そういう男を、斬らねばならない。
新田が足音を殺し、裏手へ回る。
楠は、戸に手をかけた。ぎい、と木が鳴った。
部屋の中に、灯りが一つ。
壁際に書物の山。机の上には紙が散らばり、墨の匂いが濃い。
灯りの輪の中に、男の丸めた背が、机へ覆いかぶさるように浮かんでいた。
痩せた背中。筆の音が、かりかりと静かな部屋に響いている。
刀を抜く。
それなのに、男は振り向かなかった。
筆がひとしきり紙の上を走り、やがて止まる。
男は、ゆっくりと顔を上げた。
「来たか」
頬のこけた顔だった。目だけが妙に澄んでいる。
部屋には、ほかに誰もいない。刀も銃も見当たらない。企ての図面も、同志の名簿もない。
あるのは書物と墨と、書きかけの紙だけだ。
戸口の外から新田が顔を出した。拳を構えたまま、きょとんとしている。
「……一人、か」
「見てのとおりじゃ」
男は、肩をすくめた。
「ワシは吉野から出ておらん。京へ行ったという噂は、聞いておるが」
「秋水」
楠が言った。
「勅である。大審院へ引く」
「ほう。理由は」
「京の式典で、北の宮が狙われた」
「ワシは、そのとき、ここで書いておった。……そうか。そういう理由か」
男は、苦く笑った。
「逃げも隠れもせんき。縄をかけるがいい」
楠は、刀を下げたまま、動かなかった。
探していた黒幕が、これなのか。
机と筆と書物の山。大逆を企てる男の部屋とは思えなかった。
それでも、勅は勅である。
楠は縄を取り出した。手つきは丁寧で、きつくも、ゆるくもない。秋水は抗わなかった。両手を揃えて、静かに差し出した。
縄が、その腕に回る。
秋水が、楠の顔をまっすぐに見た。
「娘。お前が、悪党の処刑人か」
「……そうだ」
「若いのう」
秋水は、ふっと目を細めた。
「ひとつ、言っておく」
縄の端を、楠が握る。
「成った成らぬは論ずるな。残るのは意気だけだ」
楠の手が、止まった。
「……意味が、分からぬ」
「今は、それでいい」
秋水は、微笑んだ。
「いつか分かる日が来るかもしれん。来んかもしれん。それでも、覚えておけ」
外から、夜警の拍子木が聞こえた。
新田が頭を掻いて呟いた。
「何を言ってるのか、新田にもさっぱりでごじゃる」
「そうか」
楠は、縄を引いた。
秋水は素直に立ち上がった。書きかけの紙を、名残惜しそうに一瞥する。
戸口を出るとき、秋水はふと立ち止まり、夜空を見上げた。
縄を引く手に、重さがなかった。
斬るべき相手は、どこにいたのだろう。
京都にはいなかった。この部屋にも、いなかった。
夜の吉野を、縄で結ばれた男と二人の娘が、静かに歩いていく。
◇
その知らせは数日のうちに、京都の北の御所へも届いた。
高は縁側で、足をぶらぶらさせていた。
(秋水が、捕まった)
南の帝の勅令によるものだという。京都で、北の宮様が狙われたから。
宮様はご無事だった。誰も死ななかった。血の一滴も流れなかった。
それなのに、そこから事が動いている。
(……おかしいなあ)
高は、首をひねった。
秋水は、京にいなかった。噂だけがあった。式典で宮様を狙った男は、名も知らない誰かだった。あの空っぽの目を、高は忘れていない。
誰も悪くない。そういう気がする。
それなのに、罰される人はいる。
噂に聞く秋水の言い分は、こうらしい。この国は独立していない。英国と仏国の傀儡である、と。
(そんなこと、とうに知ってるよ)
読んだわけでもない文句に、反射的に出た感想だった。
江戸で育った者は、毎日それを見ている。川が溢れるたびに。港に旗が立つたびに。海峡の向こうを睨むたびに。怒る前に、諦めていた。怒っても米は戻らないから。
南の人たちは、いまさらそれに気づいて怒っている。山の奥で汽車に守られていた人たちが、ようやく外の風に当たって震えている。
(遅いよ。でも、それを言ったのが南の人だったことに、ちょっと、胸がざわざわする)
悔しさに言葉を与えたのが、自分たちではなかった。
足音がした。
「高」
ルクレールだった。その後ろでは、佐々木が壁に肩を預け、片目を隠す前髪の下から、こちらを眺めている。
「聞いたわね」
「はい。……秋水が、捕まったって」
「大審院で裁かれるわ。戸を閉めたまま済ませる裁きになるだろうと、もっぱらの噂よ」
ルクレールの声は、静かだった。
「裁きとは名ばかりのものよ。そんなものを、見過ごしていいはずがない」
「でも、北朝は、捕縛には手を出さないって」
「ええ。捕まえるのは、南の務めよ。わたしたちは、手を出さない」
ルクレールは、庭を見た。
「でも、裁判は別。……大審院へ乗り込むわ」
高は、目を見開いた。
「え、ええっ」
「決めたの」
きっぱりとした声だった。
「あなたは、どうする?」
「わ、わたしは」
言葉に詰まった。足が、ぶらぶらするのを止めた。
壁際で、佐々木が片目を細めた。
「さて」
ぽつりと言った。
「今夜の飯は、何かねえ」
誰に向けた言葉なのか、高には分からなかった。
京都の空は、いつもと同じ色で、暮れていく。
焚き火の夜に聞いた一句が、なぜか耳の底でまた鳴った。
君死にたまふことなかれ――。