鉄輪ぬ夢を馳せる   作:Rameso

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命短し恋せよ乙女

 秋水先生がいなくなったという話を、西行は講義の合間の廊下で聞いた。

 

「声を落とせ」

 

 学友は西行の袖を引き、柱の陰へ連れ込んだ。ここ数日、目の下に隈ができている。

 

「先生が、いなくなった」

「いなくなった?」

「家に行った者がいる。戸は開いていた。机の上に書きかけの紙があって、墨が乾いていたそうだ。本人だけがいない」

「旅にでも出たんじゃ」

「先生が、書きかけを置いて旅に出るものか」

 

 学友は周囲を見回した。廊下を行き交う学生たちは、いつもと同じ顔をしている。講義の話。下宿の飯の話。誰も何も知らない。

 

「悪党に引かれたらしい」

「悪党」

 

 新田の声が、耳の奥で鳴った。不審者でごじゃる。

 

「噂だ。誰が見たわけでもない。だが、引かれたと言う者が、何人もいる」

「新聞は」

「一行も出ていない。出るわけがない。悪党は、表には出ないからな」

 

 学友は、拳を握った。

 

「裁判にかけられるのだろうか。それとも、もう」

 

 そこで言葉を切った。

 

 騒ぎにはなっていなかった。大学は、いつもの大学だった。ただ、秋水の論説の写しを持つ学生たちが、あちこちの柱の陰で頭を寄せ合っている。

 

「先生がいなくなった」

「悪党に引かれたらしい」

 

 同じ囁きが、あちこちで小さく、途切れることなく続いていた。

 

 西行は、何も言えなかった。言えるほど、秋水のことを知らなかった。ただ、京にいるという噂だった男が、本当は吉野にいて、今、本当にいなくなった。その順序が、気持ち悪かった。

 

 

◇

 

 

 その日の午後、西行は二度目にフランス大使館の門をくぐった。

 

 最初の訪問から、ずいぶん日が経っている。返事は保留のままだった。スパイになるのか、ならないのか。考えれば考えるほど、答えは一つしかなかった。断ると決めてきた。何晩も、下宿の壁に向かって稽古した。

 

 深い緑の壁紙。金の額縁。白磁のカップから立ち上る、コーヒーの苦い匂い。応接室には大使がいた。今日は佐々木の姿はなく、ルクレールがひとり、壁際で腕を組み、金の髪に窓の光を受けていた。

 

「さて、佐藤君。返事を聞こうか」

 

 大使は穏やかだ。カップを持つ手つきも、前と同じである。

 

 西行は、すうっと息を吸った。

 

「お断りします」

 

 言った。言えた。

 

 膝が、がくがくと笑う。

 

「理由を聞かせてもらえるかな」

「俺は、見たものを人に売れるほど器用じゃありません。それに」

 

 少し迷って、続ける。

 

「うちの線は、父のものです。俺が勝手に差し出せば、権限外の処分になる。筋が通りません」

 

 法科の学生の断り文句としては、いささか色気がない。

 

 大使はしばらく黙っていた。それから、ふっと笑った。含みのある穏やかな笑いだった。

 

「好きにしたまえ」

 

 引き留められることも、脅されることもなかった。拍子抜けするほど、あっさりと終わった。

 

 その笑いの意味は、西行には分からなかった。

 

(線路、か)

 

 この人にとって、自分は線路なのだ。西行は、改めて思った。

 

 給仕が新しいカップを置く。黒い液体から、苦い湯気が上がる。

 

 断ったのだから、飲まずに帰ってもいい。だが、出された物に口をつけないのは礼を欠く。西行はひと口すすって、顔をしかめた。

 

「にがっ」

「おや。紅茶党かね」

 

 壁際で、ルクレールがぷっと吹き出した。

 

 大使館を出ると、日は傾いていた。

 

 腰に手拭い、袴姿。ふらふらと坂を下る。自分で選んだ答えに、まだ膝が追いつかない。

 

(断ってしまった)

 

 胸のどこかが、すかすかと軽い。この先に何が待つのか、さっぱり分からない。分からないが、不思議と後悔はなかった。

 

 門を出て少し行ったところで、後ろから声がかかった。

 

「ねえ」

 

 ルクレールだった。夕風が、金の髪を揺らしている。

 

「断ったのね」

「はい。断りました」

「そう」

 

 彼女は、くすりと笑った。

 

「ちょうどいいわ。少し付き合いなさい」

「どこへ」

「あなた、南の人でしょう。南がどういうものか、その目で見てみなさい」

「え、いや、俺は今、断ったばかりで」

「間者になれとは言っていないわ。見物よ。あなた、見物は得意でしょう」

 

 西行は、断る言葉を探した。探しているうちに、ルクレールが歩き出した。

 

 足は、いつの間にかその後ろを歩いていた。

 

 秋水先生がいなくなったという話が、まだ頭の隅に引っかかっている。何か変だぞ、という声がする。それに、見物と言われて、見ずに帰れる書生ではなかった。

 

(駒になるのを断った日に、連れて行かれるのか)

 

 法科の頭が、どこかで冷静に呟いた。それは、断ったことになるのだろうか。連れて行かれる、というのも、正確ではない。付いて行っているのは、自分の足だった。

 

 

◇

 

 

 芳野大審院は、石造りの大きな建物だった。

 

 門は閉ざされ、番人の姿もない。通りを行く誰もが、今日ここで何があるのかを知らないらしい。ルクレールは正門を避けて、裏の細い路地へ入っていった。

 

 高い塀の陰に、佐々木が待っていた。

 

「遅いぜ、お嬢。……おや、そいつは」

「見物人よ」

「へえ、堂数連の。傾いてるねえ」

 

 佐々木は、にやりと笑った。

 

「今日、これから、ここで裁きがあるって噂だ。戸は閉めたままでな」

「閉めたまま、ですか」

「ああ。客を入れる気は、ねえらしい」

 

 塀の上へ、二人は軽々と跳んだ。西行は佐々木に襟首を掴まれ、荷物のように引き上げられた。屋根へ、庇へ。そして高い窓の外の、細い縁。そこに三人で並んで張りついた。

 

 窓は、換気に少しだけ開いていた。下から声が漏れてくる。

 

 大法廷が、見えた。

 

 傍聴席は、がらんどうだった。段をなして並ぶ長椅子に、人の影ひとつない。戸は閉ざされ、石の壁に咳払いが一つ響くだけの、広い空間である。

 

 その奥に、一段高く判事席。その前に被告人席。脇に書記の机が一つ。

 

 判事席の脇、壁際の薄暗がりに、人影が二つ、柱のように身じろぎもせず控えていた。

 

 ひとりは、紫の長い髪。

 

 西行の心臓が、跳ねた。

 

 もうひとりは、白い襟付きのブラウスにえび茶の袴。腰まで届く黒髪を半分だけ結い上げ、背筋をぴんと張った娘だった。

 

(……北畠さん?)

 

 大学で自分をいちばん嫌っているあのお嬢様が、なぜここに。紫の髪の娘と並んで立つ姿は、悪党のそれだった。彼女もまた、悪党だったのだ。

 

 被告人席には、秋水がいた。縄はない。頬のこけた顔に、目だけが澄んでいる。

 

 裁判長が書類を読み上げていた。早口だった。

 

「被告人、明徳秋水は――」

 

 秋水が、立ち上がった。

 

「ワシが書いたのは」

 

 廷吏がすぐに肩に手を置いた。座れ、という手つきだった。秋水は座らされた。

 

 裁判長は顔も上げない。書記の筆が、さらさらと走る。

 

「証拠は十分である。証人調べは不要」

 

 それだけだった。

 

 一分も、かかっていない。

 

 西行は窓の縁で息を呑んだ。

 

(これは、裁判じゃない)

 

 裁判長の手つきは、悪意というより、決まった段取りをなぞるものだった。誰も、悪い顔をしていない。それが、かえって背中に寒かった。

 

「以上。判決は、本日、言い渡す」

「見たでしょう」

 

 ルクレールが、小声で言った。

 

「これが、あなたの国の、裁きの形よ」

「俺に見せて、どうしろと」

「どうも。見せたかっただけ」

 

 ルクレールは、さらりと言った。

 

 その横で、佐々木が、窓枠に手をかけた。

 

「客席がからっぽじゃ、芝居が締まらねえ。堂数連の一人くらいは、入れてやろうや」

「え」

 

 襟首が、掴まれた。

 

「ちょっと待っ――」

 

 窓が、がしゃあん、と砕け散った。

 

 傾いた日を弾いて、硝子の破片がきらきらと降りしきる。天地がぐるりと返り、西行の体は窓の内側へ放り込まれ、空っぽの傍聴席の長椅子に、背を、肩を、膝を打ちつけながら、ごろごろと転がった。

 

 ようやく止まって顔を上げると、割れた窓枠の上から、逆光を背負ったふたつの影が、こちらを見下ろしていた。

 

 ひとりは、黒い詰襟のような上着に、深紅の裏地を翻した長身の娘。濃紺の髪が風になびき、前髪の下で、片目だけがぎらぎらと光っている。

 

「よう、ご来場の皆さん! 傾き者の一座が、お通りだ! ……と言っても、客は一人かい」

 

 佐々木だった。

 

 その隣で、金髪の娘が、ひらりと床に降り立つ。褐色の肌に、明るい青の上着。水色の短い襞のスカートが一拍遅れて落ち着き、抜き放たれた赤い柄の刀が、夕陽を舐めて光る。

 

「こんにちは、裁判長。立派な劇場ね。ただ、芝居の筋書きが、あまりに粗末だわ」

 

 ルクレールだった。

 

「な、何者だ!」

 

 裁判長が叫ぶ。判事たちが腰を浮かし、書記が机の下に潜り込む。

 

「北朝の、さ。とだけ言っておくぜ」

 

 佐々木は、窓枠を蹴る。詰襟の裾が、ばさりと広がる。

 

 どん、と着地。足元から低い唸りが立ち上り、石の床に、ぴしり、と亀裂が走る。

 

「ええい、やはり来ましたわね!」

 

 北畠が、壁際から一歩、踏み出す。半分だけ結い上げた黒髪が、肩で跳ねる。

 

「処刑人の領分に土足で踏み込むなど、無礼千万ですわ!」

「無礼で結構。傾き者だからな」

「お待ちなさい! 比叡号、推して参りますわよ!」

 

 北畠が、床を蹴る。

 

 黒髪が尾を引き、えび茶の袴が翻り、籠手が唸りを上げる。一直線に、佐々木へ。

 

 迎える佐々木は、笑っている。真っ向から、それを受ける――がつん。

 

 衝撃が石の床を這い、判事席の木の柵が、ばきり、と折れる。書類が、白く宙に散る。

 

 もうひとつの組は、法廷の反対側で、静かに向かい合う。

 

 金の髪の娘と、紫の髪の娘。窓から斜めに差す光が、赤い柄の刀と白い袖当てを、くっきりと染め分ける。

 

 楠の刀は、とうに鞘を離れていた。

 

「また、あなたね」

 

 ルクレールは笑った。

 

「桜の下のときは、邪魔が入ったわね。今日こそ、決着をつけましょうか、楠の」

「秋水は、渡さぬ」

「渡してもらう必要はないわ。ただ、ここで斬り合えば、戸の内側の裁きが丸見えになるでしょう。それでいいのよ」

 

 楠は何も答えなかった。代わりに、刀が閃く。

 

 かあん。

 

 赤い柄の刀が迎えて鳴り、鋼と鋼が、噛み合ったまま軋む。紫が沈めば、金が跳ぶ。金が薙げば、紫がいなす。白い袖当てが刃を滑らせ、赤いレッグカバーが懐へ跳ね上がる。きん、きん。散った火花が、斜めの光の筋に、粉になって舞う。

 

 石の壁に跳ね返った鉄の音が、法廷じゅうに満ちる。判事たちは壇の陰に身を伏せ、廷吏は壁に張りつき、書記は机の下で頭を抱えている。

 

 誰ももう、秋水の肩を押さえていなかった。

 

 秋水は、被告人席の柵に手を置いたまま、飛び交う刃の閃きに、こけた頬を白く染めている。

 

 西行は、長椅子の背もたれを掴んで、床から身を起こした。

 

 見渡す。

 

 段をなして続く、空の席。誰もいない客席の、いちばん前の列に、書生がたった一人。

 

 目の前で、鋭い音が絶え間なく弾ける。あの紫の髪の娘が、無表情のまま、秋水を背にして、刀を振るっている。

 

(俺に、何ができる)

 

 武力はない。権力もない。法廷に割って入る資格もない。何もできない、書生の身だ。

 

 その言葉を頭の中で繰り返したとき、不意に、胸の奥から何かが込み上げてきた。

 

 誰も、彼女に「ありがとう」と言わなかった。

 

(囃している場合じゃない。何かが変なんだ。ずっと、そう思っていた)

 

 それでも、ここには、客が自分しかいない。

 

 芸には客がいる。客がいるなら、声をかけねばならない。黙って見ているのは、演者に対する無礼である。それが、堂数連の掟であった。

 

 西行は、手拭いを腰から抜く。

 

 長椅子の背に、片足をかける。深く息を吸い込む。

 

「何もできない俺だけど」

 

 その声は、空っぽの客席に、驚くほどよく響いた。

 

「囃すことなら、できる!」

 

 一瞬の静寂があった。

 

 それから、西行は全身で叫んだ。

 

「どうす! どうす!」

 

 手拭いが風を切る。腕を振る。足を踏み鳴らす。腰を落として、体を揺らす。堂数連の魂のすべてを込めて、書生は誰もいない大法廷の傍聴席で、一人きり、踊り狂った。

 

 かん、かん、と鳴りつづけていた音が、ひとつ、またひとつ、間遠になる。

 

 誰もが、振り向いていた。

 

 壇の陰から顔を出した判事は、口を開けた。廷吏は、壁に張りついたまま、目だけをこちらへ向けた。書記の筆が、床に落ちた。

 

「ええい、煩いですわね!」

 

 北畠が、金切り声を上げた。

 

「そこの貴方! 邪魔ですわ! 黙りなさい! 気が散って、仕方ありませんわ!」

 

 佐々木と組み合っていた彼女が、黒髪を振り乱し、顔だけを西行へ向けて怒鳴ったのである。

 

 その一瞬の隙を、佐々木は見逃さなかった。

 

「余所見は禁物だぜ!」

 

 ずん、と重い一撃が、北畠の脇腹に入る。息が、ひゅっ、と詰まる。よろめく足が、空を踏む。それでも、怒りで真っ赤になった顔を上げ、西行を睨みつけた。

 

「全部、貴方のせいですわ……っ」

 

 そう言い残して、膝が折れる。えび茶の袴が石の床にぱっと広がり、そのまま崩れ落ちた。

 

 意識を失っていた。

 

「あー……」

 

 佐々木が、少しだけ困った顔をした。

 

「別に、そこまで打ったつもりは、なかったんだがなあ」

 

 法廷に、空白が生まれた。

 

 北畠が倒れた。あの唸りは、もう聞こえない。佐々木は、その脇を抜け、もうひとつの組へ加わる。楠の前に、赤い柄の刀と、黒い詰襟が並ぶ。二対一である。

 

 楠は、ルクレールの刃を袖当てで滑らせ、佐々木の突きを半身で外す。一歩下がる。また一歩。足が、じり、じりと床を擦る。下がるほどに、背は、被告人席の秋水へ近づいていく。

 

 息が荒くなっている。袖当ての白い光が、わずかに揺れる。耳の奥で、さっきの掛け声が、問いのように鳴る。どうする、どうする、どうする……。

 

 ルクレールが、にやりと笑った。

 

「あらあら。ずいぶん、旗色が悪くなったわね」

「悪いな。ここまで来ちまったら、お前さんの首、もらうしかねえかもなあ」

 

 佐々木も、楽しげに言った。

 

 楠は答えなかった。ただ、静かに刀を構え直した。切っ先が、二つの影のあいだの一点で、ぴたりと止まる。

 

 西行は、手拭いを握りしめたまま、動けずにいた。

 

 自分が踊ったせいで、北畠が倒れた。その結果が、これだった。

 

(俺は、何をしてるんだ)

 

 法廷は荒れ果てていた。割れた窓、折れた柵、散らばる書類。壇の陰で縮こまる判事たち。北朝の二人と、追い詰められる一人の悪党。

 

 そして、口を押さえるものを失って立ち尽くす、大逆の罪を負わされた男。

 

 どうする、どうする、どうする……!

 

 

 さぁ、どうする!

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