法廷は、奇妙な静けさに包まれていた。
誰も動かなかった。揃って一つの方向を見ていた。空っぽの傍聴席の最前列。長椅子の背に片足をかけ、手拭いを握ったまま肩で息をしている、ひとりの書生である。
全員の顔に、同じ言葉が書いてあった。
――この男は、何をしているのだ。
まず、楠の眉がぴくりと動いた。
無表情に慣れた者だけが気づく、ほんの一分の動きだった。刃を構えたまま、書生をじっと見ている。そこに浮かぶのは、困惑か、苛立ちか。いずれにせよ、好意的な何かではなかった。
ルクレールは、にやにやと笑っていた。刀の切っ先を下げ、片手を腰に当て、芝居見物の客のような顔をしている。
「ほんとに、飽きない人ねえ」
「ははっ、こいつぁ傑作だ」
佐々木は、すでに肩を震わせていた。前髪の下の片目が、涙のにじむほど細められている。
西行は、息を弾ませ、その視線を一身に浴びていた。
囃したら、場が止まった。止まったはいいが、止めたあとのことは、何ひとつ考えていなかった。
体が、息を吸った。
そして、叫んだ。
「好いた! 惚れた! 首ったけ!」
法廷の天井に、声が反響した。
言った本人が、いちばん驚いていた。
寄席の高座に向けて、贔屓の太夫にかける囃し文句である。追っかけ連なら、ごく当たり前に張り上げる声だ。
一拍の沈黙があった。
それから、楠が、ゆっくりと首を傾げた。
「……私に、言っているのか」
「い、いや、これは、その、つい」
「この場で、か」
「はい、いえ、その」
「刀を向け合っている、この場で」
「……はい」
「状況を、考えろ」
真顔だった。叱っているのでも、照れているのでもない。心底、順序が違う、という顔だった。
「はい。仰るとおりです」
佐々木が、腹を抱えてのけぞった。
「だっはっは! こいつぁいい! 大笑いだ! ここに来てよかったぜ!」
ルクレールまでもが、肩を揺らして笑い出す。
「あはは、可哀想に。通じてないわよ、あなた」
西行は、顔から火が出そうだった。それでも、止められなかった。ここで止めたら、ただの愚か者で終わる。どうせ愚か者なら、最後まで愚か者を貫くしかない。
その声を、凄まじい怒声がかき消した。
「貴様ら! 貴様ら、何を笑っておる!」
秋水だった。
被告人席の柵に身を乗り出していた。もう、誰もその肩を押さえていない。封じられていた口が、初めて、誰にも止められずに開いていた。
「ようやっと口がきけるようになったかと思えば、聞こえてきたのは、色恋の掛け声か! ワシの命が懸かっとる場で! 惚れた腫れただの……これだから今の若者は!」
血走った目は、空の傍聴席に立つ、ただ一人の書生に注がれていた。
「お前らみたいな若いもんが、こんな体たらくだから、この国は隷属下にあって、民族自立もできんのだ!」
その言葉は、法廷の石の壁に叩きつけられ、重く響いた。
誰も、笑わなかった。
笑っていた佐々木の口元が、ふと固まった。ルクレールは笑いを引っ込めて、目を伏せた。
楠も、黙っていた。
西行は、唇を噛んだ。
反論の言葉は、出てこなかった。法科の頭でも、この叫びにはすぐに答えられなかった。
けれど、彼はもう一度、手拭いを握り直す。
秋水を見る。
そして腰を落とし、腕を大きく振る。
どうする、どうする、どうする……!
「貴様、まだやるか!」
「やります! やりますとも!」
西行は、踊りながら叫んだ。
「俺は! 何もできない書生です! 武力もない! 偉い人でもない! 国を背負う覚悟もない!」
「ならば黙っておれ!」
手拭いが風を切る。足が床を踏み鳴らす。声はかすれていた。それでも、止まらなかった。
「どうであろうと、日本は日本だ!」
その言葉が、法廷の隅々まで届いた。
「英国が後ろにいようと、仏国が後ろにいようと、南北に分かれていようと、日本は日本だ! 世界がどうだろうと、俺たちが、自分たちで考えて生きていくしかないんだ! 誰かに任せて、誰かのせいにして、誰かを倒せば全部よくなるなんて、そんな話じゃない!」
秋水の喉が、ひくりと鳴った。柵を掴んだ指の節が白く浮き、ひと呼吸ぶん、こけた頬の下で口だけが空を噛む。それから、絞り出すように叫んだ。
「それが体たらくだと言うのだ!」
「体たらくで結構です! 体たらくでも、俺たちはここにいる! ここで考える! ここで生きていく!」
彼は、全身で叫んだ。
叫びながら、踊った。
どうする。この国を、どうする。自分たちは、どうする。言葉にならない問いが、掛け声の底に溶けていた。
そのとき。
「……フッ」
小さな音がした。
最初、西行はそれが何の音か分からなかった。空気が抜けるような、短い息。
それは、笑いだった。
紫の娘の、唇の端が、ほんの少しだけ持ち上がっていた。
楠が、笑ったのである。
生まれて初めて、というほどのかすかな笑みだった。けれど、確かに笑っていた。切れ長の目が、少しだけ細くなっていた。
ルクレールが、目を見開いた。佐々木も、手を止めた。
「……楠の?」
西行は、手拭いを握ったまま固まった。
(囃してる場合じゃない、と思ったのに)
思ったのに、囃してみたら、意外となんとかなってしまった。何がなんとかなったのか、自分でもよく分からない。分からないが、確かに、場の空気がさっきまでと違っていた。
楠は、刀を下ろした。
背後の被告人席の秋水を、ちらりと振り返る。それから前を向き直った。
「ルクレール」
「なによ」
「秋水を、連れていけ」
法廷が凍りついた。
「何を言う!」
叫んだのは、秋水だった。
「貴様、何を勝手な……!」
ルクレールが、眉をひそめた。
「は? いらないわよ、そんなの」
「この茶番の中で、首を落とされるよりは、ましであろう」
楠は、淡々と言った。
「そなたたちが乗り込んできたのだ。ここに置いていけば、この男は消える」
「押し付けないでくれる?」
「承知の上だ」
「……ふうん」
ルクレールは、疑わしげに目を細めた。
「楠ともあろう者が、勅命の囚人を、北朝に差し出すなんて。あとで、ひどい目に遭うわよ」
「……ああ」
「……まあ、置いていくわけにもいかないわね」
ルクレールは、ふっと肩をすくめた。
「佐々木」
「おうよ。あたしが預かるさ」
佐々木が、秋水の腕を取った。廷吏が慌てて動こうとしたが、佐々木の一睨みで、その場に固まった。
「放さんか! ワシは頼んどらん! こんな、こんな奴らに、いいように……!」
秋水が暴れる。佐々木はにやりと笑って、その体をひょいと肩に担ぎ上げた。
「まあまあ、先生。話は後で、ゆっくり聞いてやるよ。飯くらいは食わせてやる」
窓枠に足をかけ、振り返る。
「面白えもんを見せてもらった。じゃあな、堂数連の。次はもっと派手に傾いてくれよ」
「じゃあね、佐藤西行君」
ルクレールも、ひらりと続いた。去り際に、一度だけ楠を見る。
「あなたの笑った顔、初めて見たわ。悪くないわね」
それが、最後だった。
割れた窓の向こうに、二人の影と、担がれた男の姿が消えていった。
◇
あとには、荒れ果てた法廷と、倒れた北畠と、立ち尽くす楠。
廷吏がようやく動き出した。扉へ走り、外へ向かって何か叫んでいる。
やがて、憲兵が駆け込んできた。
数人が、倒れている北畠をそっと抱き起こす。隊長らしい男が、楠の前に進み出た。おそるおそる、といった足取りだった。
「お、お前……いや、貴殿は……」
楠は刀を鞘に納め、手を挙げた。
投降の仕草だった。
「帝の前に、連れていくがいい」
静かな声だった。
「秋水を渡したのは、私だ。罰するのなら、帝の御前で裁かれよう。私を裁けるのは、帝だけのはずだ」
隊長は、ぱくぱくと口を動かした。
楠は、一度だけ傍聴席を振り返った。
西行と、目が合った。
何かを言うかと思った。しかし彼女は、何も言わなかった。ただ、その目の奥にあった遠いものが、ほんの少しだけ近くにあるように見えた。
それから憲兵に囲まれて、法廷を出ていった。
その背中を見送って、西行はようやく気がついた。
自分も、数人の憲兵に取り囲まれていた。
「そこの、手拭いを持った青年」
「は、はい」
「傍聴席には、誰も入れておらぬはずだ。どうやって入った」
「窓から、放り込まれました」
憲兵たちは、顔を見合わせた。
「隊まで、同道願おう」
「……でしょうね」
西行は、手拭いを握りしめたまま、がっくりと肩を落とした。
◇
憲兵隊の取調室は、冷たくて狭かった。
机の向こうの憲兵将校は、分厚い書類を積み上げ、険しい顔で西行を見下ろしていた。
「佐藤西行。大和帝国大学法科。実家は、大坂と吉野を結ぶ私鉄の経営者」
「はい」
「先ほど、フランス大使館に出入りしている。何をしに行った」
「間者にならないかという誘いを、お断りしに行きました」
「それで、北朝の者に連れられて、大審院へ」
「連れられたというか、付いて行ったというか。見物をしないかと言われて」
将校は、天を仰いだ。
「見物」
「はい」
「大逆の裁判をか」
「そうとは、知らなくて。いえ、薄々は」
西行は、頭を抱えたくなった。こちらの動きは、すべて割れている。
「では、次。法廷にて、『好いた、惚れた、首ったけ』と叫びたる件。これは、何だ」
「寄席で、贔屓の太夫にかける囃し文句です。つい、出ました」
「つい」
「つい、です」
「調書に、『首ったけ』と書かねばならん私の身にもなれ」
将校は、本気で嫌そうな顔で、筆を取った。
取り調べは、数日に及んだ。
大逆の裁判を妨害した。北朝の者と内通した疑いがある。そもそも、あの踊りは何なのか。一つ一つ、憲兵将校は粘り強く尋ねてきた。
西行は、法科の学生として、淡々と答えた。大使館に呼ばれて話をしたこと。返事は断ったこと。スパイにはなっていないこと。法廷で叫んだのは、純粋な私的感情の発露であること。
最後のものを聞いたとき、憲兵将校は、とても疲れた顔をした。
夜は、狭い留置の部屋で、膝を抱えて過ごした。
目を閉じると、あの法廷が浮かぶ。割れた窓。倒れた北畠。壇の陰から覗いた、判事の顔。
そして、紫の髪の娘の、息のような短い笑い。
(あの人が、笑った)
それが、どういう意味なのか、西行には分からなかった。分からないまま、何度も思い返した。
(うとうとすれば、夜桜が風に散る夢を見る。覚めても、胸のざわつきだけが、夢の続きをやっている)
五日目の昼下がり、扉が開いた。
「釈放だ」
将校は、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「実家から、口利きがあった。貴様は、罪には問わん」
「え」
「問えるような件ではない、ということだ。あの裁きは、はじめから、なかった。そこにいた貴様も、いなかった。分かるな」
「……はい」
「ただし、貴様の名は、大学の名簿から消える。内々にな」
西行は、一拍遅れて、意味を飲み込んだ。
「退学、ですか」
「そういうことだ。良い親御さんを持ったな、貴様は」
廊下に出ると、窓から午後の光が差していた。外に出ると、風が頬に当たった。
街は、いつもと変わらない顔をしていた。
路面電車の鐘。野菜売りの呼び声。遠くの汽笛。
五日前と何も違わない景色だった。それなのに、足元の地面が、少しだけ傾いて見えた。
もう、あの校門は、くぐれない。
このまま進んでしまえば、日常がごろりと音を立てて崩れ去るような気がした―――。