「視界の届かない少女と、言葉の温もりを届ける少年の、切なくも優しい愛の物語」
眩しさを知らない君へ
病室の空気は、いつも少しだけひんやりとしている。
けれど、秋の深まりを告げる夜風が揺らすカーテンのすき間から、柔らかな匂いが舞い込んでいた。落ち葉の匂い、乾いた土の匂い、そして隣に座る少年の着ている服から漂う、日向のような柔軟剤の匂い。
ベッドの上で膝を抱えていた彩葉(いろは)は、ふと顔を上げた。
「ねえ、蓮くん」
声のした方へわずかに頭を傾ける。彼女の黒目がちな瞳は、いつもどこか遠くを映しているようで、けれどその実、生まれつき目の前に広がる漆黒の闇をまっすぐに見つめていた。彩葉は生まれてこの方、光を知らない。青空の眩しさも、夕焼けの朱色も、そして自分の手を握ってくれている蓮の顔も、何ひとつ見たことがなかった。
「どうしたの、彩葉」
すぐ隣から、聞き慣れた穏やかな声が返ってくる。衣類が擦れる音。蓮が姿勢を少し正したのが、空気の揺らぎで分かった。
「今日ね、夕方に検温に来てくれた看護師さんが教えてくれたの。『今夜はお月様がとても綺麗だよ』って」
彩葉は自分の指先をそっと重ね合わせながら、ぽつりと呟いた。
「……ねえ、月って、どんなふうに見えるの?」
不意に投げかけられた問いに、蓮は言葉を詰まらせた。
(どう説明すればいいんだろう……)
蓮は窓の外へ目をやった。病室の大きな窓の向こう、濃紺の夜空には、絵に描いたように完璧な満月が浮かんでいる。冴え冴えとした銀色の光が地上を照らし、二人の足元に静かな影を落としていた。
『夜空に浮かぶ丸い光だよ』
『黄色くて、遠くにあって、すごく眩しいんだ』
頭の中にいくつかの言葉が浮かんだが、どれも口に出す気にはなれなかった。「丸い」は形として知っていても、「夜空」や「光」という概念を、彩葉は見たことがない。視覚の言葉を並べれば並べるほど、自分が生きている世界と、彩葉が生きている世界との間に横たわる決定的な断絶を際立たせてしまう気がした。それは彼女を孤独にしてしまう行為のように思えたのだ。
沈黙が流れる。
静寂の中で、壁の時計がカチ、カチと時を刻む音だけが響いていた。
蓮は少しだけ迷った末に、意を決して立ち上がると、彩葉のすぐ隣――ベッドの縁に腰掛け直した。そして、彼女の細く、少し冷たい両手をそっと自分の手で包み込んだ。
「蓮くん……?」
突然の触れ合いに、彩葉が驚いたように微かに息を呑む。蓮はその小さな手をとると、ゆっくりと引き寄せ、自分の左胸の上へと導いた。
「……僕ね、彩葉。目で見える『綺麗』をうまく言葉にするのは、すごく難しいんだ」
彩葉の手のひらの下に、トクン、トクンと、確かな鼓動が伝わってくる。蓮の脈打つ命のテンポ。最初は静かだったその鼓動が、彩葉の手を触れていることで、少しずつ早く、力強くなっていくのが手に取るように分かった。
「でもね、僕にとっての『月が綺麗だ』っていう感覚は……たぶん、今ここにあるものと同じなんだと思う」
「ここにあるもの……?」
「うん。こうやって君の手に触れている時。君の声を聴いている時。君が笑ってくれた瞬間に、胸の中がぎゅっと締め付けられて、そのあとからじわっと温かいもので満たされていく感覚。世界中から暗闇が消えて、何ひとつ怖くなくなるような、そんな満たされた気持ちになるんだ」
蓮の声は少し震えていた。不器用で、けれど誤魔化しのない、真っ直ぐな想いだった。
「僕が見ている月は、ただの夜空の光じゃない。君と一緒にいるときに僕の心の中に溢れる、この温もりそのものなんだよ。だから……僕にとって『綺麗』っていうのは、君がここにいてくれることなんだ」
彩葉の息が止まった。
手のひらから伝わる熱。蓮の胸の鼓動。震える呼吸。そして、自分の頬が熱くなっていくのが分かる。
見えないはずの世界に、色鮮やかな光が弾けたような感覚だった。
『月が綺麗だね』と語りかけるその声の奥に、蓮がどれほど自分を愛おしく思ってくれているか。どんな言葉よりも深く、重く、痛いほどの情熱が、波のように彩葉の心に押し寄せてくる。
蓮は自分を哀れんでいるのではない。ただ一人の特別な存在として自分を見つめ、心をまるごと差し出してくれているのだ。
「……そっか」
彩葉はそっと呟いた。目からは、知らず知らずのうちに一筋の涙がこぼれ落ちていた。けれど、その心は今までにないほど温かく、満ち足りていた。
彩葉は、蓮の胸にある自分の手を、そっと握り返した。
そして、自分を包み込んでくれている蓮の体温をしっかりと確かめるように、少しだけ身を乗り出す。見えない目を見開いて、彼が立っているであろう方向――自分たちの頭上を優しく照らしているはずの夜空へと顔を上げた。
少女はふわりと、今夜一番の穏やかな微笑みを浮かべた。
「ねえ、蓮くん」
微かな夜風が二人の髪を揺らす中、彼女は静かに問いかけた。
「月は綺麗ですが?」