世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
『こっち』『こっちだよ』『もうちょっと』
精霊たちの「もうちょっと」を、俺はもう信用していない。
案の定、猫の居場所は町の南の外れだった。ギルドから歩いて二十分。この体には、ちょっとした遠足だ。
南区は、町の中心とはずいぶん様子が違った。
家がだんだん小さく、古くなっていく。漆喰が剥げた壁。傾いた屋根。路地には生ゴミの匂いが漂っていて、痩せた犬が物陰からこっちを見ていた。
『あそこ!』
精霊が指したのは、古い倉庫の裏手だった。
倉庫と隣の家の間に、高い石塀がある。その上、日の当たる一番いい場所に、三毛猫が一匹、香箱座りで目を細めていた。
首に、赤いリボンが巻いてある。依頼書に書いてあった特徴と同じだ。
ミーシャだ。
「……見つけた」
そして、問題に気づいた。
塀が高い。俺の背丈の倍はある。
登れるわけがない。この細い腕で、自分の体を持ち上げられるとは思えない。
どうしたものかと見上げていると、塀の向こう側から、がさがさと音がした。
小さな手が、塀の上の縁をつかむ。
それから、ぼさぼさの茶色い頭がひょっこりと現れた。
子どもだった。器用に塀の上によじ登って、猫の方へじりじりと這い寄っていく。
見覚えのある顔だった。
昨日の夜、跳ね鹿亭の窓の外に立っていた子だ。
「あっ」
俺が声を上げると、子どもはびくっとこっちを見下ろした。それから、警戒した野良猫みたいな目つきで、俺を睨んだ。
「……なんだよ」
「えっと、その猫」
「おれが先に見つけたんだ!」
子どもが叫んだ瞬間、三毛猫が耳をぴんと立てた。
そして、あっという間に塀から飛び降りて、倉庫の屋根の上に逃げていった。
「あっ、くそっ!」
子どもも、慌てて屋根に飛び移ろうとする。だけど猫の方が圧倒的に速い。屋根の端まで逃げた三毛猫は、こっちを振り返って、ふん、と鼻を鳴らした。
子どもは屋根の手前で立ち往生して、悔しそうに唇を噛んでいた。
「……仕立て屋の婆さん、猫を見つけたら礼をくれるって言ってたんだ」
ぽつりと、子どもが言った。
「ギルドの依頼になってるってのは知ってる。でも、おれ、ギルドには登録できねえから。十二にならないと、だめなんだって。だから、直接婆さんに届けたら、なんかくれるかと思って……」
俺は、屋根の上の三毛猫と、塀の上の子どもを、交互に見上げた。
「……じゃあ、さ」
「なんだよ」
「一緒に捕まえない? 報酬は、半分ずつで」
子どもが、目をぱちくりさせた。
「……は?」
「私はギルドに登録してるから、報酬をちゃんと受け取れる。君は猫の居場所を見つけて、塀に登れる。私は登れない。だから、協力したら、ちょうどいいかなって」
子どもは、しばらく俺の顔をじっと見ていた。
疑っている目だった。大人が、何の得もなく優しいことを言うわけがない。そういう目だ。
「……半分って、いくら」
「報酬は銅貨五十枚だから、二十五枚」
子どもの喉が、ごくりと鳴った。
*
とはいえ、問題は解決していなかった。
三毛猫は相変わらず倉庫の屋根の上で、のんびり毛づくろいをしている。子どもが近づこうとすると、するりと逃げる。完全に遊ばれていた。
「くそっ……あいつ、すばしっこいんだよ……」
三度目の失敗で、子どもが塀の上にへたり込んだ。
俺は、小声で肩の上の精霊に話しかけた。
「なあ。猫を、こっちに呼べたりしない?」
『よぶ?』『ねこ、よぶの?』
「怖がらせないように。そっとな」
『わかった』『ひなた、つくる』
精霊が、ふわりと俺の足元に降りてきた。
すると、俺の座っている石段のあたりだけ、なんだかぽかぽかと温かくなった。春の日だまりみたいな、ちょうどいい温かさだ。どこからか、干した魚みたいないい匂いまで漂ってくる。
……いや、魚の匂いはどこから出してるんだ。
屋根の上の三毛猫が、ぴくりと鼻を動かした。
こっちを見る。
少し迷うように首をかしげてから、するすると屋根を降りてきた。塀を伝って、地面に降りる。とことこと俺の方へ歩いてくる。
そして、俺の膝の上に、すとんと乗った。
ごろごろと喉を鳴らしながら、丸くなる。
「…………」
塀の上で、子どもが口をぽかんと開けていた。
「……なんで」
「えっと」
俺は、膝の上の温かい塊を撫でながら、目を逸らした。
「動物に、好かれる体質なんだ」
嘘ではない。たぶん。
*
仕立て屋のお婆さんは、ミーシャを見るなり泣いて喜んだ。
依頼書に完了の署名をもらって、ギルドに報告する。ペトラさんは「早いですね」と眠そうに驚いて、銅貨五十枚を渡してくれた。
ギルドの外に出ると、さっきの子どもが、入口の脇の壁にもたれて待っていた。
逃げられると思っていたのかもしれない。俺が出てきた瞬間、ほっとしたような、でも警戒を解いていないような、複雑な顔をした。
「はい、半分」
銅貨を二十五枚、数えて、小さな手のひらに載せた。
子どもは、手の中の銅貨を、穴が開くほど見つめていた。
「……なんで」
「なんでって、約束したから」
「猫、捕まえたの、あんただろ」
「見つけたのは君だよ」
本当は、見つけたのは精霊だけど。
子どもは、何か言い返そうとして、口を開けて、閉じた。それから、銅貨をぎゅっと握りしめた。
その時。
ぐうううう、と、ものすごい音がした。
子どもの腹からだった。
子どもの顔が、みるみる赤くなった。
俺は、ちょっとだけ笑ってしまった。
「……串焼き、食べる?」
*
市場の、昨日と同じ屋台だった。
「親父さん、二本」
「お、昨日の泣き虫のエルフの嬢ちゃんか。あいよ」
泣き虫って覚えられている。
串を一本、子どもに渡す。子どもはそれを、ひったくるように受け取った。
それから、がつがつと食べ始めた。
熱さも気にしないで、口いっぱいに肉を頬張る。噛む。飲み込む。また頬張る。目が少し潤んでいた。たぶん熱いからだ。たぶん。
俺は、自分の分の串を持ったまま、その様子を眺めていた。
昨日の俺も、たぶんこんな顔をしていたんだろう。
マルタさんは、これを見て笑っていたのか。
分かる気がした。人がうまそうに食べているのを見るのは、悪くない。自分が食べるのと同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に、悪くない。
「……これも食べる?」
自分の串を差し出すと、子どもは一瞬だけ迷って、それから受け取った。
二本目も、あっという間になくなった。
*
「トビ」
石段に並んで座っていると、子どもが、ぼそっと言った。
「おれの名前。トビ」
「リア」
「知ってる。エルフの姉ちゃんだろ。町中で噂になってる」
「……噂?」
「魔力ゼロで、エルフの里を追い出されたんだろ」
広まるの、早いな。
半日だぞ。
「……まあ、そんなところ」
もう、訂正する気力もなかった。
トビは、ふうん、と鼻を鳴らした。それから、膝を抱えて、遠くを見た。
「おれも、似たようなもん」
「似たような?」
「婆ちゃんが死んだ。去年の冬」
トビの声は、淡々としていた。
「本当の婆ちゃんじゃねえよ。おれ、親いねえし。道で寝てたら、拾ってくれた婆ちゃん。南門の近くで、縫い物の内職やってた」
「……」
「婆ちゃんの家、今は空き家になってる。大家がまだ気づいてねえから、そこで寝てる。見つかったら、たぶん追い出される」
そこまで話して、トビは急に、むっとした顔になった。
「別に、かわいそうとか思うなよ。おれ、来年十二になったらギルドに登録して、冒険者になるんだ。そしたら、自分で稼げる」
「冒険者に?」
「マルタみたいな、強い冒険者」
トビの目が、ほんの少しだけ輝いた。
「あいつ、この町で一番強いんだぜ。去年、町の近くに出た大猪、ひとりで倒したんだ。でっけえ剣で、こう、ばーんって」
身振り手振りで話すトビは、さっきまでの野良猫みたいな顔じゃなくて、ちゃんと十一歳の子どもの顔をしていた。
俺は、何と言えばいいのか分からなくて、ただ「そっか」とだけ言った。
*
夕方、トビは南区の方へ帰っていった。
別れ際に、一度だけ振り返った。
「……リア姉ちゃん」
「ん?」
「明日も、猫探し、ある?」
掲示板に、猫探しの依頼は一枚しかなかった。
でも、たぶん、何かしらの依頼はあるだろう。
「……あるといいな」
トビは、少しだけ笑った。それから、路地の向こうへ走っていった。
肩の上で、精霊たちがぽわぽわと明滅していた。
『トビ、いいこ』『おなか、いっぱいになった』
「そうだな」
所持金、銅貨二十九枚。
借金、銅貨百三十九枚。
返済の目処は、まったく立っていない。
それでも、帰り道の足取りは、なぜか少しだけ軽かった。