世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
それから、一週間が経った。
俺の毎日は、だいたいこんな感じだ。
朝、跳ね鹿亭の屋根裏で目を覚ます。藁がちくちくする。下の食堂から、ハンナさんの怒鳴り声と、パンの焼ける匂いが上がってくる。
ギルドに行く。掲示板の端っこから、F級の依頼を剥がす。
ギルドの外で、トビが待っている。
「今日は?」
「失せ物探し。北区の商人さんが、指輪を落としたって」
「よし、行こうぜ」
そして、二人で町を歩き回る。塀を越えたり屋根に上ったりするのは、トビの担当だ。
探し物を見つけるのは、もちろん精霊たちだ。
『ゆびわ、あった』『みぞのなか』『きらきら』
精霊が見つけて、俺が「この辺かな」と指さして、トビが溝に手を突っ込んで拾い上げる。完璧な分業だった。
迷い猫。迷い犬。落とした財布。井戸に落ちた桶。倉庫の鼠退治――これは、精霊に頼んで鼠たちに「引っ越してほしい」と伝えてもらった。翌朝、鼠は一匹残らず隣町の方へ行列を作って去っていったらしい。
報酬は、いつも半分ずつだ。
一週間で、町の人たちの俺への呼び名が変わった。
「失せ物のリア」。
魔力ゼロだけど、なぜか探し物だけはやたらと得意なエルフ。運がいいのか、勘がいいのか。とにかく、困ったらあの銀髪のエルフに頼めばいい。
ギルドのペトラさんは、俺が依頼書を持っていくたびに、眠そうな顔のまま首をかしげた。
「……リアさん。また完了ですか。今日、三件目ですよね」
「運が、いいみたいで」
「運……」
ペトラさんは、何か言いたげに俺を見て、それから結局何も言わずに銅貨を数えた。この人の、何にも興味がないところが本当に助かる。
*
四日目の夜に、マルタさんが護衛の仕事から帰ってきた。
跳ね鹿亭の食堂で、俺とトビが並んで煮込みを食べているのを見て、マルタさんは入口で立ち止まった。
「……なんで、トビがいるんだ」
「えっと、相棒、みたいな」
「相棒」
マルタさんは、トビを見下ろした。
トビは、煮込みの椀を抱えたまま、石みたいに固まっていた。耳まで真っ赤になっている。憧れのマルタさんに、いきなり見下ろされたんだから無理もない。
「……こいつ、いつもあたしの後をつけてくるガキだろ」
「つ、つけてねえし!」
「つけてるだろ。ギルドの前で毎朝待ち伏せしてる」
「待ち伏せじゃねえし! たまたまだし!」
マルタさんは、ふっと鼻で笑った。それから、どかっと俺の向かいに腰を下ろした。
「リア。あんた、トビを拾ったのか」
「拾ったというか……」
拾われた方が、俺なんじゃないかと思う。トビがいなかったら、俺は溝の中の指輪にも、塀の上の猫にも手が届かない。
「借金の返済も、ちょっとずつできてるので」
俺は、革袋から銅貨を取り出して、テーブルの上に置いた。四十枚。
マルタさんは、目を丸くした。
「……本当に返す気だったのか」
「借りたものは、返します」
前世で、借りを作ったままにしておくのが苦手だった。同僚に缶コーヒーを奢ってもらったら、次の日には必ず奢り返していた。
マルタさんは、しばらく銅貨を見つめて、それから、それを全部俺の方に押し戻した。
「いい。それはトビに肉でも食わせてやれ」
「でも」
「いいって言ってる。……残りは、あんたがC級になったら返せ」
C級。俺が。
塀ひとつ登れない、魔力ゼロのエルフが。
たぶん、一生返せない。
マルタさんは、たぶん、それを分かっていて言っている。
「……マルタさん」
「なんだ」
「いい人ですね」
「うるせえ。酔ってもないのに言うな」
*
事件が起きたのは、その三日後の夜だった。
雨が降っていた。
夕方から降り出した雨は、夜になって土砂降りになった。屋根裏の天井を、雨粒がばたばたと叩いている。窓の外は真っ暗で、時々稲光が走った。
俺は、藁の寝台の上で、なかなか眠れずにいた。
『りあ』
枕元で丸くなっていた精霊が、ふいに顔を上げた。
『トビ』
「トビ?」
『トビ、そとにいる』『ぬれてる』『さむいって』
跳ね起きた。
外套をひっつかんで、階段を駆け下りた。いや、駆け下りたつもりだったけど、実際には三段ごとに手すりにしがみついた。
食堂はもう灯りが落ちていた。裏口の扉を開ける。
雨の音が、一気に大きくなった。
裏口の軒下。雨がかからないぎりぎりの場所に、小さな影がうずくまっていた。
トビだった。
膝を抱えて、全身ずぶ濡れで、がたがたと震えていた。
「……トビ」
トビが、ゆっくりと顔を上げた。
濡れた前髪が額に張りついていて、唇が紫色になっていた。
「……リア姉ちゃん」
「何してるんだ、こんなところで」
「……追い出された」
かすれた声だった。
「大家に、見つかった。婆ちゃんの家。今日、新しい人が住むことになったからって。出てけって」
雨の音が、うるさかった。
「別に、いいんだ。どっか、橋の下とか、探すから。ただ、雨、ひどくて。ちょっとだけ、雨宿りしようと思って。朝になったら、ちゃんと出てくから」
トビは、早口でそう言った。言い訳するみたいに。
迷惑をかけないように。追い出されないように。
十一歳の子どもが、そういうことを先回りして考えていた。
――前世の俺は、事なかれ主義だった。
「……入って」
気づいたら、そう言っていた。
「え」
「いいから、入って。風邪ひく」
俺はトビの腕をつかんで、無理やり引っ張り上げた。いや、引っ張り上げようとして、俺の方がよろけた。結局、トビの方が俺を支えて、二人して裏口から転がり込んだ。
*
騒ぎを聞きつけて、ハンナさんが寝間着のまま起きてきた。
ずぶ濡れのトビと、それを支える俺を見て、ハンナさんはすぐに全部察したらしい。何も聞かずに、厨房のかまどに火を入れて、湯を沸かしてくれた。乾いた布と、毛布と、温めた山羊の乳を持ってきてくれた。
トビは、毛布にくるまって、両手で乳の椀を抱えていた。まだ少し震えていたけど、唇には色が戻ってきていた。
「ハンナさん」
俺は、ハンナさんに向き直った。
「トビを、私の部屋に置いてもいいですか。宿代は、私が払います。二人分」
ハンナさんは、じっと俺を見た。
「あんた、自分の宿代だってやっとじゃないか」
「なんとかします」
「なんとかって」
「失せ物探し、もっと頑張ります」
ハンナさんは、長いため息をついた。それから、なぜか少し笑った。
「……子どもの分は、いいよ」
「え」
「その代わり、朝と晩、皿洗いを手伝わせな。それで飯も出してやる。うちは働く子には飯を食わせる主義なんだ」
毛布の中で、トビが目を見開いた。
「……いいの?」
「いいって言ってるだろ。ただし、皿割ったら給金から引くからね」
「給金……」
トビは、その言葉を、信じられないものみたいに繰り返した。
*
屋根裏の部屋は、二人で寝るには狭かった。
トビは床に藁を敷いて、毛布にくるまって横になった。俺の寝台を使えと言ったけど、「女の部屋の寝台なんか使えるか」と頑なに断られた。妙なところで律儀な子だ。
雨は、まだ降っていた。
「……なあ」
暗闇の中で、トビの声がした。
「なんで、ここまでしてくれんの」
俺は、天井を見上げたまま、少し考えた。
かっこいい理由は、何も思いつかなかった。
「腹減ってるやつを見てると、落ち着かないんだよ」
「……なにそれ」
「あと、トビがうまそうに飯食ってるの見るの、好きなんだ」
毛布の中で、トビが小さく鼻を鳴らした。
「……変なやつ」
「よく言われる」
「魔力ゼロのくせに」
「それもよく言われる」
トビが、くくっと笑った。初めて聞く笑い声だった。
それから、しばらく黙っていた。
雨の音だけが、屋根を叩いていた。
「……リア姉ちゃん」
「ん」
「……ありがと」
消え入りそうな声だった。
返事をする前に、規則正しい寝息が聞こえてきた。
*
俺は、暗闇の中で、床の上の小さな寝顔を見ていた。
精霊たちが、トビの枕元にふわふわと集まって、ほのかに光っている。寝顔を照らすように。見守るように。
ふと、先代の部屋にあった、木彫りの鳥を思い出した。
トマ。
人間の子ども。先代の友達。すぐに大きくなって、すぐにおじいちゃんになって、それで、いなくなった。
トビも、そうなるんだろうか。
十一歳。来年には十二歳で、冒険者になって、背が伸びて、声が低くなって。俺の背なんかすぐに追い越して。
それから、何十年かして――
俺は、頭を振った。
やめよう。そんな先のことを考えても仕方ない。
今、この子は、毛布にくるまって、雨の当たらない屋根の下で、腹を減らさずに眠っている。
それで十分だ。
「……おやすみ、トビ」
小さく呟いて、俺も目を閉じた。
藁が、やっぱりちくちくした。